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野口英雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 野口 英雄 
Hideo NOGUCHI
基本情報
名前 野口 英雄
没年月日 (1944-07-14) 1944年7月14日(79歳)
身長 172 cm (5 ft 8 in)
体重 68 kg (150 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県
経歴
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野口 英雄(のぐち ひでお、1944年7月14日 - )は千葉県出身のプロゴルファー

来歴[編集]

1971年の第1回美津濃トーナメント前田新作草壁政治と並んでの3位タイ[1]1974年の第4回では内田繁榎本七郎に次ぐと同時に鈴木規夫・草壁・松井功を抑え、金本章生と並んでの3位タイ[2]に入る。

1974年の中日クラウンズでは村上隆尾崎将司青木功島田幸作グラハム・マーシュオーストラリアの旗 オーストラリア)に次ぎ、宮本康弘金井清一新井規矩雄山本善隆呂良煥中華民国の旗 中華民国)と並んでの6位タイ[3]に入った。

1975年中部オープンでは初日を鈴村照男から2打差2位タイ[4]でスタートし、2日目には68をマークして首位に立ち[5]、最終日には69をマークした大場勲に並ばれたが、プレーオフで下してツアー初優勝[6] [7]を果たす。

1976年アジアサーキットシンガポールオープンでは内田袈裟彦ベン・アルダフィリピンの旗 フィリピン)、マーシュに次ぐ6位に入った[8] [9]

帰国後のフジサンケイクラシックでは初日を秋富由利夫と共に69をマークして6位タイ[10]でスタートし、2日目も69で回り首位日吉定雄に1打差の2位[11]に浮上するが、3日目には岩下吉久と並んでの4位タイ[12]に後退し、最終日には村上隆と並んでの6位タイ[13]に終わった。

日本プロマッチプレーでは予選最終ラウンドまで進み、通算3アンダーで並んだ内田とプレーオフになったが、内田に敗れている[14]

1978年の美津濃トーナメントでは草壁と並んでの3位タイ[15]、同年の中部オープンでは井上幸一鈴村久石井秀夫・内田・石井裕士に次ぐと同時に大場・豊田明夫を抑えての9位に入り[16]1985年の中部オープン[17]を最後にレギュラーツアーから引退。

主な優勝[編集]

  • 1975年 - 中部オープン

脚注[編集]

  1. ^ 第1回 1971年(昭和46年)|ゴルフ|ミズノ公式オンライン
  2. ^ 第4回 1974年(昭和49年)|ゴルフ|ミズノ公式オンライン
  3. ^ 中日クラウンズ | CBCテレビ | クラウンズの歴史
  4. ^ 朝日新聞縮刷版p527 昭和50年7月17日朝刊17面
  5. ^ 朝日新聞縮刷版p560 昭和50年7月18日朝刊16面
  6. ^ 朝日新聞縮刷版p627 昭和50年7月20日朝刊15面
  7. ^ 野口 英雄選手 ツアー通算データ - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
  8. ^ 【日本男子の海外挑戦記・昭和編㉜】1974年以降、アジア・サーキットは日本選手の修行の場に
  9. ^ 日刊スポーツ1976年3月15日内田逃げ切り初優勝
  10. ^ 朝日新聞縮刷版p386 昭和51年5月14日朝刊16面「日吉が首位 ミヤアエ2位 フジサンケイ・ゴルフ
  11. ^ 朝日新聞縮刷版p423 昭和51年5月15日朝刊17面「日吉が首位守る フジサンケイ・ゴルフ
  12. ^ 朝日新聞縮刷版p454 昭和51年5月16日朝刊16面「トップに青木功ら三人 フジサンケイ・ゴルフ
  13. ^ 朝日新聞縮刷版p485 昭和51年5月17日朝刊19面「鈴木規、呂をかわす プレーオフ フジサンケイ・ゴルフ
  14. ^ 第2回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1976年)
  15. ^ 第8回 1978年(昭和53年)|ゴルフ|ミズノ公式オンライン
  16. ^ 朝日新聞縮刷版p538 昭和53年7月16日朝刊18面「井上が初栄冠 中部オープン
  17. ^ 野口 英雄選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site

外部リンク[編集]