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== 地理 ==
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2019年10月29日 (火) 00:14時点における版

樺太島
樺太
所在地 ロシアの旗 ロシア (北樺太)
日本政府はサンフランシスコ平和条約によって南樺太を放棄したが、ソ連邦が締結しなかったため、南樺太は帰属未定地である。
所在海域 オホーツク海日本海
座標 北緯45度54分 - 北緯54度20分
東経141度38分 - 東経144度45分
面積 76,400平方キロメートル km²
最高標高 1,609メートル m
最高峰 ロパチン山
プロジェクト 地形
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樺太(からふと)、樺太島(からふととう、ロシア語Сахалин中国語庫頁島)、サハリンサハリン島は、ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州が北緯50度以北を領有する島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400km2は世界第22位で21位の北海道(78,073km2)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(日本名: 豊原)(人口約18万人)。

樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。

現在、サハリンプロジェクトが進められている。

概要

1945年(昭和20年)までは北緯50度線を境にして、南半分(南樺太、南サハリン)を「樺太(カラフト)」として大日本帝国が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語Сахалин」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。[1]

現在はロシア連邦が北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している[2][3]

日本政府は南樺太について、日本はサンフランシスコ講和条約によって南樺太を放棄したが、当時のソ連はこれに加盟していない為、条約の内容がソ連に適用される訳ではなく、南樺太は帰属未定地である、としている[4]

第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の戦いが行われた地である(樺太の戦い)。

名称

「からふと」の名は、一説にはアイヌ語でこの島を「カムイ・カ・プ・ヤ・モシ 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言う。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる[5]。尚、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ[6]、 北海道アイヌ語ではカラプト Karapto と呼ばれる [7]

古くは1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)のシャクシャインの戦いに関する同時代史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる[8]1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる[9]

1783年(天明3年)の『加模西葛杜加国風説考』では「カラフトの北にサカリインといふ大嶋有」とし、同書の付図では「カラフト」を大陸と地続きの半島として描き、別に「サカリイン」を島として描いている[10]。1785年(同5年)の『三国通覧図説』においても「カラフト嶋」は大陸の半島としてを描かれ、別に「北海中ノ一大国」として「サガリイン」を描いている。1809年(文化6年)以降は東西の蝦夷地に対して北蝦夷地とも呼ばれた(それ以前は西蝦夷地に含まれた)。その後、明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という漢字表記が定められる。[11]

「サハリン」(古くは「サガレン」と表記)という名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量の際に、黒竜江(満州語名:ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
転写:sahaliyan ula、サハリヤン・ウラ)河口の対岸に島があると聞き、そこを満州語でサハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ(ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
ᠠᠩᡤᠠ
ᡥᠠᡩᠠ
転写:sahaliyan ula angga hada、「黒竜江の対岸の島」)と呼んだことに由来する。ポーツマス条約調印以降の日本では、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)と呼ぶ場合もあった。「サガレン州派遣軍」などは、その一例である。

中国語ではの時代の呼び名である「庫頁島」(クーイェダオ)と呼ばれる。また、ロシア語の音訳である「薩哈林島」(サハリンダオ)も使われる。

地理

樺太と周辺の地形
樺太の白地図

樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400km2である(北海道本島の面積は77,981.87km2)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。

樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前の氷河期には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。

樺太の最北端は、シュミット半島の先端に位置しているガオト岬(エリザベート岬)である。シュミット半島から西方の樺太北岸から、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸までの海岸線を一続きとみると南に湾曲した湾状の海岸線となっている。この湾はサハリン湾と呼ばれている。

南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾(アニワ湾)がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬である。中知床半島の先端は中知床岬である。

樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部は黒龍水道と呼ばれ、その幅は約7.3kmである。

東方のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出ている。先端の北知床岬から西方は北へ向かって海岸線が湾曲し、その湾は多来加湾(タライカ湾)と呼ばれている。

