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また、当時[[アルフレッド・ノーベル]]は[[ダイナマイト]]の発明で大富豪となる。数年間転地を繰り返したあと、ノーベルは[[パリ]]に定住し、新聞広告によって秘書を探す。ベルタはその職に志願し、すぐに雇用される。アルトゥーア・フォン・スットナーへの愛のため、ベルタは1876年にパリをあとにする。極秘結婚の後、夫妻は[[コーカサス]]の[[ジョージア (国)|ジョージア]](グルジア)へと赴く。金銭的な心労に悩まされる。語学教師や音楽教師としてベルタは生活費を捻出する。数年間のコーカサス滞在のあと、夫妻はヨーロッパに戻る。パリで、ベルタ・フォン・スットナーは初めて組織化された平和運動の存在を知る。ベルタは人生のテーマを見つけたのである。1889年の「武器を捨てよ!」は熱情的な本であり、また戦争の悲惨さの現実的な描写によって、読者を狼狽させる本である。スットナーは平和主義の先駆け戦士になっていく。ほとんどひとりで1891年にオーストリア平和協会を設立する。スットナー夫妻は、当時年々攻撃的になっていく反ユダヤ主義にはっきりと反対する姿勢をとる。1891年、アルトゥーア・フォン・スットナーは「反ユダヤ主義に対する防御協会」を設立し、ベルタから熱情的に援護される。これによって、夫妻は国粋主義者、尊僧主義者、反ユダヤ主義者たちを敵にまわすことになる。
また、当時[[アルフレッド・ノーベル]]は[[ダイナマイト]]の発明で大富豪となる。数年間転地を繰り返したあと、ノーベルは[[パリ]]に定住し、新聞広告によって秘書を探す。ベルタはその職に志願し、すぐに雇用される。アルトゥーア・フォン・スットナーへの愛のため、ベルタは1876年にパリをあとにする。極秘結婚の後、夫妻は[[コーカサス]]の[[ジョージア (国)|ジョージア]](グルジア)へと赴く。金銭的な心労に悩まされる。語学教師や音楽教師としてベルタは生活費を捻出する。数年間のコーカサス滞在のあと、夫妻はヨーロッパに戻る。パリで、ベルタ・フォン・スットナーは初めて組織化された平和運動の存在を知る。ベルタは人生のテーマを見つけたのである。1889年の「武器を捨てよ!」は熱情的な本であり、また戦争の悲惨さの現実的な描写によって、読者を狼狽させる本である。スットナーは平和主義の先駆け戦士になっていく。ほとんどひとりで1891年にオーストリア平和協会を設立する。スットナー夫妻は、当時年々攻撃的になっていく反ユダヤ主義にはっきりと反対する姿勢をとる。1891年、アルトゥーア・フォン・スットナーは「反ユダヤ主義に対する防御協会」を設立し、ベルタから熱情的に援護される。これによって、夫妻は国粋主義者、尊僧主義者、反ユダヤ主義者たちを敵にまわすことになる。


