コンテンツにスキップ

「ターター (駆逐艦・2代)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 第二次世界大戦の戦役関連記事・テンプレート改名に伴うリンク修正依頼 (第二次世界大戦中の北極海における輸送船団) - log
49行目: 49行目:
8月8日、ターターは[[ジブラルタル]]に向かう[[H部隊]](Force H)の艦艇を護衛し、9月5日には北海への[[機雷]]敷設任務にあたる第1機雷敷設戦隊(1st Minelaying Squadron)を護衛した。10月に[[デヴォンポート海軍基地|デヴォンポート]]で大掛かりな改装を行い、漏水の修理を行うと共に3番砲(X砲)を対空能力強化のため[[:en:QF 4 inch Mk XVI naval gun|4インチ連装高角砲]]に換装した。作業は12月に完了し、ターターはスカパ・フローで第4駆逐艦戦隊(4th Destroyer Flotilla)旗艦となった。
8月8日、ターターは[[ジブラルタル]]に向かう[[H部隊]](Force H)の艦艇を護衛し、9月5日には北海への[[機雷]]敷設任務にあたる第1機雷敷設戦隊(1st Minelaying Squadron)を護衛した。10月に[[デヴォンポート海軍基地|デヴォンポート]]で大掛かりな改装を行い、漏水の修理を行うと共に3番砲(X砲)を対空能力強化のため[[:en:QF 4 inch Mk XVI naval gun|4インチ連装高角砲]]に換装した。作業は12月に完了し、ターターはスカパ・フローで第4駆逐艦戦隊(4th Destroyer Flotilla)旗艦となった。


[[1941年]]1月から2月にかけて、ターターは[[:en:Northern Barrage|北海への数回の機雷敷設作戦]]を支援した。3月には[[ロフォーテン諸島]]への[[特殊作戦]]である[[クレイモア作戦]]に参加、[[ブリティッシュ・コマンドス|コマンド部隊]]が乗艦した船団を護衛し、さらに上陸部隊の支援を行った<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/UN/UK/LondonGazette/38331.pdf Despatch on raid on military and economic objectives in the Lofoten Islands (Norway) 1941 Mar., by Admiral Sir John C. Tovey, Commander-in-Chief, Home Fleet]</ref>。作戦は成功し、[[魚油]]の工場および3,600トンの魚油と[[グリセリン]]を焼き払った。作戦中の3月3日にドイツ船[[:en:SS Deneb|ベルンハルト・シュルテ]]を沈め、3月4日にはドイツ海軍の武装[[トロール船]]クレブスを攻撃し捕獲した。船内からは[[エニグマ暗号機]]と重要文書が回収され、後に[[ブレッチリー・パーク]]での[[暗号]]解読作業に大きく役立った。5月にはターターは[[北極海]]を行く[[北極海の戦い|援ソ船団]]の護衛に従事するが、この期間中にターターはドイツ海軍の戦艦[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]迎撃戦に参加、ビスマルクの沈没に立ち会った<ref name=naval-history.net />。その後スカパ・フローへ帰投中だったターターとマシオナは、[[アイルランド]]西方で[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]機の激しい空襲に見舞われた。およそ50機の[[He111]]と[[Fw200]]による13時間におよぶ空襲の結果、多大な損傷を負ったマシオナは沈没<ref>[http://www.ibiblio.org/anrs/docs/1002wellings_onhismajestysservice.pdf On His Majesty's Service Observations of the British Home Fleet from the Diary Reports and Letters of Joseph H Wellings Assistant US Naval Attache London 1940-41.], p.237</ref> 。ターターはマシオナの士官14名と兵員215名を救助してグリーノックへ送り届けたほか、対空戦闘によってHe111 1機を撃墜し一矢報いた<ref>Wellings, p.238.</ref> 。
[[1941年]]1月から2月にかけて、ターターは[[:en:Northern Barrage|北海への数回の機雷敷設作戦]]を支援した。3月には[[ロフォーテン諸島]]への[[特殊作戦]]である[[クレイモア作戦]]に参加、[[ブリティッシュ・コマンドス|コマンド部隊]]が乗艦した船団を護衛し、さらに上陸部隊の支援を行った<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/UN/UK/LondonGazette/38331.pdf Despatch on raid on military and economic objectives in the Lofoten Islands (Norway) 1941 Mar., by Admiral Sir John C. Tovey, Commander-in-Chief, Home Fleet]</ref>。作戦は成功し、[[魚油]]の工場および3,600トンの魚油と[[グリセリン]]を焼き払った。作戦中の3月3日にドイツ船[[:en:SS Deneb|ベルンハルト・シュルテ]]を沈め、3月4日にはドイツ海軍の武装[[トロール船]]クレブスを攻撃し捕獲した。船内からは[[エニグマ暗号機]]と重要文書が回収され、後に[[ブレッチリー・パーク]]での[[暗号]]解読作業に大きく役立った。5月にはターターは[[北極海]]を行く[[第二次世界大戦中の北極海における輸送船団|援ソ船団]]の護衛に従事するが、この期間中にターターはドイツ海軍の戦艦[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]迎撃戦に参加、ビスマルクの沈没に立ち会った<ref name=naval-history.net />。その後スカパ・フローへ帰投中だったターターとマシオナは、[[アイルランド]]西方で[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]機の激しい空襲に見舞われた。およそ50機の[[He111]]と[[Fw200]]による13時間におよぶ空襲の結果、多大な損傷を負ったマシオナは沈没<ref>[http://www.ibiblio.org/anrs/docs/1002wellings_onhismajestysservice.pdf On His Majesty's Service Observations of the British Home Fleet from the Diary Reports and Letters of Joseph H Wellings Assistant US Naval Attache London 1940-41.], p.237</ref> 。ターターはマシオナの士官14名と兵員215名を救助してグリーノックへ送り届けたほか、対空戦闘によってHe111 1機を撃墜し一矢報いた<ref>Wellings, p.238.</ref> 。


