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「台湾総督府医学校」の版間の差分

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==概要==
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[[1895年]]6月に[[台湾総督府]]により台湾統治の開始式典である「始政式」が執り行われた4日後、[[台北]][[大稲テイ|大稲{{Lang|zh|}}]][[大日本台湾病院]]が設置され[[日本]]より[[医師]]10名、[[薬剤師]]9名、[[看護師]]20名が派遣された。[[1897年]]4月には台湾での医師養成を目的に病院内に医学講習所が設けられた。そして、第4代台湾総督[[児玉源太郎]]ならびに[[台湾総督府#総務長官|民政局長]][[後藤新平]]による[[児玉・後藤政治]]下の、{{fact|[[1898年]]3月台湾総督府医学校が設立された|date=2018年12月}}。付属の医院も同年、台湾総督府台北医院に改称された<ref name=one>[http://jsmh.umin.jp/journal/54-3/275.pdf 台湾の医学に影響を与えた日本人―耳鼻咽喉科の場合]王敏東、『日本醫史學雜誌』第54巻第3号、日本医史学会、2008年</ref>。医学校の就学年限は4年であり、別に[[予科]]1年が設けられ、第一期は70名の学生が募集された。当初は、台湾内地人のみを対象とした。一般に植民地教育は原住者の初等教育よりも、高等教育を重視することが通例である。統治の助手を養成すると同時に、一般庶民に教育から遠ざけ、統治のための便宜を図るためである。台湾もこの例にもれない。そのため、本医学校は、台湾内地人を対象とする唯一の高等教育機関であった<ref>矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」岩波書店(1988年復刻版)158ページ</ref>。
[[1895年]]6月に[[台湾総督府]]により台湾統治の開始式典である「始政式」が執り行われた4日後、[[台北]][[大稲埕]][[大日本台湾病院]]が設置され[[日本]]より[[医師]]10名、[[薬剤師]]9名、[[看護師]]20名が派遣された。[[1897年]]4月には台湾での医師養成を目的に病院内に医学講習所が設けられた。そして、第4代台湾総督[[児玉源太郎]]ならびに[[台湾総督府#総務長官|民政局長]][[後藤新平]]による[[児玉・後藤政治]]下の、{{fact|[[1898年]]3月台湾総督府医学校が設立された|date=2018年12月}}。付属の医院も同年、台湾総督府台北医院に改称された<ref name=one>[http://jsmh.umin.jp/journal/54-3/275.pdf 台湾の医学に影響を与えた日本人―耳鼻咽喉科の場合]王敏東、『日本醫史學雜誌』第54巻第3号、日本医史学会、2008年</ref>。医学校の就学年限は4年であり、別に[[予科]]1年が設けられ、第一期は70名の学生が募集された。当初は、台湾内地人のみを対象とした。一般に植民地教育は原住者の初等教育よりも、高等教育を重視することが通例である。統治の助手を養成すると同時に、一般庶民に教育から遠ざけ、統治のための便宜を図るためである。台湾もこの例にもれない。そのため、本医学校は、台湾内地人を対象とする唯一の高等教育機関であった<ref>矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」岩波書店(1988年復刻版)158ページ</ref>。


医学校は後に[[台湾総督府医学専門学校]]、[[台北医学専門学校]]、[[台北帝国大学]]附属医学専門部を経て現在の台湾大学医学院へと変遷していく。
医学校は後に[[台湾総督府医学専門学校]]、[[台北医学専門学校]]、[[台北帝国大学]]附属医学専門部を経て現在の台湾大学医学院へと変遷していく。

2020年9月11日 (金) 06:13時点における版

台北帝国大学医学專門部
(台湾総督府医学校)
公用語表記 臺北帝國大學醫學專門部
(臺灣總督府醫學校)
大学設置年 1897年:医学講習所
1899年:台湾総督府医学校
1936年:台北帝国大学医学專門部
所在地 大日本帝国の旗 台湾台北州台北市東門町6番地
廃止 1945年
後身校 中華民国の旗 国立台湾大学医学部

台湾総督府医学校(たいわんそうとくふいがっこう)は現在の台湾大学医学部の前身である台湾最初の正規医学学校である。

概要

1895年6月に台湾総督府により台湾統治の開始式典である「始政式」が執り行われた4日後、台北大稲埕大日本台湾病院が設置され日本より医師10名、薬剤師9名、看護師20名が派遣された。1897年4月には台湾での医師養成を目的に病院内に医学講習所が設けられた。そして、第4代台湾総督児玉源太郎ならびに民政局長後藤新平による児玉・後藤政治下の、1898年3月台湾総督府医学校が設立された[要出典]。付属の医院も同年、台湾総督府台北医院に改称された[1]。医学校の就学年限は4年であり、別に予科1年が設けられ、第一期は70名の学生が募集された。当初は、台湾内地人のみを対象とした。一般に植民地教育は原住者の初等教育よりも、高等教育を重視することが通例である。統治の助手を養成すると同時に、一般庶民に教育から遠ざけ、統治のための便宜を図るためである。台湾もこの例にもれない。そのため、本医学校は、台湾内地人を対象とする唯一の高等教育機関であった[2]

医学校は後に台湾総督府医学専門学校台北医学専門学校台北帝国大学附属医学専門部を経て現在の台湾大学医学院へと変遷していく。

校長

  • (兼)山口秀高中国語版:1899年4月1日 -
  • (心得)松尾知明:1902年1月16日 - 4月7日
  • (兼)高木友枝:1902年3月31日 - 1907年8月23日
  • 高木友枝:1907年8月23日 - 1912年2月28日
  • (兼)高木友枝:1912年2月28日 - 1915年3月31日
  • 堀内次雄:1915年3月31日 -

教員

主な出身者

脚注

  1. ^ 台湾の医学に影響を与えた日本人―耳鼻咽喉科の場合王敏東、『日本醫史學雜誌』第54巻第3号、日本医史学会、2008年
  2. ^ 矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」岩波書店(1988年復刻版)158ページ

参考文献