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公式の英語表記は、{{lang|en|''Kingdom of Morocco''}}(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、{{lang|en|''Morocco''}}。
公式の英語表記は、{{lang|en|''Kingdom of Morocco''}}(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、{{lang|en|''Morocco''}}。


日本語の表記は、'''モロッコ王国'''。通称、'''モロッコ'''。[[国名の漢字表記一覧|漢字の当て字]]は、'''摩洛哥'''・'''馬羅哥'''・'''莫羅哥'''・'''茂禄子'''など<ref>「[http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_02.html#18 外務省: 外交史料 Q&A その他]」[[外務省]]、2010年4月21日閲覧。</ref>。
日本語の表記は、'''モロッコ王国'''。通称、'''モロッコ'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字の当て字]]は、'''摩洛哥'''・'''馬羅哥'''・'''莫羅哥'''・'''茂禄子'''など<ref>「[http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_02.html#18 外務省: 外交史料 Q&A その他]」[[外務省]]、2010年4月21日閲覧。</ref>。


アラビア語の国名にある「[[マグリブ]]」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。
アラビア語の国名にある「[[マグリブ]]」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。

2021年8月8日 (日) 22:34時点における版

モロッコ王国
ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ(ベルベル語)
المملكة المغربية(アラビア語)
モロッコの国旗 モロッコの国章
国旗 国章
国の標語:الله، الوطن، الملك
ⴰⴽⵓⵛ, ⴰⵎⵓⵔ, ⴰⴳⵍⵍⵉⴷ
(神、国、王)1
国歌国王万歳
モロッコの位置
公用語 アラビア語[1]ベルベル語[1]
首都 ラバト
最大の都市 カサブランカ
政府
国王 ムハンマド6世
首相 サアデディン・オスマニ
面積
総計 446,550km256位2[2]
水面積率 0.1%
人口
総計(2019年 36,471,800人(40位2[2]
人口密度 81人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 6,714億[3]モロッコ・ディルハム
GDP(MER
合計(2008年863億[3]ドル(57位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2008年1,367億[3]ドル(51位
1人あたり 4,349[3]ドル
独立フランスから
1956年3月2日
通貨 モロッコ・ディルハムMAD
時間帯 UTC+1 (DST:なし)
ISO 3166-1 MA / MAR
ccTLD .ma
国際電話番号 212
1 この標語は、憲法に明記された現国王の標語である。
2 モロッコ本土のみのデータ。

モロッコ王国(モロッコおうこく、アラビア語: المملكة المغربية‎、ベルベル語: ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ)、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制国家。東にアルジェリアと、南に西サハラサハラ・アラブ民主共和国)と、北にスペイン飛地セウタメリリャ)に接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバト
南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による(亡命)政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。モロッコは西サハラの約7割を実効支配しているが、国際的には認められていない。実効支配下を含めた面積は約599,500km2(うち、西サハラ部分が189,500km2)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査[4])。

地中海世界アラブ世界の一員であり、地中海連合アラブ連盟アラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場から独立国家として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退しアフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。

国名

正式名称はアラビア語で、المملكة المغربية(ラテン文字転写は、Al-Mamlaka al-Maghribiya:アル=マムラカ・アル=マグリビーヤ)。通称、المغرب(al-Maghrib:アル・マグリブ)。「マグリブの王国」を意味する。

公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。通称、Maroc

公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、Morocco

日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ漢字の当て字は、摩洛哥馬羅哥莫羅哥茂禄子など[5]

アラビア語の国名にある「マグリブ」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。

アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都マラケシュに由来する。

トルコ語での国名は「Fas」で、1925年までの首都フェズに由来する。

歴史

アル=アンダルスのイスラーム化

マウレタニアの領域。

先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴフェニキア人により港湾都市が築かれたが、内陸部ではベルベル系マウリ人マウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州マウレタニア・ティンギタナとなった。

ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系ヴァンダル人ジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。

788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派ファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。

しかし後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年クンビ=サレー英語版を攻略してガーナ帝国を滅ぼし、再度北進しジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。

18世紀まで

ムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールの時代に造営されたクトゥビーヤ・モスク
ラス・ナーバス・デ・トローサの戦い

1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナーシルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。

マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルエンリケ航海王子ジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。

マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。

サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年アルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。

1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。

フランス資本の定着まで

続くスライマーン(Slimane)は鎖国政策を採ったが、1830年にフランスアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦い英語版で敗れた。1856年にはイギリス不平等条約を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。1859年にはスペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。

1873年、新スルタンとしてムーラーイ・エル・ハッサン(Mulai al-Hassan I.)が即位した。ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出によりクルップ砲を導入するなどした。後継の息子(Mulai Abd al-Aziz IV)は未成年で即位し、ドイツ帝国が政治へ助言した。

