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福田啓作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

福田 啓作(ふくだ けいさく、1878年明治11年) - 1969年昭和44年)12月27日[注釈 1]は、昭和期に活躍した教育者郷土史[1][2]邑楽館林地方の郷土史研究のため尽力した。群馬県邑楽郡富永村(現在の邑楽郡千代田町)出身[1][2]

経歴

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教育者、公務員として

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1899年(明治32年)に群馬師範学校を卒業後、館林町西谷田村(現板倉町)の小学校教諭を歴任[1]1913年大正2年)、多々良村の多々良尋常高等小学校(現館林市立第八小学校)校長となる[1][3]1916年(大正5年)には北甘楽郡視学となり、その後は佐波郡豊受村、邑楽郡小泉町、多々良村、館林町の尋常小学校長を歴任した後、1933年(昭和8年)3月に退職した。同年の12月には初代の館林町立図書館館長に就任し、1946年(昭和21年)3月まで同職を務めた[1]

郷土史家として

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郷土史の研究に心血をそそぎ、1932年(昭和7年)9月、同じく郷土史家であった寺島錬二と共に「館林郷土史談会[注釈 2]」を立ち上げ、同12月に秋元文庫で発会式を執り行った[2][1]。月1回の例会で会員の研究を発表する場を設け、またその蓄積として『館林郷土叢書』を発行した[5][1]。館林郷土叢書は戦時下の紙不足のため1943年(昭和18年)で廃刊となったが、月一の例会は戦後も続けられた[5]。個別の研究としては、不明であった館林城鐘銘の応声寺での発見や、愛宕神社での青石地蔵板碑の研究などにより、館林郷土史研究の先鞭をつけた[5][1]。館林町文化協会より、第1回文化賞を受賞している[1]

人物

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  • 何事も自分で確かめたものでなければ書物に書かないという、真摯で学究肌の人柄であったが、一方で温厚で人に恨まれるようなことはなかったという[5]
  • 盟友の寺島錬二の死にあたっては、弔辞をあげたいとしてその文面作成を川島維知に依頼したが、告別式の朝文面を受け取り一読したものの、気に入らなかったのか、なぜか告別式ではそれを読まなかった[5]

著作

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  • 『館林の話』 - 群馬県邑楽郡館林尋常高等小学校、1932年
  • 『公園躑躅ケ岡』 - 館林郷土史談会、1934年
  • 『名勝躑躅ケ岡』 - 館林町役場花山保勝会、1935年
  • 『館林郷土叢書』 - 館林郷土史談館編を主導、第2輯(1936年)~第8輯(1943年[注釈 3]
  • 『官祭館林招魂社誌』 - 官祭館林招魂社七十年祭協賛会、1937年
  • 『館林人物誌』(館林文庫) - 寺島錬二との共編、国書刊行会、1980年1940年刊の復刻)
  • 『館林尾曳城誌』 - 館林圖書館、1941年
  • 『館林町誌稿 第1・2輯』 - 名著出版、1973年1942年1944年刊の復刻)
  • 『尾曳稲荷神社誌』 - 尾曳稲荷神社々務所、1980年、没後刊行
  • 『福田啓作郷土資料』(館林双書 第21巻) - 館林市教育委員会・館林市立図書館共編、館林市教育委員会、1993年、没後刊行

脚注

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注釈

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  1. ^ 没月日は、館林市史編纂センターへのリファレンス(2020年6月10日)による
  2. ^ 会名称を「館林文化史談会」と改めて現在も存続[4]
  3. ^ 第1輯については記録なし

出典

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参考文献

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  • 福田啓作「館林の話」『』国書刊行会、1980年、119-121面。
  • 青木源作『邑楽・館林人名事典』青木源作、1995年、144頁。 
  • 館林市教育委員会『郷土の歴史を伝えた人たち』館林市教育委員会、2009年、4頁。 
  • 館林市立第八小学校 (2021年2月20日). “第八小学校 > 沿革”. 2021年10月5日閲覧。
  • 館林文化史談会. “史談会紹介”. 2021年10月5日閲覧。