Wikipedia‐ノート:個人攻撃はしない/過去ログ1
このページは過去の議論を保存している過去ログページです。編集しないでください。新たな議論や話題は、Wikipedia‐ノート:個人攻撃はしないで行ってください。 |
ある投稿者からの脅迫について
[編集]利用者:DX0さんから「投稿ブロック申請を行ったら、ぶっ殺すぞ。さっさと死ね。一生恨んでやるからな。」という内容の投稿を、利用者‐会話:DX0とか、利用者‐会話:Kawaraとか、利用者‐会話:Showshowとか、メールで頂いています。あと「投稿ブロック申請を行った場合は、スパムメールを送信します。」というメールも5通頂きました。(私の利用者ページにも頂いたのですが、どうも消したみたいです。)
どうしたらいいでしょうか・・・はぁ。Kawara 2004年11月25日 (木) 12:26 (UTC)
いろいろ検討して調べた結果、Wikipedia:投稿ブロックの方針の「2. 他者を誹謗中傷する内容の記事の投稿」に該当するので申請することにしました。Kawara 2004年11月25日 (木) 13:08 (UTC)
- (報告)Kawaraさんに対する個人攻撃を目的とした名前のユーザーが現れ、即時ブロックで対処されております。また、開発者の方のご協力でその方がDX0氏と同一人物としてブロックされました。--[[利用者:PiaCarrot|PiaCarrot]] 2004年11月25日 (木) 13:17 (UTC)
いろいろな方に大変お手間を取らせてしまいまして申し訳ありません。今後については情報を収集した上で対応したいと思います。ありがとうございました。Kawara 2004年11月26日 (金) 00:03 (UTC)
個人攻撃の例について(謝罪要求・強要)
[編集]個人攻撃の例に、「どのような形態や言い回しであれ、謝罪の要求や、強要」を追加するべきです。と言うのは一般的に、ある人Aが正しいと思ってした行為に対して、他の人Bがどのような形であれ謝罪を要求するのは、その事自体がその人に端的に失礼であり、さらには侮辱にすらになりえますし、もしAさんの行為が客観的なガイドラインや慣習に反するのであれば、まずこれこれこうなのでこうですよと、説得を試みるべきで(またそれがウィキペディアのスタンスな筈で)、いきなり謝罪を要求するのは不躾な行為であり、場が荒れる遠因にもなりかねません。--210.198.147.237 2006年8月8日 (火) 01:35 (UTC)
- それは、論争の解決あたりで提案されてはどうでしょうか。--Snow steed 2006年8月8日 (火) 11:24 (UTC)
「法的措置をとるぞと脅す。」の部分は、「ウィキペディア自体、またはウィキペディアの他の利用者に対する、法的な脅迫を含め脅迫となる行為」と拡張しても良いのではないでしょうか。--210.141.122.73 2006年8月8日 (火) 02:17 (UTC)
個人攻撃定義の追加
[編集]以下のようなものを個人攻撃の例に追加すべきと思います
- ある個人の編集に対し、revertでのみ必ず対応する
- ある個人の編集に対し、ほとんど実態がないのに、GFDLなどの理由で削除依頼を行う
- ある個人の編集に対し、複数のソックパペットを用いて主にrevertによる反対編集を行う
- ある個人に対し、実態がないのに投稿ブロックを依頼する
- ある個人に対し、実態がないのに荒らし通告を行う
- ある個人に対し、Wikipediaのルールを逆用し、その編集を妨害する
F86Fnew-version 2007年5月11日 (金) 06:24 (UTC)
- 追記
Wikipedia:荒らしの定義では、嫌がらせと個人攻撃、は荒らしではないが、避けるべきものとなっております。「他のユーザへの嫌がらせは許されません。利用者ページの破壊などの嫌がらせは、明らかに荒らしになります」
- 荒らしー個人攻撃-嫌がらせ、とは被害程度と対象(全体か個人か)の差であり、同じように投稿ブロックの対象となると考えて良いのでしょう。真面目な執筆者個人への攻撃とはWikipediaの質や量を低下させる荒らし行為となるからです。
さすれば、Wikipediaに「嫌がらせ」の定義がない以上、この本ページでの個人攻撃の定義は、荒らしの定義と同様、Wikipediaにおける投稿者の規制、すなわち管理者の行動規範の上で、大事な項目となると思われますね。F86Fnew-version 2007年5月11日 (金) 06:38 (UTC)
- >ある個人の編集に対し、revertでのみ必ず対応する
- >ほとんど実態がないのに、GFDLなどの理由で削除依頼を行う
- >ある個人の編集に対し、複数のソックパペットを用いて主にrevertによる反対編集を行う
- >ある個人に対し、実態がないのに投稿ブロックを依頼する
- >ある個人に対し、実態がないのに荒らし通告を行う
- >ある個人に対し、Wikipediaのルールを逆用し、その編集を妨害する
味わい深いなぁ……。甘酸っぱい(w 向日葵三十郎 2007年6月1日 (金) 14:57 (UTC)
個人攻撃の定義について
[編集]個人攻撃の定義について疑問点があります。そこでノート:個人攻撃#「個人攻撃」の定義に、誹謗中傷、名誉毀損、挑発などを含めることができるかどうかについてにて、疑問点を書いてみました。こちらでも個人攻撃の定義についていくらか議論されていることに気づきませんでした。すみません。どちらで議論をするのが適切かわからず戸惑っていますが、すでにあちらのノートページをコメント依頼や井戸端 (告知)に告知してしまいました。あちらに意見を書きましたので、皆さんの意見をお願いします。--Hsz 2007年5月12日 (土) 14:22 (UTC)
- 個人攻撃に関する議論は、ノート:個人攻撃ではなく、こちらのほうがよいという意見があったため、#「個人攻撃」の定義に、誹謗中傷、名誉毀損、挑発などを含めることができるかどうかについてに移しました。--Hsz 2007年5月14日 (月) 03:05 (UTC)
「個人攻撃」の定義に、誹謗中傷、名誉毀損、挑発などを含めることができるかどうかについて
[編集]Wikipedia内での議論で、しばしば論争が解決しないことがあり、人を見下す発言や人をこき下ろす発言、言いがかり、レッテル貼り、悪口、誹謗中傷、名誉毀損、挑発などを自分のコメントに加える人がいます。これらはどこまで個人攻撃の定義に入るのでしょうか。「これは個人攻撃である」「これは個人攻撃でない」「事実だからこれは個人攻撃に該当しない」「半分事実であっても半分虚偽であるから個人攻撃に該当する」など、しばしば「個人攻撃」の定義を巡って揉め事や揚げ足取りが起きることがあります。個人攻撃の定義をはっきりさせ、人に不快感を与える発言が油を注ぐことに繋がらないよう、揉め事を減らすことができればと思っています。
- 疑問点を整理してみます。
- 誹謗中傷、名誉毀損、超はう、人を見下す発言、人をこき下ろす発言、言いがかり、レッテル貼り、悪口、誹謗中傷、名誉毀損、挑発は個人攻撃にあたるのか?