世界的に有名な女性となったベルタ・フォン・スットナーは多くの平和議会で親交を結び、休むことなく国際平和運動のために働く。スットナーは1894年、新しいロシア皇帝[[ニコライ2世]]に大きな期待をかける。たしかにロシア皇帝は軍備縮小や国際平和会議を要求する「平和声明」を布告。しかしロシア皇帝のフィンランド政策や満州政策が皇帝の偽りをあばく。スットナーはニコライ2世を長い間かばい、それによって多くの同志をとまどわせる。ロシア皇帝の提唱で最初の平和会議が1899年にオランダの[[デン・ハーグ]](ハーグ)で招集される。参加者はしかし、平和主義者ではなく、外交官、各国政府高官や軍人たちである。軍備縮小や戦時国際法に関する問題についての論議はほとんど成果を見ない。モナコ公国の大公[[アルベール1世 (モナコ公)|アルベール]]もスットナーの影響下、ヨーロッパ平和運動に参加する。しかし、将来のスポンサーを得るというスットナーの希望は叶えられなかった。スットナーはアメリカ合衆国でもっとも大きな成果を得る。ここではスットナーは婦人運動のアイドルでもある。高年齢による体の痛みなどにもかかわらず、平和運動の協賛者を常に探し求めているスットナーは1904年と1912年にアメリカへ渡る。
世界的に有名な女性となったベルタ・フォン・スットナーは多くの平和議会で親交を結び、休むことなく国際平和運動のために働く。スットナーは1894年、新しいロシア皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]に大きな期待をかける。たしかにロシア皇帝は軍備縮小や国際平和会議を要求する「平和声明」を布告。しかしロシア皇帝のフィンランド政策や満州政策が皇帝の偽りをあばく。スットナーはニコライ2世を長い間かばい、それによって多くの同志をとまどわせる。ロシア皇帝の提唱で最初の平和会議が1899年にオランダの[[デン・ハーグ]](ハーグ)で招集される。参加者はしかし、平和主義者ではなく、外交官、各国政府高官や軍人たちである。軍備縮小や戦時国際法に関する問題についての論議はほとんど成果を見ない。モナコ公国の大公[[アルベール1世 (モナコ公)|アルベール]]もスットナーの影響下、ヨーロッパ平和運動に参加する。しかし、将来のスポンサーを得るというスットナーの希望は叶えられなかった。スットナーはアメリカ合衆国でもっとも大きな成果を得る。ここではスットナーは婦人運動のアイドルでもある。高年齢による体の痛みなどにもかかわらず、平和運動の協賛者を常に探し求めているスットナーは1904年と1912年にアメリカへ渡る。


ベルタ・フォン・スットナーとアルフレード・ノーベルの友情は20年間続いた。平和運動への高額寄付を促すべく、スットナーは何度も大富豪ノーベルに働きかける。1896年、ノーベルの死の一週間前にもスットナーはノーベル宛てに手紙を書いた:「そして、このことはもろ手を挙げてお願いします:あなたの援助を絶対に止めないでください。絶対に。私たちすべてがいつかは入る墓の彼岸にあってさえも。」 彼の遺言(のちのノーベル賞)について、スットナーは当時まだ何も知らなかった。スットナーのノーベルへの影響なくしてノーベル平和賞は存在しない。それはスットナーもはっきりと意識している。スットナーは最初の数年間授与対象として無視されることに大変落胆する。スットナーは平和運動のためにも、彼女自身のためにも、資金を渇望している。1914年、あらゆる国家が大急ぎで軍備拡張する。スットナーは必死に大きな戦争の危険を忠告するが嘲笑される。スットナーの死後1週間経った1914年6月21日、オーストリア帝国の皇位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]が[[サラエヴォ|サライェヴォ]](サラエボ)市で銃撃により暗殺され、その結果、1ヵ月後にオーストリア・ハンガリー二重君主国のセルビアに対する宣戦布告となり、[[第一次世界大戦]]が始まることとなる。
ベルタ・フォン・スットナーとアルフレード・ノーベルの友情は20年間続いた。平和運動への高額寄付を促すべく、スットナーは何度も大富豪ノーベルに働きかける。1896年、ノーベルの死の一週間前にもスットナーはノーベル宛てに手紙を書いた:「そして、このことはもろ手を挙げてお願いします:あなたの援助を絶対に止めないでください。絶対に。私たちすべてがいつかは入る墓の彼岸にあってさえも。」 彼の遺言(のちのノーベル賞)について、スットナーは当時まだ何も知らなかった。スットナーのノーベルへの影響なくしてノーベル平和賞は存在しない。それはスットナーもはっきりと意識している。スットナーは最初の数年間授与対象として無視されることに大変落胆する。スットナーは平和運動のためにも、彼女自身のためにも、資金を渇望している。1914年、あらゆる国家が大急ぎで軍備拡張する。スットナーは必死に大きな戦争の危険を忠告するが嘲笑される。スットナーの死後1週間経った1914年6月21日、オーストリア帝国の皇位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]が[[サラエヴォ|サライェヴォ]](サラエボ)市で銃撃により暗殺され、その結果、1ヵ月後にオーストリア・ハンガリー二重君主国のセルビアに対する宣戦布告となり、[[第一次世界大戦]]が始まることとなる。

