「日本赤軍」の版間の差分
m Category:政治的極左を除去; Category:日本の政治的極左を追加 (HotCat使用) |
|||
7行目: | 7行目: | ||
| 略称 = |
| 略称 = |
||
| 設立 = [[1971年]]2月(アラブ赤軍) |
| 設立 = [[1971年]]2月(アラブ赤軍) |
||
| |
| 解散 = [[2001年]]4月 |
||
| 種類 = 共産主義武装組織 |
| 種類 = 共産主義武装組織 |
||
| 地位 = [[マルクス主義]]<br />[[世界革命論]]<br />[[国際根拠地論]]<br />[[反帝国主義]]<br />[[アジア主義]] |
| 地位 = [[マルクス主義]]<br />[[世界革命論]]<br />[[国際根拠地論]]<br />[[反帝国主義]]<br />[[アジア主義]] |
||
13行目: | 13行目: | ||
| 本部 = {{PAL}}、[[ベッカー高原]] |
| 本部 = {{PAL}}、[[ベッカー高原]] |
||
| 位置 = |
| 位置 = |
||
| |
| area_served = なし |
||
| |
| 会員数 = [[重信房子]]、[[奥平剛士]]、[[丸岡修]]、[[奥平純三]]、[[岡本公三]]、[[西川純 (日本赤軍)|西川純]]、[[和光晴生]]など |
||
| 言語 = [[日本語]] |
| 言語 = [[日本語]] |
||
| |
| 幹部氏名 = [[重信房子]](最高指導者) |
||
| 人物 = |
| 人物 = |
||
| 機関 = |
| 機関 = |
2020年1月25日 (土) 03:41時点における版
設立 | 1971年2月(アラブ赤軍) |
---|---|
設立者 | 重信房子、奥平剛士 |
解散 | 2001年4月 |
種類 | 共産主義武装組織 |
法的地位 |
マルクス主義 世界革命論 国際根拠地論 反帝国主義 アジア主義 |
目的 | 「世界革命」の実現 |
本部 |
![]() |
貢献地域 | なし |
会員数 | 重信房子、奥平剛士、丸岡修、奥平純三、岡本公三、西川純、和光晴生など |
公用語 | 日本語 |
会長 | 重信房子(最高指導者) |
関連組織 |
パレスチナ解放人民戦線 ドイツ赤軍 共産主義者同盟赤軍派 |
特記事項 |
![]() |
日本の新左翼 |
---|
![]() |
日本赤軍(にほんせきぐん、英語: Japanese Red Army)は、1971年から2001年まで存在した日本の新左翼系の国際極左テロ組織。
日本革命を世界革命の一環と位置付け、中東など海外に拠点を置き、1970年代から1980年代にかけて多数の武装闘争事件(日本赤軍事件)を起こした[1]。
1971年に共産主義者同盟赤軍派の重信房子、奥平剛士らが結成、2001年に重信自身が解散を表明した。日本の公安調査庁は「テロ組織」と呼んでいる[2]。
歴史
前史
1969年に結成された共産主義者同盟赤軍派は「前段階武装蜂起論」を主張したが、大菩薩峠事件等での大量逮捕を受けて「海外にも運動拠点と同盟軍を持つ必要がある」との「国際根拠地論」を唱え、獄外グループの一部はよど号ハイジャック事件をおこして出国した。
一方で中東のパレスチナではイスラエルの占領に反対するパレスチナ解放機構などの武装闘争が続いており、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は1968年のエル・アル航空426便ハイジャック事件、1970年のPFLP旅客機同時ハイジャック事件などをおこした。
結成
1971年2月26日に、赤軍派の重信房子や元「京都パルチザン」の奥平剛士らは、赤軍派の「国際根拠地論」に基づき偽装結婚してパレスチナへ赴き、PFLPへの国際義勇兵として参加した。当時は独立した組織との認識は共有されておらず、自称も「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等であった。(「日本赤軍」を正式名称としたのは1974年以降。)
活動活発化
当初はレバノンのベッカー高原を主な根拠地に軍事訓練を含む活動を行った。また足立正生・若松孝二ら映画製作者をパレスチナに招き、映画『赤軍-PFLP世界戦争宣言』の製作に協力した。