- あるユーザAが他のユーザBの考えの問題点を指摘するとき、ユーザA発言に、ユーザBの主張に問題があることを指摘すると同時に「ユーザBは○○をまったくわかっていない。だからこの記事は一切編集すべきではない」と発言するとき、ユーザBは○○や○○に関連する分野について50%ほど理解している。よって、ユーザBは、ユーザAの発言を不快を感じ、「それは半分事実であっても、残り半分は事実ではない」と発言する。このときユーザAはユーザBを個人攻撃をしているといえるかどうか?
「整理してみます」と書いておいて二つ目が長くなってしまいました。 何かご意見がありましたら、よろしくお願いします。--Hsz 2007年5月12日 (土) 14:05 (UTC)ノート:個人攻撃で議論しようとしましたが、内容からこちらのほうが適切との意見を頂きましたので、こちらに議論の場を移します。--Hsz 2007年5月14日 (月) 03:05 (UTC)
- (コメント)「言いがかり」を含めるのは幾らなんでも難しいかも。相手の意見が誘導的で話題の選択も妥当ではない際に、その主張に反対はしたりしても、相手の論説への証拠を列挙しての反論は余りにも不毛(本来関係ない議論であるなど)なので割愛した場合、言い掛かりだと主張され(面倒臭くても仕方なく)論拠を挙げて反論せざるを得なかったりするし。そういうケースでは大概、どんどん相手の土俵に引きずり込まれざるを得なくなるし、まして本題からは益々外れて行くので、「言い掛かりだと叫んだ者勝ち」になるかと。本題とは関係ない個人的な要素で相手を攻撃することが個人攻撃の本質ならば、本題に関係の無い議論に巻き込むことは個人攻撃とは意味が違うが近しい行為のように思われます。あまり多くの概念を混ぜ込んだりしない程度で良いと思います。というか、個人攻撃という一般記事のノートでやる内容じゃないよね…これ。--夜飛(話/歴) 2007年5月12日 (土) 14:43 (UTC)ノート:個人攻撃から夜飛さんのコメントをコピーしました。
- (コメント)個人攻撃の例はここに示されています。基本的には、本文記事なり方針なりに反映できないような話題として個人のことに触れること全般、議論の主題に関係ないこと、論拠を示さないこと、が、挙げられるでしょうか。2.の例でいえば、ユーザーAは、ユーザーBが書いた記述のうち、誤りである部分を信頼できる情報源を示しながら誤りであることを指摘し、より正確な文章に改めるべきであり、ユーザーBは、自分の知識が不確かであると自覚しているならば、Aの主張を受け入れるか、改めて資料にあたり、その上で自分の記述を誤りでないと主張するならば同様に信頼できる情報源を示して誤りでないことを示し、互いの情報源によって意見の食い違いがあるならば、その情報源の信頼性についての検証を冷静に行えばよいのであって、「まったくわかっていない」と発言する必要も、「それは半分事実であっても、残り半分は事実ではない」と発言する必要もありません。この例でいえば、どっちもどっちで、いずれもウィキペディアにとって無益な論争ということになると思います。--Ks aka 98 2007年5月16日 (水) 19:04 (UTC)
「個人攻撃はしない」の禁止を要求
[編集]はっきり言って「個人攻撃をしない」等というルールを追加してくれたおかげで、個人によって定義が曖昧で、酷いときには少し批判された程度で「個人攻撃だ!」などと言い出し荒らし扱いされるケースもあります。 また、こういう事を言い出す編集者によっては削除しかしない人間ばかりなのも問題です。執筆もしないで削除しかしない人間も禁止にすべきでしょう。--Hayate-Arizona 2007年7月31日 (火) 17:57 (UTC)
- まず個人攻撃と批判の違いを双方が理解していない(または個人攻撃している側が正しい自己認識に欠ける場合も)、そうなるでしょうね。少なくともまっとうな批判であるならば、どちらか片方が両者の違いを理解し行わないよう心掛けていれば、そういう不毛な状況も回避できる問題だと思います。逆に片方ないし両者が、個人攻撃と批判の違いを理解していたとしたら、事実個人攻撃なんでしょうて。故に、禁止無用。--夜飛(話/歴) 2007年8月1日 (水) 04:26 (UTC)
- いえ、無用ではありません。個人攻撃される理由にしても個人攻撃されるようなことをしたからされるわけなんです。こういうのは自己責任で解決すべきです。こんなルールを加えるから勘違いして調子に乗る編集者が増えるんですよ。おかげでこっちはそんな奴の相手ばかりさせられるからストレスが溜まりますね。
- しかも、「個人攻撃禁止」をやたら挙げる編集者(削除専用者?)には何を言ってもwikipediaのルールを差し出して来るだけで人の話は絶対に聞かないし、そう言う人間ばかりを重宝したがる運営側にも問題はあります。コレを解決するにはまず「個人攻撃はしない」の禁止を要求します。因みに私は何度もwikipediaや2ちゃんねるで個人攻撃されてますが、「個人攻撃禁止」などと言ったことはありません。すべて自己解決しています。--Hayate-Arizona 2007年8月1日 (水) 05:42 (UTC)
- 個人攻撃はWikipediaというプロジェクトにとって有害無益であり、このような行いは避けるべきです。ちょっと気をつければいいだけのことでしょう。大体、あなたのストレスを軽減するのと引き換えに、別の人が「自己解決」で負担を受けるというのはどんなものでしょうか。 -- NiKe 2007年8月1日 (水) 06:38 (UTC)
- 個人攻撃されるようなこととはどんなことなんでしょうね?明らかな荒らしへの差し戻し行為もこれに入るのでしょうか?学校でいじめをした側の言い訳「いじめられるようなことをしたから」にしか聞こえませんね。どんな理由があってもいじめた方が悪いのです。--Alljal (会話 / 投稿記録 / メール) 2007年8月1日 (水) 07:15 (UTC)
- 個人攻撃はWikipediaというプロジェクトにとって有害無益であり、このような行いは避けるべきです。ちょっと気をつければいいだけのことでしょう。大体、あなたのストレスを軽減するのと引き換えに、別の人が「自己解決」で負担を受けるというのはどんなものでしょうか。 -- NiKe 2007年8月1日 (水) 06:38 (UTC)
- (コメント)個人攻撃はしない、というのは、仮に、個人攻撃されても止むを得ないような相手に対しても、個人攻撃をしてはいけない、というのがルールの趣旨だと考えます。本ルールの冒頭部分に「絶対」なる強い用語を用いる根拠はそこにあるかと思います。記事内容に対しての批判と、執筆者個人の人格等に関する非難、とは区別しうるものです。ウィキペディアは執筆者の資質にハードルは設けていませんから、どんな執筆者でもまともな内容を執筆すればその記述は活かされるわけで人格等を非難しても意味はありません。個人攻撃は横着な議論方法で、議論が不毛になる原因となると考えます。--磯多申紋 2007年8月1日 (水) 13:16 (UTC)