2021年6月13日 (日) 10:06時点における版

Bertha von Suttner
ベルタ・フォン・ズットナー
ベルタ・フォン・ズットナー c. 1906
誕生 (1843-06-09) 1843年6月9日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国 プラハ
死没 1914年6月21日(1914-06-21)(71歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン
職業 小説家
主な受賞歴 ノーベル平和賞 (1905)
ウィキポータル 文学
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ベルタ・フェリツィタス・ゾフィー・フライフラウ・フォン・スットナー(Bertha Felicitas Sophie Freifrau von Suttner, 1843年6月9日 - 1914年6月21日)は、オーストリア小説家。急進的な平和主義者で、ノーベル平和賞を受賞した最初の女性。

生い立ち

ズットナーはグレーフィン(伯爵令嬢)・キンスキー・フォン・ウヒニッツ・ウント・テッタウ(Gräfin Kinsky von Wchinitz und Tettau)として、オーストリア陸軍元帥フランツ=ヨゼフ・グラーフ・キンスキー・フォン・ウヒニッツ・ウント・テッタウ(1768年 - 1843年)とその妻ゾフィー・ケルナー(1815年 - 1884年)の間に生まれる。その時父親は75才で、彼女の生まれた1843年に死去した為、実家は没落していた。彼女には未婚のまま死んだ兄、アルトゥール・フランツ・グラーフ・キンスキー・フォン・ウヒニッツ・ウント・テッタウがいた。

1873年からズットナー男爵家の四姉妹の家庭教師を務めた事で知り合った同家の御曹司アルトゥール・グンダッカー・フォン・ズットナーArthur Gundaccar von Suttner, 1850年 - 1902年)から結婚を申し込まれる。しかし彼女はアルトゥールより7才年上である理由でズットナー家から強い反対を受け、家庭教師の職を解雇された。1876年に彼女はアルフレッド・ノーベルが出したパリの邸宅での秘書兼家政婦募集の公告に応募する。彼女はウィーンに戻る前の1876年6月12日にアルトゥールと秘密裏に結婚した。

ズットナーは1889年に小説「Die Waffen nieder!(武器を捨てよ!)」を発表し、平和活動の先駆者となる。1891年にはオーストリア平和の友の会を設立した。1892年には国際平和ビューローに加入し終身会員であり同副会長も務めた。彼女の活動は国際的なものとなり、平和運動誌「武器を捨てよ」(彼女の著書から取られた誌名)を発行した。彼女の活動はヘンリー・トマス・バックルハーバート・スペンサーチャールズ・ダーウィンらに大きな影響を受けたものであった。

ノーベルとの個人的関係は家政婦をやめた後も続いたが、ノーベルの晩年には対立もしていた。これはズットナーは、平和への取り組みで平和会議や講演、出版などを主体とした平和協会の設立を訴えていたがノーベルは国家間の安全保障条約の締結や現在の国連のような組織を目指していたためで、ノーベルとのやり取りは1896年にノーベルが死去するまで文通で続けられた。そのためノーベルがノーベル賞に平和部門を創設したのは彼女の影響が大きかったとされ、自身も平和賞創設に貢献した事を主張していたが当時のノーベル財団側はこれを否定していた。また、平和賞創設の際は初受賞はズットナーであると噂されていたが実際の受賞はノーベル死後9年後の1905年のことだった。(これは当時のスウェーデン国王オスカル2世がズットナーを過激な平和運動家として嫌ったからとも言われている。)「武器を捨てよ!」は1914年に映画化された。

かつてのオーストリア1000シリング紙幣にその肖像が見られたが、現在のオーストリアの2ユーロ硬貨にも彼女の同じ肖像が描かれている。

生涯

ベルタ・ソフィア・フェリツィタ・フォン・ヒニッツ及びテッタウ伯爵令嬢は1843年にプラハ市(現・チェコ共和国首都)で生まれる。伯爵令嬢として生まれたが、一度として「上流階級」に属したことはなかった。ベルタの母ソフィアは一般市民の出であり、夫の死後はその実家から避けられる。母ソフィーが夫の遺産を主に賭け事で使い果たしたのち、ベルタは母から独立しスットナー男爵宅で令嬢たちの住み込み教師として自己意識にかなう独自の収入を得る。男爵子息のひとり、アルトゥーア・フォン・スットナーに恋をする。のちのベルタの夫である。

