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*五男:[[赤松小寅|小寅]]([[内務省 (日本)|内務]]官僚)
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*七男:[[西酉乙]]([[西紳六郎]][[養子]])
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*長女:登志子([[軍医]]・[[作家]][[森外]]妻、のちに法学士の宮下道三郎に嫁いだが、30歳で病死)
*長女:登志子([[軍医]]・[[作家]][[森外]]妻、のちに法学士の宮下道三郎に嫁いだが、30歳で病死)
*孫 
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** [[赤松照彦]](政治家・[[磐田市|磐田]][[市長]])
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* 咸臨丸にて渡米した際、艦長・[[勝海舟]]より、航海中の功績あり、として、[[礼砲]]発射の[[号令]]を発する名誉を授かっている。
* 咸臨丸にて渡米した際、艦長・[[勝海舟]]より、航海中の功績あり、として、[[礼砲]]発射の[[号令]]を発する名誉を授かっている。
* 沼津兵学校勤務の際、明治新政府からの出仕を命ぜられても則良は渋っていた。出仕を決意した背景には勝海舟の助言があったと言われる。
* 沼津兵学校勤務の際、明治新政府からの出仕を命ぜられても則良は渋っていた。出仕を決意した背景には勝海舟の助言があったと言われる。
* 妻・貞はオランダ留学に同行した[[林研海]]の妹であり、同じくその姉を娶った[[榎本武揚]]とも義兄弟となった。また、長女・登志子が[[森外]]に嫁する際、[[媒酌人]]をつとめたのは、同じくオランダ留学生であった[[西周 (啓蒙家)|西周]]である。
* 妻・貞はオランダ留学に同行した[[林研海]]の妹であり、同じくその姉を娶った[[榎本武揚]]とも義兄弟となった。また、長女・登志子が[[森外]]に嫁する際、[[媒酌人]]をつとめたのは、同じくオランダ留学生であった[[西周 (啓蒙家)|西周]]である。
*オランダ留学中、榎本武揚とともに[[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]を観戦しており、その際前線の[[塹壕]]まで進み、[[戦闘]]を直に体験している。また、その帰路にドイツの[[クルップ]]社へ立ち寄り、招待された晩餐の席で、同社[[社長]]の[[アルフレート・クルップ]]と会話している。
*オランダ留学中、榎本武揚とともに[[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]を観戦しており、その際前線の[[塹壕]]まで進み、[[戦闘]]を直に体験している。また、その帰路にドイツの[[クルップ]]社へ立ち寄り、招待された晩餐の席で、同社[[社長]]の[[アルフレート・クルップ]]と会話している。



2020年6月18日 (木) 10:20時点における版

赤松 則良
渾名 日本造船の父
生誕 天保12年11月1日1841年12月13日
死没 (1920-09-23) 1920年9月23日(78歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
最終階級 海軍中将
墓所 吉祥寺東京都文京区
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赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日1841年12月13日) - 大正9年(1920年9月23日)は、日本武士幕臣)、軍人政治家貴族院議員栄典海軍中将従二位勲一等男爵通称大三郎。日本造船と呼ばれる。

経歴

中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。祖父赤松良則(泰輔)の墓は網干本柳寺に現存する。

(旗本である石野赤松家とは祖先を同じとする以外は全く関係ないが一部で混同されている場合がある。軍艦奉行赤松範静大叔父とするのは根拠のない誤りである)

オランダ語学び、蕃書調所に勤める。安政4年(1857年)に長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。万延元年(1860年日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸渡米する。文久元年(1861年)に幕府よりアメリカ留学生として選任される。しかし南北戦争勃発のためオランダ留学生に変更となり、内田正雄榎本武揚澤太郎左衛門らと共に文久2年(1862年)、長崎を出航してオランダへ向かう。

文久3年(1863年)4月にオランダ・ロッテルダムに到着。開陽建造と同時進行で、運用術砲術造船学などを学ぶ。慶応2年(1866年)に完成した開陽丸に乗船して帰国する榎本釜次郎ら、同行のオランダ留学生達と別れてオランダへ残留、留学を継続する。慶応4年(1868年大政奉還を知り、留学を中止し帰国の途に着く。同年5月17日、横浜港へ帰着した。