こういった事例は個人攻撃ではないのでしょうか
[編集]履歴を確認すれば大抵は判明しますが、或る個人の作成した記事に関してのみ、連続で削除依頼を出したり、議論無しに記事の内容を破壊したりする利用者がいますが、そういった行為は個人攻撃に該当するのですか? 議していただければ幸いです。--月景 2008年1月23日 (水) 05:38 (UTC)
この項目の意味があるのか
[編集]現状では管理者でさえも2chなどで善良な利用者を誹謗中傷しています。外部サイトで個人攻撃されるのであれば、wikipedia内だけで禁止してもあまり意味がないような気がします。--こなたに萌えている 2008年1月23日 (水) 06:53 (UTC)
- 外部サイトで個人攻撃されることと、この方針の意味は無関係でしょう。「よそはよそ、うちはうち」。--松茸 2008年1月23日 (水) 07:10 (UTC)
- 私は外部サイトで陰口を叩くくらいなら、wikipedia内で論戦を繰り広げたほうが潔いのではとも思えるのですが--こなたに萌えている 2008年1月23日 (水) 07:19 (UTC)
- いや、Wikipedia内ではあくまでも記事の記述の内容のみによって論じられるべきかと。2ちゃんねるかそこらで私怨滾らせグジュグジュやるしか能の無いようなのは放っておけば宜しい訳だし、記述の可否は記事のノートで、利用者として百科事典的ではない動向は利用者会話ページで、その当人が幾ら言っても非百科事典的な行為を停めないとかであればコメント依頼でもブロック依頼でもすればよろしかろ…と思う次第です。全ては百科事典的な記事を書けるか否かに帰される事柄だと思います。いずれにしても個人攻撃でしか反論できないというのは、既にその時点で論理が破綻している詭弁でしかないため、もとより必要は無いでしょう。--夜飛(話/歴) 2008年1月23日 (水) 09:28 (UTC)
Wikipedia:個人攻撃の除去 を統合しました
[編集]Wikipedia‐ノート:個人攻撃の除去の議論に基づき、ページの統合を行いましたのでお知らせいたします。--伏儀(会話) 2012年9月30日 (日) 09:19 (UTC)
個別管理者等権限者の運営方針に対する説明要請・批判は個人攻撃になるのでしょうか?
[編集]wiki姉妹プロジェクトですが、個別の管理者の管理方針や合意形成の意見に疑問を持っております。 個別の管理者の過去の発言など基にその管理方針はどうなっているのかどういうつもりで書いているのかを編集室などで執拗に説明を求めることは個人攻撃に当たるのでしょうか?ちなみにその方針は私的にはプロジェクトの性質を左右するものであると考えています。 例えばウィキペディアであれば、ある管理者が「ウィキペディアが百科事典である本質として」と事あるごとにその理由のみで断言し、こじれればすぐに投票を呼びかけお仲間の加勢者多数で可決ないし否決していたとします。その時に百科事典である本質とは如何なるものなのか、それは一般的に認められた認識であるのか詳しく説明を求め、相手が説明に応じず無視を決め込んで、拗れエスカレートしていった場合、これはwikipediaのいう個人攻撃にあたるのでしょうか?--219.211.122.141 2013年5月3日 (金) 06:00 (UTC)
- コメント個々の管理者の個人的な「管理方針」は、合意が得られている「プロジェクトの方針やガイドライン」の枠内であれば、それぞれに委ねられます。個人の管理方針や個人の意見は、個人に帰せられますが、プロジェクトの方針について、いきなり個人を責め立てるべきではありません。
- 過去の発言など基にどういうつもりで書いているのかを編集室などで説明を求めるのは個人攻撃ではないですが、「執拗に」説明を求めることはつきまといや嫌がらせに当たるでしょう。
- 議論がこじれたときに他者の意見を求めることは適切な行動ですし、呼びかけることで集まってくる人たちが「お仲間の加勢者」だとは限りません。対話をするのではなく、すぐに投票に移行するのは好ましくないです。
- 百科事典である本質とは如何なるものなのか、それは一般的に認められた認識であるのか、という点についての対話や意見交換は好ましいですが、一般的に認められた知識を知らないまま、知ろうともしないままに「詳しく説明を求め」ることは好ましくないでしょう。
- 説明を求められている側は常識的な範囲、一般的に認められた認識で「本質」を用いていたり、既に説明したりしていたり、文書で明確になっていたりするのにもかかわらず、説明を受ける側がそれを理解できず、「無視を決め込んでいる」と決め付けるならば、説明を求める側が適切ではないです。他方、説明が求められている側が、一般的にまたは辞典・辞書について考察する上では知っていてしかるべきと思われる程度の知識から大きく外れていることを指摘されているにも関わらず、説明しないことは問題です。
- いずれの場合も、拗れエスカレートしていったとしても、それのみであれば、通常、wikipediaのいう個人攻撃にはあたりませんが、双方に拗れエスカレートしないような対話姿勢が求められます。--Ks aka 98(会話) 2013年5月3日 (金) 08:49 (UTC)
- Ks aka 98さんご回答ありがとうございます。
- >個々の管理者の個人的な「管理方針」は、合意が得られている「プロジェクトの方針やガイドライン」の枠内であれば、それぞれに委ねられます。
- そうです。その委ねられる裁量権の範囲内のことについて述べています。ただし「プロジェクトの方針やガイドライン」が大枠過ぎたり曖昧であるため裁量権が大きすぎると感じることもしばしばです。議論の中でより具体的な方針やガイドラインに落とし込めたらという意図もあります。
- 「本質」については、彼は過去の発言の中で本質論について一応は具体的に説明しています。発言は一見して一般的に映るかもしれませんが、私が問題にしているのはdue processといいますか、その本質論は、例えばwikipediaの百科事典の項目の記述よりも踏み込んで具体的に性質を述べていたりするわけですが、そのことを同プロジェクト上の百科事典の項目に反映させてないこと、一般利用者の目の届く所において十分な編集研鑽に耐えてはいないことを私は殊更問題としています。同じことは以前にもこのwikipedia上で問題にしたこともありますが(参照)同じ問題意識をもった人がいないのか反応はありません。しかしそれは本件とは関わりないのでここでの議論は控えます。
- >いずれの場合も、拗れエスカレートしていったとしても、それのみであれば、通常、wikipediaのいう個人攻撃にはあたりません
- なるほどこの程度の範囲は「wikipediaのいう個人攻撃」にはあたらないということですね。ちなみにそれを逸脱して「wikipediaのいう個人攻撃」に該当してしまうラインはどこにあると考えますか?
