「竹 (松型駆逐艦)」の版間の差分
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|運用者 = {{navy|大日本帝国}} |
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|建造所 = [[横須賀海軍工廠]] |
|建造所 = [[横須賀海軍工廠]] |
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|クラス = [[松型駆逐艦]] |
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|発注 = 1942年戦時建造補充([[改マル5計画|改マル5]])追加計画 |
|発注 = 1942年戦時建造補充([[改マル5計画|改マル5]])追加計画 |
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|起工 = [[1943年]]10月15日 |
|起工 = [[1943年]]10月15日 |
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|進水 = [[1944年]]3月28日 |
|進水 = [[1944年]]3月28日 |
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|竣工 = 1944年6月16日 |
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|除籍 = [[1945年]]10月25日 |
|除籍 = [[1945年]]10月25日 |
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|その後 = 1945年12月1日[[復員輸送艦|特別輸送艦]]指定<br />その後イギリスに賠償艦として引き渡し解体 |
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|クラス = [[松型駆逐艦]] |
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|基準排水量 = 1,262t |
|基準排水量 = 1,262t |
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|公試排水量 = 1,530t |
|公試排水量 = 1,530t |
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|航続距離 = 18ktで3,500[[海里|浬]] |
|航続距離 = 18ktで3,500[[海里|浬]] |
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|燃料 = [[重油]]370t |
|燃料 = [[重油]]370t |
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|乗員 = 211名/248名<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 7頁</ref> |
|乗員 = 211名/248名<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 7頁</ref>(後日、323名){{Sfn|南海の死闘|1994|pp=81-82|ps=「竹」の性能}} |
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|兵装 = [[四〇口径八九式十二糎七高角砲|40口径12.7cm単装高角砲]] 1基<br />[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|40口径12.7cm連装高角砲]] 1基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm連装機銃]] 4基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm単装機銃]] 12基<br />[[酸素魚雷|61cm]]4連装九二式[[魚雷発射管]] 1基4門(予備魚雷なし)<br />九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発) |
|兵装 = [[四〇口径八九式十二糎七高角砲|40口径12.7cm単装高角砲]] 1基<br />[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|40口径12.7cm連装高角砲]] 1基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm連装機銃]] 4基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm単装機銃]] 12基<br />[[酸素魚雷|61cm]]4連装九二式[[魚雷発射管]] 1基4門(予備魚雷なし)<br />九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発) |
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'''竹''' (たけ) は、[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]<ref name="S19達17号">[[#達昭和19年1月(2)]]pp.31-33 |
'''竹''' (たけ) は、[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]<ref name="S19達17号">[[#達昭和19年1月(2)]] pp.31-33〔 達第十七號 昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、潜水艦三隻、海防艦七隻、掃海艇一隻、驅潜艇一隻及特務艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十九年一月二十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 <strong>驅逐艦 竹(タケ)</strong> 伊號第三百六十八號潜水艦 伊號第三百六十九號潜水艦|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 梅(ウメ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 桃(モモ)|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 伊號第十五潜水艦|日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 屋代(ヤシロ) 海防艦 日振(ヒブリ)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 鵜来(ウクル) 第十三號海防艦 第十五號海防艦 第十七號海防艦 第十九號海防艦|株式會社東京石川島造船所ニ於テ建造 第三十四號掃海艇|株式會社新潟鐡工所ニ於テ建造 第六十三號駆先手|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 特務艦 大濱(オホハマ)〕</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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一等駆逐艦'''竹'''(たけ)は、日本海軍が[[ |
一等駆逐艦'''竹'''(たけ)は{{Sfn|福井静夫、日本駆逐艦物語|1993|p=291|ps=(I 一等駆逐艦つづき)竹(II)Take}}、帝国海軍が[[大東亜戦争]]中に[[横須賀海軍工廠]]で建造した駆逐艦{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=331|ps=竹(たけ)}}。戦時量産型駆逐艦である[[松型駆逐艦|松型駆逐艦(丁型駆逐艦)]]の2番艦であり{{Sfn|戦史叢書88|1975|pp=52-56|ps=駆逐艦(丁)}}、日本海軍の艦名としては[[樅型駆逐艦]]の「[[竹 (樅型駆逐艦)|竹]]」に続いて2代目である{{Sfn|福井静夫、日本駆逐艦物語|1993|p=295|ps=日本海軍駆逐艦艦名一覧/Ⅱ二等駆逐艦}}。戦時量産型のため「雑木林」と渾名され{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=71,86-87}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=133a-134|ps=雑木林の真価}}、速力や火力などの諸性能は限定されていたが、生存性(被害極限性)は従来の日本海軍駆逐艦に比べて格段に向上していた{{Sfn|福井静夫、日本駆逐艦物語|1993|pp=235-237|ps=新機軸をもつ小兵「松型」}}。 |
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[[1944年]](昭和19年)[[6月16日]]に竣工後、「竹」は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属して訓練や輸送任務に従事 |
[[1944年]](昭和19年)[[6月16日]]に竣工後<ref>[[#S1906十一水戦日誌(1)]] p.42(作戦経過概要、昭和19年6月16日(天候等略)〔 竹11Sdニ編入 〕</ref>、「竹」は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属して訓練や[[南西諸島]]への輸送任務{{Sfn|戦史叢書17|1968|pp=48-49|ps=海軍艦艇をもってする兵力展開輸送}}に従事した<ref name="ハンディ18写真52">[[#ハンディ判艦艇写真集18]] p.52〔 駆逐艦(丁型)一覧表 〕</ref>。 |
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7月15日、新編された'''第43駆逐隊'''に所属<ref name="S19内令865" />。8月からは[[台湾]]・[[マニラ]]・[[パラオ諸島]]方面での輸送や船団護衛任務に従事した{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=331|ps=竹(たけ)}}。8月20日、新編の[[第三十一戦隊]]に編入される<ref name="S190819護衛対潜">[[#S1908経過(護衛対潜)]] p.4(昭和19年8月)〔 19-20|3Sd解隊 31S編成([[軽巡洋艦|LC]]×1 [[駆逐艦|d×5]] [[松型駆逐艦|d竹]]×3 [[海防艦|CD]]×5)GF附属 〕</ref>。同月中旬には、軽巡洋艦「[[名取]]」や{{#tag:Ref|パラオ方面輸送任務従事中の「名取」は{{Sfn|軽巡海戦史|2017|pp=271-272|ps=名取(なとり)}}、[[8月18日]]に潜水艦の雷撃で沈没した<ref name="S190818a護衛対潜">[[#S1908経過(護衛対潜)]] p.3(昭和19年8月)〔 18|0300|名取パラオ方面輸送任務中ダバオNE380′附近ニ於テ敵(潜水艦)ノ(魚雷)ヲ受ク/1035(飛行機)ハ[[レガスピ (フィリピン)|レガスピー]]ノ100°350′ニテ漂流者發見鬼怒時雨浦波竹救助ニ向フ|相当ノ被害ヲ受ケ7ktニテ帰投中沈没(13mmMG AA彈 其ノ他各種 MG彈 魚雷等) 〕〔 18|0100頃|五月雨パラオ輸送鬼怒護ヱ中パラオ諸島北端ガルアングル島環礁ニ座礁 〕</ref>。「竹」を含む名取捜索隊は遭難者を発見できず、[[8月20日|20日]]に[[セブ島]]へ帰投した<ref name="S190820護衛対潜">[[#S1908経過(護衛対潜)]] p.4(昭和19年8月)〔 20|2000|名取捜索隊(鬼怒 時雨 浦波 竹)発見シ得ズ「セブ」ニ帰投ス 〕</ref>。|group="注"}}や駆逐艦「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]」の救難に従事した{{#tag:Ref|輸送作戦中の「五月雨」は[[8月18日]]未明に[[パラオ諸島]]で座礁した<ref name="S190818a護衛対潜" />。[[8月26日]]、「竹」は放棄された「五月雨」から乗組員を収容した<ref name="S190825護衛対潜">[[#S1908経過(護衛対潜)]] pp.5-6(昭和19年8月)〔 25| |五月雨離礁作業不成功兵器撤去輸送ニ着手ス〕、p.6〔 26|1840|五月雨敵(潜水艦)ノ(魚雷)ヲ受ケ船体切断放棄 乗員ハ竹ニ収容 〕</ref>。|group="注"}}。 |
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7月15日、新編された'''第43駆逐隊'''に所属<ref name="S19内令865" />。8月からは[[台湾]]・[[マニラ]]・[[パラオ諸島]]方面での輸送や船団護衛任務に従事した<ref name="重本2014竹" />。10月下旬より[[レイテ島]]輸送作戦([[多号作戦]])に従事し<ref name="重本2014竹" />、幾度か損傷しながら生還<ref name="志賀兵科212">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]212-213頁『蟷螂の斧』</ref>。特に[[12月3日]]の[[オルモック湾]]における夜戦では、姉妹艦「[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]」と共に[[アレン・M・サムナー級駆逐艦|米軍大型駆逐艦]]3隻と交戦<ref>[[#重本2014|陽炎型(2014)]]332頁『桑(くわ)』</ref>、「竹」は魚雷攻撃で駆逐艦「[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]]」を撃沈した(第七次多号作戦)<ref>[[#松永、三号|三号輸送艦帰投せず]]107-108頁</ref>。 |
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内地帰投後の「竹」は、[[瀬戸内海]]にあって[[終戦]]まで生き残る<ref name="志賀兵科212" />。戦後は[[復員輸送艦]]としての任務にあたった。 |
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10月下旬より実施された[[レイテ島]]増援輸送作戦([[多号作戦]])では{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=448-449|ps=増援兵力の輸送}}、第三次/第四次、第五次、第七次作戦に参加した{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=333-334}}。「竹」は幾度か損傷しながら生還した{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=26-27|ps=多号作戦(昭和19年マニラよりレイテ島に対する輸送作戦)の経過概要}}。 |
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特に[[12月3日]]の[[オルモック湾]]における夜戦では、姉妹艦「[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]」と共に[[アレン・M・サムナー級駆逐艦|米軍大型駆逐艦]]3隻と交戦{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=332|ps=桑(くわ)}}、「竹」は魚雷攻撃で駆逐艦「[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]]」を撃沈した{{Sfn|木俣、駆逐艦入門|2006|pp=333-336|ps=レイテ沖の駆逐艦戦}}(第七次多号作戦)<ref name="S191203護衛対潜a">[[#S1912経過(護衛対潜)]] p.2(昭和19年12月)〔 3| |多号作戦(イ)第六時輸送ヲ終了シ皈投中ナリシ神悦丸 ch45ハ11-30セブ東方ニテ遭難セルコト判明/(ロ)第七次第二梯団(SS5欠)ハ1530/2マニラ帰着/(ハ)第七次第二梯団(SS4号欠)ハ予定時刻タル2100/1ニ至ルモ オルモックニ到着シアラズ|途中事故アリシ模様/(ニ)第七次 第三及第四悌団(竹、輸送艦×3)ハ揚搭終了、0300/3オルモック発マニラニ向ケ帰投中/同舩団ハ今朝(→12-3)0030頃揚陸作業中敵大型[[駆逐艦|d]]3~4ト交戰セルモノノ如シ| |只今迄ニ判明セルモノ 戰果 敵d×1撃沈 沈没 桑/片舷航行 竹/竹ハ補機室ニ被弾アリシモ[[マニラ]]迄自力航行可能ノ見込ナリ 戰果 大型d×1轟沈 同1隻撃破 [[魚雷艇|Tb]]×2撃沈 〕</ref>。 |
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内地帰投後の「竹」は、[[瀬戸内海]]にあって[[終戦]]まで生き残る{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=212-213|ps=蟷螂の斧}}。戦後は[[復員輸送艦]]としての任務にあたった{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=208-209|ps=復員開始、残務整理}}。 |
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==戦歴== |
==戦歴== |
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[[Image:Fig_of_IJN_DD_Take_1944-1945.gif|thumb|right|300px|竹の艦型図。上は竣工時(1944年6月)、下は終戦時(1945年8月)の竹。終戦時の単装機銃の配置と回天の架台は推定。]] |
[[Image:Fig_of_IJN_DD_Take_1944-1945.gif|thumb|right|300px|竹の艦型図。上は竣工時(1944年6月)、下は終戦時(1945年8月)の竹。終戦時の単装機銃の配置と回天の架台は推定。]] |
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===レイテ島の戦いまで=== |
===レイテ島の戦いまで=== |
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[[横須賀海軍工廠]]で建造 |
仮称艦名第5482号艦として、[[横須賀海軍工廠]]で建造される{{Sfn|福井静夫、日本駆逐艦物語|1993|p=291|ps=(I 一等駆逐艦つづき)竹(II)Take}}。[[1943年]](昭和18年)[[10月15日]]、起工{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=54|ps=第5482号艦 竹(たけ)}}。 |
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[[1944年]](昭和19年)1月25日「竹」と命名される<ref name="S19達17号" />。 |
[[1944年]](昭和19年)1月25日、「[[タケ|竹]]」と命名される<ref name="S19達17号" />。 |
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同日附で駆逐艦一等松型に類別<ref>[[#内令昭和19年1月(5)]]pp.17-18 |
同日附で駆逐艦一等松型に類別<ref>[[#内令昭和19年1月(5)]] pp.17-18〔 内令第二百號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年一月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等松型ノ項中「松」ノ下ニ「、竹、梅、桃」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十四」ノ下ニ「、伊號第十五」ヲ、同伊三百六十一型ノ項中「伊號三百六十六」ノ下ニ「、伊號三百六十八、伊號三百六十九」ヲ加フ|海防艦、占守型ノ項中「笠戸」ノ下ニ「、日振、鵜来」ヲ、同三御藏型ノ項中「倉橋」ノ下ニ「、屋代」ヲ、同第一號型ノ項中「第十一號」ノ下ニ「、第十三號、第十五號、第十七號、第十九號」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十四號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第六十一號」ノ下ニ「、第六十三號」ヲ加フ 〕</ref>。 |
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3月28日、進水 |
[[3月28日]]、進水{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=54|ps=第5482号艦 竹(たけ)}}。本籍を[[横須賀鎮守府]]に定められる<ref>[[#内令昭和19年3月(2)]] p.18〔 内令第四百八十號|驅逐艦 竹 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|第二十四號海防艦 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル|舞鶴鎮守府在籍 第二十四號海防艦 右警備海防艦ト定メラル|第六十號驅潜艇 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|佐世保鎮守府在籍 第六十號驅潜艇 右警備驅潜艇ト定メラル|昭和十九年三月二十八日 海軍大臣嶋田繁太郎 〕</ref>。 |
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4月15日、日本海軍は重巡洋艦[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]水雷長(昭和17年4月〜沈没時)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072085000|昭和17年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第837号 p.9田中補職}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072088500|昭和17年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1013号 p.11}}</ref>、駆逐艦[[呉竹 (駆逐艦)|呉竹]]艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089000|昭和18年1月15日(発令1月13日付)海軍辞令公報(部内限)第1030号 p.37}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072096500|昭和19年3月10日(発令3月10日)海軍辞令公報(部内限)第1365号 p.41}}</ref> 等を歴任した[[田中弘国]]少佐を、竹艤装員長に任命する<ref name="jirei1426">{{アジア歴史資料センター|C13072097300|昭和19年4月15日(発令4月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1426号 p.35}}</ref>。 |
4月15日、日本海軍は重巡洋艦[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]水雷長(昭和17年4月〜沈没時)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072085000|昭和17年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第837号 p.9田中補職}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072088500|昭和17年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1013号 p.11}}</ref>、駆逐艦[[呉竹 (駆逐艦)|呉竹]]艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089000|昭和18年1月15日(発令1月13日付)海軍辞令公報(部内限)第1030号 p.37}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072096500|昭和19年3月10日(発令3月10日)海軍辞令公報(部内限)第1365号 p.41}}</ref> 等を歴任した[[田中弘国]]少佐(海兵60期)を{{Sfn|志賀、ネービーブルー|1989|p=31}}、竹艤装員長に任命する<ref name="jirei1426">{{アジア歴史資料センター|C13072097300|昭和19年4月15日(発令4月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1426号 p.35}}</ref>。 |
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4月20日、横須賀海軍工廠に竹艤装員事務所を設置し、事務を開始<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070462400|昭和19年5月1日(月)海軍公報(部内限)第4677号 p.8}} |
4月20日、横須賀海軍工廠に竹艤装員事務所を設置し、事務を開始した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070462400|昭和19年5月1日(月)海軍公報(部内限)第4677号 p.8}}〔 ○事務開始(略)驅逐艦竹艤装員事務所ハ横須賀海軍工廠内ニ於テ四月二十日事務ヲ開始セリ 〕</ref>。 |
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5月6日、[[可兒祥男]]大尉(当時、戦艦[[山城 (戦艦)|山城]]分隊長)が竹艤装員として着任<ref name="jirei1466">{{アジア歴史資料センター|C13072098100|昭和19年5月8日(発令5月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1466号 p.24}}</ref>。駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]沈没(4月23日)後、5月16日 |
5月6日、[[可兒祥男]]大尉(当時、戦艦[[山城 (戦艦)|山城]]分隊長)が竹艤装員として着任<ref name="jirei1466">{{アジア歴史資料センター|C13072098100|昭和19年5月8日(発令5月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1466号 p.24}}</ref>。駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]沈没(4月23日)後、5月16日付で横須賀鎮守府付となった天霧水雷長[[志賀博]]大尉(旧姓保坂)も<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072098200|昭和19年5月17日(発令5月16日付)海軍辞令公報(部内限)第1473号 p.24}}</ref>、5月20日付で竹艤装員に補職される<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072098200|昭和19年5月20日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1475号 p.33}}</ref>。当時の松型2隻(松、竹)は[[横須賀海軍工廠]]の[[浮桟橋|ポンツーン]]で艤装工事中であり、元天霧艦長の[[吉永源]]少佐は「[[松 (松型駆逐艦)|松]]」に、元天霧水雷長の志賀は隣の「竹」に着任したという{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=133b-134}}。「松」が出撃したあとは、浮桟橋に松型3番艦「[[桐 (松型駆逐艦)|桐]]」が係留されることになった{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=133b-134}}。 |
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6月16日、「竹」は竣工 |
6月16日、「竹」は竣工した{{Sfn|戦史叢書88|1975|p=54|ps=第5482号艦 竹(たけ)}}。同日付で艤装員事務所を撤去する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070479400|昭和19年6月27日(火)海軍公報(部内限)第4724号 p.34}}〔 ○事務所撤去(略)驅逐艦竹艤装員事務所ハ六月十六日之ヲ撤去セリ 〕</ref>。田中少佐は制式に竹駆逐艦長となる<ref name="jirei1518">{{アジア歴史資料センター|C13072099600|昭和19年6月22日(発令6月16日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1518号 p.7}}</ref>。主要初代幹部は、航海長高井義助中尉、砲術長可兒祥男大尉、水雷長志賀博大尉(先任将校)、機関長桜井達也中尉、主計長小林義治主計少尉、軍医長湯川真治軍医少尉など<ref name="jirei1518" />{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=76-80|ps=「竹」の内部編成}}。 |
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竣工後の「竹」は、訓練部隊の[[水雷戦隊#第十一水雷戦隊|第十一水雷戦隊]](司令官[[高間完]][[少将]]・[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]41期)に編入<ref |
竣工後の「竹」は、訓練部隊の[[水雷戦隊#第十一水雷戦隊|第十一水雷戦隊]]{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=138-139|ps=(第十一戦隊所属と回想するが、第十一水雷戦隊の誤記)}}(司令官[[高間完]][[少将]]・[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]41期。当時の旗艦は「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」)に編入される<ref>[[#S1906十一水戦日誌(1)]] pp.16-17〔 一七日二〇三五軍令部総長|一八日〇八一五各鎭警(長官)GEB各長官|機密第一七二〇三五番電 六月十六日附 竹ヲ十一水戰ニ編入ス|無電 〕</ref>。6月中は横須賀から動かなかった<ref>[[#S1906十一水戦日誌(1)]] p.6〔 (四)麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動(其ノ一) 〕(昭和19年6月)</ref>。7月初旬に横須賀から[[瀬戸内海]]へ移動し、「冬月」や「清霜」および松型姉妹艦と訓練をおこなう<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp,5〔 (四)麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動 〕(昭和19年7月)</ref>。7月中旬、[[北九州港#門司港地区|門司]]で物資を搭載、[[南大東島]]への輸送作戦に参加する{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=86-87|ps=「竹」の初陣}}(詳細後述)。 |
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[[7月15日]] |
[[7月15日]]付で、[[秋月型駆逐艦]]2隻([[霜月 (駆逐艦)|霜月]]、[[冬月 (駆逐艦)|冬月]])により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻([[梅 (松型駆逐艦)|梅]]、'''竹'''、[[松 (松型駆逐艦)|松]]、[[桃 (松型駆逐艦)|桃]])により'''第43駆逐隊'''(駆逐隊司令[[菅間良吉]]中佐)<ref name="jirei1541">{{アジア歴史資料センター|C13072100100|昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7}}</ref> が、それぞれ編制される<ref name="S19内令865">[[#内令昭和19年7月]] p.21〔 内令第八百六十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第四十一驅逐隊|霜月、冬月|・|第四十三驅逐隊|梅、竹、松、桃| 〕</ref><ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 31頁</ref>。 |
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[[7月8日]]、大本営海軍部は大海指第421号により、連合艦隊に対し陸軍兵力の[[南西諸島]]方面輸送を命じた{{Sfn|戦史叢書17|1968|pp=49a-50|ps=「呂」号作戦輸送}}。これを「呂号輸送」(ろ号作戦輸送)と呼称する{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=49b}}。輸送部隊指揮官は、第十一水雷戦隊司令官であった{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=387a|ps=「摩耶」等}}。 |
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翌7月16日、軽巡洋艦「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」(第十一水雷戦隊旗艦)、重巡洋艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」(第四戦隊)、練習巡洋艦「[[鹿島 (練習巡洋艦)|鹿島]]」<ref>[[#S1904呉鎮日誌(4)]]p.50『一一(天候略)鹿島ハGF指揮下ニ入リ「ロ」號作戰輸送部隊ニ編入セラル』</ref>、駆逐艦複数隻(満潮型〈[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]〉、不知火型〈[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]〉、秋月型〈[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]〉、夕雲型〈[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]〉、松型〈'''竹'''〉)は[[沖縄県|沖縄]]方面への輸送作戦『ろ号作戦』に従事することになり、[[中津市|中津]]沖を出撃<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 37頁</ref><ref>[[#S1804呉防戦(7)]]p.27『一六(天候略)引續キ各隊対潜警戒及掃蕩実施「ロ」號作戰輸送部隊出撃』</ref>。7月17日に[[中城湾]]に到着<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 38頁</ref>。 |