1972年2月の連合赤軍によるあさま山荘事件では、『赤軍派の同志諸君ならびに連合赤軍の同志諸君そして友人たちへ』を発表し、共産同赤軍派からの訣別と、独自の立場での革命運動展開を宣言した。
1972年5月30日のテルアビブ空港乱射事件では、イスラエルのロッド空港(現ベン・グリオン国際空港)で搭乗客や駐機中の旅客機を対象にした無差別乱射を行い、一般市民を中心に100人以上の死傷者を出した(支持者側の呼称は現地読みで「リッダ空港闘争」)。この事件はPFLP主導の作戦で日本人メンバーは義勇兵参加であったが、「日本の赤軍派」(Japanese Red-Army)、後には「日本赤軍」とも報道され、中東・欧米・日本などで注目された。特に反イスラエル感情が強いアラブ諸国で「日本赤軍」は「英雄視」され、過激派が日本赤軍の自爆テロを模倣するようになったと自称している[3][4](ただし「日本赤軍」との自称は1974年以降であり、また和光晴生は「リッダ闘争」実施は京大パルチザンと主張している[5])。
1970年代から1980年代にかけて、上記のテルアビブ空港乱射事件を含めた多数の日本赤軍事件を起こした。
初期の活動はPFLPの分派組織であり、海外ゲリラ部門の「パレスチナ解放人民戦線・外部司令部」(PFLP-EO)に指導される形であったが、1974年以降はその指導下を離れ、重信房子と丸岡修を中心として独自の闘いを模索、「アラブ赤軍」などの通称で知られたこの組織が正式に「日本赤軍」を名乗るようになった[6]。
活動の先細り
1981年のヤーセル・アラファートPLO議長訪日に際し、後藤田正晴が日本に対する日本赤軍によるハイジャックをやめさせるよう申し入れ、PLO東京事務所の所長から「絶対にやらせません」と回答を得ている[7]。
その後も1980年代中盤にかけて、いくつかの武装ゲリラ活動をアジア諸国やヨーロッパ諸国を舞台に引き起こした他、「三井物産マニラ支店長誘拐事件」などにおいて他の武装組織への協力を行ったが、アラブ諸国政府からの支援減少、欧米各国、イスラエル、日本などの西側諸国の対テロ対策や資金規正の厳重化などにより、活動は先細りとなっていった。
1984年7月に『大地に耳をつければ日本の音がする - 日本共産主義運動の教訓』、1993年5月に『日本赤軍 - 20年の軌跡』を刊行した。
1980年代後半以降には、新規の支持者や支援者の獲得困難、またイスラエルや西側諸国と対立していた政府や各国の反政府組織からの資金協力や活動提携がほぼ完全に途絶えたこともあり、1990年代に入ると「日本赤軍」としての活動はほとんど行えない状況となった。
壊滅
さらに1980年代後半から1990年代後半にかけて、逃亡を続けていた丸岡修や和光晴生等の中心メンバーが相次いで逮捕され、組織は完全に壊滅状態に追い込まれた。
- 1987年11月:東京都内で潜伏していた丸岡修が逮捕された。
- 1995年3月:ルーマニアに潜伏中の浴田由紀子が発見され、国外退去処分となり逮捕された。 日系ペルー人を装いペルーの偽造旅券を所持していた。
- 1996年6月:ペルーに潜伏中の吉村和江が発見され、国外退去処分となり逮捕された。
- 1996年9月:ネパールに潜伏中の城崎勉が発見され拘束された。
- 1997年2月:レバノンに潜伏中の和光晴生、足立正生、山本万里子、戸平和夫、岡本公三が発見され拘束された。戸平が所持していたのは北朝鮮とよど号グループによって拉致されたとされる石岡亨名義の偽造旅券であった。岡本を除く4人は日本へと送還された。
- 1997年11月:ボリビアに潜伏中の西川純が発見され逮捕された。
2000年11月には「最高指導者」の重信房子も、潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で大阪府警警備部公安第三課によって逮捕された。その際に、押収された資料により1991年から日本での武力革命を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立していたこと、またそれを足がかりとして社会民主党(旧日本社会党)との連携を計画していたことが判明したと新聞等で報じられた。
「希望の21世紀」は同事件に関連し警視庁と大阪府警の家宅捜索を受けたが、日本赤軍との関係を否定している。社会民主党区議自宅なども「希望の21世紀」の関連先として同時に捜索を受けたが、社会民主党は「何も知らなかったが事実関係を調査する」として関係があったことを否定した。