--219.211.122.141 2013年5月3日 (金) 15:39 (UTC)
- その人の「本質」についての考えがどのようなものであれ、権限の行使やプロジェクト内での行動が、「委ねられる裁量権の範囲内」であるなら、まずは他人の考えは尊重するのが良いと思いますよ。その本質論を基に、権限行使などが方針やガイドラインを乗り越えているのならば、適正プロセスを通していなければなりませんが、乗り越えていないのならばプロセスを経る必要はない。ぼくはウィキペディア日本語版でいくつかの権限を持っていますが、ある記事を個人的な百科事典観に従って編集していて、別の誰かがそれが不適切だと思うなら、、権限に関係なく利用者間の対話をするということになります。審議期間を過ぎていて合意がとれていると捉えられる削除依頼を、個人的な百科事典観から「閉じない」ということはあるかもしれませんが、それは個人的な抵抗であって、コミュニティとしては他の管理者が閉じることで回っていく。、
- ウィキペディアの「百科事典」の項目は、一般的に百科事典がどういうものかということを書く場所です。ぼくが百科事典をどう捉えているか、ということとは別物。ぼくの百科事典観と、あなたの百科事典観が異なり、それが編集内容にかかわるものであれば、まず常識的・一般的な百科事典・百科事典像を参照し、それに合致するもの、そこから常識的に演繹されるものであれば、まずは双方の意見が許容される。
- ウィキペディアは、既存の百科事典とは異なるところも多いですから、一般的な百科事典観を超えていかないといけない場面は出てきます。また、異なるのだから、新しい百科事典への試みを提案する人も出てきます。そうしたところで、ウィキペディアの方針やガイドラインが生まれるし、それらは新しい試みとして不完全なところもある。全体的な調和に欠けるところも、既存の百科事典観と衝突するところもあるでしょう。そういう場合は、常識的、一般的でない側のほうに説明が求められるでしょう。
- 「プロジェクトの方針やガイドライン」が大枠過ぎたり曖昧であるため裁量権が大きすぎると感じることもあるかもしれませんが、厳格な文書化は、かえって混乱をもたらすことにも繋がります。大枠過ぎて問題が生じるのであれば、問題をクリアにして、プロジェクトの方針やガイドラインの修正の提案をすればよいことです。もちろん、その管理者が議論に参加することもあるでしょうが、「特定の管理者」の考えとは関係なく、また、その管理者を説得する必要もなく、コミュニティの合意が得られれば修正がなされるはずです。議論が必要だとしても、コミュニティで議論をすればいい。
- そこでの議論は、合理的で、プロジェクトの目的に合致し、発展に繋がると考えられるという前提の中で、個々人の本質論・百科事典観を背景としつつ、具体的な問題の解決・予防に対して効果的なものを探ることになります。必要であれば、それぞれが考える百科事典像、ウィキペディア像といったものを互いに示し、それぞれに修正をしたり、妥協したりしながら、当面は合意が得られるものを探ることになります。必要に応じて、背景となる知識の説明や案内も必要になるかもしれません。大胆な改革は十分な説得力を必要とするでしょう。そうした対話と合意形成こそが「適正なプロセス」です。ここでのやりとりは、そのプロジェクトにとっての適正なプロセスにはなりえませんから、そのプロジェクトに関わっている人たちの間で対話を行なってください。
- Wikipedia:個人攻撃はしないについては、その文書を丁寧に読んでください。対話の中で、必要に応じて説明を求めることや、誰かの考えに論駁することが個人攻撃とは書かれていないはずです。悪意や、根拠がない場合、特に決め付けやヘイトスピーチの類が該当する。程度の問題というよりは、攻撃・批判の質の問題ですね。この文書にはWikipedia:論争の解決に従わないことも挙げられていますが、いつまでも反駁し、納得しないでいるならば、どちらかというとWikipedia:腕ずくで解決しようとしないの違反ということにあるでしょうか。--Ks aka 98(会話) 2013年5月8日 (水) 16:55 (UTC)
関連項目リンク提案
[編集]本文章の関連項目に、両者は関連性のある人身攻撃を追記することを提案します。英語版のen:Wikipedia:No personal attackの関連項目としても、en:Ad hominemへの関連項目へのリンクが貼られております。--背番号9(会話) 2013年9月18日 (水) 02:08 (UTC)
- 完了1週間経過し反論無いので、提案を実施しました[1]。--背番号9(会話) 2013年9月25日 (水) 14:21 (UTC)
不適切な例
[編集]先ほど、管理者伝言板に自分が報告されたので気づいたのですが、「論争が起きた場合に、論争の解決や議論が白熱しても冷静にに従わない。」、これ個人攻撃なのでしょうか?という疑問が浮かびました。Wikipedia:議論が白熱しても冷静にとかWikipedia:論争の解決に反しているのは、その通りですし、守るべき事でしょう。しかし、どう考えても、個人攻撃ではないでしょう。これが個人攻撃だと「カモノハシは哺乳類だ!!」「カモノハシは爬虫類だ!!」、この論争も個人攻撃になってしまいます。--JapaneseA(会話) 2016年11月26日 (土) 14:16 (UTC)
- 議論活性化のコメント依頼に出しました。7日以内に反対がなければ除去します。--JapaneseA(会話) 2016年11月26日 (土) 14:21 (UTC)
明確に反対します。除去すべきではありません。あなたは自分が議論を行なうに際し、都合の悪い部分を除去しようとしているに過ぎません。--118.9.63.229 2016年11月27日 (日) 02:23 (UTC)
- いやいや、自分に都合の悪いとかじゃなくて、「性犯罪はしない」に「脱税」が入っていたらおかしいでしょ、という話ですよ(でも「脱税」は「経済犯罪はしない」に入ります)。個人攻撃の項目からこれを除去しても、ブロック理由(クールダウンなど)になる事に変わりはないでしょう。--JapaneseA(会話) 2016年11月27日 (日) 08:14 (UTC)
Wikipedia:議論が白熱しても冷静にでは「人を誹謗・中傷するのは厳に慎しみましょう」「他人の姿勢を決め付けるのはやめましょう」といった(個人攻撃に関する)ことが書かれており、「カモノハシは哺乳類だ!!」「カモノハシは爬虫類だ!!」といった類の論争を指しているのではありません。従ってJapaneseAさんが書かれた削除の理由は成立しません。--ネイ(会話) 2016年11月30日 (水) 16:34 (UTC)
質問 ただ、1つ疑問があります。「個人攻撃はしない」は方針ですが、「論争の解決」はガイドライン、「議論が白熱しても冷静に」に至っては私論です。方針でガイドラインや私論への遵守を要求することは、そのガイドラインや私論を暗に方針に昇格させてしまうのではありませんか?--ネイ(会話) 2016年11月30日 (水) 16:34 (UTC)
僕の考えです。少しずれるかもしれませんが、普段考えていることです。個人攻撃は、議題そのものではなく、議論相手や編集者を貶める発言は該当すると思います。メインの議題から離れて、不用意に「荒らし」だと唱えるのは、個人攻撃の可能性はあると思います。ただコメント依頼などで特定の利用者が議題になっているとき、利用者やその行為そのものが「議題」なので、これに意見として、根拠を示しながら荒らしだと主張するのは、問題無いと僕は思います。(彼はバカだレベルの暴言は、どのレベルでも問題ですが)--背番号9(会話) 2016年12月1日 (木) 09:46 (UTC)
