近鉄10000系電車
近鉄10000系電車 | |
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基本情報 | |
製造所 | 近畿車輛 |
主要諸元 | |
編成 | 7両編成 |
軌間 | 1,435 mm |
電気方式 | 直流1,500V |
最高運転速度 | 110 km/h |
設計最高速度 | 135 km/h |
起動加速度 | 3.0 km/h/s |
減速度(常用) | 4.0 km/h/s |
編成定員 | 492 |
車両定員 |
72(モ10001・10007) 76(モ10002・10006)[注 2] 74(ク10003・10005) 48(サ10004)[注 3] |
自重 |
38.1 t(モ10001・10007) 36.4 t(モ10002・10006) 19.2 t(ク10003・10005) 26.6 t(サ10004) |
全長 |
20,450 mm(モ10001・10007[注 1]) 20,000 mm(モ10002・10006) 17,100 mm(ク10003・10005) 13,700(サ10004) mm |
全幅 | 2,736 mm |
車体幅 | 2,700 mm |
全高 |
3,865 mm(モ10001・10007・サ10004) 4,150 mm(モ10002・10006) 4,060 mm(ク10003・10005) mm |
車体高 | 3,836 mm |
台車 |
シュリーレン式空気ばね台車 KD-26(モ10001・10002・10006・10007) KD-27(ク10003・10005)・KD-27A(サ10004) |
主電動機 | 三菱電機MB-3020-C形 |
主電動機出力 | 125kW |
駆動方式 | WNドライブ |
歯車比 | 4.39 |
編成出力 | 2,000kW |
定格速度 | 58 km/h |
制御装置 | 三菱電機ABF-178-15MDH電動カム軸式自動加速制御器 |
保安装置 | 近鉄型ATS |
備考 | 諸元データは赤尾(1958)、寺本(1968)[1]、及び鹿島(1979) [2]より。 |
近鉄10000系電車(きんてつ10000けいでんしゃ)は、1958年(昭和33年)に登場した近畿日本鉄道(近鉄)の特急用電車である。
2階建車両を採用した日本初の特急用電車[3]で、なおかつ世界で初めての2階建車両による高速電車でもある。かつて近鉄特急の代名詞的存在であった「ビスタカー」の初代にあたり、近鉄公式として、歴代のビスタカーと区別する際の通称は「旧ビスタカー」[注 4]である。
概要
[編集]1952年(昭和27年)ごろから近鉄では、ロマンスシートなどを採用した新時代かつ会社の看板となる新型特急用車両について構想が立てられていたが、日本国有鉄道(国鉄)でカルダン駆動方式(新性能電車)による特急形・急行形電車[注 5]の導入計画が伝えられると、名古屋 - 大阪間で国鉄東海道本線と競合する近鉄では危機感を強めた。
かくして、来るべき国鉄特急電車を凌駕する客室設備を備えた画期的な新型特急電車の導入計画が立てられ、その実現のための研究が子会社である近畿車輛のスタッフを交えて本格的に開始された。この結果を受けて、当時の近鉄社長であった佐伯勇らの判断により2階建構造の導入が決定した。
こうした研究と試験の結果、最終的に構想が1957年(昭和32年)11月ころから翌年初めにまとめられ[4]、翌1958年(昭和33年)6月に次世代特急車の試作的車輌として本系列が竣工した。同年6月13日に報道陣に公開された[4]のちに、6月25日に公式試運転を実施[4]。同年7月11日より営業運転を開始した。
2階建構造の実証試験を行うための試作車という事情から、わずかに7両編成1本が近畿車輛で製造されたにとどまったが、本系列は以後の日本の高速電車、特に国鉄や他の私鉄各社における優等列車用車両の開発にも多大な影響を及ぼすことになる先進的な設計コンセプトを提示し、また最新かつ先鋭的な装置・設備を満載していた。近鉄においては、その開発成果が翌1959年(昭和34年)の名阪直通特急の運行開始に備えて開発された、本系列の量産車に相当する10100系(2代目ビスタカー)に反映・継承されている。