解散
2001年4月に重信は獄中から「日本赤軍としての解散宣言」を行い、正式に解散した。一方でその直後に坂東國男と大道寺あや子は「日本赤軍解散宣言無効宣言」を発表した。
国内支援団体の後継組織として「ムーブメント連帯」が設立され、現在も設立当時からの支持者などを中心に少数の支持者がいるとみられている。
解散後
重信房子は産経新聞のインタビューで「世界を変えるといい気になっていた。多くの人に迷惑をかけていることに気づいていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」と自己批判している(但し、テルアビブ空港乱射事件など殺人事件への見解は変えていない)。
ハーグ事件等に関与し1979年に日本赤軍を脱退した和光晴生は、2005年に元メンバーの山本万里子がさきイカを万引きして逮捕されたニュースを受けて、「この件は日本赤軍の実態・実状を示したものであり、かつてヨーロッパで商社員誘拐未遂だとか、大使館占拠や飛行機乗っ取り等を実行してきた組織には、反社会的・反人民的性格があった」と述懐、自己の過去を含め批判した[8]。その後も日本赤軍の過去の内情に批判的な著作を出している[9]。
毎年、5月30日には「リッダ闘争」(テルアビブ空港乱射事件の日本赤軍側の呼称。パレスチナ側は「Ledd空港作戦」と呼称しているという[10])を記念する会合が日本とレバノンで行われており、重信房子も賛同メッセージ及びイスラエルなどへの徹底抗戦の檄文を送っている[11][12]。
主なメンバー
氏名 | 立場 | 参加 | 出身 | 主な日本赤軍事件 | 判決とその後 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テ ル ア ビ ブ 空 港 乱 射 事 件 |
ド バ イ 日 航 機 ハ イ ジ ャ ッ ク 事 件 |
ハ | グ 事 件 |
ク ア ラ ル ン プ | ル 事 件 |
ダ ッ カ 日 航 機 ハ イ ジ ャ ッ ク 事 件 |
ジ ャ カ ル タ 事 件 | |||||
重信房子 | 最高幹部 政治委員 |
1971年 | 赤軍派 | ○ | 懲役20年(服役中) | |||||
奥平剛士 | 最高幹部 軍事委員 |
1971年 | 京大パルチザン | ○ | テルアビブで死亡 | |||||
丸岡修 | 軍事委員 | 1972年 | 浪共闘及びベ平連 | ○ | ○ | ○ | 無期懲役(死亡) | |||
和光晴生 | 軍事委員 | 1973年 | 若松プロダクション社員 | ○ | ○ | 無期懲役(服役中) | ||||
奥平純三 | 軍事委員 | 1974年 | 京大パルチザン | ○ | ○ | 国外逃亡(国際手配)中 | ||||
安田安之 | 1971年 | 京大パルチザン | ○ | テルアビブで死亡 | ||||||
岡本公三 | 1972年 | ○ | 国外逃亡(国際手配)中 | |||||||
西川純 | 軍事委員 | 1973年 | ○ | ○ | 無期懲役(服役中) | |||||
日高敏彦 | 軍事委員 | 1971年 | ○ | ヨルダンで逮捕後、自殺 | ||||||
坂東國男 | 1975年 | 連合赤軍 | ○ | 国外逃亡(国際手配)中 | ||||||
佐々木規夫 | 1975年 | 東アジア反日武装戦線 | ○ | 国外逃亡(国際手配)中 | ||||||
大道寺あや子 | 1977年 | 東アジア反日武装戦線 | 国外逃亡(国際手配)中 | |||||||
浴田由紀子 | 1977年 | 東アジア反日武装戦線 | 懲役20年(2017年3月釈放) | |||||||
泉水博 | 1977年 | 統一獄中者組合 | 無期懲役(服役中) | |||||||
仁平映 | 1977年 | 統一獄中者組合 | 国外逃亡(国際手配)中 | |||||||
城崎勉 | 1977年 | 赤軍派 | ○ | アメリカ合衆国で懲役30年。2015年、刑期短縮により釈放。強制退去処分となり、日本到着後に逮捕。殺人未遂罪・現住建造物等放火容疑で懲役12年(本人は日本赤軍メンバーであることを否定)。 | ||||||
松田久 | 1975年 | 赤軍派 | 国外逃亡(国際手配)中 | |||||||