樺太の気候亜寒帯モンスーン気候に属する。夏季湿度が高く、が多く発生し、日照時間が少なくなる。冬はオホーツク海側で乾燥し、厳しい寒さとなり、海が氷結すると晴天が続く。日本海側では雪が多くなるものの、オホーツク海側と比較して冷え込みは緩む。また、夏と寒暖の差が大きく、特に大陸の影響を受けやすい北樺太は、大洋の影響が大きい南樺太より気温差が大きく、2018年現在まで観測されている最高気温記録は、ノグリキで1977年7月に観測された39度、最低気温記録はティモフスコエで1980年1月に観測されたマイナス50度であり、寒暖差の大きさがデータでも確認することができる。南西部は対馬海流暖流)の影響を受け比較的温暖であり冬季も海は結氷しないが、北東に行くにしたがい東樺太海流寒流)の影響を受け気温が低く冬季は海が結氷する。植物の分布境界線として北樺太西海岸のヅエと南樺太東岸の内路を結ぶシュミット線が有名であり、日本固有種の分布はこの線より南側で、北側は針葉樹林などシベリア系の様相となっている。動物の分布境界線は八田線(宗谷線)があり、宗谷海峡を挟み樺太と北海道で両生類爬虫類などの分布が異なっている。

樺太は石油天然ガスなどの豊富な地下資源にも恵まれている。

地理的な日本列島(国家としての意味ではない)の中では、本州北海道に次ぎ、3番目に大きい島である。

樺太の先住民には、南部のアイヌ、東岸中部以北(幌内川とロモウ川の流域)のウィルタ、北部のニヴフといった北方少数民族がいる。1905年から1945年までの日本統治下の南樺太では樺太庁はアイヌを除く樺太先住民(ウィルタ、ニヴフなど)は戸籍法上は樺太土人と扱って内地人と区別されていたが、日本国籍を付与していた(樺太アイヌは当初は樺太土人として内地人と区別されていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人と同じとなった)。樺太の先住民は南樺太に居住して日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留意思を持った者を除き北海道に送還されている。日本では終戦後の1945年にアイヌを除く樺太先住民の参政権が停止されたものの、1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際に就籍という形で参政権を回復した。現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明である(ロシアにおけるアイヌも参照)。

ギャラリー


主な山岳

主な湖沼

主な河川

島嶼

南樺太

王子製紙豊原工場。

南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に外地から内地へと編入された。人口1945年(昭和20年)当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業農業林業製紙パルプなどの工業石炭石油採掘業など。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市ユジノサハリンスク)。

1995年(平成7年)より稚内〜コフサコフ〜小樽[注釈 1]を結ぶ日露定期航路が開設されており、稚内港より船で渡航が可能である[12]。なお、稚内とコルサコフ間に定期航路が就航したのは50年ぶりである[12]

石炭産業

1905年、明治政府は、樺太南部から中部までの地層を細かく調査、本州へも移出。塔路町周辺では良質の無煙炭が多く採れた。その富を求めて、人口が増加、塔路小学校では三千名の児童を抱え、六十名の教員が在職、「日本最大の小学校」と言われた。[13][14]

亜庭湾

樺太の留多加は比較的に温暖であり、農耕にも適しているが、亜庭湾においてホッキガイなどを採取し、採取後には暖を取るためたき火などもしていた[要出典]

林業と製紙業

1905年(明治38年)の祖国復帰後、明治政府は蝦夷松椴松パルプの原料となることを調査・研究によって突き止め、1914年(大正3年)、第一次世界大戦特需景気の恩恵を受け急成長を遂げる。王子製紙富士製紙樺太工業による三社寡占状態であったが、1933年(昭和8年)に王子製紙が競合二社を吸収合併、王子製品は本州へも移出された。また同時期には木材業者の合併も行われ、樺太木材統制組合が設立された。

森林伐採は、開発と不可分で進行するが島内ですべてを消費できることもなく、木材の島外への移出は活発となった。移出量は、1929年(昭和4年)にピークを迎え約1,300万石を記録。しかしその後は漸減し、第二次世界大戦直前の1941年(昭和16年)には約10万石に落ち込んだ。戦争中は、木材を運搬する船腹が不足し、積み出しが不能になったまま終戦を迎えた[15]

新聞

日刊紙だけでも十紙以上が発行されていた(後、読売新聞社が経営、日刊各紙は読売に統合後、読売系樺太新聞となる)。代表的な日刊紙は、樺太日日新聞、樺太時事新聞、樺太毎日新聞、真岡毎日新聞、恵須取毎日新聞である[要出典]

