コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「第3回全日本フォークジャンボリー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
出典の追加と加筆。
タグ: サイズの大幅な増減
加筆。
24行目: 24行目:


[[はしだのりひこ]]によると暴動を扇動したのはジャンボリーの数日前、[[広島市|広島]]の[[原爆死没者慰霊碑|被爆者慰霊碑]]に当時の[[内閣総理大臣|首相]]・[[佐藤栄作]]が献花に訪れた際、[[火炎瓶]]を投げつけて[[機動隊]]から逃れ中津川まで流れてきた人たちだという<ref>この人に聞きたい青春時代2、p202-216</ref>。
[[はしだのりひこ]]によると暴動を扇動したのはジャンボリーの数日前、[[広島市|広島]]の[[原爆死没者慰霊碑|被爆者慰霊碑]]に当時の[[内閣総理大臣|首相]]・[[佐藤栄作]]が献花に訪れた際、[[火炎瓶]]を投げつけて[[機動隊]]から逃れ中津川まで流れてきた人たちだという<ref>この人に聞きたい青春時代2、p202-216</ref>。

三橋一夫は「ステージ突っ込みのタイミングが謎」と論じており、ステージに上がった若者のうち、最初に議長役を務めた男は「岡林がこの場で出てきて発言しなければ、われわれは彼を見放すだろう」と言い切った。しかしそれならば、その夜の9時前後の岡林が歌っていた最中か最後に行うべきだった」{{R|新譜7110_16}}。またジャンボリー粉砕が目的だったのなら、あと数時間で終わりという8日深夜から9日にかけて突っ込むより、初日の7日夜に行う方が当然だったのではないか」{{R|新譜7110_16}}、ただ「聴衆があまりにノッテいたので見合わせた」と一部に伝えられていた{{R|新譜7110_16}}。また一番の主張だった「[[TBSテレビ|TBS]](実際は[[テレビマンユニオン]])、[[日本放送協会|NHK]]に取材させるな」「音楽舎(高石事務所、後の[[アングラ・レコード・クラブ|URC]])は手を引け」だが{{R|新譜7110_16}}、TBSは安田南が歌う前、日野皓正の演奏のときに撮影を終了しており{{R|新譜7110_16}}、音楽舎プロデュースの出演者はあらかた出演を済ませていた{{R|新譜7110_16}}。これらの事情から三橋は「火付け役の意図はジャンボリーの粉砕でもマスコミや商業資本の粉砕でもなく『オレは中津川でこういうことをしてやった』という手がら話を作るためだったのではないかと疑わざるをえない」などと論じている{{R|新譜7110_16}}。

[[小室等]]は「[[キングレコード]]が手配してくれたバスに、六文銭の連中と乗り込んだのは6日の午後11時頃。バスの中は、[[高田渡]]夫妻、[[武蔵野タンポポ団]]の面々、[[山平和彦]]君、[[文化放送]]の田中秋男ディレクター、[[TBSラジオ]]の加藤節夫ディレクター、[[白石冬美]]さん等の顔があった(中略)六文銭の[[上條恒彦|恒彦]]にいわせると『あそこでは音楽を始め何ひとつなかったかも知れないが、にもかかわらずあれだけ人が集まったということだけでも評価に値する』となるが、人が沢山集まって戦争以外のことをするというのは大変難しいことではないか、と感じた」などと述べている<ref>{{Cite journal |和書 |author = 小室等 |authorlink = 小室等 |title = 特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE 人が沢山集まって戦争以外のことをするのは難しい |journal = 新譜ジャーナル |issue = 1971年10月号 |publisher = 自由国民社 |pages = 87–88 }}</ref>。

[[高田渡]]は「正直いって全日本フォークジャンボリーについては、もうウンザリしている。やたらマスコミ関係者は『日本の[[ウッドストック・フェスティバル|ウッドストック]]…』なんどと言わんばかりに書き立て、喋りまくっている。どれを読んでも聞いてもいいかげんか、又は考えすぎばかりあの会場において(つまり2日目の晩の事件を指す)、やれ自由がない、ボク達のうたがない…などと騒ぎ立てメインステージで朝までしゃべりまくった(但しじゃべりまくっただけの事なのだが)一部の若者達の姿を今思い出すと、何とも心細い、さみしいものを感じてしまう」などと述べている<ref>{{Cite journal |和書 |author = 高田渡 |authorlink = 高田渡 |title = 二歩前進一歩後退 |journal = 新譜ジャーナル |issue = 1971年11月号 |publisher = [[自由国民社]] |page = 81 }}</ref>。

[[武蔵野タンポポ団]]のメンバーとして参加した[[福岡風太|風太]]は「音楽会とか何とか[[労音]]とかボクは大嫌い。やってることのすべてが気に食わん。ちっとも人間らしさってヤツを感じるところがない。ウソとニセモノだけで満タンの全日本フォークジャンボリーにプレイヤーとして参加することができたことは素晴らしい体験でした」などと述べている<ref>{{Cite journal |和書 |author = 風太 |authorlink =
福岡風太 |title = ジャンボリー出演者一言コーナー『ぼくは、はじめっから終わりまでプレイヤーとしてのボクでありたかった』 |journal = 新譜ジャーナル |issue = 1971年10月号 |publisher = 自由国民社 |page = 83 }}</ref>。

[[加川良]]は「こんどの中津川かて、全体になにかを起こそうって気分はなかったみたいやね。逆につぶそうという空気が強かったみたいや。やるほうでも、なんかそういうお客さんにコビるいうか、肩持つ傾向があるやろ。お客さんは千円払うて、誰と誰が出て、それで文句があったら帰ったらええのや。なにかを起こそうという気が、やる方にも聞くほうにもないんやったら、日本では[[ウッドストック・フェスティバル|ウッドストック]]なんて絶対できっこあらへん(中略)いらいらしてさ、ステージが面白うなかったら椛の湖へでも飛び込んで自〇でもしたらええのや。そんなもんこっちに責任もあらへん。それを承知でわざわざあんな山の中に来とるんやろ。それで文句が出るいうのは、はじめからつぶそうと思うてるとしか思えへん」などと述べている{{R|新譜7111}}。


