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1989年にリーベルで選手生活を終えた後、すぐに同クラブの監督に就任し指導者としてのキャリアをスタートさせた。[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ・ディビシオン]]で3度の優勝を果たし、1994年には[[アルフィオ・バシーレ]]監督の後任として[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]監督に就任。親友の[[アメリコ・ガジェゴ]]をアシスタントコーチに据えると、[[1998 FIFAワールドカップ・南米予選]]でチームを率いて本大会出場を決め、フランスで開催された[[1998 FIFAワールドカップ]]本大会でも采配を振るった。パサレラは代表選手に長髪・イヤリング・同性愛を禁止し、何人かの選手とは論争となった。[[フェルナンド・レドンド]]や[[クラウディオ・カニーヒア]]などはパサレラのチームでプレーすることを拒否し、彼らはメンバーから除外された<ref>[http://www.thefreelibrary.com/Football:+RED+ALERT;+Two-year+agony+over+as+Milan+ace+roars+back.-a096371653 RED ALERT; Two-year agony over as Milan ace roars back.]The Free Library.com </ref>。またかつて自身が監督をした時に指導したリーベル、元リーベルの選手を多く代表で起用した。アルゼンチン代表は期待されたほどのプレーを見せられず、準々決勝で[[サッカーオランダ代表|オランダ]]に1-2で敗れてベスト8に終わった。大会終了後に代表監督を退任し、[[マルセロ・ビエルサ]]が後任監督に就任した。
1989年にリーベルで選手生活を終えた後、すぐに同クラブの監督に就任し指導者としてのキャリアをスタートさせた。[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ・ディビシオン]]で3度の優勝を果たし、1994年には[[アルフィオ・バシーレ]]監督の後任として[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]監督に就任。親友の[[アメリコ・ガジェゴ]]をアシスタントコーチに据えると、[[1998 FIFAワールドカップ・南米予選]]でチームを率いて本大会出場を決め、フランスで開催された[[1998 FIFAワールドカップ]]本大会でも采配を振るった。パサレラは代表選手に長髪・イヤリング・同性愛を禁止し、何人かの選手とは論争となった。[[フェルナンド・レドンド]]や[[クラウディオ・カニーヒア]]などはパサレラのチームでプレーすることを拒否し、彼らはメンバーから除外された<ref>[http://www.thefreelibrary.com/Football:+RED+ALERT;+Two-year+agony+over+as+Milan+ace+roars+back.-a096371653 RED ALERT; Two-year agony over as Milan ace roars back.]The Free Library.com </ref>。またかつて自身が監督をした時に指導したリーベル、元リーベルの選手を多く代表で起用した。アルゼンチン代表は期待されたほどのプレーを見せられず、準々決勝で[[サッカーオランダ代表|オランダ]]に1-2で敗れてベスト8に終わった。大会終了後に代表監督を退任し、[[マルセロ・ビエルサ]]が後任監督に就任した。


1999年に[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表]]監督に就任したが、ウルグアイ国内のクラブからの選手招集に関して問題を抱え、[[2002 FIFAワールドカップ・南米予選]]の最中に職を離れた。2001年には短期間だけセリエAの[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマ]]の監督を務めた。2002年にはメキシコの[[CFモンテレイ|モンテレイ]]監督に就任して、2003年に[[プリメーラ・ディビシオン (メキシコ)|プリメーラ・ディビシオン]]覇者となった。
1999年に[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表]]監督に就任したが、ウルグアイ国内のクラブからの選手招集に関して問題を抱え、[[2002 FIFAワールドカップ・南米予選]]の最中に職を離れた。2001年には短期間だけセリエAの[[パルマ・カルチョ1913|パルマ]]の監督を務めた。2002年にはメキシコの[[CFモンテレイ|モンテレイ]]監督に就任して、2003年に[[プリメーラ・ディビシオン (メキシコ)|プリメーラ・ディビシオン]]覇者となった。