===北極海===
===北極海===

2020年8月16日 (日) 13:14時点における版

HMS ターター
係留されるトライバル級駆逐艦ターター
係留されるトライバル級駆逐艦ターター
基本情報
建造所 スワン・ハンター
運用者  イギリス海軍
級名 トライバル級駆逐艦嚮導艦
愛称 ラッキー・ターター(Lucky Tartar)
建造費 339,750 ポンド
艦歴
起工 1936年8月26日
進水 1937年10月21日
就役 1939年3月10日
退役 1946年
除籍後 1948年1月6日にスクラップとして売却
要目
基準排水量 1,891 トン
満載排水量 2,519 トン
全長 377 ft (115 m)
最大幅 36.6 ft (11.13 m)
吃水 11.3 ft (3.43 m)
機関 蒸気タービン、2軸推進 44,000 shp (33 MW)
最大速力 36ノット (67 km/h)
航続距離 5,700海里 (10,200 km)
15ノット(28km/h)時
乗員 士官、兵員190名(旗艦時219名)
兵装 45口径12cm連装砲×4基
39口径40mm4連装機銃×1基
62口径12.7mm4連装機銃×2基
53.3cm4連装魚雷発射管×1基
爆雷投射機×2基
爆雷投下軌条×1基
爆雷×20発
ソナー 124型 探信儀 (ASDIC)
その他 ペナント・ナンバー:L43(1938年-1939年2月)
F43(1939年2月-1940年5月)
G43(1940年5月-1948年2月)
テンプレートを表示

ターター (HMS Tartar, L43/F43/G43) は、イギリス海軍駆逐艦トライバル級嚮導艦)。艦名はタタール人にちなむ。「ターター」の名を持つ艦としては七代目。

ターターは第二次世界大戦の全期間を戦い抜き、目覚ましい活躍と数多くの危険な状況から生還した幸運から「ラッキー・ターター(Lucky Tartar)」の異名を得た[1] 。ターターはイギリス海軍で就役したトライバル級駆逐艦16隻中戦争を生き残った4隻のうちの1隻であり、大戦中の英艦艇で3番目に多い合計12個の戦闘名誉章 (Battle Honour) を受章した。

