「深坂越」の版間の差分

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|交通路 = [[北陸本線]]([[深坂トンネル]])
|交通路 = [[北陸本線]]([[深坂トンネル]])
}}
}}
{{nowrap|'''深坂越'''(ふかさか}}<!--float対策-->ごえ)は、[[野坂山地]]に位置し[[福井県]][[敦賀市]]と[[滋賀県]][[長浜市]]を隔てる{{sfn|徳久ら編|2011|p=892}}標高364メートルの[[峠]]であり<!--#地理-->、この峠を含む敦賀 – 塩津間の道を指すこともある{{sfn|KADOKAWA|n.d.}}。'''深坂峠'''や'''塩津山越え'''・'''塩津道'''<!--木村ら(2007:123)には『近江輿地志略』の沓掛越がこの峠を指すとの記載があるが、リファレンス総合データベースのID1000109141などによると新道野越を指すとの資料もあるようなので、要調査-->とも呼ばれ{{sfn|藤井編|2003|pp=35-37}}{{sfn|敦賀観光協会|n.d.}}{{sfn|KADOKAWA|n.d.}}{{sfn|長浜市北部振興局農林課編|2017}}、深坂越ないし新道野越を経由して塩津と敦賀を結ぶ経路は'''塩津街道'''('''五里半越''')と呼ばれる<!--#古代 — 中世-->。古代から用いられた道路であるが、[[新道野越]]が整備された近世以降は重要性は薄れた<!-- #歴史 -->。21世紀初頭現在は'''深坂古道'''の呼称でハイキング・コースとして整備されている<!-- #現代における整備状況 -->。


== 地理 ==
[[ファイル:Fukasaka Pass Jizoudou 20040321.jpg|thumb|滋賀県側にある深坂地蔵堂]]
深坂越は、[[野坂山地]]に位置し<!--竹林-->福井県敦賀市追分から滋賀県長浜市[[西浅井町]]沓掛に至る<!--KADOKAWA-->、旧[[街道]]の峠<!--歴史散歩-->である{{sfn|竹林|1999|pp=54f}}{{sfn|滋賀県歴史散歩編集委員会編|2008|pp=189f}}{{sfn|KADOKAWA|n.d.}}。[[標高]]は364[[メートル]]{{efn2|{{harvtxt|徳久ら編|2011|p=892}} によると360メートル、{{harvtxt|滋賀県歴史散歩編集委員会編|2008|pp=189f}} および{{harvtxt|長浜市北部振興局農林課編|2017}} によると370メートル。}}、標高差はおよそ250メートルである{{sfn|滋賀県歴史散歩編集委員会編|2008|pp=189f}}。隣接する峠には[[新道野越]]や[[七里半越]]がある<!--歴史節の各出典の要約-->。
'''深坂越'''(ふかさかごえ)は、[[福井県]][[敦賀市]]と[[滋賀県]][[長浜市]]を隔てる<ref name=sanseido>{{Cite book |和書 |editor=徳久球雄・石井光造・武内正 |title=三省堂 日本山名事典 |edition=改訂版 |year=2011 |publisher=[[三省堂]] |isbn=978-4-385-15428-2 |page=892}}</ref>標高364メートルの[[峠]]であり<ref name=ORJ>{{cite web |url=http://pdb.the-orj.org/view.php?no=5602 |title=深坂越 |website=峠データベース |publisher=The ORJ desk |accessdate=2019-11-24}}</ref>、'''深坂峠'''とも呼ばれる<ref name=Fujii>{{cite book |和書 |editor=藤井讓治 |title=近江・若狭と湖の道 |series=街道の日本史31 |publisher=[[吉川弘文館]] |year=2003 |isbn=4-642-06231-9 |pages=35-37}}</ref>。


