コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「篠原貴行」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Sorry, revert error made by bot. (2021-08-23T05:19:21.616Z)
タグ: 取り消し 差し戻し済み
Cewbot (会話 | 投稿記録)
タグ: 手動差し戻し
44行目: 44行目:
細身の身体ながら、キレのある[[速球]]一本で[[打者]]を抑え込む[[投球]]で1年目から頭角を現し51[[試合]]に[[登板]]した。しかし、変化球が主に[[スライダー (球種)|スライダー]]しかなく打たれ出すと止まらないのが課題だった。
細身の身体ながら、キレのある[[速球]]一本で[[打者]]を抑え込む[[投球]]で1年目から頭角を現し51[[試合]]に[[登板]]した。しかし、変化球が主に[[スライダー (球種)|スライダー]]しかなく打たれ出すと止まらないのが課題だった。


2年目の{{by|1999年}}、この年に投手コーチから就任した[[尾花髙夫|尾花高夫]]から新球種として投球に緩急ができる[[カーブ (球種)|カーブ]]を覚えるよう指示されたが中々物にできず、尾花からも「投げれなければ起用できない」とも言われていた。苦肉の策で投じた[[スラーブ]]が見事にハマり、キレの良い速球は「わかっていても打てない」と言われ、これらを武器に見事[[リリーフ|セットアッパー]]として飛躍した。篠原が投げると負けないことから「不敗神話」と話題にもなった<ref name="週刊ベースボール2011年11月28日号" />。[[9月25日]]、リーグ優勝を決めた対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]戦で中継ぎ登板のみでの14連勝を記録した。同年ルーキーの[[松坂大輔]]と最多勝を争っていたが、消化試合の対[[大阪近鉄バファローズ]]戦([[福岡ドーム]])で9回表にこの日が引退試合であった[[山本和範]]<ref>これが現役最終打席となった。</ref>に決勝[[本塁打]]を打たれて[[敗戦投手]]になり、勝利数では松坂に及ばず、また[[1981年]]の[[間柴茂有]]以来となる勝率10割も逃した。シーズン60試合に登板し[[防御率]]1.25、チームトップの14勝1敗で[[最高勝率 (野球)|最高勝率]]のタイトルを獲得。ダイエー初のリーグ優勝、日本一に貢献した<ref name="週刊ベースボール2011年11月28日号" />。
2年目の{{by|1999年}}、この年に投手コーチから就任した[[尾花高夫]]から新球種として投球に緩急ができる[[カーブ (球種)|カーブ]]を覚えるよう指示されたが中々物にできず、尾花からも「投げれなければ起用できない」とも言われていた。苦肉の策で投じた[[スラーブ]]が見事にハマり、キレの良い速球は「わかっていても打てない」と言われ、これらを武器に見事[[リリーフ|セットアッパー]]として飛躍した。篠原が投げると負けないことから「不敗神話」と話題にもなった<ref name="週刊ベースボール2011年11月28日号" />。[[9月25日]]、リーグ優勝を決めた対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]戦で中継ぎ登板のみでの14連勝を記録した。同年ルーキーの[[松坂大輔]]と最多勝を争っていたが、消化試合の対[[大阪近鉄バファローズ]]戦([[福岡ドーム]])で9回表にこの日が引退試合であった[[山本和範]]<ref>これが現役最終打席となった。</ref>に決勝[[本塁打]]を打たれて[[敗戦投手]]になり、勝利数では松坂に及ばず、また[[1981年]]の[[間柴茂有]]以来となる勝率10割も逃した。シーズン60試合に登板し[[防御率]]1.25、チームトップの14勝1敗で[[最高勝率 (野球)|最高勝率]]のタイトルを獲得。ダイエー初のリーグ優勝、日本一に貢献した<ref name="週刊ベースボール2011年11月28日号" />。


