逓信省印旛地方航空機乗員養成所
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逓信省印旛地方航空機乗員養成所(印旛飛行場、草深(そうふけ)飛行場)はかつて千葉県印旛郡(現在の印西市)にあった飛行場である。
概要
[編集]滑走路の整地後舗装を行わない転圧式滑走路であった。千葉ニュータウン内の西の原公園に記念碑『平和の碑』が作られている。
印旛飛行場は本来パイロット養成所であり、有蓋の格納庫は数機分しか存在しなかった[1]。そのため陸軍飛行戦隊(第2・第3戦隊)の基地として事実上の軍事空港化されたときは、付近に無蓋掩体壕(えんたいごう)が作られ、1982年の調査では36基分の掩体壕が残されていたが[1]、その後の開発で大部分が撤去され、2018年現在東の原3丁目に残るものは印西市により「市指定記念物(史跡)」に指定されている[2]。
飛行場跡地の一画に1949年から1976年まで印旛少年院があった。『関東年少小唄』の冒頭で「ヤキの印旛か」と歌われた[3]ほど有名で、職員による暴行事件に関し、衆議院法務委員会で取り上げられたこともある[4]。
歴史
[編集]- 1938年(昭和13年)- 逓信省印旛地方航空機乗員養成所創設。
- 1942年(昭和17年)6月6日 - 印旛飛行場が完成。
- 1943年(昭和18年)10月 - 拡張工事。
- 1944年(昭和19年)10月11日 - 印旛飛行場に陸軍飛行第二三戦隊が配備される。
- 1945年(昭和20年)8月 - 第二次世界大戦の終結(終戦)。開拓団入植。
- 1949年(昭和24年) - 印旛飛行場跡地の一画に法務省印旛少年院(中等・特別)が開設される。旧・飛行場の指揮塔などの施設も再利用される。
- 1976年(昭和51年) - 印旛少年院が閉鎖。
- 1983年(昭和58年)12月15日 - 印旛少年院跡地が千葉ニュータウン開発事業用地として売却される。
- 1985年(昭和60年) - 印旛少年院が閉庁(業務そのものは1976年に停止済み)。
座標
[編集]- 滑走路(01/19)北端北緯35度48分25秒 東経140度09分48秒 / 北緯35.807059度 東経140.163220度
- 滑走路(01/19)南端北緯35度47分37秒 東経140度09分41秒 / 北緯35.793723度 東経140.161289度
- 滑走路(11/29)東端北緯35度47分58秒 東経140度10分20秒 / 北緯35.799523度 東経140.172221度
- 滑走路(11/29)西端北緯35度48分18秒 東経140度09分21秒 / 北緯35.804979度 東経140.155806度
- 滑走路(16/34)南端北緯35度47分41秒 東経140度09分45秒 / 北緯35.794672度 東経140.162426度
- 滑走路(16/34)北端北緯35度48分24秒 東経140度09分24秒 / 北緯35.806732度 東経140.156707度
- 平和の碑(西の原公園)北緯35度48分06秒 東経140度09分27秒 / 北緯35.801540度 東経140.157377度
- 現存する掩体壕北緯35度47分35秒 東経140度09分59秒 / 北緯35.793090度 東経140.166412度
- 印旛少年院北緯35度48分06秒 東経140度09分03秒 / 北緯35.801729度 東経140.150861度
脚注
[編集]- ^ a b “印西牧の原の歴史〜ニュータウン開発前、印西に飛行場があった!〜”. 千葉県フリーペーパー『うきうき』 (2017年10月15日). 2017年10月22日閲覧。
- ^ 掩体壕[市指定記念物(史跡) | 印西市ホームページ]
- ^ 中村敏和『塀の中の唄が聞こえた』彩図社〈ぶんりき文庫〉、2003年。ISBN 4-88392-330-4。
- ^ “第024回国会 法務委員会閉会中審査小委員会 第5号”. 国会会議録検索システム(国会図書館) (1956年9月25日). 2017年10月22日閲覧。