このコンサートの主催者を代表していた[[笠木透]]は{{R|新譜7110_14}}、コンサート終了直後(6日後と見られる)の『新譜ジャーナル』で「一度でいいから、地方から都会(東京)へ逆流しないものかと、ハカナイ望みを高くかかげ、フォーク・ジャンボリーをはじめて、はや3年。はじめたころの、簡単で自然のままの村祭りみたいなカッコウが、2年、3年とつづけるにつれて、だんだん消えていき、今年はなんとまあものすごい人だったこと、街がそのまま引越して来たようなアンバイとあいなって、あのバカラシイほどのデカサには、もうヘキヘキ致しました。『戦争とジャンボリーだけはイヤ』などと実行委員の若い連中が言っておるのであります。とは言うものの、ぼくら半年にわたる準備と、最後にはつるしあげまでくらった、めしを食うヒマもなかったあの3日間、終わってから紙クズと空カンの山をかたづけるのにフウフウ言っているこの5、6日を通して、だれ一人としてダウンせず、『いそがしかったけどオモシロかった』と言っておるのも、事実なのであります。ぼくら日頃より、あんまり、つきつめて、モノを考えないタチの人間だから、あんな状況で『フォーク・ソングとは何か』『ジャンボリーの目的は』などと追求されるとただただ、オロオロとヘドモドと言いたいこともうまく表現出来ず、まことに困ったのであります(中略)あの激しかったわりには、実りのない、かみ合わない論争、それによって出来なくなってしまったメイン・ステージ(一部の雑誌でフォーク・ジャンボリーが中止になったと言った表現がされましたが、それはウソであります。サブでは、[[ミッキー・カーチス]]やハッピーエンド(はっぴいえんど)、アマチュア、黒テントでは三バカトリオ(高田渡、加川良、[[岩井宏]])らが歌っておったのだし、映画も上映していたのであります)それさえなければぼくら、最後に歌をうたうはずだったのであります(中略)とにもかくにも、無力なぼくらが誰にもたよらずよくも3回も出来たんだという満足感が残るだろうと思います。ほんとうにいろいろありがとうございました。またお会いできる日を…。」などと書いている<ref >{{Cite journal |和書 |author = 笠木透 |authorlink = |title = 特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE ぼくらの答え |journal = 新譜ジャーナル |issue = 1971年10月号 |publisher = [[自由国民社]] |pages = 14–16 }}</ref>。笠木は「元々はこの第3回公演を最後に終了する予定にしていた」が、上記の押し問答により、途中打ち切りというあっけない結末になったとされている{{R|ttt}}。[[牧村憲一]]は、笠木から「もう自分たちが制御できないくらい大きなコンサートになってしまった」と聞いたという{{R|tapthepop}}。1,000円という入場料でまかなうことも限界で、第3回でも売り上げは2,000万円くらいで、これだけの出演者を揃えてコンサートを運営するのは経済的にもきつかったと思う、などと論じている{{R|tapthepop}}。笠木は我夢土下座のメンバーとしてステージに上がっている{{R|guts7108}}。
このコンサートの主催者を代表していた[[笠木透]]は{{R|新譜7110_14}}、コンサート終了直後(6日後と見られる)の『新譜ジャーナル』で「一度でいいから、地方から都会(東京)へ逆流しないものかと、ハカナイ望みを高くかかげ、フォーク・ジャンボリーをはじめて、はや3年。はじめたころの、簡単で自然のままの村祭りみたいなカッコウが、2年、3年とつづけるにつれて、だんだん消えていき、今年はなんとまあものすごい人だったこと、街がそのまま引越して来たようなアンバイとあいなって、あのバカラシイほどのデカサには、もうヘキヘキ致しました。『戦争とジャンボリーだけはイヤ』などと実行委員の若い連中が言っておるのであります。とは言うものの、ぼくら半年にわたる準備と、最後にはつるしあげまでくらった、めしを食うヒマもなかったあの3日間、終わってから紙クズと空カンの山をかたづけるのにフウフウ言っているこの5、6日を通して、だれ一人としてダウンせず、『いそがしかったけどオモシロかった』と言っておるのも、事実なのであります。ぼくら日頃より、あんまり、つきつめて、モノを考えないタチの人間だから、あんな状況で『フォーク・ソングとは何か』『ジャンボリーの目的は』などと追求されるとただただ、オロオロとヘドモドと言いたいこともうまく表現出来ず、まことに困ったのであります(中略)あの激しかったわりには、実りのない、かみ合わない論争、それによって出来なくなってしまったメイン・ステージ(一部の雑誌でフォーク・ジャンボリーが中止になったと言った表現がされましたが、それはウソであります。サブでは、[[ミッキー・カーチス]]やハッピーエンド(はっぴいえんど)、アマチュア、黒テントでは三バカトリオ(高田渡、加川良、[[岩井宏]])らが歌っておったのだし、映画も上映していたのであります)それさえなければぼくら、最後に歌をうたうはずだったのであります(中略)とにもかくにも、無力なぼくらが誰にもたよらずよくも3回も出来たんだという満足感が残るだろうと思います。ほんとうにいろいろありがとうございました。またお会いできる日を…。」などと書いている<ref >{{Cite journal |和書 |author = 笠木透 |authorlink = |title = 特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE ぼくらの答え |journal = 新譜ジャーナル |issue = 1971年10月号 |publisher = [[自由国民社]] |pages = 14–16 }}</ref>。笠木は「元々はこの第3回公演を最後に終了する予定にしていた」が、上記の押し問答により、途中打ち切りというあっけない結末になったとされている{{R|ttt}}。[[牧村憲一]]は、笠木から「もう自分たちが制御できないくらい大きなコンサートになってしまった」と聞いたという{{R|tapthepop}}。1,000円という入場料でまかなうことも限界で、第3回でも売り上げは2,000万円くらいで、これだけの出演者を揃えてコンサートを運営するのは経済的にもきつかったと思う、などと論じている{{R|tapthepop}}。笠木は我夢土下座のメンバーとしてステージに上がっている{{R|guts7108}}。

2024年12月19日 (木) 09:40時点における版

第3回全日本フォークジャンボリーとは1971年8月7日から9日にかけて岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市)にある椛の湖(はなのこ)の湖畔で開催された第3回の全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)である。観客約30,000人[1][注釈 1]、約25,000人[出典 1]、2万数千人[11]、20,000人超[12]、18,000ー20,000人[13]

有名な吉田拓郎のサブステージでのパフォーマンス中にその渦中にいて、一緒に「人間なんて」を唱和したという牧村憲一[注釈 2]は「1971年の音楽シーン最大の出来事で、一般に吉田拓郎が、フォーク岡林信康の時代に終止符を打ったフェスとして知られる。あるいは、メインステージの観客が主催者側と騒動を起こしたフェスとしても刻まれている。第3回全日本フォークジャンボリーは、時代の分かれ目を思いがけずに演出してしまった。別の角度から見れば、ここから日本のポップスロックの新たな1ページが始まった」など解説している[14]

