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葛木戸主

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葛木 戸主(かずらき の へぬし、生没年不詳)は、奈良時代貴族のち宿禰官位正五位下坤宮大忠和気広虫の夫。

出自

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天武天皇12年(683年)9月23日に、葛城直氏が連姓を賜っているため、葛城国造氏の末裔であると考えられる。

経歴

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奈良時代前半(神亀2年(728年)~天平11年(739年頃)に平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構から発見された木簡には、無姓の「葛城戸主」という人物が食料を支給されたか任務の配置についたと読み取れる記述がなされているが、これが「葛木連(宿禰)戸主」と同一人物かは不明[1]

聖武朝天平17年(745年)4月、中宮職に、正六位下中宮少進として署名している[2]。同19年(747年)正月、正六位下から従五位下に昇叙。

孝謙朝天平勝宝元年(749年)、皇后宮職紫微中台に改編されると、出雲屋麻呂中臣丸張弓吉田兄人とともに紫微少忠となり、引き続き光明皇太后に仕えている。翌2年(750年従五位下。同4年(752年)11月にも紫微少忠・従五位下として奉請論疏目録に自署し[3]、同5年(753年)4月、従五位上に出世する[4]。この時の昇叙には、同月の光明皇太后の「寝膳(寝食)安からず」(健康状態の不調)といった状態[5]と関係があるものと推定される[6]

同8歳(756年)6月、孝謙天皇の東大寺への宮宅田園施入勅[7]東大寺献物帳[8][9]、東大寺献薬帳[10][11]、同年7月法隆寺献物帳[12][13]にそれぞれ従五位上・紫微少忠として署する。同年7月東大寺献物帳には、更に兼常陸員外介ともある[14][15]。同年10月、双倉(ならびくら)雑物出用帳には「竪子」と署しており、宿禰[16]とある。

同年12月、孝謙天皇の勅により京中の孤児を集め、衣糧を給い、養わしめたが、男9人、女1人が成人したので、葛木連姓を賜り、自己の戸に付さしめ、親子の関係とした。この時も紫微少忠・従五位上で、姓は連[17][注釈 1]。なお、妻の和気広虫藤原仲麻呂の乱後に棄子を収集して83人を養子とし、葛木の氏姓を賜ったともいうのは[18]、広虫が夫の戸主の先例にならったものとも思われる[19]

同9歳(757年)正月、正双倉北雑物出用帳に署している。この時、姓は宿禰とある[20]とある。同年、造東大寺司沙金奉請文に「竪子」と署し、姓は連となっている[21]。改元した天平宝字元年、藤原千尋百済王元忠阿倍嶋麻呂粟田奈勢麻呂大伴犬養中臣浄麻呂石川名人勤東人とともに正五位下に叙せられた。この時の姓は宿禰とある。同2年(758年)9月、坤宮下官として阿刀曹官あてに、大般若経十四巻を奉写せんとの状を上っている[22][23]。これにより、同年10月より11月にかけて、大般若経を書写させたが、「葛木大夫」と称されている[24]。同年12月にも双倉北雑物出用帳に「竪子」と署し、姓は宿禰[20]。同3年(759年)3月、施薬院に、既に院裏になく、買い入れることも不可能であるという理由で、桂心100斤を請求している[25]。同月から4月にかけて、さらに同年12月にも雑物出用帳に「坤宮大忠」として署し、姓は宿禰[26][27]。同年から翌4年(760年)に、造金堂所に、銭420貫文を施入し[28]、同6年(762年)造石山院所に銭1,036文を施入している。以降の記録に登場せず、かわりに妻の和気広虫の名前があがっているため、この頃になくなったものと思われる。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による

脚注

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注釈

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  1. ^ 戸婚律8逸文によると、「其、小児年三歳以下を遺棄するは、異姓と雖(いへど)も、収養に聴(したが)ひ、其の姓に従ふ」とある

出典

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  1. ^ 奈良文化財研究所「木簡人名データベース」[1]
  2. ^ 『大日本古文書』巻二 - 398頁
  3. ^ 『大日本古文書』巻十二 - 384頁
  4. ^ 『続日本紀』巻第十九、孝謙天皇 天平勝宝5年4月28日条
  5. ^ 『続日本紀』巻第十九、孝謙天皇 天平勝宝5年4月15日条
  6. ^ 岩波書店『続日本紀』p131注二八
  7. ^ 『大日本古文書』巻四 - 119頁
  8. ^ 『寧楽遺文』下巻455頁
  9. ^ 『大日本古文書』巻四 - 171頁
  10. ^ 『寧楽遺文』下巻456頁
  11. ^ 『大日本古文書』巻四 - 175頁
  12. ^ 『寧楽遺文』下巻459頁
  13. ^ 『大日本古文書』巻四 - 177頁
  14. ^ 『寧楽遺文』下巻457頁
  15. ^ 『大日本古文書』巻四 - 179頁
  16. ^ 『大日本古文書』巻四 - 187頁
  17. ^ 『続日本紀』巻第十九、孝謙天皇 天平勝宝8歳12月16日条
  18. ^ 『日本後紀』巻第八、桓武天皇 延暦18年2月21日条「和気清麻呂薨伝」
  19. ^ 岩波書店『続日本紀』3補注17 - 二
  20. ^ a b 『大日本古文書』巻四 - 188頁
  21. ^ 『大日本古文書』巻十三 - 207頁
  22. ^ 『寧楽遺文』下巻951頁
  23. ^ 『大日本古文書』巻十四 - 63頁
  24. ^ 『大日本古文書』巻十四 - 187頁・198頁・199頁・202頁・203頁・222頁・224頁・238頁・242頁
  25. ^ 『大日本古文書』巻十四 - 279頁
  26. ^ 『大日本古文書』巻四 - 189頁・190頁
  27. ^ 『大日本古文書』巻四 - 394頁・395頁
  28. ^ 『大日本古文書』巻十六 - 281頁

参考文献

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関連事項

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