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難波恭司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
難波 恭司
グランプリでの経歴
国籍 日本の旗 日本
チーム ヤマハ
レース数 11
通算獲得ポイント 33
初グランプリ 1988年 250cc 日本GP
最終グランプリ 1998年 500cc ドイツGP
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難波 恭司 (なんば きょうじ、: Kyoji Nanba1963年3月8日 - ) は、広島県出身の元モーターサイクル・ロードレーサーヤマハのワークスレーサーとして全日本ロードレース選手権に参戦しながら、同社のオートバイ車体開発をテストライダーとして手掛けた。静岡県浜松市在住。

経歴

[編集]

1984年の全日本ロードレース選手権・ノービス125ccクラスにプライベーターとして参戦、9月の鈴鹿大会で5位に入賞する。1985年7月、ノービスレーサーの祭典であり総勢500台以上の参加者がいた鈴鹿4時間耐久レースにヤマハ・FZ400で参戦し、決勝レースで3位表彰台を獲得する[1]

1986年より国際A級ライセンスへと昇格し、ヤマハの市販レーサーTZ250で国際A級250ccクラスに参戦。この年は参戦台数が多く毎戦70-80台前後が予選に参加していたが、その中で純プライベーターながら決勝レース3度のポイント獲得(決勝15位以内)を果たす。1987年に名古屋を拠点とするヤマハ系有力チームYDS岡部に入ると、特に予選ではトップ10入りの常連となり速さが認知された。同じチームより参戦することになった本間利彦と共にTZ250でホンダ・ヤマハのワークスマシンに食い込む存在として最激戦区・250ccクラスの上位を走り始める。5月の第4戦筑波ではファイナルラップまで本間と激しい3-4位争いを繰り広げるなどA級トップライダーの仲間入りをした[2]。同年は4位を2回獲得しランキング8位となった。

ヤマハ・TZ250(1988年)

1987年シーズン後半、ヤマハはこれまでTZ開発に携わってきた奥村裕、田村圭二に加えて難波も市販レーサーTZ250の開発要員として次期モデルにつながる試作パーツを先行供給し、毎年春に鈴鹿で開催されるようになったWGP開幕戦にノーマルのTZとは各部違う仕様の車体でワイルドカード参戦するなど、実戦に参戦しながらのマシン開発を担当するようになった。以後、全日本選手権にヤマハの250ccクラス主力として参戦を続け、エンジン形式に大きく変更を受けたTZMを開発。その中で1992年第8戦富士ではトラブルでリタイヤした原田哲也、転倒を喫した岡田忠之のチャンピオン争い中の2人が消えた好機を逃さず、青木宣篤青木拓磨を破りA級初優勝を勝ち取った。

1995年の全日本選手権250ccでは、開幕から全戦で上位に入賞し最終戦までシリーズチャンピオン獲得の可能性を残していた。迎えた最終戦・鈴鹿ではスズキ250のエース沼田憲保ホンダ加藤大治郎宇川徹とのタイトルを賭けた争いとなった。しかし決勝レースではスタートを決められず中団に飲み込まれてしまい、追い上げ最中でスリップダウンを喫する痛恨の展開となりタイトルには届かなかったが、ランキング3位を獲得した(最終ランクは1位沼田/138p、2位宇川/132p、3位難波/129p、4位宮崎敦/120p、5位加藤/109p)。

1996年から250だけでなくYZR500のマシン開発も担い[3]、同年のTBCビッグロードレースで500ccクラスの実戦に初参戦。同時期には、日本におけるTV放映権を取得したNHK BSのWGP中継解説者として出演する。

1998年、ロードレース世界選手権500cc(現MotoGP)でヤマハワークスのレギュラー契約だったジャン・ミッシェル・バイルの負傷欠場が長引いたため、その代役として計5戦に参戦。鈴鹿での日本GPではマックス・ビアッジに次ぐ予選2位(ヤマハ勢最上位)のタイムを出し、決勝でも5位を記録した。

その後実戦の機会はしばらく無かったが、プライベーターとして2007年の十勝4時間耐久レース祭ヤマハ・YZF-R1で久々となるレース復帰、同年10月26-27日の富士サタデーロードレース・JSB1000クラスでは予選ポールポジション獲得、決勝2位と変わらぬ腕を披露した[4]。2010年・2011年にもプライベーターとして鈴鹿8時間耐久レースに参戦。