1904年英仏協商でモロッコを狙っていた英仏両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、このことは翌1905年に英仏協商に反対するドイツ帝国がタンジール事件を起こすことを招いた。さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したが、最終的にはドイツが妥協した。1912年フェス条約で国土の大部分がフランスの保護領となり、仏西条約で北部リーフ地域はスペイン領モロッコとなった。

フランス領モロッコ初代総督、ウベール・リヨテ

フランス領モロッコの初代総督にはウベール・リヨテ将軍が就任した。将軍は政情不安なフェズからラバトへ都を移した。1913年ドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店がソシエテ・ジェネラルに売却された。1919年北アフリカ総合会社(ONA Group)が設立された。1920年アブド・アルカリームスペイン領モロッコリーフ地方で反乱をおこし、第三次リーフ戦争が勃発した。アルカリームはリーフ共和国の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。1930年代から独立運動が盛んになった。

1936年に駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島フランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が反乱軍側で戦った。第二次世界大戦中には自由フランスヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年連合国ウィンストン・チャーチルフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。

モロッコは1956年にフランスから独立した。スペインはセウタメリリャイフニの飛地領とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌1957年スルターンムハンマド5世が国王となり、スルターン号が廃止された。1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。

外資と君主と実効支配

ハサン2世。親西側政策の下モロッコを統治した。

1961年ハサン皇太子が父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に憲法が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国をはじめとした西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持した。1965年にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカパリで失踪する事件が起こった。1967年イスラエル6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。1969年にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領西サハラはスペインの領有が続いた。

一方、内政は安定せず、1971年7月に士官学校校長と士官らが夏の宮殿を襲ったクーデターが失敗に終わった[6]ほか、翌 1972年には、ハサン2世の信任が厚かったムハンマド・ウフキル英語版将軍による国王が搭乗するボーイング727旅客機の撃墜未遂事件が発生、ウフキル将軍とエリート幹部英語版の排除が行なわれた(Years of Lead)。

1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったが、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線サハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したが、モロッコは実効支配を続けた。1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したが、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題となっている。

1992年憲法が改正された。1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位した。同年から直接投資受入額が急伸した。2002年ペレヒル島危機英語版が起こり、スペインとの間で緊張が高まったが、アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生した。ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、リベラルな改革を進める立場を示した。モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2015年までプラス成長を続けている。

世界金融危機が最も顕在化した2008年10月、モロッコはEUの近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した。国際経済に占める「優先的地位」は、欧州近隣政策における行動計画の成果をもとに付与される。モロッコに付与されたそれは、FTA締結から一段踏み込み、財・サービス・資本の完全な自由移動と専門職の自由移動を実現することや、モロッコの国内法がEU法の総体(アキ・コミュノテール)を受容してゆくことを目標としている。[7]

2011年に起きたアラブの春の影響を受けた騒乱により7月に憲法改正。翌年初めアブデルイラーフ・ベン・キーラーン内閣が発足した(2017年4月まで)。

2016年7月17日、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を表明[8][9]。9月には加盟申請を行ったことを明らかにした[10]

2017年1月31日エチオピアの首都アディスアベバで開かれた首脳会議でアフリカ連合への再加入が承認された[11]

2018年5月1日、モロッコのブリタ外務大臣が、イランとの国交を断絶したと表明した。西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にあるヒズボラレバノンイスラム教シーア派組織)がアルジェリア経由で支援を与えていることを理由に挙げた。イランとは2009年~2014年にも断交していたことがある[12]

政治

国家体制国王元首とする立憲君主制国家である。現国王として在位しているのはアラウィー朝ムハンマド6世である。国王はアミール・アル=ムーミニーン(カリフ)を称する。憲法によって議会の解散権や条約の批准権を認められており、軍の最高司令官でもある。

2011年の2月から4月にかけて、アラブの春の影響でデモが発生し、憲法改正が承諾された。同年7月、憲法改正により国王の権限縮小と首相の権限強化が為された[13]

議会は1996年から両院制に移行し、下院は5年の任期で定数は325議席、上院は6年の任期で定数は90から120議席である[14]

2007年に行われた下院選では、保守系の独立党(イスティクラール党とも)が52議席を獲得し第一党、イスラーム主義公正発展党が46議席で第二党、選挙前の最大勢力であった左派の人民勢力社会主義同盟は大きく議席を減らし、38議席になった。2011年11月25日に実施された下院選挙では定数395議席の内、公正発展党 (PDJ) が80議席を獲得し、第一党となった。政党連合「民主主義連合」を形成する独立党(イスティクラール党)は45議席となった。今回の選挙は、これまで国王任命であった首相が選挙で多数議席獲得の政党から選出される[15][16]

合法イスラーム主義政党の公正発展党以外にもモロッコ・アフガンサラフィスト・グループなどの非合法イスラーム主義組織が存在するが、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、非合法イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている。

