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「フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)」の版間の差分

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|画像 = Frederick John Robinson, 1st Earl of Ripon by Sir Thomas Lawrence cropped.jpg
|画像 = Frederick John Robinson, 1st Earl of Ripon by Sir Thomas Lawrence cropped.jpg
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|画像説明 = [[トーマス・ローレンス (画家)|トマス・ローレンス]]画の初代リポン伯
|画像説明 = [[トーマス・ローレンス (画家)|トマス・ローレンス]]画の初代リポン伯爵、1824年頃。
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|就任日3 = [[1806年]][[11月13日]] - [[1807年]][[5月26日]]<br />[[1807年]][[5月9日]]
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|退任日3 = [[1827年]][[12月31日]]<ref name="hansard">{{Cite web |url=http://hansard.millbanksystems.com/people/mr-frederick-robinson/ |title=Mr Frederick Robinson |accessdate= 2014-03-22 |author= [[イギリス議会|UK Parliament]] |work= [http://hansard.millbanksystems.com/index.html HANSARD 1803–2005] |language= 英語 }}</ref>
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|選挙区3 = {{仮リンク|カーロウ・バラ選挙区|en|Carlow Borough (UK Parliament constituency)}}<br />{{仮リンク|リポン選挙区|en|Ripon (UK Parliament constituency)}}<ref name="hansard" />
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|国旗4 = UK
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|職名4 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員
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|退任日4 = [[1859年]][[1月28日]]<ref name="hansard" />
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}}
初代[[リポン伯爵]]・初代[[ゴドリッチ子爵]]'''フレデリック・ジョン・ロビンソン'''({{lang-en-short|Frederick John Robinson, 1st Earl of Ripon, 1st Viscount Goderich}}, {{Post-nominals|country=GBR|PC|PCi}}、[[1782年]][[11月1日]] - [[1859年]][[1月28日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[貴族]]。
初代[[リポン伯爵]]・初代[[ゴドリッチ子爵]]'''フレデリック・ジョン・ロビンソン'''({{lang-en|Frederick John Robinson, 1st Earl of Ripon, 1st Viscount Goderich}}, {{Post-nominals|country=GBR|PC|PCi|FRS}} {{IPA-en|ˈɡəʊdrɪtʃ}}<ref>{{Cite web2|language=en|website=Collins English Dictionary|title=Goderich|url=https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/goderich|access-date=1 June 2020}}</ref>、[[1782年]][[11月1日]] - [[1859年]][[1月28日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[貴族]]。


[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]内の[[自由主義]]派として知られ、[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]](在職:[[1823]] - [[1827年]])として[[自由貿易]]を推進した後、[[イギリスの首相|首相]](在職:1827年-[[1828年]])を務めたが、閣内分裂や国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]との対立により短期間で総辞職に追い込まれた。その後も[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]、[[ダービー派]]、[[保守党 (イギリス)|保守党]]、[[ピール派]]と党派を渡り歩きながら閣僚職を歴任した。
[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]内の[[自由主義]]派として知られ、[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]](在職:1823年 - 1827年)として[[自由貿易]]を推進した後、[[イギリスの首相|首相]](在職:1827年 - 1828年)を務めたが、閣内分裂や国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]との対立により短期間で総辞職に追い込まれた。その後も[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]、[[ダービー派]]、[[保守党 (イギリス)|保守党]]、[[ピール派]]と党派を渡り歩きながら閣僚職を歴任した。


[[1827年]]にゴドリッチ子爵位、[[1833年]]にリポン伯爵位を授爵された。首相を務めていた時期の爵位はゴドリッチ子爵であった。
1827年にゴドリッチ子爵位、1833年にリポン伯爵位を授爵された。首相を務めていた時期の爵位はゴドリッチ子爵であった。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[File:NewbyHall(LynneGlazzard)Sep2003.jpg|thumb|left|[[ニュービー・ホール]]]]
[[File:NewbyHall(LynneGlazzard)Sep2003.jpg|thumb|left|[[ニュービー・ホール]]]]
[[1782年]][[11月1日]]、第2代[[グランサム男爵]][[トマス・ロビンソン (第2代グランサム男爵)|トマス・ロビンソン]]とその妻メアリー(第2代ハードウィック伯爵[[フィリップ・ヨーク (第2代ハードウィック伯爵)|フィリップ・ヨーク]])の次男として[[ヨークシャー]]の{{仮リンク|ニュービー・ホール|en|Newby Hall}}に生まれる<ref name=dnb>{{Cite web |url= http://www.oxforddnb.com/view/printable/23836 |title= Robinson, Frederick John, first Viscount Goderich and first earl of Ripon (1782–1859) |accessdate= 2014-03-23 |last= Jupp|first= P. J.l |work= [http://www.oxforddnb.com/public/index.html Oxford Dictionary of National Biography] |language= 英語 }}</ref>。
1782年11月1日、第2代[[グランサム男爵]][[トマス・ロビンソン (第2代グランサム男爵)|トマス・ロビンソン]]とその妻メアリー(第2代ハードウィック伯爵[[フィリップ・ヨーク (第2代ハードウィック伯爵)|フィリップ・ヨーク]]の娘)の次男として[[ヨークシャー]]の{{仮リンク|ニュービー・ホール|en|Newby Hall}}に生まれる<ref name="ODNB">{{Cite ODNB|id=23836|title= Robinson, Frederick John, first Viscount Goderich and first earl of Ripon (1782–1859) |last= Jupp|first= P. J. }}</ref>。


[[1796年]]から[[パブリックスクール]]の[[ハーロー校]]、[[1799年]]から[[ケンブリッジ大学]]{{仮リンク|セント・ジョンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|label=セント・ジョンズ・カレッジ|en|St John's College, Cambridge}}、[[1802年]]から[[1809年]]まで[[リンーン法曹院]]に在した<ref name=dnb/><ref name="Acad">{{Acad |id = RBN799FJ |name = Robinson, the Hon., Frederick John. }}</ref>。
1796年から1799年まで[[パブリックスクール]]の[[ハーロー校]]で教育を受けた後<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1820-1832/member/robinson-hon-frederick-john-1782-1859|title=ROBINSON, Hon. Frederick John (1782-1859), of Nocton Hall, Lincs.|last=Stokes|first=Winifred|last2=Thorne|first2=R. G.|access-date=1 June 2020}}</ref>、1799年6月1日に[[ケンブリッジ大学]]{{仮リンク|セント・ジョンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|label=セント・ジョンズ・カレッジ|en|St John's College, Cambridge}}に入学、1802年に{{仮リンク|マスタ・オブ・アーツ (オックスフォード、ケブリッジ、ダブリン大)|en|Master of Arts (Oxford, Cambridge, and Dublin)|label=M.A.}}の学位を修得した<ref name="Acad">{{Acad |id = RBN799FJ |name = Robinson, the Hon., Frederick John. }}</ref>。1802年5月7日に[[リンカーン法曹院]]に入学したが、1809年11月16日に中退し、弁護士資格免許は取得しなかった<ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=Robinson, Frederick John|volume=49|pages=7–11|last=Barker|first=George Fisher Russell}}</ref>。