概説

開催前の告知では1971年8月7日(土曜)午後1時から1971年8月9日(月曜)午前2時までの2Night3Days、3日間通しで入場券1,000円、「ここの名物は、強烈な紫外線とおいしい空気、デコイチにS×xRock、そしてあふれる自由だ」などと発表されていた[15]。メインステージとサブステージがあり、サブステージはさらにフォークロックの二つに分かれ[出典 2]、さらに黒テント[出典 3]、野外映画館(アングラ映画専門館)[15]などもあり、面倒な構成となっていた[出典 4][注釈 3]。フォーク系の第1サブステージを拓郎をマネジメントする前の後藤由多加が10万円で[13][18]、ロック系の第2サブステージを風都市[注釈 4]が進行運営を任されていた[14]。当時の状況からPAは極めて出力の低いもので、メインステージは収容何とか1,0000人くらい[13]。第1サブステージ、第2サブステージが各100人程度だった[13]。「フォークジャンボリー」と謳いながら、当時は一般的にロックのカテゴリーに入れられることの多かったはっぴいえんどはちみつぱい、乱魔堂、カルメン・マキブルース・クリエーションミッキー・カーチス[出典 6]や、一般的にジャズのカテゴリーに入れられる日野皓正安田南も出演し[出典 7][注釈 5]、ロックのサブステージに高田渡なぎら健壱が出演するなど非常に曖昧で[出典 8]、メインとサブステージの分け方にも出演者の間で不満が募り[出典 9]、出演順を巡ってトラブルが繰り返された[出典 10]。ロックフェスに充分なノウハウがある時代ではなく[5]、第3回を数えて膨張した観客を仕切れるスタッフなどいる筈もなく[5]、もうコントロールも出来ない状況で[4]、会場はカオスと化した[5]。メインステージに立ったはしだのりひことクライマックスは「花嫁」が大ヒットしたばかりで、商業主義を批判する観客の格好の餌食となり[4]ビンは飛んでくるわ、ヤジられるわでとても演奏できる状況ではなく[4]。途中で演奏を止めた[4]。次にステージに立ったかまやつひろしは「怖かった。あんなに緊張したことはなかった」と述べている[4]北山修(きたやま おさむ)は「拓郎と岡林の両陣営に観客がわかれて、会場は殺気だった雰囲気となり、『帰れ』『帰れ』の怒号が飛び交う…。僕は観客としての参加でしたが、恐怖を感じましたね」などと述べている[22]

吉田拓郎「人間なんて」

この年初参加した吉田拓郎は「URCの連中より、自分の方が売れている。なぜ俺がサブステージなんだ」と関西系のURCのシンガーとぶつかり、東京対大阪の様相を呈した[出典 11]。このコンサートの模様は2つのレコード会社によってレコーディングされ、会場内にテレビカメラが持ち込まれていたが、これに一部の客が"主催者側の姿勢に疑問あり"と騒ぎ始めた[出典 12]。2日目の夕方、数百人にも満たないサブステージで[13]広島フォーク村時代の仲間と組んだミニバンド[注釈 6]をバックに演奏をはじめた拓郎は[出典 14]商業主義の乱入に反発し盛んに観客を煽った[出典 15]。歌い始めた拓郎のPAにトラブルが発生したが、小室等六文銭をステージに呼び[14]、「メインに負けないぞ!」と一声発し[14]、「人間なんて」をマイク無しで演奏を続行[出典 16]。何かに憑かれたように「人間なんて」を延々と歌う拓郎にもとに客が次第に集まり始め、200人ほどの収納スペースに1,000人ほどが押し寄せ[14]、観客も今に言う「コール&レスポンス」で応え、観客を巻き込んでの歌声が広がっていき、その数はどんどん膨らんでいった[出典 17]。メインステージとサブステージを行ったり来たりしていた牧村憲一は「半日くらい『人間なんて』をやっていたのかな」という感覚だったという[13]。「人間なんて」の単純な歌詞の繰り返しには呪詛的な要素もあるため[27]、酒の酔いも手伝い、一種のトランス状態が現出[出典 18]。現場で目撃した牧村は「興奮状態の陥った拓郎はシャウトし、それはゴスペルのようでもあり、呪縛のように言葉を繰り出す姿はまるでボブ・ディラン。ショーとしてはジェームス・ブラウンのようでもあった」と評している[14]。拓郎の声も出なくなってきたころ、観客は聴こえづらいとばかり前に行きたがり、前方にいた人が押されいつ事故が起こってもおかしくない状況に至り[出典 19]、収拾はもうつかない状況[出典 20]。拓郎も「ここはサブではなくて、こっちがメインステージだ!」とアジり[14]、拓郎が「メインステージに行こう!」と叫んだ瞬間[14]、歌いながらどうしたらこの状況を収めることが出来るが考えていた小室が[14]、「もうここはおしまいにしよう」「メインに行こう!」と呼応し[出典 21]、劣悪な環境でイライラが募っている観客の一部が「オー!」と隊列を組んでメインステージに向かった[出典 22]

これがコンサートの流会の直接のきっかけとする伝聞が、吉田拓郎が名声を得るに連れ、広がっていった[出典 23]東谷護はフォークソングに関心にない人にとっても「『スターの時代』の代表格である吉田拓郎の実績を考えれば、こうしたエピソードが一人歩きするのは当然のことであろう」と論じている[3]。但し、このサブステージでの出来事は夕方のことで、コンサートが流会するのは夜だった[出典 24]なぎら健壱は「拓郎は受けてなく、殺してやると言っていた奴の方が多かった」などと話している[36]。他に音楽舎からの依頼でサブステージの制作を10万円で請け負っていた後藤由多加[出典 25]、客に酒を飲ませ回って煽動していたという話もある[37]。後藤は、メインステージは音楽舎を中心とした関西系アーティストで、サブステージは東京のアーティストを連れて来てくれという依頼だったと記憶していると話している[18]。またギャラ10万円ではとても運営できないため、中津川で手羽先屋を営んでいる知り合いに頼み、会場で手羽先を5本300円で売って、不足分を補ったという[18]