旧赤松家の門

戊辰戦争が勃発すると、幕府海軍副総裁となった榎本釜次郎と合流して江戸脱走を試みるが果たせず、徳川家臣らと共に静岡藩へ移る。静岡藩沼津兵学校陸軍一等教授方として徳川家のために尽くし、その後は明治政府に出仕して海軍中将にまで累進。主船寮長官、横須賀造船所長、海軍造船会議議長、明治22年(1889年)に開庁した佐世保鎮守府の初代長官などの要職を歴任した。明治20年(1887年)5月24日に男爵を叙爵[1]貴族院議員も務め、1917年9月13日に辞職[2]。明治26年(1893年)に予備役となったのち、見付(現・静岡県磐田市)へ本籍を移し、終の住家として旧赤松家(静岡県・磐田市指定文化財)を建造する。旧赤松家は現在磐田市教育委員会の管理のもと、一般公開されている。明治38年(1905年)10月19日、後備役に編入[3]1909年11月1日に退役[4]。1917年9月14日に隠居した[5]

日本海員掖済会の初代会長1881年1891年委員長、1891年~1905年会長)を務め、明治25年(1892年)3月には、有栖川宮威仁親王を同会総裁に推戴した。

墓所は東京都文京区吉祥寺

栄典

位階
勲章等

家族・親族

子は六男十女とする資料もある。うち一男二女が幼児期に、一女が十代で没している。[11]

このほかにも広幡忠朝児玉源太郎寺内正毅渋沢栄一穂積重遠木戸幸一井上準之助阿部信行菅野尚一村上七郎広田弘毅山尾庸三廣澤金次郎池田勇人田中角栄福原義春松方正義岩崎弥太郎岩崎弥之助後藤象二郎加藤高明幣原喜重郎木内重四郎明石照男中部幾次郎濱口儀兵衛黒田清隆黒木三次犬養毅大原總一郎正田英三郎昭和天皇清水満昭などと縁戚関係にある。

エピソード

  • 咸臨丸にて渡米した際、艦長・勝海舟より、航海中の功績あり、として、礼砲発射の号令を発する名誉を授かっている。
  • 沼津兵学校勤務の際、明治新政府からの出仕を命ぜられても則良は渋っていた。出仕を決意した背景には勝海舟の助言があったと言われる。
  • 妻・貞はオランダ留学に同行した林研海の妹であり、同じくその姉を娶った榎本武揚とも義兄弟となった。また、長女・登志子が森鷗外に嫁する際、媒酌人をつとめたのは、同じくオランダ留学生であった西周である。
  • オランダ留学中、榎本武揚とともに第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦しており、その際前線の塹壕まで進み、戦闘を直に体験している。また、その帰路にドイツのクルップ社へ立ち寄り、招待された晩餐の席で、同社社長アルフレート・クルップと会話している。

脚注

  1. ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
  2. ^ 『官報』第1538号、大正6年9月15日。
  3. ^ 『官報』第6694号、明治38年10月20日。
  4. ^ 『官報』第7909号、明治42年11月2日。
  5. ^ 『官報』第1540号、大正6年9月18日。
  6. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  7. ^ 『官報』第1911号「叙任及辞令」1889年11月9日。
  8. ^ 『官報』第1476号「叙任及辞令」1888年6月2日。
  9. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  10. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  11. ^ 肺病・コッホ・鴎外-結核の比較文化史福田眞人、名古屋大学、1990

参考文献

  • 『赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録』赤松範一編・解説、平凡社東洋文庫、1977年。ワイド版2006年
  • 『日本海員掖済会五十年史』日本海員掖済会、1929年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

関連項目

関連作品

外部リンク

軍職
先代
-
佐世保鎮守府司令長官
初代:1887年9月26日 - 1891年6月17日
次代
林清康
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
赤松(則良)家初代
1887年 - 1917年
次代
赤松範一