艦歴

ターターは1936年度海軍予算に基づき1936年6月12日にタイン・アンド・ウィアスワン・ハンター社へ発注され、1936年8月26日起工、1937年10月21日に進水した。ターターは1939年3月10日に完成し艦長ゲラルド・ハーマン・ワーナー大佐の指揮の下で就役した。

トライバル級の中でターターとアフリディコサックソマリの4隻は、他の同型艦と異なり嚮導艦としての設備を持っていた[2]。ターターのペナントナンバーは当初L43であったが完成前にF43へ改められている。

就役後ターターはトライバル級駆逐艦で編成された本国艦隊第2トライバル駆逐艦戦隊(2nd Tribal Destroyer Flotilla)に配属され、さらに第6駆逐艦戦隊(6th Destroyer Flotilla)へ転籍した。公試と錬成訓練期間中だった1939年6月1日、リヴァプール湾で潜水艦シーティスの沈没事故が発生したため、ターターは本国艦隊の他の艦艇と共に捜索、引き上げ作業を支援した。救援活動後、ターターは公試により発見された不具合を修理するため1939年7月までデヴォンポートで入渠した後スカパ・フローで本国艦隊に復帰した。この時のターターの公試成績は速力35.948ノット、回転数362.5 RPM、出力44,077馬力、排水量2,025英トンであった[3]

本国近海・北海

第二次世界大戦が勃発すると、ターターは戦隊の僚艦と共に主力艦の護衛、封鎖突破船通商破壊艦の要撃、そして対潜哨戒といった多くの活動を行った。11月24日、フェロー諸島沖海戦仮装巡洋艦ラワルピンディドイツ海軍戦艦シャルンホルストグナイゼナウに沈められた後、ターターは2隻を捜索する本国艦隊の艦艇を護衛。悪天候下での活動で艦体の傷みが激しかったため、12月に入渠整備を実施した。

1940年に入ると、ターターはノルウェーの戦いに伴いノルウェーに向かう輸送船団の護衛に従事する。3月には客船クイーン・エリザベスニューヨークへの処女航海を駆逐艦モホークと共に護衛した。4月、ターターはHN24船団とHN25船団の護衛を行い、北海周辺のドイツ艦船捜索に参加。さらに損傷した重巡洋艦サフォークの帰還を護衛すると共に、オンダルスネス及びモルデから撤退する船団の護衛に従事した。以降は5月にかけてノルウェーから撤退する船団の護衛任務を継続。5月24日にターターのペナントナンバーはG43に変更されている[4]

6月上旬にターターはノルウェー沿岸で行動する空母アーク・ロイヤルを護衛した後、戦艦ヴァリアントらと共にオフォトフィヨルド地域から撤退する最後の船団を護衛する。空母グローリアスがドイツの戦艦グナイゼナウとシャルンホルストに沈められたため、6月10日に2隻の敵戦艦の捜索に参加するが空振りに終わった。駆逐艦ベドウィンマシオナと共に対潜哨戒中だった6月19日には、雷撃されて沈んだ中立国ポルトガルの商船の生存者を救助。翌日、ターターとマシオナはフェロー諸島スウェーデンの駆逐艦ロムルスとレムス(元イタリア海軍スピカ級水雷艇)を確保したが、外交交渉の末2隻は解放されスウェーデンに戻っていった。ターターは旗艦ソマリの入渠修理に伴い第6駆逐艦戦隊旗艦として行動したが、自らも舵の修理のため7月中旬に入渠することになった。

8月8日、ターターはジブラルタルに向かうH部隊(Force H)の艦艇を護衛し、9月5日には北海への機雷敷設任務にあたる第1機雷敷設戦隊(1st Minelaying Squadron)を護衛した。10月にデヴォンポートで大掛かりな改装を行い、漏水の修理を行うと共に3番砲(X砲)を対空能力強化のため4インチ連装高角砲に換装した。作業は12月に完了し、ターターはスカパ・フローで第4駆逐艦戦隊(4th Destroyer Flotilla)旗艦となった。