賛成 JapaneseA氏の指摘の通りだと思います。その上で。
改訂履歴や、基となった英語版なども確認しましたが、まず「議論が白熱しても冷静に」に関しては、去年の1月にIPユーザーによって勝手に追加されたものであり、根拠がまったく不明です。対して「論争の解決」は初期からあって、これは英語版にもある事柄なので、その点では存在していることは妥当です。ただ、「論争の解決」は現状の英語版を見てもらえればわかるのですが、個人攻撃をしているというような指摘がなされている中での対処方法について記述されているのであって、「論争の解決」に従わないこと自体を個人攻撃とは言っておらず、まあ、普通に考えてしごく当たり前の話でしょう。おそらく「議論が白熱しても冷静に」は、木を見て森を見ず的に「論争の解決」からの類推で安易に付け足されたものだと考えます。
ここからは技術論的な話となりますが、「議論において個人攻撃はいけない」というのは当然のことながらウィキペディアだけのルールではなく、議論を扱った場合によくある話です。で、それは単に強い言葉を用いないとか、相手を尊重するというような礼節やマナーレベルだけの話ではなく、論旨と関係のない事柄を取り上げて、相手を攻撃することによって、相手の主張の妥当性の根本否定、ひいては発言権そのものを奪う、という対人論証などと言われる古典的な、しかし成功しやすい詭弁術なんです。だから、たとえ強い言葉を用いずとも、また個人攻撃を指摘している側が倫理的・道徳的(あるいは政治的、ポリコレ的)に正しくとも、相手の属性を攻撃することは「個人攻撃」以外の何物でもないです。言うまでもなく健全な議論のためにマナーは大事です。ただ、個人攻撃が忌むべき行為としてそれこそ古代から論じられるのはもっと危急な事に対してです。
「個人攻撃をしない」を持ち出して、相手を批判する例はウィキペディアではよく見かけるのですが、大半がどうもそのような表層的なレベルの理解で振り回している感が否めません。例えば昔「上から目線は個人攻撃だ」なんて言われてビックリしたこともあります。かつて私論的に「利用者:EULE/「個人攻撃」という個人攻撃はしない」なんてのを書いたこともあるのですが、マナーレベルの話だと安易に認識しているがゆえに、個人攻撃を批判している側が典型的な個人攻撃で議論を滅茶苦茶にしていることがいささか多いと感ずるところです。単にマナーレベルの話であるなら、「礼儀を忘れない」や「エチケット」で十分であって、なぜ個人攻撃がこの系統(ネガティブリスト系)の各種文書の中で唯一「方針」なのかを念頭に置いた方が良いと考えております。--EULE(会話) 2016年12月1日 (木) 12:07 (UTC)
- とりあえず参考として、現在の英語版を簡単に訳したものを配下ページに置いておきます→/英語版2016年12月簡易訳--EULE(会話) 2016年12月4日 (日) 10:04 (UTC)
皆様御意見ありがとうございます。ネイ様は反対という事で宜しいでしょうか?で、あれば「合意せず」として取り下げます。一方、反対でないのであれば、今月中に他に反対票がなければ除去とします。--JapaneseA(会話) 2017年1月10日 (火) 17:35 (UTC)
- わたしの11月30日時点のコメントでは「論争の解決」の除去に賛成、「議論が白熱しても冷静に」の除去に反対でした。しかし、どうやら「議論が白熱しても冷静に」は無断で追加されたものなので、反対は取り下げます。現在は「論争の解決」の除去に賛成、「議論が白熱しても冷静に」の除去には中立とさせてください。--ネイ(会話) 2017年1月11日 (水) 16:12 (UTC)
済 除去しました。--JapaneseA(会話) 2017年1月31日 (火) 15:03 (UTC)
Wikipedia編集者の評価を匿名ブログなどでの評価に委ねる行為について
[編集]議論相手に対して、自分の言葉ではなく、匿名ブログなどで行われている評価を引用して「このユーザーは問題がある」とする説明行為が「個人攻撃」にあたるのか「第三者からの客観的な意見の紹介」にあたるのか、皆さんの広い意見をお聞かせください。
経緯
[編集]依頼者が2年前に関わったノート:山本優美子#在特会との関係についての合意形成について、「大変問題のある合意形成であると見解します。」としてノート:山本優美子#再議論の要請が要請されました。
この中で依頼者については以下の言及が行われました。
本記事の議論および青鬼よしさんの編集についてはWikipedia内部の議論のほか、ネット上匿名ブログによる批判もある[2]。
上記の記載につきましては、「Wikipedia内部の議論」は何を指しているのか明記されておりませんが「ネット上匿名ブログによる批判もある」にはリンクが提示されております。
このリンク先のブログ記事は「IPアドレスが同じだけなので別人の可能性がまったくないわけではないが、とりあえず同一人物としてあつかう。」として、IPアドレスユーザーたちの発言も依頼ユーザーの発言として解釈するという事実誤認の上で、依頼者について「この人物がかかわった編集のひとつに、あぜんとするものがあった。」「読んでいて頭が痛くなった。」などの評価を行っています。
この「ネット上匿名ブログによる批判もある」について、ノートページ上で「匿名ブログによる批判」に対する反論をするべきなのか、それとも「第三者からの客観的な意見の紹介」として受け入れるべきなのか、それとも、それ以外の良い対応方法があるのか…。個人的には相手の主張に間違いがあると指摘する場合は、自分自身の言葉と責任において行うべきであると考えており、匿名ブログからの引用という発想はなかったので、どのように振る舞うのが正しいのか、とても混乱しております。
そのため、皆さまの知恵をお貸しいただければ幸いでございます。--青鬼よし(会話) 2017年3月24日 (金) 23:17 (UTC)
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[編集]- 匿名ブログなど相手にする価値はありません。これがWP:RSだったとしても、Wikipediaはいかなる検閲も受けません。ただし、ミス・誤りなどの指摘は、考慮する価値があると思いますが、その場合は匿名ブログをリンクする必要もなく「外部サイトで『〇〇の箇所は、正しくは××』と書いてあったのですが、いかがですか?」で十分でしょう。なお、外部リンクを貼って批判する人に対しては、「Wikipedia以外の話は、Wikipedia以外でしてくれ」と言って、相手にしなければ済む話であり、個人攻撃とは思いません。--JapaneseA(会話) 2017年3月25日 (土) 03:10 (UTC)
- 個人攻撃かどうかの判断は保留といたしますが、匿名ブログの評価等をWikipediaで言及することは全く議論と関連のない迷惑行為にほかならず、直ちに停止すべきであると言えます。匿名ブログであれば、自作自演も可能であるため、「第三者からの客観的な意見の紹介」であるとは言えますまい。--RXX-7979Ⅲ(会話) 2017年3月25日 (土) 07:35 (UTC)
