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奈良県立畝傍高等学校 | |
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(2008年〈平成20年〉10月撮影) | |
北緯34度30分33.9秒 東経135度47分57秒 / 北緯34.509417度 東経135.79917度座標: 北緯34度30分33.9秒 東経135度47分57秒 / 北緯34.509417度 東経135.79917度 | |
過去の名称 |
奈良県尋常中学校畝傍分校 奈良県畝傍中学校 奈良県立畝傍中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 奈良県 |
学区 | 全県一学区 |
併合学校 | 奈良県立耳成高等学校 |
校訓 | 至誠・至善・堅忍・力行 |
設立年月日 | 1896年(明治29年) |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 |
全日制課程 定時制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 |
3学期制(全日制課程) 3学期制(定時制課程) |
学校コード | D129210000254 |
高校コード | 29112K |
所在地 | 〒634-0078 |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
奈良県立畝傍高等学校(ならけんりつ うねび こうとうがっこう、英: Nara Prefectural Unebi Senior High School)は、奈良県橿原市八木町にある公立の高等学校。明治期1896年、奈良県尋常中学校(旧制中学校)の分校として創立した。通称「畝高(うねこう)」。
概要
1896年(明治29年)奈良県尋常中学校(修業年限5年間の旧制中学校。現奈良県立郡山高等学校)畝傍分校として開校[1][2]。1899年(明治32年)に独立して奈良県畝傍中学校となる[1][2]。太平洋戦争後の1948年(昭和23年)の学制改革により、新制の高校の奈良県立畝傍高等学校となった(4月時点では男子校、同年9月より男女共学)[1][2]。
教育課程は全日制課程と定時制課程があり、ともに普通科を設置している。
全日制の授業は45分間×7時限の時間割[1][3]。年3学期制[1][3]。1年次は全員共通の課程、2年次で文系と理系に分かれ、3年次では理系が理Iコース(理系学部への進学コース)・理IIコース(医療・看護学部への進学コース)に分かれる[1][4]。
なお、旧制中学校時代の授業では、太平洋戦争(第二次世界大戦)中に「敵国語」とみなされていた英語が戦争末期1945年(昭和20年)の時点でも週12時間、教えられていた。これは他校と異なり、勝利のためには敵の言語を知ることが不可欠と考えていたため[5]である。旧制中学校時代の教員の質が非常に高かったこともあり、多くの教員が戦後の学制改革時に大学教員として引き抜かれた[6]。
現在の高校の入学者選抜(入学試験)は一般選抜のみで、全日制の募集人員は2019年(令和元年)から1学年9学級約360人(合計約1,160名)に減少したが、募集人員減少後も比較的出願倍率が高いことから2022年(令和4年)の募集人員は1学年9学級約378人(42人/1クラス)と、再び増加している。2018年(平成30年)までは1学年10学級約400人だった[7]。
定時制は夜間で修業年限4年制。2015年(平成27年)度の生徒数は4学年合計で57名だった[7]。
2014年(平成26年)度、文部科学省のスーパーグローバルハイスクール(SGH)に指定された。授業では独自の科目を新設。「グローバル国語」では、元朝日放送でフリーアナウンサーの乾龍介からインタビューや情報収集の手法について学ぶなど、各界で活躍する人を講師に招いている[8]。
沿革
旧制中学校
- 1896年(明治29年) - 3月13日、「奈良県尋常中学校畝傍分校」が設置される(高市郡八木町大字小房に仮校舎)。4月13日、八木町晩成尋常小学校(現・橿原市立晩成小学校)の校舎一部を借用して開校
- 1897年 - 5月5日、新校舎が完成
- 1899年(明治32年) - 4月1日、奈良県尋常中学校から分離し「奈良県畝傍中学校」と改称(奈良県尋常中学校は奈良県郡山中学校に改称)。初代校長に永井道明が就任[9]