1941年1月から2月にかけて、ターターは北海への数回の機雷敷設作戦を支援した。3月にはロフォーテン諸島への特殊作戦であるクレイモア作戦に参加、コマンド部隊が乗艦した船団を護衛し、さらに上陸部隊の支援を行った[5]。作戦は成功し、魚油の工場および3,600トンの魚油とグリセリンを焼き払った。作戦中の3月3日にドイツ船ベルンハルト・シュルテを沈め、3月4日にはドイツ海軍の武装トロール船クレブスを攻撃し捕獲した。船内からはエニグマ暗号機と重要文書が回収され、後にブレッチリー・パークでの暗号解読作業に大きく役立った。5月にはターターは北極海を行く援ソ船団の護衛に従事するが、この期間中にターターはドイツ海軍の戦艦ビスマルク迎撃戦に参加、ビスマルクの沈没に立ち会った[4]。その後スカパ・フローへ帰投中だったターターとマシオナは、アイルランド西方でドイツ空軍機の激しい空襲に見舞われた。およそ50機のHe111Fw200による13時間におよぶ空襲の結果、多大な損傷を負ったマシオナは沈没[6] 。ターターはマシオナの士官14名と兵員215名を救助してグリーノックへ送り届けたほか、対空戦闘によってHe111 1機を撃墜し一矢報いた[7]

北極海

ローエンブルグへ乗り込もうとするターターの移乗隊。

1941年6月に本国艦隊の任務に復帰し、エニグマ暗号機や重要書類をドイツの気象観測船から捕獲することを目的とした小部隊に配置された。6月26日、軽巡洋艦ナイジェリアを駆逐艦ベドウィンと護衛したターターはスカパ・フローからヤンマイエン島へ向かった。6月28日にターターらはドイツの気象観測船ローエンブルグを発見し、ターターは移乗隊を送り込んで船を確保すると共に重要文書を回収した。最終的にローエンブルグはターターの砲撃で沈められた。7月28日にターターは、援ソ船団の給油地として使用することができるかどうかを確かめるためにスピッツベルゲン島を偵察した。

ターターは8月を通じて北極海で行動した。8月2日にビュルネイ島気象観測基地を破壊し、島のロシア人ムルマンスクへ脱出させた。8月8日にスカパ・フローへ帰還後、国王ジョージ6世の訪問を受け、訓練展示を行った。同月17日には大西洋会談に出席するウィンストン・チャーチル首相が乗る戦艦プリンス・オブ・ウェールズを護衛した。会談後、プリンス・オブ・ウェールズは東へ向かう73隻の船団を追い越したが、引き返すと再度船団を通過して首相と船団は互いに挨拶を交わした。クライド川にプリンス・オブ・ウェールズが到着した後、ターターはロンドンへ帰る首相をグリーノックへ送り届けた[4]

8月20日にターターは、スピッツベルゲン島へ守備隊を輸送する兵員輸送船エンプレス・オブ・オーストラリアと支援船オリガルヒを護衛した。任務成功後、今度は島から避難するロシア人とノルウェー人を乗せたエンプレス・オブ・オーストラリアをムルマンスクまで護衛。その後ターターはロンドンのロイヤル・アルバート・ドックに入渠し、9月から10月中旬にかけて改装を行った。この改装でターターにはマストの換装、後部煙突の短縮、爆雷の装備位置変更、285型火器管制レーダーの装備といった工事が行われた。作業完了後にはスカパ・フローへ戻り、第6駆逐艦戦隊旗艦になった。

1942年1月から2月には援ソ船団護衛に従事し、PQ-7B、QP-5、PQ-12PQ-13、QP-9船団を護衛。3月8日にターターは、不成功に終わった本国艦隊による戦艦ティルピッツ捜索を護衛した。悪天候下での高速航行が原因で前部主砲に大きな損傷を負ったため、3月の終わりにハルへ向かい、ブリガム・アンド・コーワンズ造船所で6月まで修理を行った。