ラジオ放送

1936年(昭和11年)、豊原での試験放送が人気を得て、1941年(昭和16年)、日本放送協会(NHK)は豊原放送局を開設。

銭湯

島民の証言によると、豊原には数軒以上の銭湯があった[要出典]

樺太出身の有名人

交通

稚内桟橋駅から大泊港駅まで、稚泊連絡船で約8時間。

遺骨

熊笹峠には、樺太の戦いにおけるソ連軍の南進を阻止し、同軍に北海道進攻を断念させた日本の将兵の遺骨が今も眠っている[要出典]

皇太子裕仁親王の行啓

1925年(大正14年)、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が、樺太を訪問(行啓)。豊原市真岡町大泊町などで構成される樺太庁が出迎えた[要出典]

樺太犬

樺太犬は日本固有種であり、きわめて飼い主に忠実である。南極物語に登場するタロとジロがそうである。

カラフトマス(樺太鱒)

カラフトマスは、缶詰の原料として利用されている。

マリモ

樺太の富内村には湖沼が多数存在し、マリモが多く生息し北海道のものとは種類が異なるため、樺太天然記念物として指定されている。

フレップ

フレップ(コケモモ)と呼ばれる直径約1cm程度の木の実があり、ジャムなどにもなる。フレップとは、アイヌ語で、「赤い物」という意味である。

競馬

日本の植民地時代の南樺太では6月から9月の間、競馬が盛んにおこなわれていた。1931年(昭和6年)には大小20か所の競馬場があり、その中で8か所が1932年(昭和7年)に樺太競馬規則による公認競馬場に認可された。

北樺太(北サハリン)

北樺太は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州に属した。ソビエト連邦成立当初はシベリア出兵時発生した尼港事件を受け、1920年7月から1925年5月15日の約5年間日本のサガレン州派遣軍による保障占領下にあった。1925年(大正14年)に日ソ国交樹立で日本軍が撤退するとハバロフスク地方に編入され、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石、アイヌ語由来。ニヴフ名:イドイー)である。オハ油田サハリンプロジェクトサハリン1サハリン2)が代表的な石油産業である。

歴史

古代以前は南部に進出した続縄文人や、日本書紀上の粛慎とされるオホーツク文化人などが存在し、鎌倉時代以降は南部にアイヌ民族や和人が進出、アイヌ民族が「オロッコ」と呼んだ東岸(中部・幌内川と北部・ロモウ川の流域)のウィルタ民族、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも。アイヌ民族は西岸を「スメレンクル」、東岸を「ニクブン」と呼んだ)などの北方少数民族もいた。

古代から近世

歴史的なアイヌ人口
ピウスツキが撮影した樺太アイヌ(1900年代)

中国、朝鮮の古書(山海経海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」と記載。また、飛鳥時代斉明天皇のころ行われた蝦夷征討・粛慎討伐の際、阿倍比羅夫が交戦した幣賄弁島は樺太との説[16]もある。

以下に幕府が把握した北蝦夷地(樺太)のアイヌ人の人口と、明治政府が把握した樺太人員の本籍人口をまとめる。
北蝦夷地(樺太)人員の変遷
西暦(元号) 人口
1804年(文化元年) 2,100
1822年(文政5年) 2,571
1839年(天保10年) 2,606
1854年(安政元年) 2,669
1873年(明治6年)1月1日 2,358
1875年(明治8年)1月1日 2,374
  • 1808年(文化5年) - 江戸幕府が、最上徳内松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建て間宮海峡を国境とした。
  • 1809年(文化6年)
    • 間宮林蔵は樺太がであることを確認。正式に西蝦夷地から分立し名称が北蝦夷地となる。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の債務問題解決に貢献[26]した。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
    • 栖原角兵衛(信義)伊達林右衛門と共同で北蝦夷地(樺太)場所を請け負う[27]。幕命により樺太・久春古丹(大泊郡大泊町楠渓)と宗谷の間に500 石以上の帆船2艘を就航させ、松前と陸奥三厩の間にも定期航路を開設。南樺太で漁場48箇所を経営[28]し、島内に7ヶ所の通行屋(即ち旅宿所)を設け交通の便を計る。
  • 1821年文政4年) - 幕府、全蝦夷地を松前藩に返還する。
  • 1846年弘化3年) - 松浦武四郎が草履取・運平と名乗り、はじめて渡樺。北蝦夷地勤務を下命された藩医・西川春庵に随行。
  • 1848年嘉永元年) - ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイに黒龍江河口部および樺太沿岸の調査を依頼。間宮海峡を初めて船舶で通過した。