- 1901年 - 6月21日、「奈良県立畝傍中学校」と改称(県の後に「立」を置く)
- 1933年(昭和8年) - 10月25日、本館校舎が完成し移転(現在地)
- 1943年 - 4月1日、中等学校令の施行により修業年限が4年に短縮される(この年度の入学生から)
- 1944年 - 勤労動員が開始
- 1945年 - 3月、教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年施行の前倒しが決定し、4年生と5年生の合同卒業式を挙行[10]。4月1日、本館校舎を海軍経理学校へ提供し、中学校は晩成国民学校(現・橿原市立晩成小学校)の校舎を借用して設置する。学校での授業が停止される。ただし勤労動員等は継続される。9月1日、終戦(8月15日)および海軍経理学校の解散により、本校舎に戻って授業を再開
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年に戻される(4年修了時点で卒業も可能)
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)により、旧制中学校の募集を停止する。経過措置として、暫定的に新制(修業3年制)の中学校を併設し(以下・併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を併設中学校2・3年生として収容(在校生は2・3年生のみ)。旧制中学校3・4年修了者は旧制中学校にそのまま在籍し、4・5年生となった
高等学校
- 1948年(昭和23年) - 4月1日、学制改革により旧制中学校が廃止され、新制高等学校「奈良県立畝傍高等学校」(男子校)が発足。旧制中学校卒業生(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生(3年修了者)を新制高校1年生として収容。併設中学校は新制高校に継承され(名称: 奈良県立畝傍高等学校併設中学校)、1946年(昭和21年)に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。施設・校地はすべて旧制中学校から継承される。9月1日、高校三原則に基づく公立高校再編により、総合制の「奈良県立畝傍高等学校」(男女共学)が発足
- 1949年(昭和24年) - 1月20日、定時制を設置。3月31日、併設中学校を廃止
- 1951年 - 11月、昭和天皇が来校(校庭が高市郡奉迎場となったため)
- 1996年(平成8年) - 11月2日、創立100周年記念式典を挙行
- 2004年 - 4月1日、奈良県立耳成高等学校を統合(耳成の読み方は「みみなし」)
- 2008年 - 4月1日、奈良県立高田高等学校の定時制課程を統合
- 2012年 - 4月20日、校舎本館の北館・南館・渡廊下と倉庫(旧動力室)が国の登録有形文化財に登録される[11][12]
- 2014年(平成26年) - 3月28日、文部科学省より、2014年度(平成26年度)のスーパーグローバルハイスクール(SGH)に指定される[13][14]
- 2016年(平成28年) - 創立120周年記念式典を挙行
(年表の主な出典は公式サイトの沿革のページ[2])
基礎データ
交通アクセス
- 近畿日本鉄道(近鉄橿原線・大阪線)大和八木駅より南東へ約1.2km(徒歩で約15分)または八木西口駅(橿原線)より南東へ約1km(徒歩で約13分)
- JR西日本 桜井線(万葉まほろば線)畝傍駅より東へ約650m(徒歩で約8分)
象徴
- 校訓
校訓は、「至誠・至善・堅忍・力行」[15](読み:しせい・しぜん[16]・けんにん・りょっこう[17])。旧制中学校時代の1906年(明治39年)に制定された。
- 校章
校章は、左右に羽を広げる金鵄と樫の葉をモチーフに図案化したもので[15]、中央に「高」の文字を置いている。なお、耳成高校との統合後の2005年(平成17年)12月16日、金鵄と、旧・耳成高校の樫の校章と組み合わされたデザインとなった(現校章)。
- 校歌
校歌は1954年(昭和29年)11月3日に制定。北見志保子による作詞[18]、平井康三郎による作曲[15]。4番まであり、各番に校名の「畝傍高校」が登場する
- 制服
全日制課程の制服は、黒色学生服(学ラン、男子の冬服)、濃紺色ブレザーに赤色のリボン着用(女子の冬服)。定時制課程に制服はない。