== 概要 ==
=== 整備状況など ===
{{quote box|style=max-width:17em;|align=left|
深坂越は、標高364メートル(360m<ref name=sanseido />・370m<ref name=sanpo25>{{cite book |和書 |editor=滋賀県歴史散歩編集委員会 |title=滋賀県の歴史散歩 下 - 彦根・湖東・湖北・湖西 |series=歴史散歩25 |publisher=[[山川出版社]] |year=2008 |isbn=978-4-634-24825-0 |pages=189-190}}</ref><ref name=course1>{{Citation |和書 |editor=長浜市北部振興局農林課 |title=深坂古道コースマップ |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000005/5439/hukasakamap.pdf |format=PDF |date=2017-03 |publisher=[[長浜市]]}}</ref>とも記される)、標高差およそ250メートルとなる<ref name=sanpo25 />、福井県敦賀市追分と滋賀県長浜市西浅井町沓掛を隔てる<ref name=ORJ />旧街道の峠である<ref name=sanpo25 />。その歴史は古く、[[万葉集]]にも「塩津山」の名で詠まれており、少なくとも[[奈良時代]]には人の往来があったとされる。長く[[近江国]]より[[日本海]]側の[[越前国]]に至る玄関口であり、陸路においても[[北陸道]]を結ぶ交通の要衝であるの敦賀と<ref name=Fujii />、[[京都]]、[[大阪]]、安土(現在の[[滋賀県]][[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]])などをつなぐ水路として重要であった[[琵琶湖]]北部の塩津に通じる最短経路として、この峠は越えられてきた。[[平安時代]]末期より度々、この旧[[塩津街道]]最大の難所に<ref name=sanpo25 />[[運河]]を通そうという計画が持ち上がったが<ref name=Fujii />、巨岩が多い地質が影響してすべて頓挫してきた歴史がある。特に初めて[[平清盛]]が[[平重盛]]に命じた運河建設において実際に建設が進められたが、その際も巨岩にぶつかり<ref name=sanpo25 />、これを砕こうとするとけが人が続出したという。この巨岩は石地蔵であったといわれ、その地蔵仏を祀ったという伝承が残っている。この地蔵が今に現存する[[深坂地蔵]]とされる<ref name=course1 />。
{{inline block|知りぬらむ}}
{{inline block|往き来にならす}}
{{inline block|塩津山}}
{{inline block|{{inline block|世に経る道は}}{{inline block|からきものぞと}}}}
|紫式部{{sfn|滋賀県文化財保護協会|2011}}}}
{{nowrap|車両での通行は}}<!--float対策-->不可能な峠である。自転車などの[[軽車両]]でも走行は不可能である{{要出典|date=2021年12月}}。このハイキング・コース{{efn2|登山というほど長い道のりではないが、何の装備もせずに越えるには厳しい山道で、季節によっては[[ツキノワグマ]]の目撃例もあるので注意が必要である{{要出典|date=2021年12月}}。}}は深坂古道とも呼ばれており{{sfn|長浜市北部振興局農林課編|2017}}{{sfn|長浜市|n.d.}}、[[中部北陸自然歩道]]の一部となっている{{sfn|国立公園利用推進室|n.d.}}。また、『[[百選#滋賀県|湖国百選]] 水編』(1988年)には「深坂地蔵掘り止めの水」が、同『街道編』(1989年)には「深坂越」が、指定されている{{sfn|日外アソシエーツ|n.d.}}。


滋賀県側は、峠付近の車道から深坂地蔵堂まで参拝道が整備されており、21世紀初頭現在においても深坂地蔵堂には多くの参拝者が訪れる{{Sfn|木村ら|2007|p=127}}{{sfn|林|2019}}。福井県側は、本来の古道がやや拡張されているもののそのままの経路で残されており{{Sfn|木村ら|2007|p=127}}、かつてこの峠を越えた歌人の[[笠金村]]([[#中世以前|後述]])や[[紫式部]]の歌碑や{{sfn|敦賀観光協会|n.d.}}{{sfn|長浜市北部振興局農林課編|2017}}、古道の由来を記した複数の案内板が設置されている{{sfn|林|2019}}。交通の基盤は近世に開かれた[[新道野越]]([[国道8号]])に譲っていることから{{sfn|藤井編|2003|pp=35-37}}、ひっそりと佇む昔から変わらない峠の風景が味わえる場所である{{要出典|date=2021年12月}}。
== 道路状況 ==
車両での通行は不可能な峠である。自転車などの[[軽車両]]でも走行は不可能な、登山道に近いハイキングコースとなっている<ref>{{cite web |url=https://www.city.nagahama.lg.jp/0000005439.html |title=長浜の自然と歴史に親しむハイキングコース |publisher=長浜市 |accessdate=2019-11-24}}</ref>。このコースは現在[[深坂古道]]と呼ばれており、[[中部北陸自然歩道]]の一部となっている<ref>{{cite web |url=https://www.env.go.jp/nature/nats/shizenhodo/chu_hoku/fukui02.html |title=中部北陸自然歩道 福井県 |website=NATS 自然大好きクラブ |work=長距離 自然歩道を歩こう! |publisher=[[環境省]][[自然環境局]]国立公園課国立公園利用推進室 |accessdate=2019-11-24}}</ref>。登山というほど長い道のりではないが、何の装備もせずに越えるには厳しい山道で、季節によっては[[ツキノワグマ]]の目撃例もあるので注意が必要である。途中には、かつてこの峠を越えた歌人の[[笠金村]]や[[紫式部]]の歌の説明板が設置されている<ref name=turuga>{{cite web |url=http://www.turuga.org/places/fukasaka/fukasaka.html |title=歴史浪漫街道(深坂古道) |website=漫遊敦賀 |publisher=敦賀観光協会 |accessdate=2019-11-24}}</ref>。交通の基盤は江戸時代に開かれた[[新道野越]]([[国道8号]])に譲っていることから<ref name=Fujii />、ひっそりと佇む昔から変わらない峠の風景が味わえる場所である。