=== 政界入り ===
[[1806年]]11月に{{仮リンク|カーロウ・バラ選挙区|en|Carlow Borough (UK Parliament constituency)}}から選出されて[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員となる。[[1807年]]以降は{{仮リンク|リポン選挙区|en|Ripon (UK Parliament constituency)}}から選出される<ref name="hansard" />。
母方の祖父[[フィリップ・ヨーク (第2代ハードウィック伯爵)|フィリップ]]の弟[[チャールズ・ヨーク|チャールズ]]の息子にあたる{{仮リンク|フィリップ・ヨーク (第3代ハードウィック伯爵)|en|Philip Yorke, 3rd Earl of Hardwicke|label=第3代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨーク}}<ref>{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Hardwicke, Earl of (GB, 1754)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/hardwicke1754.htm|date=26 January 2008|access-date=1 June 2020}}</ref>が[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]を務めたとき、ロビンソンは1804年から1806年までハードウィック伯爵の秘書官を務めた<ref name="DNB" />。ハードウィック伯爵は1806年1月には異母弟{{仮リンク|チャールズ・フィリップ・ヨーク|en|Charles Philip Yorke}}に対し、ロビンソンのために庶民院の議席を探すべきだと述べたが、{{仮リンク|スライゴ・バラ選挙区 (連合王国議会)|en|Sligo Borough (UK Parliament constituency)|label=スライゴ・バラ選挙区}}の議席確保に失敗、結局ハードウィック伯爵は{{仮リンク|チャールズ・ベリー (初代チャールヴィル伯爵)|en|Charles Bury, 1st Earl of Charleville|label=初代チャールヴィル伯爵チャールズ・ベリー}}から{{仮リンク|カーロウ・バラ選挙区 (連合王国議会)|en|Carlow Borough (UK Parliament constituency)|label=カーロウ・バラ選挙区}}の議席を購入、ロビンソンは[[1806年イギリス総選挙]]で同選挙区から出馬して当選した{{Refnest|group=注釈|{{仮リンク|カーロウ・バラ選挙区 (連合王国議会)|en|Carlow Borough (UK Parliament constituency)|label=カーロウ・バラ選挙区}}はチャールヴィル伯爵が[[連合王国議会]]成立(1801年)直前に購入した[[懐中選挙区]]であり、有権者は13人しかいなかった<ref>{{HistoryofParliament|1790|title=Carlow|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/constituencies/carlow|last=Jupp|first=P. J.|access-date=1 June 2020}}</ref>。}}<ref name="hansard" /><ref name="HOP" />。

議会では1807年2月13日に{{仮リンク|ハンプシャー選挙区|en|Hampshire (UK Parliament constituency)}}の選挙申し立てにおいて[[グレンヴィル内閣]]に反対する投票を行い、4月15日の処女演説では{{仮リンク|ウィリアム・リトルトン (第3代リトルトン男爵)|en|William Lyttelton, 3rd Baron Lyttelton|label=ウィリアム・ヘンリー・リトルトン閣下}}が提出したグレンヴィル内閣罷免反対動議に反対、演説は[[スペンサー・パーシヴァル]]が国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]に対しロビンソンを称えるほどの出来だった<ref name="HOP" />。1807年に首相[[ウィリアム・グレンヴィル (初代グレンヴィル男爵)|グレンヴィル男爵]]の後任となった[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]はロビンソンに{{仮リンク|海軍本部委員会 (1628年-1964年)|en|Board of Admiralty|label=海軍本部委員会}}入りを打診したが、ハードウィック伯爵がポートランド公爵に反対したこととロビンソンの母が[[第2次ポートランド公爵内閣]]は長続きしないと判断したことにより辞退した<ref name="HOP" />。続く[[1807年イギリス総選挙]]ではカーロウ・バラ選挙区より安定した選挙区を探し<ref name="HOP" />、{{仮リンク|リポン選挙区|en|Ripon (UK Parliament constituency)}}から選出される<ref name="hansard" />。

=== 下級大臣を歴任 ===
1807年の総選挙以降も引き続き政権に批判的であり、1809年1月にはパーシヴァルが再びロビンソンの演説を称賛、5月には[[陸軍・植民地大臣]][[ロバート・ステュアート (カースルレー子爵)|カースルレー子爵]]により{{仮リンク|陸軍・植民地政務次官|en|Under-Secretary of State for War and the Colonies}}に任命されたが<ref name="HOP" />、9月にカースルレー子爵とともに辞任した<ref name="DNB" />。以降もカースルレー子爵に同調することが多く、1810年2月には[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]がロビンソンをカースルレー子爵の派閥に分類した<ref name="HOP" />。

[[パーシヴァル内閣]]では大蔵卿委員会か海軍本部委員会への任命を打診されたが、やはり内閣が長続きしないと判断して辞退した<ref name="HOP" />。その後、1810年6月23日<ref name="DNB" />に{{仮リンク|チャールズ・フィリップ・ヨーク|en|Charles Philip Yorke}}の説得を受けて下級海軍卿({{lang|en|Lord of Admiralty}})への就任に同意した<ref name="HOP" />。

1812年にカースルレー子爵が再入閣すると、ロビンソンも官職就任に同意するようになり<ref name="HOP" />、8月13日に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命され<ref name="DNB" />、同年9月に[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]内閣の{{仮リンク|商務庁副長官 (イギリス)|label=商務庁副長官|en|Vice-President of the Board of Trade}}に就任した<ref>{{LondonGazette |issue = 16651 |date = 29 September 1812 |startpage = 1983 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。10月3日には下級海軍卿を退任して下級大蔵卿({{lang|en|Lord of Treasury}})に転じた<ref name="DNB" />。また、1812年6月に[[ジョージ・カニング]]の[[カトリック解放]]に関する動議に賛成票を投じた後<ref name="HOP" />、1813年3月に[[ヘンリー・グラタン]]が提出したカトリック解放に関する委員会の設立動議を支持した<ref name="DNB" />。

1813年11月に下級大蔵卿を辞任して{{仮リンク|陸軍支払長官 (イギリス)|label=陸軍支払長官|en|Paymaster of the Forces}}に転じた<ref name="DNB" /><ref>{{LondonGazette |issue = 16803 |date = 9 November 1813 |startpage = 2206 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。同年末にカースルレー子爵に同伴して[[大陸ヨーロッパ]]に向かい、1814年の[[パリ条約 (1814年)|パリ条約]]に向けた交渉が大詰めを迎えるまで大陸ヨーロッパに滞在した<ref name="DNB" />。

==== 穀物法をめぐって ====
[[ナポレオン戦争]]初期の1804年、イギリス議会は小麦の価格が63シリング以下の場合、小麦の輸入に対し24[[シリング]]3[[ペニー|ペンス]]という当時としては極めて高い関税をかけた<ref name="EB1911Corn">{{Cite EB1911|wstitle=Corn Laws|volume=7|pages=174–178|last=Somers|first=Robert|authorlink=ロバート・サマーズ|last2=Ingram|first2=Thomas Allan}}</ref>。これは小麦の価格を1801年の高値に維持するためとされた<ref name="EB1911Corn" />。戦争が長引く中、小麦の価格は高騰を続け、1809年から1813年までの価格は86シリング6ペンスから100シリング3ペンスだった<ref name="EB1911Corn">{{Cite EB1911|wstitle=Corn Laws|volume=7|pages=174–178|last=Somers|first=Robert|authorlink=ロバート・サマーズ|last2=Ingram|first2=Thomas Allan}}</ref>。この高い価格は終戦を向かえばすぐに下落すると当時にはすでに予想され、実際に1814年の[[パリ条約 (1814年)|パリ条約]]で戦争が一時的に中断すると価格は一転して55シリング8ペンスまで下落した<ref name="EB1911Corn" />。これに対し議会で討議が重ねられた後<ref name="EB1911Corn" />、ロビンソンは1815年3月1日に「小麦の価格が80シリングに上昇するまで小麦の輸入を禁じる」とする[[穀物法|1815年穀物法案]]を提出、法案はすぐに可決され3月23日には{{仮リンク|国王の裁可|en|Royal assent}}が与えられた<ref name="DNB" />。

