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{{About|18世紀中期のヨーロッパにおける戦争|それ以外の同名の戦争|七年戦争 (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2016年3月11日 (金) 11:57 (UTC)}}
{{Battlebox
{{Battlebox
|battle_name = 七年戦争
| battle_name = 七年戦争
| campaign = 七年戦争
| campaign = 七年戦争
| image = [[ファイル:Abend der Schlacht bei Leuthen.jpg|300px|]]
| image = [[ファイル:Seven Years' War Collage.jpg|350px]]
| caption = 左上から時計回り:[[プラッシーの戦い]](1757年6月23日)、[[カリヨンの戦い]](1758年7月6日 - 8日)、[[ツォルンドルフの戦い]](1758年8月25日)、[[クネルスドルフの戦い]](1759年8月12日)。
| caption = ロイテンの戦いの夜のフリードリヒ大王
| conflict = '''七年戦争'''
| conflict = 七年戦争
| date = [[1756年]] - [[1763年]]
| date = [[1754年]]または[[1756年]] - [[1763年]]
| place = [[ヨーロッパ]]、[[アリカ]]、[[インド]]、[[北リカ]]、[[フィリピン]]
| place = [[ヨーロッパ]]、[[アリカ]]、[[アリカ]]、[[アジア]]
| result = イギリスとスペインがフランス領北米植民地を獲得<br />プロイセンの[[シレジア]]領有が固定化
| result = イギリスプロイセン、ポルトガル勝利
* [[サンクトペテルブルク条約 (1762年)|サンクトペテルブルク条約]]、[[ハンブルク条約 (1762年)|ハンブルク条約]]、[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]、[[フベルトゥスブルク条約]]の締結
| combatant1 = {{PRU1803}}<br />{{GBR1606}}および植民地<br />{{Flagicon2|ハノーファー州|1692}}[[ハノーファー王国|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯]]<br />{{Flag2|ポルトガル王国|1707}}<br />[[ファイル:Wappen Braunschweig.svg|25px]][[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]<br />[[ファイル:Flag of Hesse.svg|25px]][[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル]]<br />{{Flag2|イロコイ連邦}}
* ヨーロッパにおいては[[戦争前の原状|戦争前の原状回復]]。植民地ではフランス、スペイン、イギリスの間で割譲あり
| combatant2 = {{FRA987}}および植民地<br />{{AUT1358}}<br />{{RUS1883}}<br />{{SWE}}<br />{{ESP1506}}および植民地<br />[[ファイル:Flag of Electoral Saxony.svg|25px]][[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯国]]
| combatant1 = {{flagcountry|Kingdom of Great Britain}}<br />
| commander1 = [[ファイル:Flag of Ducal Prussia.svg|20px]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]<br/>[[ファイル:Flag of Ducal Prussia.svg|20px]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]]ジョン・マナーズ<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]]エドワード・ボスコーエン<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ロバート・クライブ]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジェームズ・ウルフ]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジェフリー・アマースト (初代アマースト男爵)|ジェフリー・アマースト]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[エドワード・ブラドック]]<br />{{Flagicon2|ハノーファー州|1692}}[[フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル|ブラウンシュヴァイク公フェルディナント]]<br />{{Flagicon2|Portugal|1707}}[[ジョゼ1世 (ポルトガル王)|ジョゼ1世]]
* {{flagicon image|British-Red-Ensign-1707.svg}} {{仮リンク|イギリス領アメリカ|en|British America}}
| commander2 = [[ファイル:Pavillon royal de France.svg|20px]][[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|20px]]ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|20px]][[レオポルト・フォン・ダウン]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|20px]]フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|20px]][[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|20px]][[エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン]]<br />[[ファイル:Flag of Russia.svg|20px]][[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]<br />[[ファイル:Flag of Russia.svg|20px]]ピョートル・サルトゥイコフ<br />[[ファイル:Flag of Electoral Saxony.svg|20px]][[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]
{{flagicon2|Prussia|1750}} [[プロイセン王国]]<br />{{flagicon2|Portugal|1750}} [[ポルトガル王国]] (1762年以降)<br />{{Flagicon2|ハノーファー州|1692}} {{仮リンク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|en|Electorate of Brunswick-Lüneburg|label=ハノーファー選帝侯領}}<br />{{flagicon image|Armoiries de La Falloise.svg}} [[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領]]<br />{{flagicon image|Flag of the Iroquois Confederacy.svg|size=25px}} [[イロコイ連邦]]<br />{{flagicon image|Flag of Hesse.svg}} [[ヘッセン=カッセル方伯領]]<br />{{flagicon image|Flagge Fürstentum Schaumburg-Lippe.svg}} [[シャウムブルク=リッペ侯国|シャウムブルク=リッペ伯領]]
| strength1 =
| combatant2 = {{flagcountry|Kingdom of France}}<br />
| strength2 =
* {{flagicon image|Royal_Standard_of_King_Louis_XIV.svg}} [[ヌーベルフランス]]
{{HRR}}<br />
* [[ファイル:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|25px]] [[ハプスブルク君主国]]
* [[ファイル:Flag of Electoral Saxony.svg|25px]] [[ザクセン選帝侯領]]
* {{flagicon image|Flag_of_Bavaria_(lozengy).svg|size=25px}} [[バイエルン選帝侯領]]
{{flagcountry|Russian Empire}}(1762年まで)<br />{{flagicon2|Spain|1748}} [[スペイン|スペイン王国]](1762年以降)<br />{{flagicon|Sweden}} [[スウェーデン|スウェーデン王国]](1757年 - 1762年)<br />{{仮リンク|アベナキ族|en|Abenaki|label=アベナキ連合}}<br />{{flagicon image|Flag of the Mughal Empire.svg}} [[ムガル帝国]](1757年以降)
| commander1 = {{flagicon|Kingdom of Great Britain}}{{Flagicon2|ハノーファー州|1692}} [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]](1760年まで)<br />{{flagicon|Kingdom of Great Britain}}{{Flagicon2|ハノーファー州|1692}} [[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]](1760年以降)<br />
* [[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|第4代デヴォンシャー公爵]](1757年まで)
* [[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|初代ニューカッスル公爵]](1757年以降)
* {{仮リンク|ジョン・マナーズ (1721-1770)|label=グランビー侯爵|en|John Manners, Marquess of Granby}}
* [[ロバート・クライヴ]]
* [[ジェフリー・アマースト (初代アマースト男爵)|ジェフリー・アマースト]]
{{flagicon2|Prussia|1750}} [[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]
* [[ハインリヒ・フォン・プロイセン (1726-1802)|ハインリヒ王子]]
* [[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ]]
* [[ハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテン]]
{{Flagicon2|Portugal|1750}} [[ジョゼ1世 (ポルトガル王)|ジョゼ1世]]
* {{仮リンク|ヴィルヘルム (シャウムブルク=リッペ伯)|en|William, Count of Schaumburg-Lippe|label=シャウムブルク=リッペ伯ヴィルヘルム}}
{{flagicon2|ハノーファー州|1692}} [[フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]
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* [[シャルル・ド・ロアン (スービーズ公)|スービーズ公爵]]
* {{仮リンク|ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエ (デストレ公爵)|en|Louis Charles César Le Tellier|label=デストレ公爵}}
[[ファイル:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|23px]] [[マリア・テレジア]]<br />
* [[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]
* [[レオポルト・フォン・ダウン]]
* {{仮リンク|フランツ・モーリッツ・フォン・ラシ|en|Franz Moritz von Lacy}}
* [[エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン]]
[[ファイル:Flag of Electoral Saxony.svg|25px]] {{Flagicon image|Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg}} [[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]
* {{仮リンク|フリードリヒ・アウグスト・フォン・ルトフスキー|en|Frederick Augustus Rutowsky|label=ルトフスキー伯爵}}
{{flagicon image|Flag_of_Bavaria_(lozengy).svg|size=25px}} [[マクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン3世ヨーゼフ]]

{{flagicon|Russian Empire}} [[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]](1762年まで)<br />
{{flagicon|Russian Empire}} [[ピョートル3世]](1762年)<br>
{{flagicon|Russian Empire}} [[エカチェリーナ2世]](1762年以降)
* {{仮リンク|ピョートル・サルトイコフ|en|Pyotr Saltykov (1698–1772)}}
* [[ウィリアム・フェルマー]]
* {{仮リンク|アレクサンドル・ブトゥルリン|en|Alexander Buturlin}}
{{flagicon|Sweden}} [[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク]]
* {{仮リンク|アウグスティン・エーレンスヴァルド|en|Augustin Ehrensvärd}}
{{flagicon2|Spain|1748}} [[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]
* {{仮リンク|ニコラス・デ・カルバハル (サリア侯爵)|en|Nicolás de Carvajal, Marquis of Sarria|label=サリア侯爵}}
* {{仮リンク|ペドロ・パブロ・アバルカ・デ・ボレア (第10代アランダ伯爵)|en|Pedro Pablo Abarca de Bolea, 10th Count of Aranda|label=アランダ伯爵}}
* {{仮リンク|マヌエル・ロホ・デル・リオ・イ・ヴィエイラ|en|Manuel Rojo del Río y Vieyra|label=マヌエル・ロホ}}
* {{仮リンク|フアン・デ・プラド・マイエラ・ポルトカレーロ・イ・ルナ|en|Juan de Prado Mayera Portocarrero y Luna|label=フアン・デ・プラド}}
* [[ペドロ・アントニオ・デ・セバーヨス]]
{{flagicon image|Flag of the Mughal Empire.svg}} [[アーラムギール2世]](1759年まで)<br />
{{flagicon image|Flag of the Mughal Empire.svg}} [[シャー・アーラム2世]](1759年以降)<br />
* [[シラージュ・ウッダウラ]]
* [[ムハンマド・アリー・ハーン]]
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'''七年戦争'''(しちねんせんそう、{{lang-en-short|Seven Years' War}}、{{lang-de-short|Siebenjähriger Krieg}})は[[1754年]]から[[1763年]]まで(主な戦闘は1756年から1763年まで)行われた戦争である。


直接の原因はハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失った[[シレジア|シュレージエン]]をプロイセンから奪回を意図したことであるが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。[[グレートブリテン王国|イギリス]]・[[プロイセン王国|プロイセン]]側とその他の列強([[フランス王国|フランス]]と[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]と[[ロシア帝国|ロシア]]、[[スペイン・ブルボン朝|スペイン]]、[[スウェーデン]])に分かれて[[オスマン帝国]]を除く当時の欧州[[列強]]が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドでは[[ムガル帝国]]がフランスの支持をうけて、イギリスによる[[ベンガル太守|ベンガル]]地方の侵攻を阻止しようとした。
'''七年戦争'''(しちねんせんそう、{{lang-en-short|Seven Years' War}}、{{lang-de-short|Siebenjähriger Krieg}}、[[1756年]]-[[1763年]])は、[[プロイセン王国|プロイセン]]及びそれを支援する[[グレートブリテン王国]]([[イギリス]])と、[[オーストリア大公国|オーストリア]]([[ハプスブルク君主国]])・[[ロシア帝国|ロシア]]・[[フランス王国|フランス]]などのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争である。

この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組み([[外交革命]])。しかし、戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡と化し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、{{仮リンク|ヨーロッパの勢力均衡|en|European balance of power}}を変える結果となった。


== 概要 ==
== 概要 ==
イギリス・フランス間の紛争は1754年から1756年にイギリスがフランスの北アメリカにおける植民地を攻撃して、フランス商船を数百隻拿捕したことではじまった。一方、勢力が増大しているプロイセンは[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]と[[神聖ローマ帝国|ドイツ]]内外における主導権をめぐって争っていた。1756年、[[外交革命]]が行われた。
七年戦争は、[[ヨーロッパ]]においては、イギリスの[[財政]]支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・[[スウェーデン]]・[[スペイン帝国|スペイン]]([[1762年]]参戦)及びドイツ諸侯との間で戦いが行われた。並行して、イギリスとフランスの間では[[北アメリカ]]、[[インド]]、各大洋上で陸海に渡る戦いが繰り広げられた。プロイセンとオーストリアとの戦争を第三次シュレージエン戦争<ref name="arisaka">{{cite journal|和書|author=[[有坂純]]|year=2004|month=4|title=フリードリヒ大王の七年戦争|journal=歴史群像|pages=pp. 66-80|publisher=[[学習研究社]] }}</ref>、北米での戦争を[[フレンチ・インディアン戦争]]、[[インド]]での戦争を第三次[[カーナティック戦争]]とも呼ぶ。これらの戦争を総称して七年戦争と呼ぶこともある。


戦争が差し迫ったことでプロイセンは予防戦争として[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]に侵攻、[[ピルナ包囲戦|蹂躙]]した。この行動に全ヨーロッパが騒然とした。オーストリアが[[ヴェルサイユ条約 (1756年)|フランスと同盟]]して[[オーストリア継承戦争]]で失った[[シレジア|シュレージエン]]を奪回しようとしたため、プロイセンはイギリスと[[英普同盟 (1756年-1762年)|英普同盟]]を締結した。帝国諸侯多くは嫌々ながらも[[帝国議会 (神聖ローマ帝国)|帝国議会]]の議決に従ってオーストリア側で参戦した。ただし、英普同盟側にもいくつかの帝国諸侯が参加している。[[スウェーデン]]は以前プロイセンに奪われたポンメルン奪回を狙って、反プロイセン側で参戦した。[[スペイン・ブルボン朝|スペイン]]は{{仮リンク|家族協約|en|Pacte de Famille|label=第三次家族協約}}に従いフランス側で参戦したが、両国が1762年におこした{{仮リンク|スペインによるポルトガル侵攻 (1762年)|en|Spanish invasion of Portugal (1762)|label=ポルトガル侵攻}}は大敗に終わった。[[ロシア帝国]]ははじめプロイセンの[[ポーランド=リトアニア共和国|ポーランド]]への野心を恐れてオーストリア側で参戦したが、1762年に[[ピョートル3世]]がツァーリに即位するとプロイセンに味方した。
オーストリアがフランスと同盟を結んだ[[外交革命]]、400万対8000万と言う圧倒的な人口格差など<ref name="arisaka"/>、当初プロイセンは敗勢を余儀なくされ、その命運も尽きるかと思われたが、[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)]]の適切な戦争指導と、[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ女帝]]の死によるロシアの離反によって戦局は打開され、幸運にも戦争はイギリス・プロイセンの側に有利に帰着した。


以前の戦争と違い、ヨーロッパの中小国の多くは一方の参戦国との紛争を抱えていたが、七年戦争に巻き込まれることは避けようとした。[[フレデリク5世 (デンマーク王)|フレデリク5世]]治下の[[デンマーク=ノルウェー]]がその一例だったが、ピョートル3世が即位したときは危うくフランス側で参戦する羽目になったが、両国間の戦争が勃発する前にピョートル3世が廃位された。長らくイギリスの同盟国であった[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]はイギリスとプロイセンとヨーロッパ列強の間の戦いに巻き込まれることを恐れて中立を堅持し、一時はイギリスがインドを支配下に置くことを防ごうとした。[[ナポリ王国]]、[[シチリア王国]]、[[サルデーニャ王国]]は心情的にはブルボン家側であったが、イギリスを恐れて同盟加入を拒否した。ロシアでは戦争による増税があった上、1759年に[[エリザヴェータ女帝]]が[[冬宮殿]]増築のために塩税とアルコール税を徴収したことは民を苦しめた。スウェーデンと同じく、ロシアはプロイセンと単独講和した。
== 原因 ==
[[オーストリア継承戦争]]の結果、ハプスブルク領であった[[シレジア|シュレージエン]]はプロイセンへ帰属した。シュレージエンの奪回を意図したオーストリアの[[マリア・テレジア]]は、フランスとの長年の対立関係を解消([[外交革命]])してフランス、ロシアと結び、プロイセンへの復讐戦を画策した。


戦争は1763年、フランス・スペイン・イギリス間の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]とザクセン・オーストリア・プロイセン間の[[フベルトゥスブルク条約]]で終結した。
折から、[[1755年]]9月に北アメリカでフレンチ・インディアン戦争が始まり、フランスとイギリスとの対立はヨーロッパの[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー]]にも飛び火した。この機に乗じてオーストリアが対プロイセンの開戦に踏み切ることが確実な情勢となり、オーストリアの開戦意図を察知したフリードリヒ大王は、[[予防戦争]]として先制攻撃に打って出た。


イギリスは北アメリカの[[ヌーベルフランス]]の大半、[[スペイン領フロリダ]]、[[西インド諸島]]のいくつかの島、西アフリカ海岸の[[セネガル]]植民地、インドにおけるフランス交易地に対する優越を獲得した。[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民]]は条約に参加できず、それを不満として[[ポンティアック戦争]]をおこしたが、七年戦争前の状態に戻すことには失敗した。ヨーロッパにおいてはプロイセンは苦戦を強いられ続けたが、運も味方して[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]はシュレージエンの領有を確実なものとした。プロイセンはこれでヨーロッパ列強の一角を占めるようになる。オーストリアは本来の目的であったシュレージエンの回復を達成できなかったが、その軍事力を各国に示すことができた。ポルトガル、スペイン、スウェーデンは参戦したものの得るものは無く、大国の地位を取り戻すことはできなかった。フランスは多くの植民地を失った上、巨額の債務を抱え込む結果となり、元々脆弱だった財政をさらに悪化させた。スペインはフロリダを失ったが[[フランス領ルイジアナ]]を得、それ以外の植民地である[[キューバの歴史|キューバ]]や{{仮リンク|フィリピン総督領|en|Captaincy General of the Philippines|label=フィリピン}}は一時イギリスに占領されたものの和約により返還された。フランスとスペインは1778年に[[アメリカ独立戦争]]に参戦することでイギリスに復讐し、その覇権を一挙に潰そうとした。
== 経過 ==
=== 先制攻撃 ===
フリードリヒ大王は農業生産力の高い[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]の兵站基地化を狙い、[[1756年]][[8月29日]]、開戦と同時に先制攻撃をかけた。9月9日に[[ドレスデン]]は開城され[[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]の宮廷は亡命、ザクセン軍は[[ピルナ]]に後退し包囲を受けた([[ピルナ包囲戦]])<ref name="arisaka"/>。[[10月1日]]、プロイセン軍は[[ロボジッツの戦い]]でザクセン・オーストリア軍を撃破しピルナのザクセン軍も10月14日に降伏した<ref name="arisaka"/>。


七年戦争はおそらく真の意味ではじめての世界大戦であり、[[第一次世界大戦]]から160年前におきたこの戦争は世界中の多くの出来事に影響した。戦争はヨーロッパにおける政治再編を引き起こしただけでなく、世界中にも影響して19世紀の[[パクス・ブリタニカ]]、プロイセンのドイツにおける地位の上昇、[[アメリカ合衆国の独立]]と[[フランス革命]]の遠因となった。
1757年、プロイセンはオーストリアの準備不足に乗じハプスブルク領の[[ベーメン]]へ侵攻、5月6日の[[プラハの戦い]]で勝利し[[プラハ]]を包囲したがこの戦いで[[クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン|シュヴェリーン]]が戦死、オーストリアでもこの戦闘の負傷が原因で後日[[マクシミリアン・ユリシーズ・フォン・ブラウン|ブラウン]]が亡くなった。[[プラハ]]を救援に来た[[レオポルト・フォン・ダウン|ダウン]]率いるオーストリア軍によりプロイセン軍は[[1757年]][[6月18日]]の[[コリンの戦い]]で敗れて、プラハの包囲を解いてザクセンへ敗走した<ref name="arisaka"/>。


== 名称 ==
西からはフランス軍が侵攻を開始し[[カンバーランド公]][[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]のハノーファーは7月26日に[[ハステンベックの戦い]]で敗れ9月8日に休戦協定を結び<ref name="arisaka"/>、プロイセンは苦しい状況に立たされた。オーストリア軍は[[9月7日]]の[[モイスの戦い]]、[[11月22日]]の[[ブレスラウの戦い]]で進軍していた。ここで大王は巧みな[[内線作戦]]を実施、[[11月5日]]の[[ロスバッハの戦い]]で名高い[[斜行戦術]]を駆使してフランス軍に勝利し、200km以上を機動して[[12月5日]]の[[ロイテンの戦い]]でも斜行戦術により優勢なオーストリア軍を撃破した<ref name="arisaka"/>。
この戦争は参戦諸国の史観でそれぞれの戦場に応じて名付けられた。例えば、アメリカでは[[フレンチ・インディアン戦争]]、フランス系カナダ人では「征服戦争」({{lang-fr|Guerre de la Conquête}})、イギリス系カナダ人では七年戦争(北アメリカ、1754年 - 1763年)、ほかには{{仮リンク|ポンメルン戦争|en|Pomeranian War}}({{lang-sv|Pommerska kriget}}、スウェーデン・プロイセン間、1757年 - 1762年)<ref group="注">スウェーデン軍がドイツ北部の{{仮リンク|スウェーデン領ポンメルン|en|Swedish Pomerania|label=ポンメルン}}でしか戦わなかったため。</ref>、[[第三次カーナティック戦争]]([[インド亜大陸]]、1757年 - 1763年)、第三次シュレージエン戦争(プロイセン・オーストリア間、1756年 - 1763年)<ref name="arisaka">{{harvnb|有坂|2004|pp=66-80}}.</ref>などの呼称もあった<ref name="fuessel7">{{harvnb|Füssel|2010|p=7}}.</ref>。


この戦争ははじめての「[[世界大戦]]」と評された<ref name="Bowen 1998 7">{{cite book|last=Bowen|first=HV|year=1998|title=War and British Society 1688–1815|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge, United Kingdom|isbn=0-521-57645-8|page=7}}</ref>が、それ以前の[[八十年戦争]]、[[三十年戦争]]、[[スペイン継承戦争]]、[[オーストリア継承戦争]]やそれ以降の[[ナポレオン戦争]]でも同じような批評がなされることがある。また、18世紀のほぼ全時期を通して世界中で敵対したフランスとイギリスの間の戦争は14世紀と15世紀の[[百年戦争]]になぞらえて[[第2次百年戦争]]とも呼ばれる<ref>Tombs, Robert and Isabelle. ''That Sweet Enemy: The French and the British from the Sun King to the Present''. London: William Heinemann, 2006.</ref>。
===プロイセンの同盟国イギリスの動向===
プロイセンに味方したのは、ドイツ諸侯の中では、ヘッセンとイギリスと同君連合の関係にあるハノーファーだけでその軍隊も東進するフランス軍にあっさり敗れて頼りにはならなかった。プロイセンに味方したイギリスは戦争の準備をしていなかったので初期の段階では苦戦を強いられた。地中海では[[メノルカ島|ミノルカ島]]をフランスに奪われ北米では[[オンタリオ湖]]畔のオスウェゴ要塞を失った。


== 背景 ==
しかし[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|デヴォンジャー公]]内閣で国王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]と対立して閣内から去った[[チャタム伯ウィリアム・ピット|ウィリアム・ピット]](大ピット)がニューカッスル公[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]と連立内閣を組み<ref name="arisaka"/>、国務大臣として外交の指導・戦争の指揮をとり始めると徐々にイギリスに好転し始めた。大ピットはインドで財を成したトマス・ピットの孫で植民地の情勢に明るく軍事主計長官の経験もあり、戦争の指導者としては適任者であった。
{{further information|外交革命}}


=== ヨーロッパ ===
大ピットは北アメリカ大陸などのフランスの植民地の攻撃に専念してプロイセンの為に大規模な援軍や艦隊を送ることはしなかったが、援助金を与えた<ref name="arisaka"/>のでプロイセンにとっては、これが戦争を続けることができる命綱となった。[[ラゴスの海戦]]と[[キブロン湾]]の海戦で勝利したイギリスは制海権を握った。
[[ファイル:SevenYearsWar.png|thumb|right|340px|七年戦争の参戦国
{{legend|#4D6DF3|イギリス、プロイセン、ポルトガルとその同盟国}}
{{legend|#22B14C|フランス、スペイン、オーストリア、ロシア、スウェーデンとその同盟国}}
]]
1740年から1748年までの[[オーストリア継承戦争]]において<ref>Szabo, p. 2.</ref>、プロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](フリードリヒ大王とも)はオーストリアから富饒な[[シレジア|シュレージエン]]地方を奪取した<ref name="Marston12">{{Cite book |last=Marston |first=Daniel |title=Essential Histories - The Seven Years' War |page=12 |publisher=Osprey Publishing |year=2001 |location=Oxford |isbn=1-84176-191-5}}</ref>が、オーストリアの「女帝」[[マリア・テレジア]]は1748年に軍の再建と同盟を組むための時間稼ぎとして[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]に署名した。