アドバイザーとして2010年代以後もヤマハワークスのレース活動を支え続け、MotoGPが開催される会場のもてぎで設置されるヤマハ・イベントブースでのトークイベント出演をはじめ、実戦でも鈴鹿8時間耐久レースに参戦するヤマハ系チームへのサポートや[5]、全日本選手権に野左根航汰を起用し参戦するYAMALUBE RACING TEAMを監督としてマネージメント。また、ヤマハ主催の「ヤマハ・レーシングアカデミー(YRA)」では、サーキット初心者からレース経験者まで参加するスクールで校長の平忠彦の元、阿部典史中須賀克行とともに講師・インストラクターとしてオートバイの普及・振興活動に注力した[6]

人物

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サーキットでのロードレースだけでなく、オフロードやトライアルなどオートバイ競技全般に造詣が深い。オフロードでのサスペンションの動きや荷重の抜き方・掛け方、タイヤのグリップコントロールなどを感じ取る感性はロードレーサーの開発にも活かされた[7]。サーキット走行時のウェアは1986年からクシタニ製を愛用しており、35年以上のヘビーユーザーである。レース実戦やあらゆる気象条件下で行われるマシンテストでの使用感など、難波からもたらされたフィードバックがクシタニ製品のライディングギア商品開発の参考にされた[8]

1993年にWGP250で世界タイトルを獲得した原田哲也がヤマハ250のエースとして参戦していた時代、難波が裏方としてテストを重ねヤマハ・TZMの開発をしていたが、原田は当時を述懐し、「開発ライダーは実戦ライダーと同等の速さが無いと良いマシンが出来ないもので、出来れば0.5秒以内のラップタイムで長く走れるようなライダーが開発面で望ましいと思います。これは難しい条件ではありますが、1秒以上ラップタイムが違ってしまうとマシンの挙動も違ったものになってしまい、例えばハンドリングでもエンジンの出力特性でも僕がマシンに要求していることを話したとしても、それを深いレベルで理解してもらえないからです。僕のヤマハ時代は、マシンを造ってくれていた難波さんが袋井のテストコースで僕より速いんですよ(笑)。しかも、GPに行く前から僕の走り方やマシンの好みを熟知してるので、哲也ならこういうマシンが欲しいだろうというコンセプトでマシンづくりをしてもらえてました。安心してレースすることができる環境にしてもらい、ライダーの先輩として尊敬してます。」と2020年の取材で難波への感謝を述べている[9]

レースから離れているときはおやじギャグやダジャレの小ネタが会話の中に織り交ぜられるとヤマハでの14才後輩・中野真矢が証言しているが、同時に「チーム全体が良く見えていて、スタート前にヘルメットの中の僕の顔をみてピリピリしすぎていると感じたのか、過緊張を解く呼吸法をスターティンググリッドまで教えに来てくれました。それが非常に効果的で落ち着くことが出来ましたし、細部まで見てくれている先輩だと思いました。」とリスペクトを感じたエピソードを述べた。これを聞いた難波は「そのころ(1997年)は開発テストですごく忙しかったし、何の用事で全日本の現場に行ったのかも覚えてない(笑)」と返答している[3]

2003年4月にMotoGP鈴鹿で発生した事故によりホンダの加藤大治郎が死去した際、公正中立の立場で第三者機関の事故調査委員会が設置された。2輪レーサー代表として難波がこの調査委員会に参加し、発生原因の客観的かつ多角的な分析に協力し、事故の再発防止のために尽力した。

