藤原有綱
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時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 |
応徳3年9月9日(1086年10月19日) または永保2年3月23日(1082年4月23日) |
官位 | 正四位下、文章博士 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流(日野家) |
父母 | 父:藤原実綱、母:源道成の娘 |
兄弟 | 有綱、有俊、有信、有定、有長、実国、藤原宗俊室 |
妻 | 藤原永職または丹波経基の娘、散位敏貞の娘 |
子 | 実義、資文、有観、源義家正室 |
藤原 有綱(ふじわら の ありつな)は、平安時代後期の貴族・学者・漢詩人。藤原北家真夏流(日野家流)、式部大輔・藤原実綱の長男。官位は正四位下・文章博士。
経歴
[編集]後冷泉朝の天喜元年(1053年)に対策に及第し、六位蔵人兼左衛門尉に任ぜられる。従五位下に叙爵後、右衛門権佐・五位蔵人を歴任し、後冷泉朝末の治暦4年(1068年)3月に正五位下に叙せられる。しかし、同年4月に後三条天皇が即位すると蔵人を止められ、翌治暦5年(1069年)摂津守として地方官に転じた。
白河朝では大学頭・文章博士と学者の官職を歴任し、中宮亮として中宮・藤原賢子に仕えた。一方で令子内親王や藤原師通の家司も務めている。
「応徳」の元号制定の勘申者でもあったため、応徳年間には最も名声がある学者の一人であったという。漢詩人や歌人としても名高く、漢詩は『本朝無題詩』や『別本和漢兼作集』、和歌は『万代集』『秋風集』などにその作が残っている。承保2年(1075年)には自邸での歌合開催が記録に残されている。
官歴
[編集]- 天喜元年(1053年) 正月20日:献策[1]。正月:左衛門尉、検非違使宣旨[1]。5月1日:見六位蔵人[2]
- 時期不詳:大内記[3]
- 時期不詳:従五位下。右衛門権佐
- 治暦3年(1067年) 正月24日:五位蔵人[4]
- 治暦4年(1068年) 正月7日:正五位下[4]。4月19日:止蔵人[4]
- 治暦5年(1069年) 正月27日:摂津守[5]
- 時期不詳:従四位下
- 承保2年(1075年) 5月14日:見大学頭[6]。8月20日:見摂津守[7]
- 時期不詳:従四位上
- 承暦2年(1078年) 6月:文章博士[8]
- 承暦3年(1079年) 7月9日:見大学頭文章博士中宮亮(中宮・藤原賢子)[9]
- 永保元年(1081年) 8月27日:令子内親王家司[10]
- 応徳元年(1084年) 3月25日:見藤原師通家司[11]
- 時期不詳:正四位下
- 応徳3年(1086年) 9月:卒去(正四位下)[1]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。