軍事

モロッコには18か月の徴兵期間が存在し、50歳まで予備役義務が存在する。国軍は王立陸軍、海軍、空軍、国家警察、王立ジャンダルメ、外人部隊からなる。国王は憲法によって軍の最高司令官であると規定されている。国内警備は一般に効果的であり、2003年のカサブランカでのテロのような例外を除いて政治的暴力は稀である。国際連合は小規模な監視部隊を、多くのモロッコ兵が駐留している西サハラに維持している。

なお、赤道ギニアなどいくつかの国に、元首の警護や軍事教練等を目的とした少数の将兵を派遣している。

地方行政区分

モロッコの行政区画

モロッコは11の地方と51の第二級行政区画で構成されている。この行政区画は西サハラおよびサハラ・アラブ民主共和国の実効支配地域を含む。

主要都市

人口10万人以上の都市が15ある。都市人口率は55.5%と低く都市化は進んでいない。気候が穏やかであることを反映している。

地理

モロッコの衛星画像。
アトラス山脈
北部のリーフ地方
南部のサハラ砂漠砂丘

モロッコの国土は、アフリカ大陸の北西端に位置する。海岸のうち約3/4は北大西洋に面し、残りは地中海に沿っている。東西1300km、南北1000kmに伸びる国土の形状は、約45度傾いたいびつな長方形に見える。モロッコの南西に分布するカナリア諸島はスペイン領であり、本土以外に国土を持たない。国土の北部、地中海沿岸のセウタメリリャは、スペイン本国の飛地となっている。陸続きにある南西の西サハラを実効支配しているものの、国際社会で占領行為の正当性が広く認められているわけではない。なお、西サハラはかつてスペインの植民地(スペイン領サハラ)だった。

モロッコには大きな山脈が4つある。リーフ地方(エル・リーフ)の山脈は他の3つの山脈とは独立し、地中海沿いのセウタやメリリャを北に眺め下ろしている。最高地点は約2400mである。南方の3つの山脈はアトラス山脈に属する。アトラス山脈自体はチュニジア北部からアルジェリア北部を通過し、ほぼモロッコの南西端まで2000km以上にわたって延びる。アトラス山脈は複数の山脈が平行に走る褶曲山脈である。モロッコ国内では北から順に、中アトラス山脈(モワヤンアトラス山脈)、大アトラス山脈(オートアトラス山脈)、前アトラス山脈(アンチアトラス山脈)と呼ばれる。アンチアトラス山脈の南斜面が終わるところに国境がある。アトラス山脈の平均標高は3000mを超え、国土のほぼ中央にそびえるツブカル山(トゥブカル山) (4165m)が最高地点であり、北アフリカの最高峰でもある。カサブランカなどのモロッコの主要都市は大西洋岸の海岸線、もしくはリーフ山地の西、中アトラス山脈の北斜面から海岸線に向かって広がるモロッコ大平原地帯に点在する。

ジブラルタル海峡を挟んでスペインと向き合う[17]。スペイン=モロッコ間は、ユーラシアプレートアフリカプレートの境界に当たる。アフリカプレートが年間0.6cmの速度で北進したため、アトラス山脈が生成したと考えられている。アトラス山脈の南には山脈の全長にわたって巨大な断層が続く。このため比較的、地震が発生しやすい。記録的な大地震は隣国アルジェリアに多いものの、リスボン大地震と同時期の1755年11月19日に発生した地震や1757年4月15日の地震ではいずれも死者が3000人に達した。1960年2月29日の地震は被害が大きく、死者は1万5000人だった。いずれもマグニチュードははっきりしていない。

主要河川は、地中海に流れ込むムルーヤ川英語版、大西洋に流れ込むスース川アラビア語版英語版テンシフィット川アラビア語版など10程度ある。ジス川アラビア語版英語版レリス川サハラ砂漠に向かって流れ下りる。ドラア川もサハラ砂漠に向かって流れるが、この川は雨量が非常に多い場合サハラを横断して大西洋に注ぐことがある。エジプトスーダンを縦断するナイル川を除くと、モロッコは北アフリカでは最も水系が発達している。このため、降水量が少ないのにも関わらず、総発電量の6%を水力でまかなっている。

気候

一年を通じて、大西洋上に海洋性熱帯気団が居座っており、常に北東の風(北東貿易風)が吹いている。このため、モロッコ沿岸を北から南にかけて寒流のカナリア海流が流れる。

ケッペンの気候区分によると、アトラス山脈より北は地中海性気候 (Cs) に一部ステップ気候 (Bs)が混じる。アトラス山脈の南斜面はそのままサハラ砂漠につながっており、北部がギール砂漠、南部がドラー砂漠である。気候区分は、砂漠気候 (BW)である。アトラス山脈には冬季に積雪がある。

最大の都市カサブランカの気候は、1月の気温が12.4度、7月が22.3度。年間降水量が379.7mmである。冬季の降水量は100mm/月に達するが、夏季には1mmを下回る。首都ラバトの気候もカサブランカとほぼ同じである。

