北条実時
北条実時像(国宝)/称名寺所蔵 | |
時代 | 鎌倉時代中期 |
生誕 | 元仁元年(1224年) |
死没 | 建治2年10月23日(1276年11月30日) |
別名 | 金沢実時(金澤実時) |
戒名 | 称名寺正慧 |
墓所 | 横浜市金沢区の称名寺 |
官位 |
掃部助、宣陽院蔵人、従五位下、 越後守、従五位上、贈正五位 |
幕府 | 鎌倉幕府小侍所別当、引付頭人、評定衆 |
主君 | 藤原頼経→頼嗣→宗尊親王→惟康親王 |
氏族 | 北条氏 |
父母 | 父:北条実泰、母:天野政景の娘 |
兄弟 | 実時、小山長村妻、唐橋通時妻、大江広時妻、藤原忠嗣妻、朝氏妻、江間越後四郎妻 |
妻 | 正室:北条政村の娘、他 |
子 | 実村、篤時、顕時、時直?、実政、時国(養子、名越時長の子)[注釈 1]、女子(長井宗秀妻)、女子(時長の子・名越長頼の妻)、女子(飛鳥井雅有妻) |
北条 実時(ほうじょう さねとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏一門。金沢流北条氏の実質初代で、金沢 実時(かねさわ さねとき)とも。父は北条実泰。母は天野政景の娘。
略歴
[編集]天福元年(1233年)、10歳にして、伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第3代執権の北条泰時の邸宅において元服[2]、烏帽子親も務めた泰時から「時」の字を受けて実時と名乗る(「実」字は父から継承したもの)[3][4]。翌文暦元年(1234年)に出家した父から小侍所別当を移譲される。若年を理由に反対の声があったが、執権泰時はそれを押さえて実時を起用した。その頃、泰時の子時氏・時実が相次いで早世し、泰時の嫡孫北条経時が得宗家の家督を継ぐ事になっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったのである。泰時は2人に対し「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていた(『吾妻鏡』)。以後3度にわたって同職を務める。
4代執権北条経時、5代北条時頼政権における側近として引付衆を務め、宝治元年(1247年)の宝治合戦では御所の守護を担当している。建長5年(1253年)には評定衆を務める。文永元年(1264年)には得宗家外戚の安達泰盛と共に越訴頭人となり幕政に関わり、8代執権の北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった。
文永の役の翌建治元年(1275年)には政務を引退し、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に在住。蔵書を集めて金沢文庫を創設する[5]。翌建治2年(1276年)に死去、享年53。
文化人としても知られ、明経道の清原教隆に師事して法制や漢籍など学問を学び、舅の政村からは和歌など王朝文化を学ぶ。源光行・親行父子が校訂した河内本『源氏物語』の注釈書を編纂する。また、実子実政にあてた訓戒状も知られる。
経歴
[編集]※ 日付は旧暦(1915年(大正4年)の記事を除く。)
- 1234年(文暦元年)6月30日、小侍所別当と就る。
- 1238年(暦仁元年)3月18日、掃部助に任官。また、宣陽院蔵人にも補される。
- 1252年(建長4年)4月30日、幕府の引付衆と就る。
- 1253年(建長5年)2月、評定衆に異動。
- 1255年(建長7年)12月13日、従五位下に叙し、越後守に転任。
- 1258年(正嘉2年)、引付頭人を兼帯。
- 1265年(文永2年)6月27日、従五位上に昇叙。越後守如元。
- 1266年(文永3年)、引付頭人を退任。
- 1269年(文永6年)、引付頭人を再び兼帯。
- 1275年(建治元年)5月、病により武蔵国六浦に籠居。
- 1276年(建治2年)10月23日、卒去。享年53。
- 1915年(大正4年)11月10日、贈正五位[6]。
関連作品
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト版)新人物往来社、1990年。
- 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年。ISBN 4-642-02786-6。
- 山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」『長崎大学教育学部社会科学論叢』第61巻、長崎大学、2002年6月30日、A1-A38、hdl:10069/6249。
- 『吾妻鏡』