{{by|2000年}}にもセットアッパーとして活躍、チームトップタイの9勝を挙げてチームのリーグ連覇に貢献した。ただし、監督推薦での出場が確実視されていたこの年の[[2000年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]には、監督を務めた[[王貞治]]が篠原の疲労による自チームへの悪影響を考慮して選出せず、一部のファンやマスコミから「オールスターゲームの私物化である」との批判を受けた。同年オフに先発転向に挑戦。同オフに開いた結婚披露宴では、王監督から「今年の9勝と同じ数字を来年は先発であげて欲しい」と激励を受けた。その後[[チェンジアップ]]や[[フォークボール]]の習得に励むが、投球フォームを崩し、以降、怪我に苦しむことになる。{{by|2002年}}怪我の回復とともに、左膝が地面すれすれになるほど重心を低くした新しいフォームに改造。防御率0点台を記録するが一軍登板は19試合にとどまり<ref name="週刊ベースボール2011年11月28日号" />、このフォームが原因で腰に故障を抱える。
{{by|2000年}}にもセットアッパーとして活躍、チームトップタイの9勝を挙げてチームのリーグ連覇に貢献した。ただし、監督推薦での出場が確実視されていたこの年の[[2000年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]には、監督を務めた[[王貞治]]が篠原の疲労による自チームへの悪影響を考慮して選出せず、一部のファンやマスコミから「オールスターゲームの私物化である」との批判を受けた。同年オフに先発転向に挑戦。同オフに開いた結婚披露宴では、王監督から「今年の9勝と同じ数字を来年は先発であげて欲しい」と激励を受けた。その後[[チェンジアップ]]や[[フォークボール]]の習得に励むが、投球フォームを崩し、以降、怪我に苦しむことになる。{{by|2002年}}怪我の回復とともに、左膝が地面すれすれになるほど重心を低くした新しいフォームに改造。防御率0点台を記録するが一軍登板は19試合にとどまり<ref name="週刊ベースボール2011年11月28日号" />、このフォームが原因で腰に故障を抱える。

2021年8月23日 (月) 05:51時点における版

篠原 貴行
2014年11月22日 横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県福岡市東区
生年月日 (1976-09-07) 1976年9月7日(48歳)
身長
体重
178 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1997年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 1998年4月8日
最終出場 2012年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 横浜DeNAベイスターズ (2014 - 2018)

篠原 貴行(しのはら たかゆき、1976年9月7日 - )は、福岡県福岡市東区出身の元プロ野球選手投手)、コーチ。2013年に横浜DeNAベイスターズで現役を引退し、2018年まで同球団で一軍投手コーチを務めた。現在はスカウトを務めている。

来歴・人物

プロ入り前

広島県広島市生まれ、福岡県福岡市育ち。幼少期よりぜんそくに悩まされ、小学4年生時より体力をつけるためにと両親が勧めた野球を始める。沖学園高校での甲子園出場経験は無く、入社した三菱重工長崎でも都市対抗野球や日本選手権など全国大会へ出場する機会が少なかった[1]。都市対抗野球では1997年に救援での登板経験がある[2]。実績は僅かながらも速球が知られ、地元の福岡ダイエーホークス逆指名し、1997年ドラフト2位で入団[1]

ダイエー・ソフトバンク時代

ホークス時代の篠原(2009年)

細身の身体ながら、キレのある速球一本で打者を抑え込む投球で1年目から頭角を現し51試合登板した。しかし、変化球が主にスライダーしかなく打たれ出すと止まらないのが課題だった。

2年目の1999年、この年に投手コーチから就任した尾花高夫から新球種として投球に緩急ができるカーブを覚えるよう指示されたが中々物にできず、尾花からも「投げれなければ起用できない」とも言われていた。苦肉の策で投じたスラーブが見事にハマり、キレの良い速球は「わかっていても打てない」と言われ、これらを武器に見事セットアッパーとして飛躍した。篠原が投げると負けないことから「不敗神話」と話題にもなった[1]9月25日、リーグ優勝を決めた対日本ハムファイターズ戦で中継ぎ登板のみでの14連勝を記録した。同年ルーキーの松坂大輔と最多勝を争っていたが、消化試合の対大阪近鉄バファローズ戦(福岡ドーム)で9回表にこの日が引退試合であった山本和範[3]に決勝本塁打を打たれて敗戦投手になり、勝利数では松坂に及ばず、また1981年間柴茂有以来となる勝率10割も逃した。シーズン60試合に登板し防御率1.25、チームトップの14勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。ダイエー初のリーグ優勝、日本一に貢献した[1]