地中海

フォアサイトにターターの魚雷が命中した瞬間を捉えた写真。

1942年8月、ターターは地中海での作戦行動を支援した。ターターは極度の物資不足で危機的状況に陥っていたマルタ島を救援する輸送作戦であるペデスタル作戦に護衛艦艇の1隻として加わることになった。イタリア海軍の潜水艦ウアルシエクに発見された船団は、8月11日から航空機と潜水艦による攻撃にさらされた。8月12日にターターはイタリア海軍の潜水艦グラニトに爆雷攻撃を行い、僚艦ルックアウトも潜水艦エモに爆雷攻撃を加えた[4]。空襲で駆逐艦フォアサイトが航行不能となったため、ターターはフォアサイトを曳航しジブラルタルへ連れ帰ろうと試みた。曳航中にターターはUボートU-73からの攻撃を受けたが、幸い被害はなかった。しかし、この攻撃を受けてフォアサイトを救う望みは絶たれたと判断され、ターターはフォアサイトの乗員を移乗させたうえで魚雷1本を撃ち込み処分した。大きな損害を出しながらもペデスタル作戦は成功しマルタ島の危機は去ったため、ターターはスカパ・フローへ戻り本国艦隊に復帰した。

9月の復帰後、ターターはPQ-18船団とQP-14船団の護衛を行った。10月にターターはモロッコアルジェリアへの上陸作戦トーチ作戦の支援のために地中海へ戻る。この展開中に、11月8日から30日にかけて艦隊と船団の護衛や対潜哨戒を実施した。そしてアルジェでQ部隊(Force Q)に加わったターターは、敵から多くの攻撃を加えられながらも1943年2月から周辺海域での敵船団迎撃と味方船団護衛を行った。同年4月28日にターターはアルジェリアのマレッティモ島付近でSボートと交戦、5月7日には僚艦と共に、ボン岬周辺海域でチュニジアから兵員を脱出させる敵の船舶に対する海上封鎖を実施した。

サレルノ沖で対空戦闘を行うターター。1943年9月9日撮影。

6月、ターターはパンテッレリーア島への上陸作戦(コークスクリュー作戦)、7月にはシチリア島への上陸作戦であるハスキー作戦を支援。7月11日、橋頭堡の沖合でドイツ空軍機に空襲されて沈んだ病院船タランバの生存者約200名を救助している。翌日には空襲で火災を起こした弾薬輸送船バーンを撃沈処分した。駆逐艦エスキモーが空襲で損傷したため、13日にターターはエスキモーをマルタ島へ曳航した[4]。8月にターターはイタリア本土カラブリアサレルノへの上陸に参加。ターターは9月19日にドイツ軍の反撃を阻止すべく砲撃支援を行い、さらに誘導爆弾(フリッツXもしくはHs293)による空襲を切り抜ける。10月の終わりにターターはイギリスへ帰還し、1944年2月まで改装を行った。この改装によりメインマストは三脚式からラティスマストへ変更されている。

本国近海・英仏海峡

1944年3月から4月にかけて、プリマス管区に配属されたターターは第10駆逐艦戦隊(10th Destroyer Flotilla)旗艦としてドーバー海峡を行く船団の護衛と共に、フランス沿岸の敵船団捜索・攻撃に従事する(トンネル作戦)。5月にはノルマンディー上陸作戦に備えフランス沿岸に機雷敷設を行う敷設巡洋艦アポロを軽巡洋艦ベローナと護衛、上陸が始まった6月6日にターターと第10駆逐艦戦隊の僚艦は、上陸船団へのドイツ軍による妨害を阻止すべくドーバー海峡で活動した。

海戦後、戦闘で傷んだ戦闘旗を掲げるターターの乗員。

6月9日にターターを含む第10駆逐艦戦隊とドイツ海軍の艦艇との間で戦闘が発生した(ブルターニュ沖海戦)。この海戦でドイツの駆逐艦ZH1Z32を沈めたが、ターターも反撃を受けて損傷した。ターターの艦橋と厨房が被弾し火災が発生、4名が戦死し艦長兼戦隊司令(Captain (D))バジル・ジョーンズ大佐を含む12名が負傷した。ターターのメインマストは横倒しになり、全てのレーダーと無線通信が使用不能になった。戦闘後、ターターはデヴォンポートで修理を行った。