== 隣接する峠 ==
=== 峠へのアクセス ===
* [[新道野越]]
* [[七里半越]]

== 峠へのアクセス ==
* 福井県より
* 福井県より
** [[北陸自動車道]][[敦賀インターチェンジ|敦賀IC]] - [[国道8号]](長浜、彦根方面) - [[国道161号]] - 深坂古道北口 - 深坂越 - 国道8号
** [[北陸自動車道]][[敦賀インターチェンジ|敦賀IC]] - [[国道8号]](長浜、彦根方面) - [[国道161号]] - 深坂古道北口 - 深坂越 - 国道8号
** [[北陸本線]]([[JR]][[西日本旅客鉄道|西日本]])[[新疋田駅]] - 深坂古道北口 - 深坂越<ref name=turuga />
** [[北陸本線]]([[JR]][[西日本旅客鉄道|西日本]])[[新疋田駅]] - 深坂古道北口 - 深坂越{{sfn|敦賀観光協会|n.d.}}
* 滋賀県より
* 滋賀県より
** 北陸自動車道[[木之本インターチェンジ|木之本IC]] - 国道8号(敦賀、[[福井市|福井]]方面) - 深坂古道南口 - 深坂越 - 国道161号
** 北陸自動車道[[木之本インターチェンジ|木之本IC]] - 国道8号(敦賀、[[福井市|福井]]方面) - 深坂古道南口 - 深坂越 - 国道161号
** 北陸本線(JR西日本)[[近江塩津駅]] - [[湖国バス]]停「近江鶴ヶ丘」 - 深坂越<ref name=sanpo25 />
** 北陸本線(JR西日本)[[近江塩津駅]] - [[湖国バス]]停「近江鶴ヶ丘」 - 深坂越{{sfn|滋賀県歴史散歩編集委員会編|2008|pp=189f}}


== 脚注 ==
== 歴史 ==
{{OSM Location map
{{Reflist}}
|coord = {{coord|35.565|136.12}}
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|caption = 敦賀 – 琵琶湖間の地図
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| label1 = 深坂地蔵
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| mark-title1 = 深坂越
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}}
{{Main2|{{nowrap|運河計画の詳細}}<!--float対策-->|日本横断運河}}

=== 中世以前 ===
古代から中世にかけては、[[敦賀郡|敦賀]]から深坂越を経由し[[塩津村 (滋賀県)|塩津]]に至る'''塩津街道'''('''五里半越''')が、[[北陸道|北国]]と[[近江国|近江]]とを結ぶ幹線道路とし用いられた{{sfn|竹林|1999|p=55}}。野坂山地の峠が[[日本列島]]を横断する交通路として栄えたのは、他の[[本州]]を縦断する山脈の中にあって馬でも容易に越えることができる程度に標高が低く、また[[琵琶湖]]や[[淀川]](瀬田川・宇治川)の水運と接続し[[京都]]や[[大阪]]へと北国の物資を輸送するのにも都合がよかったためである{{sfn|竹林|1999|p=54}}。[[律令制#日本の律令制|律令制下]]の[[駅伝制#日本|駅馬制]]においては、[[海津村|海津]]を起点とする[[七里半街道]]が[[官道]]であったと考えられるが、[[琵琶湖#交通|琵琶湖水運]]と接続する場合は、陸路の短い塩津街道が選ばれたと推測される{{sfn|真柄|1993}}。