幕末から明治初期

  • 1853年嘉永6年)
    • ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は久春古丹にムラヴィヨフ哨所()を築き、国旗を掲揚し樺太全島の領有を宣言。哨所を築いた場所に日本人の倉庫があったのでこの建物を接収した(ロシア軍艦対馬占領事件帝国主義南下政策も参照)。
    • ロシア使節プチャーチン、国境交渉と交易を求め長崎に来航。日本全権筒井肥前守川路聖謨と交渉したが決裂。北緯50度線分割案も検討されたが、日本に属するアイヌ(オムシャ宗門人別改帳も参照)の居住地(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない無主地として国境交渉。当時、樺太の住民は南部の日本人(アイヌ及び和人)、東岸(中部・幌内川と北部・ロモウ川の流域)のウィルタ、北部のニヴフのみ。間宮海峡対岸の外満州でさえ清国領であり、ロシア領ではなかった[29]
  • 1854年(嘉永7年)
    • 千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)
    • 5月18日 - クリミア戦争の影響を受け、ロシア船4隻が来航し駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタン(久春古丹)を去った。
  • 1854年安政元年)
    • 6月12日、目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが北蝦夷地クシュンコタンに渡海、西は来知志湖近くのライチシカまで、東はオハコタン(栄浜郡白縫村箱田)まで調査。このとき普請役間宮鉄次郎は東海岸タライカ(敷香郡敷香町多来加)まで、支配勘定・上川侍次郎西海岸の北緯50度のすぐ北のホロコタン(幌渓、露名ピリポ)まで、松前藩士今井八九郎はニヴフ居住地・北樺太ナッコ(ラッカ)まで調査。
    • 日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによること(国境交渉先送り)を決定した[30]
  • 安政年間(1854 年~1860年)から明治初期にかけて、安房勝山藩小浜藩黒羽藩烏山藩笠間藩加納藩の各藩もタライカ湾の静香川(敷香郡敷香町)近辺に警固の拠点を構えた。東岸でフヌプより北に居住するアイヌ(タライカ人)は60名で、多来加湾岸は東岸におけるアイヌ居住地北限であるが、特に多来加湖周辺ではニヴフやウィルタと混住していた。
  • 1855年(安政2年) - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、秋田藩が白主と久春古丹に陣屋を築き警固を行った。また、この年以降番人を足軽に取立て武装化し冬季も警固した。
  • 1856年(安政3年)
  • 1857年(安政4年)
    • 越後出身の蝦夷地御用方・松川弁之助が東岸のオチョポカ(富内郡富内村落帆)に漁場(ぎょば)を開拓する。
    • 越後国蒲原郡井栗村の大工職の平次郎の妻よつ、樺太で身内が亡くなりワアレ(栄浜郡白縫村輪荒)まで一人で旅した[32]
    • 佐藤広右エ門、東海岸のマアヌイと西海岸の久春内に取締所と番屋(漁舎)、東海岸のオチョポッカや魯礼にも会所(運上屋)を建て漁場の経営に当った。
    • 7月 - ロタノスケ率いるロシア軍がナヨロ(泊居郡名寄村)に上陸しクシニンナイに移動、クスナイスキー哨所を建設したが日本の警護が固く8月1日撤退。
    • 同年、海軍大尉N.M.チハチョーフがニヴフ居住地・北樺太西海岸の土衣にドウーエ哨所を建設。
    • 安政3年4年(1856・57)頃、幕府の施設でクシュンコタンに大砲4基が設置された台場1カ所が存在。陸上交通について、西岸は「通行屋」5カ所、「小休所」3カ所、ナヤス(名好郡名好村)以北のみに「露宿」あり。亜庭湾岸は「通行屋」8カ所と、「小休所」3カ所。東岸は「通行屋」5カ所と、「小休所」5カ所。
