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西部の[[ボヘミア]]、[[モラヴィア]]地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した({{仮リンク|チェヒ国|cs|České knížectví|en|Duchy of Bohemia}})。907年に[[マジャル人]]が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部[[スロバキア]]は[[ハンガリー]]の支配を受けることになった。10世紀後半から[[カトリック教会|カトリック]]が普及した。11世紀には[[ドイツ人]]の植民が行われ、[[ドイツ化]]が進んだ。12世紀の[[オタカル1世]]の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後[[ヴァーツラフ1世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ1世]]が国王に即位した。 |
西部の[[ボヘミア]]、[[モラヴィア]]地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した({{仮リンク|チェヒ国|cs|České knížectví|en|Duchy of Bohemia}})。907年に[[マジャル人]]が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部[[スロバキア]]は[[ハンガリー]]の支配を受けることになった。10世紀後半から[[カトリック教会|カトリック]]が普及した。11世紀には[[ドイツ人]]の植民が行われ、[[ドイツ化]]が進んだ。12世紀の[[オタカル1世 (ボヘミア王)|オタカル1世]]の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後[[ヴァーツラフ1世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ1世]]が国王に即位した。 |
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13世紀末には[[神聖ローマ帝国]][[選帝侯]]の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人の[[ルクセンブルク家]]による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝では[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カレル1世]](カール4世)が[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]]に即位し、[[ボヘミア王国]]は全盛期を迎えた。首都[[プラハ]]は中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年には[[プラハ・カレル大学|プラハ大学]]が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。 |
13世紀末には[[神聖ローマ帝国]][[選帝侯]]の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人の[[ルクセンブルク家]]による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝では[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カレル1世]](カール4世)が[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]]に即位し、[[ボヘミア王国]]は全盛期を迎えた。首都[[プラハ]]は中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年には[[プラハ・カレル大学|プラハ大学]]が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。 |
2021年5月19日 (水) 21:23時点における版
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- チェコ共和国
- Česká republika
-
(国旗) (国章) - 国の標語:Pravda vítězí
(チェコ語:真実は勝つ) - 国歌:Kde domov můj(チェコ語)
我が家何処や -
公用語 チェコ語 首都 プラハ 最大の都市 プラハ 独立
- 日付チェコスロバキア解体
1993年1月1日通貨 チェコ・コルナ(CZK) 時間帯 UTC+1 (DST:+2) ISO 3166-1 CZ / CZE ccTLD .cz ※a 国際電話番号 420 ※b -
※a: 欧州連合加盟国として.euを共用。
※b: 1997年までは、スロバキアと共に42を採用。
チェコ共和国(チェコきょうわこく、チェコ語: Česká republika、英: Czech Republic)、通称チェコは、中央ヨーロッパ[注釈 1]の共和制国家。首都はプラハである。国土は東西に細長い六角形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。
1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離し成立した。NATO、EU、OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。
国名
正式名称(チェコ語)は Česká republika [ˈtʃɛskaː ˈrɛpuˌblɪka] ( 音声ファイル)(チェスカー・レプブリカ:チェコ共和国)。通称は Česko [ˈt͡ʃɛsko](チェスコ)。ドイツ語表記だとTschechienチェッヒェンである。
英語での公式名称は Czech Republic [ˈtʃɛk ɹɨˈpʌblɪk] ( 音声ファイル)(チェク・リパブリック)だった。チェコ外務省が1993年に提唱した通称にラテン語風の Czechia (チェキア)があり、チェコ政府は2016年4月14日に公式にこの略称を英語圏および国連に向けて使用することを発表したが[5][6][7]、現在一般的に使われているとは言いがたく、“Czech Republic” をそのまま用いることが多い。
日本語ではチェコ共和国(外務省統一表記)。通称チェコ。かつての外務省書類などではチェッコという表記が使用された[注釈 2]。