深坂越は、『[[万葉集]]』において

{{Quote|{{inline block|{{ruby|'''塩津山'''|しほつやま}}打ち越え行けば}}{{inline block|我乗れる馬ぞつまづく}}{{inline block|家恋ふらしも{{efn2|家恋ふらしも:「家人が私のことを恋しく想っているのであろう」の意{{sfn|滋賀県文化財保護協会|2011}}。}}}}|[[笠金村|笠朝臣金村]]}}

と歌われていることから伺えるように道が険しく{{sfn|竹林|1999|p=55}}{{sfn|滋賀県文化財保護協会|2011}}、勾配も急で積雪量も多かったため、塩津街道最大の難所とされた{{sfn|真柄|1993}}{{sfn|滋賀県歴史散歩編集委員会編|2008|pp=189f}}。そのため[[新道野越]]を経由して[[永原村|大浦]]に至る経路が開発されている{{sfn|真柄|1993}}。新道野越は塩津への経路としても利用されており、塩津街道は深坂越経由・新道野越経由の2経路の総称として用いられる{{Sfn|小泉|1994}}。

[[ファイル:Fukasaka Pass Jizoudou 20040321.jpg|thumb|right|滋賀県側にある深坂地蔵堂]]
{{nowrap|敦賀 – 琵琶湖間}}<!--float対策-->には歴史上複数回に渡り運河を通そうとする計画が持ち上がっている{{sfn|藤井編|2003|pp=35-37}}{{sfn|用田2011}}。このような計画は、不確かなものまで含めると平安時代末期にまで遡ることができる{{sfn|藤井編|2003|pp=35-37}}{{sfn|杉江|2007a|p=75}}。それは[[平清盛]]が嫡男[[平重盛]]に塩津から深坂越を経て[[敦賀湾|敦賀]]を結ぶ運河の掘削を命じたとされるものであるが、後代の[[江戸時代]]中期に記された[[橘南谿]]『北窓瑣談』における

{{quote|style=clear: none;|平清盛相国、[[平重盛|小松内府]]に命じ、近江国琵琶湖を北海へ切落し、[[新田 (農地)|新田]]を開かんとし、敦賀へ越る道中塩津の山中深坂といふ所に、其切開きかゝりし{{ruby|迹|あと}}、今に残れり。近来{{ruby|河村|かわむら}}、{{ruby|松浦|まつら}}が輩、又此事をいひて、北海へ湖水を落さん事を謀れども、其事ならず。}}

との記述に基づくものであり、伝説の域にとどまる{{sfn|高橋|1994}}{{sfn|杉江|2007a|p=75}}{{sfn|杉江|2007b|p=66}}{{sfn|辻川|2008}}。現代にも残る'''深坂地蔵'''(堀止め地蔵・塩かけ地蔵とも)は、このとき掘り当てられた巨岩とされ、この巨岩に工事を阻まれ、これを砕こうとするとけが人が続出したため、地蔵仏として祀ったと伝えられている{{Sfn|用田|2011|p=164}}{{sfn|長浜市北部振興局農林課編|2017}}{{sfn|びわこビジターズビューロー|2021}}。

=== 近世 ===
[[天正 (日本)|天正]]8年(1580年)に勾配が緩く積雪も少ない[[新道野越]]が開かれた後、[[江戸時代]]初頭には深坂越の重要性は薄れていく{{sfn|中島|1994}}{{Sfn|木村ら|2007|p=124}}{{sfn|ブリタニカ・ジャパン|2014}}。また[[寛文]]期には[[西廻り航路]]の成立を受け、敦賀 – 琵琶湖経由の流通路も衰退した{{sfn|杉江|2007b|p=81}}。