2004年3月、[[ペレ]]によって[[FIFA 100]]に選出された。2005年には大型補強による改革を進めるブラジルの[[SCコリンチャンス・パウリスタ|コリンチャンス]]監督となったが、わずか数ヶ月指揮を執っただけで、成績不振を理由に解任された。2006年1月9日、[[レイナルド・メルロ]]監督の突然の辞任によって空白となっていた古巣・リーベル・プレートの監督に12年ぶりに就任した。しかし、チームは思うような成績をあげられず、2007年11月15日、[[コパ・スダメリカーナ]]準決勝で[[アルセナルFC|アルセナル]]にPK戦の末に敗れると、その翌日に監督を辞任した。約2年の監督在任中、リーベルはひとつもタイトルを獲得することが出来なかった。
2004年3月、[[ペレ]]によって[[FIFA 100]]に選出された。2005年には大型補強による改革を進めるブラジルの[[SCコリンチャンス・パウリスタ|コリンチャンス]]監督となったが、わずか数ヶ月指揮を執っただけで、成績不振を理由に解任された。2006年1月9日、[[レイナルド・メルロ]]監督の突然の辞任によって空白となっていた古巣・リーベル・プレートの監督に12年ぶりに就任した。しかし、チームは思うような成績をあげられず、2007年11月15日、[[コパ・スダメリカーナ]]準決勝で[[アルセナルFC|アルセナル]]にPK戦の末に敗れると、その翌日に監督を辞任した。約2年の監督在任中、リーベルはひとつもタイトルを獲得することが出来なかった。

2020年2月4日 (火) 11:51時点における版

ダニエル・パサレラ
ファイル:Passarella world cup.jpg
名前
本名 ダニエル・アルベルト・パサレラ
Daniel Alberto Passarella 
愛称 El Guerrero (戦士)
El Gran Capitán (偉大なキャプテン)
El Kaiser (皇帝)
ラテン文字 Daniel PASSARELLA 
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1953-05-25) 1953年5月25日(71歳)
出身地 チャカブコスペイン語版
身長 174cm
体重 71kg
選手情報
ポジション DF
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1971-1973 アルゼンチンの旗 サルミエント 36 (9)
1974-1982 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 226 (90)
1982-1986 イタリアの旗 フィオレンティーナ 109 (26)
1986-1988 イタリアの旗 インテル・ミラノ 44 (9)
1988-1989 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 32 (9)
代表歴2
1974-1986 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 70 (22)
監督歴
1989-1994 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート
1994-1998 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
1999-2001 ウルグアイの旗 ウルグアイ
2001 イタリアの旗 パルマ
2002-2004 メキシコの旗 モンテレイ
2005 ブラジルの旗 コリンチャンス
2006-2007 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート
1. 国内リーグ戦に限る。2015年4月17日現在。
2. 2015年4月17日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ダニエル・パサレラDaniel Passarella, 1953年5月25日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス州出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。アルゼンチン代表であった。選手時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。現CAリーベル・プレート会長。

選手としてはリーベル・プレートインテルに所属し、アルゼンチン代表としてはキャプテンとして1978 FIFAワールドカップに出場して優勝した。指導者としてはアルゼンチン代表ウルグアイ代表の指揮を執り、アルゼンチンを率いた1998 FIFAワールドカップではベスト8となった。2009年12月に古巣リーベルの会長に就任した。

アルゼンチンの独立運動の英雄であるホセ・デ・サン=マルティンと同様にエル・グラン・カピタン(El Gran Capitán、偉大なキャプテン)と呼ばれるほか、そのリーダーシップ・熱情・勇敢さからフランツ・ベッケンバウアーと同様にエル・カイセール(El Kaiser、皇帝)と呼ばれることもある。

攻撃参加が持ち味のディフェンダーとして知られ、攻撃の組み立てやフィニッシュに貢献した。通算451試合に出場して134得点を記録しており、国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) によれば、元オランダ代表ロナルド・クーマンに次いで2番目に得点数の多いディフェンダーである[1]。パサレラの空中戦の強さは守備でも攻撃でも効果的であり、身長は高くない (173cm) が、頻繁にヘディングでゴールを決めた。優れたフリーキッカーであり、またPKも得意とした。審判から見られずに肘を使うプレーも特筆できる。

経歴

選手時代

クラブ

ブエノスアイレス州のフニン地区に本拠地を置くサルミエントスペイン語版でキャリアをスタートさせ、リーベル・プレートで6度のプリメーラ・ディビシオン優勝を果たした後にイタリアに渡った。1982年から1986年までフィオレンティーナに在籍し、インテルにも短期間在籍した。セリエAで成功を収めた後にリーベルに復帰し、1989年に現役引退した。