また、当時アルフレッド・ノーベルダイナマイトの発明で大富豪となる。数年間転地を繰り返したあと、ノーベルはパリに定住し、新聞広告によって秘書を探す。ベルタはその職に志願し、すぐに雇用される。アルトゥーア・フォン・スットナーへの愛のため、ベルタは1876年にパリをあとにする。極秘結婚の後、夫妻はコーカサスジョージア(グルジア)へと赴く。金銭的な心労に悩まされる。語学教師や音楽教師としてベルタは生活費を捻出する。数年間のコーカサス滞在のあと、夫妻はヨーロッパに戻る。パリで、ベルタ・フォン・スットナーは初めて組織化された平和運動の存在を知る。ベルタは人生のテーマを見つけたのである。1889年の「武器を捨てよ!」は熱情的な本であり、また戦争の悲惨さの現実的な描写によって、読者を狼狽させる本である。スットナーは平和主義の先駆け戦士になっていく。ほとんどひとりで1891年にオーストリア平和協会を設立する。スットナー夫妻は、当時年々攻撃的になっていく反ユダヤ主義にはっきりと反対する姿勢をとる。1891年、アルトゥーア・フォン・スットナーは「反ユダヤ主義に対する防御協会」を設立し、ベルタから熱情的に援護される。これによって、夫妻は国粋主義者、尊僧主義者、反ユダヤ主義者たちを敵にまわすことになる。

世界的に有名な女性となったベルタ・フォン・スットナーは多くの平和議会で親交を結び、休むことなく国際平和運動のために働く。スットナーは1894年、新しいロシア皇帝ニコライ2世に大きな期待をかける。たしかにロシア皇帝は軍備縮小や国際平和会議を要求する「平和声明」を布告。しかしロシア皇帝のフィンランド政策や満州政策が皇帝の偽りをあばく。スットナーはニコライ2世を長い間かばい、それによって多くの同志をとまどわせる。ロシア皇帝の提唱で最初の平和会議が1899年にオランダのデン・ハーグ(ハーグ)で招集される。参加者はしかし、平和主義者ではなく、外交官、各国政府高官や軍人たちである。軍備縮小や戦時国際法に関する問題についての論議はほとんど成果を見ない。モナコ公国の大公アルベールもスットナーの影響下、ヨーロッパ平和運動に参加する。しかし、将来のスポンサーを得るというスットナーの希望は叶えられなかった。スットナーはアメリカ合衆国でもっとも大きな成果を得る。ここではスットナーは婦人運動のアイドルでもある。高年齢による体の痛みなどにもかかわらず、平和運動の協賛者を常に探し求めているスットナーは1904年と1912年にアメリカへ渡る。

ベルタ・フォン・スットナーとアルフレード・ノーベルの友情は20年間続いた。平和運動への高額寄付を促すべく、スットナーは何度も大富豪ノーベルに働きかける。1896年、ノーベルの死の一週間前にもスットナーはノーベル宛てに手紙を書いた:「そして、このことはもろ手を挙げてお願いします:あなたの援助を絶対に止めないでください。絶対に。私たちすべてがいつかは入る墓の彼岸にあってさえも。」 彼の遺言(のちのノーベル賞)について、スットナーは当時まだ何も知らなかった。スットナーのノーベルへの影響なくしてノーベル平和賞は存在しない。それはスットナーもはっきりと意識している。スットナーは最初の数年間授与対象として無視されることに大変落胆する。スットナーは平和運動のためにも、彼女自身のためにも、資金を渇望している。1914年、あらゆる国家が大急ぎで軍備拡張する。スットナーは必死に大きな戦争の危険を忠告するが嘲笑される。スットナーの死後1週間経った1914年6月21日、オーストリア帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナントサライェヴォ(サラエボ)市で銃撃により暗殺され、その結果、1ヵ月後にオーストリア・ハンガリー二重君主国のセルビアに対する宣戦布告となり、第一次世界大戦が始まることとなる。