  • 1858年(安政5年)
    • 幕府は大野藩土井利忠に北蝦夷地警固と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ(鵜城)場所)。ウショロ場所には、名好郡やホロコタン(幌渓、露名:ピレオ)も含まれた。同年、クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。
    • 10代目・山田文右衛門(清富)が差配人並に任じられ、シュシュウシナイ(栄浜郡栄浜村栄浜)など東海岸に数か所の漁場を開いた。
    • 米屋喜代作(慶応二年以降の佐野孫右衛門)等もイヌヌシナイ(栄浜郡栄浜村犬主)やマクンコタン(元泊郡帆寄村馬群潭)に漁場を開いた。
    • マーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)にマヌエ哨所を建設。少数のロシア兵が定住し、はじめて日露両国人の部分的な雑居状態が生じる。これを除くと、当時、樺太に居住するロシア人はニヴフ居住地の北樺太西岸・オッチシ(落石、露名:アレクサンドロフ・サハリンスキー)に12名のみである。
  • 1859年(安政6年)7月26日 - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛遠藤胤統酒井忠毘を通してこれを完全に退けた。
  • 1860年万延元年)
    • 樺太南部の警固は仙台・会津・秋田・庄内の4藩となる。
    • 佐藤広右衛門、中知床岬北東海岸に漁場7カ所を開く。
  • 1862年文久2年)
    • 安房勝山藩、藩士渡辺隆之助を派遣、東岸のシスカ(敷香郡敷香町)に漁場を開設。
    • 勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ(真岡郡真岡町)、ワーレ(栄浜郡白縫村輪荒)、クシュンナイの5ケ所となる。
  • 1863年(文久3年) - 樺太南部の警固は仙台・秋田・庄内の3藩となる。
  • 1865年慶応元年)
    • 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
    • ロシア軍艦が久春内に来航し、大砲二門を揚陸し強引に哨所を築く。
  • 1866年(慶応2年)
    • 2月 - 久春内幕史拘束事件
    • 9月 - ロシア兵はナイブチ(内淵)川(栄浜郡栄浜村内淵)川口近くに小屋を建てた。
  • 1867年(慶応3年)
    • 樺太島仮規則調印。樺太全島を日露雑居地[33]とされた。以降、ロシアは軍隊を増派して北緯48度以南や日本の本拠地である樺太南端・亜庭湾岸までの軍事的制圧に着手。
    • 6月、栖原角兵衛(寧幹)は樺太漁業出稼を命ぜられる。同年12月樺太東海岸漁業出稼を命ぜられ、栖原家が経営した漁場は58か所に及んだ。
  • 1868年慶応4年)
    • 4月12日 - 箱館裁判所(間4月24日に箱館府と改称)の管轄となった。
    • 6月末 - 岡本監輔、箱館府の行政官としてクシュンコタン(大泊郡大泊町楠渓)に着任し公議所を置くとともに、島内8ヶ所に出張所を設置し官員を派遣。
  • 1869年明治2年) - 開拓使直轄領となり、北蝦夷地を樺太と改称。この年からロシアは囚人を送込み始める。
  • 1870年(明治3年)2月13日 - 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
  • 1871年(明治4年)8月7日 - 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
  • 1872年(明治5年) - 羅卒(警察官)を樺太に派遣(壬申戸籍も参照)。
  • 1873年(明治6年) - ロシア兵が破壊活動や消火活動妨害を行った函泊(大泊郡大泊町山下)出火事件を受け、羅卒を増員。
1880年代の樺太へのロシアの流刑者。