オーストリア継承戦争の交戦国はそれまでと同じく、伝統的な同盟国と同盟し、これまた伝統的に敵国である国と戦った。例えば、フランスの宿敵[[グレートブリテン王国|イギリス]]と[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]は[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]時代と同じく手を組み、フランスはドイツにおける反ハプスブルクの筆頭である[[プロイセン王国]]を支持した。しかし、どちらの同盟も同盟相手に満足しなかった。イギリスはオーストリアに資金援助したもののオーストリアがイギリスの役に立ったことはなく、オーストリアにとってもイギリスの援助がシュレージエン奪回に結びつかなかった。プロイセンはいざシュレージエンを確保するとフランスを顧みずにオーストリアとの単独講和に走った<ref>Dull (2005), p. 8.</ref>。それでも、フランスは1747年にプロイセンと防衛同盟を締結した<ref name="Marston14">{{Cite book |last=Marston |first=Daniel |title=Essential Histories - The Seven Years' War |page=14 |publisher=Osprey Publishing |year=2001 |location=Oxford |isbn=1-84176-191-5}}</ref>し、{{仮リンク|英墺同盟|en|Anglo-Austrian Alliance}}はイギリス首相[[ヘンリー・ペラム]]の兄で{{仮リンク|北部担当大臣|en|Secretary of State for the Northern Department}}でもあった[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|ニューカッスル公爵]]が必要と判断したこともあって継続した<ref name="Browning56">Browning (1975), p. 56.</ref>。しかし、数年後に両同盟は倒れ、[[外交革命]]と呼ばれる事態が起こった。
フランスはイギリスに制海権を握られ、植民地に増援部隊を送ることができず、北米やインドでの攻防に大きく影響を及ぼした。その結果、インドでは[[1757年]][[10月]]の[[プラッシーの戦い]]と[[1758年]]からの[[カーナティック戦争|第3次カーナティック戦争]]で敗北し、北米では[[1760年]]までにイギリスに逆転され、ヌーベルフランスの中心地である[[ケベック]]と[[モントリオール]]を占領された。


1756年、オーストリアはプロイセンとの戦争を見越して軍を整備した。さる1746年6月2日、オーストリアとロシアは防衛同盟を締結して<ref>Duffy (2015), p. 59.</ref>、共同で両国と[[ポーランド=リトアニア共和国]]の領土をプロイセンと[[オスマン帝国]]の侵攻から守るとした。また秘密条項ではプロイセンと戦争になった場合、ロシアはオーストリアによるシュレージエンと{{仮リンク|グラーツ伯領|en|County of Kladsko}}(現ポーランド領{{仮リンク|クウォツコ|en|Kłodzko}})の奪回を手伝うとした<ref name="Dull68">Dull (2005), p. 68.</ref>。しかし、同盟の本当の目的はフリードリヒ2世を徹底的に潰してその領土をブランデンブルク選帝侯領に限定し、[[東プロイセン]]をポーランドに割譲させる(まず東プロイセンをロシアに割譲し、続いてポーランドの[[クールラント・ゼムガレン公国]]と交換させることで成立)ことにあった<ref>Dull (2005), p. 69.</ref>。[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]女帝の治世においてロシアの大宰相を務めた[[アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン]]伯爵はフランスとプロイセンに敵意を持っていたが、プロイセンの背後にフランスの指示があったためオーストリア宰相[[ヴェンツェル・アントン・カウニッツ]]の説得に失敗、攻守同盟とはならなかった。
=== ブランデンブルクの奇跡 ===
一方、大陸ではロシア軍が東から侵攻を開始、1757年8月30日の[[グロース・イェーガースドルフの戦い]]で[[東プロイセン]]を占領し[[ケーニヒスベルク]]を占領したが[[メーメル]]に引き返し司令官は解任された<ref name="arisaka"/>。


[[ファイル:Europe 1748-1766 en.png|thumb|280px|1748年、[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]締結後のヨーロッパ]]
その後、カンバーランド公の後任にフリードリヒ大王の義弟、[[フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル|ブラウンシュヴァイク公フェルディナント]]が任命され1758年2月18日にハノーファーに入城、[[6月23日]]には[[クレフェルトの戦い]]でフランス軍を破りフランス軍は[[ライン川]]西岸まで撤退した<ref name="arisaka"/>。
[[ハノーファー朝]]のイギリス王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]は家族の領地ハノーファーの維持に熱心であったが、この意向はイギリスの植民地政策と衝突した<ref name="Dull39">Dull (2005), p. 39.</ref>。フランスとの植民地戦争を再開する場合、まずハノーファーをフランス・プロイセン連合軍による攻撃から守らなければならなかった。フランスも植民地の拡張に興味を持っていて、対イギリス戦争においてハノーファーの脆弱さを利用するつもりでいた<ref name="Marston13">{{Cite book |last=Marston |first=Daniel |title=Essential Histories - The Seven Years' War |page=13 |publisher=Osprey Publishing |year=2001 |location=Oxford |isbn=1-84176-191-5}}</ref>が、プロイセンのために中央ヨーロッパへ派兵するつもりはなかった。


フランスの政策は[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の秘密外交機関[[スクレ・ドゥ・ロワ]]の存在により複雑になっていた。ルイ15世は外務大臣に知らせずにヨーロッパ中に諜報員のネットワークを張り巡らせて自分の政治目的を果たそうとし、時にはフランスが公的に宣言していた政策と矛盾していた。スクレ・ドゥ・ロワの政策の一例としてルイ15世の親族、コンティ公[[ルイ・フランソワ1世 (コンティ公)|ルイ・フランソワ1世]]をポーランド王につかせる試みやポーランド、スウェーデン、オスマン帝国を(ロシアとオーストリアの国益に反して)フランスの従属国にする試みがあった<ref>Dull (2005), p. 7.</ref>。
[[1758年]]、東方から再び迫るロシア軍が来る前にオーストリア軍との決着をつけようとプロイセンは4月18日に[[シュヴァイドニッツ]]を陥落させた後、[[オロモウツ|オルミュッツ]]を包囲したが補給部隊が[[エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン|ラウドン]]らによって壊滅させられシュレージエンまで戻った<ref name="arisaka"/>。


フリードリヒ2世は[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]や[[ポーランド王領プロシア|ポーランド王領西プロシア]]に野心を持っていたが、侵略戦争を起こした場合、フランスの支持を得ることは期待薄であった。しかし、ハノーファー併合を視野に入れてフランスに味方すると、今度はオーストリアとロシアの攻撃に晒される可能性がある。ザクセン選帝侯[[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]はアウグスト3世としてポーランド王に即位していたが、ザクセンとポーランドの間にブランデンブルクとシュレージエンがあった。両国とも大国に成長する可能性が少なかった。ザクセンは軍が2万3千人しかない(うち3千はポーランドに駐留)ためプロイセンとオーストリア領[[ボヘミア]]の間の[[緩衝国]]に成り下がっており<ref>Dull (2005), p. 70.</ref>、ポーランドはリトアニアと連合していたが、国内で親仏派と親露派が分裂していた。このため、プロイセンではオーストリアからボヘミアを強奪してフリードリヒ・アウグスト2世のザクセンと交換する作戦もあった。
[[ベルリン]]へ迫るロシア軍に対して[[8月25日]]、プロイセン軍は[[キュストリン]]北東の[[ツォルンドルフの戦い]]でロシア軍を破った。しかし[[10月14日]]にザクセンで行われた[[ホッホキルヒの戦い]]では、ダウン指揮下のオーストリア軍に払暁攻撃を受け、歩兵の3分の1と砲兵の大部分を失う打撃を受ける。訓練された兵士の損失は大王の戦術展開を困難にした。そして[[1759年]][[8月12日]]、[[クネルスドルフの戦い]]で、5万3千のプロイセン軍は7万のオーストリア・ロシア連合軍に壊滅的な敗北を喫する。大王自ら敵弾にさらされ、上着を打ち抜かれ乗馬は撃ち倒されるありさまであった。ベルリンは無防備となり、プロイセンの命運も尽きるかと思われた。


イギリスはオーストリアをひとまず満足させるために皇帝選挙におけるハノーファー選帝侯の票をマリア・テレジアの息子[[ヨーゼフ2世|ヨーゼフ大公]]に投じることを承諾したが、フランスとプロイセンはこの決定に失望した。さらに、イギリスはオーストリア・ロシアの同盟に参加したが、事態は複雑であった。イギリスが同盟に参加する目的はハノーファーをフランスから守ることであったが、同時にカウニッツがフランスと対ハノーファー同盟を築こうとした。しかし、フランスはロシアがオーストリア継承戦争においてオーストリアに肩入りしたためロシアを嫌っており、またプロイセンを解体すると中央ヨーロッパが不安定になる恐れもあった。
ところが、オーストリア・ロシア連合軍は無防備のベルリンへ進撃せず、最大の危機は去った。連合軍内でベルリン総攻撃のために協定が結ばれたが、オーストリア軍が守らなかったために、ロシア軍が[[冬営]]に引き返してしまったためである。プロイセンとフリードリヒ2世は一命を取りとめ、このことは後に[[ブランデンブルクの奇跡]]と呼ばれた。


カウニッツは数年間フランス・オーストリア同盟を推進していた<ref name="Marston14" />。彼はハノーファーの政治に介入することを極力避け、フランスがオーストリアによるシュレージエン奪回を手伝わせる代わりに[[オーストリア領ネーデルラント]]を割譲することすらいとわなかった。イギリスはこの決定に怒り、また[[ネーデルラント連邦共和国]]が中立を堅持した<ref name="Dull68" />こともありロシアに接近した。1755年9月30日、イギリスは財政援助をする代わりにロシア軍5万をリヴォニアとリトアニアの境界の駐留させた<ref name="Dull40">Dull (2005), p. 40.</ref>。イギリスの狙いはこのロシア軍が有事のときにハノーファーに馳せて救援することができるという一点だったが、ベストゥージェフはこの準備が対プロイセンのためであると勘違いし、援助金もあって易々と承諾した<ref name="Dull40" />。またジョージ2世は秘密裏にプロイセン王フリードリヒ2世に同盟を提案し、オーストリアとロシアの侵攻を恐れたフリードリヒ2世はイギリスと和解して1756年1月15日に[[ウェストミンスター条約 (1756年)|ウェストミンスター条約]]を締結し、お互いの援助を約した。両国は条約によりヨーロッパの和平と安定を維持しようとした<ref name="Marston15">{{Cite book |last=Marston |first=Daniel |title=Essential Histories - The Seven Years' War |page=15 |publisher=Osprey Publishing |year=2001 |location=Oxford |isbn=1-84176-191-5}}</ref>。
=== 講和へ ===
[[1760年]]に入ってもプロイセンの苦しい状況は続いた。[[8月15日]]の[[リーグニッツの戦い (1760年)|リーグニッツの戦い]]でオーストリア軍に勝利するが、その後オーストリア・ロシア連合軍によってベルリンを一時的に占領されてしまう。[[11月3日]]に[[トルガウの戦い]]で再度オーストリア軍に勝利するものの、プロイセン軍も大きな損失を被る。もはやプロイセン軍はぎりぎりの状態まで消耗していた。だが苦しい状況は相手側も同じであった。フランスは北米やインドなどの植民地でイギリスに完敗し、プロイセンとの戦争どころではなくなっていた。フランスは植民地での劣勢を跳ね返すために同じ[[ブルボン朝|ブルボン王家]]のスペインに応援をもとめ、[[1761年]]8月に同盟を締結した。オーストリアも戦費の負担にあえぎ、また[[オスマン帝国]]の脅威にも対処せねばならなかった。大ピットはスペインにも宣戦布告しようとしたが、ニューカッスル公や[[1760年]][[10月]]に即位した[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が反対し、孤立した大ピットは辞職した。イギリスは[[1761年]][[10月]]にプロイセンへの支援を打ち切ったが、結局[[1762年]]1月にスペインに宣戦布告し、ポルトガルに侵入したスペイン軍を撃退、さらに大艦隊を編成してスペインの植民地である[[キューバ]]の[[ハバナ]]や[[フィリピン]]の[[マニラ]]を占領した。


条約の内容は各国を刺激しないよう慎重に書き上げられたが、ヨーロッパ諸国はやはり激高した。ロシアのエリザヴェータ女帝はイギリスの二元外交に激怒した。フランスは唯一の同盟国プロイセンが突如裏切ったことに怒りと恐怖を感じた。オーストリア、特にカウニッツはこの状況を利用してフランスに同盟を迫り、フランスは孤立を恐れて同意し、1756年5月1日に[[ヴェルサイユ条約 (1756年)|ヴェルサイユ条約]]を締結した。条約では両国が攻撃される場合お互いに軍勢2万4千を提供することが定められた<ref name="Marston15" />。ウェストミンスター条約もヴェルサイユ条約も防衛同盟であったが、両同盟の行動により戦争が不可避になった。この外交革命は結果的には戦争の起因となった。
[[1762年]]1月にロシアの[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ女帝]]が急死。後を継いだ[[ピョートル3世]]は[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の信奉者であったため、プロイセンとの戦争を中止した({{仮リンク|サンクトペテルブルク条約 (1762年)|en|Treaty of Saint Petersburg (1762)|label=サンクトペテルブルク条約}})。オーストリア単独での戦争継続も困難となり、停戦交渉が始められた。最初に講和したのは[[スウェーデン]]で、1762年[[5月]]にスウェーデン王妃[[ルイーゼ・ウルリーケ・フォン・プロイセン|ロヴィーサ・ウルリカ]]を介してプロイセン、スウェーデン間との[[ハンブルクの和約 (1762年)|ハンブルクの和議]]が成立した。同年11月、フランスの主導でイギリス・フランス・スペインによるフォンテーヌブロー仮条約が結ばれ、翌1763年[[2月10日]]、英仏間で[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]が締結された。[[2月15日]]にはプロイセン、オーストリア、[[ザクセン公国|ザクセン]]が[[フベルトゥスブルク条約]]を締結し、七年戦争は終結した。


== 戦後処理 ==
=== 北アメリカ ===
[[ファイル:Nouvelle-France map-en.svg|thumb|300px|1750年当時の北アメリカと各国の勢力図。ピンクと紫がイギリス領、青がフランス領、オレンジがスペイン領である。七年戦争の一部である[[フレンチ・インディアン戦争]]の後、勢力図の全体が塗り替えられた。]]
講和条約により、プロイセンの[[シレジア]](シュレージエン)領有が確実なものとなった。プロイセンは強国となったが、以後フリードリヒ大王が戦争に与することは無くなった。
1750年代、北アメリカにおけるイギリスとフランス植民地の境界は大半が未定であった。フランスはずっと[[ミシシッピ川]]流域の領有を主張していたが、イギリスは反対していた。1750年代のはじめにフランスは[[オハイオ川]]の流域で一連の要塞を築いて実効支配しようとし、また先住民からイギリスの影響を排除しようとした。


アメリカ東海岸のイギリス入植者はフランス軍がイギリス植民地の西の境界に接近することと、フランスが同盟している先住民を煽動してイギリス人を攻撃することを危惧した。さらに、農地を求めてやってくる入植者が増える一方だったため、イギリスの入植者たちはオハイオ川の流域を肥沃な農地として確保しようとした<ref name="Anderson, p. 17">Anderson, p. 17.</ref>。
また、北米、[[西インド諸島]]、インドにおけるヨーロッパ各国の植民地の帰属が再編され、フランスはインドからほぼ全面的に撤退し、北アメリカの植民地のほとんどを失った。代わって北米とインドでの植民地獲得競争におけるイギリスの優位が決定的になった。しかし、イギリスは多額の負債にあえぐことになり、植民地への課税に訴えるが、これが仇となり[[アメリカ独立戦争]]を引き起こすことになる。


フランスが計画した要塞のうち、一番重要なのが[[アレゲニー川]]と[[モノンガヒラ川]]が合流して[[オハイオ川]]となる合流点(現[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]])に位置するものであった。イギリスは平和裏にこの要塞の建築を止めようとしたが失敗し、フランスはそのまま砦を築いてそれを{{仮リンク|デュケーヌ砦|en|Fort Duquesne}}と名付けた。バージニア植民地は[[ジョージ・ワシントン]]率いる民兵隊を派遣してそれを攻撃しようとし、1754年5月28日の[[ジュモンヴィルグレンの戦い]]で少数のフランス駐留軍を攻撃して指揮官{{仮リンク|ジョゼフ・クーロン・ド・ジュモンヴィユ|en|Joseph Coulon de Jumonville|label=ジュモンヴィユ}}を含む10人を殺害した<ref>Anderson, pp. 5–7.</ref>。フランスは報復として1754年7月3日の[[ネセシティ砦の戦い]]でワシントン軍を攻撃して降伏させた<ref name="AndersonCrucible51_9">Anderson (2000), pp. 51–65.</ref>。この2つの戦闘で七年戦争の火ぶたが切られた。
ロシアでは戦後処理を主導した[[ピョートル3世]]への批判が高じて{{仮リンク|宮廷クーデター (1762年)|ru|Дворцовый переворот 1762 года|label=クーデター}}が勃発し、[[エカチェリーナ2世]]が実権を握ることになった。


戦闘の報せがヨーロッパに届くと、イギリスとフランスは交渉で解決しようとしたが不調に終わり、両国は正規軍を派遣して自らの主張を通そうとした。イギリスはまず1755年6月16日の[[ボーセジュール砦の戦い]]で[[アカディア]]を強襲し<ref>Anderson, pp. 112–115.</ref>、その直後に{{仮リンク|アカディア人追放|en|Expulsion of the Acadians}}が行われた<ref>Anderson, p. 114.</ref>。7月、イギリスの[[エドワード・ブラドック]]少将は兵士2千と現地の民兵隊を率いてデュケーヌ砦へ{{仮リンク|ブラドック遠征|en|Braddock Expedition|label=遠征}}したが、大敗に終わった<ref>Anderson, p. 77.</ref>。さらに、[[エドワード・ボスコーエン]]海軍大将は[[1755年6月8日の海戦]]でフランス船{{仮リンク|アルシド|en|French ship Alcide (1742)}}に砲撃して、アルシドとリスの2隻を拿捕した。また9月には両軍が[[ジョージ湖の戦い]]を戦ったが勝敗は決しなかった<ref>Anderson, pp. 119–120.</ref>。
オーストリアは悲願であったシュレージエン奪回を実現できなかったが、フリードリヒ大王が皇帝選挙で[[ヨーゼフ2世]]に投票することに同意したため面子が保った形となった。


1755年8月以降、イギリスはフランスの海運を妨害しており、名目上は宣戦していなかったにもかかわらずフランス商船数百隻を拿捕して商船の海員数千を捕虜にした。激怒したフランスがイギリスと同君連合であったハノーファー選帝侯領を攻撃しようとしたため、イギリスはプロイセンと条約を結び、プロイセンはハノーファーの守備に同意した。フランスはこの条約に反応して、長らく敵同士であったオーストリアと和解して同盟を締結した。この出来事は[[外交革命]]として知られている。
スウェーデンもあまり得ることはなかったが、この戦争で[[ジャガイモ]]がスウェーデンで普及した。そのため、スウェーデンでは七年戦争が「じゃがいも戦争」とも呼ばれている。


== 脚注 ==
== 各国の戦略 ==
18世紀の大半を通して、フランスの戦力は同じものであった。それは植民地に自らを守らせるか最低限の増援や未熟な兵士しか送らず、植民地での戦闘を負け戦とみなした<ref>{{cite book|last=Pritchard|first=James|title=In Search of Empire: The French in the Americas, 1670–1730|year=2004|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=0-521-82742-6|page=356|url=https://books.google.com/books?id=kK9wa98I4eEC}}</ref>。フランスの地理の問題、そしてイギリス海軍の優位があったため、フランス海軍が植民地に大量な補給と増援を送ることが難しい状態であり、ある程度は仕方ないことであった<ref>{{cite book|last=Dull|first=Jonathan R.|title=The French Navy and the Seven Years' War|year=2007|publisher=University of Nebraska Press|location=Lincoln NE|isbn=0-8032-1731-5|page=14|url=https://books.google.com/books?id=QcsnvXeOdW4C }}</ref>。同じく、長大な国境線があったためフランスの統治者にとって本土における強力な陸軍は欠かせないものであった<ref name="borneman">{{cite book|last=Borneman|first=Walter R.|title=The French and Indian War: Deciding the Fate of North America|year=2007|publisher=HarperCollins|location=New York|isbn=978-0-06-076184-4|page=80|url=https://books.google.com/books?id=O7TZqbj_6BYC }}</ref>。これらの原因により、フランス政府はヨーロッパにおける陸軍をその戦略の中心とした。フランスは陸軍の大半を大陸に留まらせ、本土近くで勝利しようとした<ref name="borneman" />。フランスの計画は終戦まで戦い、続いて条約の交渉でヨーロッパの占領地を失われた海外の植民地で交換する、というものであった<ref group="注">一例としては1632年の{{仮リンク|サン=ジェルマン=アン=レー条約 (1632年)|en|Treaty of Saint-Germain-en-Laye (1632)|label=サン=ジェルマン=アン=レー条約}}がある。</ref>。しかし、七年戦争でも植民地が失われ、ヨーロッパの陸戦も割と成功を収めたものの、終戦のときには交換するだけの占領地が足りなかったため、このやり方はあまり有効ではなかった<ref>{{cite book|last=Lee|first=Stephen J.|title=Aspects of European History, 1494–1789|year=1984|publisher=Routledge|location=London|isbn=0-416-37490-5|page=285|url=https://books.google.com/books?id=t9REWs8RAcYC }}</ref>。
{{脚注ヘルプ}}

{{Reflist}}
[[ファイル:Erstes pr. Bataillon Leibgarde in Schlacht bei Kollin.jpg|thumb|right|プロイセンの{{仮リンク|ライブガルデ|en|Lifeguard (military)}}大隊、1757年、[[コリーン|コリン]]にて。]]
イギリスは選好と現実的な理由で[[大陸ヨーロッパ]]への大規模な派兵を避けようとした<ref>{{cite book|last=Till|first=Geoffrey|title=Development of British Naval Thinking: Essays in Memory of Bryan Ranft|year=2006|publisher=Routledge|location=Abingdon|isbn=0-714-65320-9|page=77|url=https://books.google.com/books?id=iIpFoGiz88IC }}</ref>。イギリスはヨーロッパにおける不利をいわゆる「敵の敵」である大陸の国との同盟で補おうとした<ref group="注">この場合、敵とはフランスで、敵の敵とはプロイセンのこと。</ref><ref name="Schweizer">{{cite book|last=Schweizer|first=Karl W.|title=England, Prussia, and the Seven Years War: Studies in Alliance Policies and Diplomacy|year=1989|publisher=Edwin Mellen Press|location=Lewiston NY|isbn=0-88946-465-0|url=https://books.google.com/books?id=rfacoIz38n0C }}</ref>{{rp|15–16}}。大陸の同盟軍に資金援助をすることで、ロンドンの財力を軍事的優位に変換することができた。七年戦争において、イギリスは当時最強の将軍であったプロイセンの[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]と同盟し、巨額の援助金を支払って戦わせた<ref name="Schweizer" />{{rp|106}}。これは1756年の外交革命において、イギリスがオーストリアとの長きにわたる同盟を集結してプロイセンに乗り換えたことで達成された。イギリスはフランスと対比して、戦争遂行の重点を植民地に置き、その[[海軍]]の力をいかんなく発揮した<ref name="black">{{cite book|last=Black|first=Jeremy|title=Britain As A Military Power, 1688–1815|year=1999|publisher=UCL Press|location=London|isbn=1-85728-772-X|pages=45–78|url=https://books.google.com/books?id=E5E2yDg4VekC&pg=PA221 }}</ref><ref name="Simms">{{cite book|last=Simms|first=Brendan|title=Three Victories and a Defeat: The Rise and Fall of the First British Empire|publisher=Penguin Books|year=2008|location=London|isbn=978-0-14-028984-8|oclc=319213140}}</ref>{{rp|64–66}}。イギリスは敵国の港への砲撃と[[海上封鎖]]、および海路で兵員を輸送する戦略を遂行し<ref>{{cite book|last=Vego|first=Milan N.|title=Naval Strategy and Operations in Narrow Seas|year=2003|publisher=Frank Cass|location=London|isbn=0-7146-5389-6|pages=156–157|url=https://books.google.com/books?id=MXO5fx1cs5oC }}</ref>、敵国の海運を妨害しつつその植民地を攻撃、時には近くのイギリス植民地の入植者の力も借りた。