コンサートの流会

幸いその時点で大きな騒ぎにはならなかったものの、運営側も観客も野外コンサートへの不慣れからくる不満が募った[出典 26]。この年のフォークジャンボリーは全てが過剰[出典 27]、出演者も観客も溢れ過ぎだった[出典 28]。これ程の規模のイベントにも関わらず、何とスタッフは30人[40]の町から食べ物は早くから無くなっていた[14]。会場の椛の湖は人口湖で貯水池[13]。雨が降って水かさが増し濁っていた[出典 29]。つまりここで裸になり、水浴びすることもできない[14][注釈 7]。また開墾直後でもあり、露出した地肌の上に観衆が座り込んでいた[12]トイレも少なく、客もそこら辺で用を足していた[14]。食事も不足し、前日の雨で赤土が汚くベタベタし[13]、疲労、不眠、空腹に苛まれ[14]、場の雰囲気は荒れていた[出典 30]。田舎の納涼大会と学園祭とフェスティバルが一緒になったような賑やかさで[41]、祭りらしい雰囲気が溢れてはいたが、足の踏み場もないくらい犇き合い、仮眠をとりながら音楽を聞く若者の姿は、まるでダンケルクからの撤退を思わせ[41]、「もう開かれることはないだろう」という予感に満ちていた[1]

メインステージには怒声が飛び始め[14]、一部の暴徒があちこちに火を付けようとしていた[14]。20時過ぎに岡林信康三上寛が出演することで観客に大受けして、一旦は騒ぎも落ち着いていたが[13]、その後、日野皓正安田南鈴木勲トリオというジャズの流れの中で「どうしてフォークジャンボリーなのに、フォークじゃない連中が出てるんだ」という不満の声が勃発[出典 31]。午後10時ころ[14]ステージに上がった安田南のイントロが始まるや否や、観客が「やめろ」「帰れ」といった激しい野次を浴びせた[4]。安田は歌を聴きにきている人たちのために、辛抱強くライブを続けようとしたのだが、そこへコカ・コーラガラス空き瓶が投げ込まれた[4]。時代から関係者は火炎瓶が投げ込まれたのかと思ったという[4]。1曲目が終わってざわついている会場に向かって、安田が「文句あるんなら上がってらっしゃいよ」と言ったのをきっかけに[出典 32]、安田が「テメーッ!」と叫びながら客席に瓶を投げ返したという説もあるが[4]、安田の演奏は中止され、ステージにベ平連系の若者を中心とした観客数十人が上がり込んで、安田からマイクを奪い取りステージを占拠した[出典 33]。若者は自分たちの主張を演説し始める事態となり[4]、コンサートを続けようとする実行委員会側との討論会となり[42]、ステージは暴徒化した観客に占拠された[出典 34]スピーカーからほとばしる叫びは、湖面から山肌をも震わせる程であったといわれる[出典 35]、舞台を目がけて花火が打ち込まれ会場は騒然[出典 36]、夜明けまで占拠は続き[42]、そのままコンサートも自然流会してしまった[出典 37]。若者たちの要求は「TBS(実際はテレビマンユニオン)、NHKに取材させるな」「音楽舎(高石事務所、後のURC)は手を引け」等[42][注釈 8]。この年は3日間の開催予定だったが、2日目で中止になった[12]。コンサート流会の最大の原因はフォークコンサートにジャズが出て来たことで[13]、不毛な論議は明け方まで続いたという[13]

論調

当時のフォークコンサートでは、途中でこうした討論会に突入することが少なからずあった[13]。ファンも含めたシーンが成熟した21世紀の今日では、出演順やステージ分けに少しの不満を感じたとしても、それを公演途中に観衆に問う、という絵は想像しにくいが[12]、当時の音楽シーンには今の時代には無い若さ、青さがあったという言い方もできる[12]

安田の後にステージに立つ予定だったのははっぴいえんど[44]、その後、山下洋輔トリオやザ・ディランII遠藤賢司もプログラムには掲載されていなかったが、隠し玉でスタンバイしていたという話もある[13]

はしだのりひこによると暴動を扇動したのはジャンボリーの数日前、広島被爆者慰霊碑に当時の首相佐藤栄作が献花に訪れた際、火炎瓶を投げつけて機動隊から逃れ中津川まで流れてきた人たちだという[45]

三橋一夫は「ステージ突っ込みのタイミングが謎」と論じており、ステージに上がった若者のうち、最初に議長役を務めた男は「岡林がこの場で出てきて発言しなければ、われわれは彼を見放すだろう」と言い切った。しかしそれならば、その夜の9時前後の岡林が歌っていた最中か最後に行うべきだった」[42]。またジャンボリー粉砕が目的だったのなら、あと数時間で終わりという8日深夜から9日にかけて突っ込むより、初日の7日夜に行う方が当然だったのではないか」[42]、ただ「聴衆があまりにノッテいたので見合わせた」と一部に伝えられていた[42]。また一番の主張だった「TBS(実際はテレビマンユニオン)、NHKに取材させるな」「音楽舎(高石事務所、後のURC)は手を引け」だが[42]、TBSは安田南が歌う前、日野皓正の演奏のときに撮影を終了しており[42]、音楽舎プロデュースの出演者はあらかた出演を済ませていた[42]。これらの事情から三橋は「火付け役の意図はジャンボリーの粉砕でもマスコミや商業資本の粉砕でもなく『オレは中津川でこういうことをしてやった』という手がら話を作るためだったのではないかと疑わざるをえない」などと論じている[42]

小室等は「キングレコードが手配してくれたバスに、六文銭の連中と乗り込んだのは6日の午後11時頃。バスの中は、高田渡夫妻、武蔵野タンポポ団の面々、山平和彦君、文化放送の田中秋男ディレクター、TBSラジオの加藤節夫ディレクター、白石冬美さん等の顔があった(中略)六文銭の恒彦にいわせると『あそこでは音楽を始め何ひとつなかったかも知れないが、にもかかわらずあれだけ人が集まったということだけでも評価に値する』となるが、人が沢山集まって戦争以外のことをするというのは大変難しいことではないか、と感じた」などと述べている[46]

高田渡は「正直いって全日本フォークジャンボリーについては、もうウンザリしている。やたらマスコミ関係者は『日本のウッドストック…』なんどと言わんばかりに書き立て、喋りまくっている。どれを読んでも聞いてもいいかげんか、又は考えすぎばかりあの会場において(つまり2日目の晩の事件を指す)、やれ自由がない、ボク達のうたがない…などと騒ぎ立てメインステージで朝までしゃべりまくった(但しじゃべりまくっただけの事なのだが)一部の若者達の姿を今思い出すと、何とも心細い、さみしいものを感じてしまう」などと述べている[47]

武蔵野タンポポ団のメンバーとして参加した風太は「音楽会とか何とか労音とかボクは大嫌い。やってることのすべてが気に食わん。ちっとも人間らしさってヤツを感じるところがない。ウソとニセモノだけで満タンの全日本フォークジャンボリーにプレイヤーとして参加することができたことは素晴らしい体験でした」などと述べている[48]