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[[7月16日]]、軽巡洋艦「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」(第十一水雷戦隊旗艦)、重巡洋艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」{{#tag:Ref|3隻(摩耶、朝雲、浦風)は7月9日をもって呂号作戦輸送部隊に加えられた{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=387b}}。7月12日、「摩耶」は護衛2隻(冬月、皐月)と共に横須賀を出発、14日門司に進出した{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=387b}}。|group="注"}}、練習巡洋艦「[[鹿島 (練習巡洋艦)|鹿島]]」<ref>[[#S1904呉鎮日誌(4)]] p.50〔 一一(天候略)鹿島ハGF指揮下ニ入リ「ロ」號作戰輸送部隊ニ編入セラル 〕</ref>、駆逐艦5隻([[陽炎型駆逐艦|浦風型]]<ref name="ろ号26">[[#ろ号作戦]] p.26〔 (イ)艦艇ノ搭載量標準ニ関シ 艦艇ヲ以テスル作戰輸送時ニ於ケル搭載量ノ決定ハ中々至難ニシテ特ニ陸軍ノ場合圓滑ナル作戰實施ノ一障害ヲナスヲ以テ速ニ現艦艇ノ搭載量標準ヲ規定スルノ要アリ 之ニ関聯シ今回實施セル作戰輸送時當司令部ニテ決定セル各艦ノ搭載標準ハ左表ノ通ニシテ作戰輸送トシテノ各艦ノ畧限度ナリト認ム 〕〔 摩耶|人員(数)一〇〇〇|物件(噸)一七〇/長良|六〇〇|三〇/鹿島|七〇〇|一〇〇/浦風型|二〇〇|四〇/冬月|二五〇|五〇/竹|/|三〇 〕</ref>〈[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]〉、秋月型〈[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]〉、松型〈 竹 〉)は[[中津市|中津]]沖を出撃する<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 37頁、[[#S1804呉防戦(7)]] p.27〔 一六(天候略)引續キ各隊対潜警戒及掃蕩実施「ロ」號作戰輸送部隊出撃 〕</ref>。輸送部隊は、第一輸送隊(長良、鹿島、冬月、清霜、竹)、第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風){{Sfn|戦史叢書37|1970|p=387b}}、沖縄~大東島輸送の第三輸送隊(冬月、清霜、竹)にわかれていた{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=50}}。 |
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[[宮古島]]に向かった第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)は内地に帰投せず、そのままリンガ泊地へ向かった<ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.5『(2)朝雲 月頭ヨリ呉ニ於テ整備補給ニ従事中ノ所四日附属部隊ニ編入十日附第十駆逐隊解隊ニ伴ヒ第四駆逐隊ニ編入十四日浦風ト共ニ同地発即日門司着「ロ」號作戰輸送部隊第二輸送隊トシテ陸軍部隊竝ニ物件搭載ノ上同地発中津沖及中城湾ヲ経テ十八日宮古島着陸軍部隊竝ニ物件ノ揚陸ヲ終了「ロ」號作戰輸送部隊ノ編制ヲ解カレ即日同地発二十日「マニラ」着補給ノ上二十三日同地発二十六日「リンガ」着…』</ref><ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.37『一八(天候略)〇七二一朝雲〇九五二浦風宮古着/〇八四五雪風因島船渠出渠/〇九二五朝雲一〇三〇浦風摩耶護衛「マニラ」ニ向ケ宮古発』</ref>。 |
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[[7月17日]]、呂号作戦部隊は[[沖縄県|沖縄]][[中城湾]]に到着した<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 38頁</ref>。 |
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[[宮古島]]に向かった第二輸送隊は内地に帰投せず{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=50}}、そのままマニラ経由で[[リンガ泊地]]へ向かった<ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]] p.5〔 (2)朝雲 月頭ヨリ呉ニ於テ整備補給ニ従事中ノ所四日附属部隊ニ編入十日附第十駆逐隊解隊ニ伴ヒ第四駆逐隊ニ編入十四日浦風ト共ニ同地発即日門司着「ロ」號作戰輸送部隊第二輸送隊トシテ陸軍部隊竝ニ物件搭載ノ上同地発中津沖及中城湾ヲ経テ十八日宮古島着陸軍部隊竝ニ物件ノ揚陸ヲ終了「ロ」號作戰輸送部隊ノ編制ヲ解カレ即日同地発二十日「マニラ」着補給ノ上二十三日同地発二十六日「リンガ」着… 〕、同部隊戦時日誌 p.37〔 一八(天候略)〇七二一朝雲〇九五二浦風宮古着/〇八四五雪風因島船渠出渠/〇九二五朝雲一〇三〇浦風摩耶護衛「マニラ」ニ向ケ宮古発 〕</ref>。 |
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その後、第二輸送隊を除く各艦は予定の輸送任務を終えて19日に中城湾を出港し、20日-21日に[[呉市|呉]]へ帰投<ref name="志賀兵科142" /><ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39、45頁</ref><ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.8『(2)冬月 十五日附霜月ト共ニ第四十一駆逐隊ニ編入南西諸島方面陸軍部隊輸送ニ従事中ノ所二十一日右任務終了内地着二十二日司令駆逐艦トナリ爾後月末迄内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事ス』</ref>。 |
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冬月駆逐艦長指揮下の第三輸送隊は[[南大東島]]への緊急輸送任務を行う{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=50}}<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39頁</ref>。 |
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「ロ」号作戦輸送部隊は解散した<ref>[[#S1904呉鎮日誌(4)]]p.39『十九日一八一四GF|十九日二二五〇鹿島 11sd(呉鎮)(外)|GF電令作第三一八號 「ロ」號作戰輸送部隊ノ内海西部着以後同部隊ノ編制ヲ解ク 11sdハ内海西部ニ於テ訓練整備ニ從事シ鹿島ハ原隊ニ復歸スベシ』</ref><ref>[[#S1812呉練習戦隊(2)]]p.15『(二)鹿島七月九日附一時聯合艦隊司令長官ノ指揮下ニ入レラレタルニ依リ旗艦ヲ出雲ニ變更實務練習ノ爲鹿島ニ配乗スベキ海軍豫備學生出身海軍少尉(實習員)ヲ出雲磐手八雲ニ分乗セシム、七月二十日鹿島任務解除ニ依リ同艦ニ復皈セシメタルノ外實務練習教育ハ順調ニ行ハレツツアリ』</ref>。 |
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その後、第二輸送隊を除く各艦は予定の輸送任務を終えて[[7月19日|19日]]午前1時に中城湾を出港し{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=50}}、20日-21日に[[呉市|呉]]へ帰投した<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39,45頁、[[#S1907十戦隊日誌(1)]] p.8〔 (2)冬月 十五日附霜月ト共ニ第四十一駆逐隊ニ編入南西諸島方面陸軍部隊輸送ニ従事中ノ所二十一日右任務終了内地着二十二日司令駆逐艦トナリ爾後月末迄内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事ス 〕</ref>。 |
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同任務終了後の8月4日、硫黄島方面輸送作戦中の姉妹艦「[[松 (松型駆逐艦)|松]]」(第二護衛船団司令官[[高橋一松]]少将<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100000|昭和19年7月14日(発令7月8日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1535号 p.16}}</ref> 旗艦。松駆逐艦長[[吉永源]]少佐〈天霧沈没時艦長〉<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099400|昭和19年6月3日(発令6月2日付)海軍辞令公報(部内限)第1502号 p.45}}</ref>)は米海軍水上艦艇と交戦、沈没した([[スカベンジャー作戦]])<ref name="志賀兵科142" />。 |
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「ロ」号作戦輸送部隊は解散した<ref>[[#S1904呉鎮日誌(4)]] p.39〔 十九日一八一四GF|十九日二二五〇鹿島 11sd(呉鎮)(外)|GF電令作第三一八號 「ロ」號作戰輸送部隊ノ内海西部着以後同部隊ノ編制ヲ解ク 11sdハ内海西部ニ於テ訓練整備ニ從事シ鹿島ハ原隊ニ復歸スベシ 〕、[[#S1812呉練習戦隊(2)]] p.15〔 (二)鹿島七月九日附一時聯合艦隊司令長官ノ指揮下ニ入レラレタルニ依リ旗艦ヲ[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]]ニ變更實務練習ノ爲[[鹿島 (練習巡洋艦)|鹿島]]ニ配乗スベキ海軍豫備學生出身海軍少尉(實習員)ヲ[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]] [[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]] [[八雲 (装甲巡洋艦)|八雲]]ニ分乗セシム、七月二十日鹿島任務解除ニ依リ同艦ニ復皈セシメタルノ外實務練習教育ハ順調ニ行ハレツツアリ 〕</ref> |
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{{#tag:Ref|同任務終了後の[[8月4日]]{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=78}}、硫黄島方面輸送作戦中の姉妹艦「[[松 (松型駆逐艦)|松]]」(第二護衛船団司令官[[高橋一松]]少将<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100000|昭和19年7月14日(発令7月8日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1535号 p.16}}</ref> 旗艦。松駆逐艦長[[吉永源]]少佐〈天霧沈没時艦長〉<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099400|昭和19年6月3日(発令6月2日付)海軍辞令公報(部内限)第1502号 p.45}}</ref>)は米海軍水上艦艇と交戦、沈没した{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|p=332}}([[スカベンジャー作戦]]){{Sfn|木俣、駆逐艦入門|2006|pp=331-332|ps=「松」「橘」クラスかく戦えり}}。|group="注"}}。 |
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8月1日、連合艦隊は[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]](第二十一戦隊、第一水雷戦隊)と第十一水雷戦隊等により第二遊撃部隊(指揮官は第五艦隊司令長官[[志摩清英]]中将)を新編し、機動部隊に編入した{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=370|ps=第二遊撃部隊(第五艦隊)/編成}}。 |
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8月10日、駆逐艦2隻(清霜、竹)は[[柱島泊地]]を出港し<ref>[[#南海の死闘]]88頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 16、20頁</ref>、[[馬公市]]を経由してフィリピンに進出<ref name="志賀兵科144">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]144-145頁</ref>。8月16日に[[マニラ]]に到着<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 25頁</ref>。8月17日からの本艦は「清霜」の指揮を受けて[[パラオ]]方面への輸送作戦と[[セブ]]への引揚者輸送任務に就く<ref>[[#南海の死闘]]87頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 26頁</ref>。ちょうど、米潜水艦の雷撃により沈没した軽巡洋艦「[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]」の救援を命じられ2日間捜索するも発見できず<ref>[[#南海の死闘]]88頁</ref>、「清霜」はパラオへ、「竹」は燃料補給のためセブ島に移動した<ref name="志賀兵科144" />。この後、[[南西方面艦隊]]の指揮下で船団護衛任務に従事<ref name="志賀兵科142" />。 |
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沖縄方面輸送を終えた「竹」と夕雲型駆逐艦「[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]」に対し、[[パラオ]]方面緊急輸送の任務が与えられた{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=87-95|ps=パラオ島緊急輸送と不測の事態}}。 |
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8月26日夜には、[[ガルワングル環礁]](パラオ諸島北部)で座礁中にアメリカ潜水艦[[バットフィッシュ (潜水艦)|バットフィッシュ]] (''USS Batfish, SS-310'') の雷撃を受けて船体が切断・座礁した駆逐艦「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]」(第27駆逐隊)の救援に向かい<ref name="志賀兵科146">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]146-147頁</ref>、五月雨生存者を収容した<ref>[[#南海の死闘]]88-89頁、『戦闘詳報』、25、43頁</ref><ref>[[#秋月型(潮2015)]]266-267頁</ref>。 |
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8月10日、駆逐艦2隻(清霜、竹)は[[柱島泊地]]を出港し<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 16、20頁</ref>、[[馬公市]]を経由してフィリピンに進出する{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=144-145}}。8月16日に[[マニラ]]に到着<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 25頁</ref>。8月17日からの本艦は「清霜」の指揮を受けて[[パラオ]]方面への輸送作戦と[[セブ]]への引揚者輸送任務に就く<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 26頁</ref>。 |
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五月雨駆逐艦長[[大熊安之助]]少佐<ref name="jirei1528" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100800|昭和19年9月2日(発令8月31日付)海軍辞令公報(甲)第1582号 p.4}}</ref> の前職は松型5番艦「[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]」艤装員長<ref name="jirei1528">{{アジア歴史資料センター|C13072099900|昭和19年7月7日(発令7月2日付)海軍辞令公報(甲)第1528号 p.40}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099600|昭和19年6月26日(発令6月20日付)海軍辞令公報(甲)第1520号 p.17}}</ref> であり、五月雨艦長の後は[[初春型駆逐艦]]1番艦「[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]」艦長<ref name="jirei1612">{{アジア歴史資料センター|C13072101400|昭和19年10月6日(発令10月1日付)海軍辞令公報(甲)第1612号 p.29}}</ref><ref name="jirei1649">{{アジア歴史資料センター|C13072102000|昭和19年11月21日(発令11月15日付)海軍辞令公報(甲)第1649号 p.25}}</ref>、同艦沈没後は松型14番艦「[[柳 (松型駆逐艦)|柳]]」艤装員長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102200|昭和19年12月7日(発令12月1日付)海軍辞令公報(甲)第1662号 p.13}}</ref> 及び艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072103100|昭和20年1月29日(発令1月18日付)海軍辞令公報(甲)第1706号 p.38}}</ref> を務めた。 |
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翌[[8月18日|18日]]午前3時頃、パラオ方面輸送作戦従事中の軽巡洋艦「[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]」が{{Sfn|戦史叢書37|1970|p=80}}、[[ミンダナオ島]][[ダバオ]]北東{{coor dm|12|15|N|129|21|E|}}地点で<ref>[[#S1907十六戦隊日誌(1)]] p.28〔 十八日〇三三〇名取艦長(宛略)名取機密第一八〇三三〇番電 雷撃ヲ受ク一本命中〇二四〇 12°15′N129°21′E損害大今ノ處沈没ノ虞ナシ航行不能 〕</ref>、アメリカ潜水艦[[ハードヘッド (潜水艦)|ハードヘッド]]の雷撃で大破{{Sfn|軽巡海戦史|2017|pp=124-126|ps=▽名取}}、避退中に沈没した<ref name="S190818a護衛対潜" />。「清霜」と「竹」は名取救援を命じられた{{Sfn|南海の死闘|1994|p=88}}。また遭難者救援のため3隻(鬼怒、時雨、浦波)も遭難現場にむかった<ref name="S190818a護衛対潜" />。 |
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名取捜索隊は遭難者を発見できず、セブ島に帰投した<ref name="S190820護衛対潜" />{{#tag:Ref|8月30日、名取将兵を乗せた[[カッターボート]]3隻が[[ミンダナオ島]][[スリガオ]]に到着した<ref>[[#S1908経過(護衛対潜)]] p.6(昭和19年8月)〔 30|0900|名取乗員 准士官以上22 下士官兵169 便乗者33 カッター3ニ分乗スリガオ着 〕</ref>。|group="注"}}。「清霜」はパラオにむかう{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=144-145}}。この後、「竹」は[[南西方面艦隊]]の指揮下で船団護衛任務に従事する{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=144-146}}。 |
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つづいて[[パラオ諸島]]北部の[[ガルワングル環礁]]で座礁中に<ref name="S190818a護衛対潜" />、アメリカ潜水艦[[バットフィッシュ (潜水艦)|バットフィッシュ]] (''USS Batfish, SS-310'') の雷撃を受けて船体断裂においこまれた駆逐艦「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]」{{Sfn|陽炎型(光人社)|2014|p=294|ps=五月雨(さみだれ)}}(第27駆逐隊)の救援に向かう{{#tag:Ref|パラオの邦人引き揚げ任務についていた5隻(重巡[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、軽巡[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、駆逐艦[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、五月雨)のうち3隻(鬼怒、時雨、五月雨)で別動中、[[8月18日]]未明に[[ガルワングル環礁]]で「五月雨」が座礁した{{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=296-299}}。救援命令を受けた時点では{{Sfn|南海の死闘|1994|p=88}}、「五月雨」はバットフィッシュの雷撃を受けていなかった{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=303b}}。|group="注"}}。[[8月26日]]夜<ref name="S190825護衛対潜" />、「竹」は五月雨生存者を収容した{{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=303a-311|ps=座礁、総員退去}}。大熊(五月雨駆逐艦長)と田中(竹駆逐艦長)は海兵同期であり、田中の説得により大熊も退艦して「竹」に移乗した{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=266-267}} |
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{{#tag:Ref|五月雨駆逐艦長[[大熊安之助]]少佐<ref name="jirei1528" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100800|昭和19年9月2日(発令8月31日付)海軍辞令公報(甲)第1582号 p.4}}</ref> の前職は松型5番艦「[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]」艤装員長<ref name="jirei1528">{{アジア歴史資料センター|C13072099900|昭和19年7月7日(発令7月2日付)海軍辞令公報(甲)第1528号 p.40}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099600|昭和19年6月26日(発令6月20日付)海軍辞令公報(甲)第1520号 p.17}}</ref> であり、五月雨艦長の後は駆逐艦「[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]」艦長<ref name="jirei1612">{{アジア歴史資料センター|C13072101400|昭和19年10月6日(発令10月1日付)海軍辞令公報(甲)第1612号 p.29}}</ref><ref name="jirei1649">{{アジア歴史資料センター|C13072102000|昭和19年11月21日(発令11月15日付)海軍辞令公報(甲)第1649号 p.25}}</ref>、同艦沈没後は松型14番艦「[[柳 (松型駆逐艦)|柳]]」艤装員長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102200|昭和19年12月7日(発令12月1日付)海軍辞令公報(甲)第1662号 p.13}}</ref> 及び艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072103100|昭和20年1月29日(発令1月18日付)海軍辞令公報(甲)第1706号 p.38}}</ref> を務めた。|group="注"}}。 |
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輸送作戦中の8月20日、第 |
輸送作戦中の8月20日、日本海軍は第三水雷戦隊の残余と松型駆逐艦を基幹として<ref name="S190819護衛対潜" />、[[第三十一戦隊]](司令官[[江戸兵太郎]]少将<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100600|昭和19年8月22日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1571号 p.40}}</ref>、海兵40期)を新編した{{Sfn|戦史叢書37|1970|pp=76-81|ps=対潜撃滅部隊の創設}}。第43駆逐隊も第三十一戦隊に編入される<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 27頁</ref>。「竹」は燃料補給と「五月雨」乗組員を降ろすためセブ島に立ち寄り、その後パラオに向った{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=146-147}}。 |
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{{See also|マタ30船団|スヌーク (潜水艦)}} |
{{See also|マタ30船団|スヌーク (潜水艦)}} |
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8月30日からは[[南西方面艦隊]](司令長官[[三川軍一]][[中将]]・海兵38期。[[南遣艦隊#第三南遣艦隊|第三南遣艦隊司令長官]]兼務)の指揮下に入り、[[マニラ]]と各地との間で船団護衛に従事した<ref>雨倉、95頁</ref>{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=91-93}}。 |
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8月30日からは[[南西方面艦隊]](司令長官[[三川軍一]][[中将]]・海兵38期)の指揮下に入り、[[マニラ]]と各地との間で船団護衛に従事した<ref>雨倉、95頁</ref>。10月4日、「竹」は[[ミリ (サラワク州)|ミリ]]行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌5日に[[ミンドロ海峡]]でアメリカ潜水艦[[コッド (潜水艦)|コッド]] (''USS Cod, SS-224'') の雷撃により「辰城丸」(辰馬汽船、6,886トン)を失った<ref>『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁、駒宮『戦時輸送船団史』、273頁</ref>。10月14日にミリに到着して<ref>『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁</ref> マニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には[[高雄市|高雄]]行きの[[マタ30船団]]の護衛でマニラを出港した<ref>『第一海上護衛隊戦時日誌』、60頁;駒宮『戦時輸送船団史』、279頁</ref>。この船団は指揮艦である駆逐艦「[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]」の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた<ref name="z">木俣『敵潜水艦攻撃』、130頁</ref>。10月23日夕方、マタ30船団は[[ルソン島]]ボヘヤドール岬北西沖で元[[水上機母艦|特設水上機母艦]]「[[君川丸 (特設水上機母艦)|君川丸]]」([[川崎汽船]]、6,863トン)がアメリカ潜水艦[[ソーフィッシュ (潜水艦)|ソーフィッシュ]] (''USS Sawfish, SS-276'') の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。このうち「[[阿里山丸]]」には捕虜1500名が乗船していたが、米潜水艦に撃沈されてしまった<ref>[[#志賀1985|海軍兵科将校]]147-149頁『無念の歯がみ』</ref><ref>[[#最後のネイビーブルー]]97-98頁(志賀によれば船体に緑十字が描かれていた)</ref>。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め<ref>木俣『日本水雷戦史』、581頁</ref>、また遭難者の救助に従事した<ref>[[#最後のネイビーブルー]]99頁</ref>。「春風」はアメリカ潜水艦[[シャーク (SS-314)|シャーク]] (''USS Shark, SS-314'') を撃沈して一矢報いた<ref name="z" />。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船曳航の命令があり、救助活動を打ち切って捜索したものの輸送船を発見できず、単艦で高雄へ向ったとしている<ref>[[#南海の死闘]]98-100頁</ref>。 |
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10月4日、「竹」は[[ミリ (サラワク州)|ミリ]]行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌[[10月5日|5日]]に[[ミンドロ海峡]]でアメリカ潜水艦[[コッド (潜水艦)|コッド]] (''USS Cod, SS-224'') の雷撃により「辰城丸」<ref>[[#S1910経過(護衛対潜)]] p.2(昭和19年10月)〔 5|1430|辰城丸(B6900t 部隊350t fk|マニラ西南方ニ於テ被雷沈没 マニラ→ミリ接岸南下中 〕</ref>(辰馬汽船、6,886トン)を失った<ref>『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁、駒宮『戦時輸送船団史』、273頁</ref>。10月14日にミリに到着して<ref>『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁</ref> マニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には[[高雄市|高雄]]行きの[[マタ30船団]]の護衛でマニラを出港した<ref>『第一海上護衛隊戦時日誌』、60頁;駒宮『戦時輸送船団史』、279頁</ref>。この船団は指揮艦である神風型駆逐艦「[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]」{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=94-97|ps=悲惨、痛恨の「マタ」船団}}の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた<ref name="z">木俣『敵潜水艦攻撃』、130頁</ref>。 |
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[[10月23日]]夕方<ref>[[#S1910経過(護衛対潜)]] p.6(昭和19年10月)〔 23|1730|君川丸(B貨6900t)ルソン海峡西部ニテ(潜水艦)(魚雷)|沈「マニラ」→高雄 〕</ref>、マタ30船団は[[ルソン島]]ボヘヤドール岬北西沖で元[[水上機母艦|特設水上機母艦]]「[[君川丸 (特設水上機母艦)|君川丸]]」([[川崎汽船]]、6,863トン)がアメリカ潜水艦[[ソーフィッシュ (潜水艦)|ソーフィッシュ]] (''USS Sawfish, SS-276'') の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。このうち「[[阿里山丸]]」には捕虜1500名が乗船していたが{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=97-98|ps=遭難捕虜の心情は…}}、米潜水艦に撃沈されてしまった{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=147-149|ps=無念の歯がみ}}{{Sfn|志賀、ネービーブルー|1989|pp=97-98|ps=(志賀によれば船体に緑十字が描かれていた)}}。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め<ref>木俣『日本水雷戦史』、581頁</ref>、また遭難者の救助に従事した{{Sfn|志賀、ネービーブルー|1989|p=99}}。「春風」はアメリカ潜水艦[[シャーク (SS-314)|シャーク]] (''USS Shark, SS-314'') を撃沈して一矢報いた{{Sfn|木俣、駆逐艦入門|2006|pp=294-295}}。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船(艦名不詳)曳航の命令があったが、曳航作業前に対象の輸送船を見失い、単艦で高雄へ向ったとしている{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=98-100|ps=遭難船を曳航せよ!!}}。また高雄到着後もバシー海峡に出動し、遭難者約400-500名を救助して[[ルソン島]][[サンフェルナンド (ラ・ウニョン州)|サンフェルナンド]]に送り届けたと回想している{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=100-102|ps=またしても遭難船救助命令}}。 |
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===多号作戦=== |
===多号作戦=== |
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====第三次・第五次多号作戦==== |
====第三次・第五次多号作戦==== |
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「竹」が作戦に従事していた9月30日と10月10日、第43駆逐隊に松型2隻(槇、桐)が編入される<ref>[[#内令(秘)昭和19年10月(1)]]p.6 |