ロシアとオーストリアは隣の新しい脅威であるプロイセンを弱らせようとして、1756年にフランスとの防衛同盟を締結、フランスの援助の許、オーストリアとロシアがプロイセンに攻撃することに同意した<ref>Szabo, 2007, pp. 17–18.</ref>。

== ヨーロッパの戦闘 ==
1756年に入閣した[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]は戦闘に対し遠大なビジョンを持ち、これまでのフランスとの戦争とは違う視点で取り組んだ。大ピットは実質的な首相としてフランス帝国全体、特に北アメリカとインドを奪取する政策を推進した。イギリスの強みは海軍にあり、制海権を握って侵攻軍を好きなだけ派遣することが可能だった。[[13植民地]]の民兵隊をイギリス{{仮リンク|正規軍|en|Regular army}}の指揮下で活用して[[ヌーベルフランス]]を侵攻させた。フランス陸軍を釘付けにするため、ヨーロッパの同盟国に金に糸目をつけずに援助金を送った。大ピットは1756年から1761年まで実質的にイギリス政府の長であり、彼が辞任した後もその政策は継続され、大成功を収めた<ref>{{cite book|author=Lawrence James|title=The Rise and Fall of the British Empire|url=https://books.google.com/books?id=4DMS3r_BxOYC&pg=PA71|year=1997|page=71ff}}</ref>。大ピットは王領植民地の価値、そしてフランス帝国の脆弱さを正しく認識していた<ref>{{cite book|author=William R. Nester|title=The Great Frontier War: Britain, France, and the Imperial Struggle for North America, 1607-1755|url=https://books.google.com/books?id=7Mum6vMM5YwC&pg=PA115|year=2000|page=115ff}}</ref>。

=== 1756年 ===
{{Wikisourcelang|en|Admiral John Byng's account of the Battle of Minorca}}
イギリス首相[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|ニューカッスル公爵]]は[[外交革命]]で成立した同盟がヨーロッパでの戦争を防げると楽観視していた<ref>Anderson, p. 129.</ref>。しかし、フランスは[[トゥーロン]]に大軍を集結し、地中海の[[セント・フィリップ砦包囲戦 (1756年)|ミノルカ島攻撃]]で対イギリス作戦をはじめた。イギリスによる救援の試みは[[ミノルカ島の海戦]]で失敗に終わり、ミノルカ島は6月28日に占領された。これにより、イギリスの[[ジョン・ビング]]提督が軍法会議ののち処刑された<ref>Rodger pp. 265–67</ref>。イギリスは5月17日に正式にフランスに宣戦布告した<ref>{{cite web|url=https://books.google.it/books?id=QHw4MwEACAAJ|title=His Majesty's Declaration of War Against the French King. 17 May, 1756. MS. Notes|date=17 May 1756|publisher=T. Baskett and the Assigns of R. Baskett|via=Google Books|accessdate=16 February 2017}}</ref>が、これは[[オハイオ領土]]で戦闘がはじめたからほぼ2年後のことであった。

[[ファイル:Battle of Lobositz.png|thumb|300px|[[ロボジッツの戦い]]。青はオーストリア軍、赤はプロイセン軍。]]
プロイセン王フリードリヒ2世は北アメリカでの戦闘を知り、[[英普同盟 (1756年-1762年)|イギリスと同盟]]した。1756年8月29日、彼はプロイセン軍を率いてドイツの小国でオーストリアに味方した[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]に侵入した。これはオーストリアとフランスによるシュレージエン侵攻に対する予防戦争としての先制攻撃であったが、その目的は3つあった。まず、ザクセンを奪取してプロイセンに対する脅威を無にして、その軍と資金をプロイセンの戦争遂行に転用すること。次に、ボヘミアに進軍して冬営することでオーストリアに負担を強いること。そして最後に、シュレージエンから[[モラヴィア]]に侵攻してオルミュッツ要塞を奪取、ウィーンに進軍して戦争を終わらせることであった<ref name="Asprey, p. 427.">Asprey, p. 427.</ref>。

この3つの目的を達成すべく、フリードリヒ2世は[[クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン]]伯爵兼元帥率いる2万5千の兵士をシュレージエンに留まらせてモラヴィアやハンガリーからの侵入を防ぎ、{{仮リンク|ハンス・フォン・レーヴァルト|en|Hans von Lehwaldt}}元帥を[[東プロイセン]]に駐留させてロシアが東から侵攻することを防ぐと、自らも軍を率いてザクセンに進軍した。プロイセン軍は3列縦隊で進軍した。右翼は[[フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]率いる兵士約1万5千、左翼は{{仮リンク|アウグスト・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公)|en|Augustus William, Duke of Brunswick-Bevern|label=ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公アウグスト・ヴィルヘルム}}率いる兵士1万8千で、真ん中はフリードリヒ2世と[[ジェームズ・キース|ヤーコプ・フォン・カイト]]元帥率いる兵士3万であった<ref name="Asprey, p. 427." />。フェルディナントは[[ケムニッツ]]を包囲する予定でベーヴェルンは[[ラウジッツ]]を通って[[バウツェン]]に迫り、一方フリードリヒ2世とカイトは[[ドレスデン]]へ向かった。

ザクセン軍とオーストリア軍は不意をつかれ、しかも分散していたためフリードリヒ2世はほぼ無抵抗でドレスデンを占領した<ref>Asprey, p. 428.</ref>。1756年10月1日の[[ロボジッツの戦い]]で{{仮リンク|マクシミリアン・ウリセス・ブロウネ|en|Maximilian Ulysses Browne}}率いるオーストリア軍が孤立したザクセン軍と合流することを防いだ<ref>Asprey, pp. 430–438.</ref>。そして、ザクセンはプロイセン軍に占領された。[[ピルナ包囲戦]]の後、ザクセン軍は1756年10月に降伏<ref name="arisaka" />してプロイセン軍に強制編入された。中立国のザクセンを攻撃したことで全ヨーロッパに怒りの声が上がり、反プロイセン同盟の結束が強められた<ref>Dull, p. 71.</ref>。オーストリア軍が成功したことはシュレージエンの一部を占領したことだけだった。フリードリヒ2世は緒戦で勝利したものの、いずれの戦闘も決定的とはならず、少勢なプロイセン軍にとってその犠牲は大きかった。また予想以上に苦戦したこともあってフリードリヒ2世は以前の戦争で戦ったオーストリア軍と違うと評した<ref name="Frederick II, Jean-Paul Bled">''Frederick II'', Jean-Paul Bled.</ref>。

イギリスはプロイセンの突然な侵攻に驚いたが、すぐに補給を輸送し、67万ポンドの援助金({{Inflation|UK|670000|1756|fmt=eq|r=-4|cursign=£}})を送った<ref>Asprey, p. 465.</ref>。イギリスはドイツの同盟国と{{仮リンク|監視軍|en|Army of observation}}を編成して[[ハノーファー選帝侯領|ハノーファー]]をフランス侵攻から防ごうとし、[[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス]]がその指揮にあたった<ref>See footnote on Asprey, p. 441.</ref>。イギリスは[[ネーデルラント連邦共和国]]を同盟に加入させようとしたが失敗し、ネーデルラントは中立を堅持した<ref>Carter pp. 84–102.</ref>。軍勢に圧倒的な差があったものの、大陸ではプロイセン軍が概ね成功を収め、一方北アメリカではイギリスにとって悲惨な結果であった。

=== 1757年 ===
[[ファイル:Schlacht-Kolin-1.jpg|thumb|[[コリンの戦い]]]]
{{See also|{{仮リンク|ポンメルン戦争|en|Pomeranian War}}}}
1757年4月18日、フリードリヒ2世は再び主導権を握り、{{仮リンク|ボヘミア王国|en|Kingdom of Bohemia}}に進行して、オーストリア軍に決定的な敗北を強いようとした<ref>Marston, Daniel ''The Seven Years' War'', London; Osprey, 2001 page 37.</ref>。5月6日の[[プラハの戦い]]では両軍とも1万以上の損害を出したが、プロイセンの勝利に終わり、オーストリア軍はプラハの城塞に押し込まれた。プロイセン軍は続いて[[プラハ包囲戦 (1757年)|プラハを包囲]]した<ref>Jay Luvaas, Frederick the Great on the Art of War'' (The Free Press: New York, 1966) p. 6.</ref>。その対処にオーストリア軍の指揮官[[レオポルト・フォン・ダウン]]が軍勢3万を編成してプラハ救援に駆け付けた<ref>Marston, Daniel ''The Seven Years' War'', London; Osprey, 2001 page 39.</ref>。フリードリヒ2世はプラハを包囲していたプロイセン軍のうち5千人を引き抜いてボヘミアの[[コリーン|コリン]]にいるブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公率いる1万9千人と合流させた<ref>Asprey, p. 454.</ref>。ダウンは到着が遅れてしまってプラハの戦いに参加できなかったが、敗走してきたオーストリア軍1万6千人と合流して、緩慢ながらプラハ救援に進軍した。プロイセン軍はプラハの包囲とダウンの対処を同時にするのには弱体すぎたため、フリードリヒ2世は戦闘を準備していたオーストリア軍と戦わなければならなかった。その結果として起こった[[コリンの戦い]]はフリードリヒ2世のはじめての大敗で、彼はプラハの包囲を解くこととボヘミアからの撤退を余儀なくされた<ref>Jay Luvaas, ''Frederick the Great on the Art of War'', p. 6.</ref>。

[[ファイル:Schlacht bei Roßbach.jpg|thumb|left|[[ロスバッハの戦い]]]]
その少し後、{{仮リンク|ステパン・フョードロヴィチ・アプラクシン|en|Stepan Fyodorovich Apraksin}}元帥率いるロシア軍7万5千は[[クライペダ|メーメル]]を包囲した。メーメルはプロイセンの城塞のなかでも強固であったが、ロシア軍は5日間の砲撃でそれを占領した<ref name="Asprey, p. 460">Asprey, p. 460.</ref>。ロシア軍はメーメルを基地として[[東プロイセン]]に侵攻、8月30日の[[グロース=イェーゲルスドルフの戦い]]で激戦ののち少数のプロイセン軍を撃破した。アメリカの歴史家ダニエル・マーストンは、グロース=イェーゲルスドルフの戦いはプロイセン軍に「ロシア軍の戦闘力に対する新しい尊敬」を持たせ、それが「後の[[ツォルンドルフの戦い]]と[[クネルスドルフの戦い]]で強められた」と述べた<ref>Marston, Daniel ''The Seven Years' War'', London; Osprey, 2001, pp. 40-41.</ref>。しかし、ロシア軍はメーメルとグロース=イェーゲルスドルフの戦闘で砲弾を使い果たしてしまい、[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]を占領できずに撤退し、その後アプラクシンは解任された<ref name="arisaka" />。兵站の問題は戦争を通してロシア軍の悩みであり続けた<ref name="Marston, Daniel page 22">Marston, Daniel ''The Seven Years' War'', London; Osprey, 2001 page 22.</ref>。ロシアが中央ヨーロッパで戦うには東ヨーロッパの未整備でぬかるんだ道を通って補給する必要があったが、ロシア軍にはそれができる需品係がなかった<ref name="Marston, Daniel page 22" />。そのため、ロシア軍は大規模な会戦の後、勝敗と損失にかかわらず撤退することが多い。戦闘で軍勢品をほぼ使い果たしたロシア軍の将軍たちは補給に時間がかかることがわかっていたため、補給を待たずに再度の会戦に挑みたくなかったのだった<ref name="Marston, Daniel page 22" />。この弱点は1735年から1739年までの[[オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)|オーストリア・ロシア・トルコ戦争]]において、緒戦で勝利したにもかかわらず補給の問題で最終的には領土を僅かに得ることしかできなかったことで明らかになっていた<ref name="Stone, David page 70">Stone, David ''A Military History of Russia: From Ivan the Terrible to the War in Chechnya'', New York; Praeger, 2006 page 70</ref>。ロシア軍の需品係はその後も改善しなかったのでプロイセンとの戦闘で同じ問題が起こった<ref name="Stone, David page 70" />。いずれにしても、ロシア帝国軍はプロイセンにとって脅威であり、フリードリヒ2世はボヘミア侵攻の中止を迫られただけでなく、プロイセン領まで撤退することを余儀なくされた<ref>Anderson, p. 176.</ref>。彼の敗北は参戦国をさらに増やした。スウェーデンがプロイセンに宣戦して軍勢1万7千でポンメルンに侵攻した<ref name="Asprey, p. 460" />。当時、プロイセンがすでにザクセン、シュレージエン、東プロイセンと多くの戦場で戦っていたので、スウェーデンは1万7千人だけでもポンメルンを占領できると踏んだのであった。

[[ファイル:Batte of Leuthen.jpg|thumb|[[ロイテンの戦い]]、{{仮リンク|カール・レヒリング|en|Carl Röchling}}作。]]
[[ファイル:Frederick the Great and his staff at the Battle of Leuthen by Hugo Ungewitter.jpg|thumb|フリードリヒ2世と士官たち、{{仮リンク|ルティニア (シロダ郡 )|en|Lutynia, Środa Śląska County|label=ロイテン}}にて。]]
今やプロイセンの前途は暗憺たるものに見えた。オーストリアは動員してプロイセン侵攻を準備しており、西からは[[シャルル・ド・ロアン (スービーズ公)|スービーズ公]]率いるフランス軍と{{仮リンク|神聖ローマ帝国軍|en|Army of the Holy Roman Empire}}({{lang-de-short|Reichsarmee}}、ライヒスアルメー)の連合軍が迫ってきていた。神聖ローマ帝国軍は皇帝[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の要請を受けてドイツの小国が対フリードリヒ2世に編成した連合軍であった<ref name="Marston, Daniel page 41">Marston, Daniel ''The Seven Years' War'', London; Osprey, 2001 page 41.</ref>。しかし、1757年11月から12月までの間、ドイツにおける情勢が逆転した。まず、スービーズ公が11月5日の[[ロスバッハの戦い]]でフリードリヒ2世に大敗し<ref>Asprey, pp. 469–472.</ref>、続いてオーストリア軍が数で大きく上回るにもかかわらず12月5日の[[ロイテンの戦い]]でフリードリヒ2世を前に潰走してしまった<ref>Asprey, pp. 476–481.</ref><ref name="arisaka" />。戦争を通して、フランス・プロイセン間で戦われた大規模な会戦はロスバッハの戦いの1回だけだった<ref name="Marston, Daniel page 41"/>。ロスバッハの戦いではプロイセン軍が548人を失ったのに対し、スービーズ公率いるフランス・ドイツ連合軍は約1万人を失った<ref name="Marston, Daniel page 42">Marston, Daniel ''The Seven Years' War'', London; Osprey, 2001 page 42.</ref>。フリードリヒ2世はロイテンの戦いを自らの最も大な勝利であると称したが、当時オーストリア軍は一線級と見なされたため多くの人がこの見解に共感した<ref name="Marston, Daniel page 42"/>。ロスバッハとロイテンの勝利でフリードリヒ2世は再び自分をヨーロッパ一の将軍に、プロイセン軍をヨーロッパでもっとも練達した兵士に仕立て上げた。しかし、彼はロイテンでオーストリア軍を撃滅することには失敗し、オーストリア軍はボヘミアまで逃走して再編することができた。また、フリードリヒ2世はこの2つの大勝でマリア・テレジアに和平交渉を迫ることができると考えたが、彼女はシュレージエンを奪回するまで交渉しないと腹を決めた。また、彼女はロイテンの戦いの後、軍の指揮を改善するために無能な義弟[[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]を更迭して今や元帥に昇進したレオポルト・フォン・ダウンを指揮官に任命した。

しかも、カンバーランド公率いるハノーファー本軍が{{仮リンク|ハステンベックの戦い|en|Battle of Hastenbeck}}で敗北して{{仮リンク|ハノーファー侵攻 (1757年)|en|Invasion of Hanover (1757)|label=フランスによるハノーファー侵攻}}を許し、[[クローステル・ツェーヴェン協定]]で全軍が降伏したことがこの問題をさらに厳しいものにした<ref>Anderson, pp. 211–12.</ref>。この協定はハノーファーを戦争から脱落させ、西からプロイセンに侵攻することを可能にしたため大きい脅威になった。外国から何ら軍事援助を受けられなかったフリードリヒ2世はすぐさまイギリスに大規模な援助を要請した<ref>Anderson, pp. 176–77.</ref>。

[[ファイル:Bataille des Cardinaux en 1759 peinte par Richard Paton.jpg|thumb|left|[[キブロン湾の海戦]]]]
年内にロシアが進軍してくる可能性がないと踏んだフリードリヒ2世は東プロイセンのレーヴァルト将軍率いる軍勢をポンメルンに移動させた。レーヴァルトはそこでスウェーデン軍を押し返して{{仮リンク|スウェーデン領ポンメルン|en|Swedish Pomerania}}の大半を占領、[[ストラルスンド封鎖|ストラルスンドを封鎖した]]<ref>Asprey, p. 473.</ref>。グレートブリテン王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]はロスバッハの戦いの後、内閣の意見を容れてクローステル・ツェーヴェン協定を取り消し、再び参戦した<ref>Anderson, pp. 215–16.</ref>。新しく任命されたハノーファー軍の指揮官[[フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯子)|フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]は冬に軍を再集結させるとフランス軍を襲って[[ライン川]]の向こうまで追い払い、その後終戦までプロイセンの西側の安全を保った<ref>Asprey, p. 486.</ref>。

北アメリカではイギリスが[[ウィリアム・ヘンリー砦の戦い]]などのさらなる敗北に苦しんだ。しかし、イギリス本国は安定を取り戻しつつあった。1756年以降、[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|ニューカッスル公爵]]と大ピットを首班とする内閣が相次いで倒れ、2人は[[連立政権]]を組んで戦争への取り組みを一新した。ニューカッスル公が大陸、特にドイツでの守備を重要視した一方、大ピットは海軍力を駆使して世界中のフランス植民地を奪取に熱心であり、この2つの戦略をどちらも強調することは向こう5年、イギリスの政策であり続けた。

1757年10月10日から17日まで、オーストリア軍の将軍でハンガリー出身の{{仮リンク|アンドレアス・ハディク|en|András Hadik}}が[[ユサール|フザール]]戦術として有名な戦闘の1つを遂行した。フリードリヒ2世が南のほうで進軍している中、ハディクが突如フザールが大半を占める軍勢5千を率いてプロイセン軍を迂回してプロイセンの首都[[ベルリン]]の一部を一晩の間[[ベルリン襲撃 (1757年)|占領]]した<ref name="Asprey, p. 467.">Asprey, p. 467.</ref>。ベルリン市は解放されるときに20万ターラーを支払った<ref name="Asprey, p. 467."/>。フリードリヒ2世はこの屈辱的な占領を知ると軍勢を派遣してベルリンを解放しようとしたが、ハディクは自軍とともにベルリンを離れ、無事オーストリア本軍と合流した。その後、ハディクは大将に昇進した。

=== 1758年 ===
1758年のはじめ、フリードリヒ2世は[[モラヴィア]]に侵攻して[[オルミュッツ包囲戦|オルミュッツを包囲]]した(現[[チェコ]]領[[オロモウツ]])<ref>Asprey, p. 489.</ref>。オーストリア軍が[[ドームシュタットルの戦い]]で勝利してプロイセン軍補給部隊を奪取すると、フリードリヒ2世は包囲を中止してモラヴィアから撤退<ref name="arisaka" />、以降大規模なオーストリア領侵攻はおこらなかった<ref>Szabo, pp. 148–55.</ref>。1758年1月、ロシア軍は[[東プロイセン]]に侵攻したが、プロイセン軍がほとんどおらず、ロシアはほぼ無抵抗で同地を占領した<ref name="Marston, Daniel page 41" />。以降1762年までロシアは東プロイセンを支配下においたが、フリードリヒ2世はロシア軍を直近な脅威とは見ず、まずオーストリア軍を徹底的に撃破して和平を迫ろうとした。

[[ファイル:Battle of Krefeld - Map of the area printed in The Gentleman's Magazine.jpg|thumb|left|{{仮リンク|The Gentleman's Magazine|en|The Gentleman's Magazine}}に掲載された[[クレーフェルトの戦い]]での戦場付近の地図。]]
4月、イギリスはフリードリヒ2世と[[英普協定]]を締結して年67万ポンドの{{仮リンク|聖ジョージの金騎兵|en|Golden Cavalry of St George|label=補助金}}をプロイセンに与えた。また、イギリスは大ピットの政策を変え、兵士9千を増援としてフェルディナント率いるハノーファー軍に派遣した。七年戦争中、イギリスがはじめて大陸ヨーロッパに派兵したのはこのときであった。フェルディナントはフランス軍をハノーファーとヴェストファーレンから追い出し、3月に[[エムデン]]港を再占領すると、ライン川を渡河した。彼は迎撃にきたフランス軍を[[クレーフェルトの戦い]]で撃破し、一時[[デュッセルドルフ]]も占領したが、フランスの巧みな行軍でライン川を渡って撤退せざるをえなかった<ref>Szabo, pp. 179–82.</ref>。

ここでフリードリヒ2世はロシア軍の西進を憂慮して東へ進軍、1758年8月25日に[[オーデル川]]の東、{{仮リンク|ノイマルク|en|Neumark}}において[[ツォルンドルフの戦い]](現[[ポーランド]]領{{仮リンク|サルビノヴォ|en|Sarbinowo, Gmina Dębno}})を戦った。フリードリヒ2世率いるプロイセン軍3万5千と[[ヴィリム・ヴィリモヴィチ・フェルモル|ウィリアム・フェルマー]]率いるロシア軍4万3千と戦い<ref>Asprey, pp. 494–499.</ref>それぞれ1万2800人と1万8000人と両軍とも損害が甚大であったが、ロシア軍が退却したためフリードリヒ2世は勝利を宣言した<ref>Szabo pp. 162–69.</ref>。アメリカの歴史家ダニエル・マーストンはツォルンドルフの戦いを引き分けとした。彼は両軍とも疲憊して二度とお互いと戦いたくなかったことをその判断の理由とした<ref>Marston, Daniel, ''The Seven Years' War'', London; Osprey, 2001, p. 54.</ref>。9月26日の[[トルノーの戦い]]ではスウェーデン軍がプロイセン騎兵による6回の突撃を跳ね返し、その2日後の[[フェールベリンの戦い (1758年)|フェールベリンの戦い]]でプロイセン軍を撤退させたが、スウェーデン軍はベルリンへ進撃しなかった<ref>Asprey, p. 500.</ref>。

[[ファイル:La Pegna Überfall bei Hochkirch.jpg|thumb|[[ホッホキルヒの戦い]]]]
戦争はそのまま進展のないまま推移したが、10月14日にダウン率いるオーストリア軍がザクセンでの[[ホッホキルヒの戦い]]においてプロイセン軍を奇襲した<ref>Asprey, pp. 501–506.</ref>。フリードリヒ2世は多くの大砲を失ったが、周りの密林に助けられて撤退に成功した。オーストリア軍は戦闘に勝利したものの、ザクセンにおける戦役で行き詰まり、ドレスデン攻撃が失敗した後はオーストリア領まで退却して冬営に入り、ザクセンがプロイセンの占領下に置かれたままとなった<ref>Szabo, pp. 195–202.</ref>。同時期にロシア軍がポンメルンにおいて[[コルベルク包囲戦 (七年戦争)|コルベルク包囲戦]](現ポーランド領{{仮リンク|コウォブジェク|en|Kołobrzeg}})を敢行したが失敗した<ref>''The seven years war in Europe'', Szabo</ref>。

フランスでも1758年の戦役は精彩に欠けたものであり、これを見かねて[[エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール|ショワズール公]]が外務大臣(実質的には宰相)に任命された。彼はイギリスとハノーファーに猛攻して1759年に戦争を終わらそうとした。

=== 1759年と1760年 ===
1759年はプロイセンにとって敗北続きであった。[[カイの戦い]](パルツィヒの戦いとも)において、{{仮リンク|ピョートル・サルトイコフ|en|Pyotr Saltykov (1698–1772)}}伯爵率いるロシア軍4万7千が{{仮リンク|カール・ハインリヒ・フォン・ヴェーデル|en|Carl Heinrich von Wedel}}将軍率いるプロイセン軍2万6千に勝利した。ハノーファー軍が[[ミンデンの戦い]]でフランス軍6万を撃破したものの、オーストリア軍の[[レオポルト・フォン・ダウン]]将軍は[[マクセンの戦い]]でプロイセン軍1万3千を降伏させることに成功、フリードリヒ2世自身も[[クネルスドルフの戦い]](現ポーランド領[[クノヴィツェ]])で軍の半分を失い、退位と自殺を考えるほどであった。この敗北はロシア軍がすでにツォルンドルフの戦いや[[グロース=イェーゲルスドルフの戦い]]で名声を挙げたにもかかわらず、フリードリヒ2世がロシア軍を見くびったことと、ロシア軍とオーストリア軍がうまく連携したことに原因があった。