穀物法案が可決された結果、[[ロンドン]]で暴動が勃発。{{仮リンク|オールド・バーリントン・ストリート|en|Old Burlington Street}}にあるロビンソンの自宅も攻撃を受けて多くの家具や美術品が打ち壊された<ref name="DNB" />。一方、穀物法は以降も改正が重ねられたが、1817年には96シリング11ペンスだった小麦の価格が1835年に39シリング4ペンスまで下落することを食い止めることはできなかった<ref name="EB1911Corn" />。


=== リヴァプール伯爵内閣・カニング内閣の閣僚 ===
=== リヴァプール伯爵内閣・カニング内閣の閣僚 ===
[[1812年]]から[[バート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]内閣の{{仮リンク|商務庁副長官 (イギリス)|label=商務庁副長官|en|Vice-President of the Board of Trade}}就任<ref>{{LondonGazette |issue = 16651 |date = 29 September 1812 |startpage = 1983 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>(1813年から{{仮リンク|陸軍支払長官 (イギリス)|label=陸軍支払長官|en|Paymaster of the Forces}}も兼務<ref>{{LondonGazette |issue = 16803 |date = 9 November 1813 |startpage = 2206 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>)。[[1818年]]から[[商務庁長官]]<ref>{{LondonGazette |issue = 17326 |date = 27 January 1818 |startpage = 188 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>{{仮リンク|海軍会計長官 (イギリス)|label=海軍会計長官|en|Treasurer of the Navy}}となり<ref>{{LondonGazette |issue = 17330 |date = 7 February 1818 |startpage = 261 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>、閣内相へ昇格した<ref name=dnb/>。
ンソンは1817年夏に陸軍支払長官を辞任、1818年1月24日に[[商務庁長官]]<ref>{{LondonGazette |issue = 17326 |date = 27 January 1818 |startpage = 188 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>、2月5日に{{仮リンク|海軍会計長官 (イギリス)|label=海軍会計長官|en|Treasurer of the Navy}}に任命され<ref>{{LondonGazette |issue = 17330 |date = 7 February 1818 |startpage = 261 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>、閣内相へ昇格した<ref name="ODNB" />。その後も1819年に[[治安六法]]の1つである{{仮リンク|煽動集会禁止法|en|Seditious Meetings Act 1819}}を支持、1822年4月に[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル卿]]の議会改革動議に反対するなど議会で度々演説した<ref name="DNB" />。


[[1823年]]には[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]に栄転した<ref>{{LondonGazette |issue = 17893 |date = 4 February 1823 |startpage = 193 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。同時期に[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]となった[[ジョージ・カニング]]、商務庁長官[[ウィリアム・ハスキソン]]らとともに「トーリー党自由主義派閣僚」として知られ、リヴァプール伯爵内閣が反動から自由主義に路線転換する上で重要な人物の一人となった。ロビンソンは財務大臣として[[自由貿易]]を推進し、鉄、石炭、羊毛、麻などの原材料からコーヒーやワインなどの酒類に至るまで様々な品種の[[関税]]を切り下げていった。これにより産業は振興し、失業率も減り、景気も回復した<ref name="君塚(1999)49">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.49</ref>。{{仮リンク|1825年のロンドン金融危機|en|Panic of 1825}}も金融改革を行うことで乗り切った<ref name="君塚(1999)49" />。
1823年には{{仮リンク|ニコラス・ヴァンシッタート (初代ベクスリー男爵)|en|Nicholas Vansittart, 1st Baron Bexley|label=ニコラス・ヴァンシッタート}}の後任として[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]に栄転した<ref name="DNB" /><ref>{{LondonGazette |issue = 17893 |date = 4 February 1823 |startpage = 193 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。同時期に[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]となった[[ジョージ・カニング]]、商務庁長官[[ウィリアム・ハスキソン]]らとともに「トーリー党自由主義派閣僚」として知られ、リヴァプール伯爵内閣が反動から自由主義に路線転換する上で重要な人物の一人となった。ロビンソンは財務大臣として[[自由貿易]]を推進し、鉄、石炭、羊毛、麻などの原材料からコーヒーやワインなどの酒類に至るまで様々な品種の[[関税]]を切り下げていった。これにより産業は振興し、失業率も減り、景気も回復した<ref name="君塚(1999)49">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.49</ref>。{{仮リンク|1825年のロンドン金融危機|en|Panic of 1825}}も金融改革を行うことで乗り切った<ref name="君塚(1999)49" />。財務大臣という要職の重圧もあり、ロビンソンは1826年12月に貴族への叙爵とより職務の軽い官職に移ることを望んだが、リヴァプール伯爵の説得により庶民院に留まることに同意、一方で財務大臣への留任については「暫定措置として扱われるべき」と述べた<ref name="DNB" />。1827年2月にリヴァプール伯爵が病気に倒れると、ロビンソンの叙爵と首相就任という計画がカニングと[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー]]の間で討議されたが、実現しなかった<ref name="DNB" />。


[[1827]]4月に[[ゴドリッチ子爵]]に叙され<ref name="LG1827">{{LondonGazette |issue = 18356 |date = 27 April 1827 |startpage = 937 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員となる。同月に成立した[[ジョージ・カニング]]内閣には[[陸軍・植民地大臣]]として入閣したが<ref>{{LondonGazette |issue = 18362 |date = 18 May 1827 |startpage = 1081 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>、同年8月8日早朝にカニングは急死した<ref name="君塚(1999)53">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.53</ref>。
そして、カニングが首相に就任すると<ref name="DNB" />、ロビンソンは1828年4月に[[ゴドリッチ子爵]]に叙され<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1820|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1820-1832/member/robinson-hon-frederick-1782-1859|title=ROBINSON, Frederick John (1782-1859), of Nocton Hall, Lincs.|last=Fisher|first=David R.|accessdate=2 June 2020}}</ref><ref name="LG1827">{{LondonGazette |issue = 18356 |date = 27 April 1827 |startpage = 937 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員となる。同月に成立した[[ジョージ・カニング]]内閣には[[陸軍・植民地大臣]]として入閣したが<ref>{{LondonGazette |issue = 18362 |date = 18 May 1827 |startpage = 1081 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>、同年8月8日早朝にカニングは急死した<ref name="君塚(1999)53">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.53</ref>。


=== 首相として ===
=== 首相として ===
政治の実権力を取り戻そうと画策していた国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]は、カニングが死んだ8月8日のうちに独断でゴドリッチ子爵を後任の首相に決定し、同日午後に組閣の大命を与えた。国王は[[カトリック解放]]やホイッグ党から閣僚を入れ過ぎることに反対する立場だったので、大命にあたってトーリー党守旧派の{{仮リンク|ジョン・チャールズ・ヘリス|en|John Charles Herries}}を蔵相として入閣させるようゴドリッチに命じている<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.53-54</ref>。
政治の実権力を取り戻そうと画策していた国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]は、カニングが死んだ8月8日のうちに独断でゴドリッチ子爵を後任の首相に決定し、同日午後に組閣の大命を与えた。国王は[[カトリック解放]]やホイッグ党から閣僚を入れ過ぎることに反対する立場だったので、大命にあたってトーリー党守旧派の{{仮リンク|ジョン・チャールズ・ヘリス|en|John Charles Herries}}を蔵相として入閣させるようゴドリッチ子爵に命じている<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.53-54</ref>。