植生

大西洋沿岸、地中海岸と内陸部のオアシスを除き、植生はほとんど見られない。森林を形成しているのはコルクガシであり、特に大西洋岸に目立つ。アトラス山脈に至ると、常緑樹林が広がる。植生は、オークセイヨウスギマツである。アトラス山中からさらに南のステップには、ナツメや低木などが疎らに見られる。栽培樹木としてのオリーブは以上の分布に当てはまらず、国土全体にわたる。固有種としてアカテツ科アルガンノキArgania Spinosa)があり、アルガンオイルArgan oil)(爪のケアに優れている)(別名:モロッカンオイル)の原料となる。ただし、分布域は狭く、スース川流域に限られる。

国土の12%を森林が、18%を農耕地が占め、農耕地の内5%は灌漑されている。

経済

カサブランカはモロッコ最大の経済都市であり、アフリカ有数の世界都市である。

IMFの統計によると、2015年のモロッコの国内総生産(GDP)は約1,031億ドルである。国民一人当たりのGDPは3,079ドルとアフリカ諸国では比較的高い水準にあり、アジアなどの新興国に匹敵するレベルである。産油国ではないが、鉱業と軽工業など産業のバランスも良く、アフリカでは経済基盤も発達している方である。埋蔵量世界1位のリン鉱石を中心とする鉱業と、生産量世界第6位のオリーブ栽培などの農業が経済に貢献している。大西洋岸は漁場として優れており日本にもタコなどが輸出されている。観光資源も豊かで、観光収入は22億ドルに上る。先進工業国とは呼べないが、衣料品などの軽工業のほか、石油精製や肥料などの基礎的な諸工業が発達している(以下、統計資料はFAO Production Yearbook 2002、United Nations Industrial Commodity Statistical Yearbook 2001年を用いた)。かつて宗主国だったフランスほか欧米諸国の企業が、自動車や鉄道・航空機部品などの工場を増やしている。これはモロッコがアフリカでは政情・治安が安定しているうえ、インフラストラクチャーが整備されており、50以上の国・地域と自由貿易協定(FTA)を締結していて輸出がしやすいという背景がある[18]。その他ヨーロッパ連合諸国に出稼ぎ、移住したモロッコ人による送金も外貨収入源となっている。

カサブランカやタンジェ、ケニトラには加工貿易用のフリーゾーンが設けられている。カサブランカには金融フリーゾーン(カサブランカ・ファイナンス・シティ)もある。モロッコ以外のアフリカ諸国へ進出する外国企業への税制面の優遇措置も導入し、アフリカ・ビジネスの拠点(ハブ)になりつつある[19]

鉱業・電力

鉱業生産は、リン鉱石(採掘量世界第2位)、鉱(同7位)、コバルト鉱(同8位)が有力。亜鉛なども採掘しており、天然ガスも豊かである。ただし原油の採掘量は1万トンと極めてわずかである。鉱物資源はアトラス山脈の断層地帯に集中しており、アトラス山脈の造山活動によるものだと考えられている。例えば、マラケシュ近郊やメリリャに近いウジタで亜鉛や鉛が採掘されている。リンはカサブランカ近郊で採れる。

農業などに利用できない砂漠で、再生可能エネルギー発電を拡大している。太陽光発電所や太陽熱発電所、風力発電所が相次ぎ建設されており、スペイン企業による風力発電機の生産も2017年に始まった。エネルギー消費に占める再生可能エネルギーの比率(20%強)を2030年に52%へ高めることを計画している[20]

農業

大西洋岸、地中海岸では天水に頼った農業が可能である。耕地面積は国土の21%を占める。農業従事者は429万人(2005年)である。国際連合食糧農業機関 (FAO) の統計(2005年)によると、世界第7位のオリーブ(50万トン、世界シェア3.5%)、第9位のサイザルアサ(2200トン)が目立つ。世界シェア1%を超える農作物は、テンサイ(456万トン、1.9%)、オレンジ(124万トン、1.5%)、トマト(120万トン、1.0%)、ナツメヤシ(6万9000トン、1.0%)がある。主要穀物の栽培量は乾燥に強い小麦(304万トン)、次いでジャガイモ(144万トン)、大麦(110万トン)である。

中南部ケアラ・ムグーナ(「バラの谷」)で栽培されているローズウォーター用のバラなど花卉農業も行われている[21]

畜産業は(1703万頭)、(1億4000万羽)を主とする。

工業

工業は、リン酸肥料(生産量世界第6位)、オリーブ油(同9位)が目立つが、ワインや肉類などの食品工業、加工貿易に用いる縫製業も盛んである。ルノーが2つの自動車工場を、ボンバルディアが航空機部品工場を運営しているほか、PSA・プジョーシトロエンボーイングなども現地生産計画を進めている[22]