<!-- 「竹」が作戦に従事していた9月30日と10月10日、第43駆逐隊に松型2隻(槇、桐)が編入される<ref>[[#内令(秘)昭和19年10月(1)]] p.6〔 内令第一一二一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年九月三十日 海軍大臣 第四十三驅逐隊ノ項中「桃」ノ下ニ「、槇」ヲ加フ 〕</ref><ref name="S19内令1162">[[#内令(秘)昭和19年10月(2)]] pp.35-36〔 内令第一一六二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年十月十日海軍大臣|第十九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十七驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「、夕凪」ヲ削ル|第四十三驅逐隊ノ項中「松、」ヲ削リ「槇」ノ下ニ「、桐」ヲ加フ 〕</ref>。 --> |
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最前線にいた「竹」は10月20日から始まった[[レイテ島の戦い]]に関わる事となり、三度にわたって[[レイテ島]][[オルモック |
最前線にいた「竹」は[[10月18日]]夕刻発動の[[捷号作戦|捷一号作戦]]{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=33-36|ps=大本營、比島方面決戦実施を指示}}と[[10月20日|20日]]から始まった[[レイテ島の戦い|レイテ島地上戦]]{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=39-43|ps=レイテ島への本格的上陸}}に関わる事となり{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=519-521|ps=新実施計画(第三次~第七次)}}、三度にわたって[[レイテ島]]西岸[[オルモック]]への陸軍兵力輸送作戦([[多号作戦]])に参加することとなった{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=102-103|ps=多号作戦発令「竹」参戦せよ!!}}。 |
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作戦直前、田中少佐(竹駆逐艦長)が病気([[肺結核]]、[[肋膜炎]]とも)で退艦、マニラ海軍病院へ入院した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=154-156}}。11月3日、飯村忠彦少佐(海兵65期)が竹臨時艦長に任命される{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=187}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=104a-105|ps=田中艦長退艦?飯村少佐臨時艦長?}}。飯村少佐は、[[レイテ島]]輸送作戦で同時に沈没した軽巡洋艦「[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]」と駆逐艦「[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]」<ref>[[#S1910経過(護衛対潜)]] p.8(昭和19年10月、レイテ沖海戦)〔 16S|日没后/25 [[カガヤン・デ・オロ|カガヤン]]ニテ陸兵搭載/AM/26 オルモック突入2ヶ大隊揚陸成功/1055/26 [[パナイ|パネイ島]]NE端ニテ敵(飛行機)約40ノ空襲ヲ受ク 鬼怒1730 浦波1224沈没 〕</ref>のうち、鬼怒航海長であった{{Sfn|軽巡海戦史|2017|p=66}}{{Sfn|岸見勇美|2010|p=28}}。 |
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一方、田中少佐(竹駆逐艦長)は呉鎮守府附となる<ref name="jirei1636" />。 |
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一方、田中少佐(竹駆逐艦長)は[[呉鎮守府]]付となる<ref name="jirei1636" />。 |
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日本海軍は、駆逐艦[[旗風 (駆逐艦)|旗風]]航海長<ref name="jirei550">{{アジア歴史資料センター|C13072079300|昭和15年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第550号 p.18宇那木補職}}</ref>、吹雪型駆逐艦2隻([[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]])の水雷長<ref name="jirei550" /><ref name="jirei840">{{アジア歴史資料センター|C13072085100|昭和17年4月7日(発令4月6日付)海軍辞令公報(部内限)第840号 p.8宇那木補職}}</ref> 等を歴任した[[宇那木勁]]少佐(当時、松型駆逐艦[[椿 (松型駆逐艦)|椿]]艤装員長)を「竹」駆逐艦長に任命<ref name="jirei1636">{{アジア歴史資料センター|C13072101800|昭和19年11月6日(発令11月1日付)海軍辞令公報(甲)第1636号 p.18}}</ref>。宇那木は軽巡「[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]」や松型3番艦「[[梅 (松型駆逐艦)|梅]]」を乗り継いで内地からマニラへ移動しており、実際の着任は遅れた<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]186頁</ref>。このため「竹」は飯村駆逐艦長の指揮下で[[多号作戦]]に従事する<ref name="松田軽巡66" />。 |
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日本海軍は、駆逐艦[[旗風 (駆逐艦)|旗風]]航海長<ref name="jirei550">{{アジア歴史資料センター|C13072079300|昭和15年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第550号 p.18宇那木補職}}</ref>、吹雪型駆逐艦2隻([[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]])の水雷長<ref name="jirei550" /><ref name="jirei840">{{アジア歴史資料センター|C13072085100|昭和17年4月7日(発令4月6日付)海軍辞令公報(部内限)第840号 p.8宇那木補職}}</ref> 等を歴任した[[宇那木勁]]少佐(海兵64期{{Sfn|志賀、ネービーブルー|1989|p=31}}。当時、松型駆逐艦[[椿 (松型駆逐艦)|椿]]艤装員長)を「竹」駆逐艦長に任命した<ref name="jirei1636">{{アジア歴史資料センター|C13072101800|昭和19年11月6日(発令11月1日付)海軍辞令公報(甲)第1636号 p.18}}</ref>。宇那木は軽巡「[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]」や松型3番艦「[[梅 (松型駆逐艦)|梅]]」を乗り継いで内地からマニラへ移動しており、実際の着任は遅れた{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=186}}。このため「竹」は飯村駆逐艦長の指揮下で[[多号作戦]]に従事する{{Sfn|軽巡海戦史|2017|p=66}}。 |
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飯村新艦長を迎えた翌日以降、米軍機動部隊艦 |
飯村新艦長を迎えた翌日以降{{Sfn|岸見勇美|2010|p=38}}、米軍機動部隊艦上機のマニラ湾空襲により第二遊撃部隊([[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]])旗艦の重巡「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」が沈没{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=105-106|ps=多号作戦準備急げ!!}}、駆逐艦「[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]」(第7駆逐隊)が大破した{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=163-166|ps=マニラ湾燃ゆ}}{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=521-524|ps=米機動部隊のルソン来襲}}。駆逐艦「[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]」も損傷して作戦から外された<ref name="S士官22、11月5日空襲">[[#S士官の手記]] pp.22-23〔 5/11 多號作戰待機中ノ1sd 2sdノ主力「マニラ」港内ニ集結船團モ多數碇泊セルモ敵機ハ主目標ヲ「ニコラス」飛行場及防波堤外ノ艦船ニ向ケ防波堤内ノ艦船ニハ攻撃ヲ殆ド加ヘズ堤外ニテ之ノ敵ヲ砲撃セシモノ那智、沖波他ニ驅潜艇一商船一、〇七三〇頃六〇機來襲、一〇〇〇百機來襲、一二〇〇 四〇機、一四三〇 八〇機來襲此ノ日ノ戰闘ハ快晴ナレドモ雲低ク敵機ハ之ヲ利用シ急降下ス、激烈ヲ極メシ戰闘ヲ續ケ沖波機銃員ノ被害漸大、被爆ノ爲電灯消ユ、機械一時停止主砲人力等最後ノ空襲ニ依リ艦長重傷一六〇〇那智救助ニ向ヒ間モナク來着セル病院船ト協力、全部救助、沖波戰死十籔名、重輕傷多數、艦長入院、翌日ノ被攻撃ヲ避ケ出港、戰果撃墜二機 〕</ref>。 |
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[[11月9日]]午前3時、「竹」は第三次多号作戦部隊に加わってマニラを出撃する{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=536}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=107-109|ps=「竹」多号作戦初出撃}}。 |
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11月9日未明3時、「竹」は第三次多号作戦に加わり、駆逐艦4隻([[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]〈[[第二水雷戦隊]]旗艦。司令官[[早川幹夫]]少将・海兵44期〉、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]〈駆逐艦長[[大熊安之助]]少佐〉<ref name="jirei1612" />、[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]、竹)、[[第二八号型駆潜艇#同型艦|第46号駆潜艇]]および[[第一九号型掃海艇#同型艦|第30号掃海艇]]と共に5隻の船団を護衛してマニラを出港した<ref name="志賀兵科154" />。 |
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第三次多号作戦部隊の指揮官は{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=535-541|ps=第三次輸送部隊の行動、船団全滅す}}、[[第二水雷戦隊]]司令官[[早川幹夫]]少将(海兵44期)であった<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.3(昭和19年11月)〔 9| |多号作戰部隊第三次輸送部隊(司令官/2Sd 島風 浜波 [[掃海艇|w]]×1 [[駆潜艇|ch]]×1 低速船5隻)0500マニラ発 1200/11オルモック突入ノ予定 GF右作戰ニ策應1YBノ大部ヲ以テ[[スールー海|スル―海]]又ハ[[ミンダナオ海]]方面ニ進出輸送船団ノ間接護ヱニ任ゼシム 〕</ref>。 |
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翌10日午後、帰投中の第四次多号作戦部隊(第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将。駆逐艦〈[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]〉等)の戦力から駆逐艦3隻(夕雲型2隻〈[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]〉、秋月型〈[[若月 (駆逐艦)|若月]]〉)を分離、第三次多号作戦部隊の駆逐艦2隻(竹、初春)と入れ替えることになった<ref>『多号作戦戦闘詳報第二号』、38頁</ref><ref name="戦場将器249">[[#戦場の将器]]249-250頁</ref>。11日5時ごろに第四次多号作戦部隊と合同して、18時30分にマニラに帰投した<ref>[[#南海の死闘]]108頁、『多号作戦戦闘詳報第二号』、16、17頁</ref>。 |
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駆逐艦4隻([[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]{{#tag:Ref|第二水雷戦隊旗艦。|group="注"}}、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]{{#tag:Ref|初春駆逐艦長は大熊安之助少佐<ref name="jirei1612" />、8月26日に竹が救助した五月雨艦長である。|group="注"}}、[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]{{#tag:Ref|第32駆逐隊司令[[大島一太郎]]大佐座乗{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=539}}。|group="注"}}、竹 )、[[第二八号型駆潜艇#同型艦|第46号駆潜艇]]および[[第一九号型掃海艇#同型艦|第30号掃海艇]]と共に輸送船5隻{{#tag:Ref|内訳:せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=413|ps=(第三次多号船一覧)}}。[[第26師団 (日本軍)|第26師団]]将兵約2,000名と軍需品を輸送する{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=429-430|ps=第四次、第三次多号経過概要}}。|group="注"}}を護衛してマニラを出港した{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=43-46|ps=壮絶、第三次輸送部隊}}。 |
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なお「竹」と「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、この日の空襲によって駆逐艦「[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]」を残して全滅(島風沈没時に[[早川幹夫]]第二水雷戦隊司令官戦死)<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]190頁</ref><ref name="秋月型267">[[#秋月型(潮2015)]]267-269頁『炎の海にのまれた初春』</ref>。乗組員の間では「竹」は「強運の艦」としての噂が広まった<ref name="南海死闘110">[[#南海の死闘]]110-111頁『間一髪の強運』</ref>。 |
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翌[[11月10日|10日]]午前10時、南西方面艦隊司令長官は「初春」と「竹」の所属部隊を入れ替えるよう下令した{{#tag:Ref|11月10日1009(南西方面部隊)NSB電令作第740号 初春、竹、十日一四〇〇第三次輸送部隊ヨリ分離 以後「マニラ」帰還迄第四次輸送部隊ニ編入ス{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=537}}。|group="注"}}。同日午後、レイテ島からマニラへ帰投中の第四次多号作戦部隊{{#tag:Ref|指揮官は第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将:駆逐艦([[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]〈一水戦旗艦〉、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]〈中破、艦首切断〉{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=534}}、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]){{Sfn|戦史叢書56|1972|p=532}}、第四護衛船団司令官[[松山光治]]少将が指揮する海防艦([[占守 (海防艦)|占守]]、[[沖縄 (海防艦)|沖縄]]、第13号海防艦)など{{Sfn|日本海防艦戦史|1994|p=106}}。[[オルモック湾]]での対空戦闘で、輸送船2隻と第11号海防艦が沈没していた{{Sfn|戦場の将器|1997|p=248}}{{Sfn|日本海防艦戦史|1994|pp=111-114|ps=第四次多号輸送}}。|group="注"}}から駆逐艦3隻([[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]])を分離、第三次多号作戦部隊の駆逐艦2隻(竹、初春)と入れ替えることになった{{Sfn|戦場の将器|1997|p=249}}{{Sfn|岸見勇美|2010|p=44}}。 |
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[[11月11日|11日]]午前5時ごろ、「初春」と「竹」は第四次多号作戦部隊と合同した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=537}}。7隻(霞、潮、秋霜、初春、竹、沖縄、金華丸)は18時30分、「せれべす丸」や輸送艦救援に従事した2隻(占守、第13号)は同日深夜{{Sfn|第13号海防艦戦記|2014|p=19}}、それぞれマニラに帰投した{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=541-542|ps=第四次、第三次部隊のマニラ帰投}}<ref>『多号作戦戦闘詳報第二号』、16、17頁、38頁</ref>。 |
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なお「竹」と「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、[[オルモック湾]]での対空戦闘で壊滅する<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.4(昭和19年11月)〔 11|1130頃|(多号作戰部隊第三次輸送部隊)敵艦上機約120キノ攻撃ヲ受ク 低速[[貨物船|T]]×4(軍需品ヲ主トシ人員約400名搭載) 島風、浜波、長波、若月、[[掃海艇|w]]3? }沈没 朝霜 避退ニ成功 ビサヤン海ヲ西航マニラニ向ケ帰投 〕</ref>。 |
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駆逐艦「[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]」を残して全滅した{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=47-50|ps=漂流と彷徨}}{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=538-539|ps=二水戦司令官戦死、第二船団全滅}}。島風沈没時に[[早川幹夫]]第二水雷戦隊司令官も戦死した{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=62-64|ps=軍需品搭載船団の全滅}}。「朝霜」は12日マニラに帰投した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=542}}。 |
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11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊 |
11月12日、マニラに到着していた[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]輸送隊は{{#tag:Ref|空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、重巡[[利根 (重巡洋艦)|利根]](ブルネイから同行)、軽巡[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]、第30駆逐隊([[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]、[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]){{Sfn|戦史叢書56|1972|p=544}}。|group="注"}}、同行していた軽巡洋艦「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」を分離する{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=544}}。かわりに駆逐艦「[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]」<ref>[[#S1910経過(護衛対潜)]] p.8〔 1YB 時雨(1YB第三部隊)唯一ノ生還艦コロンニ向ケ帰投 〕</ref>を編入し、内地へ帰投する<ref>[[#S1906第30駆日誌(3)]] p.13〔 12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港 〕(註:重巡[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]は既に沈没している)</ref>。「木曾」と「[[霜月 (駆逐艦)|霜月]]」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]] pp.42-43〔 十日一一〇九(長官)NSB|十日一五四〇捷號作戰部隊桑霜月(司令官)4sf(司令官)31S(六海一部及GF)|機密第一〇一一〇九番電 南西方面部隊電令作第七四一號 一.マニラ着後第四航空戰隊(日向伊勢)ヲ多號作戰部隊支援部隊ニ木曽霜月ヲ第一警戒部隊ニ第三十一戰隊(五十鈴梅桃桐)桑杉ヲ護衛部隊ニ編入/二.沖波曙早霜ヲ多號作戰部隊警戒部隊ヨリ除キ支援部隊ニ編入 以下略 〕</ref>。 |
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[[11月13日]]、[[マニラ湾]]は再び空襲をうける{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=50-54|ps=マニラ湾の地獄}}{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=65-66|ps=マニラ在泊艦船の被害甚大}}。 |
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11月13日、[[マニラ湾]]は再び空襲をうける<ref name="志賀兵科154" />。水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春)は沈没もしくは大破着底状態となる<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.7『木曾沈没着底、沖波沈没着底』</ref><ref>[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]]pp.32-33『11・13|0730敵KdBノ艦上機「マニラ」船舶空襲三次ニ亘リ来襲、沖波初春被弾大火災沈没、潮擱座、木曾沈没「カビテ」曙秋霜大破 商船殆ド全部火災トナル』</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]p.11『(4)…翌13日朝来敵艦上機群及反復来襲「マニラ」港及「キャビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦艇全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜中破木曾大破〕ノ被害アリ…』</ref>。 |
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水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=267-269|ps=炎の海にのまれた初春}})が沈没もしくは大破着底状態となる{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=543-546|ps=十一月十三日の空襲、「木曾」、駆逐艦等の沈没}}<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]] p.7〔 木曾沈没着底、沖波沈没着底 〕、[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]] pp.32-33〔 11・13|0730敵KdBノ艦上機「マニラ」船舶空襲三次ニ亘リ来襲、沖波初春被弾大火災沈没、潮擱座、木曾沈没「カビテ」曙秋霜大破 商船殆ド全部火災トナル 〕、[[#S1909一水戦日誌(2)]] p.11〔 (4)…翌13日朝来敵艦上機群及反復来襲「マニラ」港及「キャビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦艇全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜中破木曾大破〕ノ被害アリ… 〕</ref>。竹乗組員達は「マニラに帰投して大空襲に出くわした。島風と一緒にレイテに行けば良かった。本艦は運が悪い」と自嘲したが、第三次多号船団部隊が「朝霜」を除いて全滅した事を知り、逆に「竹は強運の艦だ」という印象が広まった{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=110-111|ps=間一髪の幸運}}。 |
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本艦は港外に退避しており、損害はなかった<ref>[[#南海の死闘]]109頁</ref>。 |
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第五艦隊司令長官[[志摩清英]]司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官[[大川内伝七]]中将)に進言。同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮〈左舷一軸運転〉、竹)は第五艦隊司令部を便乗させ、マニラを脱出した<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]p.11『敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部移乗》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ』</ref>。 |
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「竹」はマニラから[[ブルネイ]]に移動する第一水雷戦隊(司令官[[木村昌福]]少将・海兵41期)とともに[[南沙諸島]][[太平島|長島]]に向かい、長島で南方に進出途上の[[第四航空戦隊]](司令官[[松田千秋]]少将。戦艦[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]])などと会合<ref>野村、10頁;宇那木、6頁</ref>。飯村駆逐艦長が退艦し、宇那木少佐は便乗中の戦艦「[[日向 (戦艦)|日向]]」から「竹」に移乗、新任駆逐艦長となる<ref name="南海死闘111">[[#南海の死闘]]111-112頁『艦長宇那木少佐着任』</ref><ref name="志賀兵科157">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]157-158頁</ref>。本艦はアメリカ潜水艦[[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]] (''USS Hake, SS-256'') の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡「[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]」と途中ですれ違いつつ<ref>宇那木、6頁;木俣『日本水雷戦史』、586頁</ref>、マニラに引き返した(11月15日、マニラ入港)<ref name="志賀兵科157" /><ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]187頁</ref>。 |
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マニラ大空襲をうけて、第五艦隊司令長官[[志摩清英]]司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官[[大川内伝七]]中将)に進言した{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=548a-549|ps=第二遊撃部隊のマニラ撤退/ブルネイに避退す}}{{Sfn|戦史叢書93|1973|p=67a|ps=第二遊撃部隊のマニラ撤退と第一遊撃部隊の内地回航}}。 |
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11月24日、「竹」は第一輸送戦隊(司令官[[曾爾章]]少将・海兵44期)の指揮下に入り<ref>ただし、本来「竹」に乗艦する予定であった曾爾章少将は後の船の段取りを取るためマニラに残り、代わりに宇那木勁艦長が指揮官を任されている。[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]188頁</ref><ref>[[#戦隊行動調書]]p.48『第一輸送戰隊』</ref>、第五次多号作戦第二梯団<ref>第一梯団は[[第一〇三号型輸送艦|二等輸送艦]]3隻(111号、141号、160号)で編成</ref> として[[第一号型輸送艦#同型艦|第6号輸送艦]]、[[第一号型輸送艦#同型艦|第9号輸送艦]]および[[第一号型輸送艦#同型艦|第10号輸送艦]]と共にマニラを出撃した<ref name="志賀兵科157" /><ref>[[#南海の死闘]]115頁</ref>。 |
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同[[11月13日|13日]]深夜、第一水雷戦隊司令官が指揮する残存艦艇(霞、初霜{{#tag:Ref|志摩長官以下、第五艦隊司令部は初霜に乗艦した{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=548b-549}}。初霜と朝霜は[[ブルネイ]]に直行し{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=548b-549}}、同地で第五艦隊旗艦は重巡「[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]」となった<ref name="S191116護衛対潜" />。|group="注"}}、朝霜、潮、竹 ){{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=451-452}}はマニラを脱出した<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]] p.11〔 敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部移乗》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ 〕</ref>{{#tag:Ref|第四次多号作戦に参加した海防艦(占守、沖縄、第13号)も[[11月14日|14日]]午前2時にマニラを出発、[[ボルネオ島]]北西の[[ラブアン]]にむかった{{Sfn|第13号海防艦戦記|2014|p=20}}。|group="注"}}。 |
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翌11月25日、「米機動部隊が接近中」との情報で[[ボアク島|マリンドケ島]]北西部のバラナカン湾に避泊したが<ref>[[#南海の死闘]]116頁、宇那木、8頁</ref><ref name="志賀兵科159">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]159-162頁</ref>、間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]191頁</ref>。第9号輸送艦も損傷(航海長袴田徳男大尉戦死、砲術長負傷、荷役装置故障)<ref name="最後ネイビー18">[[#最後のネイビーブルー]]18-19頁(飯田博通航海士談。戦後、巨済通信士)</ref><ref name="松永三号118">[[#松永、三号|三号輸送艦帰投せず]]118-119頁</ref>。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名・負傷者60名余を出した他<ref name="志賀兵科159" /><ref>[[#南海の死闘]]125頁</ref>、[[ジャイロコンパス]]が吹き飛ばされて使用不能となった<ref name="a">宇那木、10頁</ref><ref name="佐藤艦長続193">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]193-195頁</ref>。レイテ島オルモック湾への突入を命じられ、先任将校(志賀)は任務遂行を進言、高井義助航海長は『[[方位磁針]]を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある』と具申した<ref name="佐藤艦長続193" /><ref name="志賀兵科162">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]162-166頁『良識ある判断』</ref>。機関長は燃料流出を懸念したが、命令なら突入すると進言<ref name="佐藤艦長続193" />。砲術長は反対した<ref name="佐藤艦長続193" /><ref name="志賀兵科162" />。 |
