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鈴木鶴雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鈴木 鶴雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県
生年月日 1915年4月1日
没年月日 没年不明
身長
体重
170 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手一塁手外野手
プロ入り 1937年
初出場 1937年
最終出場 1939年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

鈴木 鶴雄(すずき つるお、1915年4月1日 - 没年不明)は、和歌山県[1]出身のプロ野球選手。ポジションは投手一塁手外野手。旧姓は田上[1]

来歴・人物

[編集]

耐久中学卒業後、関西大学に進学。当時の関大は、創立した(1931年)ばかりの関西六大学リーグのみならず、大学日本一の座に就く(1932年)など、強豪として知られていた[2]。鈴木も、北井正雄(のち阪急)、西村幸生(のち阪神)、黒沢俊夫(のち巨人など)、西村正夫(のち阪急)らと共に関大野球部の黄金期を支えた。関大卒業後、台湾総督府に就職し、台南州嘉義に赴任。嘉義の現地チームでプレーしていた[1]

1937年3月26日名古屋金鯱軍に入団[3]。入団の経緯には、金鯱軍のスカウトが、捕手広田修三大阪タイガースに譲渡する代わりに、鈴木の入団交渉をタイガース側に要請したという裏話が伝わっている[4]。低目に重い速球を投げ込むスタイルで、金鯱の主戦投手になった。1937年秋季シーズンでは、8月29日ライオン戦(西宮球場)で開幕投手を務め、9勝7敗、防御率2.43(7位[5])の好成績をマークし、第1回東西野球対抗大会のメンバー(西軍)にも選出された[6]1938年春季シーズンにも、4月29日名古屋軍後楽園球場)で開幕投手を務めるが、既に入団時に痛めていた肩の状態が悪化[7]7月16日イーグルス戦(後楽園球場)を最後に応召され、翌1939年6月15日のイーグルス戦(後楽園球場)で復帰する[8]も、同年末に引退した。異常にインターバルの短い投手で、捕手からの返球を受けると同時に振りかぶっていたとも伝わっている[7]

プロ野球引退後は、大同製鋼野球部に所属。1942年の都市対抗野球大会ではエースとしてチームの準優勝に貢献した。戦後は、母校の関大野球部の監督を務めた。

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1937 金鯱 20 16 3 2 0 4 7 -- -- .364 519 116.0 109 2 54 -- 1 30 1 0 68 47 3.65 1.41
1937 23 18 10 1 0 9 7 -- -- .563 657 152.0 143 2 67 -- 4 47 3 0 58 41 2.43 1.38
1938 13 8 2 0 0 1 6 -- -- .143 281 56.1 69 5 36 -- 1 23 2 0 53 35 5.53 1.86
1939 11 3 1 0 0 2 3 -- -- .400 170 38.2 45 3 14 -- 1 12 1 0 23 20 4.62 1.53
通算:3年 67 45 16 3 0 16 23 -- -- .410 1627 363.0 366 12 171 -- 7 112 7 0 202 143 3.55 1.48
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1937 金鯱 20 46 40 3 6 0 1 0 8 5 0 -- 3 -- 3 -- 0 7 -- .150 .209 .200 .409
1937 27 74 70 8 20 5 2 1 32 13 0 -- 1 -- 3 -- 0 9 -- .286 .357 .415 .772
1938 23 40 37 1 4 0 0 0 4 5 0 -- 1 -- 2 -- 0 9 -- .108 .154 .108 .262
1939 11 15 14 0 2 0 0 0 2 1 0 -- 0 0 1 -- 0 4 -- .143 .200 .143 .343
通算:3年 81 175 161 12 32 5 3 1 46 24 0 -- 5 0 9 -- 0 29 -- .199 .241 .286 .527

背番号

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  • 18 (1937年 - 1938年春、1939年)

脚注

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外部リンク

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関連項目

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