- なお、匿名ブログに上の批判は言論の自由の範囲内であると考えられるため、放置、ということになるであろうと考えられます。とはいえ、その匿名ブログがWikipediaに一切影響を及ぼすことはない、ということであり、いいたい奴には言わせておけば良いが一切気にする必要は無い、という結論になろうかと思います。--RXX-7979Ⅲ(会話) 2017年3月25日 (土) 07:43 (UTC)
- 本来相手にする必要はないですが、姑息に感じられるのは「反論すればブログの引用を認めた事になり、しなければ反論できないと取られる」と言う多重尋問の問題ですかね。対処としてはその場で取り合わず会話ページ等に投げるのが無難だと思います。無視をしてもWikipediaの記事に影響する事はないでしょうが、不名誉な言いがかりを当人が納得するのか、という問題だと思うので。一般論として「外部サイトを利用して個人攻撃を行うのはやめてください」くらいは言っていいと思いますが、個人攻撃はしないを当てにし過ぎるのはあまり実りのない結果に終わると思います。相手のブログで話を付けると言う方法も今回は良かったようですが、本当に悪意のある相手だった場合通じなかったかもしれません。匿名サイトで活動している人は水面下で独自研究を積み上げているため、突如として予想も付かないような個人攻撃を展開するケースは見かける事があります。--Towns(会話) 2017年4月2日 (日) 07:22 (UTC)
個人攻撃の例について
[編集]以前から思っておりますが、「右翼」「左翼」は個人攻撃になりますかね? 個人の政治的スペクトルであり、「ナチ」「レイシスト」「プロレタリアート」のように「暴力や犯罪行為を厭わない人」というニュアンスはあまりないと思いますし、政治や社会に関する記事もたくさんあり、議論するときには相手を右翼または左翼と判定した上で議論しなければならないこともあるのではないでしょうか。--Muyo(会話) 2017年3月30日 (木) 09:58 (UTC)
- こんばんわ。現状の方針では、思想を想定する事は個人攻撃のど真ん中だと思います。私は、よく両方言われるのですが、それは誉め言葉だと思っています。しかし、世の中には批判・偏見として受け止める人も少なくないと思います。それから日本ではもはや何が右で何が左か定義がメチャクチャになっているような気はしますが、自民党と一致するのが右で、そうでないのが左と分類されるようですね。--JapaneseA(会話) 2017年3月30日 (木) 10:10 (UTC)
- コメント ウィキペディアでの議論では相手の政治的信条は全く関係ないはずです。利用者がどんな信条を持ちようと、ウィキペディアの方針やガイドラインに従った上、常識をもって行動していれば文句を言われる筋合いはありません。「右翼」「左翼」に限らず、「なにがし党を支持している」や「なにがしの法案に反対している」ことだけもって相手を糾弾することは十分個人攻撃になりうるでしょう。(厳密には人身攻撃ですが、ニュアンスは伝わったと思います)--ネイ(会話) 2017年3月30日 (木) 10:34 (UTC)
- あまりにも忙しくて中々行動に移せないのですが、英語版の内容なども踏まえてこんな例を作ってます。
- あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、あなたのリンゴが身体に良いという記述は信用できない。
- これは典型的な個人攻撃です(人身攻撃、対人論証)。執筆者がユダヤ人(ネオナチ)であることとリンゴの効能はまったく関係ありません。しかし、これはあまりにも稚拙過ぎて例え話にもなりません。下記のようなものならどうでしょうか。
- あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、あなたのホロコーストに関する記述は信用できない。
- 一見妥当にも見えますが、これも典型的な個人攻撃です。リンゴの効能と同様に、ウィキペディアにおいて執筆者がユダヤ人(ネオナチ)であることと、ホロコーストに関する記述は関係ないからです。何故なら、ウィキペディアの記述は信頼できる情報源に基づくという大前提があるため、もしその記述が信用できないのであれば、それは「出典や論拠に問題がある」のであって、「執筆者がユダヤ人(ネオナチ)だから」ではないからです。ましてそもそも出典や論拠がないならば、それは「独自研究だから」批判すべきなのであって、「ユダヤ人(ネオナチ)だから」という理由で批判してはいけないのです。また当然のことながら、ユダヤ人(ネオナチ)だと見なすこと自体が、本人が公表してないならば、邪推によるレッテル貼りであり、許されません。
- しかし、このような個人攻撃をされた方も過剰に反応するべきではありません。この場合、最良の対応方法は個人攻撃部分を単純に無視し、出典や論拠の提示を行うことです(論拠なければ独自研究だったと素直に認めるべきです)。結果として記事への成果は変わらないままに時間と労力の節約になります。ただ、この最良の対応をとった場合でも、あくまで相手が執筆者の属性に拘るようであれば(個人攻撃を繰り返す)、相手の会話ページや、コメント依頼・ブロック依頼などを利用するのは妥当でしょう。
- この出典の著者は、ユダヤ人(ネオナチ)だから、あなたのホロコーストに関する記述は信用できない。
- これはここに規定される個人攻撃ではありません。よくある資料批判の観点であり、「Wikipedia:信頼できる情報源」に基いて判断してください。
- 著者の属性が出典の妥当性判断に影響を与えることはよくあります。例えば、利害関係にある当事者の手記や、何の権威もない在野研究者の自費出版は、その著者の属性自体によって扱い(重み付け)を変えることは妥当でしょう。また、ホロコーストならともかく、リンゴの効能について書かれた書籍の信頼性評価について、著者がユダヤ人(ネオナチ)だから信頼できないとするのは不当以外の何ものでもないでしょう。
- こうした史料批判の中で人種差別などを基に不適切な主張がなされる時、気分を害する場合もあるでしょうが、それは執筆者やその書籍を参照した者を個人攻撃した場合とは分けて考えられるべきです。この場合は、個人攻撃を行う者やレイシストとして告発するのではなく、適切な史料批判ができない、記事の執筆能力に問題がある者として問題視するべきです。
- ユダヤ人(ネオナチ)の出典を多用するあなたは信用できない。
- ユダヤ人(ネオナチ)側の観点が多いあなたは信用できない。
- これは個人攻撃と疑わしいが、断定はできないケースです。例えば「信頼できる情報源」の観点に照らして信頼できない出典を多用していると思われるのであれば、この指摘は妥当なものです。出典の妥当性を抜きにしてやっているのであればレッテル貼りです。
- 言われた方としては、まず「論旨は個人自体ではなく、議論内容や行動に向けられたものとみなされるべき」の原則に従い、「信頼できない出典を多用している」あるいは「中立性に反した記述をしている」という指摘と判断して対応することが望まれます。すなわち、これに対する適切な返答は「個人攻撃しないでください」ではなく、「著者がユダヤ人(ネオナチ)だからといって出典を軽視しないでください」です。それによって個人攻撃か否かではなく、出典の妥当性について議論されることが望まれます。
- また、言う方としても、特定個人へ向けられたものだと捉えられないよう配慮すべきです。よって適切な指摘は「Xという理由によって信頼できない出典を多用するあなたのホロコーストに関する記述は信用できない。」[1]や「あなたは特定の観点に拠っているので中立性に乏しく、あなたの記述は信用性が低く見える」というようにしっかりと根拠を述べた上で、かつ指摘の対象が個人ではなく記事本文にあること明示することです。そうすれば、相手の返答が「個人攻撃しないでください」ではなく、「著者が○○だからといって出典を軽視しないでください」となる蓋然性が高くなるでしょう。
- あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、ウィキペディアへの参加資格はない。
- あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、見つけ出して殺してやる。
- これは典型的な個人攻撃である上に極めて悪質な例です。先に「最良の対策方法は単純に無視すること」「論旨は個人自体ではなく、議論内容や行動に向けられたものとみなされるべき」の原則を挙げていますが、これには当てはまりません(これまでの例はまだ「議論内容や行動に向けられたもの」と言えましたが、これらは明らかに個人だけを狙ったものです)。発見次第、管理者が裁量ブロックを掛けても問題ないですし、必要に応じて発言を除去すべき危急の事案となります。
- あなたはホロコーストを肯定(否定)した記述を行ったので、名誉毀損で訴える準備がある。
- これは典型的な法的脅迫です。「Wikipedia:法的な脅迫をしない」を参照してください。
- あなたは個人攻撃をしている。だからあなたの私の記述への指摘に対してまともに取り合う必要はない。
- レイシストの意見は一切無視します
- 見過ごされがちですが、これも個人攻撃です。なぜなら、論旨とは直接関係ない相手の行為を根拠に、相手の主張を否定しているからです。
- 例えば先の「あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、あなたのホロコーストに関する記述は信用できない」や「ユダヤ人(ネオナチ)の出典を多用するあなたは信用できない。」というようなものは、それが個人攻撃と見なせる余地があっても、少なくともその発言の主旨は、出典や論拠の妥当性を確認しているものです。まして「Xという理由によって信頼できない出典を多用するあなたのホロコーストに関する記述は信用できない。」というように指摘が個人ではないと配慮までしている場合は尚更です。そこでもし指摘されたあなたが、実際に独自研究や信頼できない情報源を基に記述をしていたるであれば、それは省みる必要があります。それにも関わらず、そうした部分を無視し、指摘に反抗する方法として個人攻撃されたことを持ち出してはいけません。あくまで無視すべきなのは個人攻撃部分であって、相手の主張のすべてではありません。
- もし、1つ1つは些細でも繰り返されたなど、特定個人の問題行為として問うべきレベルと考えるならば、その場合でも、相手の会話ページか、コメント依頼・ブロック依頼、管理者伝言板など適切な場所で行うべきであり、記事のノートで行うべきではありません。逆説的に、そうした適切な場で告発するレベルでないなら、そもそも指摘する必要はないのです。
- 穏当な表現でも本人が名乗っていても個人攻撃
- あなたは極右(極左)だから、あなたの日中戦争に関する記述は信用できない。
- これは先の例を部分的に書き換えただけで、言うまでもなく典型的な個人攻撃です。では、以下ならどうでしょうか。
- あなたは保守主義(革新主義、リベラル)だから、あなたの日中戦争に関する記述は信用できない。
- くどいようですが、これも個人攻撃です。表現が穏当であれ、記述の妥当性を執筆者の属性に求める行為は個人攻撃にあたります。
- (自ら保守主義/革新主義を名乗っている相手に対して)、あなたは保守主義/革新主義だから記述は信用できない。
- これはまず相手がそう名乗っていようと、やはり記述の妥当性を執筆者の属性に求めている時点で明らかな個人攻撃です。ただ、そもそも自らの傾向や肩書きを名乗って論説しているということは、自身の主張の妥当性を、自らの属性で保証しようとしている意図がある場合があります。この時、名乗りや肩書きによる肯定的な意味付けは認めて、否定的な意味付けは「個人攻撃」として否定するのはアンフェアです。そもそも記事の信頼は出典によって生じるのであって執筆者によって生じるのではありません。問題となっている記述が執筆者の属性で不当とならないように、妥当であることも執筆者の属性で決まりません。
- 対人論証ではない個人攻撃
- (一通り適切に論述した上で)あなたはまだ義務教育課程で理解できないのかもしれませんが
- おまえの母ちゃんでべそ
- これは一般に「個人攻撃」と呼ばれることもあるものですが、通常、もっと適切な表現は「皮肉」「当てこすり」「悪口」「嫌味」などです。今までの例と明白に異なるのは、対人論証ではない(あるいは対人論証と呼ぶには稚拙)という点です。こうした場合は個人攻撃としてこのガイドラインの規定を参照するよりも、Wikipedia:礼儀を忘れないやWikipedia:エチケットを第一に参照するべき事案です。
- ^ こうした言い回しをする場合、言外においては問題となっている箇所の出典(論拠)の信頼度は不明だが、それ以外の出典(論拠)の信頼度は低いとみなされているがゆえに、その問題となる箇所の出典(論拠)の信頼度も低いと仮定されていると考えられる。そうした間接証明せずとも問題箇所の信頼度が低いといえるのであれば初めからそう述べた方がよく、あくまで執筆者個人の出典の使用に関して問題があるのであれば相手の会話ページなどで指摘するのが望ましい。
- 結局は、文脈に寄ると思いますが、穏当な表現であれ、それが記事そのものに関係しないのであれば、対人論証と見なされる蓋然性は高いと思います。また、英語版や、この例にもあるように、少なくとも本人が自身の主義・立場を表明していないにも関わらず、その属性を決めつけるような言い回しは、よほど誰の目から見てもそうだと言えない限りは、典型的なレッテル貼りで個人攻撃の誹りは免れないと思います。まあ、ただ例にも書きましたように(そして英語版にもあるように)、個人攻撃と見なされる余地があるからといって、程度次第であり、些細なことまで問題視するのは、それが問題だと思います。--EULE(会話) 2017年3月30日 (木) 15:35 (UTC)
- (補足)今、改めて読むとMuyo氏の提起に対するコメントとしては不十分なので補足いたします。
- 「議論するときには相手を右翼または左翼と判定した上で議論しなければならないこともあるのではないでしょうか」と述べられてますが、基本的な前提として、記事や加筆した内容が争点になる場合、ウィキペディアとして重要なのは、その根拠、すなわち出典です。出典の妥当性を考える際に、それを提示した相手を極右のレイシスト/極左のアカと呼ぼうと、保守主義者/リベラルと呼ぼうと、その出典の妥当性を考える上では直接は関係ないはずです。そうした色分けをしないといけないと判断される時点で、それはウィキペディアにおける議論として、何か根本的な部分で誤っている可能性があります。無論、保守主義/リベラル傾向の人が、その志向の権威的な人物や文献に詳しいはずという可能性には一定の配慮と敬意を払うべきだし、反対に、その傾向だからこそ、一般から見ればゴミみたいな情報源を信奉している可能性もあるのでしょうが、いずれにしても、ウィキペディアにおいてまず第一に見るべきでは主張者の属性ではなく、情報源及び、その信頼性である、という点は念頭に置くべきかと思います。--EULE(会話) 2017年3月31日 (金) 15:58 (UTC)
