コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

高麗年表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高麗年表(こうらいねんぴょう)では、高麗王朝と周辺国家の出来事を年表にまとめる。

890年 - 999年

[編集]
高麗 中国及び周辺国 高麗王
889年 弓裔 挙兵

894年
寛平六年新羅の賊、肥前・肥後を襲う
901年 開城に国号を高句麗と称し建国(後高句麗)

904年 弓裔 国号を摩震に改める

905年 弓裔、鉄円(江原道鉄原郡)に遷都して国号を泰封とする

916年
北方民族 契丹 成立
918年 王建 弓裔を殺し、高麗建国
太祖
926年 渤海遺民を受け入れ。 北方民族 契丹の遼  渤海を滅ぼす。 契丹皇帝耶律阿保機は長子 耶律突欲を「東丹国」の王とする
935年 新羅を征服

936年 後百済を征服

938年頃
旧渤海(満洲)に烈万華(在位 938頃-979頃)が「定安国」を建国
943年


恵宗
945年
王規(王式廉)の乱
定宗
949年


光宗
956年 奴婢按検法

960年
(建国)
963年 高麗、宋の正朔を奉じる

975年


景宗
976年 田柴科制

979年頃
定安国第2代王、烏玄明(在位 979頃 -989頃)即位
981年


成宗
983年 契丹、高麗を攻める。 遼、統和と改元し、国号を大契丹とする。
985年 契丹、高麗を攻める。

989年頃
安定国第3代王 旧渤海国の王族である大氏が即位「後渤海国」と改名
993年 遼が朝貢を求めて大規模な侵入。 高麗、契丹に使を遣わす。

994年 高麗国王・成宗 契丹に朝貢, 遼の正朔を奉じる

997年
高麗の賊が大挙して侵寇。多数の日本人を虐殺 長徳三年 高麗と「南蛮」の賊が攻め寄せた 穆宗




1000年-1199年

[編集]
高麗 中国及び周辺国 高麗王
1009年 康兆の政変(康兆の乱)。武臣・康兆が王権交代を図るが、後に契丹に殺 される。

1010年 第2次契丹(遼)の侵入『契丹の聖宗(位982~1031)が大軍で侵入』 高麗軍は首都開城を明け渡す。

1011年 高麗の顕宗  講和

1014年
高麗の賊が九州に攻め寄せ、大宰府が討伐する。
1015年 遼の侵略

1016年 北宋から冊封 、朝貢, 北宋の正朔を奉じる

1018年 後渤海国滅亡。 遼を一時撃退。

1019年  第3次契丹(遼)の侵入 刀伊の入寇(50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、 志摩・早良諸郡で殺戮)
1020年 高麗と遼の間に講和、朝貢, 遼の分暦

1022年 契丹の正朔を奉じる。再び契丹に服属

1033年 西北境に長城の築造(-1034年)

1037年 契丹の侵略

1039年 奴婢従母法

1046年 長子相続法

1076年 田柴科制

1097年
異賊船100隻が日本松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士こ れを撃退。
1107年 高麗睿宗 咸興平野の女真を攻撃し、九城を築く

1115年
女真 按出虎水の河畔で「」を建国
1116年
渤海人高永昌(在位 1116)「大渤海」を建国、皇 帝と称するも金に滅ぼさる。
1123年
仁宗
1125年 金、遼(契丹)を滅ぼす。
1126年 李資謙の乱 →李資謙、王毒殺の嫌疑で霊光郡に流される。
高麗国王・仁宗 金に服属高麗は金国の藩となる(西夏藩・高麗藩・斉藩)


1127年
金は宋都開封を陥落させて北宋王朝陥落
1135年 平壌(高麗藩の西京)で妙清の乱
僧の妙清は遷都賛成派、 遷都反対派の金富軾と激しく争う。遷都反対派(開城文臣)の勝利で決着。

1138年 金国 南宋国の臨安(杭州)紹興~明州(寧波)を陥落させる。
1145年 朝鮮史書「三国史記」が完成

1146年
毅宗
1157年 金国 会寧から燕京へ遷都
1170年 重臣の鄭仲夫が反乱を起こし(庚寅の乱)、毅宗を廃し明宗をたてる(武臣政権の始まり)。実権は鄭仲夫慶大升崔忠献らが握る。
毅宗は廃王となり、釜山沖の巨済島に流される。

明宗
1194年

1196年 崔忠献が政権を掌握(武臣一族・李氏を滅ぼす)
1219年に崔忠献は死去するが、1258年まで4代62年の長きにわたって続く
1197年 崔忠献 明宗を廃位 神宗を王位につける 神宗
1198年 開城、私奴の万積らの反乱
溟州(江陵)、東京(慶州)、陜州等各地で反乱

1200年-1299年

[編集]
高麗 中国及び周辺国 高麗王
1206年
テムジンがモンゴルを統一
1213年

高宗
1218年 モンゴル帝国と同盟

1219年
チンギス・カン、ジャラ(札剌)、カチン(何称)両名を一軍とともに派遣し、高麗、モンゴル軍と協力して、契丹族(黒契丹)を殲滅(江東城の勝利)


1225年 高麗に送ったモンゴルの使節ジョゴヨ(著古与)が殺害される事件。(鴨緑江事件)
モンゴルと断交して対立する(→モンゴルの高麗侵攻)。


1227年

西夏、蒙古に滅ぼされる。

1231年 8月29日 蒙古(後の元)の侵入が始まる。(第1次高麗侵入)