レース戦歴

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全日本ロードレース選手権

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チーム マシン 区分 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1984年 HIROSHIMAウィリーキッズ ホンダ・RS125 ノービス 125cc TSU SUG SUZ
TSU
SUG
SUZ
TSU
SUG
SUZ
5
TSU
35位 14
1986年 ヤマハ・TZ250 国際A級 250cc TSU
C
SUG
SUZ
14
TSU
13
SUG
TSU
12
TSU
SUG
SUZ
28位 9
1987年 Team YDS TSU
13
SUZ
13
TSU
4
SUG
Ret
SUZ
7
TSU
6
SUG
4
TSU
Ret
SUG
Ret
SUZ
13
TSU
5
8位 68
1988年 SUZ
Ret
TSU
4
NIS
2
TSU
8
SUZ
TSU
SUG
SEN
10
SUG
3
SUZ
6
SUG
8
TSU
4
4位 93
1989年 TSU
2
SUZ
Ret
NIS
15
SUG
3
TSU
9
SUZ
10
SUZ
8
SUG
Ret
SUZ
6
SEN
3
SUG
4
TSU
Ret
5位 92
1990年 Y.R.T.R
(YAMAHA Racing Team Roadrace)
TSU
Ret
NIS
14
SUG
8
TSU
Ret
SUZ
9
TSU
14
SUG
11
FSW
9
SUZ
10
SEN
SUG
10
TSU
11位 43
1991年 Team YDS TSU
5
SUG
6
TSU
SUZ
5
TSU
15
FSW
3
SUG
5
SUZ
2
SEN
2
SUG
TSU
6位 93
1992年 Y.R.T.R MIN
C
TSU
3
SUG
11
SUZ
7
TSU
Ret
SUZ
5
SUG
7
FSW
1
SUZ
8
SEN
Ret
SUG
9
TSU
6
7位 92
1993年 ヤマハ・TZ250M SUZ
1
MIN
4
SUG
3
TSU
Ret
SEN
C
SUZ
3
SUG
Ret
FSW
4
SUZ
6
TSU
3
SUG
6
TSU
4
3位 125
1994年 ヤマハ・TZ250 SUZ
5
MIN
5
SUG
4
TSU
Ret
FSW
9
SUZ
9
SUG
9
SUZ
Ret
TIA
5
SUG
8
TSU
7
8位 87
1995年 SUG
5
TSU
2
FSW
6
SUZ
3
SUG
4
MIN
5
SUZ
3
TIA
2
SUG
2
SUZ
3位 129

ロードレース世界選手権

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クラス 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 順位 ポイント
1988年 250cc ヤマハ・TZ JPN
12
USA ESP EXP NAC GER AUT HOL BEL YUG FRA GBR SWE CZE BRA 39位 4
1989年 ヤマハ・TZ JPN
22
AUS USA ESP NAC GER AUT YUG HOL BEL FRA GBR SWE CZE BRA NC 0
1990年 ヤマハ・TZ JPN
Ret
USA ESP NAC GER AUT YUG HOL BEL FRA GBR SWE CZE HUN AUS NC 0
1991年 ヤマハ・TZ JPN
12
AUS USA ESP ITA GER AUT EUR HOL FRA GBR SMA CZE LMA MAL 30位 4
1992年 ヤマハ・TZ JPN
8
AUS MAL ESP ITA EUR GER HOL HUN FRA GBR BRA SAF 20位 3
1996年 ヤマハ・TZM MAL INA JPN
17
ESP ITA FRA NED GER GBR AUT CZE IMO CAT RIO AUS NC 0
1998年 500cc ヤマハ・YZR JPN
5
MAL
Ret
SPA
16
ITA
12
FRA MAD NED GBR GER
9
CZE IMO CAT AUS ARG 18位 22

鈴鹿8時間耐久ロードレース

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車番 ペアライダー チーム マシン 予選順位 決勝順位 周回数
2010年 70 我孫子勝利
北島大和
HOKKAIDO SABEDER ヤマハ・YZF-R1 33 Ret 55
2011年 70 我孫子勝利
北島大和
HOKKAIDO SABEDER ヤマハ・YZF-R1 36 41位 190

脚注

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  1. ^ ノービスの祭典4耐特集・終盤30分で上位の明暗が大きく分かれる サイクルワールド別冊 鈴鹿8時間耐久・4時間耐久レース特集号 48-50頁 CBSソニー出版 1985年9月10日発行
  2. ^ YDSの歴史 TEAM YDS 2011年
  3. ^ a b 本音で語る Talking Grid 元ヤマハ・ファクトリーライダー難波恭司さん ライダースクラブ 2021年9月24日
  4. ^ JSB1000正式順位結果表 富士スピードウェイ 2007年10月27日
  5. ^ ピット内の職人たち「チームが力を発揮できる環境を作る」難波恭司 ヤマハ 鈴鹿8耐スペシャルサイト 2013年
  6. ^ サーキットを爽快に走るライディングスクール・YRAヤマハライディングスクール開催日程 ヤマハ発動機 2007年4月6日
  7. ^ 難波さんとトレーニング G Sense 2012年2月21日
  8. ^ KUSHITANIインタビュー 難波恭司 KUSHITANIパフォーマンスチャンネル 2011年9月30日
  9. ^ ロレンソがテストライダーとして成功するには・難波恭司さんにテストライダーとして絶大な信頼を寄せ、またレーシングライダーの先輩として現在も尊敬しているという原田さん ヤングマシン 内外出版社 2020年2月1日