かつてひとつの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族によるひとつの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。
チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。プラハを中心とした “Čechy” [ˈt͡ʃɛxɪ](チェヒ、ラテン名「ボヘミア」)、ブルノを中心とした “Morava” [mɔˈrava](モラーヴァ、ラテン名「モラヴィア」)、さらにポーランド国境近くの “Slezsko” [ˈslɛsskɔ, ˈslɛskɔ](スレスコ、ラテン名「シレジア」)の3つの地方がチェコ共和国を形成している。
ボヘミア地方を示す “Čechy”(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。歴史的に、チェコ語における Čechy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。そのため、特にチェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、“Česká republika”、“Czech republic” を用いる。
現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける “Česko” は、チェコスロバキア時代の通称 “Československo” から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。
歴史
古代 - 中世
古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後ゲルマン人が定住したが[8]、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配、続いてアバール人が支配者となった。9世紀前半、スラヴ人が大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/72/Karte_B%C3%B6hmen_unter_Karl_IV.png/220px-Karte_B%C3%B6hmen_unter_Karl_IV.png)
西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国)。907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配を受けることになった。10世紀後半からカトリックが普及した。11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。12世紀のオタカル1世の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。
13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。
15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」とみなされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱が起きた(フス戦争)。
その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「暗黒時代」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国、続く共産主義政権のプロパガンダが多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。
民族主義の目覚めからチェコスロバキア共和国建国まで
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/52/Czechoslovakia01.png/250px-Czechoslovakia01.png)
18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まった。1848年にヨーロッパに広がった1848年革命がチェコ革命を誘発し、パラツキーがプラハでスラヴ人会議を開催し、汎スラヴ主義が提唱された。1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになった。19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。
第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、1918年に民族自決の理念のもとチェコスロバキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼすべてを支配し、スロバキア人と対立した。そのため、スロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となり、チェコスロバキアは地図から姿を消した(ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体)。
共産主義政権とその崩壊後
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c1/Czechoslovakia.png/250px-Czechoslovakia.png)
第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。1946年、1940年から1945年までエドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんどの人が財産を奪われたうえ、チェコスロバキアから追放された(この「ベネシュ布告」は現在のチェコおよびスロバキアにおいても有効であり、どちらの国でも撤回されていない。1946年までチェコに領地を持っていたリヒテンシュタイン公国はこれを法律による重大な人権侵害だとして、2009年までチェコ・スロバキア両国を国家として承認するのを拒否してきた[9])。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/22/Havla_1989.jpg/220px-Havla_1989.jpg)
