金鍾碩
金 鍾碩 (김종석)は大日本帝国陸軍(旧日本軍)の朝鮮人日本兵の大尉で大韓民国軍の中将。創氏改名時の日本名は日原正人。
1942年12月、陸軍士官学校卒業56期生。同期に大韓民国国軍創設の中心人物の一人李亨根(松山武雄)や、漢江橋過早爆破の責任を問われ銃殺刑に処された崔昌植(高山隆)がいる。
沖縄戦
[編集]沖縄戦では、日本陸軍第32軍、歩兵第32連隊[1]第2大隊 (志村常雄大隊長) で小隊長として前田高地の戦い (ハクソーリッジ) を戦った。日原正人中尉の戦闘ぶりと人柄は、当時学徒兵であり後に沖縄学の権威となった外間守善の沖縄戦記に記されている。1945年4月26日以降の前田高地の激闘から、日本軍の組織的な戦闘停止、また日本の降伏を過ぎても、宜野湾の山手でゲリラ戦を余儀なくされた大隊は、9月3日、中頭郡中城村北上原で米軍に降伏する。
前田高地の戦闘
[編集]米兵に「ありったけの地獄をひとつにまとめた」と語られた、壮絶な白兵戦が繰り広げられた前田高地で、金は小隊長として大隊のまとめ役であった。外間守善は隊を率いる小隊長日原中尉の剛毅さをこう記す。[2]
壕内は意味のわからない怒号が響き渡って喧騒の渦だった。しばらくして和田中隊長が数人の兵と共に生還した。みんな不死身ではないかと思える戦いぶりだったようだ。志村大隊長は相変わらず沈痛な面持ちで地図を広げながら奥深く坐していた。衛生兵二人が怒鳴りながら負傷兵の手当てをしていた。傷の痛みに獣のような唸り声をあげる者、恐くなって泣きだす者、発狂する者、壕内は修羅場だった。大隊砲小隊の日原正人中尉は砲が役に立たないと判断すると、果敢にも手兵数人を従えて敵に突入し、手榴弾戦を交えて壕に戻ってきた。
5月1日、前田高地突入の命令が下り、第2歩兵砲小隊は未明に前田高地にむかった[3]。第32連隊第2大隊砲小隊の佐藤良治は北海道新聞に寄せた戦記にこう記している。[2]
沖縄戦で生き残れたのは、無理するなと諭してくれた小隊長(日原正人中尉)と、斬り込みに出た後も洞窟に隠れていようと言った四年兵のおかげだった。< 中略 > 五月一日、前田高地突入の命令が下った。小銃の第五中隊が夜襲に行くとき、敵の裏に回り重火器を破壊するため私の大隊砲小隊からも三組六人の斬り込み隊が出た。私が「出発します」と申告に行くと、韓国人の小隊長は「死ぬだけがご奉公じゃないぞ」と何回も言う。出発後、洞窟があった。一緒に行った四年兵が「ここに入るべ」と言った。私は気抜けした。敵陣まで行かず、ずっと洞窟に入っていた。第五中隊は約百人中、帰ってきたのは一人だけ。斬り込み隊も私たち二人だけが帰還した。
5月10日の明け方、金は前田高地の戦いで奇跡的に生き残り、数名の重傷兵士とともに乾パン壕[4]のなかで外間らに発見される。米軍の攻撃を避けつつ前田高地の乾パン壕から、缶詰壕、賀谷大隊の戦闘指揮壕、仲間の壕へ移動。
北上原でのゲリラ戦
[編集]さらに棚原高地から北上原へと潜伏しながら移動する。外間はこう記す。[2]
武装解除間近い頃、北上原の壕に潜んでいた時期があったが、私の沖縄戦体験体験の中では比較的平穏な日々だった。大隊砲小隊の小隊長で朝鮮出身の日原正人中尉は軍人として勇敢な人であったが、それ以上に的確な判断力と将来を見通す目をもった人だった。また壮絶な前田高地の戦いの中でも彼は部下たちに向かって「死ぬだけが国への奉公ではない」と何度も語った人だった。その日原中尉と私は毎晩のように日本の、そしてアジアの将来について語り合った。日原中尉は本気で戦後日本とアジアの将来を憂えていた。日原中尉は敗戦後しばらくは東京に住んでいたが、朝鮮半島に渡り、朝鮮の革新運動家になり、捕縛されて銃殺刑に処せられたと風聞している。父君が朝鮮出身で朝鮮李王朝の武官であった。
朝鮮戦争とその後
[編集]その後、韓国に渡る。 1946年3月27日付[5]で軍事英語学校を卒業し、韓国陸軍の任大尉(軍番10070番)。
1946年9月11日、国防警備隊作戦教育課長(大尉)[6]。同年10月4日から11月25日まで国防警備隊総司令部人事処長[7]、12月に警備士官学校臨時校長[8]を兼任[9]するなど高級将校として活躍した。
1947年2月29日、第2連隊長[10]。同年9月、経理不正が発覚して拘束されたが、証拠不十分で無罪となった[9]。
1948年6月18日、第5旅団参謀長[11]。同年8月8日、第4旅団参謀長[12]。8月16日から10月11日まで旅団長代理[12]。
1948年10月19日、南朝鮮労働党による軍部隊の反乱、麗水・順天事件が起こると、左派系の南朝鮮労働党系軍人であるということが明らかになり[13]、首謀者の一人として逮捕された。1948年11月に軍法会議で死刑判決をうける。1949年8月2日午後2時、ソウル市恩平区にある某所で銃殺された。その際、余裕を失うことなく、明るく笑って米軍政所属の将校たちと握手し始終笑顔であったという[14]。
沖縄戦を戦った朝鮮人軍人
[編集]- 申應均
- 최정근 沖縄で戦死
- 정상수 沖縄で戦死
脚注
[編集]- ^ Corporation), NHK(Japan Broadcasting. “[証言記録 兵士たちの戦争]沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~|NHK 戦争証言アーカイブス”. NHK戦争証言アーカイブス. 2020年1月22日閲覧。
- ^ a b c 『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川学芸出版、2003年。ISBN 978-4046210814。
- ^ 北海タイムス連載「ああ沖縄」
- ^ “浦添グスクの缶詰壕とカンパン壕 | うらそえナビ”. よりみち『浦添』たび うらそえナビ. 2020年1月22日閲覧。
- ^ 佐々木 1976, p. 88.
- ^ 国防軍史研究所 1997, p. 592.
- ^ 国防軍史研究所 1997, p. 591.
- ^ 佐々木 1976, p. 103.
- ^ a b 佐々木 1976, p. 426.
- ^ 佐々木 1976, p. 193.
- ^ 佐々木 1976, p. 212.
- ^ a b 佐々木 1976, p. 213.
- ^ “金鐘碩” (朝鮮語). 네이버 블로그 | mensore. 2020年1月22日閲覧。
- ^ 다큐멘터리, 이제는 말할 수 있다 제5화 여수 14연대 반란 1999. 10. 17.
参考文献
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。
- 外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川学芸出版、2003年。ISBN 978-4046210814。
- “호국전몰용사공훈록 제5권(창군기)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2020年2月20日閲覧。