ゴドリッチはカニングのカトリック解放の意思を受け継ぐつもりだったのでヘリス登用に難色を示したが、国王はヘリス登用に固執しており、ゴドリッチがこの人事に応じないならベクスレイ男爵{{仮リンク|ニコラス・ヴァンシッタート (初代ベクスレイ男爵)|label=ニコラス・ヴァンシッタート|en|Nicholas Vansittart, 1st Baron Bexley}}に組閣の大命を与えるとの方針を示した。ヘリス登用にはゴドリッチ卿の同志であるトーリー党内自由主義派やカニング内閣時代からの連立相手の[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]穏健派([[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]派)からの反発が激しかったため、ゴドリッチ卿は彼らの説得に手間取ったが、なんとか説得し、彼らに政権離反させることなく、さらにトーリー党内保守派も一部政権に取り込むことに成功し、9月1日に組閣を達成した<ref name="君塚(1999)54">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.54</ref><ref>{{LondonGazette |issue = 18394 |date = 7 September 1827 |startpage = 1892 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。
ゴドリッチ子爵はカニングのカトリック解放の意思を受け継ぐつもりだったのでヘリス登用に難色を示したが、国王はヘリス登用に固執しており、ゴドリッチ子爵がこの人事に応じないならベクスレイ男爵{{仮リンク|ニコラス・ヴァンシッタート (初代ベクスレイ男爵)|label=ニコラス・ヴァンシッタート|en|Nicholas Vansittart, 1st Baron Bexley}}に組閣の大命を与えるとの方針を示した。ヘリス登用にはゴドリッチ卿の同志であるトーリー党内自由主義派やカニング内閣時代からの連立相手の[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]穏健派([[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]派)からの反発が激しかったため、ゴドリッチ卿は彼らの説得に手間取ったが、なんとか説得し、彼らに政権離反させることなく、さらにトーリー党内保守派も一部政権に取り込むことに成功し、9月1日に組閣を達成した<ref name="君塚(1999)54">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.54</ref><ref>{{LondonGazette |issue = 18394 |date = 7 September 1827 |startpage = 1892 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。この組閣の様子について、[[英国人名事典]]は「ゴドリッチ子爵が首相に不適任であることが直ちに露呈した」と評した<ref name="DNB" />。


しかし国王から派遣された内閣のお目付け役であるヘリスは、内閣発足後ただちにハスキソンと対立を深めていき、内閣は閣内分裂状態となった<ref name="君塚(1999)55">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.55</ref>。
しかし国王から派遣された内閣のお目付け役であるヘリスは、内閣発足後ただちにハスキソンと対立を深めていき、内閣は閣内分裂状態となった<ref name="君塚(1999)55">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.55</ref>。


内閣の安定を図りたいゴドリッチは貴族院で大きな勢力を持つトーリー党保守派ウェリントン公爵とホイッグ党急進派[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]を牽制する必要性を感じ、12月にウェリントン公爵の兄[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|ウェルズリー侯爵]]を枢密院議長、グレイ伯爵の親友[[ヘンリー・ヴァッセル=フォックス (第3代ホランド男爵)|ホランド]]を無任所大臣として内閣に迎える閣僚人事案を国王に提出したが、これに難色を示した国王は、[[12月14日]]にゴドリッチ更迭と{{仮リンク|ダドリー・ライダー (初代ハロービー伯爵)|label=ハロービー伯爵|en|Dudley Ryder, 1st Earl of Harrowby}}の首相登用を決意した。しかしハロービー卿が組閣の大命を拝辞して上記人事案を受け入れるべき旨を国王に奏上したため、国王も12月19日にゴドリッチ更迭の意思を翻意し、ゴドリッチ卿は続投できた<ref name="君塚(1999)55">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.55</ref>。
内閣の安定を図りたいゴドリッチ子爵は貴族院で大きな勢力を持つトーリー党保守派ウェリントン公爵とホイッグ党急進派[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]を牽制する必要性を感じ、12月にウェリントン公爵の兄[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|ウェルズリー侯爵]]を枢密院議長、グレイ伯爵の親友[[ヘンリー・ヴァッセル=フォックス (第3代ホランド男爵)|ホランド男爵]]を無任所大臣として内閣に迎える閣僚人事案を国王に提出したが、これに難色を示した国王は、12月14日にゴドリッチ子爵更迭と{{仮リンク|ダドリー・ライダー (初代ハロービー伯爵)|label=ハロービー伯爵|en|Dudley Ryder, 1st Earl of Harrowby}}の首相登用を決意した。しかしハロービー卿が組閣の大命を拝辞して上記人事案を受け入れるべき旨を国王に奏上したため、国王も12月19日にゴドリッチ子爵更迭の意思を翻意し、ゴドリッチ卿は続投できた<ref name="君塚(1999)55">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.55</ref>。


しかし上記人事案をめぐっては閣内からも反発が起こっており、ハスキソンとヘリスがともに辞職を申し出るに至った。これ以上の政権運営は不可能と判断したゴドリッチは、議会開会を二週間後に控えていた[[1828年]][[1月8日]]に国王に辞職を表明した。議会開会前に内閣が崩壊するのは前代未聞のことだった<ref name="君塚(1999)55">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.55</ref>。
しかし上記人事案をめぐっては閣内からも反発が起こっており、ハスキソンとヘリスがともに辞職を申し出るに至った。これ以上の政権運営は不可能と判断したゴドリッチ子爵は、議会開会を二週間後に控えていた1828年[[1月8日]]に国王に辞職を表明した。議会開会前に内閣が崩壊するのは前代未聞のことだった<ref name="君塚(1999)55">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.55</ref>。ゴドリッチ子爵は後任のウェリントン公爵からの入閣打診を予想したが、結局打診はなかった<ref name="DNB" />。


=== 首相退任後 ===
=== 首相退任後 ===
その後、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]へ移籍し、[[1830年]]に成立した[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]を首相とするホイッグ党政権に[[陸軍・植民地大臣]]<ref>{{LondonGazette |issue = 18753 |date = 3 December 1830 |startpage = 2539 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>、ついで[[王璽尚書]]として入閣した<ref>{{LondonGazette |issue = 19036 |date = 5 April 1833 |startpage = 665 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。王璽尚書になった1833年4月にリポン伯爵に叙された<ref name=dnb/><ref name="LG1833">{{LondonGazette |issue=19038 |date=12 April 1833 |startpage=705 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。
その後、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]へ移籍し、1828年4月に[[審査法]]廃止法案の第二読会で法案に賛成する演説をして、1829年4月に[[1829年カトリック解放法|カトリック解放法案]]の第二読会で賛成を表明した<ref name="DNB" />。1830年2月には[[ウェリントン公爵内閣]]に対する敵意があったとしても、「カトリック問題の墓にそれを埋めた」と述べた{{Refnest|group=注釈|原文は{{lang|en|"buried it in the grave of the catholic question"}}<ref name="DNB" />。内閣がカトリック解放に賛成したため、内閣に対するいかなる敵意も消え失せたという意味。}}<ref name="DNB" />。同年に成立した[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]を首相とするホイッグ党政権に[[陸軍・植民地大臣]]として入閣(1830年11月22日)<ref>{{LondonGazette |issue = 18753 |date = 3 December 1830 |startpage = 2539 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>、1831年10月に[[1832年改革法|第一次選挙法改正]]の第二次改革法案への支持を表明した<ref name="DNB" />。その後は[[奴隷制度廃止運動|黒人奴隷制度]]の全廃を目指したが、閣内反対を受けたため陸軍・植民地大臣を辞任<ref name="DNB" />、[[王璽尚書]]に転じた<ref>{{LondonGazette |issue = 19036 |date = 5 April 1833 |startpage = 665 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。王璽尚書になった1833年4月にリポン伯爵に叙された<ref name="ODNB" /><ref name="LG1833">{{LondonGazette |issue=19038 |date=12 April 1833 |startpage=705 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。

アイルランド国教会の収入を民間に転用させる問題をめぐる閣内分裂では、[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿]](後のダービー伯爵)らとともに反対の立場を取った。結局この問題でスタンリー卿やリポン伯爵らは閣僚職を辞することになった。これ以降リポン伯爵はじめ80名ほどのホイッグ右派はスタンリー卿を指導者に仰ぐ独立会派[[ダービー派]]を形成した<ref name="君塚(1999)62">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.62</ref><ref name="ブレイク(1979)50">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.50</ref>。ダービー派は1839年までに[[保守党 (イギリス)|保守党]]に吸収合併された<ref name="君塚(1999)66">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.66</ref>。