代表

1978年には地元アルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップに出場し、24歳でキャプテンを務めてアルゼンチンの初優勝に貢献した。決勝でオランダに勝利して優勝を決めた際には、アルゼンチンの選手で最初にFIFAワールドカップトロフィーを頭上に掲げた。

1986 FIFAワールドカップ・南米予選ペルー戦では、ロスタイムに本大会出場を決定づける得点を挙げた。全腸炎のために1986 FIFAワールドカップ本大会には出場できず、ホセ・ルイス・ブラウンがパサレラの代わりに出場した。中心選手であったディエゴ・マラドーナおよびカルロス・ビラルド監督とそりが合わなかったとも言われており、パサレラは後に、この2人が自分を欠場させたと主張している。

指導者時代

1989年にリーベルで選手生活を終えた後、すぐに同クラブの監督に就任し指導者としてのキャリアをスタートさせた。プリメーラ・ディビシオンで3度の優勝を果たし、1994年にはアルフィオ・バシーレ監督の後任としてアルゼンチン代表監督に就任。親友のアメリコ・ガジェゴをアシスタントコーチに据えると、1998 FIFAワールドカップ・南米予選でチームを率いて本大会出場を決め、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップ本大会でも采配を振るった。パサレラは代表選手に長髪・イヤリング・同性愛を禁止し、何人かの選手とは論争となった。フェルナンド・レドンドクラウディオ・カニーヒアなどはパサレラのチームでプレーすることを拒否し、彼らはメンバーから除外された[2]。またかつて自身が監督をした時に指導したリーベル、元リーベルの選手を多く代表で起用した。アルゼンチン代表は期待されたほどのプレーを見せられず、準々決勝でオランダに1-2で敗れてベスト8に終わった。大会終了後に代表監督を退任し、マルセロ・ビエルサが後任監督に就任した。

1999年にウルグアイ代表監督に就任したが、ウルグアイ国内のクラブからの選手招集に関して問題を抱え、2002 FIFAワールドカップ・南米予選の最中に職を離れた。2001年には短期間だけセリエAのパルマの監督を務めた。2002年にはメキシコのモンテレイ監督に就任して、2003年にプリメーラ・ディビシオン覇者となった。

2004年3月、ペレによってFIFA 100に選出された。2005年には大型補強による改革を進めるブラジルのコリンチャンス監督となったが、わずか数ヶ月指揮を執っただけで、成績不振を理由に解任された。2006年1月9日、レイナルド・メルロ監督の突然の辞任によって空白となっていた古巣・リーベル・プレートの監督に12年ぶりに就任した。しかし、チームは思うような成績をあげられず、2007年11月15日、コパ・スダメリカーナ準決勝でアルセナルにPK戦の末に敗れると、その翌日に監督を辞任した。約2年の監督在任中、リーベルはひとつもタイトルを獲得することが出来なかった。

個人成績

クラブ成績 リーグ カップ リーグ杯国際大会 通算
シーズンクラブリーグ 出場得点出場得点 出場得点 出場得点 出場得点
アルゼンチン リーグカップ リーグ杯 南米 通算
1974 リーベル・プレート プリメーラ 22 5
1975 29 9
1976 35 24
1977 40 13
1978 19 4
1979 38 9
1980 41 12
1981 42 14
イタリア リーグイタリア杯 リーグ杯 ヨーロッパ 通算
1982-83 フィオレンティーナ セリエA 27 3 5 0 - - 2 0 34 3
1983-84 27 7
1984-85 26 5
1985-86 29 11
1986-87 インテル 23 3 8 4 - - 7 1 38 8
1987-88 21 6 8 1 - - 6 0 35 7
アルゼンチン リーグカップ リーグ杯 南米 通算
1988-89 リーベル・プレート プリメーラ 32 9
通算 アルゼンチン 298 99
イタリア 153 35
総通算 451 134

タイトル

選手

リーベル・プレート
アルゼンチン代表

指導者

リーベル・プレート
モンテレイ

個人

脚注

外部リンク