[[ファイル:HGM Findenigg Gefecht bei Maxen.jpg|thumb|left|[[マクセンの戦い]]]]
1759年、フランスは{{仮リンク|フランスによるイギリス侵攻計画 (1759年)|en|Planned French invasion of Britain (1759)|label=イギリス侵攻計画}}を立て<ref name="Szabo406">Szabo, p. 406.</ref>、[[ロワール川|ロワール]]河口で軍勢を集結させ、さらにブレストとトゥーロン艦隊を呼び寄せようとした。しかし、海戦における2つの敗北が侵攻を頓挫させた。8月、[[ラゴスの海戦]]において[[エドワード・ボスコーエン]]率いるイギリス艦隊が{{仮リンク|ジャン=フランソワ・ド・ラ・クリュー=サブラン|en|Jean-François de La Clue-Sabran}}率いるフランスの地中海艦隊を撃破<ref>McLynn, p. 252.</ref>、さらに11月20日の[[キブロン湾の海戦]]において[[エドワード・ホーク]]率いるイギリス[[戦列艦]]23隻が{{仮リンク|ユベール・ド・ブリエンヌ|en|Hubert de Brienne|label=コンフラン伯爵}}率いるフランスのブレスト艦隊(戦列艦21隻)に勝利、フランス艦の多くが沈没、拿捕、座礁した<ref>{{citation |title=England In The Seven Years War, Vol. II |first=Julian S. |last=Corbett | publisher=Longmans Green |year=1907 |url=https://archive.org/stream/englandinsevenye02corb/englandinsevenye02corb_djvu.txt | page=67-69}}</ref>ことでフランスの計画は失敗に終わった。

[[ファイル:Menzel - Battle of Liegnitz.jpg|thumb|left|[[リーグニッツの戦い (1760年)|リーグニッツの戦い]]]]
[[ファイル:Kunersdorff.jpg|thumb|[[クネルスドルフの戦い]]]]
1760年もプロイセンにとって災難続きであった。オーストリア軍には{{仮リンク|ハインリヒ・アウグスト・ドゥ・ラ・モット・フーケ|en|Heinrich August de la Motte Fouqué}}率いるプロイセン軍が[[ランデスフートの戦い (1760年)|ランデスフートの戦い]]で敗北<ref>Friedrich der Große, Werke, ''Geschichte des Siebenjähriegen Krieges.'' Reprint, P. 39.</ref>、フランスには[[マールブルク]]を占領され、スウェーデンには[[ポメラニア|ポンメルン]]の一部を占領された。一方ハノーファー軍は[[ヴァールブルクの戦い]]でフランス軍に勝利して、フランスによるオーストリア軍への増援を阻止した。

フランス軍と合流できなかったものの、[[エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン]]将軍率いるオーストリア軍はシュレージエン地方の[[グラーツ包囲戦|グラーツを包囲、占領]](現ポーランド領{{仮リンク|クウォツコ|en|Kłodzko}})した。同じくシュレージエン地方の[[リーグニッツの戦い (1760年)|リーグニッツの戦い]]では3倍近くの敵数に対しフリードリヒ2世が見事に勝利した。{{仮リンク|ピョートル・サルトイコフ|en|Pyotr Saltykov (1698–1772)}}率いるロシア軍と{{仮リンク|フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー|en|Franz Moritz von Lacy}}率いるオーストリア軍は10月にプロイセンの首都ベルリンを占領し、すぐに撤退したが、フリードリヒ2世の権威が大きく失墜した。フリードリヒ2世は年末に[[トルガウの戦い]]で再び勝利したが、自軍も大きな損害を被り、オーストリアは規律を保った退却に成功した。

一方のロシア軍はクネルスドルフの戦いの後、動きがほとんどがなかった。貧弱な補給線が原因であった<ref>Stone, David ''A Military History of Russia: From Ivan the Terrible to the War in Chechnya'', New York; Praeger, 2006 page 74.</ref>。ロシア軍の補給が悪くて1759年10月にはオーストリア軍の需品係がロシア軍の補給も担当するという協定が成立した<ref name="Marston, Daniel page 22" />。しかし、オーストリア軍とロシア軍の両方を補給することがオーストリア軍の需品係の能力を超えてしまったため、協定は実際にはほとんど役に立たず、ロシア軍は少量の補給しか受けられなかった<ref name="Marston, Daniel page 22" />。リーグニッツの戦いではロシア軍が遅れて戦闘に参加できなかった。また1759年と1760年の2回、[[コルベルク包囲戦 (七年戦争)|コルベルクを包囲]]したがいずれも失敗し<ref>Burk (1995), p.49</ref>、この頑強な抵抗でフリードリヒ2世は軍を分割せずにオーストリア軍の対処に集中することができた。

=== 1761年と1762年 ===
[[ファイル:Fall of Kolberg in 1761.jpg|thumb|[[コルベルク包囲戦 (七年戦争)|コルベルク包囲戦]]]]
{{See also|{{仮リンク|スペインによるポルトガル侵攻 (1762年)|en|Spanish invasion of Portugal (1762)}}}}
1761年戦役がはじまった時点ではプロイセン軍は残り10万人しかなく、しかも多くが新しく徴募された兵士だったため、もはや絶体絶命であるように見えた<ref>Anderson, p. 491.</ref>。しかし、オーストリア軍とロシア軍の損耗も大きく、大規模な侵攻ができなかった。

2月、[[フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯子)|フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]は[[ランゲンザルツァの戦い (1761年)|ランゲンザルツァの戦い]]でフランス軍に奇襲して勝利すると、3月に[[カッセル包囲戦 (1761年)|カッセルを包囲]]した。しかし、フランス軍が再集結して[[グリューンベルクの戦い]]でハノーファー軍数千を捕虜にすると、フェルディナントは包囲を解かざるをえなかった。また、[[フィリングハウゼンの戦い]]ではフェルディナント軍がフランス軍9万2千を撃破した。

[[ファイル:7yearswar.PNG|235px|thumb|left|七年戦争中、[[ポーランド=リトアニア共和国]]におけるロシア軍の行軍。]]
東部戦線は緩慢にしか進まなかった。ロシア軍はポーランドにある弾薬庫に大きく依存し、プロイセン軍は数度それを襲撃した。そのうち、9月にプラーテン将軍がおこした襲撃ではロシア軍が2千を失い(ほとんどが捕虜)、ワゴン5千が破壊された<ref name="ReferenceA">''Frederick the Great and the Seven Years' War, 1756–1763'', Herbert Redman</ref>。すでに人員不足が深刻になっているプロイセン軍は奇襲攻撃で敵の進軍を遅滞させるしかなかったのであった。この努力にもかかわらず、プロイセン軍は1761年年末には2つの敗北を味わった。{{仮リンク|ザハール・チェルヌイシェフ|en|Zakhar Chernyshyov}}と{{仮リンク|ピョートル・ルミャンツェフ|en|Pyotr Rumyantsev}}率いるロシア軍による[[コルベルク包囲戦 (七年戦争)|コルベルクの占領]]とオーストリア軍による{{仮リンク|シュフィドニツァ|en|Świdnica|label=シュヴァイトニッツ}}の占領であった。コルベルク陥落の結果、プロイセンは[[バルト海岸]]にある主要な港を全て失った<ref>Anderson, p. 492.</ref>。ロシア軍にとって兵站の問題は戦争を通して悩みの種であり、ロシア軍の追撃を阻んでいたが、コルベルクを占領したことで海路からの補給という新しい経路ができた<ref name="Stone, David page 75">Stone, David ''A Military History of Russia: From Ivan the Terrible to the War in Chechnya'', New York; Praeger, 2006, p. 75.</ref>。海路からの補給は陸路よりずっと早く、安全(バルト海を通って輸送することでプロイセン騎兵に妨害される可能性がない)であったため、両軍の戦闘力のバランスがロシア側に大きく傾いた<ref name="Stone, David page 75" />。そのため、イギリスではプロイセンの総崩れが予想された。

イギリスはプロイセンに和平交渉で妥協しなければ援助金を打ち切ると脅かした。プロイセン軍が残り6万人まで目減りし、さらにベルリン自体が包囲される可能性も高まったため、プロイセンの存亡が脅かされていた。そして、1762年1月5日、ロシアの[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]女帝がなくなった。彼女の後を継いだ[[ピョートル3世]]はプロイセンびいきだったため、すぐさまにロシアの東プロイセンとポンメルン占領をやめ([[サンクトペテルブルク条約 (1762年)|サンクトペテルブルク条約]]を参照)、スウェーデンとの和平を仲介した。さらにロシア軍の一軍をフリードリヒ2世に送り、その指揮下においた。この出来事は[[ブランデンブルクの奇跡]]として知られた。ロシアの援軍を得たフリードリヒ2世は総勢12万の軍勢をオーストリア軍との戦闘に集中させ<ref name="ReferenceA" />、ザクセンの大半から追い出した。またフリードリヒ2世の弟[[ハインリヒ・フォン・プロイセン (1726-1802)|ハインリヒ王子]]が10月29日のシュレージエンにおける[[フライベルクの戦い]]でオーストリア軍に勝利、さらに[[フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯子)|フェルディナント]]率いるブラウンシュヴァイクの同盟軍は要地の[[ゲッティンゲン]]を占領、また[[カッセル包囲戦 (1762年)|カッセルを包囲]]して落とした。

1762年には2つの国が参戦した。1762年1月4日にイギリスが[[スペイン]]に宣戦布告し、スペインも18日にイギリスに宣戦布告した<ref name="Fish2003p2">{{Harvnb|Fish|2003|p=2}}.</ref>。続いてポルトガルがイギリス側で参戦した。スペインはフランスの援助を得て{{仮リンク|スペインによるポルトガル侵攻 (1762年)|en|Spanish invasion of Portugal (1762)|label=ポルトガルに侵攻}}し、[[アルメイダ包囲戦 (1762年)|アルメイダを落とした]]。イギリスの増援の到着がスペインの進軍を鈍らせ、[[バレンシア・デ・アルカンタラの戦い]]ではイギリス・ポルトガル連合軍がスペインの補給拠点を占領した。スペインの進軍はイギリス・ポルトガル連合軍の守る[[アブランテス]](「リスボンへの道」と呼ばれた)で止められた。やがて[[ゲリラ]]戦と[[焦土作戦]]を行ったイギリス・ポルトガル連合軍<ref>[https://books.google.com/books?id=Ve8rAQAAMAAJ&pg=PA19 ''An Account of Portugal, as it Appeared in 1766 to Dumouriez''], Lausanne, 1775, pp. [https://books.google.com/books?id=Ve8rAQAAMAAJ&pg=PA247 247] and [https://books.google.com/books?id=Ve8rAQAAMAAJ&pg=PA254 254]; See also García Arenas (2004), pp. 41, 73 and 74.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=DRMJAAAAIAAJ&pg=RA1-PA50 ''The Royal Military Chronicle''], vol V, London, 1812, pp. [https://books.google.com/books?id=DRMJAAAAIAAJ&pg=RA1-PA50 50]-51; See also Dull, Jonathan (2009) [https://books.google.com/books?id=4ns-VTh45SMC&pg=PA88 ''The Age of the Ship of the Line: the British and French navies, 1650–1851'']. University of Nebraska Press, [https://books.google.com/books?id=Cs-XAwAAQBAJ&pg=PA88 p. 88].</ref><ref>Terrage, Marc de Villiers du (1904). ''[https://books.google.com/books?id=L_1YAAAAMAAJ&q=%22d%C3%A9faites+en+Allemagne+et+en+Portugal%22&dq=%22d%C3%A9faites+en+Allemagne+et+en+Portugal%22 Les dernières années de la Louisiane française]'' {{fr icon}}, E. Guilmoto, [https://books.google.com/books?id=yLYTAAAAYAAJ&q=%22d%C3%A9faites+en+Allemagne+et+en+Portugal%22&dq=%22d%C3%A9faites+en+Allemagne+et+en+Portugal%22 p. 151].</ref>が大きく消耗していたフランス・スペイン連合軍をスペインまで押し返し<ref>C. R. Boxer, ''[https://books.google.com/books?id=sy1nAAAAMAAJ&q=1762+Spanish+invasion+repelled&dq=1762+Spanish+invasion+repelled Descriptive List of the State Papers Portugal, 1661–1780, in the Public Record Office, London: 1724–1765]'', Vol II, Lisbon, Academia das Ciências de Lisboa, with the collaboration of the British Academy and the P.R.O., 1979, p. 415. また、歴史家のFernando Dores Costaによると、フランス・スペイン連合軍は飢餓と逃亡で3万人を失ったという。''Milícia e sociedade. Recrutamento'' in [https://books.google.com/books?id=WHXJmgEACAAJ&dq=%27%27Nova+Hist%C3%B3ria+Militar+de+Portugal,+vol+2%27%27 ''Nova História Militar de Portugal''] {{pt icon}}, vol. II, Círculo de Leitores, Lisboa, 2004, p. 341</ref><ref>Sales, Ernesto Augusto-[https://books.google.com/books?id=EWTiAAAAMAAJ&dq=%22a+na%C3%A7%C3%A3o+poderia%2C+adextrando-se+nas%22&q=desertores#search_anchor ''O Conde de Lippe em Portugal''], Vol 2, Publicações de Comissão de História Militar, Minerva, 1936, [https://books.google.com/books?id=EWTiAAAAMAAJ&q=%22o+ex%C3%A9rcito+de+Espanha+;+%C3%AAles+falam+em+7+mil+desertores,%22&dq=%22o+ex%C3%A9rcito+de+Espanha+;+%C3%AAles+falam+em+7+mil+desertores,%22 p. 29]</ref><ref>''Reflexiones Histórico-Militares que manifiestan los Motivos Porque se Mantiene Portugal Reino Independiente de España y Generalmente Desgraciadas Nuestras Empresas y que Lo Serán Mientras No se Tomen Otras Disposiciones'' {{es icon}}, Borzas, 28 November 1772; cited by Jorge Cejudo López in [https://books.google.com/books?id=XrEZAAAAMAAJ&pg=PA192 ''Catálogo del archivo del conde de Campomanes''], Fundación Universitaria Española, 1975, legajo (file) n. [http://terronponce.org/CT_CAP_12.pdf 30]/12.</ref>、占領された町をほぼ全て奪い返した。この奪還された町のなかには数多くの戦傷者と病人が置き去りにされていた[[カステロ・ブランコ]]にあるスペイン[[司令部]]も含まれていた<ref>[https://books.google.com/books?id=DRMJAAAAIAAJ&pg=RA1-PA52 The Royal Military Chronicle], vol V, London, 1812, pp. [https://books.google.de/books?id=DRMJAAAAIAAJ&pg=RA1-PA52 52], 53.</ref>。

一方、フランスの港が長らくイギリスに海上封鎖されたため、フランスの士気は低下していた。{{仮リンク|ニューファンドランド植民地|en|Newfoundland Colony}}の[[シグナルヒルの戦い]]においてフランス軍が敗北した報せが伝わると、フランスの士気がさらに低下した<ref>Anderson, p. 498.</ref>。

=== 1763年 ===
[[ファイル:Hubertusburg Allegorie.jpg|thumb|[[フベルトゥスブルク条約]]]]
{{Further2|[[フベルトゥスブルク条約]]|[[パリ条約 (1763年)]]}}
戦争の終幕が近づいてきた1763年には、中央ヨーロッパにおけるプロイセンとオーストリアの戦闘は完全に膠着した。プロイセンはオーストリアからシュレージエンを取り戻し、1762年にプロイセン軍が[[ブルケルスドルフの戦い]]で勝利した以降はザクセンも首都ドレスデンを除いてプロイセンが確保した。プロイセンの財政状態はまあまあだったが、その領土は荒廃し、軍も弱体化していた。兵士の人数が減り、有能な士官や将軍を失った状態ではドレスデンに対する攻勢が不可能であった<ref name="Frederick II, Jean-Paul Bled" />。新しくイギリス首相に就任した[[ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)|ビュート伯]]はプロイセンへの援助金を打ち切り、ロシア皇帝ピョートル3世は妻の[[エカチェリーナ2世]]に廃位され、彼女はプロイセンとの同盟を終わらせて戦争から手を引いた。オーストリアは財政難で軍縮せざるをえなく、攻勢に出る力を失った<ref name="Frederick II, Jean-Paul Bled" />。実際、7年もの間の戦争でオーストリアの行政は混乱した<ref>''The emergence of the Eastern powers'', Hamish Scott</ref>。1763年時点ではオーストリアはまだドレスデン、ザクセン南東部、そしてシュレージエン南部のグラーツ伯領を維持していたが、ロシアの支援なくしては勝利の望みが薄く、マリア・テレジアはシュレージエン奪回をほとんど諦めた。1763年、[[フベルトゥスブルク条約]]で和平が成立し、グラーツがプロイセンに返還される代わりにプロイセンはザクセンから撤退、中央ヨーロッパにおける戦争を終わらせた。

=== イギリスのフランス海岸急襲 ===
{{further information|ロシュフォール襲撃|サン・マロ襲撃}}
イギリスは[[ロシュフォール (シャラント=マリティーム県)|ロシュフォール]]への急襲([[水陸両用作戦]]とも)を計画、実行した。急襲の目的はロシュフォールへ侵掠および[[シャラント川]]で商船を燃やすことにあった。{{仮リンク|ジョン・モードント (軍人)|en|John Mordaunt (British Army officer)|label=ジョン・モードント}}が陸軍を、[[エドワード・ホーク]]が海軍を指揮した。1757年9月8日に出港したイギリスの遠征軍は{{仮リンク|エクス島|en|Île d'Aix}}を占領したが、躊躇しているうちに時間だけが過ごし、ロシュフォール攻撃のチャンスを失った<ref name="Combined1">Julian Corbett, ''England in the Seven Years' War: A Study in Combined Strategy'', 2 Vols., (London, 1918).</ref>。遠征軍はエクス島を放棄、10月1日にイギリスへ戻った。

[[ファイル:William Pitt, 1st Earl of Chatham by William Hoare.jpg|thumb|大ピットの指導下、イギリスは七年戦争を遂行して、ヨーロッパ一の植民地大国の地位を確定させた。]]
ロシュフォール襲撃は戦術的には失敗、戦略的には成功とも失敗ともとれるが、大ピットはこのような(現代の用語で言うと)[[非対称戦争]]と言える戦術に目的を見出し、襲撃を継続させた<ref name="Combined1" />。次なる遠征軍では[[チャールズ・スペンサー (第3代マールバラ公)|第3代マールバラ公爵]]と[[ジョージ・ジャーメイン|サックビル卿]]が陸軍を、[[リチャード・ハウ]]が海軍と兵員輸送船を指揮した。遠征軍は1758年6月5日に[[カンカル]]湾に上陸、[[サン・マロ]]に向かったが、占領に長期間の包囲が必要なことを知ると、代わりに近くの{{仮リンク|サン・セルヴァン|en|Saint-Servan}}港を攻撃した。イギリス軍はそこで船を燃やし、私掠船と商船約80隻、および建造中の戦艦4隻が被害にあった<ref>N. A. M. Rodger, ''The Command of the Ocean: A Naval History of Britain'', 1649–1815, (London, 2004)</ref>。フランスの救援軍が近づいてくると、遠征軍は引き上げた。[[ル・アーヴル|ル・アーヴル・ド・グラース]]への襲撃も計画されたが取り消され、艦隊は続いて[[シェルブール=オクトヴィル|シェルブール]]に向かったものの、悪天候と補給の不足でシェルブールへの襲撃も諦め、遠征軍はフランス私掠船への攻撃およびフランス海岸における示威が成功したとして、イギリスへ戻った。

大ピットは今度はドイツへの派兵に乗り気になっていた。マールバラ公とサックビルは襲撃を無駄と考えたためドイツ派遣軍に役職を得て、さらなる襲撃には参加しなかった。代わりにすでに70代と高齢であった{{仮リンク|トマス・ブライ|en|Thomas Bligh}}が指揮官に任命され、[[リチャード・ハウ]]が補助を務めた。今回の襲撃は[[シェルブール襲撃]]で幸先のいいスタートを切った。艦隊の援護射撃の下、遠征軍は上陸を阻止しようとしたふらんすぐんを追い払ってシェルブールを占領、その要塞、ドックと船舶を破壊した。

遠征軍は撤収すると9月3日に[[ブルターニュ]]地方の{{仮リンク|サン=リュネール|en|Saint-Lunaire}}に上陸、[[サン・マロ]]へ進軍した。しかし、この行動は無謀であった。まず、悪天候で陸軍と艦隊は別行動せざるをえなくなり、艦隊はより安全な{{仮リンク|サン=カス=ル=ギルド|en|Saint-Cast-le-Guildo|label=サン=カス}}に向かい、一方陸軍は歩いて行軍した。ブライの指揮する行動がもたもたしているうちにフランス軍1万が[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]から追いつき、慌てて撤収しようとしたイギリス陸軍に砲撃した。この[[サン=カスの戦い]]において、デューリー率いるイギリス軍の後衛1,400人がフランス軍を足止めして、残りの軍勢の撤収を成功させたが、その犠牲は大きかった。デューリー自身を含む750人が犠牲になり、残りは捕虜にされた。

== 植民地の戦闘 ==
植民地における戦闘は主にフランス・イギリス間でインド、北アメリカ、ヨーロッパ、[[カリブ海]]の島嶼、[[フィリピン]]、アフリカ海岸で行われた。戦争が進行するにつれ、イギリスは広大な領土を占領、フランスの勢力を徐々に蚕食していった。

イギリスは1756年に[[地中海]]の[[メノルカ島|ミノルカ島]]を失ったが1758年にフランスの[[セネガル]]植民地を占領した。[[イギリス海軍]]は砂糖を産出するフランスの植民地であった[[グアドループ島侵攻 (1759年)|グアドループ]]を1759年に、[[マルティニーク島侵攻 (1762年)|マルティニーク島]]を1762年に占領、さらにスペインの植民地であったキューバの[[ハバナの戦い (1762年)|ハバナ]]とフィリピンの[[マニラの戦い (1762年)|マニラ]]を占領した。しかし、植民地の主都であった両市の占領には成功したが、内陸への進撃では激しい抵抗に遭い、フィリピンでは戦争の終わりにスペインに返還するまで{{仮リンク|イギリスによるマニラ侵攻|en|British invasion of Manila|label=マニラ周辺しか占領できなかった}}。

=== 北アメリカ ===
{{Main article|フレンチ・インディアン戦争}}
[[ファイル:Carte Guerre de 7 ans Amérique du nord.PNG|thumb|right|305px|開戦前の状況。<br />
{{legend|#F4A8C8|イギリスの領土、要塞と集落 |textcolor=#FF002F |text=■ ◘ }}<br />
{{legend|#A8C4F4|フランスの領土、要塞と集落 |textcolor=#425BFC |text=■ ◘ }}
]]
{{仮リンク|カナダの7か国|en|Seven Nations of Canada}}は戦争中、フランスと同盟していた。これら7か国は{{仮リンク|ローレンシャン渓谷|en|Laurentian Valley}}に住む{{仮リンク|アルゴンキン族|en|Algonquin people}}、{{仮リンク|アベナキ族|en|Abenaki}}、[[ワイアンドット族|ヒューロン族]]などの先住民であった。アルゴンキン族と7か国はオハイオ川の渓谷の運命に関心がなかったが、[[イロコイ連邦]]の被害を受けていた。イロコイ連邦はアルゴンキンの領土に居着き、アルゴンキン族を[[ミシガン湖]]の西に追いやっていた<ref>Anderson, p. 14.</ref>。そのため、アルゴンキン族と7か国はイロコイ連邦と戦いたがった。ニューイングランド、ニューヨークと北西部の先住民は各々参戦国と同盟した。[[アップステート・ニューヨーク]]で主導権を握っていたイロコイ連邦はイギリスに味方したが戦争には大して関わらなかった。