車種構成
[編集]本系列は以下の各形式で構成される。
- モ10000形10001・10007
- モ10000形10002・10006
- ク10000形10003・10005
- それぞれ宇治山田・上本町寄りに運転台を備える連接構造の制御車 (Tc) 。台車間を2階建て構造としたビスタカーである。
- サ10000形10004
- ク10003・10005の間に連結される連接構造の付随車 (T) 。1基の集中式冷房装置を搭載する。
開発にあたっては近鉄営業部門からの「列車編成長を(2250系6両とほぼ同じ)130メートル以内に抑える」「(ダブルデッカーを組み込むのだから)定員を可能な限り多くする」という要請[6]を実現するため、編成全体の長さが130メートルになるように設計された。この7両の座席定員は440人で、2250系6両の座席定員384名に対し、同じ編成長でほぼ1両分上回っている[7]。
編成
[編集]本系列はモ10001 - モ10002とク10003 - サ10004 - ク10005、それにモ10006 - モ10007の3ユニットで構成され、本系列のみでは以下の4通りの編成を組成可能となっている。
モ10001 | モ10002 | ク10003 | サ10004 | ク10005 | モ10006 | モ10007 |
M'c | M | Tc | T | Tc | M | M'c |
モ10001 | モ10002 | ク10003 | サ10004 | ク10005 |
M'c | M | Tc | T | Tc |
ク10003 | サ10004 | ク10005 | モ10006 | モ10007 |
Tc | T | Tc | M | M'c |
モ10001 | モ10002 | モ10006 | モ10007 |
M'c | M | M | M'c |
もっとも、車両数の増減によってMT比が大きく変動し、これに伴い走行性能も変動するという問題[注 6]があったが、これは次代の10100系で解決されている。
項目\運転区間 | ← 上本町 宇治山田 →
| ||||||
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形式 車両番号 |
モ10000形 (Mc) 10001 |
モ10000形 (M) 10002 |
ク10000形 (Tc) 10003 |
サ10000形 (T) 10004 |
ク10000形 (Tc) 10005 |
モ10000形 (M) 10006 |
モ10000形 (Mc) 10007 |
ユニット単位 | 1ユニット | 1ユニット | 1ユニット | ||||
号車 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
搭載機器 | MG,CP | ◇,CON,◇ | MG,CP | ◇,CON,◇ | MG,CP | ||
自重[1][2] | 38.1t | 36.4t | 19.2t | 25.6t | 19.2t | 36.4t | 38.1t |
運転設備 | 運転台 | 入換用運転台 | 中間運転台 | 中間運転台 | 入換用運転台 | 運転台 | |
車体構造 | 平床 | 平床 | ダブルデッカー | 平床 | ダブルデッカー | 平床 | 平床 |
定員[1][2] | 72 | 76[注 2] | 74 | 48[注 3] | 74 | 76[注 2] | 72 |
車内設備 | トイレ・洗面台 | 車内販売基地 電話室 |
トイレ・洗面台 | 車内販売基地 電話室 |
トイレ・洗面台 |
車体
[編集]電動車であるモ10000形(10001・10002・10006・10007)は機器搭載の都合から、いずれも20m級全金属製車体による、通常構造の平床車として設計されている。
これは当時近畿車輛が技術提携していたスイス・カー・アンド・エレベーター(Swiss Car and Elevator Manufacturing Co.:シュリーレン)社の流れを汲む、準張殻構造の軽量車体となっており、側扉も電動車ユニットは戸袋を廃することで鋼体構造を簡略化でき、更に車外騒音を遮ることや気密面でメリットのある4枚折り戸が採用[9][7]されるなど、軽量化実現のために細心の注意が払われていた [注 7]。