ドーバー海峡周辺での任務に復帰したターターは、7月7日にチャンネル諸島沖でドイツ海軍第46戦隊の掃海艇を迎撃し、掃海艇M4601とM4605の2隻を撃沈した[4]。8月6日にターターとベローナ、駆逐艦アシャンティカナダ海軍の駆逐艦ハイダイロコイサン=ナゼール沖の敵船団を攻撃し、掃海艇M263、M486、哨戒艇V414そして1隻の沿岸ランチと小型船4隻を沈めた[4]

極東

ターターは1944年11月から1945年2月までの更なる改装の後、東インド諸島艦隊への配属が決まった。1945年3月に、ターターは数隻の護衛空母を護衛してジブラルタルへ向かい、トリンコマリーへ発つ前に地中海で演習を実施した。4月20日のトリンコマリー到着後、ターターは第10駆逐艦戦隊と共に艦隊護衛やアンダマン・ニコバル諸島周辺の日本海軍艦船の捜索を行った。それからターターはカー・ニコバルポートブレアへの空襲作戦、ラングーンへの上陸作戦であるドラキュラ作戦に参加している。

6月12日、第65任務部隊(Force 65)として行動中だったターターとヌビアン、エスキモー、ペンパラディンスマトラ島サバン北方において日本海軍第57号駆潜艇と雑役船第二黒潮を撃沈している[8][4]。これは第二次世界大戦において、物資輸送の妨害を目的としたイギリス海軍による最後の水上戦闘であった[9]

ターターは艦隊護衛と敵船舶捜索を継続したが、この期間中には何度も空襲に見舞われた。しかしターターに損傷や犠牲者が出ることは全くなかった。ターターはマレー半島への上陸作戦であるジッパー作戦への参加が決まるが、日本の降伏に伴い中止された。1945年9月2日の東京湾における日本の降伏文書調印にターターも立ち会った。

戦後

1945年9月7日にターターはペナンを発ち、11月17日に本国プリマスへ到着。ターターは1946年初めに退役し予備役に編入される。予備役兵の宿泊艦として使用された後、1947年に廃棄リストに載った。1948年1月6日にブリティッシュ・アイアン・アンド・スチール・コーポレーション(BISCO)にスクラップとして売却され、2月22日に解体のためニューポートのJ.キャッシュモアのヤードに到着した。

栄典

ターターは生涯で12個の戦闘名誉章(Battle Honour)を受章した。これは第二次世界大戦の英海軍艦艇で3番目に多い記録である。

・Norway 1940-41 ・ Bismarck Action 1941 ・ Arctic 1941 ・ Malta Convoys 1942 ・ North Africa 1942-43 ・ Sicily 1943 ・ Salerno 1943 ・ Mediterranean 1943 ・ Normandy 1944 ・ English Channel 1944 ・ Biscay 1944 ・ Burma 1945[4]

脚注

参考文献

  • Brice, Martin H. (1971). The Tribals. London: Ian Allan. ISBN 0-7110-0245-2 
  • English, John (2001). Afridi to Nizam: British Fleet Destroyers 1937–43. Gravesend, Kent: World Ship Society. ISBN 0-905617-64-9 
  • Friedman, Norman (2006). British Destroyers and Frigates, the Second World War and After. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-86176-137-6 
  • Haarr, Geirr H. (2010). The Battle for Norway: April–June 1940. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 978-1-59114-051-1 
  • Haarr, Geirr H. (2009). The German Invasion of Norway, April 1940. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 978-1-59114-310-9 
  • Hodges, Peter (1971). Tribal Class Destroyers. London: Almark. ISBN 0-85524-047-4 
  • Lenton, H. T. (1998). British & Empire Warships of the Second World War. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-55750-048-7 
  • March, Edgar J. (1966). British Destroyers: A History of Development, 1892-1953; Drawn by Admiralty Permission From Official Records & Returns, Ships' Covers & Building Plans. London: Seeley Service. OCLC 164893555 
  • Rohwer, Jürgen (2005). Chronology of the War at Sea 1939–1945: The Naval History of World War Two (Third Revised ed.). Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-59114-119-2 
  • Whitley, M. J. (1988). Destroyers of World War Two. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-326-1 

外部リンク

関連項目