全島のロシア領期

南部の日本領期

  • 1905年(明治38年)9月5日 - 日露戦争勝利後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)が日本領に復帰。行政機関として樺太民政署が設置される。
  • 1907年(明治40年)4月1日
    • 樺太民政署の発展的解消により樺太庁発足。
    • 樺太ニ施行スヘキ法令ニ關スル法律(明治40年法律第25号)施行[34][35]
北緯50度の国境標識と、警備にあたる日本の国境警察隊員。1913年(大正2年)から1939年(昭和14年)まで南樺太に日本軍部隊は常駐せず、国境警察隊だけが警備を担当していた。
日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷を以下にまとめる。
日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷
調査年月日 人口 出典
1908年(明治41年)12月31日 26,393 樺太庁統計書
1913年(大正2年)12月31日 44,356 樺太庁統計書
1918年(大正7年)12月31日 79,795 樺太庁統計書
1920年(大正9年)10月1日 105,899 国勢調査
1925年(大正14年)10月1日 203,754 国勢調査
1930年(昭和5年)10月1日 295,196 国勢調査
1935年(昭和10年)10月1日 331,943 国勢調査
1940年(昭和15年)10月1日 414,891 国勢調査
1944年(昭和19年)2月22日 391,825 人口調査
ただし、極寒の樺太では夏と冬では人口が違い、冬には避寒のため北海道や以南に戻る者が多く人口が減り、翌夏にはまた増える。例としては明治44年では夏の人口は57000人だが冬には36725人に減っている[36]
樺太のロシア人集落
1930年(昭和5年)頃
  • 1925年(大正14年)5月15日 - 日ソ基本条約締結にともない北樺太から撤兵する。条約により北樺太の天然資源の利権を獲得(オハ油田も参照)。
  • 1929年(昭和4年)
  • 1937年(昭和12年)7月1日 - 樺太市制により、豊原町が市制施行する。
  • 1938年(昭和13年)1月3日 - 女優岡田嘉子脚本家杉本良吉とともに樺太国境を越境し北樺太に亡命。スパイ容疑でソ連当局に逮捕され、杉本は銃殺された(大粛清#外国人粛清者)。
  • 1939年(昭和14年)
    • 特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法を制定。
    • 5月23日 - 上敷香に樺太混成旅団が新設された。

内地時代

1930年代(内地編入前)の豊原市中心部(真岡通り)の風景。

戦後の樺太

  • 1945年(昭和20年)9月17日 - 南サハリン・クリル列島住民管理局の設置により、樺太庁が事実上廃止される。
  • 1946年(昭和21年)1月 - 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) より日本政府に対しSCAPIN-677が通達され、日本の政治的・行政的権限の行使の中止が指令される。
  • 1946年(昭和21年)2月2日 - 1945年9月20日まで遡り南サハリン州が設置され旧日本領の千島列島とともに南樺太が編入される。
  • 1947年(昭和22年)1月2日 - 樺太全島と千島列島からなるサハリン州に編入。
  • 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法が施行される。これをもって日本の国内法的に樺太庁が廃止される。
  • 1952年(昭和27年)4月28日 - 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効により日本が南樺太の権利権原及び請求権を放棄。(ただしソ連は調印・批准していない)
  • 1989年(昭和64年・平成元年) - ソ連のミハイル・ゴルバチョフ政権による緊張緩和により外国人の立ち入りが許可される。
  • 1991年(平成3年)12月25日 - ソ連崩壊に伴いロシアがサハリン州を継承。
  • 2001年(平成13年) - 日本がユジノサハリンスクに総領事館を開設。

帰属の歴史

領土開発1875年から1945年:
1875年: 樺太・千島交換条約
1905年: ポーツマス条約
1945年:第二次世界大戦の終わり
ロシアにおける樺太の位置
宗谷岬から樺太を望む。この写真ではぼんやりしているが、天候によってははっきり見えることもある[45]

幕末以来、日本とロシアの間で領有者がたびたび変遷した。

領土問題

1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦8月11日より南樺太に侵攻を開始した。8月14日ポツダム宣言受諾後も、8月22日知取町で日ソ停戦協定が成立するまで侵攻を続けた。結果南樺太を占領し、現在の継承したロシアに至るまで実効支配を続けている。

1951年(昭和26年)9月8日サンフランシスコ講和条約締結により、南樺太の領有権を日本政府は放棄した。

ソビエト連邦はサンフランシスコ講和条約締結国でなく、南樺太の領有権の帰属先は条約上は未定のままとなっている。

冷戦下の1952年(昭和27年)3月20日アメリカ合衆国上院は、同年4月28日に発効するサンフランシスコ平和条約の解釈から南樺太の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のために、南樺太の権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない、とする決議を行っている。

しかし、このような議論は一般的なものではなく、日本政府もサンフランシスコ平和条約の立場上、領土返還要求を行ってはいない。この点が、いわゆる北方領土問題北方地域)とは異なっている。