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「竹」はマニラから[[ブルネイ]]に移動する第一水雷戦隊(司令官[[木村昌福]]少将・海兵41期、旗艦「霞」)および「潮」と共に[[南沙諸島]][[太平島|長島]]に向かい、同地で南方に進出途上の[[第四航空戦隊]](司令官[[松田千秋]]少将:戦艦[[日向 (戦艦)|日向]]<!-- 四航戦旗艦 -->、[[伊勢 (戦艦)|伊勢]])や護衛艦([[霜月 (駆逐艦)|霜月]]、[[梅 (松型駆逐艦)|梅]]、[[桐 (松型駆逐艦)|桐]])などと会合{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=548b-549}}、燃料を補給してもらう{{#tag:Ref|(昭和19年11月17日){{Sfn|日向、追憶|1977|p=92}}〔 2YB電令により支援部隊5F(足柄)4Sf 榛名 大淀×4はリンガに回航の事となる。31S(五十鈴、槇、桑、杉、桃)マニラに向ふ。4Sf、霜月、梅、桐は長島錨地に向ふ。1600入泊。1sd、霞、潮、竹、同地にあり各艦に燃料を補給す。〕<ref>野村、10頁;宇那木、6頁</ref>|group="注"}}。同地で飯村(臨時「竹」艦長)が退艦し、宇那木少佐は便乗中の戦艦「[[日向 (戦艦)|日向]]」から「竹」に移乗、新任駆逐艦長となる{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=111-113|ps=艦長宇那木少佐着任}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=157-158}}。飯村少佐は[[11月15日|15日]]付で鬼怒航海長の職務を解かれた<ref name="jirei1646">{{アジア歴史資料センター|C13072102000|昭和19年11月18日(発令11月15日付)海軍辞令公報(甲)第1646号 p.10}}</ref>。 |
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しかし、第9号輸送艦(艦長[[赤木毅]]予備少佐)より『砲術長戦死、航海長負傷、[[大発動艇]]卸用ワイヤ切断』との報告を受け、命令違反を承知で再挙を期してマニラに引き返すこととした<ref>[[#南海の死闘]]頁126-127頁</ref><ref>[[#最後のネイビーブルー]]32頁</ref>。生存者を救助しつつ<ref name="志賀兵科162" />、11月26日にマニラに帰投<ref name="佐藤艦長続193" /><ref name="志賀兵科166">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]166-169頁『不退転の決意』</ref>。宇那木艦長は[[南西方面艦隊]]司令部(参謀長[[有馬馨]]少将、先任参謀[[高間正義]]大佐)に出頭して詫びを入れた<ref name="志賀兵科166" /><ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]196-197頁</ref>。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった<ref name="志賀兵科166" /><ref>宇那木、13頁</ref>。第九号輸送艦では、沈没した駆逐艦[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]の航海長だった佐々木幸康大尉より新航海長を迎え、作戦準備を整えた<ref name="松永三号118" />。 |
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宇那木艦長を迎えた「竹」は、リンガ泊地へむかう第五艦隊とわかれた<ref name="S191116護衛対潜">[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.6(昭和19年11月)〔 16| |(長官)5F旗艦足柄ニ変更 支援部隊(足柄 1Sd《霞 潮 初霜》 5S《羽黒》4Sf《伊勢日向》榛名 大淀 朝霜 霜月)ヲ率イ新南群島出港リンガ回航 〕</ref>。 |
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[[コレヒドール島]]沖合でアメリカ潜水艦[[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]] (''USS Hake, SS-256'') の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡「[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]」と途中ですれ違いつつ<ref>宇那木、6頁;木俣『日本水雷戦史』586頁、[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.7(昭和19年11月)〔 19|0330|五十鈴コレヒドール西方55′ニ於テ(魚雷)1本舟尾ニ命中舟尾舵共ニ切断| |現在16[[ノット|K]]航行可能 〕</ref>、マニラに引き返した{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=113-114}}{{#tag:Ref|第三十一戦隊司令部はシンガポールで秋月型駆逐艦「[[霜月 (駆逐艦)|霜月]]」に旗艦を変更した{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=73-74|ps=南西方面部隊、駆逐艦の不足を訴う}}。直後の[[11月25日]]未明、「霜月」は潜水艦[[カヴァラ (潜水艦)|カヴァラ]]に撃沈され、第三十一戦隊司令部は全滅した<ref name="S191125護衛対潜">[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.9(昭和19年11月)〔 25|0449|霜月(司令官/31S)ナツナ水道SW(アナンバス諸島E方120′)(潜水艦)(魚雷)沈没 〕〔 25|0800~1200|八十島船団マニラニ向ケ南下中サンタクルーズ(ep島西岸)南方海面ニ於テ敵艦上機延約300ト交戰|0950八十島沈没 T113.142.161沈没 〕〔 25|2145|[[海防艦|CD]]38[[間宮 (給糧艦)|間宮]]護ヱ中マニラ西方60′附近(魚雷)|沈没/熊野サンタクルーズ沖合ニテ敵艦上機約40ト交戰熾烈ナル雷爆撃ニ依リ沈没|撃4 〕</ref>。新たな第三十一戦隊司令部は内地で編成され(司令官[[鶴岡信道]]少将)、12月22日に空路でマニラへ進出した{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=128-129|ps=水上部隊}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|p=454|ps=水上兵力の漸減}}。|group="注"}}。 |
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11月20日付で第一水雷戦隊は解隊され{{Sfn|戦場の将器|1997|p=254}}、一水戦司令官[[木村昌福]]少将は第二水雷戦隊司令官に補職される{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=67b-69|ps=第一水雷戦隊の解隊と第三十一戦隊の第五艦隊編入}}。同[[11月20日|20日]]付で第三十一戦隊は第五艦隊に編入された{{Sfn|戦史叢書54|1972|p=453}}{{Sfn|戦史叢書93|1973|p=68}}。11月21日、マニラの日本陸海軍は、レイテ島への輸送に第三十一戦隊と高速輸送艦を活用することで一致した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=552|ps=ブラウエン攻略の企図と軍需品勇戦輸送の要/作戦方針の既定}}{{#tag:Ref|〔 差当リ目標ヲ「ブラウエン」ノ地上制圧態勢ヲ占ムルコトニ置キ第三十一戦隊ノ一部、[[第百一号型輸送艦|SB]]、[[機動艇|SS]]等ヲ骨幹トシ 海上「トラック」以下ヲ加ヘタル確実ナル輸送力ヲ以テ現「レイテ」部隊ノ戦力増強竝ニ[[第68旅団 (日本軍)|第六十八旅団]]ノ投入ヲ行ヒ 之ト密接ナル航空作戦ヲ遂行 遅クトモ十二月初頭迄ニ其ノ目的ヲ達成シ 此ノ間敵ヲ爆撃制圧ノ成果ヲ利用シ大型船ニ依ル輸送力一段ノ増強ヲ行ヒ「ブラウエン」制圧効果ト相俟ッテ益々航空威力ヲ発揮シ「レイテ」ノ敵主力撃滅ニ必要ナル兵力輸送ニ転ス 〕{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=492-494|ps=義号、和号、テ号計画の決定}}。|group="注"}}。 |
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[[11月24日]]、「竹」は第一輸送戦隊(司令官[[曾爾章]]少将・海兵44期)の指揮下に入り{{#tag:Ref|ただし、本来「竹」に乗艦する予定であった曾爾章少将は後の船の段取りを取るためマニラに残り、代わりに宇那木勁艦長が指揮官を任されている{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=61-63|ps=第五次輸送第一梯団全滅}}。|group="注"}}<ref>[[#戦隊行動調書]]p.48『第一輸送戰隊』</ref>、第五次多号作戦に参加する{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=554a|ps=第五次多号作戦}}。第一梯団{{#tag:Ref|第一梯団は[[第一〇三号型輸送艦|二等輸送艦]]3隻(111号、141号、160号)と第46号駆潜艇で編成されていた{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=554b}}。|group="注"}}と |
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第二梯団(竹、[[第一号型輸送艦#同型艦|第6号輸送艦]]、[[第一号型輸送艦#同型艦|第9号輸送艦]]、[[第一号型輸送艦#同型艦|第10号輸送艦]])としてマニラを出撃した{{Sfn|南海の死闘|1994|p=115|ps=再度レイテ島への出撃}}。輸送物件は、第三次多号作戦で座礁した「せれべす丸」等の陸軍部隊や、軍需品であった{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=494-497|ps=航空攻撃再興、多号第五次進発}}。 |
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ところが先発した第一梯団は[[マスバテ島]]南東部カタイガンに避泊中で空襲をうけ、第46号駆潜艇をのぞき全滅した{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=499a|ps=多号第五次の挫折と二十五日の艦載機}}{{Sfn|回想レイテ作戦|2005|pp=162-164}}。乗組員はマスバテ島に上陸した<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.8(昭和19年11月)〔 24| |多号作戰第五次輸送 輸111.141.160.ch46 }マスバテ島カタインガン湾避泊中1400以后敵(飛行機)20余ノ攻ヲ受ク|T111.141.直撃彈火災炎上 T160.至近彈炎上擱坐夕刻鎮火離礁ノ見込ナシ 人員物件ノ大部仝島ニ揚陸 ch46マニラニ引返ス 〕</ref>。マニラへ帰投中の第46号駆潜艇も、翌25日に空襲で沈没した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=554b}}。 |
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翌[[11月25日|25日]]昼{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=116-117|ps=運命のバラナカン避泊}}、「米機動部隊が接近中」との情報で輸送部隊は{{仮リンク|タヤバス湾|en|Tayabas Bay}}に浮かぶ[[ボアク島|マリンドケ島]]北西部のバラナカン湾に避泊した{{Sfn|岸見勇美|2010|p=62|ps=第5図、マリンドーケ島バナラカン湾避泊図}}<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.9(昭和19年11月)〔 25| |多号作戰第五次第三梯団(竹.T6.T9.T10)タヤバス湾南方マリンドケ島ノパラナカン湾ニ於テ被空襲|T6…沈 T10…沈 竹 T9}若干ノ被害 〕</ref>。 |
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間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没する{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=554b}}{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=64-66|ps=猛爆受けた第二梯団}}。第9号輸送艦も損傷(航海長袴田徳男大尉戦死、砲術長負傷、荷役装置故障){{Sfn|志賀、ネービーブルー|1989|pp=18-19|ps=(飯田博通航海士談。戦後、巨済通信士)}}{{Sfn|三号輸送艦帰投せず|1986|pp=118-119}}。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=124-127|ps=艦長、苦悩の決断(バラナカン対空戦闘戦死者氏名一覧)}}・負傷者60名余を出した他{{Sfn|南海の死闘|1994|p=129}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=159-162}}、[[ジャイロコンパス]]が吹き飛ばされて使用不能となった<ref name="a">宇那木、10頁</ref>{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=193-195}}。レイテ島オルモック湾への突入を命じられていたため「竹」幹部は協議をおこなう{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=193-195}}。先任将校(志賀)は任務遂行を進言、高井義助航海長は『[[方位磁針]]を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある』と具申した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=162-166|ps=良識ある判断}}。機関長は燃料流出を懸念したが「命令なら突入する」と進言、砲術長は反対した{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=193-195}}。 |
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しかし、第9号輸送艦(艦長[[赤木毅]]予備少佐)より『砲術長戦死、航海長負傷、[[大発動艇]]卸用ワイヤ切断』との報告を受け{{Sfn|志賀、ネービーブルー|1989|p=32}}、再挙を期してマニラに引き返すことにした<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.9(昭和19年11月)〔 26| |多号作戰第五次第三梯団 25日タヤバス湾南方「マリンドケ」島ニ於テ被爆損傷セル竹及輸9ハ極力オルモック突入ヲ続行セントセルモ舩体被害甚大ニシテ成功ノ見込ナク命ニ依リ断念マニラニ向ケ帰投中 〕</ref>。沈没艦の生存者を収容し、[[11月26日]]マニラに帰投した{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=127-130|ps=再度「マニラ」帰港}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=166a-169|ps=不退転の決意}}。 |
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こうして第五次多号作戦は失敗した{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=486}}{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=76-77|ps=第五次~第七次多号作戦}}{{#tag:Ref|ルソン島西岸では<ref name="S191125護衛対潜" />、南下中の軽巡洋艦「[[平海 (巡洋艦)|八十島]]」と輸送艦3隻および重巡「[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]」が撃沈された{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=499b}}{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=182-183|ps=米空母機により沈没}}。|group="注"}}{{#tag:Ref|この時期、僅かながらレイテ島輸送に成功したのは陸軍潜水艦「[[三式潜航輸送艇|マルゆ]]」のみであった{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=501-502|ps=「マルゆ」初成功}}{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=100-101}}。|group="注"}}。 |
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宇那木艦長は[[南西方面艦隊]]司令部(参謀長[[有馬馨]]少将、先任参謀[[高間正義]]大佐)に出頭して詫びを入れた{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=166b-169}}{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=67-72|ps=命令違反}}。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=166b-169}}。第九号輸送艦では、マニラ空襲で沈没した駆逐艦[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]の航海長だった佐々木幸康大尉が新航海長に任命され<ref>[[#S士官の手記]] p.2(沖波准士官以上名簿)</ref>、作戦準備を整えた{{Sfn|三号輸送艦帰投せず|1986|pp=118-119}}。 |
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====第七次多号作戦・クーパー撃沈==== |
====第七次多号作戦・クーパー撃沈==== |
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{{seealso|クーパー (駆逐艦)}} |
{{seealso|クーパー (駆逐艦)}} |
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第六次多号作戦が予想以上の成功をおさめたので{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=488-489}}、日本軍は第七次多号作戦を実施した{{Sfn|戦史叢書41|1970|pp=510-512|ps=成功の報到り上下ともに積極化}}{{Sfn|戦史叢書41|1970|p=514a|ps=多号第七、第八次}}。ただし第六次多号作戦部隊は揚陸地点および帰路に魚雷艇と空襲により全滅した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=555a|ps=第六次多号作戦}}。 |
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11月30日、本艦は第七次多号作戦において松型駆逐艦5番艦「[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]」(駆逐艦長[[山下正倫]]中佐、海兵53期)の指揮下に入り<ref>[[#秋月型(潮2015)]]302頁『決死のオルモック湾突入作戦』</ref><ref>[[#地獄のレイテ輸送作戦]]75-76頁『悲壮!第七次輸送作戦』</ref>、駆逐艦2隻(桑、竹)、第9号輸送艦、[[第一〇三号型輸送艦#同型艦|第140号輸送艦]]、[[第一〇三号型輸送艦#同型艦|第159号輸送艦]]という戦力でマニラを出撃した<ref>[[#南海の死闘]]131頁、[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]198頁</ref><ref name="志賀兵科169">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]169-171頁『柔軟なる思考』</ref>。「竹」には方面軍作戦参謀[[田中光祐]]少佐他数名の陸軍将校が乗艦していたという<ref name="志賀兵科169" />。 |
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航行中、[[酸素魚雷]]点検中および訓練中の[[ヒューマンエラー|事故]]により魚雷1本を誤って投棄、「竹」の残魚雷は3本となった<ref>[[#南海の死闘]]134-135頁</ref><ref name="志賀兵科175" />。 |
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第七次多号作戦部隊は{{#tag:Ref|第一梯団:陸軍SB艇3隻(5号、11号、12号)、第20号駆潜艇<ref>[[#S1910-12経過概要]] p.13(昭和19年11月)〔 三十日|第七次多號作戰([[機動艇|SS]]×3 [[駆潜艇|ch20]])敵ノ攻撃ヲ排除シ「イビール」ニ突入成功 〕</ref>。11月29日マニラ発、5号がマスバテ島に座礁したが<ref>[[#S1911経過(護衛対潜)]] p.10(昭和19年11月)〔 29| |多号第七次輸送船団第一梯団(Ch20 陸軍SS艇×3)1350マスバテ到着 1515同地発 セブ島東岸ソコド湾ニ向ヒツツアリ 第5号SS艇マスバテ湾口座礁/引曳シ不成功同地ニ残留 〕</ref>、他は[[セブ島]]を経由して[[11月30日|30日]]レイテ島[[オルモック]]南方4kmのイピル着、揚陸成功<ref>[[#S1912経過(護衛対潜)]] p.1(昭和19年11月)〔 30| |多号第七次輸送船団第一梯団(SS×3 Ch20)(内SS-5マスバテ坐礁中)1100~1600セブ島東岸ソコド湾ニ於テ敵f中f小×約30ト交戰 ch20若干被害アリ舩団被害ナシ/2300イピール(オルモック南方)ニ突入 0140/1揚陸完了帰途ニ就ク/1430~1600 foc×6セブ発進右船団上空直ヱ1530ヨリ約20m間敵fc×24ト交戰|墜×5(内不確実×1)未帰還×1 〕</ref>(第20号駆潜艇は駆逐艦[[長波 (駆逐艦)|長波]]生存者72名を収容){{Sfn|戦史叢書56|1972|p=555c}}/第二梯団:陸軍SB艇2隻(10号、14号)、11月30日マニラ発、12月1日レイテ島[[:en:Palompon|パロンポン]]北方のシラド湾着。/第三梯団:海軍輸送艦2隻(140号、159号)/第四梯団:第9号輸送艦、駆逐艦2隻(桑、竹){{Sfn|戦史叢書41|1970|p=514b|ps=多号第七次}}{{Sfn|戦史叢書56|1972|pp=555b-556|ps=第七次多号作戦}}。|group="注"}}、 |
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第一梯団<ref>[[#S1910-12経過概要]] p.13(昭和19年11月)〔 三十日|第七次多號作戰([[機動艇|SS]]×3 [[駆潜艇|ch20]])敵ノ攻撃ヲ排除シ「イビール」ニ突入成功 〕</ref>、第二梯団、第三梯団と第四梯団にわかれていた<ref name="S191203護衛対潜a" /><ref name="S191202経過概要">[[#S1910-12経過概要]] p.14(昭和19年12月)〔 二日|第七次多號(桑、竹、9、140、159輸)ハ「オルモック」突入ニ成功セルモ揚搭作業中敵水上部隊ト交戰(桑沈没、竹片舷航行)</ref>。 |
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本艦は第七次多号作戦において松型駆逐艦5番艦「[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]」(駆逐艦長[[山下正倫]]中佐、海兵53期)の指揮下に入った{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=75-77|ps=悲壮!第七次輸送作戦}}。 |
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[[12月1日]]午後6時{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=555c}}、駆逐艦2隻(桑、竹)、第9号輸送艦、[[第一〇三号型輸送艦#同型艦|第140号輸送艦]]、[[第一〇三号型輸送艦#同型艦|第159号輸送艦]]という第三梯団/第四梯団でマニラを出撃した{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=198}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=131-133|ps=レイテ島へ最後の出撃}}。「竹」には方面軍作戦参謀[[田中光祐]]少佐他数名の陸軍将校が乗艦していたという{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=169-171|ps=柔軟なる思考}}{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=78-80|ps=別れの杯酌み交わし}}。マニラ湾口で船団部隊は陸軍潜水艦([[三式潜航輸送艇|マルゆ]])と遭遇した{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=302-305|ps=決死のオルモック湾突入作戦}}{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=91-92}}。 |
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[[12月2日]]昼間、敵小数機に触接されたが、空襲はなかった<ref>[[#S1912経過(護衛対潜)]] p.1(昭和19年12月)〔 1|0140|多号作戦第七次第一回ノ輸送部隊(SB×2隻 ch×1隻)0140揚陸完了 帰途|11-30′夜間イピール突入ニ成功セルモノ/夕|尚d×2 輸送艦×3ノ多号作戦部隊マニラ出港イピールニ向フ 〕〔 2|1530|多号作戦第七次輸送部隊第3.第4梯団(桑.竹.9.140.159輸送艦)敵機1殻ノ触接ヲ受ク|途中敵ノ攻撃ヲ受クルコトナク2230頃全艦艇無事オルモック突入 〕</ref>。 |
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航行中、[[酸素魚雷]]点検および訓練時の[[ヒューマンエラー|事故]]により魚雷1本を投棄、「竹」の残魚雷は3本となった{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=133-135|ps=聯管員不測の大事故}}。 |
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この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから[[魚雷艇]]隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、[[多号作戦#第6次作戦|11月28日夜半のオルモック襲撃]]に成功するなど戦果を挙げていた<ref name="aa">ニミッツ、ポッター、401頁</ref>。[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]司令官[[トーマス・C・キンケイド]][[中将]]は、続いてオルモック方面に駆逐艦と[[掃海艇]]を派遣することとし<ref name="aa" />、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた<ref name="aa" />。そして、三度目の作戦<ref name="aa" /> として[[:en:USS Allen M. Sumner (DD-692)|アレン・M・サムナー]] (''USS Allen M. Sumner, DD-692'')、[[:en:USS Moale (DD-693)|モール]] (''USS Moale, DD-693'') そして'''[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]]''' (''USS Cooper, DD-695'') がオルモック湾に差し向けられる事となったのである<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]193頁『米駆逐隊の迎撃』</ref>。 |
この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから[[魚雷艇]]隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、[[多号作戦#第6次作戦|11月28日夜半のオルモック襲撃]]に成功するなど戦果を挙げていた<ref name="aa">ニミッツ、ポッター、401頁</ref>。[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]司令官[[トーマス・C・キンケイド]][[中将]]は、続いてオルモック方面に駆逐艦と[[掃海艇]]を派遣することとし<ref name="aa" />、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた<ref name="aa" />。そして、三度目の作戦<ref name="aa" /> として[[:en:USS Allen M. Sumner (DD-692)|アレン・M・サムナー]] (''USS Allen M. Sumner, DD-692'')、[[:en:USS Moale (DD-693)|モール]] (''USS Moale, DD-693'') そして'''[[クーパー (駆逐艦)|クーパー]]''' (''USS Cooper, DD-695'') がオルモック湾に差し向けられる事となったのである<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]193頁『米駆逐隊の迎撃』</ref>。 |
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アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)<ref name="b">木俣『日本水雷戦史』、565頁</ref> は18時30分にレイテ湾を出撃し<ref name="b" />、オルモック湾に急行した |
アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)<ref name="b">木俣『日本水雷戦史』、565頁</ref> は18時30分にレイテ湾を出撃し<ref name="b" />、オルモック湾に急行した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=173-174}}。出撃して間もなく、[[セブ]]から飛来してきた[[第一五三海軍航空隊|戦闘八〇四飛行隊]]の[[月光 (航空機)|月光]]や第一四一航空隊の[[瑞雲 (航空機)|瑞雲]](水上爆撃機)に付きまとわれ<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]194頁</ref>、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した<ref>木俣『日本水雷戦史』、565、566頁;ニミッツ、ポッター、401頁;渡辺、319頁、</ref>{{#tag:Ref|『南海の死闘』151-155頁、第十一章「オルモック夜戦の戦訓と戦果」宇那木勁(「竹」艦長){{Sfn|南海の死闘|1994|pp=151-155}}。|group="注"}}。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=173-174}}。 |
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[[File:USS Cooper (DD-695).jpg|thumb|left|駆逐艦クーパー]] |
[[File:USS Cooper (DD-695).jpg|thumb|left|駆逐艦クーパー]] |
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12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始 |
[[12月2日]]夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始した{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=555c}}。[[大発動艇|大発]]が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長(海兵51期)や機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀(海兵52期)などが収容されていた{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=173-174}}{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=202}}。その後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=175a-177|ps=無心の大戦果}}<ref name="aaa">宇那木、16頁</ref>。「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった<ref>木俣『日本水雷戦史』、566頁</ref>。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した<ref name="c">木俣『日本水雷戦史』、566頁</ref>。この時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=175b-177}}<ref name="d">宇那木、17頁</ref>。「桑」側は敵戦力を[[軽巡洋艦]]3隻と判断、照射砲撃と魚雷戦を開始した{{Sfn|回想レイテ作戦|2005|pp=164-166|ps=オルモック沖の海戦絵巻}}。 |
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最初の交戦はおよそ9分で決着がつき<ref name="e">木俣『日本水雷戦史』、567頁</ref>、駆逐艦主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した<ref name="e" />。「竹」は[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|12.7cm 高角砲]]、[[九六式二十五粍高角機銃|25mm 機銃]]、[[酸素魚雷]]で「敵巡洋艦(駆逐艦の誤認)」に反撃を行った |