貿易

モロッコの輸出額は238億ドル。品目は、 機械類 (15.9%) 、 衣類 (14.4%) 、化学肥料 (8.8%)、野菜・果実 (7.9%)、魚介類 (7.6%) である。(2011年) ここでいう電気機械とは電気ケーブルを意味している。リン鉱石は価格が安いため、品目の割合としては5位である。主な相手国は、輸出は、スペイン、フランス 、ブラジル、イタリア、インド 。(2014年)

モロッコの輸入額は116億ドル。品目は、原油 (12.0%)、繊維 (11.9%)、電気機械 (11.7%)。主な相手国はスペイン、フランス、中国、米国、イギリスである。(2014年)

日本との貿易では、輸出がタコ(61.1%)、モンゴウイカ (7.3%)、衣類 (5.1%)の順で、リン鉱石も5位に入る。輸入は、乗用車 (32.4%)、トラック (28.6%)、タイヤ (5.6%)である。

観光

フェズカサブランカマラケシュといった都市部の旧市街地から、アイット=ベン=ハドゥなど集落レベルの各種居住エリアにある世界遺産、サハラ砂漠トドラ渓谷といった自然が見どころ[23]。観光施設だけでなく、古い邸宅を利用したリヤドという「モロッコ独特の宿泊施設」も知られている[24]。政府としても観光立国を掲げ、人材や観光地の育成に力をいれている[25]。2015年の観光客数は在外モロッコ人の割合が増加傾向にあるが、約1018万人を数えた[25]

交通

国際関係

日本との関係

  • 在留日本人数 - 350名(2018年10月,在留邦人統計)[26]
  • 在日モロッコ人数 - 637名(2019年06月,在留外国人統計)[27]

国民

1961年から2003年までのモロッコの人口増加グラフ。
モロッコの民族分布地図(1973)。

2004年にムハンマド6世の主導権によって新家族法が成立し、女性の婚姻可能年齢は18歳以上に引き上げられ、一夫多妻制についても厳しい基準が要求されるようになった。ただし、現在も一夫多妻制は条件を満たせば認められる。特に著名なモロッコのフェミニストとして、イスラーム教をフェミニズム的に読み替えることで男女平等の実現を達成することを主張するファーティマ・メルニーシーの名が挙げられる。新家族法制定で、女性は結婚時に夫に複数の妻(イスラム教徒の男は4人まで妻を持てる)を持たないよう求めることができ、女性から離婚を請求することができ、家庭における夫婦の責任が同等となり、女性は自分自身で結婚を決めることができるようになった[28]

1999年にマイクロクレジット法が成立し、政府やNGO団体の協力により受益者が増えている。

民族

歴史的に、条件の良い平野部の土地を中心にアラブ人が暮らし、アトラス山脈の住民の大半がベルベル人である。2/3がアラブ人、1/3がベルベル人あるいはその混血がほとんどと言われる事が多いが、実際のところは両者の混血が進んでいる。また過去に存在したベルベル人の独立問題などもあり(リーフ共和国)、国家としてはあくまでも両者はともにモロッコ人であるという考え方の元、民族ごとの統計を取るなどの作業は行われていない。

モロッコのアラブ人には、イベリア半島でのレコンキスタや17世紀のモリスコ追放によってアンダルシアから移住した者もおり、彼等の中には現在でもスペイン風の姓を持つ者もいる。

ユダヤ人はモロッコ各地の旧市街に存在するメラーと呼ばれる地区に古くから居住していたが、イスラエル建国以来イスラエルやカナダなどへの移住により減少傾向が続いており、1990年時点で1万人以下である。その他にもブラックアフリカに起源を持つ黒人などのマイノリティも存在する。

言語

アラビア語ベルベル語公用語である[1]。国民の大半は学校教育正則アラビア語を学習しつつも日常生活ではモロッコ特有のアラビア語モロッコ方言を話しているため、他のアラビア語圏の住人とは意思の疎通が困難である。また、かつてフランス保護領であったためフランス語第二言語として教えられ、政府、教育、メディア、ビジネスなどで幅広く使われ、全世代に通用するなど準公用語的地位となっている。一方、北部モロッコではスペインの影響が強く、スペイン語もよく通じる。公文書は基本的にアラビア語、一部の書類はフランス語でも書かれる。商品や案内表記等はアラビア語とフランス語の併記となっていることが多い。

山岳地帯では、タマジグトと総称されるベルベル語が話され、これらは大別してタシュリヒート語(モワイヤン、オートアトラス地域)、タスーシッツ語(アガディール地方、アンチアトラス地域)、タアリフィート語(リーフ山脈地域)に別れている。また、ベルベル人は、国内のアラブ人からはシルハと呼ばれるが、ベルベル人自身は自分たちをイマジゲン(自由な人の意)と呼ぶ。ベルベル語が話されないアラブ人家庭に生まれ育つとベルベル語は全く理解できない事が多く、両者は全く異なった言語である。