旧・奈良県立耳成高等学校
1983年(昭和58年)4月1日、橿原市常盤町に「奈良県立耳成(みみなし)高等学校」が開校。全日制課程普通科を設置。校訓は「敬愛、力行、創造」で、校章は樫の6枚葉を背景に「高」の文字。校歌は、栢木喜一による作詞、中嶋英俊による作曲。歌詞は3番まであり、各番に校名の「耳成高校」が登場する。
2004年(平成16年)4月1日、畝傍高校への統合のため生徒募集を停止した。ただし経過措置として在校生が卒業するまで学校は存続[19]。2006年(平成18年)4月1日に閉校した。
学校行事
- 全日制課程
(出典:[1])
- 4月 - 入学式
- 5月 - 体育大会、校外学習
- 6月 - 音楽鑑賞会
- 7月 - 人権芸術鑑賞会
- 8月 - 大学見学会、SSH連携校研究講座
- 9月 - 畝高祭(文化祭)
- 10月 - 球技大会、修学旅行
- 11月 - 古典芸術鑑賞会
- 12月 - 文化部発表会、文化講演会
- 1月 - 新春かるた大会
- 2月 - Seminar for U
- 3月 - 卒業式、人権教育学習会
- 定時制課程
- 4月 - 入学式、新入生オリエンテーション、対面式、個人面談
- 5月 - スポーツテスト、中間考査
- 6月 - 人権講演会、安全教育講話
- 7月 - 期末考査、三者面談、学力補充講座、面接マナー講習会
- 8月 - 進学就職補習
- 9月 - 個人面談、文化映画会、ボウリング大会
- 10月 - 中間考査、人権学習会
- 11月 - 文化祭
- 12月 - 期期末考査、学力補充講座、実力養成講座
- 1月 - 人権学習会、生徒会役員改選、4年学年末考査
- 2月 - 1~3年学年末考査
- 3月 - 卒業式
部活動
- 全日制課程
(出典:[20])
- 文化部
- 体育部
- 野球部 - 1941年(昭和16年)8月の第27回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園大会の前身)に出場予定だった(日華事変激化で中止された幻の大会)。2007年(平成19年)3月、第79回選抜高等学校野球大会21世紀枠近畿地区代表に選出される。
- 統合された奈良県立耳成高等学校が1995年(平成7年)12月の第74回全国高等学校サッカー選手権大会と2000年12月の第79回全国高等学校サッカー選手権大会の2回、奈良県代表として出場。
- 定時制課程
- 文化部
- 体育部
- バドミントン部
- 野球部
- 陸上部
学校施設
校地
- 旧校地 - 1933年(昭和8年)以前の所在地は、元スーパー・ヤマトー八木店(旧ニチイ八木店(閉店))およびその東向かいに相当。
- 現校地 - 藤原京旧跡上に立地し(藤原京の規模については諸説があるが、近年の考古学的発掘により、その規模の大きさが証明されつつある)、三条大路(「横大路」)西二坊大路(「下ツ道」)東入ルにほぼ相当する。なお、この両大路の交差点は「札の辻」と呼ばれるが、近畿風景街道協議会(国土交通省内)により「日本文化のクロスロード」として「日本風景街道」の近畿第1号に選出されている。
- 旧・耳成高校の校地跡 - 2009年(平成21年)まで全国高等学校総合体育大会の開催準備及び大会運営本部関連施設として活用された。2013年、奈良県農業協同組合による農産物直売所を中核とした複合施設「JAならけんファーマーズマーケット まほろばキッチン」となった。中南和地域の奈良県庁出先機関の再配置計画により、元校舎は改修されて奈良県橿原総合庁舎となり、2015年1月より業務を開始した[22]。また屋上には庭園が設置され、同年3月より一般開放された[23][24]。
校舎
戦時中に海軍経理学校へ貸与、国の文化財
現校舎(本館―北館と南館から成る)は旧制中学校時代の1933年(昭和8年)に完成。日本の建国神話の土地柄にふさわしい建築にするため、奈良県は当時として破格の予算を計上した。寺師通尚と岩﨑平太郎(当時・奈良県土木課営繕係建築技手、のちに奈良県下初の民間建築設計事務所を開設)の設計で、帝冠様式を思わせる仏教様式が引用的に採用されている[25]。
第二次世界大戦末期の数ヶ月間、校舎が海軍経理学校に貸与され、橿原分校が設けられた。その間、授業は晩成小学校校舎を借りて続けられた。当時校舎の塔屋には十六弁の菊花紋章が掛けられ、屋上には電波探知機、高射機関砲、防空監視施設が設置されていた。校庭外周フェンス等に、戦時中の金属供出による爪跡が残る。校舎正面の校章の左上に米空軍の機関銃があたり、セメントで埋められた跡(と伝えられる)が数か所ある[26]。