[[12月3日]]午前0時30分頃より交戦がはじまる{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=555c}}。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき<ref name="e">木俣『日本水雷戦史』、567頁</ref>、駆逐艦主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=85-88|ps=漂流海面の日米交流}}。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した<ref name="e" />。「竹」は[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|12.7cm 高角砲]]、[[九六式二十五粍高角機銃|25mm 機銃]]、[[酸素魚雷]]で「敵巡洋艦(駆逐艦の誤認)」に反撃を行った{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=81-85|ps=オルモック湾の夜戦「竹」の殊勲}}。オルモック湾内を24ノットで航行・機動するため、座礁を懸念しながら戦闘をおこなった{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=204}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}。 |
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最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらみ<ref name="d" />、また電気機器の故障により発射の機会を逃した |
最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらみ<ref name="d" />、また電気機器の故障により発射の機会を逃した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}。二度目の機会を得て魚雷2本を発射する{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}。四番連管は起動弁の故障で発射できなかった{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=140-141}}。「竹」の水雷長志賀博大尉(海兵68期)が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}<ref name="f">雨倉、99頁</ref>。魚雷はクーパーの右舷に命中し、船体をV字に折られたクーパーは1分以内に沈没した<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]196-197頁</ref>。この後、「竹」は修理が終わった四番連管から魚雷1本を単独発射したが、こちらは命中しなかった{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}{{Sfn|南海の死闘|1994|p=143}}。 |
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一方、モールは「竹」の前部機械室に命中弾を与えた(負傷者1名) |
一方、モールは「竹」の前部機械室に命中弾を与えた(負傷者1名){{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=207}}。不発だったが浸水のため右舷1軸運転となり{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=145-146|ps=「竹」被弾}}、「竹」は最大で左舷に30度も傾いた{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=88-91|ps=「竹」の危機}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=180a-185|ps=苦境をひらく}}。しかし、「竹」もモールに高角砲弾を複数発命中させた<ref name="f" />。クーパー轟沈を「潜水艦からの雷撃」と錯覚していた米駆逐艦2隻{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=178-180}}(モール、サムナー)は戦場から避退した{{#tag:Ref|オルモック対岸の[[セブ島]]には第33特別根拠地隊{{Sfn|回想レイテ作戦|2005|p=41|ps=第三十三特別根拠地隊幹部}}(司令官[[原田覚]]少将){{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=383-384|ps=セブ基地特殊潜航艇の作戦}}があり、特殊潜航艇[[甲標的]]による作戦を実施していた{{Sfn|回想レイテ作戦|2005|pp=144-145}}{{Sfn|戦史叢書54|1972|p=461|ps=航空兵力の比島撤収}}。|group="注"}}{{#tag:Ref|11月27日未明には、レイテ島近海で[[フレッチャー級駆逐艦]]4隻が「マルゆ2号艇」と交戦、撃沈している{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=101-103|ps=駆逐艦対陸軍潜水艦}}。|group="注"}}。これ以上の戦闘は行われなかった。 |
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やがて第9号輸送艦から揚陸完了の報告を受け、缶に使用する[[真水]]の在庫が底を尽こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、第9号輸送艦から真水の供給を受けた |
やがて第9号輸送艦から揚陸完了の報告を受け、缶に使用する[[真水]]の在庫が底を尽こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、第9号輸送艦から真水の供給を受けた{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=146-148|ps=オルモック湾脱出}}{{Sfn|三号輸送艦帰投せず|1986|pp=116-117}}。同時に二水戦参謀が第9号輸送艦に移乗した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=180b-185}}{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=209}}。 |
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夜明けまで残2時間となった時、第140号輸送艦および第159号輸送艦からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、第140号輸送艦および第159号輸送艦を先発させる |
夜明けまで残2時間となった時、第140号輸送艦および第159号輸送艦からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、第140号輸送艦および第159号輸送艦を先発させる{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=209}}。宇那木艦長は[[オルモック]]の陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請した{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=209}}。 |
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[[12月3日]]3時に第9号輸送艦を率いてオルモック湾を出発<ref>宇那木、21頁</ref>。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、[[サーチライト]]を使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された |
[[12月3日]]3時に第9号輸送艦を率いてオルモック湾を出発<ref>宇那木、21頁</ref>。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、[[サーチライト]]を使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=146-148|ps=オルモック湾脱出}}。海面の桑生存者は通り過ぎる「竹」に救助を要請したが、竹側は「[[大発動艇]]がくるから頑張れ」と返答して過ぎ去った{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=305-307|ps=小さな勇者「桑」よ永遠なれ}}。すると最後尾の輸送艦{{#tag:Ref|『地獄のレイテ輸送作戦』98ページでは140号輸送艦が救助と記述する{{Sfn|岸見勇美|2010|p=98}}。|group="注"}}が反転し、桑生存者8名を収容した{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=97-98|ps=「桑」の最後}}。また生存者の一部は[[カッターボート]]で上陸、現地の[[海軍陸戦隊]]に合流した{{Sfn|回想レイテ作戦|2005|p=165}}。 |
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途中で傾斜を回復させた「竹」は |
途中で傾斜を回復させた「竹」は[[12月4日]]午後、マニラに帰投した{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=212}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=148-150|ps=奇跡の生還}}。マニラでは松型姉妹艦3隻([[梅 (松型駆逐艦)|梅]]、[[桃 (松型駆逐艦)|桃]]、[[杉 (松型駆逐艦)|杉]])が第八次多号作戦の出撃準備をおこなっており、「杉」では満身創痍の「竹」をみて作戦の困難さを悟ったという{{Sfn|岸見勇美|2010|pp=100-101}}。 |
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マニラ港では、曾爾少将(輸送戦隊司令官)が桟橋まで出迎え、宇那木艦長と握手を交わした{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=180b-185}}。続いて宇那木艦長は[[南西方面艦隊]]司令長官[[大川内傳七]]中将(海兵37期)から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=180b-185}}<ref name="ee">宇那木、23頁</ref>。宇那木艦長は後に、クーパー撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した<ref name="ee" />。また、宇那木艦長が、収容した便乗者の中に「島風」や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、[[1968年]](昭和43年)のことだった<ref name="aaa" />。なお、クーパー撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を撃沈した最後となった<ref>[[#連合軍艦艇撃沈す]]198頁</ref>。 |
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12月5日から14日まで応急修理を行ったが<ref>田村、133頁</ref>、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて[[佐世保]]での回航修理が命ぜられた |
12月5日から14日まで応急修理を行ったが<ref>田村、133頁</ref>、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて[[佐世保]]での回航修理が命ぜられた{{Sfn|南海の死闘|1994|p=167}}。 |
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===終戦まで=== |
===終戦まで=== |
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12月14日以降、米軍機動部隊は[[ルソン島]]各地に空襲をおこなった{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=573a|ps=連合軍の比島空襲、激化す}}。多号作戦に従事するためマニラ在泊中の松型各艦(梅、桃、杉、榧、樫、桐)はそれぞれ同地を脱出する。艦首損傷の「梅」は[[海南島]]経由で[[香港]]に退避{{Sfn|秋月型(潮書房)|2015|pp=314-315|ps=難をのがれ香港で修理}}、駆逐艦突入作戦のため第43駆逐隊司令指揮下3隻(杉、榧、樫)は[[南沙諸島|新南群島]]に移動{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=575|ps=南西方面部隊の処置}}、「桃」は翌[[12月15日|15日]]に潜水艦[[ホークビル (潜水艦)|ホークビル]]に撃沈された{{Sfn|戦史叢書56|1972|p=573b}}。 |
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「竹」は本格的な修理を受けるため、12月15日にマニラを出港<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]213頁</ref><ref name="志賀兵科192">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]192-195頁『傷ついてもなお』</ref>。この時猛烈な[[台風]]([[コブラ台風]])に遭遇、付近では[[ウィリアム・ハルゼー]]提督率いる[[第3艦隊 (アメリカ軍)]]が嵐に翻弄され、駆逐艦3隻が転覆するなど大損害を受けている<ref>[[#南海の死闘]]172頁</ref>。12月18日に高雄に寄港し、次いで12月21日に[[基隆市|基隆]]に寄港<ref>宇那木、26-27頁、[[#南海の死闘]]174-175頁</ref>。同日夜、「竹」は同地からの「辰春丸」(辰馬汽船、6,344トン)他2隻の輸送船団(タモ船団)を護衛して基隆を出港<ref name="志賀兵科192" /><ref>宇那木、29頁</ref>。[[中国大陸]]沿岸部や[[朝鮮半島]]南岸部の島々の間を縫って北上し、[[1945年]](昭和20年)1月1日に[[門司港]]外に到着した<ref name="志賀兵科192" /><ref name="佐藤艦長続214">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]214頁</ref>。 |
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本格的な修理を受けるため「竹」も[[12月15日]]にマニラを出港する{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=213}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=192a-195|ps=傷ついてもなお}}。この時猛烈な[[台風]]([[コブラ台風]])に遭遇した{{Sfn|南海の死闘|1994|p=171}}{{#tag:Ref|付近では[[ウィリアム・ハルゼー]]提督率いる[[第3艦隊 (アメリカ軍)]]が嵐に翻弄され、駆逐艦3隻が転覆するなど大損害を受けている{{Sfn|南海の死闘|1994|p=172}}。|group="注"}}。 |
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翌1月2日、「竹」は[[呉海軍工廠]]に回航<ref name="佐藤艦長続214" />。当初の予定では1月末から2月初頭<ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, 38-39頁</ref>、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが<ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 19頁</ref>、予定は延びて3月15日まで修理を行った<ref name="志賀兵科195">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]195-197頁『はかない望み』</ref><ref>田村、134頁。ただし、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 6-9、53-56頁 では3月15日の時点で修理は終わらず、4月28日まで継続されている書き方となっており、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 65頁 にも「修理ヲ続行中」とある</ref>。4月16日から26日にかけての工事では、[[三式探信儀]]などが装備された<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128000, 17-18頁</ref>。その間、2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた<ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 23、29、41、44頁</ref>。3月19日の[[呉軍港空襲]]では10名余の負傷者を出した<ref>[[#南海の死闘]]185頁</ref>。 |
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12月18日に高雄に寄港し、次いで12月21日に[[基隆市|基隆]]に寄港する<ref>宇那木、26-27頁</ref>{{Sfn|南海の死闘|1994|p=174}}。同日夜、「竹」は同地からの「辰春丸」(辰馬汽船、6,344トン)他2隻の輸送船団(タモ船団)を護衛して基隆を出港した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=192b-195}}<ref>宇那木、29頁</ref>。[[中国大陸]]沿岸部や[[朝鮮半島]]南岸部の島々の間を縫って北上し、[[1945年]](昭和20年)1月1日に[[門司港]]外に到着した{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=214}}。 |
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翌1月2日、「竹」は[[呉海軍工廠]]に移動する{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|p=214}}。当初の予定では1月末から2月初頭<ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, 38-39頁</ref>、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが<ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 19頁</ref>、予定は延びて3月15日まで修理を行った{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=195-197|ps=はかない望み}}{{#tag:Ref|田村、134頁。ただし、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 6-9、53-56頁 では3月15日の時点で修理は終わらず、4月28日まで継続されている書き方となっており、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 65頁 にも「修理ヲ続行中」とある。|group="注"}}。 |
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「竹」が修理中の1月中旬、第三十一戦隊司令部(司令官[[鶴岡信道]]少将)はマニラから台湾高雄に移転していた{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=128-129|ps=水上部隊}}。 |
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1944年(昭和19年)末より第43駆逐隊は所属艦2隻(桃、梅)を喪失<ref>[[#秘公報昭和20年2月(2)]]pp.20-21『内令第一一一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年二月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、朝霜」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「桃、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「桑、」ヲ削ル』</ref><ref>[[#秘海軍公報昭和20年3月(2)]]p.15『内令第二二一號 驅逐隊編制中左ノ通リ改定セラル|昭和二十年三月十日 海軍大臣|第七驅逐隊ノ項中「、霞」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、時雨、朝霜」ヲ「初霜、朝霜、霞」ニ改ム|第四十三驅逐隊ノ項中「梅、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「樅、」ヲ削ル』</ref>、松型11番艦「[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]」を編入<ref>[[#内令(秘)昭和19年11月(4)]]p.1『内令第一二九一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月二十五日 海軍大臣 第四十三驅逐隊ノ項中「桃、竹、桃、槇、桐」ヲ「梅、竹、桐、桃、槇、榧」ニ改ム』</ref>。 |
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2月5日付で第五艦隊が解隊されて[[第十方面艦隊]]が新編され{{Sfn|戦史叢書54|1972|pp=539-542|ps=西部方面部隊、第十方面艦隊の新設}}、第一輸送戦隊と第三十一戦隊は連合艦隊付属となった{{Sfn|戦史叢書93|1973|pp=128-129|ps=水上部隊}}{{Sfn|戦史叢書93|1976|pp=178-179|ps=第五艦隊の解隊}}。第43駆逐隊司令も菅間良吉大佐から[[吉田正義]]大佐<ref name="jirei1693">{{アジア歴史資料センター|C13072144100|昭和20年1月15日(発令1月9日付)海軍辞令公報(甲)第1693号 p.14}}</ref>を経て[[作間英邇]]大佐に交代していた<ref name="jirei1741">{{アジア歴史資料センター|C13072103700|昭和20年3月9日(発令3月1日付)海軍辞令公報(甲)第1741号 p.32}}</ref>。第三十一戦隊司令部も内地にもどった。 |
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3月15日、第三十一戦隊は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]に編入された{{Sfn|戦史叢書93|1976|pp=179a-180|ps=第三十一戦隊の第二艦隊編入}}。 |
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4月25日、第43駆逐隊に駆逐艦「[[蔦 (橘型駆逐艦)|蔦]]」を編入<ref name="S20内令355">{{アジア歴史資料センター|C12070504800|昭和20年5月5日(土)海軍公報 第五〇〇二號 p.30}}『内令第三五五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年四月二十五日 海軍大臣|第四十三驅逐隊ノ項中「桐、」ノ下ニ「蔦、」ヲ加フ|第五十二驅逐隊ノ項中「樫、」ノ下ニ「、楡」ヲ加フ』</ref> |
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その間、「竹」は2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた<ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 23、29、41、44頁</ref>。これ以降、第三十一戦隊旗艦は秋月型駆逐艦「[[花月 (駆逐艦)|花月]]」となった{{Sfn|戦史叢書93|1976|p=180}}。 |
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4月29日から「[[楓 (松型駆逐艦)|楓]]」とともに回天との訓練に参加した後<ref name="g">宇那木、35頁</ref><ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 84頁</ref>、「竹」は後甲板に[[回天]]の発射台を設置する工事を行った<ref>[[#南海の死闘]]188頁。田村、134頁。136頁では、その期間を5月から6月25日までの間と推定している</ref>。 |
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3月19日の[[呉軍港空襲]]で、「竹」は10名余の負傷者を出した{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=184-186|ps=「呉」空襲「竹」修理 完成後の初任務}}。4月16日から26日にかけての修理工事では、[[三式探信儀]]などが装備された<ref>『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128000, 17-18頁</ref>。 |
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5月20日、第43駆逐隊に松型「[[椎 (駆逐艦)|椎]]」を編入<ref name="S20内令447">{{アジア歴史資料センター|C12070505100|昭和20年5月28日(月)海軍公報 第五〇二四號 p.22}}『内令第四四七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月、」ノ下ニ「宵月、」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「榧、」ノ下ニ「椎、」ヲ加フ|第五十二驅逐隊ノ項中「楓、」ノ下ニ「梨、萩、」ヲ加フ』</ref>。 |
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しかし、戦況悪化によって温存策が取られる事となり、「竹」は第43駆逐隊各艦([[榧 (松型駆逐艦)|榧]]、[[槇 (松型駆逐艦)|槇]])等とともに[[屋代島]]日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった<ref name="佐藤艦長続332">[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]332-333頁『最後に快適な艦内生活』</ref><ref name="志賀兵科201">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]201-202頁『創意工夫の潜伏』</ref>。屋代島柳井側には僚艦([[花月 (駆逐艦)|花月]]、桐、蔦)も艤装繋留されていた<ref name="佐藤艦長続332" /><ref name="志賀兵科201" />。 |
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<!-- 1944年(昭和19年)末より第43駆逐隊は所属艦2隻(桃、梅)を喪失<ref>[[#秘公報昭和20年2月(2)]] pp.20-21〔 内令第一一一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年二月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、朝霜」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「桃、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「桑、」ヲ削ル 〕</ref><ref>[[#秘海軍公報昭和20年3月(2)]] p.15〔 内令第二二一號 驅逐隊編制中左ノ通リ改定セラル|昭和二十年三月十日 海軍大臣|第七驅逐隊ノ項中「、霞」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、時雨、朝霜」ヲ「初霜、朝霜、霞」ニ改ム|第四十三驅逐隊ノ項中「梅、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「樅、」ヲ削ル 〕</ref>、松型11番艦「[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]」を編入<ref>[[#内令(秘)昭和19年11月(4)]] p.1〔 内令第一二九一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月二十五日 海軍大臣 第四十三驅逐隊ノ項中「桃、竹、桃、槇、桐」ヲ「梅、竹、桐、桃、槇、榧」ニ改ム 〕</ref>。 --> |
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樹木と網で偽装した3隻(竹、槇、榧)はついに攻撃される事なく<ref name="佐藤艦長続332" /><ref>宇那木、36-37頁、[[#南海の死闘]]194-195頁</ref>、8月15日の終戦時には航行可能な状態で残存した<ref name="志賀兵科206">[[#志賀1985|海軍兵科将校]]206-208頁『止めどなき涙』</ref>。「竹」は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後<ref name="志賀兵科206" /><ref>宇那木、40頁</ref>、10月25日に除籍<ref name="ハンディ18写真52" />。本艦竣工時より竹水雷長だった[[志賀博]](旧姓保坂)大尉は<ref name="jirei1518" />、敷設艇「[[巨済 (敷設艇)|巨済]]」艦長に転じた<ref name="志賀兵科206" /><ref>[[#最後のネイビーブルー]]15頁</ref>。 |
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<!-- 4月25日、第43駆逐隊に駆逐艦「[[蔦 (橘型駆逐艦)|蔦]]」を編入<ref name="S20内令355">{{アジア歴史資料センター|C12070504800|昭和20年5月5日(土)海軍公報 第五〇〇二號 p.30}}〔 内令第三五五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年四月二十五日 海軍大臣|第四十三驅逐隊ノ項中「桐、」ノ下ニ「蔦、」ヲ加フ|第五十二驅逐隊ノ項中「樫、」ノ下ニ「、楡」ヲ加フ 〕</ref> --> |
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4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊が解隊され、第三十一戦隊は連合艦隊付属にもどった{{Sfn|戦史叢書93|1976|pp=283-284|ps=第二艦隊、第二水雷戦隊の解隊}}。 |
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4月29日から「[[楓 (松型駆逐艦)|楓]]」とともに回天との訓練に参加した後<ref name="g">宇那木、35頁</ref><ref>『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 84頁</ref>、「竹」は後甲板に[[回天]]の発射台を設置する工事を行った{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=187-189|ps=文字どおりの「回天」作戦計画}}{{#tag:Ref|田村、134頁。136頁では、その期間を5月から6月25日までの間と推定している。|group="注"}}。5月上旬、[[B-29 (航空機)|B-29]]の水平爆撃を受ける{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=192-193|ps=B29恐怖の水平爆撃}}。 |
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<!-- 5月20日、第43駆逐隊に松型「[[椎 (駆逐艦)|椎]]」を編入<ref name="S20内令447">{{アジア歴史資料センター|C12070505100|昭和20年5月28日(月)海軍公報 第五〇二四號 p.22}}『内令第四四七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月、」ノ下ニ「宵月、」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「榧、」ノ下ニ「椎、」ヲ加フ|第五十二驅逐隊ノ項中「楓、」ノ下ニ「梨、萩、」ヲ加フ』</ref>。 --> |
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5月20日、連合艦隊は第三十一戦隊と軽巡洋艦「[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]」(人間魚雷「[[回天]]」母艦)を基幹として[[海上挺進部隊]]を新編、第43駆逐隊も同部隊に所属した{{Sfn|戦史叢書93|1976|pp=396a-397|ps=海上挺進隊の編成}}。戦況悪化によって温存策が取られる事となり、「竹」は第43駆逐隊各艦([[榧 (松型駆逐艦)|榧]]、[[槇 (松型駆逐艦)|槇]])等とともに[[屋代島]]日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=332-333}}{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=201-202|ps=創意工夫の潜伏}}。屋代島柳井側には僚艦([[花月 (駆逐艦)|花月]]、桐、蔦)も艤装繋留されていた{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=332-333}}。 |
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樹木と網で偽装した3隻(竹、槇、榧)はついに攻撃される事なく{{Sfn|佐藤、艦長続篇|1995|pp=332-333}}{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=194-195|ps=成功した工夫と研究の偽装}}、8月15日の終戦時には航行可能な状態で残存した{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=206a-208|ps=止めどなき涙}}。「竹」は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後{{Sfn|海軍兵科将校|1985|pp=206b-208}}<ref>宇那木、40頁</ref>、10月25日に除籍<ref name="ハンディ18写真52" />。本艦竣工時より竹水雷長だった[[志賀博]](旧姓保坂)大尉は<ref name="jirei1518" />、敷設艇「[[巨済 (敷設艇)|巨済]]」艦長に転じた{{Sfn|志賀、ネービーブルー|1989|p=16}}。 |
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===戦後=== |