ソビエト連邦崩壊後、それを継承したロシア連邦がいまなお南樺太全体を実効支配している。日本政府は南樺太の帰属は未確定で、最終的な帰属は将来の国際的解決手段に委ねられると主張している[48]。一方で、ロシアによる実効支配についてロシア以外のいかなる国の政府も領有権の主張を行っておらず、領有権を放棄した日本政府も異議を唱える立場にはないとしている[48]

また、日本政府は仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて在ユジノサハリンスク総領事館について必要な措置を取ると主張している[48]

ロシア側の立場は、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったが日本は国際条約で領有権を放棄している、ロシアの南樺太領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されているというものである。

領土が未帰属であることから北方領土問題とともに取り上げられることも少なくない。架空戦記の話題にもなった[49]

樺太等在留邦人

樺太等に住んでいたが敗戦の混乱により帰国できなかった日本人。2018年現在では家族を含め275人が永住帰国を果たし86人が樺太に23人が旧ソ連圏に暮らしている[50]

脚注

  1. ^ 「樺太―カラフト」を知る ニッポン 領土問題の原点 侵奪―回復ー放棄―不法占拠―そして? (別冊正論25)12頁
  2. ^ 阿部照哉畑博行編『世界の憲法集 〔第二版〕』(有信堂、1998年8月発行)の「18 ロシア連邦」(宮地芳範が訳出及び解説を執筆)の「ロシア連邦憲法」第3章(連邦体制)第65条(ロシア連邦の主体)第1項によれば、サハリン州がロシア連邦を構成する主体となっている。
  3. ^ サハリン州憲章(1996年施行)第3条第1項によれば、「サハリン州の領土には、サハリン島とそれに隣接する領土、小クリル列島を含む千島列島の領土、ならびにロシア連邦の国際的条約と連邦法によってその境界が定められる内水と領海が入る。」と規定されている。
  4. ^ 北方領土問題に関するQ&A”. 2019年1月31日閲覧。
  5. ^ 西鶴定嘉説
  6. ^ 中川裕; 北原次郎太; 永山ゆかり; バヤリタ; ブリガ; 児倉徳和; 久保智之; 西田文信 ほか『ニューエクスプレス・スペシャル 日本語の隣人たちⅡ』白水社、2012年。ISBN 9784560086162 
  7. ^ 同上、及び 田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館、1996年。ISBN 9784883230938  、ほか多数
  8. ^ 海保嶺夫『北方史史料集成』北海道出版企画センター〈第4巻〉、1998年。ISBN 9784832898028 
  9. ^ 國東利行『廻国僧正光空念師宝永元年松前・蝦夷地納経記』北海道出版企画センター、2010年。ISBN 9784832810099 
  10. ^ 岩崎奈緒子「史料紹介 天理大学付属天理図書館所蔵 加模西葛杜加国風説考」『北海道・東北史研究』第3号、北海道・東北史研究会、2006年12月、NAID 40015350264 
  11. ^ 「ニッポン 領土問題の原点!!「樺太-カラフト」を知るの15頁の上段4行目。侵奪―回復―放棄―不法占拠―そして?【発行所:産経新聞社 発売所:日本工業新聞社】
  12. ^ a b c 建設産業部サハリン課. “サハリンへの旅”. 稚内市. 2019年10月21日閲覧。
  13. ^ 樺太の石炭産業の起源については、「十九世紀中旬、ロマノフ朝東シベリア総督が、樺太に送り込んだ囚人の一部を炭坑夫として労働させ、ごく小規模な炭鉱経営を開始したと考えられている(出典:太陽出版『絵で見る樺太の歴史』78ページ)
  14. ^ 『樺太の炭坑』(Website "樺太大百科")http://kam-r.sub.jp/ainu/karafutohyakka.html
  15. ^ 上野金太郎編『北洋材十年史』1970年 全国北洋材協同組合連合会 p.34 記録編
  16. ^ 西鶴定嘉 「樺太の栞」
  17. ^ 榎森進 『アイヌ民族の歴史』 草風館、2015年、46頁。
  18. ^ エゾの歴史 海保嶺夫 ISBN 978-4061597501 初版96年(2006年 講談社学術文庫版 103-104頁)
  19. ^ 榎森進 『アイヌ民族の歴史』 草風館、2015年、64頁。
  20. ^ 古代の日本 第九巻、東北・北海道、角川書店 ISBN 4045220097