M'c車は高速度運転に備えて流線型とし、前方の見通しをよくする狙いから床面を客室から600mm高い高運転台方式を採用した。やや前方に張り出したボンネット部は車端衝撃からのクラッシャブルゾーンとしての役割を持たせているが、オーバーハング荷重による車体の横揺れを防止する狙いから、直後に登場し、近畿車両でも製造した国鉄20系(→151系)のように機器を収めず空洞とした[11][12]。
これに対し、中間の3両 (10003 - 10005) は近鉄営業部門からの「列車編成長を130メートル以内に抑える」という要請[6]と、2階建車両(ビスタ・ドーム)実現のために連接台車を採用し、ク10003・05を2階建車両とした。
これは当時の近鉄社長・佐伯勇がアメリカ合衆国を訪問した際にグレート・ノーザン鉄道を利用し、同鉄道の代表列車であった「エンパイア・ビルダー」に連結されていた、その名も「VISTA DOME」と呼ばれるドーム構造の2階建展望車の利用体験からヒントを得たといわれる。
構造的にはク10003・10005の台車間をバスタブ状の床構造として線路面ぎりぎりまで1階の床高さを引き下げ、通常構造の屋根に開口部を設けてそこから突き出す形でドーム状の2階席を用意する、というアメリカのドームカーの構造をそのまま引き写したデザインが行われている[注 8]。
もっとも、建築限界や車両限界が小さい日本の鉄道においてこの種の車両の設計は困難であり、このため編成中央の4両目にあたるサ10004が厳しい軸重制限と連接車ユニットとしてのシステム的な要の役割を担う必要性の両立を図る目的から、短い車体の床下に非常に高密度に機器を搭載[注 9]しており、2階建車となったク10003・10005も連接台車の採用で1階の床面積を極限まで大きく確保することはできたものの、こちらも連接車故の軸重制限もあって、若干各電動車ユニットより車長が短いため、1編成中に3種の車体長の車両が混在するという、特異な構成の編成になった。
アコモデーションについては、シートラジオ、列車公衆電話、それに冷房装置の搭載と先代大阪線特急車であった2250系から継承した車内設備に加え、回転式クロスシートの採用と複層ガラスによる側窓の完全固定化が実現しており、これらの装備は国鉄20系電車のみならず、以後の日本の有料特急電車全般の設計コンセプトに少なからぬ影響を与えることとなった。
冷房装置は2250・6421・6431系で採用された川崎車輛KM-7冷房装置の補器を交流化した、KM-7A集中式冷房装置をモ10001・10007に各2基、サ10004に1基搭載した。モ10002・10006へは隣接するモ10001・10007の連結面寄り冷房装置から、ク10003・10005へは前述のとおりサ10004から、それぞれ貫通路上部に設置された蛇腹式風洞を介して冷風を送る構造である[5][13]。
2階席の照明には当初、読書灯のみが設置されたがさすがに夜間の照明には不十分だったため、のちに読書灯を撤去した上で通常の蛍光灯照明に置き換えられた(時期は不明)。
塗装
[編集]車体塗り分けは、近鉄の特急車としては初めての紺色とオレンジのツートンとなり、これは塗り分けや色調を変えつつも、2021年(令和3年)の12200系の引退に至るまでの近鉄特急の標準色となっていた。
紺色は日本の伝統色である藍を表現し、オレンジは人間の肌の色で、これを組み合わせることで文化的な香りの高い近畿地方のイメージを表現した[14]。登場当初は窓回りがオレンジで紺色がその上下に配されていた[7]が、1963年(昭和38年)には10100系以降に準じた窓回りと裾が紺色、残りがオレンジの塗り分けに変更[注 10]している。
2階建て車の側面には「VISTA CAR」のロゴが取り付けられており、これはデザインを変えながらも後の20000系まで継承された。
なお、これとは別に2200系以来の「Express」マークも、サ10004を除く6両の側窓下に1961年(昭和36年)まで記されていた。
主要機器
[編集]主電動機
