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2016年6月8日 (水) 05:42時点における版
山口 二矢 | |
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写りが悪いが、左の長髪の人物が山口。 中央は刺される浅沼稲次郎書記長。 | |
生誕 |
1943年2月22日 日本 東京都台東区谷 |
現況 | 裁判前に被疑者死亡 |
死没 |
1960年11月2日(17歳没) 日本 東京都練馬区東京少年鑑別所 東寮2階2号室 |
死因 | 自殺 |
職業 | 大日本愛国党の活動家 / 大東文化大学聴講生 |
罪名 | 殺人罪 |
親 |
山口晋平(父)、村上浪六の三女(母) 村上浪六(母方の祖父) 村上信彦(母方のおじ) |
動機 | 浅沼書記長の訪中時と安保闘争での言動への反発。日本で広がる左翼運動の抑止。 |
山口 二矢(やまぐち おとや、1943年(昭和18年)2月22日 - 1960年(昭和35年)11月2日)は、日本の右翼活動家、民族主義者および反共主義者で、1960年(昭和35年)10月12日に発生した浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯である。
1960年(昭和35年)10月、政党代表放送で演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎を小刀で殺害した。逮捕後、「後悔はしていないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所内で「天皇陛下万才、七生報国」との遺書を残して首吊り自殺した。
略歴
生涯前半
二矢は1943年(昭和18年)、後の陸上自衛隊員山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷で生まれた。次男として生まれたことから、父親が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって彼の名前を二矢と名付けた。彼の父は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業に秀でていた。大衆作家の村上浪六は、母方の祖父にあたり、文化史家の村上信彦は伯父にあたる。
幼年時代から、彼は新聞やニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判した。彼は早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加することになった。中学から高校の初めまでは父親の勤務地の関係で、札幌で生活した。彼は1958年(昭和33年)玉川学園高等部に進んだが、しかし、父親の晋平の転勤が発令されたため、彼は札幌の光星学園へ転校。しかし、再び東京へ戻って玉川学園に転入した。
民族主義運動
1959年(昭和34年)5月10日、16歳で愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け、赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、愛国党の青年本部員となった。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に山口は感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、山口はトラックに飛び乗り、「私も連れて行って欲しい」と頼み込んだ。しかし、この時には赤尾に静かに拒絶された。その後、玉川学園高等部を中退。小淵沢町で嶽南義塾をしていた杉本広義のもとでしばらく厄介になり、彼の紹介で大東文化大学の聴講生となった。
山口は赤尾の演説に対して野次を飛ばす者がいると、野次の者に殴りかかっていくこと等を継続した。彼は左派の集会解散と右派人士保護を率先して行った。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。愛国党の入党後半年で、彼は10回も検挙された。1959年(昭和34年)12月に保護観察4年の処分を受けた。
1960年(昭和35年)5月29日、同志党員2人らとともに愛国党を脱党した。
1960年(昭和35年)6月17日、右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、山口は「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と評価した。
7月1日、同志たちと一緒に全アジア反共連盟東京都支会の結成に参加した。
10月4日、自宅でアコーディオンを探していたところ、偶然脇差を見つけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、山口は「この脇差で殺そうと決心した」という。二矢は明治神宮を参拝し、すぐに小林武日教組委員長、野坂参三日本共産党議長宅にそれぞれ電話。「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、共にすぐに実行できず、失敗した。
10月12日、彼は自民・社会(現在の社会民主党)・民社の三党の党首立会演説会において、当時、日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎を殺害する計画を立て、刀袋などを準備し、東京都千代田区の日比谷公会堂に向かって歩いていった。
浅沼稲次郎の暗殺事件
1960年(昭和35年)10月12日に山口は日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺、現行犯逮捕された(浅沼稲次郎暗殺事件)。山口は当時17歳で少年法により実名非公開対象[1]であったが、事件の重大さから名前が公表されている。
浅沼殺害時に山口がポケットに入れていたとされる斬奸状の文面は以下の通りである。
汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。
彼は自決を試みたが、すぐに飛びついた巡査によって逮捕された。事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述した。
一方自衛隊は、父の晋平が自衛官(1等陸佐)であることから批判の累が及ぶことを恐れ、晋平の辞職を望んだ。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局事件3日後の10月15日依願退職した。
死亡
山口は11月2日、東京少年鑑別所の東寮2階2号室で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)と記し[2]、シーツを裂いて縄状にして天井の裸電球を包む金網にかけ、首吊り自殺した(若松孝二監督の映画、「11、25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の冒頭に、このシーンが再現されている)。なお、辞世の句「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」も残している。
右翼団体は盛大な葬儀を行い山口を英雄視した。また沢木耕太郎の『テロルの決算』によれば、山口はテロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎や野坂参三など政治家もリストに加えていた。
死後
毎年彼が死亡した11月2日に右翼団体が追慕祭(山口二矢烈士墓前祭)を開催している。
家族・親族
関連作品
小説
- 大江健三郎『セブンティーン』文學界1961年1月号(新潮文庫『性的人間』所収)
- 大江健三郎『政治少年死す―セヴンティーン第二部』文學界1961年2月号(単行本未収。非公式には『スキャンダル大戦争2』(鹿砦社)
演じた俳優
タモト清嵐 11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち(若松孝二監督、2012年)
脚注
参考文献
- 赤塚行雄 『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』、(講談社文庫、1984年)
- 礫川全次 『戦後ニッポン犯罪史』、(批評社、2000年)
- 田中清松 『戦中生まれの叛乱譜―山口二矢から森恒夫』、(彩流社、1985年)
- 沢木耕太郎 『テロルの決算』、(文春文庫、1982年、2008年)、ISBN 978-4167209148。(単行本は1979年刊行。大宅壮一ノンフィクション賞)
関連項目
- 赤尾敏
- 浅沼稲次郎暗殺事件
- 三島由紀夫
- 村上浪六
- 大江健三郎 - 山口をモデルにして小説「セヴンティーン」を執筆。山口の人格を否定するような描写が右翼から抗議を受けた。
- 沢木耕太郎 - 浅沼事件に関して「テロルの決算」を執筆。
- 学生運動
外部リンク
- “火車頭人”——浅沼稻次郎 日本新華僑報 2009/06/19
- Tokyo rewind: Right-wing groups commemorate assassination of politician Inejiro Asanuma 50 years later The Tokyo Reporter 2011/11/21
- 浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件 - 1960