2000年にもセットアッパーとして活躍、チームトップタイの9勝を挙げてチームのリーグ連覇に貢献した。ただし、監督推薦での出場が確実視されていたこの年のオールスターには、監督を務めた王貞治が篠原の疲労による自チームへの悪影響を考慮して選出せず、一部のファンやマスコミから「オールスターゲームの私物化である」との批判を受けた。同年オフに先発転向に挑戦。同オフに開いた結婚披露宴では、王監督から「今年の9勝と同じ数字を来年は先発であげて欲しい」と激励を受けた。その後チェンジアップフォークボールの習得に励むが、投球フォームを崩し、以降、怪我に苦しむことになる。2002年怪我の回復とともに、左膝が地面すれすれになるほど重心を低くした新しいフォームに改造。防御率0点台を記録するが一軍登板は19試合にとどまり[1]、このフォームが原因で腰に故障を抱える。

2003年シーズン前半は腰の故障で棒に振るものの、後半に一軍昇格。オールスター出場を果たす。その後ストッパーとしてチームのリーグ優勝、日本シリーズ制覇に貢献した[1]。かつての速球で押す投球からスライダーなど変化球を駆使し[1]、防御率2.32、10Sと安定した投球を見せた。9月30日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)で胴上げ投手になっている[1]。この年は腰の痛みを和らげるためのブロック注射を打ちながら登板を重ね、翌年以降の不振につながった。

2004年2005年は左肩故障などでほとんど登板できなかった。[1]2006年からは再び中継ぎ投手として活躍したが、三瀬幸司馬原孝浩の台頭もあり徐々に登板機会が減った[1]。2006年7月5日の対西武ライオンズ戦(ヤフードーム)では延長12回裏2死の場面でフリオ・ズレータの代走として出場(控えの野手を全て使い切ったため)。またこれが王監督休養前の最後の采配となった。2008年はシーズン中盤あたりに一軍登録され主に対左のワンポイントリリーフとして登板したが、制球が悪く、四球でランナーを出して降板するなど安定しなかった。

2009年は左肘を故障し[1]一軍登板なし。同年10月3日戦力外通告を受けた[1][4]。手術から十分に回復していなかったためトライアウトにも参加できなかったが[1]11月27日にかつて投手コーチだった尾花が監督に就任した横浜ベイスターズに、年俸1200万円+出来高の1年契約で入団した。[5]

横浜・DeNA時代

横浜時代(2011年4月29日 横浜スタジアム )

2010年、左の中継ぎとして期待されたが、打ちこまれることも多く結局20試合登板で、8月4日の対広島東洋カープ戦で7年ぶりの白星は挙げるも[6]、シーズンを通した成績は2勝0敗、防御率はプロ最低の11.70という結果であった[1]

2011年、リーグ記録にあと1試合と迫る37試合連続無失点を記録するなどシーズン通して好調で、左のセットアッパーとして自己最多の67試合に登板し1勝0敗、防御率1.84と、投手陣が手薄なチームに貢献した。オフにFA権を取得したが、「せっかく得た権利。いろいろな思いがあったが、自分は一度首を切られた人間。拾ってもらったんだからという思いが強くなった」と行使した上での残留を表明した[1]

2012年、左のワンポイントとして起用されることが多かったが、左打者に打たれることが多く、50試合に登板したが防御率は4.91と悪化してしまった。

2013年、春に左肘を痛めた影響で一軍公式戦での登板機会がないまま[7]、現役引退を球団に申し入れた。9月29日に球団から、正式に引退を発表[8]。翌30日に開かれた引退会見では、「先発の思いを継いで、抑えに託すことが僕の仕事」と話したうえで、「中継ぎは1球でゲームを支配できるけど、1球でゲームを壊すこともあって、1球の怖さを思い知った。その中で、1つのストライクを取るたびに拍手をくれ、1つのアウトを取るたびに歓声や応援を続けてくれたファンの皆さんがいてくれたことで、『(このような)ファンの前で投げたい』と毎日思っていた。『ファンの皆さんに支えられた野球人生だったな』と思います」と救援主体の投手生活を述懐していた[9]。12月2日に自由契約選手として公示。