[編集]1954年(昭和29年)の奈良電気鉄道デハボ1200形(後の近鉄680系)でその初号機にあたるMB-3020-Aが採用され、翌年以降奈良線用800系のMB-3020-Bで実績を積んでいたMB-3020系電動機を架線電圧1,500V対応とした、三菱電機MB-3020-C[注 11]が主電動機として採用されている。
主電動機の動力伝達方式としては、三菱電機がライセンス生産するWNドライブと呼ばれる、電動機ばね上装架の平行軸駆動システムが採用されている。ただし、歯車比4.39は歴代特急車中本系列のみの設定である[注 12]。
このシリーズの電動機はWNドライブ対応電動機としては初期の試行期に設計されたものであったにもかかわらず、比較的大出力で平坦線ではMT比1:1での運用が可能であるなど実用性が高かった。そのため、10400系(エースカー)までの近鉄大阪線系初期高性能特急車や20100系「あおぞら」の主電動機として採用されたほか、大阪線通勤車である1480系にも採用され、その後も特急車からの発生品が長く大阪・名古屋線系統の通勤車に使用され続けている。
制御器
[編集]三菱電機と近鉄がモ1450形で共同開発・実用化した当時最新の1C8M (1 Controller 8 Motors) 方式あるいはMM'ユニット方式と呼ばれる、2両の電動車で必要となる各機器を集約分散搭載することで軽量化を実現するシステム[注 13]が採用されている。
制御器そのものは三菱電機ABF-178-15MDH電動カム軸式自動加速制御器が搭載され、青山峠越えに必要となる抑速発電ブレーキと、これに対応した大容量抵抗器も併せて搭載されている。
台車
[編集]編成各車の台車はそれぞれの目的に応じて個別の形式が起こされ、ベローズ型空気ばねを揺れ枕上に備え、シュリーレン式の軸箱支持方式を持つ、近畿車輛KD-26形(モ10000形)・27形(ク10000形)・27A形(ク10000・サ10000形連接部)が新規設計され装着されている。
同時期登場の名古屋線6431系が装着したKD-28・28Aと軌間や主電動機の装架方法、それに揺れ枕吊りの構造は異なる[注 14]が、軸箱部分や側枠の基本的なデザインは同様となっており、いずれも当時としては傑出した乗り心地であった。また空気ばねの採用は車内の騒音軽減効果も狙ったもので、実際試運転時に金属ばね車両と空気ばね車両で騒音の比較を行ったところ、空気ばねの方が約10ホンも騒音が低いという結果が出た。
もっとも、これらの台車は、KD-26・27・27Aが本系列と運命をともにし、KD-28・28Aは名古屋線改軌時に工期短縮の必要性から新設計の金属ばね台車に交換されて消滅したという短命ぶりであり、試行期の少数派故に保守上敬遠されていたことを伺わせている。
ブレーキ
[編集]制御器による抑速発電ブレーキと併せて、空気ブレーキとして応答性に優れ、しかも電空同期がスムーズかつ確実に行えるHSC-D[注 15]が採用された。
また、Tc及びT車は電気ブレーキが作用しないため、装着したKD-27およびKD-27A台車には、高速運転時の制動性能向上をねらってディスクブレーキが導入されている[7]。ディスクブレーキの採用は川崎車輛の提案による小田急3000形SE車の付随台車用が先行したが、使用条件の過酷さにおいて、特に厳しい使用条件である青山峠の連続下り勾配区間で示した安定した制動能力は、各社の注目を集めた。
走行性能
[編集]ダイヤ作成上の基準となる走行性能については、大阪線の線路条件を念頭に、基本的には4M3T(中間ユニットが連接車のため台車数では8M4T。すなわちMT比2:1)で起動加速度3.0km/h/s・減速度4.0km/h/s・平坦線均衡速度135km/h・33‰勾配における均衡速度85km/hを目標として設計された[15]。更にデッドウェイトとなる中間のトレーラー(付随車・制御車)を抜いた4M編成時には、平坦線均衡速度145km/h[注 16]という当時としては高い性能を有していた[15]。
運用
[編集]1編成のみの製造、しかも特殊な編成であったため独立した運用が組まれ、主に上本町駅 - 宇治山田駅間の阪伊特急に充てられた。10100系や10400系が登場した後はいわゆる脇役的存在に回り、塗り分けも10100系と共通のものに変更された。なお本系列は7両編成での運行が基本であるが、時には片側2両の電動車ユニットを外した5両編成[10]や、中間の2階建車両ユニットを抜いた4両編成で運行されることもあった。