加川良は「こんどの中津川かて、全体になにかを起こそうって気分はなかったみたいやね。逆につぶそうという空気が強かったみたいや。やるほうでも、なんかそういうお客さんにコビるいうか、肩持つ傾向があるやろ。お客さんは千円払うて、誰と誰が出て、それで文句があったら帰ったらええのや。なにかを起こそうという気が、やる方にも聞くほうにもないんやったら、日本ではウッドストックなんて絶対できっこあらへん(中略)いらいらしてさ、ステージが面白うなかったら椛の湖へでも飛び込んで自〇でもしたらええのや。そんなもんこっちに責任もあらへん。それを承知でわざわざあんな山の中に来とるんやろ。それで文句が出るいうのは、はじめからつぶそうと思うてるとしか思えへん」などと述べている[39]

このコンサートの主催者を代表していた笠木透[40]、コンサート終了直後(6日後と見られる)の『新譜ジャーナル』で「一度でいいから、地方から都会(東京)へ逆流しないものかと、ハカナイ望みを高くかかげ、フォーク・ジャンボリーをはじめて、はや3年。はじめたころの、簡単で自然のままの村祭りみたいなカッコウが、2年、3年とつづけるにつれて、だんだん消えていき、今年はなんとまあものすごい人だったこと、街がそのまま引越して来たようなアンバイとあいなって、あのバカラシイほどのデカサには、もうヘキヘキ致しました。『戦争とジャンボリーだけはイヤ』などと実行委員の若い連中が言っておるのであります。とは言うものの、ぼくら半年にわたる準備と、最後にはつるしあげまでくらった、めしを食うヒマもなかったあの3日間、終わってから紙クズと空カンの山をかたづけるのにフウフウ言っているこの5、6日を通して、だれ一人としてダウンせず、『いそがしかったけどオモシロかった』と言っておるのも、事実なのであります。ぼくら日頃より、あんまり、つきつめて、モノを考えないタチの人間だから、あんな状況で『フォーク・ソングとは何か』『ジャンボリーの目的は』などと追求されるとただただ、オロオロとヘドモドと言いたいこともうまく表現出来ず、まことに困ったのであります(中略)あの激しかったわりには、実りのない、かみ合わない論争、それによって出来なくなってしまったメイン・ステージ(一部の雑誌でフォーク・ジャンボリーが中止になったと言った表現がされましたが、それはウソであります。サブでは、ミッキー・カーチスやハッピーエンド(はっぴいえんど)、アマチュア、黒テントでは三バカトリオ(高田渡、加川良、岩井宏)らが歌っておったのだし、映画も上映していたのであります)それさえなければぼくら、最後に歌をうたうはずだったのであります(中略)とにもかくにも、無力なぼくらが誰にもたよらずよくも3回も出来たんだという満足感が残るだろうと思います。ほんとうにいろいろありがとうございました。またお会いできる日を…。」などと書いている[49]。笠木は「元々はこの第3回公演を最後に終了する予定にしていた」が、上記の押し問答により、途中打ち切りというあっけない結末になったとされている[43]牧村憲一は、笠木から「もう自分たちが制御できないくらい大きなコンサートになってしまった」と聞いたという[4]。1,000円という入場料でまかなうことも限界で、第3回でも売り上げは2,000万円くらいで、これだけの出演者を揃えてコンサートを運営するのは経済的にもきつかったと思う、などと論じている[4]。笠木は我夢土下座のメンバーとしてステージに上がっている[15]

当日のメインステージ進行補佐だった上條俊一郎は「商業主義と言われてしまったけれど、第3回目にしてやっと少し利益が残ったと聞いています。でも、その利益は、亡くなった高校生にお見舞金として渡ったんです。あの占拠事件がなくても、第4回目以降があったかどうかは定かではないと思いますね」と述べている[13]。会場に隣接する椛の湖で高校生がドラム缶で作った船から転落し、湖で溺死するという事件が起きていた[4]

この第3回は、当時のマスメディアにも大きく取り上げられ[3]、流会した翌日1971年8月9日の『朝日新聞』岐阜版朝刊3面では写真入りで好意的に開催を紹介し[3]、ステージ占拠については一切記述されず[3]。『岐阜日日新聞』1971年8月10日付では「若者去って苦情残る」という見出しで、マイナス面を押し出した記事が掲載された[3]。また『新譜ジャーナル』1971年10月号(pp.212–216)などの音楽誌、『毎日グラフ』1971年9月5日号(pp.64–72)などのグラフ誌、『週刊明星』1971年8月22日号(p.7,26,81–88)、『セブンティーン1971年8月31日号(p.48–52)、『朝日ジャーナル』1971年8月20,27日号(pp.9–17)などの雑誌にもレポート記事が掲載されている[3]。この第3回が全日本フォークジャンボリーのイメージや描かれ方を決定的なものにした[3]。この第3回がなければ、また前述したようなトピックがなければ、単なる流行現象の一つで終わり、全日本フォークジャンボリーは後々まで語る継がれることもなかっただろうといわれる[3]東谷護は「『スターが岡林信康から吉田拓郎に変わった』『政治の季節の終焉の象徴』は、この第3回が70年安保学生運動の終焉と時期が近いこと、「模索の時代」から「スターの時代」へと移行したことと重なることにより、一過性の流行現象ではなく、戦後日本文化史の文脈にも位置付けられた」と論じている[3]

後の音楽史への影響

暴徒化した観客が岡林信康を目がけて殺到したが[23]、岡林は会場に残るつもりでいた。しかしスタッフが説得し岡林を帰したため[23]、拓郎との主役交代をより印象付ける結果となった[出典 38]。拓郎はこの年11月に出したアルバム人間なんて』から翌1972年1月21日にリリースしたシングル結婚しようよ」が爆発的に大ヒットし[14]、以降、"フォークの旗手"として新しい時代を切り拓いていく[出典 39]。また『人間なんて』のレコーディングに参加した加藤和彦木田高介遠藤賢司松任谷正隆林立夫小原礼らが、この後日本のロックJ-POPの礎を築いてゆく[出典 40]

ミッキー吉野は「フォークとロックの大まかな分岐点ともなった、重要なイベントだった」[5]難波弘之は「拓郎さんがフォークジャンボリーで英雄視されたことを境にフォークが隆盛し、ロックが沈静化していったともいえると思う」などと論じている[5]。また写真家・井出情児も「日本の音楽シーンがフォークからロックに変わった瞬間だった」と述べている[4]