宗教

1961年イスラム教国教となっており、イスラム教スンニ派が99%を占める。キリスト教ユダヤ教も禁止されてはいない。

教育

7歳から13歳までの7年間の初等教育期間が義務教育期間となっているが、就学率は低い。モロッコの教育は初等教育を通して無料かつ必修である。それにもかかわらず、特に農村部の女子を始めとした多くの子供たちが未だに学校に出席していない。教育はアラビア語フランス語で行われる。2004年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は52.3%(男性65.7%、女性39.6%)である[29]。非識字率は約50%であるが、農村部の女子に至っては90%近くにまで達する。

主な高等教育機関としては、アル・カラウィーン大学(859年)やムハンマド5世大学(1957年)などが挙げられる。

文化

食文化

アガディール中央市場のスパイス。

モロッコ料理は長らく世界で最も多様性に富んだ料理の一つと見なされてきた。これは数世紀に及ぶモロッコと外部世界の相互作用の結果である。モロッコ料理はベルベル、スペイン、コルシカ、ポルトガル、ムーア、中東、地中海、アフリカの各料理の混合である。モロッコ料理は土着のベルベル料理、スペインから追放されたモリスコがもたらしたアラブ・アンダルシア料理、トルコ人によってもたらされたトルコ料理、アラブ人がもたらした中東料理の影響を受けており、ユダヤ料理の影響も同等である。

香辛料はモロッコ料理に広く使われる。香辛料は数千年来モロッコに輸入され続けたが、ティリウニのサフラン、メクネスのミントオリーブ、フェスのオレンジレモンなどの多くの材料は自生のものである。モロッコで最も一般的に食される赤味の肉は牛肉であり、国産の羊肉は好まれるが相対的に高価である。主なモロッコ料理としてはクスクスタジンハリーラなどが挙げられる。アッツァイと呼ばれるミント緑茶に大量の砂糖を加えて飲む習慣がある。

文学

大旅行記』の著者イブン・バットゥータ

モロッコ文学はアラビア語、ベルベル語、フランス語で書かれる。アル=アンダルスで発達した文学もまた、モロッコ文学に位置づけられる。ムワッヒド朝下のモロッコは繁栄の時代を経験し、学術が栄えた。ムワッヒド朝はマラケシュを建設し、「史上初の書籍市」と呼ばれることになる書店を設立した。ムワッヒド朝のカリフ、アブー・ヤアクーブは本を収集することをこの上なく好んだ。彼は偉大な図書館を設立し、その図書館は最終的にカスバとなり、公立図書館となった。中世においてタンジェ出身のイブン・バットゥータはアフリカ、アジア、 ヨーロッパに巡る大旅行の体験を述べた紀行文学『大旅行記』(『三大陸周遊記』、1355年)を著した。

近代モロッコ文学は1930年代に始まった。モロッコがフランスとスペインの保護領だったことは、モロッコの知識人に他のアラブ文学やヨーロッパとの自由な接触の享受からなる文学作品の交換と執筆の余地を残した。

1950年代から1960年代にかけて、モロッコは避難所、芸術の中心となり、ポール・ボウルズテネシー・ウィリアムズウィリアム・S・バロウズのような作家を導いた。モロッコ文学はモハメド・ザフザフモハメド・チョークリのようなアラビア語作家や、ドリス・シュライビタハール・ベン=ジェルーンのようなフランス語作家によって発達した。現代の文学においては、モロッコ出身のフランス語文学者としてムハンマド・ハイル=エディンヌモハメド・シュクリライラ・アブーゼイドアブデルケビル・ハティビ、そして1987年に『聖なる夜』でゴンクール賞を獲得したタハール・ベン=ジェルーンなどが挙げられる。また、アラビア語モロッコ方言やアマジーグでなされる口承文学はモロッコの文化にとって不可欠の存在である。

音楽

モロッコ音楽はアラブ起源のものが支配的である。その他にもベルベル人のアッヒドゥースアブワース、黒人のグナーワ(「ギニア」に由来)、イベリア半島のイスラーム王朝からもたらされ、ヌーバと呼ばれて高度に体系化されたアル=アンダルス音楽など、多様な音楽の形態が存在する。

世界遺産

モロッコ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が8件存在する。

スポーツ

サッカー

サッカーが盛んであり、代表チームは過去ワールドカップに4回出場、アフリカネイションズカップの優勝経験もあり、アフリカの強豪国の1つとして数えられている。著名なプロクラブとしてはウィダド・カサブランカラジャ・カサブランカなどの名が挙げられ、イスマイル・アイサティナビル・エル・ザールなどのように欧州で活躍している選手も存在する。2013年2014年には自国でTOYOTA Presents FIFA Club World Cupが開催された。