また、試作車故に1編成しか在籍せず予備車が存在しないという事情から、万が一電動車ユニットに故障が生じた際に代用できるよう同系主電動機を搭載する10400系の電動車ユニットについて、本系列と混結運用が可能なように制御器などの改造が施されたという逸話も残されている。
大破事故による前頭部復旧
[編集]1966年(昭和41年)11月12日、大阪線河内国分駅にて、本系列による上本町発宇治山田行き特急が、運転士の信号見落とし[注 17]により先行する上本町発名張行き準急(1480系)に追突する事故が発生した。これに伴い、宇治山田寄り先頭車であったモ10007は前頭部が追突先の車両にめり込んで大破[5][16]し、乗務していた運転士が死亡した。
事故後、モ10007は車体にほとんど変形がなかったことから[12]近畿車輛で復旧することとなったが、近鉄側より大至急の復旧が求められたことから、複雑な流線型の前面を復元する時間がなく[5]、窮余の策として当時新造中の18200系に準じた仕様の特急標識や密着式連結器を備える、貫通扉付き前頭部[5][16]を新造して取り付けて復旧され、事故の翌月である12月には運用に復した[16]。この復旧の際、同車のみ4枚折戸を他系列と共通の2枚折戸に変更している。同時にモ10001・ク10005も含めてATS(自動列車停止装置)の取り付けも行われた。なお特急標識の位置が18200系のそれより100㎜低くなっているが、これは近車が製造時に設計図の寸法を誤読してしまい、そのことに関係者も気づかないまま竣工したもので、結局廃車まで修正されることはなかった[注 18]。
また、黄害対策として、近鉄は1969年(昭和44年)度から保有するすべてのトイレ付き車両について、垂れ流し式からタンク式へ改造する工事を実施し、本系列も大阪万博輸送を目前にした1970年(昭和45年)3月に改造された[18]。その際モ10001・07の車端部に設けられていたトイレはそのままタンク式とされたが、サ10004の車体中央部にあったトイレは床下スペースに余裕がなく、タンク式への改造が不可能であったため閉鎖され、代わりに使用頻度が極端に低下していたク10003の運転台を廃止・撤去してサ10003と形式変更し、運転台跡に新たなタンク式トイレと洗面所を設置するという工事が施工された[18]。
終焉
[編集]上記のタンク式トイレ化改造工事の直後である1970年(昭和45年)3月21日より、近鉄では座席予約システムによる特急券販売が開始された。本系列は試作的要素が強い特殊な編成で、座席定員と配置が他の車両と異なり座席の構成も非常に複雑なため、座席指定のオンライン化に対応できずに従来の手作業での発券を強いられ、休日中心の限定運用となった[18]。また、1970年に開業した難波線への乗り入れは営業運転では行われなかった[注 19]。
さらに戦前の基本設計に由来するKM-7A集中式冷房装置は老朽化が著しく、低下した冷房能力を補うため、もともと冷房能力が不足気味であった中間の3両については10003・10005の運転台寄り屋根上にあったグローブ式ベンチレーターを撤去し、ここに11400系や18000系などと同型の分散式冷房装置がそれぞれ1基ずつ搭載され、さらに両車の階上席両端には家庭用ユニットクーラー[注 20]と扇風機が搭載されるような状況であった。
この陳腐化した空調機器・1編成のみの少数派という存在・座席指定オンライン化への対応が困難など運用上の不便さを理由に、1970年の万博輸送が終わると12200系に置き換えられることになり、翌1971年(昭和46年)5月9日の鉄道友の会阪神支部主催によるさよなら運転を最後に運用を離脱、翌5月10日付で廃車・解体された[19][18]。就役からわずか13年だった。
台車は前述のとおり流用されず、車体と共に廃棄処分されたが、標準品であった主電動機や制御器などの電装品群は、近鉄の一般車では初の冷房搭載車両となった2680系3両編成2本に流用され[18]、同系列が2020年3月に引退[20][21][22]するまで長く使用された。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 国分事故からの復旧後は20,000 mm[1].