敦賀 – 琵琶湖間の運河計画については江戸時代をつうじて複数の記録がある。まず寛文10年(1670年)に深坂を通る経路での運河計画が検討されているが、深坂越は陸路とされている{{sfn|杉江|2007b|pp=66f}}。深坂に運河を掘るとしたものとしては[[元禄]]8年(1695年)のものが挙げられ、この計画では水運とともに[[琵琶湖#水害と治水|琵琶湖周辺域の治水]]も目的とされた{{sfn|杉江|2007b|pp=66-69}}。[[享保]]4年(1719年)には、麓の集福寺 – 駄口間を掘り抜くとする計画が立てられているが、深坂越は陸路で荷を運ぶとされており、運河ではなく琵琶湖の水位を下げ[[新田 (農地)|新田]]開発をおこなうことを目的とした水路の計画であった{{sfn|杉江|2007b|p=71|pp=}}。

[[安政]]4年(1857)には、敦賀 – 塩津間の陸路整備(敦賀側を[[小浜藩]]、近江側を[[江戸幕府|幕府]]が担当)の一環として、深坂峠は2[[丈]]5[[尺]]切り下げられ道も拡幅された{{sfn|杉江|2007b|p=|pp=77f}}{{Efn2|同時に疋田 – 敦賀間および山門 – 大浦間の水路の整備とともに陸路の整備も行われたが、これは間の陸路として[[七里半越]]を利用する経路であった{{sfn|杉江|2007b|pp=77f}}。}}。また整備の出資者である京都町人で小浜藩[[御用達#江戸時代|御用達]]の小林金三郎・京都の[[糸割符]]村瀬孫祐{{Efn2|孫助・孫介などとも{{sfn|杉江|2007b|p=76}}。}}により[[問屋場|問屋]]も立てられている{{sfn|杉江|2007b|p=|pp=76 & 79}}{{sfn|鈴木|2013|p=1}}。この経路は旧来の[[七里半街道]]よりも1[[里 (尺貫法)|里]]ほど短かったが、峠の勾配が急であり、冬場は雪により通行が困難になることから、[[文久]]2年(1862年)までには再び旧道が用いられるようになっていた{{sfn|杉江|2007b|p=79}}。文久3年(1863年)には、小浜藩敦賀町奉行所[[産物会所|産物方]]による計画を伝えられた後、幕府の役人により検分がなされ、深坂峠を追分から2丈切り下げ、深坂新道入口 – 大浦谷の新村間に道を開くとの計画が新たに立てられていることからも、安政4年に整備された道がうまく機能していなかったことが伺える{{sfn|杉江|2007b|p=80}}。

