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阿部勉 (民族主義者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿部 勉(あべ つとむ、1946年(昭和21年)8月30日 - 1999年(平成11年)10月11日 [1])は、日本政治活動家民族主義者。三島由紀夫が結成した「楯の会」の1期生で第5班(のち10班の憲法研究班)班長[2][3][4]一水会結成参加メンバー。古本店「閑人舎」代表[1]。結婚後に姓が変わり、毛塚勉[5][1]

経歴

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1946年(昭和21年)8月30日、秋田県仙北郡雲沢村(現・仙北市)で誕生[6]。10歳の時に両親が離婚し、父親と別れて暮らすようになった[1]秋田県立角館高等学校を経て、1965年(昭和40年)4月、早稲田大学法学部に入学[6]

この年の暮頃から早大紛争が激化し、学園内で全学連全共闘機動隊の攻防が常態化する中、紛争収拾・学園正常化に向け、1966年(昭和41年)2月に「早稲田大学学生有志会議」(有志会)が結成され、「早稲田大学学生連盟」(早学連)に発展していった[6]。そして、この運動を全国の大学に拡大して行こうという機運の元、11月14日に保守民族派系の学生組織「日本学生同盟」(日学同)が結成された[7][6]。日学同結成のメンバーには、矢野潤、宮崎正弘、斉藤英俊、森田必勝持丸博、山本之聞、伊藤好雄、大石晃嗣、宮沢徹甫などがいた[7]。この日学同から誕生した「早大国防部」に阿部勉は入会し、早稲田町の日学同本部事務所に住みついた[6]

そして森田らと共に三島由紀夫の引率する北海道の自衛隊北恵庭駐屯地での体験入隊を行なった[7][8][9][6](詳細は、楯の会森田必勝を参照)。その後、日学同を除籍後、1968年(昭和43年)に「尚史会」を結成。三島由紀夫の祖国防衛隊(楯の会の前身)第一期のメンバーとなった阿部は、三島や持丸博らと「論争ジャーナル」事務所で血盟状をかわした[10][5][6]

1970年(昭和45年)6月に、当時サンケイ新聞で働いていた元早大の鈴木邦男と渋谷でばったり再会し、鈴木が一時的に阿部のアパートに居候していたこともあった[11]。その後、11月25日の三島事件によって楯の会解散の後、1971年(昭和46年)に新宿のいきつけのバーでフリーライター(日本映画評などの)毛塚安江と知り合い、妊娠5か月の安江と1973年(昭和48年)に正式に結婚した[11]

三島事件後、鈴木邦男、犬塚博英、伊藤邦典、田原康邦らと月1回集まっていたことから、1972年(昭和47年)には「一水会」(毎月第1水曜日に例会を持とうという意味で)を結成した(代表世話人は鈴木)[11]。阿部は雑誌『土やま心』の編集長を務め、1980年(昭和55年)には、「楯の会事件十周年記念号」を企画した1972年(昭和47年)。また、阿部の運動上の、そして個人的な後輩が、日本学生会議の編集局長で、青年民族派である牛嶋徳太朗である[11]

ポルノ俳優前野光保による児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件に際しては「追悼 前野光保君」を一水会機関誌『レコンキスタ』第8号(1976年4月1日号)に書き、「たかがポルノ俳優が右翼の真似をしやがってというなら、逆に右翼がポルノ俳優の真似をしてやろう」との理由で東活ポルノ映画『異常性変態』(監督・野上正義)に主演した[11]。妻・安江との間に3人の子供(孝人、葉、新)をもうけていたが、1983年(昭和58年)に離婚が成立[12]。その後、千鶴子という女性と6年間ほど同棲した[12]

1992年(平成4年)、「風の会」の野村秋介から、参院選出馬に際しては立候補を要請されたが、これを固辞し東京選対本部で裏方として活動[13]。翌年の野村の自殺後、追悼祭を「群青忌」と命名したのは阿部だった[13]

1995年(平成7年)12月に結党された維新政党・新風の初代本部党紀委員長を務めた[13][14]1996年(平成8年)8月に友人と共同で高田馬場に古書店「閑人舎」、ギャラリー「ケルビーム」を開設した[13]1999年(平成11年)4月、インターネット右翼団体「鐵扇會」創立に際し後見人となる。同年10月11日に、膵臓癌のため、慶應義塾大学病院で死去[13][1]

脚注

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  1. ^ a b c d e 「序章」山平 2004, pp. 5–8
  2. ^ 「第一章 曙」(火群 2005, pp. 9–80)
  3. ^ 「第二章 楯の会第五期生」(村田 2015, pp. 71–126)
  4. ^ 「調査要員行動要領」(昭和44年5月)。36巻 2003, pp. 669–670
  5. ^ a b 「第四章 取り残された者たち」(村田 2015, pp. 161–222)
  6. ^ a b c d e f g 「迷い子は哀しからずやけふもまた…」山平 2004, pp. 9–80
  7. ^ a b c 「第一章 名物学生」(彰彦 2015, pp. 9–70)
  8. ^ 「日誌二」(必勝 2002, pp. 89–142)
  9. ^ 「第一章 ナンパ系全学連が楯の会へ」(村田 2015, pp. 11–70)
  10. ^ 「第二章 予兆」(火群 2005, pp. 81–102)
  11. ^ a b c d e 「薄き日陽に舞いて墜ち来る」山平 2004, pp. 81–148
  12. ^ a b 「百万の桜の下に酔い臥して」山平 2004, pp. 149–232
  13. ^ a b c d e 「その笛の音は虚無の使者かは」山平 2004, pp. 233–335
  14. ^ [1]

参考文献

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  • 鈴木亜繪美、監修・田村司『火群のゆくへ――元楯の会会員たちの心の軌跡』柏艪舎、2005年11月。ISBN 978-4434070662 
  • 中村彰彦『三島事件 もう一人の主役――烈士と呼ばれた森田必勝』ワック、2015年11月。ISBN 978-4898317297  - 初刊版は『烈士と呼ばれる男――森田必勝の物語』(文藝春秋、2000年5月、文春文庫で再刊、2003年6月)ISBN 978-4163562605ISBN 978-4167567071
  • 村田春樹『三島由紀夫が生きた時代――楯の会と森田必勝』青林堂、2015年10月。ISBN 978-4792605322 
  • 森田必勝『わが思想と行動――遺稿集』(新装)日新報道、2002年11月。ISBN 978-4817405289  - 初刊版は1971年 NCID BA51175945
  • 山平重樹『最後の浪人阿部勉伝――酒抱きてけふも堕ちなん』ジェイズ・恵文社、2004年3月。ISBN 978-4905848509 
  • 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集36巻 評論11』新潮社、2003年11月。ISBN 978-4106425769 
  • 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集38巻 書簡』新潮社、2004年3月。ISBN 978-4106425783 
  • 佐藤秀明; 井上隆史; 山中剛史 編『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』新潮社、2005年8月。ISBN 978-4106425820