保守党政権の第2次[[ロバート・ピール]]内閣(1841年 - 1846年)では1841年9月3日に[[商務庁長官]]に任命された<ref>{{LondonGazette |issue = 20014 |date = 3 September 1841 |startpage = 2221 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。1842年4月18日には穀物輸入法案({{lang|en|Corn Importation Bill}}、穀物関税を改定する法案)を第二読会に提出した<ref name="DNB" />。1843年5月17日に[[インド庁長官]]に転じた<ref name="DNB" /><ref>{{LondonGazette |issue = 20226 |date = 19 May 1843 |startpage = 1654 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。[[穀物法]]廃止をめぐって保守党が分裂すると自由貿易を支持して[[ピール派]]に属した<ref name="君塚(1999)223">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.223</ref>。このとき、1846年5月25日に穀物法廃止法案を第二読会に提出したが、6月に第2次ピール内閣が総辞職するとリポン伯爵もインド庁長官を辞任した<ref name="DNB" />。


1847年5月以降は貴族院欠席が多くなり、事実上引退した<ref name="君塚(1999)223" />。貴族院での演説も1847年5月14日の演説が最後となった<ref name="DNB" />。
アイルランド国教会の収入を民間に転用させる問題をめぐる閣内分裂では、[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿]](後のダービー伯爵)らとともに反対の立場を取った。結局この問題でスタンリー卿やリポン伯爵らは閣僚職を辞することになった。これ以降リポン伯爵はじめ80名ほどのホイッグ右派はスタンリー卿を指導者に仰ぐ独立会派[[ダービー派]]を形成した<ref name="君塚(1999)62">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.62</ref><ref name="ブレイク(1979)50">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.50</ref>。ダービー派は[[1839年]]までに[[保守党 (イギリス)|保守党]]に吸収合併された<ref name="君塚(1999)66">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.66</ref>。


1859年[[1月28日]]にロンドン・{{仮リンク|パットニー|en|Putney}}のグランサム・ハウスで死去<ref name="ODNB" />、{{仮リンク|ノクトン|en|Nocton}}で埋葬された<ref name="DNB" />。息子[[ジョージ・ロビンソン (初代リポン侯爵)|ジョージ・フレデリック・サミュエル]]が爵位を継承した<ref name="Cracroft" />。
保守党政権の第2次[[ロバート・ピール]]内閣(1841年-1846年)では[[商務庁長官]]<ref>{{LondonGazette |issue = 20014 |date = 3 September 1841 |startpage = 2221 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>や[[インド庁長官]]を務めた<ref name=dnb/><ref>{{LondonGazette |issue = 20226 |date = 19 May 1843 |startpage = 1654 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>。


== 人物 ==
[[穀物法]]廃止をめぐって保守党が分裂すると自由貿易を支持して[[ピール派]]に属した<ref name="君塚(1999)223">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.223</ref>。
[[英国人名事典]]によると、ゴドリッチ子爵は愛想がよく、演説は散漫だったが、つまらない財政の事柄でも引喩やユーモアを盛り込めるという才能があり、庶民院では一定の人気のある議員だった<ref name="DNB" />。


財務大臣としては{{仮リンク|ジョセフ・ヒューム|en|Joseph Hume}}と論戦を交わすことが多く<ref name="HOP2" />、1826年5月には赤字問題をめぐってヒュームが赤字の原因を調査するという動議を提出、ロビンソンから反対を受けて結局101票差で否決されたという事件があったが、{{仮リンク|ハリエット・マーティノー|en|Harriet Martineau}}からは「数字自体には争いようもないにもかかわらず、繁栄のロビンソン({{lang|en|Prosperity Robinson}})と逆境のヒューム({{lang|en|Adversity Hume}})はそれぞれの発言で正反対の結論を出した」という「これ以上ないほど興味深い出来事」であると評した<ref name="DNB" />。このように財務大臣として楽観的な見方をすることが多く、[[ウィリアム・コベット]]から前出の「繁栄のロビンソン」({{lang|en|Prosperity Robinson}})というあだ名をつけられる結果となった<ref name="DNB" />。一方、陸軍・植民地大臣としては活力に欠き、コベットから「善人ゴドリッチ」({{lang|en|Goody Goderich}})というあだ名をつけられた<ref name="DNB" />。
[[1847年]]5月以降は貴族院欠席が多くなり、事実上引退した<ref name="君塚(1999)223" />。


貴族院議員としては「へぼ」({{lang|en|wretched}})という評価であり、首相としての評価も極めて低く、『{{仮リンク|英国下院史|en|The History of Parliament}}』は内閣が「危機に次ぐ危機でよろめいた」({{lang|en|lurched from crisis to crisis}})と評し、首相辞任から3年後に陸軍・植民地大臣に返り咲いたことを「驚くべき」({{lang|en|astonishing}})ことと評した<ref name="HOP2" />。さらに、ピールから商務庁長官に任命された後、商務庁副長官だった[[ウィリアム・グラッドストン]]はすぐにリポン伯爵の能力について低く見積もったという<ref name="HOP2" />。
[[1859年]][[1月28日]]にロンドン・{{仮リンク|パットニー|en|Putney}}のグランサム・ハウスで死去した<ref name=dnb/>。


== 栄典 ==
== 栄典 ==
=== 爵位 ===
=== 爵位 ===
* [[1827年]][[4月28日]]、初代[[ゴドリッチ子爵]]([[連合王国貴族]]爵位)<ref name="LG1827" />
* 1827年4月28日、初代[[ゴドリッチ子爵]]([[連合王国貴族]]爵位)<ref name="LG1827" />
* [[1833年]][[4月13日]]、初代[[リポン伯爵]](連合王国貴族爵位)<ref name="LG1833" />
* 1833年4月13日、初代[[リポン伯爵]](連合王国貴族爵位)<ref name="LG1833" />


=== その他名誉職 ===
=== その他名誉職 ===
* [[1801年]]、{{仮リンク|ノース・ライディング・オブ・ヨークシャー|en|North Riding of Yorkshire}} 州副知事([[:en:Deputy Lieutenant|D.L.]])<ref name="Acad" />
* 1801年、{{仮リンク|ノース・ライディング・オブ・ヨークシャー|en|North Riding of Yorkshire}} 州副統監([[:en:Deputy Lieutenant|D.L.]])<ref name="Acad" />
* [[1812年]]、[[枢密院 (イギリス)|連合王国枢密院]]の枢密顧問官(PC)<ref>{{LondonGazette |issue=16632 |date=11 August 1812 |startpage=1579 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>
* 1812年、[[枢密院 (イギリス)|連合王国枢密院]]の枢密顧問官(PC)<ref>{{LondonGazette |issue=16632 |date=11 August 1812 |startpage=1579 |accessdate = 2014-03-30 }}</ref>
* 1828年4月17日、[[王立協会フェロー]]<ref name="RS">{{Cite web2|url=https://collections.royalsociety.org/DServe.exe?dsqIni=Dserve.ini&dsqApp=Archive&dsqDb=Persons&dsqSearch=Code==%27NA5269%27&dsqCmd=Show.tcl |title=Robinson; Frederick John (1782 - 1859); 1st Earl of Ripon |publisher=[[王立学会|Royal Society]]|language=en|access-date=2 June 2020}}</ref>
* [[1833年]]、{{仮リンク|アイルランド枢密院|en|Privy Council of Ireland}}の枢密顧問官(PC (Ire))<ref name="Cracroft" />
* 1830年 - 1833年、[[王立地理学会]]会長<ref>{{Cite book2|language=en|title=The Canada Company and the Huron Tract, 1826-1853: Personalities, Profits and Politics|last=Lee|first=Robert Charles|date=2004|publisher=Natural Heritage|isbn=1-896219-94-2|page=250|url=https://books.google.com/books?id=R9g28_vHnUkC&pg=PA250}}</ref>
* [[1839年]]、[[オックスフォード大学]]名誉民法学博士(D.C.L.)<ref name="Acad" />
* 1833年、{{仮リンク|アイルランド枢密院|en|Privy Council of Ireland}}の枢密顧問官(PC (Ire))<ref name="Cracroft" />
* 1834年 - 1845年、{{仮リンク|王立文学協会|en|Royal Society of Literature}}会長<ref>{{Cite book2|language=en|title=Transactions of the Royal Society of Literature of the United Kingdom|volume=II|location=London|publisher=John Murray|date=1847|page=iv|url=https://books.google.com/books?id=olACAAAAYAAJ&pg=PR4}}</ref>
* 1839年、[[オックスフォード大学]]名誉民法学博士(D.C.L.)<ref name="Acad" />