モンゴル皇帝オゴデイ、サルタク・コルチ(撒里打火里赤)に命じ黒契丹鎮定時における協定履行を求める軍を派遣する。
 高麗人洪福源、1500戸を率いてサルタクの軍に投降。
11月29日 蒙古、開京に至る。王は降伏。地方では抵抗が続く。(高麗史 巻22)
12月1日 蒙古と講和。宋、金を夾攻することを約定する。

高麗各地にモンゴル帝国の使臣72人からなる知事(達魯花赤、ダルガチ)を設置。


1232年 崔氏は国王を連れて都を開城から江華島に移し抵抗。
達魯花赤72人全員が殺害される事件


1233年

蒙古 金の首都開封を攻略。

1234年 蒙古軍 第3次高麗侵入
金朝滅亡
1235年 蒙古軍、再び高麗へ。第4次高麗侵入
同年春、オゴデイ主催によるカラコルムでのクリルタイにおいて、バトゥ以下の皇子たちによるヨーロッパ遠征、皇子クチュによる南宋遠征に加え、タングタイ(唐古)による高麗遠征が決議される。(『元史』巻2・太宗本紀、太宗7年乙未条 )


1236年
蒙古軍、全羅道付近まで

1238年 蒙古軍、東京(慶州)まで


蒙古軍、第5次侵攻

1241年
高宗、モンゴルとの講和を請い、貢賦を納めることに同意する。モンゴル側からカラコルムの宮廷に赴き、オゴデイの面前に謁して朝貢するよう要求されるも、旅中の困難を理由に抗弁し、代わりに永寧公綧を赴かせる。

1247年
高麗、モンゴルへの貢納をやめる。

1253年
モンゴル皇帝モンケジョチ・カサル家の王族イェグ(也古)らに高麗遠征を命じる。(『元史』巻3・憲宗2年冬10月条)

1254年
蒙古軍、第6次侵攻

「蒙古兵に捕らえられた者20万余り、殺された者数えきれず」
イェグ、高麗遠征軍司令の職を罷免され、ジャラルダイ(札剌児帯)が征東元帥に任じられる。(『元史』巻3・憲宗3年癸丑春正月条)


1256年
高麗、モンケに服属の使者を送る。

1258年
武臣の金俊ら 親蒙古を掲げ、崔氏政権を倒し、蒙古へ降伏。

1259年 モンゴル(クビライ政権)に服属。
高宗の世子・倎(後の元宗)、南宋遠征中のモンケへの謁見を求めて華南へ至るも、モンケの崩御にともない上都開平府へ北還中のクビライに謁し、高麗国王位の安堵を受ける。

元宗
1260年
5月13日、皇帝クビライ、高麗国王王倎(元宗)に詔諭を下して改めて高麗国王位に封じ、高麗における俘民とその逃戸を帰させ、モンゴル軍による掠奪を禁じさせる。(『元史』巻4・世祖本紀 中統1年夏4月己亥条)
4月12日、世祖クビライ上都開平府にてクリルタイを召集して即位

1263年
高麗、日本人の沿岸侵略禁圧を要請

1268年
元との徹底抗戦を主張する武臣の林衍、金俊を暗殺、実権の掌握。元宗廃 位となるが元の力で復位 クビライの命を受けた高麗の使者、起居舎人 潘阜がクビライおよび元宗の国書をもって大宰府へ来着
蒙古、南宋への攻撃を開始

1270年 高麗 「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われる。

蒙古 西京(平壌)に東寧府を設置
崔氏武臣政権下の軍(左別抄・右別抄・神義軍)解散を命じられるも拒否。
5月、三別抄将軍の裴仲孫、夜別抄の盧永禧らは宗室の承化江温を推戴し、江華島を本拠に独立。
6月、三別抄政権は西南の珍島(全羅南道)に移る。



1271年 三別抄の勢力 全羅南道全域や慶尚南道の一部を掌握する。

6月 忠烈王 クビライの皇女、忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)と婚姻の許諾を得る(元宗15年)
珍島の三別抄 陥落

蒙古、国号を「大元」と改める。

1272年 忠烈王 クビライに日本侵略を提言。軍船の造船を申し出る。

1273年 三別抄の乱を元の力で鎮圧

1274年 元 日本侵略のため(元寇)行中書省をおき、高麗、戦艦大小九百艘を造船する。 10月文永の役 8月 忠烈王
1275年 耽羅国に耽羅國軍民都 達魯花赤(da-ru-qas) 總管が置かれる

1276年 通訳とその教育のために通文館を置く

1278年 辮髮・胡服令。

1279年 元 南宋を滅ぼす。
1280年 日本に対する遠征(元寇)を遂行する目的で征東行省(忠烈王が長官となる前期征東行省 )を創設

1281年 弘安の役
征東行省を解散
高麗の兵船、対馬を侵略する

1287年
元、高麗に征東行省を設立(後期征東行省)。高麗王を長官に任命

1289年 哈丹(契丹)の寇により都を江華島に移す。

1291年 都を開城に戻す。
契丹の侵入


1297年 クビライの娘忽都魯掲里迷失死去。元との関係が壊れる。

1298年 忠烈王廃位
忠宣王退位 元の王妃が趙妃を嫉み誣告(趙妃誣告事件)
忠烈王復位

忠宣王
忠烈王




1300年-1392年

[編集]
高麗 中国及び周辺国! 高麗王
1308年 忠宣王
1313年 忠粛王
1330年 忠恵王
1332年 忠粛王
1339年 忠恵王
1344年 忠穆王
1349年 忠定王
1351年 恭愍王
1374年 王禑
1388年 威化島回軍 王昌
1389年 恭譲王
1392年 高麗が滅びる

関連項目

[編集]