第5歩兵師団 (韓国陸軍)
第5歩兵師団 | |
---|---|
創設 | 1948年4月29日 |
廃止 | 1950年7月17日 |
再編成 | 1950年10月8日 |
所属政体 | 大韓民国 |
所属組織 | 大韓民国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵科 | 歩兵 |
愛称 | 鍵(열쇠) |
上級単位 | 第6軍団 |
戦歴 | 朝鮮戦争 |
第5歩兵師団(だい5ほへいしだん、제5보병사단、第五步兵師團)は大韓民国陸軍の師団の1つ。
歴史
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
1948年4月29日に水色で第5旅団が創設され、1949年5月12日に第5師団に昇格した。1948年5月から駐屯地が光州に移動。
創設当初は第3連隊、第4連隊、第9連隊で編成されていたが、部隊異動によって、1950年6月の時点で第15連隊(連隊長:崔栄喜大領)、第20連隊(連隊長:朴基丙中領)、第1独立大隊、砲兵隊による2個連隊を基幹とする編制となっていた。
朝鮮戦争が勃発するとソウル北方に投入され壊滅。第5師団の兵力は第1師団(師団長:白善燁大領)に吸収された。
1950年10月8日、大邱にて第27連隊、第35連隊、第36連隊で再編成される。第3軍団(軍団長:李亨根准将)に配属され、10月16日から11月22日まで太白山脈南側と嶺南一帯でゲリラ討伐に従事。
1950年12月、中国人民志願軍の南下によって春川北方に投入される。第66軍の攻勢を受けて後退。1951年1月3日、アメリカ軍第10軍団(軍団長:アーモンド少将)に編入[1]。
1951年2月、洪川に向けて進撃中に人民軍第5軍団(軍団長:方虎山中将)の攻勢を受けて後退。提川北側に防御陣地を構築した。中朝軍の2月攻勢を受けて韓国軍第1軍団(軍団長:白善燁少将)に配属され丹陽-豊基間の主補給路の警戒に任じて部隊整備に努めた後、3月3日に再びアメリカ軍第10軍団に配属された[2]。
1951年4月7日、人民軍第12師団が占領していた麟蹄に攻撃を開始した。3日間の戦闘で人民軍の防御拠点となっていた548-664高地を確保し、麟蹄北側の西湖里まで進出した[3]。
1951年5月、中国軍の5月攻勢によって後退。
1951年8月18日、第36連隊(連隊長:黄燁大領)が983-940-773高地群を攻撃[4]。
1951年9月4日、1211高地の戦闘が開始[5]。
1951年10月21日、作戦地域を第3師団に引き継がせた後、襄陽郡に移動して部隊整備と教育訓練を開始[1]。
1952年1月11日、教育修了後、第11師団と交代して第1軍団(軍団長:李亨根少将)に配属[1][6]。
1952年7月10日から11月10日まで351高地の戦闘を展開[7]。人民軍第9師団(師団長:石鍾九少将)を撃退して351高地を確保した。同年11月9日、大隊規模の攻撃を受けて351高地を失陥するが、すぐに反撃して再奪還した[8]。
1953年12月11日から1954年5月25日まで智異山でゲリラ討伐を実施[9]。
師団長
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
代 | 氏名 | 在任期間 | 出身校・期 | 前職 | 後職 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
漢字/片仮名表記 | 原語表記 | ||||||
1 | 金相謙 | 김상겸 | 1948.4.29 - 10.19 | 警士3期 | 麗水・順天事件で解任 | ||
代 | 金白一 | 김백일 | 1948.10.23 - 1949.1.15 | 奉天5期 軍英1期 |
特別部隊司令官 | 第6旅団長 | 代理 |
2 | 元容徳 | 원용덕 | 1949.1.15 - 8 | 興安軍校軍医処 | 第2旅団長 | 陸本行政参謀副長 | |
3 | 宋虎聲 | 송호성 | 1949.5.12 - | 邯鄲軍事講習所 警士2期 |
|||
4 | 白善燁 | 백선엽 | 1949.7.30 - 1950.4.22 | 奉天9期 | 第1師団長 | ||
5 | 李應俊 | 이응준 | 1950.4.22 - | 日本陸士26期 軍英1期 |
水原地区防衛司令官 | ||
6 | 李炯錫 | 이형석 | 1950.7.5[10] - 9 | 日本陸士45期 | 陸軍歩兵学校教務官 | 陸軍綜合学校戦術課長 | |
7 | 閔耭植 | 민기식 | 1950.10.8[10] - 1951.11.7 | 建国大学 軍英1期 |
京仁地区戒厳司令部副司令官 | 陸軍大学副総長 | 准将 |
代 | 林富澤 | 임부택 | 1950.10.8[10] - 1952.1.31 | 警士1期 | 副師団長 | 副師団長 | 大領 |