現役引退後

2013年10月10日にDeNAのコーチに就任することを球団から発表[10]2014年から2018年まで一軍投手コーチを務め、2019年からはスカウトに就任した[11]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1998 ダイエー
ソフトバンク
51 0 0 0 0 2 4 3 -- .333 240 55.2 51 2 31 2 1 47 2 0 28 28 4.53 1.47
1999 60 0 0 0 0 14 1 0 -- .933 301 79.1 46 5 25 4 1 80 3 0 11 11 1.25 0.89
2000 57 0 0 0 0 9 3 2 -- .750 308 76.1 64 11 18 2 2 43 2 0 28 27 3.18 1.07
2001 33 0 0 0 0 3 0 0 -- 1.000 192 41.2 52 4 17 0 0 28 3 0 31 29 6.26 1.66
2002 19 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 82 21.2 10 0 7 1 0 20 2 0 2 2 0.83 0.78
2003 30 0 0 0 0 1 4 10 -- .200 159 42.2 30 3 5 2 1 40 0 0 12 11 2.32 0.82
2005 1 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 1 0.1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0.00 0.00
2006 50 0 0 0 0 0 1 0 12 .000 152 34.1 38 3 13 1 0 32 0 0 13 13 3.41 1.49
2007 37 0 0 0 0 0 3 2 6 .000 110 26.2 22 3 9 2 0 18 0 0 12 11 3.71 1.16
2008 21 0 0 0 0 0 0 0 7 ---- 63 14.0 16 0 5 0 0 11 1 0 5 5 3.21 1.50
2010 横浜
DeNA
20 0 0 0 0 2 0 0 2 1.000 54 10.0 20 2 4 0 1 5 2 0 13 13 11.70 2.40
2011 67 0 0 0 0 1 0 0 17 1.000 175 44.0 37 2 12 0 1 35 0 0 10 9 1.84 1.11
2012 50 0 0 0 0 1 3 0 16 .250 105 22.0 25 2 12 2 3 12 1 0 14 12 4.91 1.68
通算:13年 496 0 0 0 0 33 19 17 61 .635 1942 468.2 411 37 158 16 10 372 16 0 179 171 3.28 1.21
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
  • 横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名を変更

タイトル

表彰

  • 月間MVP:2回 (1999年9月、2000年5月)

記録

背番号

  • 16 (1998年 - 2009年)
  • 34 (2010年 - 2013年)
  • 76 (2014年 - 2018年)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 野球浪漫 篠原貴行『週刊ベースボール』2011年11月28日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-11/28, 48-51頁。
  2. ^ [1] - 都市対抗野球大会80年史>
  3. ^ これが現役最終打席となった。
  4. ^ ソフトBが篠原、本間、的場に戦力外通告
  5. ^ 篠原「投げまくりたい」=横浜移籍で記者会見-プロ野球
  6. ^ “7季ぶり勝利に声弾む篠原”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2010年8月4日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/08/04/kiji/K20100804Z00001420.html 2013年4月26日閲覧。 
  7. ^ 今季限りで引退の篠原が会見「正直寂しい」スポーツニッポン2013年9月30日配信
  8. ^ 篠原貴行選手の引退についてDeNA球団公式サイト2013年9月29日配信
  9. ^ 篠原貴行選手 引退記者会見DeNA球団公式サイト2013年9月30日配信
  10. ^ 2014年度コーチ契約についてDeNA球団公式サイト2010年10月10日配信
  11. ^ “報告です|チームスタッフ☆ブログ 一軍マネージャーの西﨑伸洋を中心としたスタッフが選手の様子をブログでお届け!”. 横浜DeNAベイスターズ. (2018年11月21日). http://sp.baystars.co.jp/t/column/nobu_farm/2018/1120_01.html 2018年11月21日閲覧。 

関連項目

外部リンク