日本建築学会より美的建築物として「日本近代建築二千」に選出されており、2012年(平成24年)4月20日に校舎本館の北館・南館・渡廊下と倉庫(旧動力室)が国の登録有形文化財に登録された[11][12]。奈良県が実施した県立高校校舎の耐震診断で、本館が耐震補強の必要ない「A1」と判定されている。耐震改修も適宜施されている[27]。校舎・教室・設備は全日制と定時制で共用している。
- 校長室 - かつて「御真影」と「教育勅語」謄本を保管していた金庫(「奉安庫」)が現存する。また貴賓室(現在は小会議室)も設けられた。
- 史料館 - 古代日本・朝鮮に関する考古学資料を保管。後に東京帝室博物館(現東京国立博物館)の監査官に就任した高橋健自教頭ら、旧制中学時代の教員・学校関係者が収集したものが主で、2007年2~3月、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で、新羅の瓦塼を中心とする特別陳列が実施された。
- 文化創造館 - 1996年完成。地上3階建て。空調設備完備。可動式座席(462席)を備え、学校行事に限らず広く一般に開放される。
- 校舎の年表
- 1955年(昭和30年) - 3月31日、図書館が完成
- 1958年 - 11月19日、講堂を増築
- 1960年 - 5月17日、プールが完成
- 1967年 - 1月20日、新体育館が完成
- 1969年 - 12月31日、鉄筋コンクリート造4階ての建特別教室新館が完成
- 1986年 - 11月3日、創立90周年を記念して新南館、史料館、図書室が完成
- 1989年(平成元年) - 8月21日、格技場・体育研究室・更衣室・部室新築工事・ハンドボールコート・テニスコートを新設
- 1990年 - 8月31日、校舎の大規模改修工事が完了
- 1996年 - 9月24日、文化創造館が完成。10月31日、第二史料館が完成
- 2012年 - 4月20日、校舎本館の北館・南館・渡廊下と倉庫(旧動力室)が国の登録有形文化財に登録される[11][12]
舞台となった作品
- NHK連続テレビ小説「ふたりっ子」(1996年〈平成8年〉~1997年)。主人公野田麗子(演:菊池麻衣子)が通った「大阪府立紹鴎高校」のモデル校。
- 映画「朱花の月(2011年)- 監督 : 河瀬直美
- 映画「少年H」(2013年)- 監督 : 降旗康男
高校関係者と組織
関連団体
- 奈良県立畝傍高等学校同窓会「金鵄会」 - 同窓会。校章にちなんだ名称で、読み方は「きんしかい」。1976年(昭和51年)11月3日、創立80周年を記念して金鵄会館(同窓会館)が完成。
- 奈良県立耳成高等学校同窓会(Miminashi21) - 旧・耳成高等学校の同窓会。金鵄会と統合されていない[28]。
高校関係者一覧
- 政治・行政
- 阿古和彦 - 葛城市長
- 大西孝典 - 民主党元衆議院議員
- 奥野誠亮 - 国土庁長官(第16代)。元自民党衆議院議員
- 新谷寅三郎 - 郵政大臣(第25代)。元自民党参議院議員
- 高市早苗 - 総務大臣(第18・19代、第23代)。自民党衆議院議員
- 堀内大造 - 大和高田市長
- 森義視 - 元橿原市長(奈良県で初の革新市長)。元日本社会党衆議院議員
- 吉川元偉 - 外交官、国連大使、国際基督教大学特別招聘教授
- 好川三郎 - 橿原市長(初代)。紀元節復活に尽力した「紀元節市長」
- 吉田之久 - 民社党(のち新進党)衆議院議員・参議院議員
- 淵田美津雄 - 大日本帝国海軍大佐。空母・赤城飛行隊長として真珠湾攻撃空襲総指揮官「トラトラトラ」打電
- 法曹・社会活動
- 経済
- 奥村太加典 - 奥村組代表取締役社長、全国建築業協会会長
- 阪本道隆 - 元南都銀行頭取
- 辻本憲三 - カプコン会長兼最高経営責任者(CEO)、コンピュータソフトウェア著作権協会理事長、コンピュータエンターテインメント協会会長
- 西井孝明 - 味の素社長(第13代)
- 西川善文 - 日本郵政初代社長、日本郵政公社総裁。元三井住友フィナンシャルグループ社長
- 脇田珠樹 - セブン&アイ・ホールディングス執行役員。元ニッセンホールディングス社長、元シャディ会長
- 学術・教育
- 網干善教 - 考古学者、関西大学名誉教授。高松塚古墳の発掘調査を指揮
- 大峯顕 - 哲学者、大阪大学名誉教授。浄土真宗教学研究(浄土真宗本願寺派)