- ^ a b c モ10002・10006の定員について寺本(1968)は先頭車と同じく「72」と記載している[1]が、写真では中間車は先頭車より窓が1つ多く座席が1列多いので、これは誤植である。
- ^ a b サ10004の定員について鹿島(1979) は「78」と記載している[2]が、同車は編成中で一番車体長が短い車両のため誤植と思われる。
- ^ 30000系登場後まもなくして「ビスタI世」とも呼ばれるようになるが、30000系と10000系は同時に就役していたことはないので、あくまで便宜上の俗称である。
- ^ 20系(151系)電車・91系(153系)電車として就役。
- ^ 元々本系列は開発時にダブルデッカー車両を組み込み、なおかつ使える最大出力の主電動機が125kWである、ということから電動車が4両という車種構成になった[7]。
- ^ ク10000・サ10000形の側扉については、階段や洗面所の関係で折り戸では車内通路が狭くなってしまう[9]ため、従来どおり片開き式の1枚戸が採用された[4][10]。
- ^ ただし、近鉄では大阪線の建築限界に由来する車体断面の制約から2階席部分の断面を縮小せざるを得ず、座席は1列+2列の3列構成とされている。この問題は、続く10100系の設計時に安全性を充分確認したうえで、監督官庁である運輸省(当時)の特認を得て車体断面を拡大することで解決されている。
- ^ 床下に連接ユニット3車体分の機器群を集中して艤装した[11]ばかりでなく、両脇の2階建車に冷風を供給するための集中式冷房装置が屋根上に搭載されてもいた。
- ^ ただしユニット毎に順次塗装変更を行っていたので、過渡期では旧塗装の電動車ユニット+新塗装の中間連接ユニットで走行している姿[10]が記録されている。
- ^ 端子電圧340V時定格出力125kW。端子電圧375Vで想定した場合は定格出力150kWだが、5両編成時の電動車の負荷が考慮されている[9]。
- ^ 通勤車では本系列の直前に設計された、近鉄初の量産高性能車である800系に採用されている。
- ^ 1C8M化により、1C4Mの単独電動車を2両連結する場合と比較して制御器で20%前後の軽量化が実現された。
- ^ 本系列のKD-26・27・27Aは線路・枕木方向に揺れ枕がスイングする短いユニバーサル・リンクを使用する「短リンク式」と呼ばれるシュリーレン式台車の第1世代の最終モデルに当たるのに対し、6431系のKD-28・28Aは枕木方向に揺れ枕が大きくスイングする長い吊りリンクを備える第2世代の「長リンク式」シュリーレン式台車の第1陣であった。
- ^ 発電ブレーキ併用電磁直通空気ブレーキ
- ^ ただし当時の大阪線の軌道条件では最大性能の発揮は不可能であった。
- ^ この事故を機に、近鉄は事故翌年の1967年(昭和42年)12月に奈良線を皮切りに自動列車停止装置(ATS)の導入を始めた。
- ^ 近車で本系列の設計を担当し、事故復旧にも関わった鹿島(1979)の証言[17]。
- ^ ただし、1970年(昭和45年)2月に難波線への入線試験が10001 - 10005の5両編成で実施されている。
- ^ これらの室外機は、階上席ドーム部両端に隣接するように専用のケースに収めたうえで屋根上に設置してあった。
出典
[編集]- ^ a b c d e 寺本(1968) p.16-17
- ^ a b c d 鹿島(1979) 折込「近鉄特急車両諸元表」(引退車輛)。
- ^ 寺本(1968) p.19
- ^ a b c d 鹿島(1979) p.20
- ^ a b c d e 鹿島(1979) p.21
- ^ a b 鹿島(2009) p.127
- ^ a b c d e 鹿島(2009) p.128
- ^ 『鉄道ピクトリアル』(第505号)1988年12月臨時増刊号、154頁