1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年に共産主義政権を設立し、「人民民主主義」を宣言した(二月事件)。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン主義的抑圧に対する不満が爆発し、ノヴォトニー政権に代わりスロバキア人のドゥプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれた。しかし、改革の行方に懸念を抱いたソ連を含むワルシャワ条約機構5か国の軍が介入(チェコスロヴァキア侵攻)、スロバキア人のフサーク政権が樹立され、正常化体制路線を推し進めた。国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、当時の東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自滅し、信者は宗教不信から無神論者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の消費財の生産は活発化した。
1989年からのビロード革命によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。1993年1月にチェコスロバキアはチェコとスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。
2002年8月、記録的な豪雨によってヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し(欧州洪水)、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。
政治
国家元首は議会によって選出される大統領である。任期は5年で3選は禁止され、2013年以降はミロシュ・ゼマンが務める。大統領は首相を任命し、その補佐を受けて17名の大臣も任命する。近年では、2010年5月28 - 29日に実施された総選挙の結果、中道左派のチェコ社会民主党が第1党となったものの議席の過半数には程遠く、また連立政権の樹立のめどが立たないため敗北を宣言した。このため、第2党の市民民主党と新党のTOP 09、公共の物との間で中道右派の連立政権を発足させることで合意し、その首班には市民民主党党首のペトル・ネチャスが任命された。しかし、ネチャスは2013年、自身の首席補佐官で愛人と噂されていたヤナ・ナジョヴァーが逮捕されるというスキャンダルで引責辞任し、後任に同党のイジー・ルスノクが就いた。
議会は元老院と代議院によって構成される。代議院は議席数200、任期は4年で、比例代表制による直接選挙で選出される。元老院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。チェコ共和国発足当初、元老院は選挙方法などが決まらず、代議院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の小選挙区制による元老院選挙が行われて両院制が整った。
軍事
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地方行政区分
チェコの地方行政区画は2000年に再編され[要出典]、プラハ首都特別区および13のクライと呼ばれる行政区に区分されている。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/23/Czech_Rep._-_Bohemia%2C_Moravia_and_Silesia_III_%28en%29.png/400px-Czech_Rep._-_Bohemia%2C_Moravia_and_Silesia_III_%28en%29.png)
主要都市
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Spilberk_wiki.jpg/220px-Spilberk_wiki.jpg)
都市 | 州 | 人口 (2010) | |
---|---|---|---|
1 | プラハ | 1,249,026 | |
2 | ブルノ | 南モラヴィア州 | 371,399 |
3 | オストラバ | モラヴィア・スレスコ州 | 306,006 |
4 | プルゼニ | プルゼニ州 | 169,935 |
5 | リベレツ | リベレツ州 | 101,625 |
6 | オロモウツ | オロモウツ州 | 100,362 |
7 | チェスケー・ブジェヨヴィツェ | 南ボヘミア州 | 94,747 |
8 | フラデツ・クラーロヴェー | フラデツ・クラーロヴェー州 | 94,255 |
都市・村の一覧
地理
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/60/Satellite_image_of_Czech_Republic_in_September_2003.jpg/300px-Satellite_image_of_Czech_Republic_in_September_2003.jpg)
チェコの地形は非常に変化に富んでいる。国土は、西に隣接するドイツとの国境線から東のスロバキアまで広がるボヘミア高原にある。北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、エルベ川、ヴルタヴァ川、モラヴァ川、オーデル川。最高峰はズデーテン山地にあるスニェジカ山である。
経済
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Praha_Pankrac.jpg/220px-Praha_Pankrac.jpg)
国際通貨基金(IMF)による統計ではチェコのGDPは1,985億ドル、一人あたりのGDP(為替レート)は1万8,857ドルであり、EU平均の半分、世界水準の1.8倍である[いつ?]。
オーストリア=ハンガリー帝国時代に早くから産業革命が進み、1930年代には世界第7位の工業国であった。かつての共産党政権下での中央集権的な計画経済から、市場経済への移行を遂げている。もともとチェコスロバキアは旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化が推し進められた。1980年代から西側企業の進出が相次いでおり、ビロード革命などの混乱はあったが、1994年には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中ではスロベニアやハンガリーなどと並んで高い水準を維持している。1995年にOECD、2004年にはEU加盟国となった。2009年の世界経済危機以降は成長率が鈍化している[要出典]。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9e/SkodaSuperbII.jpg/220px-SkodaSuperbII.jpg)