8 | 張昌国 | 장창국 | 1952.1.31[10] - 8.1 | 士候59期 | |||
9 | 金鍾甲 | 김종감 | 1952.8.1[11] - | 日本予備士 軍英1期 |
|||
10 | 崔泓熙 | 최홍희 | 1953.5.1[12][13] | 軍英1期 | 第1軍団副軍団長 | ||
11 | 金鍾甲 | 김종감 | 1953.6.15[14] | 日本予備士 軍英1期 |
|||
12 | 朴炳権 | 박병권 | 1953.6.29[14][15] - 1953.7.16 | 軍英1期 | 第9師団長 | 米留学準備中だった金鍾甲が呼び戻されたため、しばらく師団長は2人であった[16]。 | |
13 | 張都暎 | 장도영 | 1953.7.16[17][18] - 1953.8.2 | 軍英1期 | 第8師団長 | 第2軍団長 | |
14 | 朴炳権 | 박병권 | 1953.8.2[19] - 1954.3.7 | 軍英1期 | 陸士校長 | ||
15 | 金鍾甲 | 김종감 | 1954.3.7 - 1955.7.1 | 日本予備士 軍英1期 |
|||
16 | 朴正煕 | 박정희 | 1955.7.1 - 1956.7.10 | 同徳台2期 日本陸士57期 警士2期 |
教育総本部砲兵監 | 陸大入学 | |
17 | 黄燁 | 황엽 | 1956.7[20] | 警士1期 | 陸本兵器監 | 連参本部第1部長 | |
18 | 朴春植 | 박춘식 | 1959.6.2[21] - 1959.7[22] | 陸軍訓練学校7期 警士5期 |
第37師団長 | 第12師団長 | 准将 |
19 | 李龍 | 이용 | 1959.7[22] - 1960.4 | 陸軍訓練学校7期 警士5期 |
第12師団長 | 第6師団長 | 准将 |
20 | 蔡命新 | 채명신 | 1960.4 - 1961.5 | 警士5期 | 第38師団長 | 軍事革命委員会委員 | |
李圭学 | 이규학 | 1963 - 1965? | 警士2期 | 第2軍参謀長 | 陸本管理参謀部次長 | ||
鄭柄宙 | 정병주 | 1971 - | 陸士9期 | 大統領警護室次長 | |||
28 | 金復東 | 김복동 | 1977.2-1979.1 | 陸士11期 | 第3軍作戦参謀 | 第3軍参謀長 | |
29 | 李範天 | 김복동 | 1979.1 - 1980 | 陸士11期 | 60連隊長 | ||
30 | 鄭鎬根 | 정호근 | 1980 - 1983 | 甲種5期 | 国防部軍特命検閲団第1部長 | 第7軍団長 | |
32 | 申佑湜 | 신우식 | ? - 1984 | 陸士14期 | 第7空輸旅団長 | 教育司令部副司令官 | ハナフェ |
33 | 申末業 | 신말업 | 1984 - 1987 | 陸士16期 | 第2軍団長 | ハナフェ | |
李釋馥[23] | 이석복 | 1990.7[24] - 1993 | 陸士21期 | 韓米連合司令部副参謀長 | |||
李將欽[25] | 이장흠 | -1997? | 甲種202期[26] | 陸軍本部戦闘情報部長[27] | 国防部情報部長 | ||
40 | 安秉漢[28] | 안병한 | 1999? | 陸士27期 | 合参本部作戦企画部長 | ||
45 | 権赫舜 | 권혁순 | 2007.5.2[29] - 2009.4 | 陸士34期 | 第2軍作戦処長 | 合参本部軍事支援本部長 | |
46 | 朴三得 | 박삼득 | 2009.4 - 2011.5 | 陸士36期 | 陸本情報作戦参謀部作戦処長 | 陸軍本部改革室長 | |
47 | チェ・ビョンロ | 최병로 | 2011.5 - | 陸士38期 | 第3軍作戦処長 | 第2軍参謀長 | |
48 | ジュ・チャンファン | 주창환 | - 2014.4.14[30] | 陸士40期 | 連合司令部作戦参謀部処長 | ||
49 | チョン・ジンギョン | 정진경 | 2014.4.14 - 2017.9 | 陸士42期 | 国防部人事企画管理課長[31] | ||
50 | チョン・ユグァン | 전유광 | 2017.9 - 2019.5 | 陸士44期 | 合同参謀本部情報融合室長 | 777司令官 | |
51 | 李商哲 | 이상철 | 2019.5 - 2021.10 | 学軍28期 | 第2軍作戦処長 | 軍事安全保障司令官 |
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 国防部戦史編纂委員会 1986, p. 287.
- ^ 軍史研究所 2004, p. 80.
- ^ 軍史研究所 2004, p. 108.
- ^ 軍史研究所 2007, p. 132.
- ^ 軍史研究所 2007, p. 344.