== 家族 ==
== 家族 ==
[[1814年]]にセーラ・ホバート(1791年2月23日 - 1867年4月9日、第4代バッキンガムシャー伯爵[[ロバート・ホバート (第4代バッキンガムシャー伯爵)|ロバート・ホバート]]の娘)と結婚し、彼女との間に以下の3子を儲ける<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Ripon, Earl of (UK, 1833 - 1923)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/ripon1833.htm|access-date=17 March 2020}}</ref>。
1814年にセーラ・ホバート(1791年2月23日 - 1867年4月9日、第4代バッキンガムシャー伯爵[[ロバート・ホバート (第4代バッキンガムシャー伯爵)|ロバート・ホバート]]の娘)と結婚し、彼女との間に以下の3子を儲ける<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Ripon, Earl of (UK, 1833 - 1923)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/ripon1833.htm|access-date=17 March 2020}}</ref>。
* 第1子(長男)ホバート・フレデリック(1816年9月) - 夭折
* 第1子(長男)ホバート・フレデリック(1816年9月) - 夭折
* 第2子(長女)エレノア・ヘンリエッタ・ヴィクトリア(? - 1826年)
* 第2子(長女)エレノア・ヘンリエッタ・ヴィクトリア(? - 1826年10月31日
* 第3子(次男)初代リポン侯爵[[ジョージ・ロビンソン (初代リポン侯爵)|ジョージ・フレデリック・サミュエル]](1827年 - 1909年) - 政治家。[[インド総督]]などを歴任。
* 第3子(次男)初代リポン侯爵[[ジョージ・ロビンソン (初代リポン侯爵)|ジョージ・フレデリック・サミュエル]](1827年 - 1909年) - 政治家。[[インド総督]]などを歴任。


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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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* [https://www.gov.uk/government/history/past-prime-ministers/frederick-robinson-viscount-goderich Frederick Robinson Viscount Goderich] - [[ダウニング街10番地]] {{en icon}}
* [https://www.gov.uk/government/history/past-prime-ministers/frederick-robinson-viscount-goderich Frederick Robinson Viscount Goderich] - [[ダウニング街10番地]] {{en icon}}
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2020年6月28日 (日) 11:10時点における版

初代リポン伯爵
初代ゴドリッチ子爵
フレデリック・ロビンソン
Frederick Robinson
1st Earl of Ripon and 1st Viscount Goderich
トマス・ローレンス画の初代リポン伯爵、1824年頃。
生年月日 1782年11月1日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国イングランドヨークシャー
没年月日 1859年1月28日(満76歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス、イングランド・ロンドン
出身校 ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ英語版
リンカーン法曹院
所属政党 トーリー党ホイッグ党ダービー派保守党ピール派
称号 初代リポン伯爵、初代ゴドリッチ子爵枢密顧問官(PC)
配偶者 サラ・ホバート
親族 第2代グランサム男爵(父)
第4代バッキンガムシャー伯爵(義父)
第2代ド・グレイ伯爵(兄)
初代リポン侯爵(子)

在任期間 1827年8月31日 - 1828年1月21日
国王 ジョージ4世

内閣 リヴァプール伯爵内閣
在任期間 1823年1月31日 - 1827年4月20日

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 カーロウ・バラ選挙区英語版
リポン選挙区英語版[1]
在任期間 1806年11月13日 - 1807年5月26日
1807年5月9日 - 1827年12月31日[1]

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1827年4月28日 - 1859年1月28日[1]
テンプレートを表示

初代リポン伯爵・初代ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソン英語: Frederick John Robinson, 1st Earl of Ripon, 1st Viscount Goderich, PC PC (Ire) FRS 英語発音: [ˈɡəʊdrɪtʃ][2]1782年11月1日 - 1859年1月28日)は、イギリス政治家貴族

トーリー党内の自由主義派として知られ、財務大臣(在職:1823年 - 1827年)として自由貿易を推進した後、首相(在職:1827年 - 1828年)を務めたが、閣内分裂や国王ジョージ4世との対立により短期間で総辞職に追い込まれた。その後もホイッグ党ダービー派保守党ピール派と党派を渡り歩きながら閣僚職を歴任した。

1827年にゴドリッチ子爵位、1833年にリポン伯爵位を授爵された。首相を務めていた時期の爵位はゴドリッチ子爵であった。

経歴

生い立ち

ニュービー・ホール

1782年11月1日、第2代グランサム男爵トマス・ロビンソンとその妻メアリー(第2代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨークの娘)の次男としてヨークシャーニュービー・ホール英語版に生まれる[3]

1796年から1799年までパブリックスクールハーロー校で教育を受けた後[4]、1799年6月1日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ英語版に入学、1802年にM.A.の学位を修得した[5]。1802年5月7日にリンカーン法曹院に入学したが、1809年11月16日に中退し、弁護士資格免許は取得しなかった[6]

政界入り

母方の祖父フィリップの弟チャールズの息子にあたる第3代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨーク[7]アイルランド総督を務めたとき、ロビンソンは1804年から1806年までハードウィック伯爵の秘書官を務めた[6]。ハードウィック伯爵は1806年1月には異母弟チャールズ・フィリップ・ヨーク英語版に対し、ロビンソンのために庶民院の議席を探すべきだと述べたが、スライゴ・バラ選挙区英語版の議席確保に失敗、結局ハードウィック伯爵は初代チャールヴィル伯爵チャールズ・ベリーからカーロウ・バラ選挙区英語版の議席を購入、ロビンソンは1806年イギリス総選挙で同選挙区から出馬して当選した[注釈 1][1][4]

議会では1807年2月13日にハンプシャー選挙区英語版の選挙申し立てにおいてグレンヴィル内閣に反対する投票を行い、4月15日の処女演説ではウィリアム・ヘンリー・リトルトン閣下英語版が提出したグレンヴィル内閣罷免反対動議に反対、演説はスペンサー・パーシヴァルが国王ジョージ3世に対しロビンソンを称えるほどの出来だった[4]。1807年に首相グレンヴィル男爵の後任となったポートランド公爵はロビンソンに海軍本部委員会英語版入りを打診したが、ハードウィック伯爵がポートランド公爵に反対したこととロビンソンの母が第2次ポートランド公爵内閣は長続きしないと判断したことにより辞退した[4]。続く1807年イギリス総選挙ではカーロウ・バラ選挙区より安定した選挙区を探し[4]リポン選挙区英語版から選出される[1]

下級大臣を歴任

1807年の総選挙以降も引き続き政権に批判的であり、1809年1月にはパーシヴァルが再びロビンソンの演説を称賛、5月には陸軍・植民地大臣カースルレー子爵により陸軍・植民地政務次官英語版に任命されたが[4]、9月にカースルレー子爵とともに辞任した[6]。以降もカースルレー子爵に同調することが多く、1810年2月にはホイッグ党がロビンソンをカースルレー子爵の派閥に分類した[4]