{{-}}

== 注釈 ==
{{notelist2|40em}}
== 出典 ==
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
*'''書籍'''
** {{cite book|和書|date=1993-03|last=真柄|first=甚松|chapter=近江から越への道|title=福井県史|volume=通史編1(原始・古代)|publisher=[[福井県]]|editor=<!--福井県-->|isbn=4-938772-02-7|chapterurl=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/4-01-03-03-01.htm|ref=harv}}<!-- 福井県のウェブサイトのもののみ確認しているので、書籍と同内容かは要確認 -->
** {{cite book|和書|date=1994-03|title=福井県史|volume=通史編2(中世)|publisher=[[福井県]]|editor=<!--福井県-->|isbn=4-938772-03-5}}<!-- 同上 -->
*** {{wikicite|reference=[[高橋昌明|高橋, 昌明]]「[https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-01-04-02.htm 治承のクーデターと越前]」。|ref={{sfnref|高橋|1994}}}}
*** {{wikicite|reference=小泉, 義博「[https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-5-01-01-02-05.htm 塩津街道]」。|ref={{sfnref|小泉|1994}}}}
** {{cite book|和書|date=1994-11|last=中島|first=文男|chapter=西近江への路|title=福井県史|volume=通史編3(近世一)|publisher=[[福井県]]|editor=<!--福井県-->|isbn=4-938772-05-1|chapterurl=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-03-02-04.htm|ref=harv}}<!-- 同上 -->
** {{cite book|和書|date=1999-05-25|last=竹林|first=征三|authorlink=竹林征三|title=湖国「水の道」 — 近江—水の散歩道|publisher=[[サンライズ出版]]|isbn=4-88325-060-1|ref=harv}}
**{{cite book|和書|date=2003-01|title=近江・若狭と湖の道|editor=[[藤井譲治|藤井, 讓治]]|series=街道の日本史<!--31-->|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4-642-06231-9|ref={{sfnref|藤井編|2003}}}}
**{{cite book|和書|date=2007-11-25|author=[[木村至宏|木村, 至宏]]、八杉, 淳、山本, 晃子|title=近江の峠道 — その歴史と文化|editor=木村, 至宏|publisher=サンライズ出版|series=近江文庫|isbn=978-4-88325-157-5|ref={{sfnref|木村ら|2007}}}}
**{{cite book|和書|date=2008-05|title=滋賀県の歴史散歩|volume=下(彦根・湖東・湖北・湖西)|editor=滋賀県歴史散歩編集委員会|series=歴史散歩<!--25-->|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4-634-24825-0|ref={{sfnref|滋賀県歴史散歩編集委員会編|2008}}}}
**{{Cite book|和書|date=2011-04-05|last=用田|first=政晴|chapter=琵琶湖運河構想の歴史と本質|pages=164-165|title=生命の湖 琵琶湖をさぐる|editor=[[滋賀県立琵琶湖博物館]]|publisher=[[文一総合出版]]|isbn=978-4829911914|ref=harv}}
**{{Cite book|和書|date=2011-08|title=三省堂 日本山名事典|editor=徳久, 球雄、石井, 光造、武内, 正|edition=改訂版|publisher=[[三省堂]]|isbn=978-4-385-15428-2|ref={{sfnref|徳久ら編|2011}}}}
*'''論文'''
** {{cite journal|和書|date=2007-08-22|last=杉江|first=進|title=近世琵琶湖運河構想の諸相|journal=
交通史研究|publisher=[[交通史学会]]|volume=63|page=75-77|doi=10.20712/kotsushi.63.0_75|ref=harv|year=2007a}}
** {{cite journal|和書|date=2007-12-20|last=杉江|first=進|title=琵琶湖 – 敦賀「運河」計画の再検討|journal=
交通史研究|publisher=[[交通史学会]]|volume=64|pages=65-85|doi=10.20712/kotsushi.64.0_65|ref=harv|year=2007b}}
**{{cite journal|和書|last=鈴木|first=栄樹|date=2013-03-29|title=「京都御備」としての安政期の湖北通船路開鑿事業 — 彦根藩と小浜藩との対立を軸とした通説の根本的再検討を通じて|journal=人文學報|volume=104|pages=1-36|publisher=京都大學人文科學研究所|ref=harv|doi=10.14989/189494}}
*'''辞典・データベース'''
** {{wikicite|reference=「[http://jlogos.com/docomosp/word.html?id=7092796 塩津道]」『[[角川日本地名大辞典]]』、[[KADOKAWA]](『[[JLogos]]』、エア)。2021年12月16日閲覧。|ref={{sfnref|KADOKAWA|n.d.}}}}
** {{wikicite|reference=「[https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E9%81%93%E9%87%8E%E8%B6%8A-82338 新道野越]」『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』、[[ブリタニカ・ジャパン]]、2014年(『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]])。2021年12月16日閲覧。|ref={{sfnref|ブリタニカ・ジャパン|2014}}}}
** {{wikicite|reference=『事典・日本の観光資源』、[[日外アソシエーツ]](『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]])。2021年12月16日閲覧。|ref={{sfnref|日外アソシエーツ|n.d.}}}}
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*'''新聞記事'''
** {{cite news|和書|date=2008-11-02|last=辻川|first=哲朗|title=運河計画① — 平清盛以来?の夢|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|edition=滋賀|page=20|url=http://shiga-bunkazai.jp/biwako/biwako1_40.pdf<!--著者所属団体のウェブサイトへの転載であり、著作権上問題ないと推定される-->|ref={{sfnref|辻川|2008}}}}
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* '''行政機関・公益法人によるウェブ・ページ'''
** {{Cite web|date=2011-08-24|title=紫式部も越えた深坂古道|work=新近江名所圖会|website=公益財団法人滋賀県文化財保護協会|publisher=<!--滋賀県文化財保護協会-->|url=http://shiga-bunkazai.jp/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC64%E5%9B%9E/ |accessdate=2021-12-11|ref={{sfnref|滋賀県文化財保護協会|2011}}}}
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** {{Cite web|date=2021-07-28|title=深坂地蔵|url=https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/674/|accessdate=2021-12-02|publisher=びわこビジターズビューロー|website=滋賀県・びわ湖観光情報|ref=harv|year=2021}}
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** {{cite web|title=歴史浪漫街道(深坂古道)|website=漫遊敦賀|publisher=敦賀観光協会|url=http://www.turuga.org/places/fukasaka/fukasaka.html|accessdate=2019-11-24|ref={{sfnref|敦賀観光協会|n.d.}}}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[日本の峠一覧]]
* [[日本の峠一覧]]
* [[新道野越]]
* [[深坂古道]]
* [[深坂トンネル]]
* [[深坂トンネル]]