===戦後=== |
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戦後の「竹」は1945年(昭和20年)12月1日、横須賀地方復員局所管の[[復員輸送艦|特別輸送艦]]に定められ<ref>昭和20年12月1日付 第二復員省 内令第6号。</ref>、行動可能な他の艦船と同様復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送では[[ポンペイ島]]と[[浦賀]]間を二度往復し<ref name="h">宇那木、42頁</ref>、次いで[[パラオ]]と浦賀間を一往復<ref name="h" />、[[サイパン島]]から同島在住の[[沖縄県]]民を[[沖縄本島]]まで輸送した<ref>宇那木、42-43頁</ref>。第5回輸送からは[[上海市|上海]]および[[葫芦島市|葫芦島]]と日本の間を往復し、中国大陸および[[満州国|旧満州国]]方面からの復員輸送に従事した<ref>宇那木、43頁</ref>。葫芦島からの輸送の際、艦内に[[コレラ]]患者が出て病死する引揚者が出たため、[[検疫|防疫]]のため1ヵ月間隔離された事もあった<ref>宇那木、44-45頁</ref>。1946年に復員輸送を終え同年7月26日に特別保管艦に指定<ref>昭和21年9月5日付 復員庁 復二第230号。</ref> され、横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留<ref>昭和21年8月23日付 復員庁第二復員局総務部 二復総第187号。</ref> された。[[1947年]](昭和22年)7月16日には特別輸送艦の定めを解かれ<ref>昭和22年7月16日付 復員庁 復二第500号。</ref>、[[イギリス]]に賠償艦として引き渡され解体された。 |
戦後の「竹」は1945年(昭和20年)12月1日、横須賀地方復員局所管の[[復員輸送艦|特別輸送艦]]に定められ<ref>昭和20年12月1日付 第二復員省 内令第6号。</ref>、行動可能な他の艦船と同様復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送では[[ポンペイ島|ポンペイ島(ポナペ島)]]と[[浦賀]]間を二度往復し<ref name="h">宇那木、42頁</ref>{{#tag:Ref|第一回:10月25日に呉出発、グアムで燃料補給し、11月6日ポナペ島着、11月8日発、グアム経由、11月16日浦賀着{{Sfn|南海の死闘|1994|pp=214-216|ps=ポナペ島への復員輸送}}。第二回:12月4日浦賀発、グアム経由、12月12日着(浦賀着日時不明){{Sfn|南海の死闘|1994|p=216|ps=第二次ポナペ島復員輸送}}。|group="注"}}、次いで[[パラオ]]と浦賀間を一往復<ref name="h" />、[[サイパン島]]から同島在住の[[沖縄県]]民を[[沖縄本島]]まで輸送した<ref>宇那木、42-43頁</ref>。第5回輸送からは[[上海市|上海]]および[[葫芦島市|葫芦島]]と日本の間を往復し、中国大陸および[[満州国|旧満州国]]方面からの復員輸送に従事した<ref>宇那木、43頁</ref>。葫芦島からの輸送の際、艦内に[[コレラ]]患者が出て病死する引揚者が出たため、[[検疫|防疫]]のため1ヵ月間隔離された事もあった<ref>宇那木、44-45頁</ref>。1946年に復員輸送を終え同年7月26日に特別保管艦に指定<ref>昭和21年9月5日付 復員庁 復二第230号。</ref> され、横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留<ref>昭和21年8月23日付 復員庁第二復員局総務部 二復総第187号。</ref> された。[[1947年]](昭和22年)7月16日には特別輸送艦の定めを解かれ<ref>昭和22年7月16日付 復員庁 復二第500号。</ref>、[[イギリス]]に賠償艦として引き渡され解体された。 |
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==歴代艦長== |
==歴代艦長== |
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#田中弘國 少佐:1944年4月15日<ref name="jirei1426" /> - 1944年6月16日<ref name="jirei1518" /> |
#田中弘國 少佐:1944年4月15日<ref name="jirei1426" /> - 1944年6月16日<ref name="jirei1518" /> |
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;駆逐艦長/艦長 |
;駆逐艦長/艦長 |
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#田中弘國 少佐:1944年6月16日<ref name="jirei1518" /> - 1944年11月1日<ref name="jirei1636" />(マニラ海軍病院入院) |
#田中弘國 少佐:1944年6月16日<ref name="jirei1518" /> - 1944年11月1日<ref name="jirei1636" />(マニラ海軍病院入院) |
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#(臨時)飯村忠彦 少佐:1944年11月3日(着任4日) |
#(臨時)飯村忠彦 少佐:1944年11月3日(着任4日){{Sfn|軽巡海戦史|2017|p=66}} - 1944年11月14日(11月15日付で鬼怒航海長免職)<ref name="jirei1646" /> |
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#宇那木勁 少佐/第二復員官:1944年11月1日任命<ref name="jirei1636 |
#宇那木勁 少佐/第二復員官:1944年11月1日任命<ref name="jirei1636" /> - 艦長 1945年12月20日<ref>昭和20年12月20日付 第二復員省 官房人第19号による職名の自動変更。</ref> - 退任年月日不明<ref name="jirei-fumei">現在公開中の第二復員省辞令公報および復員庁第二復員局辞令公報では、宇那木第二復員官の退任発令と伊東復員事務官の就任発令は確認できない。なお、宇那木復員事務官は1946年9月27日付で退官している。</ref> |
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#伊東謹之助<ref>昭和21年11月12日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第86号「正誤」。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159800 で閲覧可能。</ref> 復員事務官:就任年月日不明<ref name="jirei-fumei" /> - 1946年10月30日<ref name="jirei0083">昭和21年11月6日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第83号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159800 で閲覧可能。</ref> |
#伊東謹之助<ref>昭和21年11月12日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第86号「正誤」。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159800 で閲覧可能。</ref> 復員事務官:就任年月日不明<ref name="jirei-fumei" /> - 1946年10月30日<ref name="jirei0083">昭和21年11月6日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第83号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159800 で閲覧可能。</ref> |
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#市來崎秀丸 復員事務官:1946年10月30日<ref name="jirei0083" /> - 1947年2月20日<ref name="jirei0141">昭和22年3月3日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第141号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072160300 で閲覧可能。</ref> |
#市來崎秀丸 復員事務官:1946年10月30日<ref name="jirei0083" /> - 1947年2月20日<ref name="jirei0141">昭和22年3月3日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第141号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072160300 で閲覧可能。</ref> |
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#福島榮吉 復員事務官:1947年3月10日<ref name="jirei0147" /> - 1947年7月16日<ref>昭和21年7月1日付 復員庁 復二第67号の定めによる自動解職。</ref> |
#福島榮吉 復員事務官:1947年3月10日<ref name="jirei0147" /> - 1947年7月16日<ref>昭和21年7月1日付 復員庁 復二第67号の定めによる自動解職。</ref> |
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==脚注== |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}}</div> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 --> |
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* 雨倉孝之「松型駆逐艦長の奮戦記」『<span style="font-size:90%;">歴史群像 太平洋戦史シリーズ43</span> 松型駆逐艦』学習研究社、2003年、ISBN 4-05-603251-3 |
* 雨倉孝之「松型駆逐艦長の奮戦記」『<span style="font-size:90%;">歴史群像 太平洋戦史シリーズ43</span> 松型駆逐艦』学習研究社、2003年、ISBN 4-05-603251-3 |
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* {{Cite book|和書|author=[[生出寿]]|year=1997|month=12|title={{small|連合艦隊・名指揮官の生涯}} 戦場の将器 木村昌福|publisher=光人社|isbn=4-7698-0835-6|ref=戦場の将器}} |
*<!-- オイデ1997 -->{{Cite book|和書|author=[[生出寿]]|year=1997|month=12|title={{small|連合艦隊・名指揮官の生涯}} 戦場の将器 木村昌福|publisher=光人社|isbn=4-7698-0835-6|ref={{SfnRef|戦場の将器|1997}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[岸見勇美]]| |
*<!-- キシミ2010 -->{{Cite book|和書|author=[[岸見勇美]]|date=2010-12|title=地獄のレイテ輸送作戦 {{small|敵制空権下の多号作戦の全貌}}|publisher=[[光人社]]|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2666-8|ref={{SfnRef|岸見勇美|2010}}}} |
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* 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年 |
* 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年 |
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* 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』[[朝日ソノラマ]]、1989年、ISBN 4-257-17218-5 |
* 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』[[朝日ソノラマ]]、1989年、ISBN 4-257-17218-5 |
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* {{Cite book|和書|author=[[木俣滋郎]]| |
*<!-- キマタ1994 -->{{Cite book|和書|author=[[木俣滋郎]]|date=1994-09|origyear=|title=日本海防艦戦史|chapter= |publisher=図書出版社|series=|isbn=4-8099-0192-0|ref={{SfnRef|日本海防艦戦史|1994}}}} |
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*<!-- キマタ2006 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|authorlink=|date=2006-07|title=駆逐艦入門 {{small|水雷戦の花形徹底研究}}|chapter=第8章 護送駆逐艦の登場|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2217-0|ref={{SfnRef|木俣、駆逐艦入門|2006}}}} |
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*<!-- キマタ2013-06 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|coauthors=|date=2013-06|title=撃沈戦記 {{small|海原に果てた日本艦船25隻の航跡}}|chapter=7.陸軍潜水艦二号|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2786-3|ref={{SfnRef|撃沈戦記|2013}}}} |
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*<!-- キマタ2013-08 -->{{Cite book|和書|author=[[木俣滋郎]]|authorlink=|date=2013-08|chapter=15 アメリカ駆逐艦「クーパー」|title=連合軍艦艇撃沈す {{small|日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡}}|isbn=978-4-7698-2794-8|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|ref=連合軍艦艇撃沈す}} |
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* 駒宮真七郎『続・船舶砲兵 <span style="font-size:90%;">救いなき戦時輸送船の悲録</span>』出版協同社、1981年 |
* 駒宮真七郎『続・船舶砲兵 <span style="font-size:90%;">救いなき戦時輸送船の悲録</span>』出版協同社、1981年 |
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* 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9 |
* 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9 |
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* {{Cite book|和書|author=[[佐藤和正]]|year=1995|month=12|title=艦長たちの太平洋戦争 続 |
*<!-- サトウカズマサ1995 -->{{Cite book|和書|author=[[佐藤和正]]|year=1995|month=12|title=艦長たちの太平洋戦争 続篇 {{small|17人の艦長が語った勝者の条件}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2106-9|ref={{SfnRef|佐藤、艦長続篇|1995}}}} |
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:*「幸運と不運」<駆逐艦「竹」艦長・宇那木勁少佐の証言>(太平洋戦争時、磯波水雷長、海軍兵学校教官、椿艤装員長、竹艦長等) |
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:*「縁の下の役割」<駆逐艦「春風」艦長・森本義久中佐の証言><!--<br />森本は、[[神風 (2代神風型駆逐艦)|神風]]航海長、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]航海長、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]航海長、[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]水雷長、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]水雷長、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]水雷長、[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]艦長、[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]艦長等を歴任。 --> |
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* 珊瑚会編『ああ復員船 引揚げの哀歓と掃海の秘録』騒人社、1991年 |
* 珊瑚会編『ああ復員船 引揚げの哀歓と掃海の秘録』騒人社、1991年 |
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*<!-- シガ1985 -->{{Cite book|和書|author={{small|駆逐艦「天霧」先任将校}} |
*<!-- シガ1985 -->{{Cite book|和書|author={{small|駆逐艦「天霧」先任将校}}志賀博|year=1985|month=3|title=海軍兵科将校|publisher=光人社|isbn=4-7698-0264-1|ref={{SfnRef|海軍兵科将校|1985}}}} |
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*<!-- シガ1989 -->{{Cite book|和書|author= |
*<!-- シガ1989 -->{{Cite book|和書|author={{small|特別輸送艦艦長}}志賀博|chapter=|title=最後のネービーブルー {{small|回想の復員輸送艦秘話}}|publisher=光人社|date=1989-09|origyear=|ISBN=4-7698-0472-5|ref={{SfnRef|志賀、ネービーブルー|1989}}}}<br/>志賀(旧姓保坂)は「[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]」水雷長を経て、「竹」竣工から除籍まで竹水雷長。 |
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*<!-- シガ2016 -->{{Cite book|和書|author=志賀博ほか|year=2016|month=4|title=駆逐艦物語 {{small|車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1615-7|ref=駆逐艦物語}} |
*<!-- シガ2016 -->{{Cite book|和書|author=志賀博ほか|year=2016|month=4|title=駆逐艦物語 {{small|車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1615-7|ref=駆逐艦物語}} |
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:*{{small|元三十五突撃隊・海軍二等兵曹}}正岡勝直『されど"雑木林艦隊"恥ずることなかれ {{small|雑木林といわれた松型十八隻、橘型十四隻、樅型三隻、若竹型六隻の闘魂}}』 |
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*<!-- シガキ2005 -->{{Cite book|和書|author=[[志柿謙吉]]|authorlink=| |
*<!-- シガキ2005 -->{{Cite book|和書|author=[[志柿謙吉]]|authorlink=|dater=2005-07|chapter=|title={{small|海軍参謀のフィリピン戦記}} 回想レイテ作戦|isbn=4-7698-2462-9|publisher=光人社NF文庫|ref={{SfnRef|回想レイテ作戦|2005}}}} |
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*<!-- シゲモト2014 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一ほか| |
*<!-- シゲモト2014 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一ほか|date=2014-10|title=陽炎型駆逐艦 {{small|水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1577-8|ref={{SfnRef|陽炎型(光人社)|2014}}}} |
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:*{{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 {{small|太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後}}』 |
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*<!-- スゲノアキラ2014 -->{{Cite book|和書|author=菅野昭(原文)|coauthors=嶋田潤(編)|title=最後の戦没艦・第13号海防艦戦記 {{small|~終戦前日、香住漁船団の懸命な救出~ 菅野元水兵長の手記から}}|publisher=ブイツーソリューション|date=2014-02|ISBN=978-4-86476-177-2|ref={{SfnRef|第13号海防艦戦記|2014}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=須藤幸助|year=1988|month=1|title=駆逐艦五月雨|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17097-2|ref=須藤.五月雨}} |
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* {{Cite book|和書|author=須藤幸助 |
*<!-- スドウ1988 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|year=1988|month=1|title=駆逐艦五月雨|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17097-2|ref=須藤.五月雨}} |
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*<!-- スドウ2010 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|date=2010-01|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}}}} |
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* 田村俊夫「「竹」の兵装増備状況」『<span style="font-size:90%;">歴史群像 太平洋戦史シリーズ43</span> 松型駆逐艦』学習研究社 |
* 田村俊夫「「竹」の兵装増備状況」『<span style="font-size:90%;">歴史群像 太平洋戦史シリーズ43</span> 松型駆逐艦』学習研究社 |
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* 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9 |
* 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9 |
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* C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2 |
* C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2 |
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*<!-- |
*<!-- ヒュウガ1977 -->{{Cite book|和書|author=日向会事務局|year=1977|month=7|title={{small|航空戦艦の活躍}} 軍艦日向栄光の追憶|publisher=日向会事務局|isbn=|ref={{SfnRef|日向、追憶|1977}}}} |
||
*<!--フクイ1993-->{{Cite book|和書|author=[[福井静夫]]|editor=阿部安雄・戸高一成/編集委員|date=1993-01|title={{small|福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記}} 日本駆逐艦物語|volume=第5巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0611-6|ref={{SfnRef|福井静夫、日本駆逐艦物語|1993}}}} |
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**{{small|当時「鬼怒」航海長・海軍大尉}}飯村忠彦『十六戦隊「鬼怒」オルモック輸送に潰ゆ {{small|レイテ海戦の舞台裏で兵器人員輸送に苦闘した航海長の血涙の手記}}』 |
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*<!--ホウエイチョウ17 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 沖縄方面海軍作戦|volume=第17巻|year=1968|month=7|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書17|1968}}}} |
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* <!--マツナガ1986-->{{Cite book|和書|author=[[松永市郎]]|year=1986|month=10|title=三号輸送艦帰投せず {{small|『先任将校』後日物語}}|chapter=輸送艦かく戦えり|publisher=光人社|isbn=4-7698-0325-7|ref=松永、三号}} |
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*<!--ホウエイチョウ37 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍捷号作戦<1> {{small|臺灣沖航空戦まで}}|volume=第37巻|year=1970|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書37|1970}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ41 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 捷号陸軍作戦(1) {{small|レイテ決戦}}|volume=第41巻|year=1970|month=12|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書41|1970}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ45 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<6> {{small|―第三段作戦後期―}}|volume=第45巻|year=1971|month=4|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書45|1971}}}} |
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*<!--ボウエイチョウ54 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南西方面海軍作戦 {{small|第二段作戦以降}}|volume=第54巻|year=1972|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書54|1972}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ56 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍捷号作戦<2> {{small|フィリピン沖海戦}}|volume=第56巻|year=1972|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書56|1972}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ88 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍戦備<2> {{small|― 開戦以後 ―}}|volume=第88巻|year=1975|month=10|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書88|1975}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ93 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> {{small|―戦争最終期―}}|volume=第93巻|year=1976|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書93|1976}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ98 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98|1979}}}} |
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*<!--マツダ2017-->{{Cite book|和書|author=松田源吾ほか|title=軽巡海戦史 {{small|駆逐艦を率いて突撃した戦隊旗艦の奮戦と最後}}|editor=|publisher=潮書房光人社|date=2017-3|isbn=978-4-7698-1639-3|ref={{SfnRef|軽巡海戦史|2017}}}} |
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:*{{small|当時「鬼怒」航海長・海軍大尉}}飯村忠彦『十六戦隊「鬼怒」オルモック輸送に潰ゆ {{small|レイテ海戦の舞台裏で兵器人員輸送に苦闘した航海長の血涙の手記}}』 |
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* <!--マツナガ1986-->{{Cite book|和書|author=[[松永市郎]]|year=1986|month=10|title=三号輸送艦帰投せず {{small|『先任将校』後日物語}}|chapter=輸送艦かく戦えり|publisher=光人社|isbn=4-7698-0325-7|ref={{SfnRef|三号輸送艦帰投せず|1986}}}} |
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*<!--マル1997-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|year=1997|month=11|title={{small|ハンディ判日本海軍艦艇写真集18}} 駆逐艦秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型|chapter=|publisher=光人社|isbn=4-7698-0819-4|ref=ハンディ判艦艇写真集18}} |
*<!--マル1997-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|year=1997|month=11|title={{small|ハンディ判日本海軍艦艇写真集18}} 駆逐艦秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型|chapter=|publisher=光人社|isbn=4-7698-0819-4|ref=ハンディ判艦艇写真集18}} |
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*{{Cite book|和書|author= |
*<!-- モロケイゾウ1994 -->{{Cite book|和書|author=茂呂計造(竹水雷科、連管手)|date=1994-09|title=南海の死闘 {{small|少年水兵の海戦記}}|publisher=近代文藝社|isbn=4-7733-3262-X|ref={{SfnRef|南海の死闘|1994}}}} |
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*{{Cite book|和書|author=山本平弥ほか|coauthors=|year=2015||month=03|title=秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> {{small|戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1584-6|ref=秋月型(潮 |