2004年にチェコがEUに加盟してから2007年末までの経済成長により、チェコの平均給与は40%以上も上昇した[要出典]。このような状況で、チェコの労働者は高い給料を求めて次々と転職を繰り返し、ひとつの企業で長く働くことはなくなり、企業の教育もおぼつかない状態になった。安くて良質な労働力を期待してチェコに殺到した外資系メーカーは深刻な人手不足と納期不達に悩み、急上昇する人件費は企業の利益を急激に圧迫する要因となっている。打開策として、国内のメーカーは製造ラインのロボット化を進める一方、ベトナムやモンゴルから安くて優秀な労働者を大量に雇いチェコへ労働移民として送り込む方向である[10]。チェコの工場を閉鎖して別の国に工場を新設することを検討している企業も多い。
主要輸出品目は機械、輸送機器、化学製品、金属などで、主要輸出相手国はドイツ、スロバキア、ポーランド、オーストリア、フランス、イギリス、イタリアである[要出典]。一方、主要輸入品目は機械、輸送機器、鉱物性燃料、化学製品、農産物で、主要輸入相手国はドイツ、ロシア、中国、イタリア、フランス、オーストリア、オランダ、スロバキア、ポーランドである[要出典]。
伝統産業
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/78/BLW_Bohemian_Jug.jpg/140px-BLW_Bohemian_Jug.jpg)
交通
国民
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/10/Kroj_Kunovice_-_zenati_1.jpg/140px-Kroj_Kunovice_-_zenati_1.jpg)
チェコ人が2016年時点で64.3%と多数派であるが、次に多い分類は民族を主張しない人々である (25.3%)。少数派はモラヴィア人5%、スロバキア人1.4%、ウクライナ人1.0%のほか、ポーランド人、ドイツ人、シレジア人、マジャル人、ロマその他の人々が合計3%を占める[11][12]。
かつてズデーテン地方で多数派であったドイツ人は、第二次世界大戦後の追放によりそのほとんどが本国ドイツに戻された。また戦前に多かったユダヤ人のコミュニティも消滅している(詳細はチェコのユダヤ人を参照)。
政府によって少数民族のための会議 (Rada vlády pro národnostní menšiny)が設けられており、認定された少数民族は法律などに影響を受ける場合、意見を述べることが認められ、また母語教育や政府の支援などの権利がある[13]。
公認された少数民族はベラルーシ人、ブルガリア人、クロアチア人、ハンガリー人、ドイツ人、ポーランド人、ロマ、ルシン人、ロシア人、ギリシャ人、スロバキア人、セルビア人、ウクライナ人、ベトナム人[14]。
言語
言語はチェコ語が公用語である[15]。公的に認められた言語[注釈 3][注釈 4]としてスロバキア語[18]、ドイツ語、ポーランド語、ギリシャ語、ハンガリー語、ロマ語、ロシア語、ルシン語、セルビア語、ウクライナ語があり、2013年以降はベトナム語[17]とベラルーシ語[17]が加わった。
宗教
前近代よりフス戦争などの熾烈な宗教戦争が戦われてきたチェコでは、その複雑な歴史的経緯から無宗教者が多く、60%がこのグループに属する。そのほか、カトリックが27.4%、プロテスタント1.2%、フス派が1%である[注釈 5]。かわりに自民族至上主義を掲げる排他的な民族主義が非常に強いという特徴がある[要出典]。
キリスト教圏ではあるが、1913年以来チェコのカトリック教会は火葬を容認しており、また、上述の通り無宗教者が多いこともあって、ヨーロッパ諸国のなかではイギリスと並んで火葬率が高い[要出典]。
婚姻
文化
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/Kafka1906.jpg/140px-Kafka1906.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/60/Smetana.jpg/140px-Smetana.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/Dvorak.jpg/140px-Dvorak.jpg)
食文化
飲み物
- ビール - チェコはビールの国民1人あたりの年間消費量が世界一である。2005年統計では1人あたり161.5リットルで、日本の3.3倍の消費量にのぼる。ピルゼン地方を発祥の地とするピルスナータイプ(ラガービールの一種)は、チェコをはじめとした欧州諸国のみならず、日本のような非ビール文化圏も含めた世界中に広がりを見せている。
- ピルスナー・ウルケル
- ブドヴァル(ブドヴァイゼル。英語読みはバドワイザー。ただし、バドワイザーは登録商標である)
料理
- クグロフ
- クネドリーキ(クネーデル)
- グラーシュ
- スマジェニツェ(smaženice)
- スマジェニー・カプル(Smažený kapr)- コイの唐揚げ[21]。クリスマスの行事食。
- スマジェニー・ジーゼック(Smažený řízek)- 薄くたたいた豚肉、鶏肉の唐揚げ[21]。シュニッツェル。
- スマジェニー・スィール - チーズの衣揚げ
- スヴィチュコヴァー - 野菜を煮込んだソース
- トゥルデルニーク - チェコ風シナモンロール。砂糖を練りこんだパン生地を太い鉄の棒にらせん状に巻きつけて筒状に焼き、内側にシナモンなどをまぶした菓子パン。
- パーレック・フ・ロフリーク(Párek v rohlíku)- チェコ風ホットドッグ。「ロールの中のソーセージ」という意味で、ロールパンにマスタード・ソーセージを入れたもの。
- ブランボラーク - じゃがいものパンケーキ[22]。
- リビー・ポレーフカ(Rybí polévka)- 魚のスープ。クリスマスの行事食[21]。
文学
- アニメーション作家
音楽
- ベドルジハ・スメタナ(ベドジフ・スメタナ)
- アントニン・ドヴォルザーク(アントニーン・ドヴォジャーク)
スポーツ
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/Nagano_1998-Russia_vs_Czech_Republic.jpg/200px-Nagano_1998-Russia_vs_Czech_Republic.jpg)