略歴

  • 1843年6月9日:ベルタ・ソフィア・フェリツィタ・フォン・ヒニッツ及びテッタウ伯爵令嬢(Bertha Sophia Felicita Gräfin Kinsky von Chinitz und Tettau)として、プラハ市(現在はチェコ共和国の首都)、アルトシュテッター・リング通りに面したキンスキー邸で生まれる。子供時代をブルノ市(現在チェコ共和国)の母ソフィーのもとで過ごす。
  • 1856年~1873年:ウィーン市(現在オーストリア共和国の首都)に転居、のちにウィーン市近郊にあるクロースター・ノイブルク市に転居する。ドイツのヴィースバーデン、フランスのパリ、ドイツのバーデン・バーデン、イタリアのベネチア、ドイツのバート・ホンブルクに滞在する。
  • 1864年夏:ミングレリア公国(西グルジア地方)大公夫人エカテリーナ・ダディアーニと知り合う。
  • 1873年より1875年まで:ウィーン市とニーダーエースターライヒ州のハルマンスドルフにおいて、カール・フォン・スットナー男爵家の令嬢4人の住み込み教師。男爵令息のアルトゥーアとひそかな関係を持つ。
  • 1875年秋より1876年夏まで:パリにてアルフレッド・ノーベルの秘書。
  • 1876年6月12日:ウィーン・グンペンドルフ(現在ウィーン6区)の聖エギディオ教会でアルトゥーア・フォン・スットナーとの秘密結婚式
  • 1876年夏より1885年春まで:スットナー夫妻はコーカサス、ジョージョア(グルジア)で生活する。
  • チフリス市(現在トビリシ市)、クタイス市、ズグディディ市に滞在。
  • 1885年5月:オーストリアに戻る。
  • 1885年10月:ベルリンで文筆家会議の訪問
  • 1886年から1887年にかけての冬:パリ滞在。
  • はじめて平和運動に触れる。
  • 1889年:「武器を捨てよ!」刊行。
  • 1890年から1891年にかけての冬:ベネチア滞在。「列国会議」代表者たちとの接触。
  • 1891年:ローマで開催された第3回世界平和会議にて初めての大きな公式の場での登場。「オーストリア平和協会」の設立。
  • 1892年:「反ユダヤ主義に対する防御協会」設立、ドイツのベルリン市、スイスのベルン市とチューリッヒ市への旅行。
  • 1896年12月10日:アルフレッド・ノーベル死去。
  • 1899年:第1回デン・ハーハ(ハーグ)万国平和会議
  • 1902年12月10日:アルトゥーア・フォン・スットナー逝去。
  • 1903年:「国際平和研究会」をモナコに開設する。
  • 1904年:第1回アメリカ旅行、ボストン世界平和会議。ワシントン市で大統領セオドア・ルーズベルトに謁見。
  • 1905年12月:スットナーに対し、ノーベル平和賞が認定される。
  • 1906年春:クリスティアニア(現在のオスロ市)でノーベル平和賞を受け取る。スカンジナビア半島を縦断する講演旅行。
  • 1907年:第2回デン・ハーハ(ハーグ)万国平和会議。
  • 1912年:第2回アメリカ旅行。
  • 1914年6月21日:ベルタ・フォン・スットナー、ウィーンで逝去。遺体は遺志により火葬、ベルタの灰壷はドイツの(当時から火葬が可能だった)ゴータ市に安置されている。

著作リスト

  • Ein schlechter Mensch, München 1885 (悪い男)
  • Daniela Dormes, München 1886 (ダニエラ・ドルメス)
  • Das Maschinenalter entsteht, 1889 (機械時代の到来)
  • Die Waffen nieder!, 1889 (武器を捨てよ!)
  • Vor dem Gewitter, Wien 1894 (雷雨の前に)
  • Einsam und arm, Dresden 1896 (孤独と貧困)
  • Die Haager Friedenskonferenz, Leipzig 1900 (ハーグの平和会議)
  • Marthas Kinder („Die Waffen nieder“ – Teil II ) 1902 (マルタの子供たち)
  • Franzl und Mirzl, Leipzig 1905 (フランツルとミルツル)
  • Die Entwicklung der Friedensbewegung, Leipzig 1907 (平和運動の発展)
  • Randglossen zur Zeitgeschichte, 1892–1900 und 1907–1914 (現代史への評注)
  • Rüstung und Überrüstung, Berlin 1909 (軍備と過剰軍備)
  • Der Menschheit Hochgedanken, Berlin 1911 (人類の高い思想)
  • Die Barbarisierung der Luft, Berlin 1912 (空の蛮行)

(以上の作品はいずれも日本語には未訳であり、右に添えたのは便宜的な直訳である。)

日本語訳著作

参考書籍

外部リンク