- ^ a b c 赤尾(1958) p.132
- ^ a b c 鹿島(1979) p.23
- ^ a b 赤尾(1958) p.128
- ^ a b 私鉄車輛めぐり(78) p.70-71
- ^ 赤尾(1958) p.132-133
- ^ 『鉄道ピクトリアル』(第505号)1988年12月臨時増刊号、79頁
- ^ a b 赤尾(1958) p.135-136
- ^ a b c 淡野(1967) p.10
- ^ 鹿島(1979) p.21-22
- ^ a b c d e 寺本(1971) p.109
- ^ 飯島・藤井・井上『私鉄の車両1 近畿日本鉄道I』p.161
- ^ 「近鉄,鮮魚専用列車の運転終了」『railf.jp』交友社、2020年3月13日。2024年8月12日閲覧。
- ^ 「グリーンマックス,2020年10月以降の発売予定品を発表」『railf.jp』交友社、2020年6月24日。2024年8月12日閲覧。
- ^ 鉄道ピクトリアル2020年8月号 (電気車研究会): 115頁. (2020-06-22). ASIN B089TT2SVM.
映画
[編集]- 『VISTA CAR』(協和映画社、1958年)
- 本系列の試運転時の映像を収録した記録映画。後に「近鉄特急グラフィティ(後編)」(テイチクエンタテインメント、2005年)や「近鉄レール通信 Vol.6」(アネック、2012年)等のDVDに収録された。
参考文献
[編集]書籍
[編集]- 飯島厳、藤井信夫、井上広和『私鉄の車両1 近畿日本鉄道I 特急車』保育社、1985年。ISBN 4-586-53201-7。
- 寺本光照、林基一『決定版 近鉄特急』ジェー・アール・アール、1985年5月1日。ASIN B000J6RRXS。
雑誌記事
[編集]- 「<特集>近鉄特急」『鉄道ピクトリアル 1988年12月臨時増刊号』第505号、1988年12月。
- 鉄道友の会(編)「車両研究 1960年代の鉄道車両」『鉄道ピクトリアル 2003年12月臨時増刊号』、電気車研究会、2003年12月10日。
- 中山嘉彦「戦後飛躍期の近畿日本鉄道新製車両について」。
- 「近畿日本鉄道 1950~60」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション 47』、鉄道図書刊行会、2023年12月10日。
- 赤尾公之「私鉄車輛めぐり(38) 近畿日本鉄道」『鉄道ピクトリアル(No.102~104・106よりの再録)』、30頁。
- 野村董、吉川寛、白川英行、宮下恵一、藤井信夫「私鉄車輛めぐり(78)」『鉄道ピクトリアル(No.219~222・224・226より再録)』、70-71頁。
- 赤尾公之「近鉄の新特急列車ビスタカー」『電気車の科学(1958年8月号・9月号よりの再録)』、128-138頁。
- 「近畿日本鉄道 1960~70」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション 48』、鉄道図書刊行会、2024年5月10日。
- 野村董「近鉄特急物語」『鉄道ピクトリアル(No.219よりの再録)』、40頁。
- 寺本光照「近鉄特急車の概要」『鉄道ファン』第80号、交友社、1968年2月、15-21頁。
- 寺本光照「さようなら近鉄10000系ビスタカー」『鉄道ファン』第124号、交友社、1971年8月、109頁。
- 鹿島雅美「近鉄特急ものがたり」『鉄道ファン』第216号、交友社、1979年4月、7-45頁。
- 鹿島雅美「近鉄特急ものがたり ーあれから60年 その2ー」『鉄道ファン』第580号、交友社、2009年8月、122-129頁。
関連項目
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