チェコでもっとも人気のあるスポーツはアイスホッケーであり、国技ともいわれる。NHLに多数の選手が所属し、国内リーグでも首都プラハに本拠を置く2つのクラブチームは100年の歴史を有する。ナショナルチームは1998年長野オリンピックではドミニク・ハシェックなどの活躍で同国冬季五輪初の金メダルを、トリノオリンピックでは銅メダルを獲得した強豪でもある。2004年にはこの長野五輪の活躍を描いたオペラ「NAGANO」が上演された。同国出身で長野五輪の金メダルの立役者でもあるNHLのトップ・プレーヤー、ヤロミール・ヤーガーは移籍を重ねても常に68(「プラハの春」の年)の背番号をつけている。フィギュアスケートでもトマシュ・ベルネルやミハル・ブジェジナなど、オリンピック選手を輩出している。
一方、ほかのヨーロッパ諸国同様サッカーも人気があり、チェコスロバキア時代はワールドカップで2回準優勝(1934、1962年大会)している。チェコ代表はFIFAランキング最高2位まで上がったヨーロッパの強豪として知られ、ヨーロッパ選手権では1996年大会で準優勝するなど実績がある。しかし、選手層が厚くないためかワールドカップではヨーロッパ予選をなかなか突破できず、1993年のスロバキアとの分離後は2006年大会以外出場できていない。世代交代に失敗した2000年代後半からは低落傾向にある。代表的な選手にはパベル・ネドベド(引退)、ヤン・コレル(引退)、トマーシュ・ロシツキー(アーセナル)、ペトル・チェフ(チェルシー)、ミラン・バロシュ(ガラタサライ)、マレク・ヤンクロフスキ(FCバニーク・オストラヴァ)などがいる。
日本ではヘルシンキオリンピックでの男子マラソンのエミール・ザトペック、1964年東京オリンピックでのヴィェラ・チャースラフスカー(ベラ・チャスラフスカ)の女子体操が古くから広く知られている。
テニスでもマルチナ・ナブラチロワ、ハナ・マンドリコワ、ヤナ・ノボトナ、イワン・レンドル、ペトル・コルダなどの名選手を輩出している。近年では、ラデク・ステパネク、ニコル・バイディソバ、トマーシュ・ベルディハ、ペトラ・クビトバなどの若手の活躍もめざましい。
自転車競技ではロードレースにおいてヤン・スヴォラダがツール・ド・フランスなどの世界的レースで活躍したほか、オンドジェイ・ソセンカがツール・ド・ポローニュで2度の総合優勝を果たし、UCIアワーレコード(1時間でどれだけの距離を走れるかの世界記録)を長らく保持していた。ロマン・クロイツィガーも2008年のツール・ド・スイスに22歳で総合優勝したのち、その後もアムステルゴールドレースで優勝するなど、世界の第一線で活躍している。また、ZVVZチームがジャパンカップに参戦するなどしている。
陸上競技ではやり投で男子のヤン・ゼレズニーと女子のバルボラ・シュポタコバがともに世界記録を保持するなど、盛んな競技である。
近年ではスキー、スノーボード、スピードスケートなども盛んに行われている。
世界遺産
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d4/Hradschin_Prag.jpg/220px-Hradschin_Prag.jpg)
チェコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件存在する。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Nový rok | |
変動祝日 | イースターマンデー | Velikonoční pondělí | |
5月1日 | メーデー | Svátek práce | |
5月8日 | 勝戦記念日 | Den osvobození | 1945年のヨーロッパでの第二次世界大戦の終結を記念 |
7月5日 | ツィリルとメトジェイの日 | Příchod Cyrila a Metoděje na Moravu | |
7月6日 | ヤン・フスの日 | Upálení Jana Husa | ヤン・フスの命日 |
9月28日 | チェコ国体記念日 | Den české státnosti | |
10月28日 | 独立記念日 | Vznik Československa | 1918年のチェコスロバキアの独立記念日 |
11月17日 | 自由と民主主義のための闘争の日 | Den boje za svobodu a demokracii | 1989年のビロード革命を記念 |
12月24日 | クリスマス・イヴ | Štědrý den | |
12月25日 | クリスマス | První svátek vánoční | |
12月26日 | ボクシング・デー | Druhý svátek vánoční |
著名な出身者
脚注
注釈
- ^ 歴史的には中欧の概念ができた時点から中欧の国であった。ソ連の侵攻後、政治的には東欧に分類されてきたが、ヨーロッパ共産圏が全滅した時点で再び中欧または中東欧に分類されている。
- ^ なお、「チェッコ」という場合は、日中戦争期のチェコスロバキア製軽機関銃を指すこともある(→ZB26軽機関銃)
- ^ 少数民族に属する国民で伝統的にまた長期間にわたりチェコの領土に居住する者は、公的機関ならびに法廷におけるやり取りに民族語を使うことが公認される。公認少数民族語の一覧は国家少数民族方針[16]を参照。また2013年7月4日付でベラルーシ語とベトナム語は条件付きで公認された[17]。チェコの根源的権利と基本的自由の憲章(英語版)第25条の規定により、国民ならびに少数民族民に対してその個々の言語による教育と当局との意思疎通を保証する。法令第500/2004号 Coll.(行政規則)第16項(4)の規定では、伝統的かつ長期的に国内または少数民族に属するチェコ共和国の市民がチェコ共和国の領土に居住する場合は、行政機関への連絡において少数民族言語でその前に進む権利がある。行政機関に言語の知識を持った従業員がいない場合、行政機関は自費で翻訳者を得る義務を負う。法律第273/2001号(「少数民族の一員の権利に関して」)第9項(「当局との取引および法廷における少数民族言語を使用する権利」)によると同じことが出廷した少数民族の一員にも該当する。
- ^ チェコにおいてスロバキア語は一定の条件のもとで公認言語とされ、その規定は複数の法律に基づく。すなわち法律第500/2004号、同337/1992号など[18]。
- ^ 2011年時点の調査によると無回答44.7%、無宗教者34.5%が占め、キリスト教徒と答えた人は12.6–38.6%でカトリックは10.5%、他の宗派2.1%、その他の宗教が0.7%であった[19]。
出典
- ^ “Surface water and surface water change”. OECD. 2029年11月14日閲覧。
- ^ “Census of Population and Housing 2011: Basic final results” (英語). 2013年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月19日閲覧。