山田修 | 1971年 | 京大パルチザン | 1972年、訓練中に死亡 | |||||||
檜森孝雄 | 国内でオルグなどの後方支援活動 | 1971年 | 京大パルチザン | 2002年、焼身自殺 | ||||||
足立正生 | 政治委員 | 1974年 | 映画監督 (若松プロダクション所属) |
懲役 2年・執行猶予4年 | ||||||
戸平和夫 | 軍事委員 | 赤軍派 | 懲役 | 2年6ヶ月(2003年5月満期出所)|||||||
山田義昭 | 軍事委員 | 1973年 | 1986年2月出頭、懲役1年4ヶ月 | |||||||
山本万里子 | 日系百貨店のパリ支店に勤務しながら、高橋武智らとともに欧州内での協力者として日系商社員誘拐計画に関与し、連絡役を担っていた[13] | 懲役 | 2年6ヶ月・執行猶予5年。||||||||
吉村和江 | 政治委員 | 1971年 | 労働者共産主義委員会(怒涛派) | ○ | 懲役ペルーで逮捕・送還。 | 2年6ヶ月・執行猶予4年、被拘禁者奪取罪。国際手配され、|||||
菊村憂 | 正式メンバーか不明 | 1988年、アメリカ合衆国で爆発物所持で逮捕。19年服役後の2007年、日本に強制送還。偽造有印公文書行使容疑で懲役2年・執行猶予4年。 |
日本赤軍が登場する作品
映画
実際に起きた出来事をベースにしたもの
- 『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』- 1971年、著名な支援者である若松孝二と後にメンバーとなる足立正生によるドキュメンタリー作品。若松と赤軍派シンパの若者たちによって全国で真っ赤に塗ったマイクロバス「赤バス隊」と呼ばれる上映運を展開した。初期の赤バス隊には後に連合赤軍の山岳ベース事件で虐殺された遠山美枝子がおり[14]、若松の下で撮影助手をしていた和光晴生は赤バス隊の常駐メンバーであり、鹿児島大学での上映会に見に来て、映画に共鳴、赤バス隊に参加したのが岡本公三だった[15]。
- 『幽閉者 テロリスト』 - 2007年、構成員だった足立正生の強制送還後初の監督作品。岡本公三を描く。
- 『コードネーム:カルロス 戦慄のテロリスト』(テレビ映画)- 2010年、フランス製作、オリヴィエ・アサヤス監督作品。ハーグ事件を詳細に描いている。
- 『カルロス』(映画)- 2010年、フランス製作 上記TVシリーズの劇場公開版。
- 『革命の子どもたち』 - 2011年、イギリス、重信の娘重信メイとドイツ赤軍のリーダーウルリケ・マインホフの娘を描いたドキュメンタリー
- 『重信房子、メイと足立正生のアナバシス そしてイメージのない27年間』- 2011年、フランス、足立正生に多大な影響を受けたフランス人映像作家エリック・ボードレールによる映像アンソロジー。
他、ダッカ事件、重信房子、岡本公三に関するテレビドキュメンタリー番組多数。
フィクション
- 『レスリー・チャン 嵐の青春』- 1982年の香港映画。日本赤軍から逃亡した元テロリストとその追手という日本人が登場する。日本赤軍という名前で出てくるが些か連合赤軍との混合が見られる。
- 『マギー・チャンのドッカン爆弾娘』- 1985年の香港映画。自家製爆弾を買おうとする相手として登場する。
- 『十福星』- 1986年の香港映画。香港で武器売買する組織として、メインの悪役として登場する。
- 『香港・東京特捜刑事』- 1988年の香港映画。東京から香港に逃亡した宝石店強盗として登場。
小説
- 『戒厳令1988年ソウル 国際情報小説』- 落合信彦の小説。(1986年 光文社)
- 『ケネディ空港着陸不能』 - ウォルター・ウェイジャーの小説。ジョン・F・ケネディ国際空港を襲撃するテロリストに日本赤軍の残党が加わっている。1990年のアメリカ映画『ダイ・ハード2』の原作。(1987年 二見文庫)
- 『核ジャック1988』- 豊田有恒の小説。((1988年 集英社)
- 『核ジャッカー追跡』-(『核ジャック1988』を改題。1994年 ケイブンシャ文庫)
- 『デッドリー・フライト96―LA空港奪回作戦』- 毛利元貞の小説。コロンビアの麻薬カルテルに依頼され、日本赤軍メンバーがロサンゼルス空港でハイジャック事件を起こす。(1995年 ワニ・ノベルス)
- 『エウスカディ』- 馳星周の小説。(2010年 角川書店【上・下】)
