神崎敏雄
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神崎 敏雄(本姓:神﨑[1]、かんざき としお、1912年(大正元年)11月5日[2] - 1997年(平成9年)1月22日[2])は、日本の政治家。日本共産党大阪府大阪市会議員、同衆議院議員。関西中小工業協議会初代事務局長[3]。
来歴
[編集]大阪府大阪市出身[2]。1924年(大正13年)大阪府狭山尋常高等小学校を卒業[1]。関西産業復興連盟書記長、全大阪電力管理委員会副委員長、全大阪生活擁護同盟本部委員長を務めた[1]。
1951年(昭和26年)大阪市会議員選挙で当選[1][2]して四選[4]。1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙に旧大阪6区から出馬し初(及びトップ)当選を果たす[5]。以後、1976年(昭和51年)の第34回総選挙での落選[6]を挟み1979年(昭和54年)の第35回総選挙にて再選[6]。党内では議会対策委員長、都市問題対策委員長や府党常任委員などを歴任した[1]。
1997年1月22日、誤嚥性肺炎のため大阪市の病院で死去。84歳。
国政選挙歴
[編集]- 第31回衆議院議員総選挙(大阪府第6区、1967年1月、日本共産党)落選[7]
- 第32回衆議院議員総選挙(大阪府第6区、1969年12月、日本共産党)次点落選[5]
- 第33回衆議院議員総選挙(大阪府第6区、1972年12月、日本共産党)当選[5]
- 第34回衆議院議員総選挙(大阪府第6区、1976年12月、日本共産党)次点落選[6]
- 第35回衆議院議員総選挙(大阪府第6区、1979年10月、日本共産党)当選[6]
- 第36回衆議院議員総選挙(大阪府第6区、1980年6月、日本共産党)次点落選[8]
- 第37回衆議院議員総選挙(大阪府第6区、1983年12月、日本共産党)次点落選[8]
著作
[編集]- 『頭の散歩』浪花書店、1966年。
- 『シグナルは青だ』日本共産党大阪府委員会、1972年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『現代政治家人名事典』日外アソシエーツ編、1999年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
- 朝日新聞縮刷版1997年1月23日付、同1972年12月11日付、同1979年10月8日付