- ^ “Czech Statistical Office” (英語). 2011年1月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月19日閲覧。
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ “チェコ、英語略称を「チェキア」に 国連登録を申請へ”. CNN.co.jp. (2016年4月24日) 2016年4月27日閲覧。
- ^ “チェコの英語の略称は「チェキア」に ロシア南部の「チェチニア」に似ているとの声も”. 産経新聞. (2016年4月16日) 2016年4月27日閲覧。
- ^ “英語の国名は「チェキア」に、チェコ政府が声明”. フランス通信社. (2016年4月15日) 2016年4月27日閲覧。
- ^ タキトゥス『ゲルマーニア』 1979, pp. 201–203.
- ^ “Liechtenstein and the Czech Republic establish diplomatic relations” (PDF) (英語). tabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit (2009年7月12日). 2011年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月18日閲覧。
- ^ スティーブ・モリヤマ (2008年5月8日). “チェコ:模索する「外資依存型経済」の次”. アジア・国際 > 知られざる欧州の素顔. 日経BP. 2011年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月26日閲覧。
- ^ “Archived copy”. 2018年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月2日閲覧。
- ^ “Wayback Machine” (2018年1月12日). 2018年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ “チェコ政府、ベトナム出身者を少数民族に認定”. VITE JO. 2020年9月26日閲覧。
- ^ “Národnostní menšiny”. チェコ政府. 2020年9月26日閲覧。
- ^ “Czech language”. Czech Republic – Official website. チェコ外務省(英語版). 2011年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年11月14日閲覧。
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- ^ a b c “Česko má nové oficiální národnostní menšiny. Vietnamce a Bělorusy” (cz). 2013年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月10日閲覧。
- ^ a b Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 title は必須です。“{{{title}}}” (cz). 2005年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月10日閲覧。 “"Například Správní řád (zákon č. 500/2004 Sb.) stanovuje: "V řízení se jedná a písemnosti se vyhotovují v českém jazyce. Účastníci řízení mohou jednat a písemnosti mohou být předkládány i v jazyce slovenském ..." (§ 16, odstavec 1). Zákon o správě daní a poplatků (337/1992 Sb.) "Úřední jazyk: Před správcem daně se jedná v jazyce českém nebo slovenském. Veškerá písemná podání se předkládají v češtině nebo slovenštině ..." (§ 3, odstavec 1)”
- ^ “Population by religious belief and by municipality size groups” (pdf) (英語). Czech Statistical Office(チェコ統計局). 2015年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月23日閲覧。
- ^ “What’s in a name?”. expats.cz (2013年8月7日). 2018年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月26日閲覧。
- ^ a b c “チェコのクリスマスディナー”. www.roboraion.cz. 2020年11月14日閲覧。
- ^ “チェコ風じゃがいものパンケーキ(ブランボラーク)”. ハウス食品. 2020年11月14日閲覧。
参考文献
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関連項目
外部リンク
- 政府
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- チェコ共和国公式サイト:Ministry of Foreign Affairs of the Czech Republic (チェコ語)(英語)
- チェコ共和国政府:Úvodní stránka | Vláda ČR (チェコ語)(英語)
- チェコ大統領府:Prezident ČR - Pražský hrad (チェコ語)(英語)
- チェコ共和国大使館 (日本語)
- 日本政府
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- チェコ共和国 | 外務省 (日本語)
- 在チェコ共和国日本国大使館 (日本語)
- 観光
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- チェコ政府観光局:Czech Republic - (日本語)
ウィキトラベルには、チェコに関する旅行ガイドがあります。
- その他
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- JETRO - チェコ (日本語)