パーシヴァル内閣では大蔵卿委員会か海軍本部委員会への任命を打診されたが、やはり内閣が長続きしないと判断して辞退した[4]。その後、1810年6月23日[6]チャールズ・フィリップ・ヨーク英語版の説得を受けて下級海軍卿(Lord of Admiralty)への就任に同意した[4]

1812年にカースルレー子爵が再入閣すると、ロビンソンも官職就任に同意するようになり[4]、8月13日に枢密顧問官に任命され[6]、同年9月にリヴァプール伯爵内閣の商務庁副長官英語版に就任した[9]。10月3日には下級海軍卿を退任して下級大蔵卿(Lord of Treasury)に転じた[6]。また、1812年6月にジョージ・カニングカトリック解放に関する動議に賛成票を投じた後[4]、1813年3月にヘンリー・グラタンが提出したカトリック解放に関する委員会の設立動議を支持した[6]

1813年11月に下級大蔵卿を辞任して陸軍支払長官英語版に転じた[6][10]。同年末にカースルレー子爵に同伴して大陸ヨーロッパに向かい、1814年のパリ条約に向けた交渉が大詰めを迎えるまで大陸ヨーロッパに滞在した[6]

穀物法をめぐって

ナポレオン戦争初期の1804年、イギリス議会は小麦の価格が63シリング以下の場合、小麦の輸入に対し24シリング3ペンスという当時としては極めて高い関税をかけた[11]。これは小麦の価格を1801年の高値に維持するためとされた[11]。戦争が長引く中、小麦の価格は高騰を続け、1809年から1813年までの価格は86シリング6ペンスから100シリング3ペンスだった[11]。この高い価格は終戦を向かえばすぐに下落すると当時にはすでに予想され、実際に1814年のパリ条約で戦争が一時的に中断すると価格は一転して55シリング8ペンスまで下落した[11]。これに対し議会で討議が重ねられた後[11]、ロビンソンは1815年3月1日に「小麦の価格が80シリングに上昇するまで小麦の輸入を禁じる」とする1815年穀物法案を提出、法案はすぐに可決され3月23日には国王の裁可が与えられた[6]

穀物法案が可決された結果、ロンドンで暴動が勃発。オールド・バーリントン・ストリート英語版にあるロビンソンの自宅も攻撃を受けて多くの家具や美術品が打ち壊された[6]。一方、穀物法は以降も改正が重ねられたが、1817年には96シリング11ペンスだった小麦の価格が1835年に39シリング4ペンスまで下落することを食い止めることはできなかった[11]

リヴァプール伯爵内閣・カニング内閣の閣僚

ロビンソンは1817年夏に陸軍支払長官を辞任、1818年1月24日に商務庁長官[12]、2月5日に海軍会計長官英語版に任命され[13]、閣内相へ昇格した[3]。その後も1819年に治安六法の1つである煽動集会禁止法英語版を支持、1822年4月にジョン・ラッセル卿の議会改革動議に反対するなど議会で度々演説した[6]

1823年にはニコラス・ヴァンシッタート英語版の後任として財務大臣に栄転した[6][14]。同時期に外務大臣となったジョージ・カニング、商務庁長官ウィリアム・ハスキソンらとともに「トーリー党自由主義派閣僚」として知られ、リヴァプール伯爵内閣が反動から自由主義に路線転換する上で重要な人物の一人となった。ロビンソンは財務大臣として自由貿易を推進し、鉄、石炭、羊毛、麻などの原材料からコーヒーやワインなどの酒類に至るまで様々な品種の関税を切り下げていった。これにより産業は振興し、失業率も減り、景気も回復した[15]1825年のロンドン金融危機英語版も金融改革を行うことで乗り切った[15]。財務大臣という要職の重圧もあり、ロビンソンは1826年12月に貴族への叙爵とより職務の軽い官職に移ることを望んだが、リヴァプール伯爵の説得により庶民院に留まることに同意、一方で財務大臣への留任については「暫定措置として扱われるべき」と述べた[6]。1827年2月にリヴァプール伯爵が病気に倒れると、ロビンソンの叙爵と首相就任という計画がカニングと初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーの間で討議されたが、実現しなかった[6]

そして、カニングが首相に就任すると[6]、ロビンソンは1828年4月にゴドリッチ子爵に叙され[16][17]貴族院議員となる。同月に成立したジョージ・カニング内閣には陸軍・植民地大臣として入閣したが[18]、同年8月8日早朝にカニングは急死した[19]

首相として

政治の実権力を取り戻そうと画策していた国王ジョージ4世は、カニングが死んだ8月8日のうちに独断でゴドリッチ子爵を後任の首相に決定し、同日午後に組閣の大命を与えた。国王はカトリック解放やホイッグ党から閣僚を入れ過ぎることに反対する立場だったので、大命にあたってトーリー党守旧派のジョン・チャールズ・ヘリス英語版を蔵相として入閣させるようゴドリッチ子爵に命じている[20]

ゴドリッチ子爵はカニングのカトリック解放の意思を受け継ぐつもりだったのでヘリス登用に難色を示したが、国王はヘリス登用に固執しており、ゴドリッチ子爵がこの人事に応じないならベクスレイ男爵ニコラス・ヴァンシッタート英語版に組閣の大命を与えるとの方針を示した。ヘリス登用にはゴドリッチ卿の同志であるトーリー党内自由主義派やカニング内閣時代からの連立相手のホイッグ党穏健派(ランズダウン侯爵派)からの反発が激しかったため、ゴドリッチ卿は彼らの説得に手間取ったが、なんとか説得し、彼らに政権離反させることなく、さらにトーリー党内保守派も一部政権に取り込むことに成功し、9月1日に組閣を達成した[21][22]。この組閣の様子について、英国人名事典は「ゴドリッチ子爵が首相に不適任であることが直ちに露呈した」と評した[6]

しかし国王から派遣された内閣のお目付け役であるヘリスは、内閣発足後ただちにハスキソンと対立を深めていき、内閣は閣内分裂状態となった[23]

内閣の安定を図りたいゴドリッチ子爵は貴族院で大きな勢力を持つトーリー党保守派ウェリントン公爵とホイッグ党急進派グレイ伯爵を牽制する必要性を感じ、12月にウェリントン公爵の兄ウェルズリー侯爵を枢密院議長、グレイ伯爵の親友ホランド男爵を無任所大臣として内閣に迎える閣僚人事案を国王に提出したが、これに難色を示した国王は、12月14日にゴドリッチ子爵更迭とハロービー伯爵英語版の首相登用を決意した。しかしハロービー卿が組閣の大命を拝辞して上記人事案を受け入れるべき旨を国王に奏上したため、国王も12月19日にゴドリッチ子爵更迭の意思を翻意し、ゴドリッチ卿は続投できた[23]

しかし上記人事案をめぐっては閣内からも反発が起こっており、ハスキソンとヘリスがともに辞職を申し出るに至った。これ以上の政権運営は不可能と判断したゴドリッチ子爵は、議会開会を二週間後に控えていた1828年1月8日に国王に辞職を表明した。議会開会前に内閣が崩壊するのは前代未聞のことだった[23]。ゴドリッチ子爵は後任のウェリントン公爵からの入閣打診を予想したが、結局打診はなかった[6]