*<!-- ヤマモトヘイヤ2015 -->{{Cite book|和書|author=山本平弥ほか|coauthors=|year=2015||month=03|title=秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> {{small|戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1584-6|ref={{SfnRef|秋月型(潮書房)|2015}}}} |
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:*{{small|戦史研究家}}伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』 |
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:*{{small|当時艦政本部部員・海軍技術中佐}}遠山光一『マスプロ防空駆逐艦"松型"の誕生と背景 {{small|駆逐艦発達史の中に位置づけた丁型=松型十八隻と橘型十四隻の新機軸}}』 |
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:*{{small|戦史研究家}}伊達久『丁型駆逐艦船団護衛ダイアリィ {{small|松型十八隻と橘型十四隻の太平洋戦争}}』 |
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:*{{small|元「柳」艦長・海軍少佐}}大熊安之助『松型「柳」艦長三たび痛恨の海に没したけれど {{small|乗艦三隻の最期をみとった駆逐艦長が綴る海の勇者たちへの鎮魂歌}}』<!--<br />太平洋戦争時、軽巡[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]水雷長、重巡[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]水雷長、[[芙蓉 (駆逐艦)|芙蓉]]駆逐艦長、海軍兵学校教官、[[桑 (松型駆逐艦)|桑]]艤装員長、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]駆逐艦長、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]駆逐艦長、[[柳 (松型駆逐艦)|柳]]駆逐艦長。--> |
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:*{{small|当時「桑」一番高角砲射手・海軍上等兵曹}}山本貢『小さな勇者「桑」オルモックに死すとも {{small|瑞鳳直衛の比島沖海戦をへて七次多号作戦に果敢な砲戦を演じた勇者の最後}}』 |
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* 渡辺洋二『夜間戦闘機「月光」』[[朝日ソノラマ]]新装版戦記文庫、1993年、ISBN 4-257-17278-9 |
* 渡辺洋二『夜間戦闘機「月光」』[[朝日ソノラマ]]新装版戦記文庫、1993年、ISBN 4-257-17278-9 |
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)] |
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)] |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070124100|title=昭和19年1月〜6月達/1月(2)|ref=達昭和19年1月(2)}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070124100|title=昭和19年1月〜6月達/1月(2)|ref=達昭和19年1月(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030369900|title=昭和18年12月1日〜昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)|ref=S1804呉防戦(7)}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030369900|title=昭和18年12月1日〜昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)|ref=S1804呉防戦(7)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030329600|title=昭和19年4月1日〜昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(4)|ref=S1904呉鎮日誌(4)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030078900|title=昭和18年12月1日〜昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(2)|ref=S1812呉練習戦隊(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030050800|title=昭和19年7月1日〜昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(1)|ref=S1907十戦隊日誌(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030086800|title=昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)|ref=ろ号作戦}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030149800|title=昭和19年6月1日〜昭和19年12月13日 第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1906第30駆日誌(3)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030590200|title=昭和19年10月29日〜昭和19年11月13日 第18駆逐隊(霞)戦闘詳報|ref=霞詳報(マニラ空襲)}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030590200|title=昭和19年10月29日〜昭和19年11月13日 第18駆逐隊(霞)戦闘詳報|ref=霞詳報(マニラ空襲)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051772000|title=昭和16年〜昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書|ref=戦隊行動調書}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051772000|title=昭和16年〜昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書|ref=戦隊行動調書}} |
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** 駆逐艦五月雨『昭和十九年九月十日 戦闘詳報 (坐礁被雷報告)』『戦闘詳報』(昭和19年6月1日〜昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030148600 |
** 駆逐艦五月雨『昭和十九年九月十日 戦闘詳報 (坐礁被雷報告)』『戦闘詳報』(昭和19年6月1日〜昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030148600 |
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** 宇那木勁「T型駆逐艦(竹)戦誌」(昭和19年11月〜終戦時 T型駆逐艦(竹)戦誌) [[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:C08030751400 |
**<!-- 現在閲覧不能 -->宇那木勁「T型駆逐艦(竹)戦誌」(昭和19年11月〜終戦時 T型駆逐艦(竹)戦誌) [[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:C08030751400 |
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** 野村留吉『第四航空戦隊 戦時日誌抜粋』(昭和19年5月1日〜昭和20年3月1日 第4航空戦隊戦時日誌抜粋 (旗艦日向行動等)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030742100 |
**<!-- 現在閲覧不能 -->野村留吉『第四航空戦隊 戦時日誌抜粋』(昭和19年5月1日〜昭和20年3月1日 第4航空戦隊戦時日誌抜粋 (旗艦日向行動等)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030742100 |
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** 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日〜昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127500 |
** 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日〜昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127500 |
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** 第十一水雷戦隊司令部『ろ号作戦輸送部隊任務報告 門司-中城湾宮古島南大東島間作戦輸送 自昭和十九年七月十四日 至昭和十九年七月二十日』(昭和19年4月1日〜昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030086800 |
** 第十一水雷戦隊司令部『ろ号作戦輸送部隊任務報告 門司-中城湾宮古島南大東島間作戦輸送 自昭和十九年七月十四日 至昭和十九年七月二十日』(昭和19年4月1日〜昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030086800 |
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** 第三十一戦隊司令部『自昭和十九年十二月二十二日至昭和二十年一月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日〜昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074800 |
** 第三十一戦隊司令部『自昭和十九年十二月二十二日至昭和二十年一月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日〜昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074800 |
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** 第三十一戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年三月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日〜昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074900 |
** 第三十一戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年三月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日〜昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074900 |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C14061106300|title=S士官の手記 史実調査部/沖波戦闘行動関係|ref=S士官の手記}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2020年6月29日 (月) 11:01時点における版
竹 | |
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基本情報 | |
建造所 | 横須賀海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 松型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | 1942年戦時建造補充(改マル5)追加計画 |
起工 | 1943年10月15日 |
進水 | 1944年3月28日 |
竣工 | 1944年6月16日 |
除籍 | 1945年10月25日 |
その後 |
1945年12月1日特別輸送艦指定 その後イギリスに賠償艦として引き渡し解体 |
要目 | |
基準排水量 | 1,262t |
公試排水量 | 1,530t |
全長 | 100.00m |
最大幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30m |
ボイラー | ロ号艦本式缶2基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 19,000hp |
速力 | 27.8kt |
燃料 | 重油370t |
航続距離 | 18ktで3,500浬 |
乗員 | 211名/248名[1](後日、323名)[2] |
兵装 |
40口径12.7cm単装高角砲 1基 40口径12.7cm連装高角砲 1基 25mm連装機銃 4基 25mm単装機銃 12基 61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし) 九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発) |
概要
一等駆逐艦竹(たけ)は[4]、帝国海軍が大東亜戦争中に横須賀海軍工廠で建造した駆逐艦[5]。戦時量産型駆逐艦である松型駆逐艦(丁型駆逐艦)の2番艦であり[6]、日本海軍の艦名としては樅型駆逐艦の「竹」に続いて2代目である[7]。戦時量産型のため「雑木林」と渾名され[8][9]、速力や火力などの諸性能は限定されていたが、生存性(被害極限性)は従来の日本海軍駆逐艦に比べて格段に向上していた[10]。
1944年(昭和19年)6月16日に竣工後[11]、「竹」は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属して訓練や南西諸島への輸送任務[12]に従事した[13]。 7月15日、新編された第43駆逐隊に所属[14]。8月からは台湾・マニラ・パラオ諸島方面での輸送や船団護衛任務に従事した[5]。8月20日、新編の第三十一戦隊に編入される[15]。同月中旬には、軽巡洋艦「名取」や[注 1]や駆逐艦「五月雨」の救難に従事した[注 2]。
10月下旬より実施されたレイテ島増援輸送作戦(多号作戦)では[20]、第三次/第四次、第五次、第七次作戦に参加した[21]。「竹」は幾度か損傷しながら生還した[22]。 特に12月3日のオルモック湾における夜戦では、姉妹艦「桑」と共に米軍大型駆逐艦3隻と交戦[23]、「竹」は魚雷攻撃で駆逐艦「クーパー」を撃沈した[24](第七次多号作戦)[25]。 内地帰投後の「竹」は、瀬戸内海にあって終戦まで生き残る[26]。戦後は復員輸送艦としての任務にあたった[27]。
戦歴
レイテ島の戦いまで
仮称艦名第5482号艦として、横須賀海軍工廠で建造される[4]。1943年(昭和18年)10月15日、起工[28]。 1944年(昭和19年)1月25日、「竹」と命名される[3]。 同日附で駆逐艦一等松型に類別[29]。 3月28日、進水[28]。本籍を横須賀鎮守府に定められる[30]。 4月15日、日本海軍は重巡洋艦衣笠水雷長(昭和17年4月〜沈没時)[31][32]、駆逐艦呉竹艦長[33][34] 等を歴任した田中弘国少佐(海兵60期)を[35]、竹艤装員長に任命する[36]。 4月20日、横須賀海軍工廠に竹艤装員事務所を設置し、事務を開始した[37]。 5月6日、可兒祥男大尉(当時、戦艦山城分隊長)が竹艤装員として着任[38]。駆逐艦天霧沈没(4月23日)後、5月16日付で横須賀鎮守府付となった天霧水雷長志賀博大尉(旧姓保坂)も[39]、5月20日付で竹艤装員に補職される[40]。当時の松型2隻(松、竹)は横須賀海軍工廠のポンツーンで艤装工事中であり、元天霧艦長の吉永源少佐は「松」に、元天霧水雷長の志賀は隣の「竹」に着任したという[41]。「松」が出撃したあとは、浮桟橋に松型3番艦「桐」が係留されることになった[41]。 6月16日、「竹」は竣工した[28]。同日付で艤装員事務所を撤去する[42]。田中少佐は制式に竹駆逐艦長となる[43]。主要初代幹部は、航海長高井義助中尉、砲術長可兒祥男大尉、水雷長志賀博大尉(先任将校)、機関長桜井達也中尉、主計長小林義治主計少尉、軍医長湯川真治軍医少尉など[43][44]。
竣工後の「竹」は、訓練部隊の第十一水雷戦隊[45](司令官高間完少将・海軍兵学校41期。当時の旗艦は「長良」)に編入される[46]。6月中は横須賀から動かなかった[47]。7月初旬に横須賀から瀬戸内海へ移動し、「冬月」や「清霜」および松型姉妹艦と訓練をおこなう[48]。7月中旬、門司で物資を搭載、南大東島への輸送作戦に参加する[49](詳細後述)。 7月15日付で、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻(梅、竹、松、桃)により第43駆逐隊(駆逐隊司令菅間良吉中佐)[50] が、それぞれ編制される[14][51]。
7月8日、大本営海軍部は大海指第421号により、連合艦隊に対し陸軍兵力の南西諸島方面輸送を命じた[52]。これを「呂号輸送」(ろ号作戦輸送)と呼称する[53]。輸送部隊指揮官は、第十一水雷戦隊司令官であった[54]。 7月16日、軽巡洋艦「長良」(第十一水雷戦隊旗艦)、重巡洋艦「摩耶」[注 3]、練習巡洋艦「鹿島」[56]、駆逐艦5隻(浦風型[57]〈浦風、朝雲、清霜〉、秋月型〈冬月〉、松型〈 竹 〉)は中津沖を出撃する[58]。輸送部隊は、第一輸送隊(長良、鹿島、冬月、清霜、竹)、第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)[55]、沖縄~大東島輸送の第三輸送隊(冬月、清霜、竹)にわかれていた[59]。 7月17日、呂号作戦部隊は沖縄中城湾に到着した[60]。 宮古島に向かった第二輸送隊は内地に帰投せず[59]、そのままマニラ経由でリンガ泊地へ向かった[61]。 冬月駆逐艦長指揮下の第三輸送隊は南大東島への緊急輸送任務を行う[59][62]。 その後、第二輸送隊を除く各艦は予定の輸送任務を終えて19日午前1時に中城湾を出港し[59]、20日-21日に呉へ帰投した[63]。 「ロ」号作戦輸送部隊は解散した[64] [注 4]。
8月1日、連合艦隊は第五艦隊(第二十一戦隊、第一水雷戦隊)と第十一水雷戦隊等により第二遊撃部隊(指揮官は第五艦隊司令長官志摩清英中将)を新編し、機動部隊に編入した[70]。 沖縄方面輸送を終えた「竹」と夕雲型駆逐艦「清霜」に対し、パラオ方面緊急輸送の任務が与えられた[71]。 8月10日、駆逐艦2隻(清霜、竹)は柱島泊地を出港し[72]、馬公市を経由してフィリピンに進出する[73]。8月16日にマニラに到着[74]。8月17日からの本艦は「清霜」の指揮を受けてパラオ方面への輸送作戦とセブへの引揚者輸送任務に就く[75]。 翌18日午前3時頃、パラオ方面輸送作戦従事中の軽巡洋艦「名取」が[76]、ミンダナオ島ダバオ北東北緯12度15分 東経129度21分 / 北緯12.250度 東経129.350度地点で[77]、アメリカ潜水艦ハードヘッドの雷撃で大破[78]、避退中に沈没した[17]。「清霜」と「竹」は名取救援を命じられた[79]。また遭難者救援のため3隻(鬼怒、時雨、浦波)も遭難現場にむかった[17]。 名取捜索隊は遭難者を発見できず、セブ島に帰投した[18][注 5]。「清霜」はパラオにむかう[73]。この後、「竹」は南西方面艦隊の指揮下で船団護衛任務に従事する[81]。 つづいてパラオ諸島北部のガルワングル環礁で座礁中に[17]、アメリカ潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS-310) の雷撃を受けて船体断裂においこまれた駆逐艦「五月雨」[82](第27駆逐隊)の救援に向かう[注 6]。8月26日夜[19]、「竹」は五月雨生存者を収容した[85]。大熊(五月雨駆逐艦長)と田中(竹駆逐艦長)は海兵同期であり、田中の説得により大熊も退艦して「竹」に移乗した[86] [注 7]。
輸送作戦中の8月20日、日本海軍は第三水雷戦隊の残余と松型駆逐艦を基幹として[15]、第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将[94]、海兵40期)を新編した[95]。第43駆逐隊も第三十一戦隊に編入される[96]。「竹」は燃料補給と「五月雨」乗組員を降ろすためセブ島に立ち寄り、その後パラオに向った[97]。
8月30日からは南西方面艦隊(司令長官三川軍一中将・海兵38期。第三南遣艦隊司令長官兼務)の指揮下に入り、マニラと各地との間で船団護衛に従事した[98][99]。 10月4日、「竹」はミリ行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌5日にミンドロ海峡でアメリカ潜水艦コッド (USS Cod, SS-224) の雷撃により「辰城丸」[100](辰馬汽船、6,886トン)を失った[101]。10月14日にミリに到着して[102] マニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には高雄行きのマタ30船団の護衛でマニラを出港した[103]。この船団は指揮艦である神風型駆逐艦「春風」[104]の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた[105]。 10月23日夕方[106]、マタ30船団はルソン島ボヘヤドール岬北西沖で元特設水上機母艦「君川丸」(川崎汽船、6,863トン)がアメリカ潜水艦ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。このうち「阿里山丸」には捕虜1500名が乗船していたが[107]、米潜水艦に撃沈されてしまった[108][109]。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め[110]、また遭難者の救助に従事した[111]。「春風」はアメリカ潜水艦シャーク (USS Shark, SS-314) を撃沈して一矢報いた[112]。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船(艦名不詳)曳航の命令があったが、曳航作業前に対象の輸送船を見失い、単艦で高雄へ向ったとしている[113]。また高雄到着後もバシー海峡に出動し、遭難者約400-500名を救助してルソン島サンフェルナンドに送り届けたと回想している[114]。
多号作戦
第三次・第五次多号作戦
最前線にいた「竹」は10月18日夕刻発動の捷一号作戦[115]と20日から始まったレイテ島地上戦[116]に関わる事となり[117]、三度にわたってレイテ島西岸オルモックへの陸軍兵力輸送作戦(多号作戦)に参加することとなった[118]。 作戦直前、田中少佐(竹駆逐艦長)が病気(肺結核、肋膜炎とも)で退艦、マニラ海軍病院へ入院した[119]。11月3日、飯村忠彦少佐(海兵65期)が竹臨時艦長に任命される[120][121]。飯村少佐は、レイテ島輸送作戦で同時に沈没した軽巡洋艦「鬼怒」と駆逐艦「浦波」[122]のうち、鬼怒航海長であった[123][124]。 一方、田中少佐(竹駆逐艦長)は呉鎮守府付となる[125]。 日本海軍は、駆逐艦旗風航海長[126]、吹雪型駆逐艦2隻(磯波、浦波)の水雷長[126][127] 等を歴任した宇那木勁少佐(海兵64期[35]。当時、松型駆逐艦椿艤装員長)を「竹」駆逐艦長に任命した[125]。宇那木は軽巡「五十鈴」や松型3番艦「梅」を乗り継いで内地からマニラへ移動しており、実際の着任は遅れた[128]。このため「竹」は飯村駆逐艦長の指揮下で多号作戦に従事する[123]。
飯村新艦長を迎えた翌日以降[129]、米軍機動部隊艦上機のマニラ湾空襲により第二遊撃部隊(第五艦隊)旗艦の重巡「那智」が沈没[130]、駆逐艦「曙」(第7駆逐隊)が大破した[131][132]。駆逐艦「沖波」も損傷して作戦から外された[133]。 11月9日午前3時、「竹」は第三次多号作戦部隊に加わってマニラを出撃する[134][135]。 第三次多号作戦部隊の指揮官は[136]、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(海兵44期)であった[137]。 駆逐艦4隻(島風[注 8]、初春[注 9]、浜波[注 10]、竹 )、第46号駆潜艇および第30号掃海艇と共に輸送船5隻[注 11]を護衛してマニラを出港した[141]。 翌10日午前10時、南西方面艦隊司令長官は「初春」と「竹」の所属部隊を入れ替えるよう下令した[注 12]。同日午後、レイテ島からマニラへ帰投中の第四次多号作戦部隊[注 13]から駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)を分離、第三次多号作戦部隊の駆逐艦2隻(竹、初春)と入れ替えることになった[148][149]。 11日午前5時ごろ、「初春」と「竹」は第四次多号作戦部隊と合同した[142]。7隻(霞、潮、秋霜、初春、竹、沖縄、金華丸)は18時30分、「せれべす丸」や輸送艦救援に従事した2隻(占守、第13号)は同日深夜[150]、それぞれマニラに帰投した[151][152]。 なお「竹」と「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、オルモック湾での対空戦闘で壊滅する[153]。 駆逐艦「朝霜」を残して全滅した[154][155]。島風沈没時に早川幹夫第二水雷戦隊司令官も戦死した[156]。「朝霜」は12日マニラに帰投した[157]。
11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊は[注 14]、同行していた軽巡洋艦「木曾」を分離する[158]。かわりに駆逐艦「時雨」[159]を編入し、内地へ帰投する[160]。「木曾」と「霜月」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された[161]。 11月13日、マニラ湾は再び空襲をうける[162][163]。 水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春[164])が沈没もしくは大破着底状態となる[165][166]。竹乗組員達は「マニラに帰投して大空襲に出くわした。島風と一緒にレイテに行けば良かった。本艦は運が悪い」と自嘲したが、第三次多号船団部隊が「朝霜」を除いて全滅した事を知り、逆に「竹は強運の艦だ」という印象が広まった[167]。
マニラ大空襲をうけて、第五艦隊司令長官志摩清英司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官大川内伝七中将)に進言した[168][169]。 同13日深夜、第一水雷戦隊司令官が指揮する残存艦艇(霞、初霜[注 15]、朝霜、潮、竹 )[172]はマニラを脱出した[173][注 16]。 「竹」はマニラからブルネイに移動する第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期、旗艦「霞」)および「潮」と共に南沙諸島長島に向かい、同地で南方に進出途上の第四航空戦隊(司令官松田千秋少将:戦艦日向、伊勢)や護衛艦(霜月、梅、桐)などと会合[170]、燃料を補給してもらう[注 17]。同地で飯村(臨時「竹」艦長)が退艦し、宇那木少佐は便乗中の戦艦「日向」から「竹」に移乗、新任駆逐艦長となる[177][178]。飯村少佐は15日付で鬼怒航海長の職務を解かれた[179]。 宇那木艦長を迎えた「竹」は、リンガ泊地へむかう第五艦隊とわかれた[171]。 コレヒドール島沖合でアメリカ潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡「五十鈴」と途中ですれ違いつつ[180]、マニラに引き返した[181][注 18]。
11月20日付で第一水雷戦隊は解隊され[186]、一水戦司令官木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に補職される[187]。同20日付で第三十一戦隊は第五艦隊に編入された[188][189]。11月21日、マニラの日本陸海軍は、レイテ島への輸送に第三十一戦隊と高速輸送艦を活用することで一致した[190][注 19]。
11月24日、「竹」は第一輸送戦隊(司令官曾爾章少将・海兵44期)の指揮下に入り[注 20][193]、第五次多号作戦に参加する[194]。第一梯団[注 21]と 第二梯団(竹、第6号輸送艦、第9号輸送艦、第10号輸送艦)としてマニラを出撃した[196]。輸送物件は、第三次多号作戦で座礁した「せれべす丸」等の陸軍部隊や、軍需品であった[197]。 ところが先発した第一梯団はマスバテ島南東部カタイガンに避泊中で空襲をうけ、第46号駆潜艇をのぞき全滅した[198][199]。乗組員はマスバテ島に上陸した[200]。マニラへ帰投中の第46号駆潜艇も、翌25日に空襲で沈没した[195]。
翌25日昼[201]、「米機動部隊が接近中」との情報で輸送部隊はタヤバス湾に浮かぶマリンドケ島北西部のバラナカン湾に避泊した[202][203]。 間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没する[195][204]。第9号輸送艦も損傷(航海長袴田徳男大尉戦死、砲術長負傷、荷役装置故障)[205][206]。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名[207]・負傷者60名余を出した他[208][209]、ジャイロコンパスが吹き飛ばされて使用不能となった[210][211]。レイテ島オルモック湾への突入を命じられていたため「竹」幹部は協議をおこなう[211]。先任将校(志賀)は任務遂行を進言、高井義助航海長は『方位磁針を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある』と具申した[212]。機関長は燃料流出を懸念したが「命令なら突入する」と進言、砲術長は反対した[211]。 しかし、第9号輸送艦(艦長赤木毅予備少佐)より『砲術長戦死、航海長負傷、大発動艇卸用ワイヤ切断』との報告を受け[213]、再挙を期してマニラに引き返すことにした[214]。沈没艦の生存者を収容し、11月26日マニラに帰投した[215][216]。 こうして第五次多号作戦は失敗した[217][218][注 22][注 23]。 宇那木艦長は南西方面艦隊司令部(参謀長有馬馨少将、先任参謀高間正義大佐)に出頭して詫びを入れた[223][224]。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった[223]。第九号輸送艦では、マニラ空襲で沈没した駆逐艦沖波の航海長だった佐々木幸康大尉が新航海長に任命され[225]、作戦準備を整えた[206]。
第七次多号作戦・クーパー撃沈
第六次多号作戦が予想以上の成功をおさめたので[226]、日本軍は第七次多号作戦を実施した[227][228]。ただし第六次多号作戦部隊は揚陸地点および帰路に魚雷艇と空襲により全滅した[229]。
第七次多号作戦部隊は[注 24]、 第一梯団[236]、第二梯団、第三梯団と第四梯団にわかれていた[25][237]。 本艦は第七次多号作戦において松型駆逐艦5番艦「桑」(駆逐艦長山下正倫中佐、海兵53期)の指揮下に入った[238]。 12月1日午後6時[233]、駆逐艦2隻(桑、竹)、第9号輸送艦、第140号輸送艦、第159号輸送艦という第三梯団/第四梯団でマニラを出撃した[239][240]。「竹」には方面軍作戦参謀田中光祐少佐他数名の陸軍将校が乗艦していたという[241][242]。マニラ湾口で船団部隊は陸軍潜水艦(マルゆ)と遭遇した[243][244]。
12月2日昼間、敵小数機に触接されたが、空襲はなかった[245]。 航行中、酸素魚雷点検および訓練時の事故により魚雷1本を投棄、「竹」の残魚雷は3本となった[246]。 この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた[247]。第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし[247]、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた[247]。そして、三度目の作戦[247] としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692)、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) がオルモック湾に差し向けられる事となったのである[248]。 アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)[249] は18時30分にレイテ湾を出撃し[249]、オルモック湾に急行した[250]。出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光や第一四一航空隊の瑞雲(水上爆撃機)に付きまとわれ[251]、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した[252][注 25]。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた[250]。
12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始した[233]。大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長(海兵51期)や機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀(海兵52期)などが収容されていた[250][254]。その後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した[255][256]。「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった[257]。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した[258]。この時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた[259][260]。「桑」側は敵戦力を軽巡洋艦3隻と判断、照射砲撃と魚雷戦を開始した[261]。 12月3日午前0時30分頃より交戦がはじまる[233]。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき[262]、駆逐艦主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した[263]。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した[262]。「竹」は12.7cm 高角砲、25mm 機銃、酸素魚雷で「敵巡洋艦(駆逐艦の誤認)」に反撃を行った[264]。オルモック湾内を24ノットで航行・機動するため、座礁を懸念しながら戦闘をおこなった[265][266]。