ライブ盤

第3回の実況録音盤は1971年に6枚リリースされている[54]。当然、全曲収録した盤はなく、全てピックアップ盤で、キングから二枚組が一種類、ビクターが二枚組が二種類、フィリップスが一枚、URCから一枚[54]。全曲音源を収録したと話すキングレコード三浦光紀は「全部で500曲」と話しており[55]、キングの二枚組は「出演順に自身で24曲を選んだ。時期を見て追加のレコードを出したい」等と話している[55]

映像

コンサートの模様は、直前に行われた「箱根アフロディーテ」からの流れでテレビマンユニオンが45分のフィルムに収め保管しているといわれるが[出典 41]佐野史郎が依頼をしてテレビマンユニオンで探したが、見つからなかったという[13]

エピソード

  • サブステージでの高田渡の「自転車にのって」歌唱の際、サイドギター担当の加川良に向かって、客席にいた吉田拓郎ウイスキーをラッパ飲みしながら「加川良、しっかりギター弾けよ、お前」などとしつこく野次るので、高田がステージの上から「よしだたくろう、少しうるせーぞ!」「よしだたくろう、いつか殺してやる」と言い返す[出典 42]。拓郎の出番はこのすぐ後で、ふらつく足でステージに立ち、前述のパフォーマンスを行う[20]
  • 当時なぎら健壱は、列車で新宿から中津川に向かったが、列車の移動だけで9時間もかかった。そこから会場までは、さらにバスで30分。国鉄(現JR)は、観客の多さに臨時列車まで出して対応した[57]
  • 三上寛は当時無名で、1971年のお正月明けくらいに、『週刊明星』の方が1枚のレコード(『三上寛の世界』)を持って「とにかくすごいのがいるんだけど、唄う場所がない」と音楽舎を訪ねてきて、そのアルバムを聴いてびっくりした[13]。前年の1970年フォークジャンボリーに加川良が飛び入りしたり、遠藤賢司も出て大受けした経験から、三上寛についての情報は伏せておこうとなり、実際にメインステージでの1曲目「夢は夜ひらく」がすごくウケたので、これはいけるとなったという[13]
  • 浅川マキプロデューサーだった寺本幸司は、浅川を連れて中津川を訪れ[27]、サブステージの拓郎のパフォーマンスを観戦[27]。「人間なんて」を1時間以上歌い続ける圧倒的な存在感に「この男は時代を塗り替える表現者だ」と感じた[27]。浅川も同様で拓郎の話ばかりし[27]、「拓郎とジョイントコンサートをやりたい」と言うため、寺本はまだ早稲田大学の学生だった後藤由多加を介して[27]、これを実現させ、浅川は"フォークの寵児"とのジョイントで知名度を各段に上げた[27]

出演表

『「風に吹かれた神々」鈴木勝生著、1987年、シンコー・ミュージック』内の「フォークリポート1971年秋の号」より

※ この出演表には、2日目の安田南の欄に、「ステージ占拠事件が起きる」とある。

日付 時間 メインステージ ロック・サブ フォーク・サブ
8月7日 14 乱魔堂

野沢享司

アマチュア
15 (リハーサル)

長野隆

斉藤哲夫

ガロ

六文銭

はちみつぱいなど

なぎらけんいち

岡林信康・黒田征太郎

16 トン・フー子 加川良

岩井宏

17 DEW


小野和子

金延幸子

友部正人

アマチュア

18 クライマックス

五輪真弓

(友川かずき)

遠藤賢司

19 ガロ

武蔵野タンポポ団

はっぴいえんど
20 ミッキー・カーチス

加川良

21 長谷川きよし

浅川マキ

22 ブルース・クリエイション

カルメン・マキ

DEW
23 かまやつひろし

シティ・ライツ

三上寛


ブルース・クリエイション

24 小林啓子

御陣乗太鼓

デキシーキングス

25 吉田拓郎

六文銭

岡林信康

カルメン・マキ


ザ・サード

8月8日 12 山本コウタロー

長野隆

のこいのこ

13 斉藤哲夫

あがた森魚

小野和子

14 ディランⅡ

村上律

ぼく

野沢享司

山本コウタロー

長野隆

山平和彦

15 中川イサト アマチュア

シュリークス

万華鏡

16 ホームタナーズ

はしだのりひこと

中村洋子

友部正人

品川寿男

シバ

都会の村人

シティ・ライツ

本田路津子

麻田浩

17 本田路津子

麻田浩


高田渡


五輪真弓

岩井宏

岩井宏・高田渡・加川良

18 斉藤哲夫

シティ・ライツ

シュリークス

トン・フー子

岩井宏

友部正人

武蔵野タンポポ団

六文銭・吉田拓郎



19 加川良

中川五郎

都会の村人

クライマックス

20 岡林信康

三上寛

万華鏡

なぎらけんいち

21 日野皓正クインテット あがた森魚
22 安田南 斉藤哲夫
23 はちみつぱい
24 ミッキー・カーチス

乱魔堂

出演者

参加ミュージシャン

脚注

注釈

  1. ^ 病人、怪我人数10名、死者1名[1]
  2. ^ 東京人』2011年9月号『フォークの季節』(都市出版)の表紙小室等の横に写真が映る[14]
  3. ^ 『guts』1971年8月号14頁に会場見取図が載る。プロが出演する2つのサブステージ以外にもアマチュアにも何かしらのパフォーマンスをしてもらうためか、さらに4つのサブステージがあった[15]。またこの時代ならではを感じさせるものとして「大らくがき板」「占いへび売り」「古タイヤベンチ」や、椛の湖内の島に「ヌーデ×ストアイランド」なるものもあった[15]
  4. ^ はっぴいえんどはちみつぱいあがた森魚らが所属した音楽事務所、プロジェクト名[出典 5]
  5. ^ 開催前の告知でフォーク以外のロックや、ジャズ、C&W御陣乗太鼓野坂昭如小沢昭一らの出演が発表されていた[15]
  6. ^ 拓郎のライブ・アルバムよしだたくろう オン・ステージ ともだち』にのみ音源を残す3人構成のバンド名[出典 13]
  7. ^ 開催前の『guts』1971年8月号14頁に載る会場見取図では『泳げます。ただし底はスリバチです。怪獣にご注意!』と書かれているため[15]、雨が降らなければ、水浴び、遊泳も可能だったものと見られる。
  8. ^ 1971年8月9日朝のTBSのワイドショーモーニングジャンボ』でジャンボリーの様子が放映された[42]