陸上競技

陸上競技のうち男子長距離走は、同じアフリカのエチオピアおよびケニアと並んで屈指の強さを誇る。概してオリンピックや世界陸上においては、エチオピアは5,000m、10,000m、ケニアは3,000m障害そしてモロッコは800m、1,500mで世界一を輩出することが多い。1980年代の男子中長距離界を席巻したサイド・アウィータヒシャム・エルゲルージは、とりわけ日本の陸上競技ファンや関係者の中でも有名であり、ヒシャム・エルゲルージの出した1500m1マイル2000mの世界記録は未だに破られていない。

格闘技

バダ・ハリIT'S SHOWTIMEヘビー級王者)はK-1世界ヘビー級王者戴冠後に「モロッコは世界的に自慢できるものがない国なんだ。だから俺がK-1世界王者として活躍する事によって、世界中の人々に“モロッコ?ハリの母国だよね”と言ってもらえるようにしたい。世界王者という部分が重要なんだ」と語っている。

テニス

テニス1986年に当時の国王ハサン2世の名を冠したモロッコ初のATPツアー大会、ハサン2世グランプリが開催されるようになってから次第に同国でも人気の盛り上がりを見せるようになった。1990年代に入るとユーネス・エル・アイナウイカリム・アラミヒチャム・アラジという3人の男子選手が同時期に現れ、モロッコ初の国際的プロテニス選手として目覚しい活躍を残していくようになる。1961年に参加を開始したデビスカップモロッコ代表も参戦以降長らく地域ゾーンの1チームに過ぎない弱小国であったが、代表を務めるようになった3人の活躍と共に次第に強くなっていき、彼らが全盛期を迎えた1990年代後半から2000年代前半には最上位カテゴリのワールドグループに通算5度の出場を果たすテニス強国の一角を占めるまでになった。3人の引退に伴う2000年代後半以降は次世代が育たなかったこともあり低迷しているが、2010年代に入り上記の3選手以来久しぶりにシングルスランキングで100番台に乗せてきたレダ・エル・アムラニのような若手も現れ始めている。

女子テニスにおいても2001年からラーラ・メリヤム王女の名を冠したWTAツアー大会SARラ・プリンセス・ラーラ・メリヤム・グランプリを開催しているが、その一方国内女子選手の育成はほとんど進んでいない。2011年現在グランドスラム出場やツアーレベルに到達した選手は一人として現れておらず、世界レベルとの隔たりが大きい状況にあるのが現状である。フェドカップモロッコ代表も大会参戦開始は1966年と中東諸国の中でも最も早いものであったが、この年の出場後、1995年に再び参加するまで30年近く国際舞台の場に出ることはなかった。その後も断続的な参加を続ける形となっており、2010年現在までの通算参加年数はわずか9年に留まっている。

医療

性転換手術

世界中の少なからぬ国において、モロッコという国名から「性転換手術をイメージする人々が、特に1970年生まれ以前の世代では少なからず存在している[要出典]

これは男性から女性への性転換手術、現在で言う性別適合手術の技法が、モロッコのマラケシュに在住していたフランス人医師ジョルジュ・ビュルーにより開発されたことに起因する。ビュルーが手法を確立した1950年代後半以降、フランスの有名なキャバレー「カルーゼル」に所属していた多くの「性転換ダンサー」たちがビュルーの手術を受けたことから有名になり、一時期は世界中から、「女性に生まれ変わりたい」という願望を抱く男性たちが大量にマラケシュのビュルーの元に押し寄せる状況が見られた。

日本もその例外ではなく、1960年代に3度にわたって行われた「カルーゼル」のダンサー(いわゆる「ブルーボーイ」)の日本公演がこの様な性転換の存在が知られる1つのきっかけとなり、その後、知られるところでは芸能タレントカルーセル麻紀女優光岡優などがモロッコに渡航してビュルーの執刀による手術を受けている。わけても、日本においては1973年以降のカルーセル麻紀に関する各種報道の影響から、「性転換手術」=「モロッコ」のイメージが広がり、その影響は長らく残ることになった[30]

なお、ビュルーは1987年に亡くなっており、今日では性転換を希望する人は手術してくれる病院・医師の数が豊富なタイで受けるのが主流となっている。

妊娠中絶

モロッコでは妊娠中絶は法的に認可されていない。ウィミン・オン・ウェーブ(オランダの医師が1999年に設立した団体)が、モロッコで望まぬ妊娠をしている女性を船に乗せ公海上で中絶手術をする目的で2012年にモロッコに入港しようとしたが、モロッコ海軍に阻止されて追い返されている[31]。同船の医師は、モロッコでは違法に実施される危険な中絶処置のために、年間90人のモロッコ人女性の命が失われているとし、安全に中絶処置が実施される必要性を訴えた[31]