最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらみ[260]、また電気機器の故障により発射の機会を逃した[266]。二度目の機会を得て魚雷2本を発射する[266]。四番連管は起動弁の故障で発射できなかった[267]。「竹」の水雷長志賀博大尉(海兵68期)が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した[266][268]。魚雷はクーパーの右舷に命中し、船体をV字に折られたクーパーは1分以内に沈没した[269]。この後、「竹」は修理が終わった四番連管から魚雷1本を単独発射したが、こちらは命中しなかった[266][270]。 一方、モールは「竹」の前部機械室に命中弾を与えた(負傷者1名)[271]。不発だったが浸水のため右舷1軸運転となり[272]、「竹」は最大で左舷に30度も傾いた[273][274]。しかし、「竹」もモールに高角砲弾を複数発命中させた[268]。クーパー轟沈を「潜水艦からの雷撃」と錯覚していた米駆逐艦2隻[266](モール、サムナー)は戦場から避退した[注 26][注 27]。これ以上の戦闘は行われなかった。
やがて第9号輸送艦から揚陸完了の報告を受け、缶に使用する真水の在庫が底を尽こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、第9号輸送艦から真水の供給を受けた[280][281]。同時に二水戦参謀が第9号輸送艦に移乗した[282][283]。 夜明けまで残2時間となった時、第140号輸送艦および第159号輸送艦からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、第140号輸送艦および第159号輸送艦を先発させる[283]。宇那木艦長はオルモックの陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請した[283]。 12月3日3時に第9号輸送艦を率いてオルモック湾を出発[284]。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、サーチライトを使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された[280]。海面の桑生存者は通り過ぎる「竹」に救助を要請したが、竹側は「大発動艇がくるから頑張れ」と返答して過ぎ去った[285]。すると最後尾の輸送艦[注 28]が反転し、桑生存者8名を収容した[287]。また生存者の一部はカッターボートで上陸、現地の海軍陸戦隊に合流した[288]。
途中で傾斜を回復させた「竹」は12月4日午後、マニラに帰投した[289][290]。マニラでは松型姉妹艦3隻(梅、桃、杉)が第八次多号作戦の出撃準備をおこなっており、「杉」では満身創痍の「竹」をみて作戦の困難さを悟ったという[291]。 マニラ港では、曾爾少将(輸送戦隊司令官)が桟橋まで出迎え、宇那木艦長と握手を交わした[282]。続いて宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(海兵37期)から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった[282][292]。宇那木艦長は後に、クーパー撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した[292]。また、宇那木艦長が、収容した便乗者の中に「島風」や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、1968年(昭和43年)のことだった[256]。なお、クーパー撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を撃沈した最後となった[293]。 12月5日から14日まで応急修理を行ったが[294]、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて佐世保での回航修理が命ぜられた[295]。
終戦まで
12月14日以降、米軍機動部隊はルソン島各地に空襲をおこなった[296]。多号作戦に従事するためマニラ在泊中の松型各艦(梅、桃、杉、榧、樫、桐)はそれぞれ同地を脱出する。艦首損傷の「梅」は海南島経由で香港に退避[297]、駆逐艦突入作戦のため第43駆逐隊司令指揮下3隻(杉、榧、樫)は新南群島に移動[298]、「桃」は翌15日に潜水艦ホークビルに撃沈された[299]。 本格的な修理を受けるため「竹」も12月15日にマニラを出港する[300][301]。この時猛烈な台風(コブラ台風)に遭遇した[302][注 29]。 12月18日に高雄に寄港し、次いで12月21日に基隆に寄港する[304][305]。同日夜、「竹」は同地からの「辰春丸」(辰馬汽船、6,344トン)他2隻の輸送船団(タモ船団)を護衛して基隆を出港した[306][307]。中国大陸沿岸部や朝鮮半島南岸部の島々の間を縫って北上し、1945年(昭和20年)1月1日に門司港外に到着した[308]。 翌1月2日、「竹」は呉海軍工廠に移動する[308]。当初の予定では1月末から2月初頭[309]、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが[310]、予定は延びて3月15日まで修理を行った[311][注 30]。
「竹」が修理中の1月中旬、第三十一戦隊司令部(司令官鶴岡信道少将)はマニラから台湾高雄に移転していた[184]。 2月5日付で第五艦隊が解隊されて第十方面艦隊が新編され[312]、第一輸送戦隊と第三十一戦隊は連合艦隊付属となった[184][313]。第43駆逐隊司令も菅間良吉大佐から吉田正義大佐[314]を経て作間英邇大佐に交代していた[315]。第三十一戦隊司令部も内地にもどった。 3月15日、第三十一戦隊は第二艦隊に編入された[316]。 その間、「竹」は2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた[317]。これ以降、第三十一戦隊旗艦は秋月型駆逐艦「花月」となった[318]。 3月19日の呉軍港空襲で、「竹」は10名余の負傷者を出した[319]。4月16日から26日にかけての修理工事では、三式探信儀などが装備された[320]。
4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊が解隊され、第三十一戦隊は連合艦隊付属にもどった[321]。 4月29日から「楓」とともに回天との訓練に参加した後[322][323]、「竹」は後甲板に回天の発射台を設置する工事を行った[324][注 31]。5月上旬、B-29の水平爆撃を受ける[325]。 5月20日、連合艦隊は第三十一戦隊と軽巡洋艦「北上」(人間魚雷「回天」母艦)を基幹として海上挺進部隊を新編、第43駆逐隊も同部隊に所属した[326]。戦況悪化によって温存策が取られる事となり、「竹」は第43駆逐隊各艦(榧、槇)等とともに屋代島日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった[327][328]。屋代島柳井側には僚艦(花月、桐、蔦)も艤装繋留されていた[327]。 樹木と網で偽装した3隻(竹、槇、榧)はついに攻撃される事なく[327][329]、8月15日の終戦時には航行可能な状態で残存した[330]。「竹」は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後[331][332]、10月25日に除籍[13]。本艦竣工時より竹水雷長だった志賀博(旧姓保坂)大尉は[43]、敷設艇「巨済」艦長に転じた[333]。
戦後
戦後の「竹」は1945年(昭和20年)12月1日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に定められ[334]、行動可能な他の艦船と同様復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送ではポンペイ島(ポナペ島)と浦賀間を二度往復し[335][注 32]、次いでパラオと浦賀間を一往復[335]、サイパン島から同島在住の沖縄県民を沖縄本島まで輸送した[338]。第5回輸送からは上海および葫芦島と日本の間を往復し、中国大陸および旧満州国方面からの復員輸送に従事した[339]。葫芦島からの輸送の際、艦内にコレラ患者が出て病死する引揚者が出たため、防疫のため1ヵ月間隔離された事もあった[340]。1946年に復員輸送を終え同年7月26日に特別保管艦に指定[341] され、横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留[342] された。1947年(昭和22年)7月16日には特別輸送艦の定めを解かれ[343]、イギリスに賠償艦として引き渡され解体された。
歴代艦長
- 艤装員長
- 駆逐艦長/艦長
- 田中弘國 少佐:1944年6月16日[43] - 1944年11月1日[125](マニラ海軍病院入院)
- (臨時)飯村忠彦 少佐:1944年11月3日(着任4日)[123] - 1944年11月14日(11月15日付で鬼怒航海長免職)[179]
- 宇那木勁 少佐/第二復員官:1944年11月1日任命[125] - 艦長 1945年12月20日[344] - 退任年月日不明[345]
- 伊東謹之助[346] 復員事務官:就任年月日不明[345] - 1946年10月30日[347]
- 市來崎秀丸 復員事務官:1946年10月30日[347] - 1947年2月20日[348]
- 南部伸清 復員事務官:1947年2月20日[348] - 1947年3月10日[349]
- 福島榮吉 復員事務官:1947年3月10日[349] - 1947年7月16日[350]
脚注
注釈
- ^ パラオ方面輸送任務従事中の「名取」は[16]、8月18日に潜水艦の雷撃で沈没した[17]。「竹」を含む名取捜索隊は遭難者を発見できず、20日にセブ島へ帰投した[18]。
- ^ 輸送作戦中の「五月雨」は8月18日未明にパラオ諸島で座礁した[17]。8月26日、「竹」は放棄された「五月雨」から乗組員を収容した[19]。
- ^ 3隻(摩耶、朝雲、浦風)は7月9日をもって呂号作戦輸送部隊に加えられた[55]。7月12日、「摩耶」は護衛2隻(冬月、皐月)と共に横須賀を出発、14日門司に進出した[55]。
- ^ 同任務終了後の8月4日[65]、硫黄島方面輸送作戦中の姉妹艦「松」(第二護衛船団司令官高橋一松少将[66] 旗艦。松駆逐艦長吉永源少佐〈天霧沈没時艦長〉[67])は米海軍水上艦艇と交戦、沈没した[68](スカベンジャー作戦)[69]。
- ^ 8月30日、名取将兵を乗せたカッターボート3隻がミンダナオ島スリガオに到着した[80]。
- ^ パラオの邦人引き揚げ任務についていた5隻(重巡青葉、軽巡鬼怒、駆逐艦浦波、時雨、五月雨)のうち3隻(鬼怒、時雨、五月雨)で別動中、8月18日未明にガルワングル環礁で「五月雨」が座礁した[83]。救援命令を受けた時点では[79]、「五月雨」はバットフィッシュの雷撃を受けていなかった[84]。
- ^ 五月雨駆逐艦長大熊安之助少佐[87][88] の前職は松型5番艦「桑」艤装員長[87][89] であり、五月雨艦長の後は駆逐艦「初春」艦長[90][91]、同艦沈没後は松型14番艦「柳」艤装員長[92] 及び艦長[93] を務めた。
- ^ 第二水雷戦隊旗艦。
- ^ 初春駆逐艦長は大熊安之助少佐[90]、8月26日に竹が救助した五月雨艦長である。
- ^ 第32駆逐隊司令大島一太郎大佐座乗[138]。
- ^ 内訳:せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸[139]。第26師団将兵約2,000名と軍需品を輸送する[140]。
- ^ 11月10日1009(南西方面部隊)NSB電令作第740号 初春、竹、十日一四〇〇第三次輸送部隊ヨリ分離 以後「マニラ」帰還迄第四次輸送部隊ニ編入ス[142]。
- ^ 指揮官は第一水雷戦隊司令官木村昌福少将:駆逐艦(霞〈一水戦旗艦〉、秋霜〈中破、艦首切断〉[143]、潮、朝霜、長波、若月)[144]、第四護衛船団司令官松山光治少将が指揮する海防艦(占守、沖縄、第13号海防艦)など[145]。オルモック湾での対空戦闘で、輸送船2隻と第11号海防艦が沈没していた[146][147]。
- ^ 空母隼鷹、重巡利根(ブルネイから同行)、軽巡木曾、第30駆逐隊(卯月、夕月)[158]。
- ^ 志摩長官以下、第五艦隊司令部は初霜に乗艦した[170]。初霜と朝霜はブルネイに直行し[170]、同地で第五艦隊旗艦は重巡「足柄」となった[171]。
- ^ 第四次多号作戦に参加した海防艦(占守、沖縄、第13号)も14日午前2時にマニラを出発、ボルネオ島北西のラブアンにむかった[174]。
- ^ (昭和19年11月17日)[175]〔 2YB電令により支援部隊5F(足柄)4Sf 榛名 大淀×4はリンガに回航の事となる。31S(五十鈴、槇、桑、杉、桃)マニラに向ふ。4Sf、霜月、梅、桐は長島錨地に向ふ。1600入泊。1sd、霞、潮、竹、同地にあり各艦に燃料を補給す。〕[176]
- ^ 第三十一戦隊司令部はシンガポールで秋月型駆逐艦「霜月」に旗艦を変更した[182]。直後の11月25日未明、「霜月」は潜水艦カヴァラに撃沈され、第三十一戦隊司令部は全滅した[183]。新たな第三十一戦隊司令部は内地で編成され(司令官鶴岡信道少将)、12月22日に空路でマニラへ進出した[184][185]。
- ^ 〔 差当リ目標ヲ「ブラウエン」ノ地上制圧態勢ヲ占ムルコトニ置キ第三十一戦隊ノ一部、SB、SS等ヲ骨幹トシ 海上「トラック」以下ヲ加ヘタル確実ナル輸送力ヲ以テ現「レイテ」部隊ノ戦力増強竝ニ第六十八旅団ノ投入ヲ行ヒ 之ト密接ナル航空作戦ヲ遂行 遅クトモ十二月初頭迄ニ其ノ目的ヲ達成シ 此ノ間敵ヲ爆撃制圧ノ成果ヲ利用シ大型船ニ依ル輸送力一段ノ増強ヲ行ヒ「ブラウエン」制圧効果ト相俟ッテ益々航空威力ヲ発揮シ「レイテ」ノ敵主力撃滅ニ必要ナル兵力輸送ニ転ス 〕[191]。
- ^ ただし、本来「竹」に乗艦する予定であった曾爾章少将は後の船の段取りを取るためマニラに残り、代わりに宇那木勁艦長が指揮官を任されている[192]。
- ^ 第一梯団は二等輸送艦3隻(111号、141号、160号)と第46号駆潜艇で編成されていた[195]。
- ^ ルソン島西岸では[183]、南下中の軽巡洋艦「八十島」と輸送艦3隻および重巡「熊野」が撃沈された[219][220]。
- ^ この時期、僅かながらレイテ島輸送に成功したのは陸軍潜水艦「マルゆ」のみであった[221][222]。
- ^ 第一梯団:陸軍SB艇3隻(5号、11号、12号)、第20号駆潜艇[230]。11月29日マニラ発、5号がマスバテ島に座礁したが[231]、他はセブ島を経由して30日レイテ島オルモック南方4kmのイピル着、揚陸成功[232](第20号駆潜艇は駆逐艦長波生存者72名を収容)[233]/第二梯団:陸軍SB艇2隻(10号、14号)、11月30日マニラ発、12月1日レイテ島パロンポン北方のシラド湾着。/第三梯団:海軍輸送艦2隻(140号、159号)/第四梯団:第9号輸送艦、駆逐艦2隻(桑、竹)[234][235]。
- ^ 『南海の死闘』151-155頁、第十一章「オルモック夜戦の戦訓と戦果」宇那木勁(「竹」艦長)[253]。
- ^ オルモック対岸のセブ島には第33特別根拠地隊[275](司令官原田覚少将)[276]があり、特殊潜航艇甲標的による作戦を実施していた[277][278]。
- ^ 11月27日未明には、レイテ島近海でフレッチャー級駆逐艦4隻が「マルゆ2号艇」と交戦、撃沈している[279]。
- ^ 『地獄のレイテ輸送作戦』98ページでは140号輸送艦が救助と記述する[286]。
- ^ 付近ではウィリアム・ハルゼー提督率いる第3艦隊 (アメリカ軍)が嵐に翻弄され、駆逐艦3隻が転覆するなど大損害を受けている[303]。
- ^ 田村、134頁。ただし、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 6-9、53-56頁 では3月15日の時点で修理は終わらず、4月28日まで継続されている書き方となっており、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 65頁 にも「修理ヲ続行中」とある。
- ^ 田村、134頁。136頁では、その期間を5月から6月25日までの間と推定している。
- ^ 第一回:10月25日に呉出発、グアムで燃料補給し、11月6日ポナペ島着、11月8日発、グアム経由、11月16日浦賀着[336]。第二回:12月4日浦賀発、グアム経由、12月12日着(浦賀着日時不明)[337]。
出典
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 7頁
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- ^ a b #S1912経過(護衛対潜) p.2(昭和19年12月)〔 3| |多号作戦(イ)第六時輸送ヲ終了シ皈投中ナリシ神悦丸 ch45ハ11-30セブ東方ニテ遭難セルコト判明/(ロ)第七次第二梯団(SS5欠)ハ1530/2マニラ帰着/(ハ)第七次第二梯団(SS4号欠)ハ予定時刻タル2100/1ニ至ルモ オルモックニ到着シアラズ|途中事故アリシ模様/(ニ)第七次 第三及第四悌団(竹、輸送艦×3)ハ揚搭終了、0300/3オルモック発マニラニ向ケ帰投中/同舩団ハ今朝(→12-3)0030頃揚陸作業中敵大型d3~4ト交戰セルモノノ如シ| |只今迄ニ判明セルモノ 戰果 敵d×1撃沈 沈没 桑/片舷航行 竹/竹ハ補機室ニ被弾アリシモマニラ迄自力航行可能ノ見込ナリ 戰果 大型d×1轟沈 同1隻撃破 Tb×2撃沈 〕
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 212–213蟷螂の斧
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- ^ #内令昭和19年1月(5) pp.17-18〔 内令第二百號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年一月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等松型ノ項中「松」ノ下ニ「、竹、梅、桃」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十四」ノ下ニ「、伊號第十五」ヲ、同伊三百六十一型ノ項中「伊號三百六十六」ノ下ニ「、伊號三百六十八、伊號三百六十九」ヲ加フ|海防艦、占守型ノ項中「笠戸」ノ下ニ「、日振、鵜来」ヲ、同三御藏型ノ項中「倉橋」ノ下ニ「、屋代」ヲ、同第一號型ノ項中「第十一號」ノ下ニ「、第十三號、第十五號、第十七號、第十九號」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十四號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第六十一號」ノ下ニ「、第六十三號」ヲ加フ 〕
- ^ #内令昭和19年3月(2) p.18〔 内令第四百八十號|驅逐艦 竹 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|第二十四號海防艦 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル|舞鶴鎮守府在籍 第二十四號海防艦 右警備海防艦ト定メラル|第六十號驅潜艇 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|佐世保鎮守府在籍 第六十號驅潜艇 右警備驅潜艇ト定メラル|昭和十九年三月二十八日 海軍大臣嶋田繁太郎 〕
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- ^ 「昭和19年5月1日(月)海軍公報(部内限)第4677号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070462400 〔 ○事務開始(略)驅逐艦竹艤装員事務所ハ横須賀海軍工廠内ニ於テ四月二十日事務ヲ開始セリ 〕
- ^ 「昭和19年5月8日(発令5月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1466号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098100
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- ^ #S1906十一水戦日誌(1) p.6〔 (四)麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動(其ノ一) 〕(昭和19年6月)
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp,5〔 (四)麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動 〕(昭和19年7月)
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- ^ #S1904呉鎮日誌(4) p.50〔 一一(天候略)鹿島ハGF指揮下ニ入リ「ロ」號作戰輸送部隊ニ編入セラル 〕
- ^ #ろ号作戦 p.26〔 (イ)艦艇ノ搭載量標準ニ関シ 艦艇ヲ以テスル作戰輸送時ニ於ケル搭載量ノ決定ハ中々至難ニシテ特ニ陸軍ノ場合圓滑ナル作戰實施ノ一障害ヲナスヲ以テ速ニ現艦艇ノ搭載量標準ヲ規定スルノ要アリ 之ニ関聯シ今回實施セル作戰輸送時當司令部ニテ決定セル各艦ノ搭載標準ハ左表ノ通ニシテ作戰輸送トシテノ各艦ノ畧限度ナリト認ム 〕〔 摩耶|人員(数)一〇〇〇|物件(噸)一七〇/長良|六〇〇|三〇/鹿島|七〇〇|一〇〇/浦風型|二〇〇|四〇/冬月|二五〇|五〇/竹|/|三〇 〕
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 37頁、#S1804呉防戦(7) p.27〔 一六(天候略)引續キ各隊対潜警戒及掃蕩実施「ロ」號作戰輸送部隊出撃 〕
- ^ a b c d 戦史叢書17 1968, p. 50.
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 38頁
- ^ #S1907十戦隊日誌(1) p.5〔 (2)朝雲 月頭ヨリ呉ニ於テ整備補給ニ従事中ノ所四日附属部隊ニ編入十日附第十駆逐隊解隊ニ伴ヒ第四駆逐隊ニ編入十四日浦風ト共ニ同地発即日門司着「ロ」號作戰輸送部隊第二輸送隊トシテ陸軍部隊竝ニ物件搭載ノ上同地発中津沖及中城湾ヲ経テ十八日宮古島着陸軍部隊竝ニ物件ノ揚陸ヲ終了「ロ」號作戰輸送部隊ノ編制ヲ解カレ即日同地発二十日「マニラ」着補給ノ上二十三日同地発二十六日「リンガ」着… 〕、同部隊戦時日誌 p.37〔 一八(天候略)〇七二一朝雲〇九五二浦風宮古着/〇八四五雪風因島船渠出渠/〇九二五朝雲一〇三〇浦風摩耶護衛「マニラ」ニ向ケ宮古発 〕
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39頁
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39,45頁、#S1907十戦隊日誌(1) p.8〔 (2)冬月 十五日附霜月ト共ニ第四十一駆逐隊ニ編入南西諸島方面陸軍部隊輸送ニ従事中ノ所二十一日右任務終了内地着二十二日司令駆逐艦トナリ爾後月末迄内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事ス 〕
- ^ #S1904呉鎮日誌(4) p.39〔 十九日一八一四GF|十九日二二五〇鹿島 11sd(呉鎮)(外)|GF電令作第三一八號 「ロ」號作戰輸送部隊ノ内海西部着以後同部隊ノ編制ヲ解ク 11sdハ内海西部ニ於テ訓練整備ニ從事シ鹿島ハ原隊ニ復歸スベシ 〕、#S1812呉練習戦隊(2) p.15〔 (二)鹿島七月九日附一時聯合艦隊司令長官ノ指揮下ニ入レラレタルニ依リ旗艦ヲ出雲ニ變更實務練習ノ爲鹿島ニ配乗スベキ海軍豫備學生出身海軍少尉(實習員)ヲ出雲 磐手 八雲ニ分乗セシム、七月二十日鹿島任務解除ニ依リ同艦ニ復皈セシメタルノ外實務練習教育ハ順調ニ行ハレツツアリ 〕
- ^ 戦史叢書37 1970, p. 78.
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- ^ #S1907十六戦隊日誌(1) p.28〔 十八日〇三三〇名取艦長(宛略)名取機密第一八〇三三〇番電 雷撃ヲ受ク一本命中〇二四〇 12°15′N129°21′E損害大今ノ處沈没ノ虞ナシ航行不能 〕
- ^ 軽巡海戦史 2017, pp. 124–126▽名取
- ^ a b 南海の死闘 1994, p. 88.
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- ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁、駒宮『戦時輸送船団史』、273頁
- ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁
- ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、60頁;駒宮『戦時輸送船団史』、279頁
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 94–97悲惨、痛恨の「マタ」船団
- ^ 木俣『敵潜水艦攻撃』、130頁
- ^ #S1910経過(護衛対潜) p.6(昭和19年10月)〔 23|1730|君川丸(B貨6900t)ルソン海峡西部ニテ(潜水艦)(魚雷)|沈「マニラ」→高雄 〕
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 97–98遭難捕虜の心情は…
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 147–149無念の歯がみ
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- ^ 木俣、駆逐艦入門 2006, pp. 294–295.
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 98–100遭難船を曳航せよ!!
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 100–102またしても遭難船救助命令
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 33–36大本營、比島方面決戦実施を指示
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 39–43レイテ島への本格的上陸
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 519–521新実施計画(第三次~第七次)
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 102–103多号作戦発令「竹」参戦せよ!!
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 154–156.
- ^ 佐藤、艦長続篇 1995, p. 187.
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 104a-105田中艦長退艦?飯村少佐臨時艦長?
- ^ #S1910経過(護衛対潜) p.8(昭和19年10月、レイテ沖海戦)〔 16S|日没后/25 カガヤンニテ陸兵搭載/AM/26 オルモック突入2ヶ大隊揚陸成功/1055/26 パネイ島NE端ニテ敵(飛行機)約40ノ空襲ヲ受ク 鬼怒1730 浦波1224沈没 〕
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- ^ 岸見勇美 2010, p. 38.
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- ^ 撃沈戦記 2013, pp. 163–166マニラ湾燃ゆ
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 521–524米機動部隊のルソン来襲
- ^ #S士官の手記 pp.22-23〔 5/11 多號作戰待機中ノ1sd 2sdノ主力「マニラ」港内ニ集結船團モ多數碇泊セルモ敵機ハ主目標ヲ「ニコラス」飛行場及防波堤外ノ艦船ニ向ケ防波堤内ノ艦船ニハ攻撃ヲ殆ド加ヘズ堤外ニテ之ノ敵ヲ砲撃セシモノ那智、沖波他ニ驅潜艇一商船一、〇七三〇頃六〇機來襲、一〇〇〇百機來襲、一二〇〇 四〇機、一四三〇 八〇機來襲此ノ日ノ戰闘ハ快晴ナレドモ雲低ク敵機ハ之ヲ利用シ急降下ス、激烈ヲ極メシ戰闘ヲ續ケ沖波機銃員ノ被害漸大、被爆ノ爲電灯消ユ、機械一時停止主砲人力等最後ノ空襲ニ依リ艦長重傷一六〇〇那智救助ニ向ヒ間モナク來着セル病院船ト協力、全部救助、沖波戰死十籔名、重輕傷多數、艦長入院、翌日ノ被攻撃ヲ避ケ出港、戰果撃墜二機 〕
- ^ 戦史叢書56 1972, p. 536.
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- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 535–541第三次輸送部隊の行動、船団全滅す
- ^ #S1911経過(護衛対潜) p.3(昭和19年11月)〔 9| |多号作戰部隊第三次輸送部隊(司令官/2Sd 島風 浜波 w×1 ch×1 低速船5隻)0500マニラ発 1200/11オルモック突入ノ予定 GF右作戰ニ策應1YBノ大部ヲ以テスル―海又ハミンダナオ海方面ニ進出輸送船団ノ間接護ヱニ任ゼシム 〕
- ^ 戦史叢書56 1972, p. 539.
- ^ 戦史叢書41 1970, p. 413(第三次多号船一覧)
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- ^ a b 戦史叢書56 1972, p. 537.
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- ^ 第13号海防艦戦記 2014, p. 19.
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 541–542第四次、第三次部隊のマニラ帰投
- ^ 『多号作戦戦闘詳報第二号』、16、17頁、38頁
- ^ #S1911経過(護衛対潜) p.4(昭和19年11月)〔 11|1130頃|(多号作戰部隊第三次輸送部隊)敵艦上機約120キノ攻撃ヲ受ク 低速T×4(軍需品ヲ主トシ人員約400名搭載) 島風、浜波、長波、若月、w3? }沈没 朝霜 避退ニ成功 ビサヤン海ヲ西航マニラニ向ケ帰投 〕
- ^ 岸見勇美 2010, pp. 47–50漂流と彷徨
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 538–539二水戦司令官戦死、第二船団全滅
- ^ 戦史叢書93 1973, pp. 62–64軍需品搭載船団の全滅
- ^ 戦史叢書56 1972, p. 542.
- ^ a b 戦史叢書56 1972, p. 544.
- ^ #S1910経過(護衛対潜) p.8〔 1YB 時雨(1YB第三部隊)唯一ノ生還艦コロンニ向ケ帰投 〕
- ^ #S1906第30駆日誌(3) p.13〔 12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港 〕(註:重巡筑摩は既に沈没している)
- ^ #S1909一水戦日誌(2) pp.42-43〔 十日一一〇九(長官)NSB|十日一五四〇捷號作戰部隊桑霜月(司令官)4sf(司令官)31S(六海一部及GF)|機密第一〇一一〇九番電 南西方面部隊電令作第七四一號 一.マニラ着後第四航空戰隊(日向伊勢)ヲ多號作戰部隊支援部隊ニ木曽霜月ヲ第一警戒部隊ニ第三十一戰隊(五十鈴梅桃桐)桑杉ヲ護衛部隊ニ編入/二.沖波曙早霜ヲ多號作戰部隊警戒部隊ヨリ除キ支援部隊ニ編入 以下略 〕
- ^ 岸見勇美 2010, pp. 50–54マニラ湾の地獄
- ^ 戦史叢書93 1973, pp. 65–66マニラ在泊艦船の被害甚大
- ^ 秋月型(潮書房) 2015, pp. 267–269炎の海にのまれた初春
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 543–546十一月十三日の空襲、「木曾」、駆逐艦等の沈没
- ^ #霞詳報(マニラ空襲) p.7〔 木曾沈没着底、沖波沈没着底 〕、#捷1号作戦2YB作戦経過概要 pp.32-33〔 11・13|0730敵KdBノ艦上機「マニラ」船舶空襲三次ニ亘リ来襲、沖波初春被弾大火災沈没、潮擱座、木曾沈没「カビテ」曙秋霜大破 商船殆ド全部火災トナル 〕、#S1909一水戦日誌(2) p.11〔 (4)…翌13日朝来敵艦上機群及反復来襲「マニラ」港及「キャビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦艇全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜中破木曾大破〕ノ被害アリ… 〕
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 110–111間一髪の幸運
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 548a-549第二遊撃部隊のマニラ撤退/ブルネイに避退す
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- ^ a b c 戦史叢書56 1972, pp. 548b-549.
- ^ a b #S1911経過(護衛対潜) p.6(昭和19年11月)〔 16| |(長官)5F旗艦足柄ニ変更 支援部隊(足柄 1Sd《霞 潮 初霜》 5S《羽黒》4Sf《伊勢日向》榛名 大淀 朝霜 霜月)ヲ率イ新南群島出港リンガ回航 〕
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 451–452.
- ^ #S1909一水戦日誌(2) p.11〔 敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部移乗》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ 〕
- ^ 第13号海防艦戦記 2014, p. 20.
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- ^ #S1912経過(護衛対潜) p.1(昭和19年11月)〔 30| |多号第七次輸送船団第一梯団(SS×3 Ch20)(内SS-5マスバテ坐礁中)1100~1600セブ島東岸ソコド湾ニ於テ敵f中f小×約30ト交戰 ch20若干被害アリ舩団被害ナシ/2300イピール(オルモック南方)ニ突入 0140/1揚陸完了帰途ニ就ク/1430~1600 foc×6セブ発進右船団上空直ヱ1530ヨリ約20m間敵fc×24ト交戰|墜×5(内不確実×1)未帰還×1 〕
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- 当時「鬼怒」航海長・海軍大尉飯村忠彦『十六戦隊「鬼怒」オルモック輸送に潰ゆ レイテ海戦の舞台裏で兵器人員輸送に苦闘した航海長の血涙の手記』
- 松永市郎「輸送艦かく戦えり」『三号輸送艦帰投せず 『先任将校』後日物語』光人社、1986年10月。ISBN 4-7698-0325-7。
- 雑誌『丸』編集部/編 編『ハンディ判日本海軍艦艇写真集18 駆逐艦秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型』光人社、1997年11月。ISBN 4-7698-0819-4。
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- 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6。
- 戦史研究家伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』
- 当時艦政本部部員・海軍技術中佐遠山光一『マスプロ防空駆逐艦"松型"の誕生と背景 駆逐艦発達史の中に位置づけた丁型=松型十八隻と橘型十四隻の新機軸』
- 戦史研究家伊達久『丁型駆逐艦船団護衛ダイアリィ 松型十八隻と橘型十四隻の太平洋戦争』
- 元「柳」艦長・海軍少佐大熊安之助『松型「柳」艦長三たび痛恨の海に没したけれど 乗艦三隻の最期をみとった駆逐艦長が綴る海の勇者たちへの鎮魂歌』
- 当時「桑」一番高角砲射手・海軍上等兵曹山本貢『小さな勇者「桑」オルモックに死すとも 瑞鳳直衛の比島沖海戦をへて七次多号作戦に果敢な砲戦を演じた勇者の最後』
- 渡辺洋二『夜間戦闘機「月光」』朝日ソノラマ新装版戦記文庫、1993年、ISBN 4-257-17278-9
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関連項目