警保局
警保局(けいほきょく、英語: Home Ministry Police Affairs Bureau)は、日本に1947年(昭和22年)まで存在した内務省の内部部局。全国の警察業務を所管した。現在の警察庁の源流に当たる。
概略
[編集]内務省の局は統廃合を繰り返してきたが、警保局は1872年(明治5年)の警保寮設置から、敗戦後の1947年(昭和22年)にGHQによって内務省が解体・廃止されるまで、地方局と並んで省内で強大な権力を握っていた。
下部組織にも統廃合の歴史があるが、主に保安課、図書課が著名である。警保局は警察行政を主管し、保安課は特別高等警察の総元締めであった。
図書課もガリ版刷りの同人誌や学校の同窓会誌、村の青年会誌にいたるまで検閲して、反社会的活動や共産主義、反君主制思想などを取り締まった。また、図書課は、著作権登録の所管でもあり、著作権の国際条約であるベルヌ条約の改正に際しては、内務官僚水野錬太郎が会議(ベルリン会議)に出席していた。
1934年(昭和9年)には映画の検閲強化を目的として、局内に映画統制委員会が設置。さらに翌1935年(昭和10年)には、映画統制委員会の別働組織として大日本映画協会が設立された[1]。
警保局長は警視総監や内務次官と並んで「内務省三役」と言われ、退官後は約半数が貴族院の勅選議員となる省内の要職であった。大蔵省や外務省などではこのようなことは滅多になかった。
太平洋戦争での日本の敗戦後、1947年(昭和22年)12月31日、内務省はGHQの指令により解体・廃止され、1948年(昭和23年)1月1日、内務省警保局は内事局第一局となる。
その後、旧警察法の制定により1948年(昭和23年)3月7日、内事局も廃止され、内事局第一局は国家地方警察本部となる。また、警察法全部改正(新警察法)により、1954年(昭和29年)7月1日、国家地方警察本部は警察庁となった。
歴代警保局長等
[編集]司法省警保頭(1872年 - 1873年)
[編集]1872年(明治5年)8月28日、司法省に警保寮を設置。
内務省警保頭(1874年 - 1876年)
[編集]1874年(明治7年)1月9日、警保寮を司法省から内務省に移管。
- 1874年(明治7年)1月29日 - 1876年(明治9年) 村田氏寿(1875年(明治9年)11月27日以前は警保権頭)
内務省警保局長(1876年 - 1877年)
[編集]1876年(明治9年)4月17日、警保寮を廃止し警保局を設置。
- 明治 9 年(1876.04)- 村田氏寿
警視局大警視(1877年 - 1880年)
[編集]1877年(明治10年)1月11日、警保局を廃止し警視局を設置。
- (兼)川路利良:1877年1月19日 - 1879年10月13日
- (兼)大山巌:1879年10月16日 - 1880年2月28日
- (代理)石井邦猷:1880年2月28日 - 1880年10月23日
- (兼)樺山資紀:1880年10月23日 - 1881年1月14日
内務省警保局長
[編集]脚注
[編集]- ^ 警保局主導で設置、役員決まる『大阪毎日新聞』昭和11年12月3日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p352 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)