鄂 (西周)
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鄂 | |||||||||||||||||||||||||||||||
中国語 | 鄂 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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鄂(がく、IPA: /ɤ̂/)は、殷・周の諸侯国(紀元前12世紀 - 紀元前863年)。金文では噩とも表記される。現在の河南省南陽市臥竜区・方城県・南召県の一帯を領し、臥竜区石橋鎮が中心の地域であった。黄帝の姞姓の子孫が封じられ、国君は殷の侯爵の席に並んだ。殷末には鄂侯は西伯昌・九侯(鬼侯)とともに三公に列された。
鄂はもともと現在の河南省の南部にあったが[1]、その後湖北省に移った。鄂は現在湖北省の省の略称としても使用されている。
歴代君主
[編集]脚注
[編集]- ^ “Data on the State of E (有関 "鄂"的部分資料)” (Chinese). March 3, 2016時点のオリジナルよりアーカイブ。October 21, 2010閲覧。
参考文献
[編集]- 呉鎮峰《金文人名匯編》
- 《南陽市地名志》
- 《史記・殷本紀》:(帝辛)以西伯昌、九侯、鄂侯為三公… 鄂侯争之彊,辨之疾,並脯鄂侯。
- 《史記・楚世家》:当周夷王之時,王室微,諸侯或不朝,相伐。熊渠甚得江漢閑民和,乃興兵伐庸、楊蠆,至于鄂…乃立長子康為句亶王,中子紅為鄂王。
- 《殷周金文集成949》:王令先省南或(國)貫行設居。在曾,史兒至,以王令(命)曰:余令女(汝)使小大邦…中省自方、登(鄧),造口邦,在噩(鄂)次師…
- 《噩侯馭方鼎》:王南征,伐角、僪(遹),唯還自征,才坏(在坯),噩(侯馭)方内(納)壺于王,乃(祼)之,(馭)方(侑)王,王休(偃),乃射,(馭)方(侑)王射,(馭)方休闌,王宴,咸酓(飲),王寴易(親錫馭)方玉五嗀(瑴),馬亖(四)匹,矢五束,(馭)方(拜)手(稽)首,(敢)對(揚)天子不(丕)顯休(賚),用乍(作尊)鼎,邁(其萬)年永寶用。
- 《禹鼎銘文》:禹曰:不(丕)顯(恒)皇且(祖)穆公,克夾(召)先王,奠四方。(肆)武公亦弗段(遐)望(忘)朕聖且(祖)考幽大(叔)、懿(叔),命玉禹(肖)朕且(祖)考政于井邦。(肆)禹亦弗敢(春),賜(惕)共朕辟之命。烏(呼)哀哉,用天降大喪于下或(國),亦唯噩(鄂)侯(馭)方率南淮尸(夷)東尸(夷)廣伐南或(國)東或(國),至于歴内。王遒(乃)命西六(師)、殷八(師)曰:(撲)伐噩(鄂)侯(馭)方,勿遺壽幼。肆(師)彌宋(怵恇),弗克伐噩(鄂)。肆武公遒(乃)遣禹率公戎車百乘,斯(廝)(馭)二百,徒千,曰:于(將)朕肅慕(謨),惠西六(師)、殷八(師),伐噩(鄂)侯(馭)方,勿遺壽幼。禹(以)武公徒(馭)至于噩(鄂)。(敦)伐噩(鄂)休,雙(獲)氒(厥)君(馭)方。肆禹又(有)成,敢對揚武公不(丕)顯耿光。用乍(作)大寶鼎,禹其萬年子子孫寶用。