== 外部リンク ==
{{Citation |和書 |author=林正一 |title=『ゆる山登山』7 深坂越え(深坂古道) |newspaper=中日新聞プラス |date=2019-05-29 |url=https://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=8611&comment_sub_id=0&category_id=300 |publisher=[[中日新聞社]]}}


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2021年12月15日 (水) 20:53時点における版

深坂越
深坂越(福井県側)
所在地 福井県敦賀市滋賀県長浜市
座標
深坂越の位置(日本内)
深坂越
北緯35度34分55.5秒 東経136度6分47.0秒 / 北緯35.582083度 東経136.113056度 / 35.582083; 136.113056座標: 北緯35度34分55.5秒 東経136度6分47.0秒 / 北緯35.582083度 東経136.113056度 / 35.582083; 136.113056
標高 364 m
山系 野坂山地
通過路 北陸本線深坂トンネル
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

深坂越(ふかさかごえ)は、野坂山地に位置し福井県敦賀市滋賀県長浜市を隔てる[1]標高364メートルのであり、この峠を含む敦賀 – 塩津間の道を指すこともある[2]深坂峠塩津山越え塩津道とも呼ばれ[3][4][2][5]、深坂越ないし新道野越を経由して塩津と敦賀を結ぶ経路は塩津街道五里半越)と呼ばれる。古代から用いられた道路であるが、新道野越が整備された近世以降は重要性は薄れた。21世紀初頭現在は深坂古道の呼称でハイキング・コースとして整備されている。

地理

深坂越は、野坂山地に位置し福井県敦賀市追分から滋賀県長浜市西浅井町沓掛に至る、旧街道の峠である[6][7][2]標高は364メートル[注 1]、標高差はおよそ250メートルである[7]。隣接する峠には新道野越七里半越がある。

整備状況など

知りぬらむ 往き来にならす 塩津山 世に経る道はからきものぞと

紫式部[8]

車両での通行は不可能な峠である。自転車などの軽車両でも走行は不可能である[要出典]。このハイキング・コース[注 2]は深坂古道とも呼ばれており[5][9]中部北陸自然歩道の一部となっている[10]。また、『湖国百選 水編』(1988年)には「深坂地蔵掘り止めの水」が、同『街道編』(1989年)には「深坂越」が、指定されている[11]

滋賀県側は、峠付近の車道から深坂地蔵堂まで参拝道が整備されており、21世紀初頭現在においても深坂地蔵堂には多くの参拝者が訪れる[12][13]。福井県側は、本来の古道がやや拡張されているもののそのままの経路で残されており[12]、かつてこの峠を越えた歌人の笠金村後述)や紫式部の歌碑や[4][5]、古道の由来を記した複数の案内板が設置されている[13]。交通の基盤は近世に開かれた新道野越国道8号)に譲っていることから[3]、ひっそりと佇む昔から変わらない峠の風景が味わえる場所である[要出典]

峠へのアクセス

歴史

敦賀 – 琵琶湖間の地図

中世以前

古代から中世にかけては、敦賀から深坂越を経由し塩津に至る塩津街道五里半越)が、北国近江とを結ぶ幹線道路とし用いられた[14]。野坂山地の峠が日本列島を横断する交通路として栄えたのは、他の本州を縦断する山脈の中にあって馬でも容易に越えることができる程度に標高が低く、また琵琶湖淀川(瀬田川・宇治川)の水運と接続し京都大阪へと北国の物資を輸送するのにも都合がよかったためである[15]律令制下駅馬制においては、海津を起点とする七里半街道官道であったと考えられるが、琵琶湖水運と接続する場合は、陸路の短い塩津街道が選ばれたと推測される[16]