脚注

  1. ^ a b c モロッコ王国 外務省 Ministry of Foreign Affairs of Japan
  2. ^ a b The World Factbook/Morocco”. 中央情報局 (2017年5月9日). 2017年5月23日閲覧。
  3. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([])
  4. ^ Note sur les premiers résultats du Recensement Général de la Population et de l’Habitat 2014”. モロッコ王国. 2017年5月23日閲覧。
  5. ^ 外務省: 外交史料 Q&A その他外務省、2010年4月21日閲覧。
  6. ^ 「モロッコ軍部クーデーター失敗 国王殺害企てる 宮殿襲い銃撃戦」『中國新聞』昭和46年7月12日5面
  7. ^ 高崎春華 「EU広域経済圏の形成と金融FDI」 日本国際経済学会第70回全国大会
  8. ^ “モロッコ、AUに復帰へ=西サハラ問題で30年前脱退”. 時事通信社. (2016年7月18日). http://www.jiji.com/jc/article?k=2016071800044&g=int 2016年7月24日閲覧。 
  9. ^ “アフリカ連合に復帰へ モロッコ国王が表明”. 産経新聞. (2016年7月18日). http://www.sankei.com/world/news/160718/wor1607180028-n1.html 2016年7月24日閲覧。 
  10. ^ Morocco Asks to Re-join African Union After 4 Decades”. Voice of America. 2016年9月24日閲覧。
  11. ^ モロッコの加盟承認=西サハラ問題で30年超対立-AU AFPBB News 2017年1月31日
  12. ^ モロッコ、イランと断交『日本経済新聞』夕刊2018年5月2日掲載の共同通信配信記事。
  13. ^ “モロッコにおける憲法改正に係る国民投票について”. (2011年7月19日). http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/23/dga_0719.html 2011年7月19日閲覧。 
  14. ^ 「モロッコ王国」『世界年鑑2016』(共同通信社、2016年)272頁。
  15. ^ NEWS25時:モロッコ 穏健派が勝利宣言 毎日新聞 2011年11月27日
  16. ^ モロッコ下院選、イスラム穏健派が勝利 初の第一党に 朝日新聞 2011年11月28日。
  17. ^ 最も狭い部分では幅14kmしかない
  18. ^ 日経産業新聞「モロッコ 産業に厚み」2016年11月17日
  19. ^ 【新興国ABC】モロッコの産業フリーゾーン 車・航空機の産業集積『日経産業新聞』2018年5月14日(グローバル面)。
  20. ^ フェルダウス投資担当閣外相によるコメント。『日経産業新聞』2018年5月29日(環境・素材・エネルギー面)掲載、モロッコ「再生エネ52%に」。
  21. ^ 【旅】ケラア・ムグーナ(モロッコ)砂漠の中の「バラの谷」香り芳潤 美容にも一役『読売新聞』夕刊2018年5月16日。
  22. ^ 日経産業新聞「モロッコ 産業に厚み」2016年11月17日
  23. ^ モロッコで行くべき観光スポットTOP10とモロッコの基本情報”. ワンダーラスト. 2018年7月6日閲覧。
  24. ^ 菅澤彰子. “モロッコのリヤドとは”. 2018年7月6日閲覧。
  25. ^ a b モロッコ基礎データ”. 外務省. 2018年7月6日閲覧。
  26. ^ 外務省 モロッコ基礎データ
  27. ^ 外務省 モロッコ基礎データ
  28. ^ 2018年1月8日19時30分NHK総合放送「世界プリンス・プリンセス物語」
  29. ^ CIA World Factbook2009年12月26日閲覧。
  30. ^ たとえばフィクションでは、1998年にディレクTVで放映されたアニメ『BURN-UP EXCESS』第8話では、登場した誘拐犯たち(オカマバーの元店長と元従業員)が身代金の使い道の1つとして「モロッコに行って性転換」することを挙げている。
  31. ^ a b モロッコ海軍、「人工妊娠中絶船」の入港阻止 CNN.co.jp 2012年10月5日(金)12時53分配信

参考文献

  • 川田順造『マグレブ紀行』中央公論社東京〈中公新書246〉、1971年1月。 
  • 私市正年佐藤健太郎[要曖昧さ回避]編著『モロッコを知るための65章』明石書店東京〈エリア・スタディーズ〉、2007年4月。ISBN 978-4-7503-2519-4 
  • 佐藤次高編『西アジア史I──アラブ』山川出版社東京〈新版世界各国史8〉、2002年3月。ISBN 4634413809 
  • 福井英一郎編『アフリカI』朝倉書店東京〈世界地理9〉、2002年9月。ISBN 4-254-16539-0 
  • 宮治一雄『アフリカ現代史V』(2000年4月第2版)山川出版社東京〈世界現代史17〉。ISBN 4-634-42170-4 

関連項目

外部リンク

座標: 北緯34度02分 西経6度51分 / 北緯34.033度 西経6.850度 / 34.033; -6.850