  21. ^ ウィマムとは藩主や役人にお目見えすること。
  22. ^ 『熊石町史』熊石町発行(1987年9月)
  23. ^ 池添博彦、「北蝦夷地紀行の食文化考 北夷分界余話について 帯広大谷短期大学紀要 1993 年 30 巻 p. A51-A60, doi:10.20682/oojc.30.0_A51
  24. ^ 前田 孝和、「旧樺太時代の神社について -併せて北方領土の神社について-」『年報 非文字資料研究』 2015年 11号 p.1-36, 神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
  25. ^ 前田孝和「樺太の神社の終戦顛末」『非文字資料研究』 2012年 27号 p.10-15, 神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
  26. ^ 樺太詰松田伝十郎の山丹交易改革 稚内市
  27. ^ 田島佳也、「近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人」『知多半島の歴史と現在(16) 』 2015年 19巻, ISSN 0915-4833,日本福祉大学知多半島総合研究所
  28. ^ 「北海道の歴史と文化」(北海道史研究協議会編)史料紹介 樺太南部を中心とした栖原家家譜(秋田俊一)
  29. ^ 「北海道」・「沖縄」の植民地化とその国際法の論理 - アジアにおける「先住民族」形成の一時例 - 上村 英明
  30. ^ 榎森進、「「日露和親条約」がカラフト島を両国の雑居地としたとする説は正しいか」『東北文化研究所紀』2013年 l45号 p.1-22, NCID AN00167466, 東北学院大学東北文化研究所
  31. ^ 『新北海道史』第二巻通説一 P.764
  32. ^ 敦賀屋文書(鳥井家文書)
  33. ^ 秋月俊幸、「明治初年の樺太 日露雑居をめぐる諸問題」『スラヴ研究』 1993年 40巻 p.1-21, 北海道大学スラブ研究センター
  34. ^ 樺太ニ施行スヘキ法令ニ關スル法律 - Wikisource
  35. ^ 中野文庫 - 樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律
  36. ^ 樺太庁施政三十年史 上巻、88-89頁。
  37. ^ 明治41年内務省告示第29号(官報第7425号、p.788
  38. ^ 法律第39号 官報 大正7年(1918年)4月17日
  39. ^ 勅令第124号 官報 大正9年(1920年)5月3日
  40. ^ 竹野学、「保障占領下北樺太における日本人の活動 (1920-1925)」『經濟學研究』 2013年 62巻 3号 p.31-48, 北海道大学大学院経済学研究科
  41. ^ Vladimir Datsyshen,"The Russian-Japanese relations in Northern Sakhalin during the Japanese occupation (1920–1925)", Yearbook Japan, Institute of Oriental Studies of the Russian Academy of Sciences, 2014
  42. ^ 樺太も含めた場合、北海地方という
  43. ^ 知られざる本土決戦 南樺太終戦史 藤村建雄 ISBN 978-4769816362
  44. ^ 中山隆志 『一九四五年夏 最後の日ソ戦』 中央公論新社〈中公文庫〉、2001年、179頁。
  45. ^ 稚内観光協会 1月16日閲覧。
  46. ^ 日本政府外務省日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』6ページ)
  47. ^ 『北方領土問題資料集』南方同胞援護会発行(1966年6月)4ページ
  48. ^ a b c 北方領土問題に関するQ&A(関連質問) 外務省HP
  49. ^ 『北方領土奪還作戦』
  50. ^ 1 中国残留邦人の状況 (平成30年8月31日現在)”. 2018年9月23日閲覧。

注釈

  1. ^ 小樽航路のみ休止中[12]

参考文献

  • 角田房子『悲しみの島サハリン—戦後責任の背景』新潮社。ISBN 4101308063 
  • ウィーゾコフ『サハリンの歴史-サハリンとクリル諸島の先史から現代まで』北海道撮影社。ISBN 4938446596 
  • アントン・チェーホフ 『サハリン島』 原卓也訳、中央公論新社 新版2009年。

関連項目

地理

その他

外部リンク