深坂越は、『万葉集』において

塩津山しほつやま打ち越え行けば我乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも[注 3]

と歌われていることから伺えるように道が険しく[14][8]、勾配も急で積雪量も多かったため、塩津街道最大の難所とされた[16][7]。そのため新道野越を経由して大浦に至る経路が開発されている[16]。新道野越は塩津への経路としても利用されており、塩津街道は深坂越経由・新道野越経由の2経路の総称として用いられる[17]

滋賀県側にある深坂地蔵堂

敦賀 – 琵琶湖間には歴史上複数回に渡り運河を通そうとする計画が持ち上がっている[3][18]。このような計画は、不確かなものまで含めると平安時代末期にまで遡ることができる[3][19]。それは平清盛が嫡男平重盛に塩津から深坂越を経て敦賀を結ぶ運河の掘削を命じたとされるものであるが、後代の江戸時代中期に記された橘南谿『北窓瑣談』における

平清盛相国、小松内府に命じ、近江国琵琶湖を北海へ切落し、新田を開かんとし、敦賀へ越る道中塩津の山中深坂といふ所に、其切開きかゝりしあと、今に残れり。近来河村かわむら松浦まつらが輩、又此事をいひて、北海へ湖水を落さん事を謀れども、其事ならず。

との記述に基づくものであり、伝説の域にとどまる[20][19][21][22]。現代にも残る深坂地蔵(堀止め地蔵・塩かけ地蔵とも)は、このとき掘り当てられた巨岩とされ、この巨岩に工事を阻まれ、これを砕こうとするとけが人が続出したため、地蔵仏として祀ったと伝えられている[23][5][24]

近世

天正8年(1580年)に勾配が緩く積雪も少ない新道野越が開かれた後、江戸時代初頭には深坂越の重要性は薄れていく[25][26][27]。また寛文期には西廻り航路の成立を受け、敦賀 – 琵琶湖経由の流通路も衰退した[28]

敦賀 – 琵琶湖間の運河計画については江戸時代をつうじて複数の記録がある。まず寛文10年(1670年)に深坂を通る経路での運河計画が検討されているが、深坂越は陸路とされている[29]。深坂に運河を掘るとしたものとしては元禄8年(1695年)のものが挙げられ、この計画では水運とともに琵琶湖周辺域の治水も目的とされた[30]享保4年(1719年)には、麓の集福寺 – 駄口間を掘り抜くとする計画が立てられているが、深坂越は陸路で荷を運ぶとされており、運河ではなく琵琶湖の水位を下げ新田開発をおこなうことを目的とした水路の計画であった[31]

安政4年(1857)には、敦賀 – 塩津間の陸路整備(敦賀側を小浜藩、近江側を幕府が担当)の一環として、深坂峠は25切り下げられ道も拡幅された[32][注 4]。また整備の出資者である京都町人で小浜藩御用達の小林金三郎・京都の糸割符村瀬孫祐[注 5]により問屋も立てられている[34][35]。この経路は旧来の七里半街道よりも1ほど短かったが、峠の勾配が急であり、冬場は雪により通行が困難になることから、文久2年(1862年)までには再び旧道が用いられるようになっていた[36]。文久3年(1863年)には、小浜藩敦賀町奉行所産物方による計画を伝えられた後、幕府の役人により検分がなされ、深坂峠を追分から2丈切り下げ、深坂新道入口 – 大浦谷の新村間に道を開くとの計画が新たに立てられていることからも、安政4年に整備された道がうまく機能していなかったことが伺える[37]

注釈

  1. ^ 徳久ら編 (2011, p. 892) によると360メートル、滋賀県歴史散歩編集委員会編 (2008, pp. 189f) および長浜市北部振興局農林課編 (2017) によると370メートル。
  2. ^ 登山というほど長い道のりではないが、何の装備もせずに越えるには厳しい山道で、季節によってはツキノワグマの目撃例もあるので注意が必要である[要出典]
  3. ^ 家恋ふらしも:「家人が私のことを恋しく想っているのであろう」の意[8]
  4. ^ 同時に疋田 – 敦賀間および山門 – 大浦間の水路の整備とともに陸路の整備も行われたが、これは間の陸路として七里半越を利用する経路であった[32]
  5. ^ 孫助・孫介などとも[33]

出典

参考文献

関連項目