首相退任後

その後、ホイッグ党へ移籍し、1828年4月に審査法廃止法案の第二読会で法案に賛成する演説をして、1829年4月にカトリック解放法案の第二読会で賛成を表明した[6]。1830年2月にはウェリントン公爵内閣に対する敵意があったとしても、「カトリック問題の墓にそれを埋めた」と述べた[注釈 2][6]。同年に成立したグレイ伯爵を首相とするホイッグ党政権には陸軍・植民地大臣として入閣(1830年11月22日)[24]、1831年10月に第一次選挙法改正の第二次改革法案への支持を表明した[6]。その後は黒人奴隷制度の全廃を目指したが、閣内で反対を受けたため陸軍・植民地大臣を辞任[6]王璽尚書に転じた[25]。王璽尚書になった1833年4月にリポン伯爵に叙された[3][26]

アイルランド国教会の収入を民間に転用させる問題をめぐる閣内分裂では、スタンリー卿(後のダービー伯爵)らとともに反対の立場を取った。結局この問題でスタンリー卿やリポン伯爵らは閣僚職を辞することになった。これ以降リポン伯爵はじめ80名ほどのホイッグ右派はスタンリー卿を指導者に仰ぐ独立会派ダービー派を形成した[27][28]。ダービー派は1839年までに保守党に吸収合併された[29]

保守党政権の第2次ロバート・ピール内閣(1841年 - 1846年)では1841年9月3日に商務庁長官に任命された[30]。1842年4月18日には穀物輸入法案(Corn Importation Bill、穀物関税を改定する法案)を第二読会に提出した[6]。1843年5月17日にインド庁長官に転じた[6][31]穀物法廃止をめぐって保守党が分裂すると自由貿易を支持してピール派に属した[32]。このとき、1846年5月25日に穀物法廃止法案を第二読会に提出したが、6月に第2次ピール内閣が総辞職するとリポン伯爵もインド庁長官を辞任した[6]

1847年5月以降は貴族院欠席が多くなり、事実上引退した[32]。貴族院での演説も1847年5月14日の演説が最後となった[6]

1859年1月28日にロンドン・パットニー英語版のグランサム・ハウスで死去[3]ノクトンで埋葬された[6]。息子ジョージ・フレデリック・サミュエルが爵位を継承した[33]

人物

英国人名事典によると、ゴドリッチ子爵は愛想がよく、演説は散漫だったが、つまらない財政の事柄でも引喩やユーモアを盛り込めるという才能があり、庶民院では一定の人気のある議員だった[6]

財務大臣としてはジョセフ・ヒューム英語版と論戦を交わすことが多く[16]、1826年5月には赤字問題をめぐってヒュームが赤字の原因を調査するという動議を提出、ロビンソンから反対を受けて結局101票差で否決されたという事件があったが、ハリエット・マーティノー英語版からは「数字自体には争いようもないにもかかわらず、繁栄のロビンソン(Prosperity Robinson)と逆境のヒューム(Adversity Hume)はそれぞれの発言で正反対の結論を出した」という「これ以上ないほど興味深い出来事」であると評した[6]。このように財務大臣として楽観的な見方をすることが多く、ウィリアム・コベットから前出の「繁栄のロビンソン」(Prosperity Robinson)というあだ名をつけられる結果となった[6]。一方、陸軍・植民地大臣としては活力に欠き、コベットから「善人ゴドリッチ」(Goody Goderich)というあだ名をつけられた[6]

貴族院議員としては「へぼ」(wretched)という評価であり、首相としての評価も極めて低く、『英国下院史英語版』は内閣が「危機に次ぐ危機でよろめいた」(lurched from crisis to crisis)と評し、首相辞任から3年後に陸軍・植民地大臣に返り咲いたことを「驚くべき」(astonishing)ことと評した[16]。さらに、ピールから商務庁長官に任命された後、商務庁副長官だったウィリアム・グラッドストンはすぐにリポン伯爵の能力について低く見積もったという[16]

栄典

爵位

その他名誉職

家族

1814年にセーラ・ホバート(1791年2月23日 - 1867年4月9日、第4代バッキンガムシャー伯爵ロバート・ホバートの娘)と結婚し、彼女との間に以下の3子を儲ける[33]

  • 第1子(長男)ホバート・フレデリック(1816年9月) - 夭折
  • 第2子(長女)エレノア・ヘンリエッタ・ヴィクトリア(? - 1826年10月31日)
  • 第3子(次男)初代リポン侯爵ジョージ・フレデリック・サミュエル(1827年 - 1909年) - 政治家。インド総督などを歴任。

脚注

注釈

  1. ^ カーロウ・バラ選挙区英語版はチャールヴィル伯爵が連合王国議会成立(1801年)直前に購入した懐中選挙区であり、有権者は13人しかいなかった[8]
  2. ^ 原文は"buried it in the grave of the catholic question"[6]。内閣がカトリック解放に賛成したため、内閣に対するいかなる敵意も消え失せたという意味。

出典

  1. ^ a b c d e UK Parliament. “Mr Frederick Robinson” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年3月22日閲覧。
  2. ^ "Goderich". Collins English Dictionary (英語). 2020年6月1日閲覧
  3. ^ a b c d Jupp, P. J. "Robinson, Frederick John, first Viscount Goderich and first earl of Ripon (1782–1859)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/23836 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^ a b c d e f g h i j k Stokes, Winifred; Thorne, R. G. (1986). "ROBINSON, Hon. Frederick John (1782-1859), of Nocton Hall, Lincs.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年6月1日閲覧
  5. ^ a b c "Robinson, the Hon., Frederick John. (RBN799FJ)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
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参考文献

外部リンク

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
マイケル・シムズ英語版
庶民院議員(カーロウ・バラ選挙区英語版選出)
1806年 - 1807年
次代
アンドリュー・ストラハン英語版
先代

ヘッドリー男爵英語版
庶民院議員(リポン選挙区英語版選出)
1807年 - 1827年
同職:ジョージ・ギプス英語版 1807年 - 1826年
ランスロット・シャドウェル英語版 1826年 - 1827年
次代
ルイス・ヘイズ・プチ英語版
ランスロット・シャドウェル英語版
公職
先代
ジョージ・ローズ英語版
イギリスの旗 商務庁副長官英語版
1812年 - 1818年
次代
トーマス・ウォレス英語版
先代
チャールズ・サマーセット卿英語版
イギリスの旗 陸軍支払長官英語版
1813年 - 1817年
同職:チャールズ・ロング英語版
次代
チャールズ・ロング英語版
先代
第2代クランカーティ伯爵英語版
イギリスの旗 商務庁長官
1818年 - 1823年
次代
ウィリアム・ハスキソン
先代
ジョージ・ローズ英語版
イギリスの旗 海軍会計長官英語版
1818年 - 1823年
先代
ニコラス・ヴァンシッタート英語版
イギリスの旗 財務大臣
1823年 - 1827年
次代
ジョージ・カニング
先代
第3代バサースト伯爵
イギリスの旗 陸軍・植民地大臣
1827年
次代
ウィリアム・ハスキソン
先代
ジョージ・カニング
イギリスの旗 首相
1827年8月31日 - 1828年1月21日
次代
初代ウェリントン公爵
先代
第2代リヴァプール伯爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1827年 - 1828年
先代
ジョージ・マレー英語版
イギリスの旗 陸軍・植民地大臣
1830年 - 1833年
次代
スタンリー卿
先代
初代ダラム男爵
イギリスの旗 王璽尚書
1833年 - 1834年
次代
第6代カーライル伯爵
先代
ヘンリー・ラボシェール
イギリスの旗 商務庁長官
1841年 - 1843年
次代
ウィリアム・グラッドストン
先代
第2代フィッツジェラルド=ヴィージー男爵英語版
イギリスの旗 インド庁長官
1843年 - 1846年
次代
サー・ジョン・ホブハウス英語版
イギリスの爵位
爵位創設 初代リポン伯爵
1833年 - 1859年
次代
ジョージ・ロビンソン
初代ゴドリッチ子爵
1827年 - 1859年