1756年から1757年、フランスはイギリスの[[オスウィーゴ砦の戦い (1756年)|オスウィーゴ砦]]<ref>Anderson, pp. 150–157.</ref>と[[ウィリアム・ヘンリー砦の戦い|ウィリアム・ヘンリー砦]]<ref>Anderson, pp. 185–201.</ref>を占領した。特にウィリアム・ヘンリー砦ではフランスに味方した先住民が降伏の条件を破り、フランス軍の警護下撤退していたイギリス軍を襲撃、兵士を虐殺したり、イギリス人を捕虜にしたりした。その間、フランス軍はイギリス人捕虜の保護を拒否した<ref name="Dodge91_2">Dodge, pp. 91–92.</ref>。また、1757年にはフランス海軍が増援を派遣して[[ケープ・ブレトン島]]の[[ルイブール要塞]]の{{仮リンク|ルイブール遠征 (1757年)|en|Louisbourg Expedition (1757)|label=守備}}に成功し、ケベックへの海路を確保した<ref>Anderson, pp. 208–209.</ref>。

イギリス南部担当大臣の大ピットが1758年に植民地での戦闘に力を入り、[[カルタヘナの海戦 (1758年)|カルタヘナの海戦]]でフランスの増援を阻止したことで[[ルイブールの戦い (1758年)|ルイブール占領]]に成功し、また[[デュケーヌ砦の戦い|デュケーヌ砦]]と<ref>Anderson, p. 280–283.</ref>と[[フロンテナック砦の戦い|フロンテナック砦]]<ref>Anderson, pp. 258–266.</ref>も占領した。イギリスはアカディア人追放を継続、[[サンジャン島方面作戦]]、[[セントジョン川方面作戦]]、[[プティクーディアク川方面作戦]]など大規模な作戦を次々と遂行した。しかし、[[カリヨンの戦い]](またはタイコンデロガの戦い)ではフランス軍4千に対しイギリス軍1万6千が敗北するという屈辱的な結果となった。

1759年、イギリスのヌーベルフランスに対する作戦は全て成功し、後に[[奇跡の年 (1759年)|奇跡の年]]の一部となった。まず{{仮リンク|ナイアガラ砦の戦い|en|Battle of Fort Niagara|label=ナイアガラ砦}}<ref>Anderson, pp. 330–339.</ref>と[[タイコンデロガの戦い (1759年)|カリヨン砦]]<ref>Anderson, pp. 240–249.</ref>が6月と7月に相次いでイギリスに降伏し、植民地の境界が西へ移動された。[[ケベック・シティー|ケベック]]を3か月間包囲した後<ref>Anderson, pp. 344–368.</ref>、[[ジェームズ・ウルフ]]将軍は城外の[[エイブラハム平原の戦い]]でフランス軍を破った<ref>Anderson, pp. 355–360.</ref>。フランスは1760年春に反撃し、はじめは[[サントフォワの戦い]]で勝利したが<ref>Anderson, pp. 392–393.</ref>、{{仮リンク|ヌヴィユの海戦|en|Battle of Neuville}}で敗北してイギリスに制海権を握られたためケベックを再占領できず、[[モントリオール]]に撤退した。そして9月8日、数で大幅に上回られたフランス軍はモントリオールで降伏した。

[[ファイル:The Death of General Wolfe B.West,1770.jpg|thumb|ケベック近くのエイブラハム平原における''{{仮リンク|ウルフ将軍の死|en|The Death of General Wolfe}}''、1771年作。]]
フランスとインディアンが敗北したことでカナダの7か国は戦争から手を引き、[[カナワク条約]]でイギリスと講和した。条約では7か国側がモントリオール・[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]間の貿易を頻繁に行ったため、カナダ・ニューヨーク間の無制限通行を許された<ref>[http://www3.sympatico.ca/donald.macleod2/border.html D. Peter MacLeod, "'Free and Open Roads': The Treaty of Kahnawake and the Control of Movement over the New York-Canadian Border during the Military Regime, 1760–1761," read at the Ottawa Legal History Group, 3 December 1992 (1992, 2001)]. Retrieved 31 January 2011.</ref>。

1762年、戦争の終わりが近づいたためフランス軍はニューファンドランドの[[セントジョンズ (ニューファンドランド・ラブラドール州)|セントジョンズ]]を攻撃した。成功した場合、交渉におけるフランスの発言権が増すことになる。フランス軍はセントジョンズを占領、近くの集落に襲撃したが、やがて[[シグナルヒルの戦い]]でイギリス軍に敗北、{{仮リンク|ウィリアム・アマースト (軍人)|en|William Amherst (British Army officer)|label=ウィリアム・アマースト}}中佐に降伏することを余儀なくされた。イギリスは勝利したことで北米東部全体を支配下に置いた。

[[ファイル:LindsayCambridge.jpg|thumb|[[ハバナ]]の{{仮リンク|モロ城|en|Morro Castle (fortress)}}への砲撃、1762年]]
北アメリカにおける七年戦争の歴史、特にアカディア人追放、ケベック包囲戦、ウルフ将軍の死、ウィリアム・ヘンリー砦の戦いは数多くの芸術を生み出した(例えば、[[ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー]]の{{仮リンク|エヴァンジェリン (詩)|en|Evangeline|label=エヴァンジェリン}}、[[ベンジャミン・ウエスト]]の{{仮リンク|ウルフ将軍の死|en|The Death of General Wolfe}}、[[ジェイムズ・フェニモア・クーパー]]の[[モヒカン族の最後]]などがある)。ほかにも多くの地図や出版物があり、1759年のウルフ将軍の死の後でもこの戦争がイギリスと北米の大衆の心に長らく残ったことを証明した<ref>[http://www.collectionscanada.ca/virtual-vault/026018-119.01-e.php?q1=People&PHPSESSID=709io6475tfesngi2m7226o454 Virtual Vault: "Canadiana"], Library and Archives Canada</ref>。

=== 南アメリカ ===
{{See also|{{仮リンク|スペイン・ポルトガル戦争 (1762年-1763年)|en|Fantastic War}}|第一次セバーヨス遠征}}
1763年、ポルトガルはスペインから南アメリカの[[ネグロ川]]流域のほとんどを奪取した<ref>Ojer, Pablo- [https://www.google.com/search?q=%22de+los+cuales+fueron+desalojados+por+los+portugueses%22&btnG=Pesquisar+livros&tbm=bks&tbo=1&hl=pt-PT&gws_rd=ssl '' La Década Fundamental en la Controversia de Límites entre Venezuela y Colombia, 1881–1891''] {{es icon}}, Academia Nacional de la Historia, 1988, [https://books.google.com/books?id=l4dsAAAAMAAJ&q=%22de+los+cuales+fueron+desalojados+por+los+portugueses%22&dq=%22de+los+cuales+fueron+desalojados+por+los+portugueses%22 p. 292].</ref><ref>United States Army Corps of Engineers- [https://www.google.com/search?q=%22S%C3%A3o+Gabriel+was+founded+during+the+Portuguese+conquest+in+1763%2C%22&btnG=Pesquisar+livros&tbm=bks&tbo=1 ''Report on Orinoco-Casiquiare-Negro Waterway. Venezuela-Colombia-Brazil, July 1943''], Vol. I, 1943, p. 15.</ref>、スペインの[[マットグロッソ州|マットグロッソ]]への攻撃を[[グアポレ川]]で撃退した<ref>Southern, Robert – [https://books.google.com/books/about/History_of_Brazil.html?id=VIQiAQAAMAAJ&redir_esc=y '' History of Brazil''], part third, London, 1819, [https://books.google.com/books?id=dF9KAAAAcAAJ&pg=PA584 p. 584].</ref><ref>Block, David – [https://www.google.com/search?q=%22In+1763+Moura+retired+from+Mato+Grosso+the+victor.+He+had+advanced+to+the+Guapore%2C%22&btnG=Pesquisar+livros&tbm=bks&tbo=1&hl=pt-PT&gws_rd=ssl '' Mission Culture on the Upper Amazon: native Tradition, Jesuit enterprise and Secular Policy in Moxos, 1660–1880''], University of Nebraska Press, 1994, [https://books.google.com/books?id=GGsaAAAAYAAJ&q=%22Mato+Grosso+the+victor.%22&dq=%22Mato+Grosso+the+victor.%22 p. 51].</ref>。

1762年9月から1763年4月まで、ブエノスアイレス総督[[ペドロ・アントニオ・デ・セバーヨス]](後に[[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]により初代[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領|リオ・デ・ラ・プラタ副王]]に任命)はウルグアイとブラジル南部への遠征を行い、ポルトガル領の[[コロニア・デル・サクラメント|コロニア・ド・サクラメント]]と[[リオグランデ・ド・スル州|リオグランデ・ド・スル]]を征服、ポルトガル軍は降伏して撤退した。

1763年のパリ条約ではスペインが占領したサクラメント植民地を返還することが定められたが、「サン・ペドロの州」と呼ばれる領土(現ブラジル領リオグランデ・ド・スル州)は1763年から1777年までの宣戦布告なき{{仮リンク|スペイン・ポルトガル戦争 (1776年-1777年)|en|Spanish–Portuguese War (1776–77)|label=スペイン・ポルトガル戦争}}でポルトガルに奪還された<ref>Marley, David- [https://books.google.com/books?id=DkgGVTOr2EsC&pg=PA449 ''Wars of the Americas: a chronology of armed conflict in the New World, 1492 to the present''], vol. II, ABC-CLIO, USA, 2008, [https://books.google.com/books?id=DkgGVTOr2EsC&pg=PA449 p. 449] and [https://books.google.pt/books?id=DkgGVTOr2EsC&pg=PA449 p. 450]</ref><ref name="Bento">Bento, Cláudio Moreira- [http://www.ahimtb.org.br/confliext5.htm ''Brasil, conflitos externos 1500–1945''] (electronic version), Academia de História Militar Terrestre do Brasil, chapter 5: As guerras no Sul 1763–77.</ref><ref name="Lesser">Ricardo Lesser- [https://books.google.com/books?id=N74Oo3JJhFwC&pg=PA68 ''Las Orígenes de la Argentina''], Editorial Biblos, 2003, see chapter [https://books.google.com/books?id=N74Oo3JJhFwC&pg=PA63 ''El desastre”], see [https://books.google.com/books?id=N74Oo3JJhFwC&pg=PA67 pp. 63–72].</ref><ref name="Bento, Cláudio">Bento, Cláudio Moreira- ''Rafael Pinto Bandeira'' in [http://www.acadhistoria.com.br/otuiuti/O%20TUIUTI%2095.pdf ''O Tuiuti''], nr. 95, Academia de Historia Militar Terrestre do Brasil, 2013, pp. 3–18.</ref>。

戦争の結果、スペインは1764年以降に{{仮リンク|南部地域 (チリ)|en|Zona Sur|label=チリ南部}}の{{仮リンク|バルディビア要塞群|en|Valdivian Fort System}}を更新、強化した。そのほか、守備が脆弱な{{仮リンク|チロエ群島|en|Chiloé Archipelago}}、[[コンセプシオン (チリ)|コンセプシオン]]、[[ファン・フェルナンデス諸島]]、[[バルパライソ]]はイギリスによる攻撃を見越して強化された<ref name="MEMCh">{{Citation| url = http://www.memoriachilena.cl/602/w3-article-3522.html| title = Ingeniería Militar durante la Colonia| work = Memoria chilena| publisher =| language =Spanish| accessdate =30 December 2015}}</ref><ref name="MEMCh2">{{Citation| url = http://www.memoriachilena.cl/602/w3-printer-94644.html| title = Lugares estratégicos| work = Memoria chilena| publisher =| language =Spanish| accessdate =30 December 2015}}</ref>。

=== インド ===
{{Main article|第三次カーナティック戦争}}
インドにおいて、七年戦争の勃発はフランスとイギリスの[[東インド会社]]の間の長期間にわたる抗争を再開させた。戦火はインド南部から[[ベンガル]]まで蔓延し、[[ロバート・クライヴ]]率いるイギリス軍は[[コルカタ|カルカッタ]]をフランスと同盟した[[ベンガル太守]][[シラージュ・ウッダウラ]]から奪い、さらに1757年の[[プラッシーの戦い]]で彼を廃位した。同年、イギリスはベンガルにあるフランスの植民地[[シャンデルナゴル]]を占領した<ref>Peter Harrington, ''Plassey, 1757: Clive of India's Finest Hour'' (Praeger, 1994).</ref>。

南インドにおいて、フランスは[[カダルール|カッダロール]]を占領したものの、[[マドラス包囲戦]]は失敗し、さらにイギリス軍の指揮官{{仮リンク|エア・クート|en|Eyre Coote (East India Company officer)}}が1760年の[[ヴァンディヴァッシュの戦い]]で{{仮リンク|トマス・アーサー|en|Thomas Arthur, comte de Lally|label=ラリー伯爵}}に対し決定的に勝利して[[北サルカール]]を侵略した。1761年、フランスの本拠地[[ポンディシェリ|ポンディシェリー]]がイギリスに降伏し、[[カーライッカール|カリカル]]や[[マーヒ|マヘ]]といった小規模なフランス植民地も降伏したことでフランスのインドにおける勢力は消滅した<ref>{{cite book|last=Sen|first=S.N.|title=History Modern India|year=2006|publisher=New Age International|location=Delhi, India|isbn=8122417744|page=34|url=https://books.google.com/books?id=ga-pmgxsWwoC&pg=PA35 |edition=Third}}</ref>。

=== 西アフリカ ===
1758年、[[13植民地|アメリカ]]の商人{{仮リンク|トマス・カミング|en|Thomas Cumming}}が強く推進したことで大ピットは[[サン=ルイ (セネガル)|サン=ルイ]]のフランス植民地に遠征軍を派遣した。イギリスは5月に[[セネガル占領|セネガルを占領]]を容易く占領し、大量な戦利品を載せて帰還した。遠征が成功したこと大ピットはさらに[[ゴレ島占領|ゴレ島遠征]]と[[ガンビア遠征]]を計画、成功させた。貴重な植民地が失われたことでフランスの経済は大打撃を受けた<ref>James L.A. Webb Jr, "The mid-eighteenth century gum Arabic trade and the British conquest of Saint-Louis du Senegal, 1758." ''Journal of Imperial and Commonwealth History'' 25#1 (1997): 37-58.</ref>。

== 結果と影響 ==
{{Wikisourcelang|en|Treaty of Paris (1763)}}
イギリスとフランスの間の戦闘は1763年の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]で終結した。条約は複雑な領土交換を定め、そのうち一番影響が大きいのはフランスが[[フランス領ルイジアナ|ルイジアナ]]をスペインに、それ以外のヌーベルフランスの領土を[[サンピエール島・ミクロン島|サンピエール島およびミクロン島]]を除いて全てイギリスに割譲したことであった。フランスには[[ヌーベルフランス]]かカリブ海の[[グアドループ]]と[[マルティニーク]]を手中に残す選択肢が与えられたが、最終的には砂糖を産出する後者を選び<ref>[http://www.thecanadianencyclopedia.com/index.cfm?PgNm=TCE&Params=A1ARTA0007300 The Canadian Encyclopedia], retrieved 17 June 2006.</ref>、ヌーベルフランスを非生産的で維持コストの高い植民地として切り捨てた<ref group="注">例えば、[https://www.augustana.ca/files/group/797/New%20France%20-%20Economics,%20etc..pdf Canada to Confederation p. 8: Barriers to Immigration]では本国においてヌーベルフランスの印象が「北極の不毛の地で野獣と野蛮なインディアンしかいない」というものだとした。</ref>。フランスはまた、ミノルカ島をイギリスに返還した。スペインは[[スペイン領フロリダ|フロリダ]]をイギリスに奪われたが、フランスから{{仮リンク|イル・ドルレアン (ルイジアナ)|en|Île d'Orléans, Louisiana|label=イル・ドルレアン}}(現[[ニューオーリンズ]])と[[ミシシッピ川]]より西側にあるフランス領全てを得た。イギリスはすでにいくつかのカリブ海の島を領有しており、砂糖に事欠かなかったためヌーベルフランスとの交換に応じた。しかも、ヌーベルフランスとフロリダを併合したことでイギリスはミシシッピ川より東側の北アメリカを全て支配下に置いたため、この領土交換はイギリスを利するものであった。

[[ファイル:Vorderlader.jpg|thumb|210px|1760年7月31日の[[ヴァールブルクの戦い]]の再現、2009年撮影。]]
インドにおいてはイギリスが[[北サルカール]]を保持したが、フランスの交易地は全て返還した。しかし、条約ではフランス交易地の要塞を全て破壊することと、その再建の禁止が定められており、駐留軍も最低限しか認めず、軍事基地としては無価値となった。さらにフランスに同盟した[[ベンガル太守]]が廃位され、[[ニザーム王国]]もイギリスに寝返ったため、フランスはインドにおける勢力をほとんど失い、イギリスがインドにおける主導権を握り、やがて[[インド亜大陸]]全体を支配下に置く結果となった<ref>Szabo, ''The Seven Years' War in Europe 1756–1763'' (2007).</ref>。フランス海軍も戦争で大損害を被り、スペインとともに大規模な再建を経て次の戦争でようやくイギリスの制海権に挑戦することができた<ref>{{cite book |last= Kennedy |first= Paul |editor= |others= |title= The Rise and Fall of British Naval Mastery |year= 1976 |month= |url= |type= book |edition= new introduction|publisher=Penguin Books |location= London |isbn= 0-684-14609-6 }}</ref>。

ビュート伯が主導した和約は大ピットのそれよりはるかに寛大であったが、これはフランスから領土を毟りすぎると、イギリスが全ヨーロッパからの嫉妬と敵意を一身に受けることになり、そうならずに和平が続くためには譲歩が必要、というビュート伯の考えであった。しかし、ショワズールはハナから長続きする和平をするつもりがなく、アメリカ独立戦争中にフランスがイギリスに宣戦布告したときにはイギリスはやはり同盟国がなかった<ref name="Eric Robson 1957">Eric Robson, "The Seven Years' War," in J O Lindsay, ed., ''The New Cambridge Modern History'' (1957) 7:465-86.</ref>。フランスでは敗北が軍制改革のはずみとなり、砲兵に重点を置いた改革が行われた<ref name="Marston, Daniel page 90">Marston, Daniel ''The Seven Years' War'', London; Osprey, 2001 page 90.</ref>。後の[[フランス革命戦争]]や[[ナポレオン戦争]]で称えられた砲兵システムの[[グリボーバル・システム]]はこの1763年の改革を起源とするものである<ref name="Marston, Daniel page 90" />。

オーストリア・プロイセン・ザクセン間の和約は1762年12月31日に[[ドレスデン]]と[[ライプツィヒ]]の間にある狩り小屋で交渉がはじまり、1763年2月15日に正式に締結された。フリードリヒ2世はピョートル3世がザクセンの確保を手助けした場合、東プロイセンを割譲するつもりだったが、それがなかったためロシアを和約から除外することを強く要求した(実際、ロシアはすでに交戦国ではなくなった)。また同時にザクセン選帝侯[[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]が賠償金を放棄するまでプロイセン軍をザクセンから撤退することを拒否した。オーストリアは1760年に占領したグラーツ(現ポーランド領{{仮リンク|クウォツコ|en|Kłodzko}})だけでも維持したかったが、フリードリヒ2世はこれも拒否した。結局、条約は1748年の原状を回復することだけ定め、シュレージエンとグラーツはフリードリヒ2世へ、ザクセンはフリードリヒ・アウグスト2世へ返還された。プロイセンがした譲歩は皇帝選挙のとき[[ヨーゼフ2世|ヨーゼフ大公]]に投票することだけだった。

オーストリアはシュレージエンの奪回もほかの領土を得ることも失敗したが、プロイセンのザクセン侵略は防げた。さらに、オーストリア軍の戦闘における実績が[[オーストリア継承戦争]]のときよりはるかに上回るものとなり、マリア・テレジアの行政と軍制改革の成功を証明した。そのため、オーストリアはその威信、ひいては帝国のヨーロッパにおける発言権を取り戻した<ref>Maria Teresa of Austria; Jean-Paul Bled</ref>。また、フリードリヒ2世がヨーゼフ2世への投票を約束したことはハプスブルク家の神聖ローマ帝国における優越を認める結果となった。しかし、プロイセンがヨーロッパにおける一線級の国として生き残り、フリードリヒ2世とプロイセン軍の威信が大いに高められたことは長期的にはオーストリアのドイツにおける影響力を低下させた。

それだけではなく、オーストリアは今や帝国内における最新情勢から置いてけぼりにされた。ロシアの勢力の拡大のほか、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はポーランド王でもあったため非効率ながらもザクセンとポーランドの両方から軍を編成することができた。またバイエルンも勢力が増長して独自の動きをし始め、オーストリアに影響されずに独自に軍勢の展開や撤収ができた。さらに、敵国と化したハノーファーが[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の下でイギリスと同君連合を組んだため大国になり、イギリスを将来の争いに巻き込んだ。戦争はまた、マリア・テレジアの改革がプロイセンと対抗するにはまだまだ力不足であったことを示し、しかもプロイセンと違い、オーストリアは戦争の終わりには財政破綻に違い状態にあった。そのため、マリア・テレジアはくる20年間に行政改革に専念した。

プロイセンは戦争の勝利で大国と化し、その地位に挑戦できる者はいなかった。フリードリヒ2世自身の威光も大きく増したが、これはイギリスの財政援助と彼自身の強運(ロシアが急に方針転換したこと)がすぐに忘れられ、彼の精力的な行動と軍事上の才覚のみが人々の記憶に残ったためであった<ref name="Marston, Daniel page 90" />。七年戦争はプロイセンが大国化した瞬間であったが、同時にプロイセンを弱体化させた<ref name="Marston, Daniel page 90" />。プロイセンの領土と住民は蹂躙されたが、フリードリヒ2世の徹底的な農地改革と移民の奨励で解決された。しかしながら、プロイセンにとっては不幸なことに、戦争で多くの兵士と有能な将官が失われ、フリードリヒ2世は戦後にプロイセン軍を戦前と同程度までに再建することはできなかった<ref name="Marston, Daniel page 90" />。1779年の[[バイエルン継承戦争]]ではフリードリヒ2世が親征したにもかかわらず、プロイセン軍の動きは精彩の欠けるものであった<ref name="Marston, Daniel page 90" />。1792年から1795年までの[[フランス革命戦争]]でもフランス軍に対し成果を挙げられず、1806年の[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]で全滅する結果となった<ref name="Marston, Daniel page 90" />。結局、プロイセン政府が改革に踏み切ったのは1806年以降、イエナでの災難から回復するためであり、それが19世紀末のプロイセンの華々しい勝利をもたらした<ref name="Marston, Daniel page 90" />。いずれにせよ、これらは全て後世の話であり、1763年の直後の時点では諸国が士官をプロイセンに送り、その軍事力の秘密を学ぼうとした<ref name="Marston, Daniel page 90" />。七年戦争の後、プロイセンはヨーロッパにおいて一番多く模倣された国であった<ref name="Marston, Daniel page 90" />。
ロシアは戦争からフランスのポーランドにおける影響力の排除という無形の利益を得た。このため、1772年の[[第1次ポーランド分割|第一次ポーランド分割]]はロシアとプロイセンが主導したものであり、オーストリアは嫌々ながらも参加、フランスは完全に無視された<ref name="Eric Robson 1957" />。戦争は引き分けに終わったものの、(ロシア軍がプロイセン領土でプロイセン軍に勝利できることが予想されなかったこともあって)ロシア帝国軍がプロイセン軍に対し健闘したことはロシアの評判を上げた<ref name="Marston, Daniel page 90" />。アメリカの歴史家デーヴィッド・ストーンはロシア軍がプロイセン軍に直接会戦を挑むことができ、血なまぐさい一斉射撃を何度受けても「たじろぐこともない」と評し、またロシアの将軍の才能が参差していたにもかかわらず、ロシア軍が決定的に敗北したことがないことを指摘した<ref name="ReferenceB">Stone, David ''A Military History of Russia: From Ivan the Terrible to the War in Chechnya'', New York; Praeger, 2006 page 70.</ref>。ロシア軍は戦場でプロイセン軍を数度撃破したが、兵站の整備に欠けたため戦果を確保することができなかった。そのため、プロイセンが生き延びた理由は戦上手というよりロシア軍の補給線が弱かったことが主であろう<ref>Stone, David, ''A Military History of Russia: From Ivan the Terrible to the War in Chechnya'', New York; Praeger, 2006, pp. 70-71.</ref>。いずれにせよ、ロシア軍が将官の才能の参差にかかわらず第一線のヨーロッパ軍をアウェイで勝利したことはロシアのヨーロッパにおける地位を向上させた<ref name="ReferenceB" />。長続きした影響の1つとしてはロシア軍に兵站という弱点を気づかせ、ロシア軍の需品係改革をもたらしたことがある<ref name="Marston, Daniel pages 90-91">Marston, Daniel ''The Seven Years' War'', London; Osprey, 2001 pages 90-91.</ref>。この改革で効果的な兵站システムが作り上げられ、ロシア軍は1787年から1792年までの[[露土戦争 (1787年-1791年)|露土戦争]]において[[バルカン半島]]に進軍することができ、フランス革命戦争の1798年から1799年までのイタリアとスイス戦役において[[アレクサンドル・スヴォーロフ]]の勝利に一役買い、さらに1813年から1814年の[[第六次対仏大同盟]]でドイツとフランスを進軍してパリに侵攻することができた、といった成果をもたらした<ref name="Marston, Daniel pages 90-91" />。