出典

  1. ^ a b c 「ガッツ・レポート(2) 中津川フォークジャンボリー 期待と狂気の3日間」『guts』1971年10月号、集英社、118–119頁。 
  2. ^ a b c d 永井純一『日本における黎明期のロックコンサートとフェスティバル--1950〜70年代前半を中心に神戸山手大学紀要 pp.196-199:(2009-12-20) - 関西国際大学情報リポジトリ
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 東谷護『ポピュラー音楽から問うー日本文化再考』せりか書房、258-275頁。ISBN 9784796703369 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 佐藤剛 (2015年4月10日). “TAP the SONG 「人間なんて」をマイク無しで歌って伝説になった吉田拓郎~第3回全日本フォークジャンボリー”. TAP the POP. 2024年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月28日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p JAPANESE ROCK ANATOMY解剖学 ミッキー「フォークとロックの分岐点フォークジャンボリー」 難波「混沌とした状況の中で吉田拓郎さんが脚光浴びた」”. ZAKZAK. 夕刊フジ (2024年4月20日). 2024年5月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月22日閲覧。
  6. ^ a b c 越智俊至・大森雅弥 (2019年8月3日). “フォークはどこへ行った”. 東京新聞 (中日新聞東京本社). オリジナルの2023年10月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20231023044722/https://www.tokyo-np.co.jp/article/3074 2024年6月28日閲覧。 
  7. ^ a b c つボイノリオ (2019–09–25). “吉田拓郎伝説の始まり。「第3回中津川フォークジャンボリー」”. つボイノリオの聞けば聞くほど. CBCラジオ. 2024年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月28日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k 中津川フォークジャンボリー開催は「ウッドストック」よりも早かった”. J-CASTトレンド. ジェイ・キャスト (2018–07–25). 2021年11月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月28日閲覧。
  9. ^ a b 笠木透の人生と替え唄 p.133 立命館大学鵜野祐介教授の研究ノート(Internet Archive)
  10. ^ 岡本洋太郎 (2009年8月1日). “青春よ再び 中津川フォークジャンボリー38年ぶり復活”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). オリジナルの2023年10月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20231017123527/http://www.asahi.com/showbiz/music/NGY200908010005.html 2024年6月28日閲覧。 
  11. ^ 加川良「ジャンボリー出演者一言コーナー『御苦労様』」『新譜ジャーナル』1971年11月号、自由国民社、24頁。 
  12. ^ a b c d e f g h i 阿部慎一郎 (2023年10月30日). “中津川フォークジャンボリーが40年ぶりに復活 フェスバブルと言われる21世紀に、どんな輝きを放ったのか”. サカエ経済新聞 (クーグート). オリジナルの2024年10月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20241004121702/https://sakae.keizai.biz/column/8/ 2024年11月2日閲覧。 
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an #1 【前半】『第3回全日本フォークジャンボリーの真実 〜現場からの報告〜』”. Rooftop. ロフトプロジェクト (2019年3月11日). 2022年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月15日閲覧。#1【後半】『第3回全日本フォークジャンボリーの真実 〜現場からの報告〜』”. Rooftop. ロフトプロジェクト (2019年3月11日). 2023年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月15日閲覧。
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』スペースシャワーネットワーク、2013年、32-37頁。ISBN 978-4906700783  ※『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』とほぼ同内容のネット記事(第3回全日本フォークジャンボリーから47年目の夏の日”. ニッポン放送 NEWS ONLINE. ニッポン放送 (2018–08–07). 2024年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月2日閲覧。)※2017年7月9日の牧村のFacebookへの投稿Facebookへの投稿(2017年7月9日)”. 2017年7月12日閲覧。
  15. ^ a b c d e f g h i 「全日本フォークジャンボリー8/7 8 9」『guts』1971年8月号、集英社、14頁。 
  16. ^ a b c 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「新譜7110_25」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  17. ^ a b 黒沢進『日本フォーク紀』シンコー・ミュージック、1992年、41-42頁。ISBN 9784401613885 
  18. ^ a b c d e f g h i j k その押し問答を収録した音源やっぱり吉田拓郎は凄すぎる - みのミュージック
  19. ^ つボイノリオ (2019–09–25). “#18 松本隆×鈴木慶一、博文(1)”. 松本隆 風街ラヂオ. TBSラジオ. 2024年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月28日閲覧。
  20. ^ a b c d e 石原信一『吉田拓郎 挽歌を撃て』八曜社、1980年、22–32頁。
  21. ^ なぎらけんいち「ジャンボリー出演者一言コーナー『その意義とこれからの課題』」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、83頁。 
  22. ^ 喜多由浩 (2023年10月11日). “話の肖像画 精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<10> 僕らはだんだん倦んでいった”. 産経ニュース. 2023年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月18日閲覧。
  23. ^ a b c d e f g h 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、307–308頁。ISBN 9784907583637 
  24. ^ 日本フォーク紀,p.176
  25. ^ 吉田拓郎と井上陽水、1970年代のライブアルバムを振り返る”. Rolling Stone Japan. ローリング・ストーン (2020年7月27日). 2022年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月14日閲覧。
  26. ^ a b c d “斜面(7月1日)吉田拓郎の後ろ姿 【あとがき帳あり】”. 信濃毎日新聞デジタル (信濃毎日新聞株式会社). (2022年7月1日). オリジナルの2022年7月5日時点におけるアーカイブ。. https://archive.ph/C6EeS 2022年7月5日閲覧。 
  27. ^ a b c d e f g h 寺本幸司『音楽プロデューサーとは何か 浅川マキ、桑名正博、りりィ、南正人に弔鐘は鳴る毎日新聞出版、2021年、51-53頁。ISBN 9784620326825 
  28. ^ はっぴいえんど伝説、1983年萩原健太、八曜社、p72-73、松本隆対談集 KAZEMACHI CAFE、ぴあ、p114
  29. ^ 人間なんて 吉田拓郎”. Apple Music. 2023年6月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月2日閲覧。