- 田村圓澄 - 日本古代仏教史、九州大学名誉教授。『日本仏教史』『古代日本の国家と仏教』(仏教伝道協会仏教伝道文化賞)
- 畑中正一 - ウイルス学、京都大学名誉教授。塩野義製薬相談役
- 樋口清之 - 考古学者、民俗学者、國學院大學名誉教授
- 森一郎 - 英語学、東京都立日比谷高等学校元教諭。『試験にでる英単語』著者
- 森本六爾 - 考古学者、唐古・鍵遺跡発掘。松本清張『断碑』のモデル
- 山内得立 - 哲学者、京都大学名誉教授、京都学芸大学(現京都教育大学)元学長
- 脇田宗孝 - 工芸・文化財教育、奈良教育大学名誉教授
- 芸能・芸術
- 阿波野青畝 - 俳人、『ホトトギス』の中心的同人。金鵄会館(同窓会館)中庭に句碑あり―「狐火やまことかほにも一くさり」
- 五代ゆう - 小説家、ファンタジア長編小説大賞受賞者
- 新口絢子 - フリーアナウンサー
- 麿赤児 - 俳優、舞踏家、演出家
- 松村又一 - 作詞家。こまどり姉妹『お月さん今晩わ』、淡谷のり子『想い出のブルース』等
- 保田與重郎 - 文芸評論家、日本浪曼派、戦後保守論壇の中心人物
- スポーツ
- 教職員
脚注
- ^ a b c d e f g “平成26年入学案内”. 奈良県立畝傍高等学校. 2015年6月8日閲覧。
- ^ a b c d “沿革概要”. 奈良県立畝傍高等学校. 2018年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月8日閲覧。
- ^ a b “畝高Q&A”. 奈良県立畝傍高等学校. 2015年6月8日閲覧。
- ^ “教育課程”. 奈良県立畝傍高等学校. 2015年6月8日閲覧。
- ^ 「追憶奈良空(大和海軍航空隊の想いで)」
- ^ 吉見良三『空ニモ書カン――保田與重郎の生涯』淡交社、1998年、50頁。
- ^ a b “学校要覧”. 奈良県立畝傍高等学校. 2016年10月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月8日閲覧。
- ^ “インタビュー実演 - 心構え学ぶ/畝傍高”. 奈良新聞. (2014年6月30日) 2021年2月21日閲覧。
- ^ 永井道明先生後援会『遺稿 永井道明自叙伝』大空社〈伝記叢書 36〉、1988年3月17日、28, 91頁頁。全国書誌番号:88039498
- ^ 中等学校令施行以前の入学生(1941年(昭和16年)入学生と1942年入学生)にも修業年限4年(従来の5年制から1年短縮)が適用された。
- ^ a b c 文化庁報道発表「登録有形文化財(建造物)の登録について」 (PDF)
- ^ a b c 4/20畝傍高校、登録文化財に
- ^ “平成26年度スーパーグローバルハイスクールの指定について”. 文部科学省 (2014年3月28日). 2015年5月10日閲覧。
- ^ “スーパーグローバルハイスクール指定校一覧”. 文部科学省. 2015年5月10日閲覧。
- ^ a b c “校章・校訓・校旗・校歌”. 奈良県立畝傍高等学校. 2015年6月8日閲覧。
- ^ 「しいぜん」とも。
- ^ 「りきこう」、「りっこう」とも。
- ^ 宿毛歴史館/宿毛人物史/北見志保子
- ^ 奈良県立高等学校等設置条例改正の概要 - 奈良県ウェブサイト
- ^ “部活動”. 奈良県立畝傍高等学校. 2018年9月19日閲覧。
- ^ “第1回考古学写真甲子園、最優秀賞に奈良県立畝傍高「主とともに」”. 産経新聞. (2017年9月9日) 2021年2月21日閲覧。
- ^ “新しく橿原総合庁舎を設置しました”. 奈良県ファシリティマネジメント室. 2015年8月3日閲覧。
- ^ “橿原総合庁舎屋上庭園がオープンします”. 奈良県総務部ファシリティマネジメント室. 2015年8月3日閲覧。
- ^ “橿原総合庁舎屋上庭園開園記念式典オープニングイベントの開催について”. 奈良県総務部ファシリティマネジメント室. 2015年8月3日閲覧。
- ^ 「『岩崎平太郎』という建築家の発見」(川島智生、2004年、(社)奈良まちづくりセンターHP)、川島智生『岩﨑平太郎の仕事――武田五一・亀岡末吉とともに』淡交社、2011年、122頁。
- ^ 「追憶奈良空(大和海軍航空隊の想いで)」(播金収、2003年、『まほろば』vol.17〔通巻94号〕)
- ^ 『奈良新聞』、2010年6月9日。
- ^ 奈良県立耳成高等学校同窓会ウェブサイト