イギリス政府も財政難にあえぎ、しかも新しく支配下に置いたフランス系カナダ人とフランスに味方したインディアンの鎮圧という難しい仕事に直面していた。1763年、[[五大湖]]地方と北西部(現アメリカ[[アメリカ合衆国中西部|中西部]])においてインディアンが反乱を起こし、[[ポンティアック戦争]]が勃発した。[[オタワ族]]の[[オブワンディヤグ|ポンティアック酋長]]が反乱を率いたとされ(彼の役割はイギリスに過大評価されているとされた)、インディアンがフランス勢力の退潮に不満を感じたことが原因であった。インディアンはフランス人の毛皮商人と長らく交易していたが、フランスが敗戦してアメリカの植民地をイギリスに割譲したため変わってイギリス系アメリカ人の毛皮商人と交易した。しかし、インディアンたちはイギリス系の商人に毛皮を売るときに騙されたと激怒した<ref name="Marston, Daniel pages 84-85">Marston, Daniel ''The French and Indian War'', London; Osprey, 2002 pages 84-85.</ref>。さらに、インディアンたちは貿易だけが目的のフランスと違って、イギリスの支配下におかれると入植者がインディアンを追い出すことを危惧していた<ref name="Marston, Daniel pages 84-85" />。ポンティアック戦争はイギリスが一時的に五大湖地方と北西部の支配を失ったほどの大規模な戦争であった<ref>Marston, Daniel ''The French and Indian War'', London; Osprey, 2002 pages 85-87.</ref>。1763年が半分過ごした頃にはイギリスはデトロイト砦(現ミシガン州[[デトロイト]])、ナイアガラ砦(現ニューヨーク州[[ヤングスタウン (ニューヨーク州)|ヤングスタウン]])、ピット砦(現ペンシルベニア州[[ピッツバーグ]])を維持するのみとなり、残りの要塞は全てインディアンに占領された<ref>Marston, Daniel ''The French and Indian War'', London; Osprey, 2002 page 86.</ref>。{{仮リンク|ブッシーランの戦い|en|Battle of Bushy Run}}での勝利のみがイギリスの五大湖地方における総崩れを防いだのであった<ref>Marston, Daniel ''The French and Indian War'', London; Osprey, 2002 page 87.</ref>。ジョージ3世の[[1763年宣言]]は植民地人に対して[[アパラチア山脈]]の西側で入植を禁じたもので、その目的はインディアンとの関係を安定させることにあったが、インディアンの土地の奪取に積極的な[[13植民地]]の植民地人の憤りを募らせてしまった。同じく、フランス系カナダ人との関係の安定化を目的とした[[ケベック法]]も入植者の怒りを買った<ref>{{cite book |first=D. Peter |last=MacLeod |title=Northern Armageddon: The Battle of the Plains of Abraham |location=Vancouver |publisher=Douglas & McIntyre |year=2008 |isbn=9781553654124 }}</ref>。同法がカトリック信仰とフランス語を守ったためアメリカの入植者を怒らせたが、ケベック人たちはアメリカ独立戦争を通して反乱を起こさず、イギリスに忠誠のままに留まった。

戦争はまた、[[アウクスブルク同盟]]以来のヨーロッパにおける「古い同盟システム」を終わらせた<ref group="注">このシステムとはすなわち、イギリスが主導したヨーロッパにおける[[ブルボン家]]の野心に反対する同盟である。</ref>。戦後、[[ジョン・モンタギュー (第4代サンドウィッチ伯爵)|サンドウィッチ伯爵]]はこのシステムを再建しようとしたが、大国の同盟に意外にも打ち勝ったことでイギリスはオーストリア、オランダ、スウェーデン、デンマーク=ノルウェー、オスマン帝国、ロシアなどヨーロッパ諸国にフランスより強い脅威であるとみなされ、プロイセンも1762年にイギリスが単独講和に走ったことを裏切りとみなし、イギリスとの同盟に参加した国はいなかった。そのため、[[アメリカ独立戦争]]が国際戦争になった1778年から1783年までの間、イギリスはヨーロッパ諸国の大同盟との戦いに直面し、主な同盟国はだれもいなかった<ref>Lawrence Henry Gipson, "The American revolution as an aftermath of the Great War for the Empire, 1754-1763." ''Political Science Quarterly'' 65.1 (1950): 86-104. [http://www.jstor.org/stable/2144276 in JSTOR]</ref>。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
*[[第2次百年戦争]]
* [[第2次百年戦争]]
*[[世界の一体化]]
*[[七年戦争史]]
* [[世界の一体化]]
* [[七年戦争史]]
*『[[バリー・リンドン]]』 映画。主人公が前半に従軍する。
* {{仮リンク|七年戦争におけるイギリス|en|Great Britain in the Seven Years' War}}
* {{仮リンク|七年戦争におけるフランス|en|France in the Seven Years' War}}
* {{仮リンク|フランス領インド|en|French India}}
* {{仮リンク|1756年規定|en|Rule of 1756}}

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注}}

=== 出典 ===
{{reflist|30em}}

== 参考文献 ==
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== 外部リンク ==
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2017年2月27日 (月) 14:54時点における版

七年戦争

左上から時計回り:プラッシーの戦い(1757年6月23日)、カリヨンの戦い(1758年7月6日 - 8日)、ツォルンドルフの戦い(1758年8月25日)、クネルスドルフの戦い(1759年8月12日)。
戦争:七年戦争
年月日1754年または1756年 - 1763年
場所ヨーロッパアメリカ州アフリカアジア
結果:イギリス、プロイセン、ポルトガルの勝利
交戦勢力
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国

プロイセン王国 プロイセン王国
ポルトガル ポルトガル王国 (1762年以降)
ハノーファー州 ハノーファー選帝侯領
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領
イロコイ連邦
ヘッセン=カッセル方伯領
シャウムブルク=リッペ伯領

フランス王国の旗 フランス王国

神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国

ロシア帝国の旗 ロシア帝国(1762年まで)
スペイン スペイン王国(1762年以降)
スウェーデンの旗 スウェーデン王国(1757年 - 1762年)
アベナキ連合
ムガル帝国(1757年以降)

指導者・指揮官
グレートブリテン王国の旗ハノーファー州 ジョージ2世(1760年まで)
グレートブリテン王国の旗ハノーファー州 ジョージ3世(1760年以降)

プロイセン王国 フリードリヒ2世

ポルトガル ジョゼ1世

ハノーファー州 フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル

フランス王国の旗 ルイ15世

マリア・テレジア

アウグスト3世

マクシミリアン3世ヨーゼフ

ロシア帝国の旗 エリザヴェータ(1762年まで)
ロシア帝国の旗 ピョートル3世(1762年)
ロシア帝国の旗 エカチェリーナ2世(1762年以降)

スウェーデンの旗 アドルフ・フレドリク

スペイン カルロス3世

アーラムギール2世(1759年まで)
シャー・アーラム2世(1759年以降)

七年戦争(しちねんせんそう、: Seven Years' War: Siebenjähriger Krieg)は1754年から1763年まで(主な戦闘は1756年から1763年まで)行われた戦争である。

直接の原因はハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回を意図したことであるが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリスプロイセン側とその他の列強(フランスオーストリアロシアスペインスウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。

この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組み(外交革命)。しかし、戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡と化し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡英語版を変える結果となった。

概要

イギリス・フランス間の紛争は1754年から1756年にイギリスがフランスの北アメリカにおける植民地を攻撃して、フランス商船を数百隻拿捕したことではじまった。一方、勢力が増大しているプロイセンはオーストリアドイツ内外における主導権をめぐって争っていた。1756年、外交革命が行われた。

戦争が差し迫ったことでプロイセンは予防戦争としてザクセンに侵攻、蹂躙した。この行動に全ヨーロッパが騒然とした。オーストリアがフランスと同盟してオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンを奪回しようとしたため、プロイセンはイギリスと英普同盟を締結した。帝国諸侯多くは嫌々ながらも帝国議会の議決に従ってオーストリア側で参戦した。ただし、英普同盟側にもいくつかの帝国諸侯が参加している。スウェーデンは以前プロイセンに奪われたポンメルン奪回を狙って、反プロイセン側で参戦した。スペイン第三次家族協約に従いフランス側で参戦したが、両国が1762年におこしたポルトガル侵攻英語版は大敗に終わった。ロシア帝国ははじめプロイセンのポーランドへの野心を恐れてオーストリア側で参戦したが、1762年にピョートル3世がツァーリに即位するとプロイセンに味方した。

以前の戦争と違い、ヨーロッパの中小国の多くは一方の参戦国との紛争を抱えていたが、七年戦争に巻き込まれることは避けようとした。フレデリク5世治下のデンマーク=ノルウェーがその一例だったが、ピョートル3世が即位したときは危うくフランス側で参戦する羽目になったが、両国間の戦争が勃発する前にピョートル3世が廃位された。長らくイギリスの同盟国であったオランダはイギリスとプロイセンとヨーロッパ列強の間の戦いに巻き込まれることを恐れて中立を堅持し、一時はイギリスがインドを支配下に置くことを防ごうとした。ナポリ王国シチリア王国サルデーニャ王国は心情的にはブルボン家側であったが、イギリスを恐れて同盟加入を拒否した。ロシアでは戦争による増税があった上、1759年にエリザヴェータ女帝冬宮殿増築のために塩税とアルコール税を徴収したことは民を苦しめた。スウェーデンと同じく、ロシアはプロイセンと単独講和した。

戦争は1763年、フランス・スペイン・イギリス間のパリ条約とザクセン・オーストリア・プロイセン間のフベルトゥスブルク条約で終結した。

イギリスは北アメリカのヌーベルフランスの大半、スペイン領フロリダ西インド諸島のいくつかの島、西アフリカ海岸のセネガル植民地、インドにおけるフランス交易地に対する優越を獲得した。アメリカ先住民は条約に参加できず、それを不満としてポンティアック戦争をおこしたが、七年戦争前の状態に戻すことには失敗した。ヨーロッパにおいてはプロイセンは苦戦を強いられ続けたが、運も味方してフリードリヒ大王はシュレージエンの領有を確実なものとした。プロイセンはこれでヨーロッパ列強の一角を占めるようになる。オーストリアは本来の目的であったシュレージエンの回復を達成できなかったが、その軍事力を各国に示すことができた。ポルトガル、スペイン、スウェーデンは参戦したものの得るものは無く、大国の地位を取り戻すことはできなかった。フランスは多くの植民地を失った上、巨額の債務を抱え込む結果となり、元々脆弱だった財政をさらに悪化させた。スペインはフロリダを失ったがフランス領ルイジアナを得、それ以外の植民地であるキューバフィリピンは一時イギリスに占領されたものの和約により返還された。フランスとスペインは1778年にアメリカ独立戦争に参戦することでイギリスに復讐し、その覇権を一挙に潰そうとした。

七年戦争はおそらく真の意味ではじめての世界大戦であり、第一次世界大戦から160年前におきたこの戦争は世界中の多くの出来事に影響した。戦争はヨーロッパにおける政治再編を引き起こしただけでなく、世界中にも影響して19世紀のパクス・ブリタニカ、プロイセンのドイツにおける地位の上昇、アメリカ合衆国の独立フランス革命の遠因となった。

名称

この戦争は参戦諸国の史観でそれぞれの戦場に応じて名付けられた。例えば、アメリカではフレンチ・インディアン戦争、フランス系カナダ人では「征服戦争」(フランス語: Guerre de la Conquête)、イギリス系カナダ人では七年戦争(北アメリカ、1754年 - 1763年)、ほかにはポンメルン戦争英語版スウェーデン語: Pommerska kriget、スウェーデン・プロイセン間、1757年 - 1762年)[注 1]第三次カーナティック戦争インド亜大陸、1757年 - 1763年)、第三次シュレージエン戦争(プロイセン・オーストリア間、1756年 - 1763年)[1]などの呼称もあった[2]

この戦争ははじめての「世界大戦」と評された[3]が、それ以前の八十年戦争三十年戦争スペイン継承戦争オーストリア継承戦争やそれ以降のナポレオン戦争でも同じような批評がなされることがある。また、18世紀のほぼ全時期を通して世界中で敵対したフランスとイギリスの間の戦争は14世紀と15世紀の百年戦争になぞらえて第2次百年戦争とも呼ばれる[4]

背景

ヨーロッパ

七年戦争の参戦国
  イギリス、プロイセン、ポルトガルとその同盟国
  フランス、スペイン、オーストリア、ロシア、スウェーデンとその同盟国

1740年から1748年までのオーストリア継承戦争において[5]、プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王とも)はオーストリアから富饒なシュレージエン地方を奪取した[6]が、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアは1748年に軍の再建と同盟を組むための時間稼ぎとしてアーヘンの和約に署名した。

オーストリア継承戦争の交戦国はそれまでと同じく、伝統的な同盟国と同盟し、これまた伝統的に敵国である国と戦った。例えば、フランスの宿敵イギリスオーストリアルイ14世時代と同じく手を組み、フランスはドイツにおける反ハプスブルクの筆頭であるプロイセン王国を支持した。しかし、どちらの同盟も同盟相手に満足しなかった。イギリスはオーストリアに資金援助したもののオーストリアがイギリスの役に立ったことはなく、オーストリアにとってもイギリスの援助がシュレージエン奪回に結びつかなかった。プロイセンはいざシュレージエンを確保するとフランスを顧みずにオーストリアとの単独講和に走った[7]。それでも、フランスは1747年にプロイセンと防衛同盟を締結した[8]し、英墺同盟はイギリス首相ヘンリー・ペラムの兄で北部担当大臣でもあったニューカッスル公爵が必要と判断したこともあって継続した[9]。しかし、数年後に両同盟は倒れ、外交革命と呼ばれる事態が起こった。

1756年、オーストリアはプロイセンとの戦争を見越して軍を整備した。さる1746年6月2日、オーストリアとロシアは防衛同盟を締結して[10]、共同で両国とポーランド=リトアニア共和国の領土をプロイセンとオスマン帝国の侵攻から守るとした。また秘密条項ではプロイセンと戦争になった場合、ロシアはオーストリアによるシュレージエンとグラーツ伯領英語版(現ポーランド領クウォツコ英語版)の奪回を手伝うとした[11]。しかし、同盟の本当の目的はフリードリヒ2世を徹底的に潰してその領土をブランデンブルク選帝侯領に限定し、東プロイセンをポーランドに割譲させる(まず東プロイセンをロシアに割譲し、続いてポーランドのクールラント・ゼムガレン公国と交換させることで成立)ことにあった[12]エリザヴェータ女帝の治世においてロシアの大宰相を務めたアレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン伯爵はフランスとプロイセンに敵意を持っていたが、プロイセンの背後にフランスの指示があったためオーストリア宰相ヴェンツェル・アントン・カウニッツの説得に失敗、攻守同盟とはならなかった。

1748年、アーヘンの和約締結後のヨーロッパ

ハノーファー朝のイギリス王ジョージ2世は家族の領地ハノーファーの維持に熱心であったが、この意向はイギリスの植民地政策と衝突した[13]。フランスとの植民地戦争を再開する場合、まずハノーファーをフランス・プロイセン連合軍による攻撃から守らなければならなかった。フランスも植民地の拡張に興味を持っていて、対イギリス戦争においてハノーファーの脆弱さを利用するつもりでいた[14]が、プロイセンのために中央ヨーロッパへ派兵するつもりはなかった。

フランスの政策はルイ15世の秘密外交機関スクレ・ドゥ・ロワの存在により複雑になっていた。ルイ15世は外務大臣に知らせずにヨーロッパ中に諜報員のネットワークを張り巡らせて自分の政治目的を果たそうとし、時にはフランスが公的に宣言していた政策と矛盾していた。スクレ・ドゥ・ロワの政策の一例としてルイ15世の親族、コンティ公ルイ・フランソワ1世をポーランド王につかせる試みやポーランド、スウェーデン、オスマン帝国を(ロシアとオーストリアの国益に反して)フランスの従属国にする試みがあった[15]

フリードリヒ2世はザクセンポーランド王領西プロシアに野心を持っていたが、侵略戦争を起こした場合、フランスの支持を得ることは期待薄であった。しかし、ハノーファー併合を視野に入れてフランスに味方すると、今度はオーストリアとロシアの攻撃に晒される可能性がある。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はアウグスト3世としてポーランド王に即位していたが、ザクセンとポーランドの間にブランデンブルクとシュレージエンがあった。両国とも大国に成長する可能性が少なかった。ザクセンは軍が2万3千人しかない(うち3千はポーランドに駐留)ためプロイセンとオーストリア領ボヘミアの間の緩衝国に成り下がっており[16]、ポーランドはリトアニアと連合していたが、国内で親仏派と親露派が分裂していた。このため、プロイセンではオーストリアからボヘミアを強奪してフリードリヒ・アウグスト2世のザクセンと交換する作戦もあった。

イギリスはオーストリアをひとまず満足させるために皇帝選挙におけるハノーファー選帝侯の票をマリア・テレジアの息子ヨーゼフ大公に投じることを承諾したが、フランスとプロイセンはこの決定に失望した。さらに、イギリスはオーストリア・ロシアの同盟に参加したが、事態は複雑であった。イギリスが同盟に参加する目的はハノーファーをフランスから守ることであったが、同時にカウニッツがフランスと対ハノーファー同盟を築こうとした。しかし、フランスはロシアがオーストリア継承戦争においてオーストリアに肩入りしたためロシアを嫌っており、またプロイセンを解体すると中央ヨーロッパが不安定になる恐れもあった。

カウニッツは数年間フランス・オーストリア同盟を推進していた[8]。彼はハノーファーの政治に介入することを極力避け、フランスがオーストリアによるシュレージエン奪回を手伝わせる代わりにオーストリア領ネーデルラントを割譲することすらいとわなかった。イギリスはこの決定に怒り、またネーデルラント連邦共和国が中立を堅持した[11]こともありロシアに接近した。1755年9月30日、イギリスは財政援助をする代わりにロシア軍5万をリヴォニアとリトアニアの境界の駐留させた[17]。イギリスの狙いはこのロシア軍が有事のときにハノーファーに馳せて救援することができるという一点だったが、ベストゥージェフはこの準備が対プロイセンのためであると勘違いし、援助金もあって易々と承諾した[17]。またジョージ2世は秘密裏にプロイセン王フリードリヒ2世に同盟を提案し、オーストリアとロシアの侵攻を恐れたフリードリヒ2世はイギリスと和解して1756年1月15日にウェストミンスター条約を締結し、お互いの援助を約した。両国は条約によりヨーロッパの和平と安定を維持しようとした[18]

条約の内容は各国を刺激しないよう慎重に書き上げられたが、ヨーロッパ諸国はやはり激高した。ロシアのエリザヴェータ女帝はイギリスの二元外交に激怒した。フランスは唯一の同盟国プロイセンが突如裏切ったことに怒りと恐怖を感じた。オーストリア、特にカウニッツはこの状況を利用してフランスに同盟を迫り、フランスは孤立を恐れて同意し、1756年5月1日にヴェルサイユ条約を締結した。条約では両国が攻撃される場合お互いに軍勢2万4千を提供することが定められた[18]。ウェストミンスター条約もヴェルサイユ条約も防衛同盟であったが、両同盟の行動により戦争が不可避になった。この外交革命は結果的には戦争の起因となった。

北アメリカ

1750年当時の北アメリカと各国の勢力図。ピンクと紫がイギリス領、青がフランス領、オレンジがスペイン領である。七年戦争の一部であるフレンチ・インディアン戦争の後、勢力図の全体が塗り替えられた。

1750年代、北アメリカにおけるイギリスとフランス植民地の境界は大半が未定であった。フランスはずっとミシシッピ川流域の領有を主張していたが、イギリスは反対していた。1750年代のはじめにフランスはオハイオ川の流域で一連の要塞を築いて実効支配しようとし、また先住民からイギリスの影響を排除しようとした。

アメリカ東海岸のイギリス入植者はフランス軍がイギリス植民地の西の境界に接近することと、フランスが同盟している先住民を煽動してイギリス人を攻撃することを危惧した。さらに、農地を求めてやってくる入植者が増える一方だったため、イギリスの入植者たちはオハイオ川の流域を肥沃な農地として確保しようとした[19]

フランスが計画した要塞のうち、一番重要なのがアレゲニー川モノンガヒラ川が合流してオハイオ川となる合流点(現ペンシルベニア州ピッツバーグ)に位置するものであった。イギリスは平和裏にこの要塞の建築を止めようとしたが失敗し、フランスはそのまま砦を築いてそれをデュケーヌ砦と名付けた。バージニア植民地はジョージ・ワシントン率いる民兵隊を派遣してそれを攻撃しようとし、1754年5月28日のジュモンヴィルグレンの戦いで少数のフランス駐留軍を攻撃して指揮官ジュモンヴィユ英語版を含む10人を殺害した[20]。フランスは報復として1754年7月3日のネセシティ砦の戦いでワシントン軍を攻撃して降伏させた[21]。この2つの戦闘で七年戦争の火ぶたが切られた。

戦闘の報せがヨーロッパに届くと、イギリスとフランスは交渉で解決しようとしたが不調に終わり、両国は正規軍を派遣して自らの主張を通そうとした。イギリスはまず1755年6月16日のボーセジュール砦の戦いアカディアを強襲し[22]、その直後にアカディア人追放英語版が行われた[23]。7月、イギリスのエドワード・ブラドック少将は兵士2千と現地の民兵隊を率いてデュケーヌ砦へ遠征英語版したが、大敗に終わった[24]。さらに、エドワード・ボスコーエン海軍大将は1755年6月8日の海戦でフランス船アルシド英語版に砲撃して、アルシドとリスの2隻を拿捕した。また9月には両軍がジョージ湖の戦いを戦ったが勝敗は決しなかった[25]

1755年8月以降、イギリスはフランスの海運を妨害しており、名目上は宣戦していなかったにもかかわらずフランス商船数百隻を拿捕して商船の海員数千を捕虜にした。激怒したフランスがイギリスと同君連合であったハノーファー選帝侯領を攻撃しようとしたため、イギリスはプロイセンと条約を結び、プロイセンはハノーファーの守備に同意した。フランスはこの条約に反応して、長らく敵同士であったオーストリアと和解して同盟を締結した。この出来事は外交革命として知られている。

各国の戦略

18世紀の大半を通して、フランスの戦力は同じものであった。それは植民地に自らを守らせるか最低限の増援や未熟な兵士しか送らず、植民地での戦闘を負け戦とみなした[26]。フランスの地理の問題、そしてイギリス海軍の優位があったため、フランス海軍が植民地に大量な補給と増援を送ることが難しい状態であり、ある程度は仕方ないことであった[27]。同じく、長大な国境線があったためフランスの統治者にとって本土における強力な陸軍は欠かせないものであった[28]。これらの原因により、フランス政府はヨーロッパにおける陸軍をその戦略の中心とした。フランスは陸軍の大半を大陸に留まらせ、本土近くで勝利しようとした[28]。フランスの計画は終戦まで戦い、続いて条約の交渉でヨーロッパの占領地を失われた海外の植民地で交換する、というものであった[注 2]。しかし、七年戦争でも植民地が失われ、ヨーロッパの陸戦も割と成功を収めたものの、終戦のときには交換するだけの占領地が足りなかったため、このやり方はあまり有効ではなかった[29]

プロイセンのライブガルデ英語版大隊、1757年、コリンにて。

イギリスは選好と現実的な理由で大陸ヨーロッパへの大規模な派兵を避けようとした[30]。イギリスはヨーロッパにおける不利をいわゆる「敵の敵」である大陸の国との同盟で補おうとした[注 3][31]:15–16。大陸の同盟軍に資金援助をすることで、ロンドンの財力を軍事的優位に変換することができた。七年戦争において、イギリスは当時最強の将軍であったプロイセンのフリードリヒ大王と同盟し、巨額の援助金を支払って戦わせた[31]:106。これは1756年の外交革命において、イギリスがオーストリアとの長きにわたる同盟を集結してプロイセンに乗り換えたことで達成された。イギリスはフランスと対比して、戦争遂行の重点を植民地に置き、その海軍の力をいかんなく発揮した[32][33]:64–66。イギリスは敵国の港への砲撃と海上封鎖、および海路で兵員を輸送する戦略を遂行し[34]、敵国の海運を妨害しつつその植民地を攻撃、時には近くのイギリス植民地の入植者の力も借りた。