- ^ 軍史研究所 2010, p. 92.
- ^ 軍史研究所 2010, p. 334.
- ^ 軍史研究所 2010, p. 96.
- ^ 白善燁『対ゲリラ戦』原書房、1993年、249頁。
- ^ a b c d 박동찬 2014, p. 107.
- ^ “6・25戦争史 第10巻” (PDF) (韓国語). 国防部軍事編纂研究所. pp. 362. 2016年9月6日閲覧。
- ^ 韓国国防軍史研究所 編著 著、翻訳・編集委員会 訳『韓国戦争第6巻 休戦』かや書房、2010年、189頁。
- ^ 国防部 1976, p. 246.
- ^ a b 国防部軍史編纂研究所 2013, p. 208.
- ^ 白善燁『対ゲリラ戦』原書房、1993年、247頁。
- ^ “(396)피어린 산과 언덕(20)” (朝鮮語). 中央日報. (1972年11月21日) 2018年7月12日閲覧。
- ^ 韓国国防軍史研究所 編著 著、翻訳・編集委員会 訳『韓国戦争第6巻 休戦』かや書房、2010年、248頁。
- ^ 国防部 1976, p. 417.
- ^ 歴代5師団長たち...故朴正煕大統領
- ^ 世界政経調査会 編『韓国・北朝鮮人名辞典』世界政経調査会、1966年6月20日、69頁。NDLJP:2973356/39。
- ^ “將星級 15名 異動” (朝鮮語). 부산일보. (1959年6月2日) 2019年10月24日閲覧。
- ^ a b “政府人事” (朝鮮語). 부산일보. (1959年7月8日) 2019年10月24日閲覧。
- ^ “軍停委首席代表 車基文少将 任命(軍停委 수석대표 차기문소장 임명)”. 中央日報. (1996年7月30日) 2020年1月3日閲覧。
- ^ “(法向を伝える隣人) - 国防総省信徒会長 李釋馥将軍((법향을 전하는 이웃들)-국방부신도회장 이석복 장군)”. 仏教新聞. (1996年8月13日) 2020年1月3日閲覧。
- ^ “軍人事、三士出身初の師団長輩出関心(軍인사, 3사출신 첫 사단장 배출 관심)”. 東亜日報. (1999年3月22日) 2021年9月5日閲覧。
- ^ “【来月軍人事】海軍総長後任「嶺湖南対決」(【내달 군인사】 해군총장 후임 '영호남 대결' )”. 韓国日報. (1999年3月24日) 2021年9月5日閲覧。
- ^ “李將欽 ユン・ソクジョン同門「誇らしい忠高人賞」受賞(이장흠·윤석종 동문 ‘자랑스런 충고인상’ 수상)”. 忠州新聞. (2018年1月26日) 2021年9月5日閲覧。
- ^ “金大統領、水害現場を訪問(김대통령, 수해현장 방문)”. 大韓民国政策ブリーフィング. (1999年8月5日) 2021年9月5日閲覧。
- ^ “年末前方部隊(5師団)慰問イベント結果案内” (韓国語). 仏教フォーカス. 2021年9月5日閲覧。
- ^ “キム・ギュソン漣川郡守14日動静 (김규선 연천군수 14일 동정)”. ウイヤン新聞. (2014年4月14日) 2017年8月20日閲覧。
- ^ “輝く忠清北道「星のふるさと」... 地域出身11人の将星進級慶事 (빛나는 충북 ‘별들의 고향’ … 지역출신 11명 장성진급 경사)”. 忠清トゥデイ. (2012年11月1日) 2020年1月3日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国篇 上 (建軍と戦争の勃発前まで)』原書房、1976年3月10日。NDLJP:12172188。
- 韓国国防軍史研究所 編著 著、翻訳・編集委員会 訳『韓国戦争 第4巻 国連軍の再反攻と共産軍の春季攻勢』かや書房、2004年。ISBN 4-906124-58-5。
- 韓国国防軍史研究所 編著 著、翻訳・編集委員会 訳『韓国戦争 第5巻 休戦会談の開催と陣地戦への移行』かや書房、2007年。ISBN 978-4-906124-64-0。
- 韓国国防軍史研究所 編著 著、翻訳・編集委員会 訳『韓国戦争 第6巻 休戦』かや書房、2010年。ISBN 978-4-906124-69-5。
- “韓國戰爭史第9巻 對陣末期(1953.1.1~1953.7.27)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2020年2月3日閲覧。
- “韓國戰爭要約” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2020年9月26日閲覧。
- “6·25戦争史 第11巻-고지쟁탈전과 정전협정 체결” (PDF) (韓国語). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2020年2月24日閲覧。
- 박동찬 (2014) (PDF). 통계로 본 6·25전쟁. 국방부 군사편찬연구소. ISBN 979-11-5598-010-1