飯山茂
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飯山 茂 | |
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生誕 |
1923年10月11日 日本 鹿児島県 |
死没 |
2004年11月12日(81歳没) 日本 神奈川県 |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 警察予備隊 保安隊 陸上自衛隊 |
軍歴 |
1944 - 1945(日本陸軍) 1951 - 1952(予備隊) 1952 - 1954(保安隊) 1954 - 1980(陸自) |
最終階級 |
陸軍中尉(日本陸軍) 陸将(陸自) |
飯山 茂(いいやま しげる、1923年(大正12年)10月11日 - 2004年(平成16年)11月12日)は、日本の元陸軍軍人及び陸上自衛官。第15代東部方面総監。
人物
[編集]鹿児島県出身[1]。情報畑の人物であり、在ソ連日本国大使館(モスクワ)付防衛駐在官時には喫茶店の窓から列車の動きを監視し、ただならぬ荷物(戦車であった)を載せた列車が走っていくのを見てソ連のチェコ侵攻を予測し、いち早く日本に打電したという逸話が残っている。
宮永スパイ事件の責任を取って辞職した永野茂門陸上幕僚長の後任には、東部方面総監であった飯山茂も候補の一人であったといわれるが、飯山の陸幕2部長時代の部下が宮永に機密を漏洩した人物であったことから陸幕長への道を閉ざされ、永野の辞任後の7月に退官した。
経歴
[編集]- 1942年(昭和17年)7月:陸軍士官学校に入校。
- 1944年(昭和19年)4月:陸軍士官学校(57期)を卒業し、陸軍少尉に任官。
- 1945年(昭和20年)8月:終戦。最終階級は陸軍中尉、肩書は陸軍予科士官学校生徒隊第26中隊区隊長であった。
- 1951年(昭和26年)12月:警察予備隊に入隊(1等警察士)。
- 1966年(昭和41年)
- 7月1日:1等陸佐に昇任。
- 9月:在ソビエト日本大使館付防衛駐在官
- 1970年(昭和45年)1月1日:防衛研修所所員[2]。
- 1971年(昭和46年)3月16日:第41普通科連隊長兼別府駐とん地司令[3]。
- 1973年(昭和48年)3月16日:陸将補に昇任、西部方面総監部幕僚副長[4]。
- 1974年(昭和49年)7月1日:陸上幕僚監部第2部長(のちの調査部、現運用支援・情報部長)[5]。
- 1976年(昭和51年)7月1日:陸将に昇任、第8師団長に就任[6]。
- 1978年(昭和53年)7月28日:第15代 東部方面総監に就任[7]。
- 1980年(昭和55年)7月1日:退官[8]。
- 1993年(平成 5年)11月3日:勲三等旭日中綬章受章[9]。
- 2004年(平成16年)11月12日:前立腺がんのため神奈川県厚木市の病院にて死去(81歳)[1]。叙・正四位[10]。
脚注
[編集]- ^ a b “飯山茂氏死去 元陸上自衛隊東部方面総監”. 47NEWS. (2004年11月13日) 2014年11月24日閲覧。
- ^ 『官報』昭和45年1月6日(本紙 第12913号)人事異動
- ^ 『官報』昭和46年3月17日(本紙 第13269号)人事異動
- ^ 『官報』昭和48年3月19日(本紙 第13868号)人事異動
- ^ 『官報』昭和49年7月2日(本紙 第14251号)人事異動
- ^ 『官報』昭和51年7月2日(本紙 第14845号)人事異動
- ^ 『官報』昭和53年7月29日(本紙 第15462号)人事異動
- ^ 『官報』昭和55年7月3日(本紙 第16034号)人事異動
- ^ 『官報』平成5年11月4日(号外 第189号)叙位・叙勲
- ^ 『官報』平成16年12月17日(本紙 第3998号)叙位・叙勲
参考文献
[編集]- 山崎正男 編集責任、保存版『陸軍士官学校』 秋元書房、昭和44年
- 松村劭 「オペレーショナル・インテリジェンス 意思決定のための作戦情報理論」 日本経済新聞社
関連項目
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