ロシアとオーストリアは隣の新しい脅威であるプロイセンを弱らせようとして、1756年にフランスとの防衛同盟を締結、フランスの援助の許、オーストリアとロシアがプロイセンに攻撃することに同意した[35]

ヨーロッパの戦闘

1756年に入閣した大ピットは戦闘に対し遠大なビジョンを持ち、これまでのフランスとの戦争とは違う視点で取り組んだ。大ピットは実質的な首相としてフランス帝国全体、特に北アメリカとインドを奪取する政策を推進した。イギリスの強みは海軍にあり、制海権を握って侵攻軍を好きなだけ派遣することが可能だった。13植民地の民兵隊をイギリス正規軍の指揮下で活用してヌーベルフランスを侵攻させた。フランス陸軍を釘付けにするため、ヨーロッパの同盟国に金に糸目をつけずに援助金を送った。大ピットは1756年から1761年まで実質的にイギリス政府の長であり、彼が辞任した後もその政策は継続され、大成功を収めた[36]。大ピットは王領植民地の価値、そしてフランス帝国の脆弱さを正しく認識していた[37]

1756年

イギリス首相ニューカッスル公爵外交革命で成立した同盟がヨーロッパでの戦争を防げると楽観視していた[38]。しかし、フランスはトゥーロンに大軍を集結し、地中海のミノルカ島攻撃で対イギリス作戦をはじめた。イギリスによる救援の試みはミノルカ島の海戦で失敗に終わり、ミノルカ島は6月28日に占領された。これにより、イギリスのジョン・ビング提督が軍法会議ののち処刑された[39]。イギリスは5月17日に正式にフランスに宣戦布告した[40]が、これはオハイオ領土で戦闘がはじめたからほぼ2年後のことであった。

ロボジッツの戦い。青はオーストリア軍、赤はプロイセン軍。

プロイセン王フリードリヒ2世は北アメリカでの戦闘を知り、イギリスと同盟した。1756年8月29日、彼はプロイセン軍を率いてドイツの小国でオーストリアに味方したザクセンに侵入した。これはオーストリアとフランスによるシュレージエン侵攻に対する予防戦争としての先制攻撃であったが、その目的は3つあった。まず、ザクセンを奪取してプロイセンに対する脅威を無にして、その軍と資金をプロイセンの戦争遂行に転用すること。次に、ボヘミアに進軍して冬営することでオーストリアに負担を強いること。そして最後に、シュレージエンからモラヴィアに侵攻してオルミュッツ要塞を奪取、ウィーンに進軍して戦争を終わらせることであった[41]

この3つの目的を達成すべく、フリードリヒ2世はクルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン伯爵兼元帥率いる2万5千の兵士をシュレージエンに留まらせてモラヴィアやハンガリーからの侵入を防ぎ、ハンス・フォン・レーヴァルト英語版元帥を東プロイセンに駐留させてロシアが東から侵攻することを防ぐと、自らも軍を率いてザクセンに進軍した。プロイセン軍は3列縦隊で進軍した。右翼はフェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル率いる兵士約1万5千、左翼はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公アウグスト・ヴィルヘルム率いる兵士1万8千で、真ん中はフリードリヒ2世とヤーコプ・フォン・カイト元帥率いる兵士3万であった[41]。フェルディナントはケムニッツを包囲する予定でベーヴェルンはラウジッツを通ってバウツェンに迫り、一方フリードリヒ2世とカイトはドレスデンへ向かった。

ザクセン軍とオーストリア軍は不意をつかれ、しかも分散していたためフリードリヒ2世はほぼ無抵抗でドレスデンを占領した[42]。1756年10月1日のロボジッツの戦いマクシミリアン・ウリセス・ブロウネ率いるオーストリア軍が孤立したザクセン軍と合流することを防いだ[43]。そして、ザクセンはプロイセン軍に占領された。ピルナ包囲戦の後、ザクセン軍は1756年10月に降伏[1]してプロイセン軍に強制編入された。中立国のザクセンを攻撃したことで全ヨーロッパに怒りの声が上がり、反プロイセン同盟の結束が強められた[44]。オーストリア軍が成功したことはシュレージエンの一部を占領したことだけだった。フリードリヒ2世は緒戦で勝利したものの、いずれの戦闘も決定的とはならず、少勢なプロイセン軍にとってその犠牲は大きかった。また予想以上に苦戦したこともあってフリードリヒ2世は以前の戦争で戦ったオーストリア軍と違うと評した[45]

イギリスはプロイセンの突然な侵攻に驚いたが、すぐに補給を輸送し、67万ポンドの援助金(2023年時点の£125,880,000と同等)を送った[46]。イギリスはドイツの同盟国と監視軍英語版を編成してハノーファーをフランス侵攻から防ごうとし、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスがその指揮にあたった[47]。イギリスはネーデルラント連邦共和国を同盟に加入させようとしたが失敗し、ネーデルラントは中立を堅持した[48]。軍勢に圧倒的な差があったものの、大陸ではプロイセン軍が概ね成功を収め、一方北アメリカではイギリスにとって悲惨な結果であった。

1757年

コリンの戦い

1757年4月18日、フリードリヒ2世は再び主導権を握り、ボヘミア王国に進行して、オーストリア軍に決定的な敗北を強いようとした[49]。5月6日のプラハの戦いでは両軍とも1万以上の損害を出したが、プロイセンの勝利に終わり、オーストリア軍はプラハの城塞に押し込まれた。プロイセン軍は続いてプラハを包囲した[50]。その対処にオーストリア軍の指揮官レオポルト・フォン・ダウンが軍勢3万を編成してプラハ救援に駆け付けた[51]。フリードリヒ2世はプラハを包囲していたプロイセン軍のうち5千人を引き抜いてボヘミアのコリンにいるブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公率いる1万9千人と合流させた[52]。ダウンは到着が遅れてしまってプラハの戦いに参加できなかったが、敗走してきたオーストリア軍1万6千人と合流して、緩慢ながらプラハ救援に進軍した。プロイセン軍はプラハの包囲とダウンの対処を同時にするのには弱体すぎたため、フリードリヒ2世は戦闘を準備していたオーストリア軍と戦わなければならなかった。その結果として起こったコリンの戦いはフリードリヒ2世のはじめての大敗で、彼はプラハの包囲を解くこととボヘミアからの撤退を余儀なくされた[53]

ロスバッハの戦い

その少し後、ステパン・フョードロヴィチ・アプラクシン英語版元帥率いるロシア軍7万5千はメーメルを包囲した。メーメルはプロイセンの城塞のなかでも強固であったが、ロシア軍は5日間の砲撃でそれを占領した[54]。ロシア軍はメーメルを基地として東プロイセンに侵攻、8月30日のグロース=イェーゲルスドルフの戦いで激戦ののち少数のプロイセン軍を撃破した。アメリカの歴史家ダニエル・マーストンは、グロース=イェーゲルスドルフの戦いはプロイセン軍に「ロシア軍の戦闘力に対する新しい尊敬」を持たせ、それが「後のツォルンドルフの戦いクネルスドルフの戦いで強められた」と述べた[55]。しかし、ロシア軍はメーメルとグロース=イェーゲルスドルフの戦闘で砲弾を使い果たしてしまい、ケーニヒスベルクを占領できずに撤退し、その後アプラクシンは解任された[1]。兵站の問題は戦争を通してロシア軍の悩みであり続けた[56]。ロシアが中央ヨーロッパで戦うには東ヨーロッパの未整備でぬかるんだ道を通って補給する必要があったが、ロシア軍にはそれができる需品係がなかった[56]。そのため、ロシア軍は大規模な会戦の後、勝敗と損失にかかわらず撤退することが多い。戦闘で軍勢品をほぼ使い果たしたロシア軍の将軍たちは補給に時間がかかることがわかっていたため、補給を待たずに再度の会戦に挑みたくなかったのだった[56]。この弱点は1735年から1739年までのオーストリア・ロシア・トルコ戦争において、緒戦で勝利したにもかかわらず補給の問題で最終的には領土を僅かに得ることしかできなかったことで明らかになっていた[57]。ロシア軍の需品係はその後も改善しなかったのでプロイセンとの戦闘で同じ問題が起こった[57]。いずれにしても、ロシア帝国軍はプロイセンにとって脅威であり、フリードリヒ2世はボヘミア侵攻の中止を迫られただけでなく、プロイセン領まで撤退することを余儀なくされた[58]。彼の敗北は参戦国をさらに増やした。スウェーデンがプロイセンに宣戦して軍勢1万7千でポンメルンに侵攻した[54]。当時、プロイセンがすでにザクセン、シュレージエン、東プロイセンと多くの戦場で戦っていたので、スウェーデンは1万7千人だけでもポンメルンを占領できると踏んだのであった。

ロイテンの戦いカール・レヒリング作。
フリードリヒ2世と士官たち、ロイテン英語版にて。

今やプロイセンの前途は暗憺たるものに見えた。オーストリアは動員してプロイセン侵攻を準備しており、西からはスービーズ公率いるフランス軍と神聖ローマ帝国軍: Reichsarmee、ライヒスアルメー)の連合軍が迫ってきていた。神聖ローマ帝国軍は皇帝フランツ1世の要請を受けてドイツの小国が対フリードリヒ2世に編成した連合軍であった[59]。しかし、1757年11月から12月までの間、ドイツにおける情勢が逆転した。まず、スービーズ公が11月5日のロスバッハの戦いでフリードリヒ2世に大敗し[60]、続いてオーストリア軍が数で大きく上回るにもかかわらず12月5日のロイテンの戦いでフリードリヒ2世を前に潰走してしまった[61][1]。戦争を通して、フランス・プロイセン間で戦われた大規模な会戦はロスバッハの戦いの1回だけだった[59]。ロスバッハの戦いではプロイセン軍が548人を失ったのに対し、スービーズ公率いるフランス・ドイツ連合軍は約1万人を失った[62]。フリードリヒ2世はロイテンの戦いを自らの最も大な勝利であると称したが、当時オーストリア軍は一線級と見なされたため多くの人がこの見解に共感した[62]。ロスバッハとロイテンの勝利でフリードリヒ2世は再び自分をヨーロッパ一の将軍に、プロイセン軍をヨーロッパでもっとも練達した兵士に仕立て上げた。しかし、彼はロイテンでオーストリア軍を撃滅することには失敗し、オーストリア軍はボヘミアまで逃走して再編することができた。また、フリードリヒ2世はこの2つの大勝でマリア・テレジアに和平交渉を迫ることができると考えたが、彼女はシュレージエンを奪回するまで交渉しないと腹を決めた。また、彼女はロイテンの戦いの後、軍の指揮を改善するために無能な義弟カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲンを更迭して今や元帥に昇進したレオポルト・フォン・ダウンを指揮官に任命した。

しかも、カンバーランド公率いるハノーファー本軍がハステンベックの戦いで敗北してフランスによるハノーファー侵攻を許し、クローステル・ツェーヴェン協定で全軍が降伏したことがこの問題をさらに厳しいものにした[63]。この協定はハノーファーを戦争から脱落させ、西からプロイセンに侵攻することを可能にしたため大きい脅威になった。外国から何ら軍事援助を受けられなかったフリードリヒ2世はすぐさまイギリスに大規模な援助を要請した[64]

キブロン湾の海戦

年内にロシアが進軍してくる可能性がないと踏んだフリードリヒ2世は東プロイセンのレーヴァルト将軍率いる軍勢をポンメルンに移動させた。レーヴァルトはそこでスウェーデン軍を押し返してスウェーデン領ポンメルンの大半を占領、ストラルスンドを封鎖した[65]。グレートブリテン王ジョージ2世はロスバッハの戦いの後、内閣の意見を容れてクローステル・ツェーヴェン協定を取り消し、再び参戦した[66]。新しく任命されたハノーファー軍の指揮官フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルは冬に軍を再集結させるとフランス軍を襲ってライン川の向こうまで追い払い、その後終戦までプロイセンの西側の安全を保った[67]

北アメリカではイギリスがウィリアム・ヘンリー砦の戦いなどのさらなる敗北に苦しんだ。しかし、イギリス本国は安定を取り戻しつつあった。1756年以降、ニューカッスル公爵と大ピットを首班とする内閣が相次いで倒れ、2人は連立政権を組んで戦争への取り組みを一新した。ニューカッスル公が大陸、特にドイツでの守備を重要視した一方、大ピットは海軍力を駆使して世界中のフランス植民地を奪取に熱心であり、この2つの戦略をどちらも強調することは向こう5年、イギリスの政策であり続けた。

1757年10月10日から17日まで、オーストリア軍の将軍でハンガリー出身のアンドレアス・ハディク英語版フザール戦術として有名な戦闘の1つを遂行した。フリードリヒ2世が南のほうで進軍している中、ハディクが突如フザールが大半を占める軍勢5千を率いてプロイセン軍を迂回してプロイセンの首都ベルリンの一部を一晩の間占領した[68]。ベルリン市は解放されるときに20万ターラーを支払った[68]。フリードリヒ2世はこの屈辱的な占領を知ると軍勢を派遣してベルリンを解放しようとしたが、ハディクは自軍とともにベルリンを離れ、無事オーストリア本軍と合流した。その後、ハディクは大将に昇進した。

1758年

1758年のはじめ、フリードリヒ2世はモラヴィアに侵攻してオルミュッツを包囲した(現チェコオロモウツ[69]。オーストリア軍がドームシュタットルの戦いで勝利してプロイセン軍補給部隊を奪取すると、フリードリヒ2世は包囲を中止してモラヴィアから撤退[1]、以降大規模なオーストリア領侵攻はおこらなかった[70]。1758年1月、ロシア軍は東プロイセンに侵攻したが、プロイセン軍がほとんどおらず、ロシアはほぼ無抵抗で同地を占領した[59]。以降1762年までロシアは東プロイセンを支配下においたが、フリードリヒ2世はロシア軍を直近な脅威とは見ず、まずオーストリア軍を徹底的に撃破して和平を迫ろうとした。

The Gentleman's Magazine英語版に掲載されたクレーフェルトの戦いでの戦場付近の地図。

4月、イギリスはフリードリヒ2世と英普協定を締結して年67万ポンドの補助金英語版をプロイセンに与えた。また、イギリスは大ピットの政策を変え、兵士9千を増援としてフェルディナント率いるハノーファー軍に派遣した。七年戦争中、イギリスがはじめて大陸ヨーロッパに派兵したのはこのときであった。フェルディナントはフランス軍をハノーファーとヴェストファーレンから追い出し、3月にエムデン港を再占領すると、ライン川を渡河した。彼は迎撃にきたフランス軍をクレーフェルトの戦いで撃破し、一時デュッセルドルフも占領したが、フランスの巧みな行軍でライン川を渡って撤退せざるをえなかった[71]

ここでフリードリヒ2世はロシア軍の西進を憂慮して東へ進軍、1758年8月25日にオーデル川の東、ノイマルク英語版においてツォルンドルフの戦い(現ポーランドサルビノヴォ英語版)を戦った。フリードリヒ2世率いるプロイセン軍3万5千とウィリアム・フェルマー率いるロシア軍4万3千と戦い[72]それぞれ1万2800人と1万8000人と両軍とも損害が甚大であったが、ロシア軍が退却したためフリードリヒ2世は勝利を宣言した[73]。アメリカの歴史家ダニエル・マーストンはツォルンドルフの戦いを引き分けとした。彼は両軍とも疲憊して二度とお互いと戦いたくなかったことをその判断の理由とした[74]。9月26日のトルノーの戦いではスウェーデン軍がプロイセン騎兵による6回の突撃を跳ね返し、その2日後のフェールベリンの戦いでプロイセン軍を撤退させたが、スウェーデン軍はベルリンへ進撃しなかった[75]

ホッホキルヒの戦い

戦争はそのまま進展のないまま推移したが、10月14日にダウン率いるオーストリア軍がザクセンでのホッホキルヒの戦いにおいてプロイセン軍を奇襲した[76]。フリードリヒ2世は多くの大砲を失ったが、周りの密林に助けられて撤退に成功した。オーストリア軍は戦闘に勝利したものの、ザクセンにおける戦役で行き詰まり、ドレスデン攻撃が失敗した後はオーストリア領まで退却して冬営に入り、ザクセンがプロイセンの占領下に置かれたままとなった[77]。同時期にロシア軍がポンメルンにおいてコルベルク包囲戦(現ポーランド領コウォブジェク)を敢行したが失敗した[78]

フランスでも1758年の戦役は精彩に欠けたものであり、これを見かねてショワズール公が外務大臣(実質的には宰相)に任命された。彼はイギリスとハノーファーに猛攻して1759年に戦争を終わらそうとした。

1759年と1760年

1759年はプロイセンにとって敗北続きであった。カイの戦い(パルツィヒの戦いとも)において、ピョートル・サルトイコフ英語版伯爵率いるロシア軍4万7千がカール・ハインリヒ・フォン・ヴェーデル英語版将軍率いるプロイセン軍2万6千に勝利した。ハノーファー軍がミンデンの戦いでフランス軍6万を撃破したものの、オーストリア軍のレオポルト・フォン・ダウン将軍はマクセンの戦いでプロイセン軍1万3千を降伏させることに成功、フリードリヒ2世自身もクネルスドルフの戦い(現ポーランド領クノヴィツェ)で軍の半分を失い、退位と自殺を考えるほどであった。この敗北はロシア軍がすでにツォルンドルフの戦いやグロース=イェーゲルスドルフの戦いで名声を挙げたにもかかわらず、フリードリヒ2世がロシア軍を見くびったことと、ロシア軍とオーストリア軍がうまく連携したことに原因があった。

マクセンの戦い

1759年、フランスはイギリス侵攻計画英語版を立て[79]ロワール河口で軍勢を集結させ、さらにブレストとトゥーロン艦隊を呼び寄せようとした。しかし、海戦における2つの敗北が侵攻を頓挫させた。8月、ラゴスの海戦においてエドワード・ボスコーエン率いるイギリス艦隊がジャン=フランソワ・ド・ラ・クリュー=サブラン英語版率いるフランスの地中海艦隊を撃破[80]、さらに11月20日のキブロン湾の海戦においてエドワード・ホーク率いるイギリス戦列艦23隻がコンフラン伯爵英語版率いるフランスのブレスト艦隊(戦列艦21隻)に勝利、フランス艦の多くが沈没、拿捕、座礁した[81]ことでフランスの計画は失敗に終わった。

リーグニッツの戦い
クネルスドルフの戦い

1760年もプロイセンにとって災難続きであった。オーストリア軍にはハインリヒ・アウグスト・ドゥ・ラ・モット・フーケ英語版率いるプロイセン軍がランデスフートの戦いで敗北[82]、フランスにはマールブルクを占領され、スウェーデンにはポンメルンの一部を占領された。一方ハノーファー軍はヴァールブルクの戦いでフランス軍に勝利して、フランスによるオーストリア軍への増援を阻止した。

フランス軍と合流できなかったものの、エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン将軍率いるオーストリア軍はシュレージエン地方のグラーツを包囲、占領(現ポーランド領クウォツコ英語版)した。同じくシュレージエン地方のリーグニッツの戦いでは3倍近くの敵数に対しフリードリヒ2世が見事に勝利した。ピョートル・サルトイコフ英語版率いるロシア軍とフランツ・モーリッツ・フォン・ラシー率いるオーストリア軍は10月にプロイセンの首都ベルリンを占領し、すぐに撤退したが、フリードリヒ2世の権威が大きく失墜した。フリードリヒ2世は年末にトルガウの戦いで再び勝利したが、自軍も大きな損害を被り、オーストリアは規律を保った退却に成功した。

一方のロシア軍はクネルスドルフの戦いの後、動きがほとんどがなかった。貧弱な補給線が原因であった[83]。ロシア軍の補給が悪くて1759年10月にはオーストリア軍の需品係がロシア軍の補給も担当するという協定が成立した[56]。しかし、オーストリア軍とロシア軍の両方を補給することがオーストリア軍の需品係の能力を超えてしまったため、協定は実際にはほとんど役に立たず、ロシア軍は少量の補給しか受けられなかった[56]。リーグニッツの戦いではロシア軍が遅れて戦闘に参加できなかった。また1759年と1760年の2回、コルベルクを包囲したがいずれも失敗し[84]、この頑強な抵抗でフリードリヒ2世は軍を分割せずにオーストリア軍の対処に集中することができた。

1761年と1762年

コルベルク包囲戦

1761年戦役がはじまった時点ではプロイセン軍は残り10万人しかなく、しかも多くが新しく徴募された兵士だったため、もはや絶体絶命であるように見えた[85]。しかし、オーストリア軍とロシア軍の損耗も大きく、大規模な侵攻ができなかった。

2月、フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルランゲンザルツァの戦いでフランス軍に奇襲して勝利すると、3月にカッセルを包囲した。しかし、フランス軍が再集結してグリューンベルクの戦いでハノーファー軍数千を捕虜にすると、フェルディナントは包囲を解かざるをえなかった。また、フィリングハウゼンの戦いではフェルディナント軍がフランス軍9万2千を撃破した。

七年戦争中、ポーランド=リトアニア共和国におけるロシア軍の行軍。

東部戦線は緩慢にしか進まなかった。ロシア軍はポーランドにある弾薬庫に大きく依存し、プロイセン軍は数度それを襲撃した。そのうち、9月にプラーテン将軍がおこした襲撃ではロシア軍が2千を失い(ほとんどが捕虜)、ワゴン5千が破壊された[86]。すでに人員不足が深刻になっているプロイセン軍は奇襲攻撃で敵の進軍を遅滞させるしかなかったのであった。この努力にもかかわらず、プロイセン軍は1761年年末には2つの敗北を味わった。ザハール・チェルヌイシェフ英語版ピョートル・ルミャンツェフ英語版率いるロシア軍によるコルベルクの占領とオーストリア軍によるシュヴァイトニッツ英語版の占領であった。コルベルク陥落の結果、プロイセンはバルト海岸にある主要な港を全て失った[87]。ロシア軍にとって兵站の問題は戦争を通して悩みの種であり、ロシア軍の追撃を阻んでいたが、コルベルクを占領したことで海路からの補給という新しい経路ができた[88]。海路からの補給は陸路よりずっと早く、安全(バルト海を通って輸送することでプロイセン騎兵に妨害される可能性がない)であったため、両軍の戦闘力のバランスがロシア側に大きく傾いた[88]。そのため、イギリスではプロイセンの総崩れが予想された。

イギリスはプロイセンに和平交渉で妥協しなければ援助金を打ち切ると脅かした。プロイセン軍が残り6万人まで目減りし、さらにベルリン自体が包囲される可能性も高まったため、プロイセンの存亡が脅かされていた。そして、1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝がなくなった。彼女の後を継いだピョートル3世はプロイセンびいきだったため、すぐさまにロシアの東プロイセンとポンメルン占領をやめ(サンクトペテルブルク条約を参照)、スウェーデンとの和平を仲介した。さらにロシア軍の一軍をフリードリヒ2世に送り、その指揮下においた。この出来事はブランデンブルクの奇跡として知られた。ロシアの援軍を得たフリードリヒ2世は総勢12万の軍勢をオーストリア軍との戦闘に集中させ[86]、ザクセンの大半から追い出した。またフリードリヒ2世の弟ハインリヒ王子が10月29日のシュレージエンにおけるフライベルクの戦いでオーストリア軍に勝利、さらにフェルディナント率いるブラウンシュヴァイクの同盟軍は要地のゲッティンゲンを占領、またカッセルを包囲して落とした。

1762年には2つの国が参戦した。1762年1月4日にイギリスがスペインに宣戦布告し、スペインも18日にイギリスに宣戦布告した[89]。続いてポルトガルがイギリス側で参戦した。スペインはフランスの援助を得てポルトガルに侵攻英語版し、アルメイダを落とした。イギリスの増援の到着がスペインの進軍を鈍らせ、バレンシア・デ・アルカンタラの戦いではイギリス・ポルトガル連合軍がスペインの補給拠点を占領した。スペインの進軍はイギリス・ポルトガル連合軍の守るアブランテス(「リスボンへの道」と呼ばれた)で止められた。やがてゲリラ戦と焦土作戦を行ったイギリス・ポルトガル連合軍[90][91][92]が大きく消耗していたフランス・スペイン連合軍をスペインまで押し返し[93][94][95]、占領された町をほぼ全て奪い返した。この奪還された町のなかには数多くの戦傷者と病人が置き去りにされていたカステロ・ブランコにあるスペイン司令部も含まれていた[96]

