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**[[アデル・ド・フランス (ヴェクサン女伯)|アデル]](アデライードとも、1160年 - 1220年頃) - [[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード獅子心王]]の婚約者、のちポンチュー伯ギヨーム4世妃、[[ヴェクサン]]女伯 |
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2021年5月24日 (月) 21:12時点における版
ルイ7世 Louis VII | |
---|---|
フランス国王 | |
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在位 | 1137年 - 1180年 |
戴冠式 |
1131年10月18日、ランス 1137年12月25日 |
出生 |
1120年 |
死去 |
1180年9月18日 フランス王国、サン=ポン |
埋葬 | フランス王国、サン=ポン、のちサン=ドニ大聖堂 |
配偶者 | アリエノール・ダキテーヌ |
コンスタンス・ド・カスティーユ | |
アデル・ド・シャンパーニュ | |
子女 | 後述 |
家名 | カペー家 |
王朝 | カペー朝 |
父親 | ルイ6世 |
母親 | アデル・ド・サヴォワ |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
ルイ7世(Louis VII, 1120年 - 1180年9月18日)は、フランス・カペー朝第6代国王(在位:1137年 - 1180年)。ルイ6世と2番目の王妃アデル・ド・サヴォワの息子。 若王(le Jeune)と呼ばれる。
生涯
サン=ドニ修道院に育ち、院長シュジェール(シュジェ)の教えを受け、祈りと神への献身を何よりの生き甲斐とする、物静かな王子であったという。しかし、父王の共同国王の位についていた兄フィリップが1131年に落馬事故で早世したため、代わって共同国王に立てられた[1][2]。1137年にアキテーヌ女公アリエノールと結婚し、同年の父王の崩御にともない単独のフランス王となった[3]。
1147年、クレルヴォーのベルナルドゥスの勧誘[4]で知られる第2回十字軍に参加、ダマスカスの攻防戦に失敗し[5]1152年に帰国する。帰国後、男子に恵まれず、さらにアンティオキア公レーモン(アリエノールの叔父)の支援をめぐり亀裂が生じたアリエノールと同年3月21日に離婚する[6](実際の名目は近親婚[7][8])。
離婚から2か月後、アリエノールはアンジュー伯アンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)と再婚した[6][9]。このためルイ7世はアキテーヌ領を失い、長らくヘンリー2世と争った(1157年 - 1180年)。その後もイングランド王と西フランスの支配をめぐって紛争を重ね、この大陸のアンジュー家領は後の英仏間の百年戦争の原因となった[10]。また、ルイ7世はヘンリー2世の迫害を受けたカンタベリー大司教トマス・ベケットを保護した[11]。フランス王国最初の王令を発布し、王室の修史事業の発端が始められるのも彼の治世であった。「ルイ7世には武人としても政治家としても非凡なところは何もなかった。そのような君主のもとでの王権の増大は、ますます特徴的である」というのは、歴史家ピレンヌの評価である。
後継ぎとなる男子のない王は、1154年にカスティーリャ王アルフォンソ7世の娘コンスタンスと結婚し2女をもうけたが、1160年に死別した。すると王は同年のうちにシャンパーニュ伯ティボー2世の娘アデルと3度目の結婚をした。その際、最初の妃アリエノールとの間にもうけたマリーとアリックスの娘2人をアデルの兄2人と婚約させ、1164年に嫁がせている。1165年、アデルとの間に待望の男子フィリップ(のちのフィリップ2世)が誕生した[12]。フィリップは1179年11月1日に戴冠した[13]。
1180年9月18日ルイ7世は崩御した。崩御後、サン=ポン (Saint-Pont) の修道院に埋葬されたが、遺棺は王政復古期の1817年、サン=ドニに移された。
逸話
かつての妻であったアリエノールは、「王と結婚したと思っていたら修道士だった」と述べており[14]、また、一人息子のフィリップ2世が病気になった時、ヘンリー2世と戦争中だったにもかかわらず、聖トマス(トマス・ベケット)の祠に病気治癒を祈願するため、フランス王で初めてイングランドを訪れている。
子女
- 1137年7月25日、ボルドーでアリエノール・ダキテーヌと結婚したが、1152年3月21日に離婚した。
- 1154年にコンスタンス・ド・カスティーユと結婚、1160年に死別した。
- 1160年にアデル・ド・シャンパーニュと結婚した。
- フィリップ(1165年 - 1223年) - フランス王
- アニェス(アンヌとも、1171年 - 1220年) - 東ローマ皇帝アレクシオス2世コムネノス后、同アンドロニコス1世コムネノス后、テオドロス・ブラナスと再々婚。
脚注
関連資料
- 佐藤賢一 『カペー朝 フランス王朝史 1』 講談社現代新書、2009年
- 堀越孝一・三浦一郎 『世界の歴史5 中世ヨーロッパ』 社会思想社〈現代教養文庫 A705〉、1974年、ISBN 4-390-10825-5
- アンリ・ルゴエレル 『プランタジネット家の人びと』 白水社、2000年
- 桐生操 『王妃アリエノール・ダキテーヌ』 新書館、1988年
- 柴田三千雄、樺山紘一ほか 『世界歴史大系 フランス史1』 山川出版社、1995年
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