- 『殉狂者』(『エウスカディ』を改題。2014年 角川文庫【上・下】)
関連項目
- 共産主義者同盟赤軍派 - よど号グループ - 連合赤軍 - ムーブメント連帯
- ドイツ赤軍 - 赤い旅団 - パレスチナ国 - パレスチナ解放人民戦線(PFLP)- 革命細胞 - カルロス
- ブラックパンサー党 - ウェザーマン
- 新人民軍
- 人民新聞
- 若松プロダクション - 佐々木守 - 松田政男
- ベトナムに平和を!市民連合 - 高橋武智
- 話の特集 - 矢崎泰久 - 中山千夏
- 救援連絡センター - 統一獄中者組合 - 東アジア反日武装戦線
- 公安警察 - 警察庁警備局公安課 - 警察庁警備局国際テロリズム対策課 - 警視庁公安部
- 公安調査庁
- 内閣情報調査室
脚注
- ^ 日本赤軍 - 公安調査庁
- ^ 日本赤軍 - 公安調査庁
- ^ 立花隆『イラク戦争・日本の運命・小泉の運命』講談社、2004
- ^ フランソワ=ベルナール・ユイグ『テロリズムの歴史』創元社、2013
- ^ 和光晴生『日本赤軍とは何だったのか―その草創期をめぐって』彩流社、2010
- ^ 和光晴生「日本赤軍とは何だったのか――その草創期をめぐって――(第二回)」 (抄) 月刊 情況 2009年04月旧「ベ平連」運動の情報ページ
- ^ 後藤田正晴 (1991). 支える動かす. 日本経済新聞. pp. 132-133
- ^ 和光晴生. “支援連ニュースNo.268「和光裁判は一審結審です」”. 東アジア反日武装戦線に関する よもやま情報のホームページ. 2012年2月23日閲覧。
- ^ 『日本赤軍とは何だったのか―その草創期をめぐって』彩流社
- ^ 城崎勉さんからの通信
- ^ 檜森や丸岡らメンバーの命日にも同様のアピールが行われている
- ^ 日本赤軍公安調査庁
- ^ 和光晴生「日本赤軍とは何だったのか――その草創期をめぐって――(第二回)」月刊 情況 2009年04月号
- ^ 実録・トークショーレポ 早稲田松竹、2011年2月5日
- ^ 「若松孝二と赤軍レッド・アーミー 」原渕勝仁著、世界書院、2016年7月、p123
関連書籍
- 足立正生『塀の中の千夜一夜 アラブ獄中記』愛育社、2005年9月、ISBN 4750002321
- 石井一『ダッカハイジャック事件 日本赤軍との闘い』講談社、1978年5月、[1]
- 河出書房新社(編)『赤軍 1969→2001 総特集』河出書房新社、2001年1月、ISBN 4309976018
- 今野正義『槐夢 「赤軍」誕生から終焉までの軌跡 ドキュメント』碧天舎、2004年1月、ISBN 4883464571
- 塩見孝也『赤軍派始末記 元議長が語る40年』彩流社、2003年3月、ISBN 4882027984
- 世界革命戦線情報センター、査証編集委員会(共編)『隊伍を整えよ 日本赤軍宣言』 査証出版、1975年
- 高木規矩郎『日本赤軍を追え 「ドキュメント」中東記者15年の取材ノート』現代評論社、1986年2月、[2]
- 日本赤軍(編著)『日本赤軍20年の軌跡』話の特集、1993年5月、ISBN 4826401302
- 松下竜一『怒りていう、逃亡には非ず 日本赤軍コマンド泉水博の流転』河出書房新社、1993年12月、ISBN 4309008739、河出文庫: 1996年2月、ISBN 4309404723、松下竜一その仕事刊行委員会版: 河出書房新社、2000年9月、ISBN 4309620736
- 和光晴生『赤い春―私はパレスチナ・コマンドだった』集英社インターナショナル 2007年10月 ISBN 4797671688
- 重信房子『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社 2009年7月 ISBN 978-4309244662
- 和光晴生『日本赤軍とは何だったのか―その草創期をめぐって』彩流社 2010年5月 ISBN 978-4779114786
- 小嵐九八郎編 『日本赤軍!世界を疾走した群像』図書新聞 2010年9月 ISBN 978-4886114365
- 佐々淳行 『ザ・ハイジャック 日本赤軍とのわが「七年戦争」』文藝春秋 2010年11月 ISBN 978-4163733203
- 原渕勝仁 『若松孝二と赤軍レッド・アーミー』 世界書院 2016年7月 ISBN 4792795702