一方、フランスの港が長らくイギリスに海上封鎖されたため、フランスの士気は低下していた。ニューファンドランド植民地英語版シグナルヒルの戦いにおいてフランス軍が敗北した報せが伝わると、フランスの士気がさらに低下した[97]

1763年

フベルトゥスブルク条約

戦争の終幕が近づいてきた1763年には、中央ヨーロッパにおけるプロイセンとオーストリアの戦闘は完全に膠着した。プロイセンはオーストリアからシュレージエンを取り戻し、1762年にプロイセン軍がブルケルスドルフの戦いで勝利した以降はザクセンも首都ドレスデンを除いてプロイセンが確保した。プロイセンの財政状態はまあまあだったが、その領土は荒廃し、軍も弱体化していた。兵士の人数が減り、有能な士官や将軍を失った状態ではドレスデンに対する攻勢が不可能であった[45]。新しくイギリス首相に就任したビュート伯はプロイセンへの援助金を打ち切り、ロシア皇帝ピョートル3世は妻のエカチェリーナ2世に廃位され、彼女はプロイセンとの同盟を終わらせて戦争から手を引いた。オーストリアは財政難で軍縮せざるをえなく、攻勢に出る力を失った[45]。実際、7年もの間の戦争でオーストリアの行政は混乱した[98]。1763年時点ではオーストリアはまだドレスデン、ザクセン南東部、そしてシュレージエン南部のグラーツ伯領を維持していたが、ロシアの支援なくしては勝利の望みが薄く、マリア・テレジアはシュレージエン奪回をほとんど諦めた。1763年、フベルトゥスブルク条約で和平が成立し、グラーツがプロイセンに返還される代わりにプロイセンはザクセンから撤退、中央ヨーロッパにおける戦争を終わらせた。

イギリスのフランス海岸急襲

イギリスはロシュフォールへの急襲(水陸両用作戦とも)を計画、実行した。急襲の目的はロシュフォールへ侵掠およびシャラント川で商船を燃やすことにあった。ジョン・モードント英語版が陸軍を、エドワード・ホークが海軍を指揮した。1757年9月8日に出港したイギリスの遠征軍はエクス島英語版を占領したが、躊躇しているうちに時間だけが過ごし、ロシュフォール攻撃のチャンスを失った[99]。遠征軍はエクス島を放棄、10月1日にイギリスへ戻った。

大ピットの指導下、イギリスは七年戦争を遂行して、ヨーロッパ一の植民地大国の地位を確定させた。

ロシュフォール襲撃は戦術的には失敗、戦略的には成功とも失敗ともとれるが、大ピットはこのような(現代の用語で言うと)非対称戦争と言える戦術に目的を見出し、襲撃を継続させた[99]。次なる遠征軍では第3代マールバラ公爵サックビル卿が陸軍を、リチャード・ハウが海軍と兵員輸送船を指揮した。遠征軍は1758年6月5日にカンカル湾に上陸、サン・マロに向かったが、占領に長期間の包囲が必要なことを知ると、代わりに近くのサン・セルヴァン英語版港を攻撃した。イギリス軍はそこで船を燃やし、私掠船と商船約80隻、および建造中の戦艦4隻が被害にあった[100]。フランスの救援軍が近づいてくると、遠征軍は引き上げた。ル・アーヴル・ド・グラースへの襲撃も計画されたが取り消され、艦隊は続いてシェルブールに向かったものの、悪天候と補給の不足でシェルブールへの襲撃も諦め、遠征軍はフランス私掠船への攻撃およびフランス海岸における示威が成功したとして、イギリスへ戻った。

大ピットは今度はドイツへの派兵に乗り気になっていた。マールバラ公とサックビルは襲撃を無駄と考えたためドイツ派遣軍に役職を得て、さらなる襲撃には参加しなかった。代わりにすでに70代と高齢であったトマス・ブライ英語版が指揮官に任命され、リチャード・ハウが補助を務めた。今回の襲撃はシェルブール襲撃で幸先のいいスタートを切った。艦隊の援護射撃の下、遠征軍は上陸を阻止しようとしたふらんすぐんを追い払ってシェルブールを占領、その要塞、ドックと船舶を破壊した。

遠征軍は撤収すると9月3日にブルターニュ地方のサン=リュネール英語版に上陸、サン・マロへ進軍した。しかし、この行動は無謀であった。まず、悪天候で陸軍と艦隊は別行動せざるをえなくなり、艦隊はより安全なサン=カス英語版に向かい、一方陸軍は歩いて行軍した。ブライの指揮する行動がもたもたしているうちにフランス軍1万がブレストから追いつき、慌てて撤収しようとしたイギリス陸軍に砲撃した。このサン=カスの戦いにおいて、デューリー率いるイギリス軍の後衛1,400人がフランス軍を足止めして、残りの軍勢の撤収を成功させたが、その犠牲は大きかった。デューリー自身を含む750人が犠牲になり、残りは捕虜にされた。

植民地の戦闘

植民地における戦闘は主にフランス・イギリス間でインド、北アメリカ、ヨーロッパ、カリブ海の島嶼、フィリピン、アフリカ海岸で行われた。戦争が進行するにつれ、イギリスは広大な領土を占領、フランスの勢力を徐々に蚕食していった。

イギリスは1756年に地中海ミノルカ島を失ったが1758年にフランスのセネガル植民地を占領した。イギリス海軍は砂糖を産出するフランスの植民地であったグアドループを1759年に、マルティニーク島を1762年に占領、さらにスペインの植民地であったキューバのハバナとフィリピンのマニラを占領した。しかし、植民地の主都であった両市の占領には成功したが、内陸への進撃では激しい抵抗に遭い、フィリピンでは戦争の終わりにスペインに返還するまでマニラ周辺しか占領できなかった英語版

北アメリカ

開戦前の状況。
■ ◘ イギリスの領土、要塞と集落

■ ◘ フランスの領土、要塞と集落

カナダの7か国英語版は戦争中、フランスと同盟していた。これら7か国はローレンシャン渓谷英語版に住むアルゴンキン族アベナキ族ヒューロン族などの先住民であった。アルゴンキン族と7か国はオハイオ川の渓谷の運命に関心がなかったが、イロコイ連邦の被害を受けていた。イロコイ連邦はアルゴンキンの領土に居着き、アルゴンキン族をミシガン湖の西に追いやっていた[101]。そのため、アルゴンキン族と7か国はイロコイ連邦と戦いたがった。ニューイングランド、ニューヨークと北西部の先住民は各々参戦国と同盟した。アップステート・ニューヨークで主導権を握っていたイロコイ連邦はイギリスに味方したが戦争には大して関わらなかった。

1756年から1757年、フランスはイギリスのオスウィーゴ砦[102]ウィリアム・ヘンリー砦[103]を占領した。特にウィリアム・ヘンリー砦ではフランスに味方した先住民が降伏の条件を破り、フランス軍の警護下撤退していたイギリス軍を襲撃、兵士を虐殺したり、イギリス人を捕虜にしたりした。その間、フランス軍はイギリス人捕虜の保護を拒否した[104]。また、1757年にはフランス海軍が増援を派遣してケープ・ブレトン島ルイブール要塞守備英語版に成功し、ケベックへの海路を確保した[105]

イギリス南部担当大臣の大ピットが1758年に植民地での戦闘に力を入り、カルタヘナの海戦でフランスの増援を阻止したことでルイブール占領に成功し、またデュケーヌ砦[106]フロンテナック砦[107]も占領した。イギリスはアカディア人追放を継続、サンジャン島方面作戦セントジョン川方面作戦プティクーディアク川方面作戦など大規模な作戦を次々と遂行した。しかし、カリヨンの戦い(またはタイコンデロガの戦い)ではフランス軍4千に対しイギリス軍1万6千が敗北するという屈辱的な結果となった。

1759年、イギリスのヌーベルフランスに対する作戦は全て成功し、後に奇跡の年の一部となった。まずナイアガラ砦英語版[108]カリヨン砦[109]が6月と7月に相次いでイギリスに降伏し、植民地の境界が西へ移動された。ケベックを3か月間包囲した後[110]ジェームズ・ウルフ将軍は城外のエイブラハム平原の戦いでフランス軍を破った[111]。フランスは1760年春に反撃し、はじめはサントフォワの戦いで勝利したが[112]ヌヴィユの海戦英語版で敗北してイギリスに制海権を握られたためケベックを再占領できず、モントリオールに撤退した。そして9月8日、数で大幅に上回られたフランス軍はモントリオールで降伏した。

ケベック近くのエイブラハム平原におけるウルフ将軍の死英語版、1771年作。

フランスとインディアンが敗北したことでカナダの7か国は戦争から手を引き、カナワク条約でイギリスと講和した。条約では7か国側がモントリオール・オールバニ間の貿易を頻繁に行ったため、カナダ・ニューヨーク間の無制限通行を許された[113]

1762年、戦争の終わりが近づいたためフランス軍はニューファンドランドのセントジョンズを攻撃した。成功した場合、交渉におけるフランスの発言権が増すことになる。フランス軍はセントジョンズを占領、近くの集落に襲撃したが、やがてシグナルヒルの戦いでイギリス軍に敗北、ウィリアム・アマースト英語版中佐に降伏することを余儀なくされた。イギリスは勝利したことで北米東部全体を支配下に置いた。

ハバナモロ城英語版への砲撃、1762年

北アメリカにおける七年戦争の歴史、特にアカディア人追放、ケベック包囲戦、ウルフ将軍の死、ウィリアム・ヘンリー砦の戦いは数多くの芸術を生み出した(例えば、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローエヴァンジェリン英語版ベンジャミン・ウエストウルフ将軍の死英語版ジェイムズ・フェニモア・クーパーモヒカン族の最後などがある)。ほかにも多くの地図や出版物があり、1759年のウルフ将軍の死の後でもこの戦争がイギリスと北米の大衆の心に長らく残ったことを証明した[114]

南アメリカ

1763年、ポルトガルはスペインから南アメリカのネグロ川流域のほとんどを奪取した[115][116]、スペインのマットグロッソへの攻撃をグアポレ川で撃退した[117][118]

1762年9月から1763年4月まで、ブエノスアイレス総督ペドロ・アントニオ・デ・セバーヨス(後にカルロス3世により初代リオ・デ・ラ・プラタ副王に任命)はウルグアイとブラジル南部への遠征を行い、ポルトガル領のコロニア・ド・サクラメントリオグランデ・ド・スルを征服、ポルトガル軍は降伏して撤退した。

1763年のパリ条約ではスペインが占領したサクラメント植民地を返還することが定められたが、「サン・ペドロの州」と呼ばれる領土(現ブラジル領リオグランデ・ド・スル州)は1763年から1777年までの宣戦布告なきスペイン・ポルトガル戦争でポルトガルに奪還された[119][120][121][122]

戦争の結果、スペインは1764年以降にチリ南部英語版バルディビア要塞群英語版を更新、強化した。そのほか、守備が脆弱なチロエ群島英語版コンセプシオンファン・フェルナンデス諸島バルパライソはイギリスによる攻撃を見越して強化された[123][124]

インド

インドにおいて、七年戦争の勃発はフランスとイギリスの東インド会社の間の長期間にわたる抗争を再開させた。戦火はインド南部からベンガルまで蔓延し、ロバート・クライヴ率いるイギリス軍はカルカッタをフランスと同盟したベンガル太守シラージュ・ウッダウラから奪い、さらに1757年のプラッシーの戦いで彼を廃位した。同年、イギリスはベンガルにあるフランスの植民地シャンデルナゴルを占領した[125]

南インドにおいて、フランスはカッダロールを占領したものの、マドラス包囲戦は失敗し、さらにイギリス軍の指揮官エア・クート英語版が1760年のヴァンディヴァッシュの戦いラリー伯爵英語版に対し決定的に勝利して北サルカールを侵略した。1761年、フランスの本拠地ポンディシェリーがイギリスに降伏し、カリカルマヘといった小規模なフランス植民地も降伏したことでフランスのインドにおける勢力は消滅した[126]

西アフリカ

1758年、アメリカの商人トマス・カミング英語版が強く推進したことで大ピットはサン=ルイのフランス植民地に遠征軍を派遣した。イギリスは5月にセネガルを占領を容易く占領し、大量な戦利品を載せて帰還した。遠征が成功したこと大ピットはさらにゴレ島遠征ガンビア遠征を計画、成功させた。貴重な植民地が失われたことでフランスの経済は大打撃を受けた[127]

結果と影響

イギリスとフランスの間の戦闘は1763年のパリ条約で終結した。条約は複雑な領土交換を定め、そのうち一番影響が大きいのはフランスがルイジアナをスペインに、それ以外のヌーベルフランスの領土をサンピエール島およびミクロン島を除いて全てイギリスに割譲したことであった。フランスにはヌーベルフランスかカリブ海のグアドループマルティニークを手中に残す選択肢が与えられたが、最終的には砂糖を産出する後者を選び[128]、ヌーベルフランスを非生産的で維持コストの高い植民地として切り捨てた[注 4]。フランスはまた、ミノルカ島をイギリスに返還した。スペインはフロリダをイギリスに奪われたが、フランスからイル・ドルレアン英語版(現ニューオーリンズ)とミシシッピ川より西側にあるフランス領全てを得た。イギリスはすでにいくつかのカリブ海の島を領有しており、砂糖に事欠かなかったためヌーベルフランスとの交換に応じた。しかも、ヌーベルフランスとフロリダを併合したことでイギリスはミシシッピ川より東側の北アメリカを全て支配下に置いたため、この領土交換はイギリスを利するものであった。

1760年7月31日のヴァールブルクの戦いの再現、2009年撮影。

インドにおいてはイギリスが北サルカールを保持したが、フランスの交易地は全て返還した。しかし、条約ではフランス交易地の要塞を全て破壊することと、その再建の禁止が定められており、駐留軍も最低限しか認めず、軍事基地としては無価値となった。さらにフランスに同盟したベンガル太守が廃位され、ニザーム王国もイギリスに寝返ったため、フランスはインドにおける勢力をほとんど失い、イギリスがインドにおける主導権を握り、やがてインド亜大陸全体を支配下に置く結果となった[129]。フランス海軍も戦争で大損害を被り、スペインとともに大規模な再建を経て次の戦争でようやくイギリスの制海権に挑戦することができた[130]

ビュート伯が主導した和約は大ピットのそれよりはるかに寛大であったが、これはフランスから領土を毟りすぎると、イギリスが全ヨーロッパからの嫉妬と敵意を一身に受けることになり、そうならずに和平が続くためには譲歩が必要、というビュート伯の考えであった。しかし、ショワズールはハナから長続きする和平をするつもりがなく、アメリカ独立戦争中にフランスがイギリスに宣戦布告したときにはイギリスはやはり同盟国がなかった[131]。フランスでは敗北が軍制改革のはずみとなり、砲兵に重点を置いた改革が行われた[132]。後のフランス革命戦争ナポレオン戦争で称えられた砲兵システムのグリボーバル・システムはこの1763年の改革を起源とするものである[132]

オーストリア・プロイセン・ザクセン間の和約は1762年12月31日にドレスデンライプツィヒの間にある狩り小屋で交渉がはじまり、1763年2月15日に正式に締結された。フリードリヒ2世はピョートル3世がザクセンの確保を手助けした場合、東プロイセンを割譲するつもりだったが、それがなかったためロシアを和約から除外することを強く要求した(実際、ロシアはすでに交戦国ではなくなった)。また同時にザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世が賠償金を放棄するまでプロイセン軍をザクセンから撤退することを拒否した。オーストリアは1760年に占領したグラーツ(現ポーランド領クウォツコ英語版)だけでも維持したかったが、フリードリヒ2世はこれも拒否した。結局、条約は1748年の原状を回復することだけ定め、シュレージエンとグラーツはフリードリヒ2世へ、ザクセンはフリードリヒ・アウグスト2世へ返還された。プロイセンがした譲歩は皇帝選挙のときヨーゼフ大公に投票することだけだった。

オーストリアはシュレージエンの奪回もほかの領土を得ることも失敗したが、プロイセンのザクセン侵略は防げた。さらに、オーストリア軍の戦闘における実績がオーストリア継承戦争のときよりはるかに上回るものとなり、マリア・テレジアの行政と軍制改革の成功を証明した。そのため、オーストリアはその威信、ひいては帝国のヨーロッパにおける発言権を取り戻した[133]。また、フリードリヒ2世がヨーゼフ2世への投票を約束したことはハプスブルク家の神聖ローマ帝国における優越を認める結果となった。しかし、プロイセンがヨーロッパにおける一線級の国として生き残り、フリードリヒ2世とプロイセン軍の威信が大いに高められたことは長期的にはオーストリアのドイツにおける影響力を低下させた。

それだけではなく、オーストリアは今や帝国内における最新情勢から置いてけぼりにされた。ロシアの勢力の拡大のほか、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はポーランド王でもあったため非効率ながらもザクセンとポーランドの両方から軍を編成することができた。またバイエルンも勢力が増長して独自の動きをし始め、オーストリアに影響されずに独自に軍勢の展開や撤収ができた。さらに、敵国と化したハノーファーがジョージ3世の下でイギリスと同君連合を組んだため大国になり、イギリスを将来の争いに巻き込んだ。戦争はまた、マリア・テレジアの改革がプロイセンと対抗するにはまだまだ力不足であったことを示し、しかもプロイセンと違い、オーストリアは戦争の終わりには財政破綻に違い状態にあった。そのため、マリア・テレジアはくる20年間に行政改革に専念した。

プロイセンは戦争の勝利で大国と化し、その地位に挑戦できる者はいなかった。フリードリヒ2世自身の威光も大きく増したが、これはイギリスの財政援助と彼自身の強運(ロシアが急に方針転換したこと)がすぐに忘れられ、彼の精力的な行動と軍事上の才覚のみが人々の記憶に残ったためであった[132]。七年戦争はプロイセンが大国化した瞬間であったが、同時にプロイセンを弱体化させた[132]。プロイセンの領土と住民は蹂躙されたが、フリードリヒ2世の徹底的な農地改革と移民の奨励で解決された。しかしながら、プロイセンにとっては不幸なことに、戦争で多くの兵士と有能な将官が失われ、フリードリヒ2世は戦後にプロイセン軍を戦前と同程度までに再建することはできなかった[132]。1779年のバイエルン継承戦争ではフリードリヒ2世が親征したにもかかわらず、プロイセン軍の動きは精彩の欠けるものであった[132]。1792年から1795年までのフランス革命戦争でもフランス軍に対し成果を挙げられず、1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いで全滅する結果となった[132]。結局、プロイセン政府が改革に踏み切ったのは1806年以降、イエナでの災難から回復するためであり、それが19世紀末のプロイセンの華々しい勝利をもたらした[132]。いずれにせよ、これらは全て後世の話であり、1763年の直後の時点では諸国が士官をプロイセンに送り、その軍事力の秘密を学ぼうとした[132]。七年戦争の後、プロイセンはヨーロッパにおいて一番多く模倣された国であった[132]

ロシアは戦争からフランスのポーランドにおける影響力の排除という無形の利益を得た。このため、1772年の第一次ポーランド分割はロシアとプロイセンが主導したものであり、オーストリアは嫌々ながらも参加、フランスは完全に無視された[131]。戦争は引き分けに終わったものの、(ロシア軍がプロイセン領土でプロイセン軍に勝利できることが予想されなかったこともあって)ロシア帝国軍がプロイセン軍に対し健闘したことはロシアの評判を上げた[132]。アメリカの歴史家デーヴィッド・ストーンはロシア軍がプロイセン軍に直接会戦を挑むことができ、血なまぐさい一斉射撃を何度受けても「たじろぐこともない」と評し、またロシアの将軍の才能が参差していたにもかかわらず、ロシア軍が決定的に敗北したことがないことを指摘した[134]。ロシア軍は戦場でプロイセン軍を数度撃破したが、兵站の整備に欠けたため戦果を確保することができなかった。そのため、プロイセンが生き延びた理由は戦上手というよりロシア軍の補給線が弱かったことが主であろう[135]。いずれにせよ、ロシア軍が将官の才能の参差にかかわらず第一線のヨーロッパ軍をアウェイで勝利したことはロシアのヨーロッパにおける地位を向上させた[134]。長続きした影響の1つとしてはロシア軍に兵站という弱点を気づかせ、ロシア軍の需品係改革をもたらしたことがある[136]。この改革で効果的な兵站システムが作り上げられ、ロシア軍は1787年から1792年までの露土戦争においてバルカン半島に進軍することができ、フランス革命戦争の1798年から1799年までのイタリアとスイス戦役においてアレクサンドル・スヴォーロフの勝利に一役買い、さらに1813年から1814年の第六次対仏大同盟でドイツとフランスを進軍してパリに侵攻することができた、といった成果をもたらした[136]

イギリス政府も財政難にあえぎ、しかも新しく支配下に置いたフランス系カナダ人とフランスに味方したインディアンの鎮圧という難しい仕事に直面していた。1763年、五大湖地方と北西部(現アメリカ中西部)においてインディアンが反乱を起こし、ポンティアック戦争が勃発した。オタワ族ポンティアック酋長が反乱を率いたとされ(彼の役割はイギリスに過大評価されているとされた)、インディアンがフランス勢力の退潮に不満を感じたことが原因であった。インディアンはフランス人の毛皮商人と長らく交易していたが、フランスが敗戦してアメリカの植民地をイギリスに割譲したため変わってイギリス系アメリカ人の毛皮商人と交易した。しかし、インディアンたちはイギリス系の商人に毛皮を売るときに騙されたと激怒した[137]。さらに、インディアンたちは貿易だけが目的のフランスと違って、イギリスの支配下におかれると入植者がインディアンを追い出すことを危惧していた[137]。ポンティアック戦争はイギリスが一時的に五大湖地方と北西部の支配を失ったほどの大規模な戦争であった[138]。1763年が半分過ごした頃にはイギリスはデトロイト砦(現ミシガン州デトロイト)、ナイアガラ砦(現ニューヨーク州ヤングスタウン)、ピット砦(現ペンシルベニア州ピッツバーグ)を維持するのみとなり、残りの要塞は全てインディアンに占領された[139]ブッシーランの戦い英語版での勝利のみがイギリスの五大湖地方における総崩れを防いだのであった[140]。ジョージ3世の1763年宣言は植民地人に対してアパラチア山脈の西側で入植を禁じたもので、その目的はインディアンとの関係を安定させることにあったが、インディアンの土地の奪取に積極的な13植民地の植民地人の憤りを募らせてしまった。同じく、フランス系カナダ人との関係の安定化を目的としたケベック法も入植者の怒りを買った[141]。同法がカトリック信仰とフランス語を守ったためアメリカの入植者を怒らせたが、ケベック人たちはアメリカ独立戦争を通して反乱を起こさず、イギリスに忠誠のままに留まった。

戦争はまた、アウクスブルク同盟以来のヨーロッパにおける「古い同盟システム」を終わらせた[注 5]。戦後、サンドウィッチ伯爵はこのシステムを再建しようとしたが、大国の同盟に意外にも打ち勝ったことでイギリスはオーストリア、オランダ、スウェーデン、デンマーク=ノルウェー、オスマン帝国、ロシアなどヨーロッパ諸国にフランスより強い脅威であるとみなされ、プロイセンも1762年にイギリスが単独講和に走ったことを裏切りとみなし、イギリスとの同盟に参加した国はいなかった。そのため、アメリカ独立戦争が国際戦争になった1778年から1783年までの間、イギリスはヨーロッパ諸国の大同盟との戦いに直面し、主な同盟国はだれもいなかった[142]

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ スウェーデン軍がドイツ北部のポンメルンでしか戦わなかったため。
  2. ^ 一例としては1632年のサン=ジェルマン=アン=レー条約英語版がある。
  3. ^ この場合、敵とはフランスで、敵の敵とはプロイセンのこと。
  4. ^ 例えば、Canada to Confederation p. 8: Barriers to Immigrationでは本国においてヌーベルフランスの印象が「北極の不毛の地で野獣と野蛮なインディアンしかいない」というものだとした。
  5. ^ このシステムとはすなわち、イギリスが主導したヨーロッパにおけるブルボン家の野心に反対する同盟である。

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フィクション

外部リンク