藤沢宿
藤沢宿(ふじさわしゅく、ふじさわじゅく)は、東海道五十三次の6番目の宿場である。 神奈川県藤沢市にあった。
概要
[編集]慶長6年(1601年)に東海道の宿場となった。後に戸塚宿、川崎宿が追加され東海道6番目の宿場となる。東海道五十三次整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城の桜田門、八王子城、玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点だった。
清浄光寺の東側に江戸側の見附(江戸方見附)があり、現在の小田急江ノ島線藤沢本町駅を越えた西側あたりに京都側の見附(上方見附)があった。この範囲が藤沢宿である。
境川に架かる大鋸(だいぎり)橋(現遊行寺橋)を境に、江戸側(東岸)の大鋸町[注釈 1](後に西村が分立)は相模国鎌倉郡、京都側(西岸)の大久保町、坂戸町は同国高座郡に属した[1]。
右上の浮世絵の背景に見られるように清浄光寺(通称:遊行寺)が近くにあり、手前の大鋸橋の京都側南東には江島神社の一の鳥居があり、ここから絵の手前右手へ江の島道が約1里(約4km)の距離で江の島に通じていた。また八王子道(現・国道467号)のわきには源義経が祀られている白旗神社がある。幕末には70軒以上の旅籠があった。
本陣
[編集]延享2年(1745年)までは堀内本陣、その後は蒔田本陣があった。
藤沢御殿
[編集]藤沢御殿は徳川将軍家の宿泊施設であり、旧藤沢公民館と藤沢市民病院の間にあった。慶長元年頃東西106間、南北62間の広さの御殿が建てられた。表御門は南側、裏御門は東側にあった。徳川家康、秀忠、家光と30回近く利用されている。天和2年(1682年)まで設置。現在では御殿橋、陣屋小路、陣屋橋、鷹匠橋、御殿辺公園などの地名が残る。
ふじさわ宿交流館
[編集]藤沢宿にある遊行寺橋のそばに藤沢市観光協会の「ふじさわ宿交流館」が2016年4月に開館して、藤沢宿の案内を行なっている。[2]
館内には、当時の藤沢宿の街並みを再現した100分の1スケールのジオラマや3次元CG [3] [4] が展示されている[5]。
名所・旧跡・観光スポット・祭事・その他
[編集]-
清浄光寺
-
白旗神社
-
永勝寺の飯盛女の墓
名物
[編集]代官
[編集]以下は藤沢宿支配の歴代代官の一覧であるが、藤沢宿には代官所は存在しなかった。
- 慶長元年(1596年)- 彦坂小刑部元正
- 慶長6年(1601年)- 深津八九郎孝勝
- 慶長8年(1603年)- 米倉助右衛門永時
- 慶長12年(1607年)- 依田肥前守信重
- 元和3年(1617年)- 服部惣左衛門
- 慶安2年(1649年)- 成瀬五左衛門重治
- 天和3年(1683年)- 国領半兵衛重次
- 貞享4年(1687年)- 西山八兵衛昌親
- 元禄4年(1691年)- 古郡文右衛門正府
- 元禄10年(1697年)- 竹村惣左衛門嘉躬
- 元禄13年(1700年)- 平岡三郎右衛門尚宣
- 元禄14年(1701年)- 小長谷勘左衛門(市右衛門)正綱
- 宝永7年(1710年)- 小林又左衛門正府
- 正徳4年(1714年)- 河原清兵衛正真
- 享保6年(1721年)- 江川太郎左衛門英勝(韮山代官所代官)
- 享保6年(1721年)- 松平金左衛門
- 享保9年(1724年)- 日野小左衛門正晴(韮山代官所代官)
- 享保17年(1732年)- 齋藤喜六郎直房
- 寛延2年(1749年)- 戸田忠兵衛正方
- 寛延2年(1749年)- 辻六郎左衛門富安
- 宝暦元年(1751年)- 岩出伊左衛門信之
- 明和2年(1765年)- 伊奈半左衛門忠宥
- 明和5年(1768年)- 池田喜八郎季庸
- 明和6年(1769年)- 久保田十左衛門政邦(後の勘定奉行)
- 明和7年(1770年)- 江川太郎左衛門英征(韮山代官所代官)
- 明和7年(1770年)- 野田文蔵
- 寛政4年4月(1791年)- 小笠原仁右衛門
- 寛政4年6月(1791年)- 大貫次右衛門鎌次郎
- 文政6年11月(1823年)- 中村八太夫(天領代官による当分預かり)
- 天保2年6月20日(1831年)- 江川太郎左衛門英毅(韮山代官所代官)
- 天保5年(1834年)- 江川太郎左衛門英龍(韮山代官所代官)
- 安政2年(1855年)- 江川太郎左衛門英敏(韮山代官所代官)
- 文久2年(1862年)- 江川太郎左衛門英武(韮山代官所代官。後の韮山県令。)
最寄り駅
[編集]隣の宿場
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 新編相模国風土記稿 藤澤宿.
- ^ ふじさわ宿交流館
- ^ “旧藤澤宿デジタルコンテンツが公開”. (文教大学). 2024年3月16日閲覧。
- ^ “江戸時代末期の宿場町を対象とした歴史的街路景観シミュレーションシステムの開発と評価”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ “藤沢宿の歴史知って 地域活性化へ交流館開設”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ 『東海道と藤沢宿 東海道宿駅制度四〇〇年記念』2001年。15頁。
参考文献
[編集]- 『鶏肋温故』(平野道治編著、天保13年(1843年))
- 『我がすむ里』(小川泰二著、文政13年(1830年))
- 児玉幸多 編『藤沢-わがまちのあゆみ-』(増補版)藤沢市文書館、1984年10月1日。
- 日本地名研究所 編『藤沢の地名』(第3版)藤沢市自治文化部市民活動課、1997年3月31日。
- 荒井秀規 編『東海道と藤沢宿 東海道宿駅制度四〇〇年記念』藤沢市教育委員会 生涯学習課 博物館準備担当、2001年11月13日。
関連文献
[編集]- 大石三紗子「江戸幕府伝馬制度と地域金融構造 : 東海道藤沢宿の分析を中心に」『交通史研究』第71巻、交通史学会、2010年、25-45頁、doi:10.20712/kotsushi.71.0_25。
- 「大庭庄 藤澤宿」『大日本地誌大系』 第38巻新編相模国風土記稿3巻之60村里部高座郡巻之2、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179219/141。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 浮世絵に描かれた藤沢宿[リンク切れ]
- 藤沢宿を馬で通行する外国人(浮世絵)[リンク切れ]
- 小川泰二『我がすむ里』文政13年(1830年)・平野道治『鶏肋温故』天保13年(1842年)
- 藤沢市ふじさわ宿交流館
座標: 北緯35度20分51.9秒 東経139度28分58.6秒 / 北緯35.347750度 東経139.482944度