  30. ^ a b 松原輝明 (2023年10月30日). “「あぼ兄」フォークと農愛し 安保洋勝さん死去”. 読売新聞オンライン (読売新聞社). オリジナルの2024年6月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240628021535/https://www.yomiuri.co.jp/local/gifu/news/20231029-OYTNT50090/ 2024年6月28日閲覧。 
  31. ^ a b c d アーティスト・アーカイヴ 吉田拓郎 よしだたくろう”. 記憶の記録 LIBRARY. 日本音楽制作者連盟. 2024年6月22日閲覧。
  32. ^ a b c 門谷憲二『エレックレコードの時代 かつて音楽を動かした若者たちの物語 幻のエレックレコード編』アクセス・パブリッシング、2006年、71-75頁。ISBN 9784901976435 
  33. ^ a b 第86回 少年少女にも役立つ、中高年のための夏フェス入門~その2
  34. ^ 佐藤龍一の流星オーバードライブ - livedoor Blog(ブログ)2013年06月07日
  35. ^ 大越正実「1971年11月20日、吉田拓郎『人間なんて』リリース。僕らのヒーローが時代のヒーローに」『ニッポン放送 NEWS ONLINE』ニッポン放送、2020年5月15日。2024年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月20日閲覧
  36. ^ ジェネレーションF―熱狂の70年代×フォーク、桜桃書房、p60
  37. ^ ムッシュ!、2002年ムッシュかまやつ日経BP社、p140-141、頭脳警察、2004年8月・須田諭一著・河出書房新社、 p231-232
  38. ^ a b 岡本おさみ「特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE 『ぼくはいい歌を創ろうと思ってるーしかし夏は闘おうと椛の湖で悪酔しじゃんじゃん(渋谷ジァン・ジァン)で拓郎とつきあってから三里塚で醒め、野音で岡林と別れたこと』」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、18–20頁。 
  39. ^ a b c 加川良山本コウタロー「ウケてる人には石をブツけましょう 気にすることはありません。(教訓13!?) 異色対談/加川良/山本コウタロー」『新譜ジャーナル』1971年11月号、自由国民社、40頁。 
  40. ^ a b c 笠木透「特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE ぼくらの答え」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、14–16頁。 
  41. ^ a b 船口幸治「特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE 『芦と椛のある湖の畔で』」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、21–22頁。 
  42. ^ a b c d e f g h i j k l 三橋一夫「特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE 『造反有理』だが、しかし…」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、16–18頁。 
  43. ^ a b 安田南のステージが占拠されて幕を閉じた第3回フォーク・ジャンボリー~「日本の音楽シーンがフォークからロックに変わった瞬間だった(TAP the Top)
  44. ^ 定本はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p56-57、70
  45. ^ この人に聞きたい青春時代2、p202-216
  46. ^ 小室等「特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE 人が沢山集まって戦争以外のことをするのは難しい」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、87–88頁。 
  47. ^ 高田渡「二歩前進一歩後退」『新譜ジャーナル』1971年11月号、自由国民社、81頁。 
  48. ^ 風太「ジャンボリー出演者一言コーナー『ぼくは、はじめっから終わりまでプレイヤーとしてのボクでありたかった』」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、83頁。 
  49. ^ 笠木透「特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE ぼくらの答え」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、14–16頁。 
  50. ^ a b 11月15日(日)富澤一誠さん「黄金のフォーク・ブーム到来~岡林信康から吉田拓郎へ~」(報告)”. 塩尻市立図書館 (2020年). 2023年10月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月28日閲覧。
  51. ^ 青春よ再び 中津川フォークジャンボリー38年ぶり復活 - asahi.comナタリー - 日本初フェス「フォークジャンボリー」映画40年ぶりDVD化あの なぎら健壱さんも熱唱 リメンバー 中津川フォークジャンボリー中津川の観光・旅行情報 - MAPPLE 観光ガイド佐野史郎の音楽的生活フォークソングの時代プロフィール : 吉田拓郎 : avex networknikkansports.com > 芸能TOP > インタビュー > 吉田拓郎ミュージアムセレクト | Museum of Modern Music 、別冊宝島『音楽誌が書かないJポップ批評44 拓郎&陽水と「フォーク黄金時代」』、宝島社、p8、46、47、52-54、AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、2006年朝日新聞社p8-16、43-44、60年代フォークの時代、1993年シンコーミュージック、p181、 197-201、『エレックレコードの時代』2006年9月、アクセス・パブリッシング、p71-75、『1970音楽人大百科日本のフォーク/ニューミュージック/ロック』、1994年学習研究社、p52-53、読むJ- POP 1945-1999私的全史、1999年、田家秀樹著、徳間書店、p136、『ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全』、音楽之友社、p26、『地球音楽ライブラリー 吉田拓郎』、TOKYO FM出版、p7、『夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―』、p52-59、『俺達が愛した拓郎』、1985年8月、石原信一他著、八曜社、p22-23、『にほんのうた 戦後歌謡曲史』、北中正和、p165-166、産経新聞1996年9月24日夕刊、 p10、『わが青春の流行歌』、池田憲一、白馬出版、p107、108、ニッポンPOPの黄金時代、恩蔵茂、KKベストセラーズ、 p218-221、『風のようにうたが流れていた』、小田和正、宝島社、p104-105、『さすらいびとの子守唄』1972年北山修角川書店、p238-246、『ビートルズ』、1987年、きたやまおさむ、講談社、p124-127、『メディア時代の音楽と社会』、1993年小川博司音楽之友社、p144
  52. ^ 永堀アツオ (2024年6月1日). “80年代はシティポップだけじゃない! 音楽評論家・田家秀樹&スージー鈴木が迷わず選ぶ「殿堂入りすべきアーティスト」”. 週プレNEWS. 集英社. 2024年6月22日閲覧。前田祥丈、平原康司『日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代』シンコー・ミュージック、1993年、38–66頁。ISBN 4-401-61390-2 
  53. ^ TOMC (2023年7月1日). “あのアーティストの知られざる魅力を探る TOMCの<ALT View>#25 吉田拓郎とR&B~レゲエ 初期作品群におけるグルーヴと“ソウル(魂)”を振り返る”. サイゾー. サイゾー. 2024–02–04時点のオリジナルよりアーカイブ。2024–11–14閲覧。高護 (2011年11月22日). “【コラム】木田高介の果たした大きな役割”. HMV&BOOKS online. ローソンエンタテインメント. 2024–09–09時点のオリジナルよりアーカイブ。2024–11–14閲覧。
  54. ^ a b 「レコード・ハンティング」『新譜ジャーナル』1971年12月号、自由国民社、86–87頁。 
  55. ^ a b 三浦光紀「特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE 『予期せぬ側からの報告』」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、85–86頁。 
  56. ^ 『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』、自由国民社、2003年、p251
  57. ^ 『日本フォーク私的大全』なぎら健壱著、筑摩書房、1995年9月25日、P137-138
  58. ^ 『日本フォーク私的大全』なぎら健壱著、筑摩書房、1995年9月25日、P70

出典(リンク)

外部リンク