- 「右翼」「左翼」は個人攻撃となる場合もあると考えられます。なお、一般的には、自民党と一致、ではなく、日本共産党と一致する思想が左翼とされると考えられていると思われます。自民党の反対勢力で「右翼」を名乗る勢力・活動家が多く存在いたしますし、そもそも、自民党は共産党のように思想が一致する人間の集合体ではございません。最近では、どうみても左翼であるにも関わらず、「左翼」では世間受けが悪いために、右翼または保守と自称して、左翼活動をする団体や活動家も増えていますが、アメリカではとくに左翼は蔑称に近くなってきております。--RXX-7979Ⅲ(会話) 2017年3月31日 (金) 02:29 (UTC)
- 一例として、「男組 (反差別団体)」という右翼を自称しつつ左翼的に見える活動を行う団体が存在します。5つの暴行等の事件を起こし、うち一つは暴力行為等処罰法違反で有罪となるなどの事態となっております。このような団体と一緒にはされたくないということもあるのかもしれませんが、同種の活動団体や活動家は、(なぜか「左翼」であっても)「保守」や「右派」を自称したり(右翼ではなく)、もしくは、「リベラル」「リベラル右派」「中道右派」を名乗ることが増えている風潮があると思われます。--RXX-7979Ⅲ(会話) 2017年3月31日 (金) 02:53 (UTC)
- 「あなたは極右(極左)だから、あなたの日中戦争に関する記述は信用できない。」は必ずしも個人攻撃とは言えないと考えられます。本人が極左であると自称しており、かつ、極左に有利な記述ばかりを行っている人物について、「あなたは極左だから、あなたの日中戦争に関する記述は信用できない。」と発言した場合は、真実を語っている場合も考えられると言えます。荒らしには、思想的に偏向した記述を行う人物もいるため、思想に関する言及を封じてしまうと、議論そのものが成り立たず、伝言板への報告にも支障がでると言えます。「(一通り適切に論述した上で)あなたはまだ義務教育課程で理解できないのかもしれませんが」は、意味が不明であります。--RXX-7979Ⅲ(会話) 2017年4月8日 (土) 09:28 (UTC)
- >「あなたは極左だから、あなたの日中戦争に関する記述は信用できない。」と発言した場合は、真実を語っている場合も考えられると言えます
- その場合は、「ユダヤ人(ネオナチ)の出典を多用するあなたは信用できない。」のパターンです。何度も言っておりますが、まず、重要なのはその記述の情報源であって、執筆者の属性でありません。根拠なく極左好みの記述をしているなら、それは独自研究として問題視するべきであり、また信頼できない極左の情報源を多用する場合は、情報源が信頼できないものとして指摘すればいいのです。--EULE(会話) 2017年4月8日 (土) 14:55 (UTC)
- 「義務教育課程」云々の例えは、もともとが正直ちょっと難しい。というのは、議題の論旨に関係しない形での強い言葉は、悪口や嫌味であって個人攻撃でないというのが主旨であるが、議論の論旨に関係しない形で例えを作らないといけないので、そりゃあ確かに意味不明と感じるだろうなあと思うところです。正式に発議したものではないのでもっと良い例示はないか今も思案してます。--EULE(会話) 2017年4月8日 (土) 15:00 (UTC)
- 「あなたは極右(極左)だから、あなたの日中戦争に関する記述は信用できない。」は必ずしも個人攻撃とは言えないと考えられます。本人が極左であると自称しており、かつ、極左に有利な記述ばかりを行っている人物について、「あなたは極左だから、あなたの日中戦争に関する記述は信用できない。」と発言した場合は、真実を語っている場合も考えられると言えます。荒らしには、思想的に偏向した記述を行う人物もいるため、思想に関する言及を封じてしまうと、議論そのものが成り立たず、伝言板への報告にも支障がでると言えます。「(一通り適切に論述した上で)あなたはまだ義務教育課程で理解できないのかもしれませんが」は、意味が不明であります。--RXX-7979Ⅲ(会話) 2017年4月8日 (土) 09:28 (UTC)
英語版に沿った全面改訂提案
[編集]約半年ほど前に#不適切な例で少し触れさせていただきましたが、そろそろ全面的に改訂するべきかと思います。現状は日本語版の黎明期である2006年頃に英語版から翻訳されたものがそのままそっくり残っているような状態であり、時に単発的な編集で「議論が白熱しても冷静にに従わない」が何故か加筆されていたこともあったなど、不十分な状態であると考えております。
ひとまず改定案として、現状の英語版を基にし、かつ、直近の#個人攻撃の例についてで提示しました例を載せたものを提示いたします。
無論、翻訳や解釈の誤り、より良い表現など、ご意見・ご指摘があればよろしくお願い致します。また、本方針を補足するものとしてen:Wikipedia:Harassment(Wikipedia:嫌がらせ、現状で本方針へのリダイレクト)を早期に成立させるべきとも考えております。
なお、ブロックとも関わる重要な方針文書ですので、合意形成の期間は1ヶ月と考えております(当然、今日から1ヶ月という意味ではないのであしからず)。--EULE(会話) 2017年5月2日 (火) 16:57 (UTC)
だいぶ日が経って申し訳ありません。重陽氏の提案を受けて、今回の改訂による変更点についてまとめます。--EULE(会話) 2017年5月31日 (水) 13:04 (UTC)
現行との相違点
[編集]まず、現行と改定案の比較をしていただければご理解いただけるものと思いますが、改訂案は、既存の規定を拡充したり、観点の追加を行っているものであって、否定するなどして大きく変わるという点はありません。また、追加される部分も今まで日本語版には存在しない概念や考えといったものではなく、明文化されていないだけで、概ね慣習としては存在していると認識しております(慣習として存在していると言い難い部分も、社会通念上当たり前の事であって、正義に反するようなものは無いです)。それを踏まえた上で以下、箇条書きとさせていただきます。
- 「個人攻撃の例」の更新(詳細化、明確化)(#個人攻撃とみなされるもの)
- 個人攻撃をしないように気をつけるべきポイントの追加(#個人攻撃を回避する)
- 個人攻撃が行われた場合の望ましい対応方法の追加(#個人攻撃への対応)
- 個人攻撃という理由でブロックが行われるケースの具体化(#初めてや単発的なできごと、#個人攻撃がもたらすもの)
そして、上記を踏まえた上で、後半は、ノートの「#個人攻撃の例について」において私が作成した例を載せてます。
例えば、対応方法に関して、個人攻撃がブロックの理由になるからと言って、なんでもかんでも問題視して、それを認めて実際にブロックするというケースは現在であっても存在しません。まして、こうしたものを管理者が裁量でブロックしたら、大問題となるでしょう。一方で今回の改定案にあるような極めて悪質なものに関しては、現状でも管理者の裁量は認められています。
ですので、今回の改訂によって既存から大きく変わるという部分は実はあまりないです。Wikipedia:方針とガイドラインにもあるように、今回の改定案はどちらかといえば慣習の明文化にあります。また、後半の例に関しては、冗長等の問題がありましたら、付帯文書扱いという形での改訂でも問題ありません。--EULE(会話) 2017年5月31日 (水) 13:04 (UTC)
コメント
[編集]- わかりにく部分もあり、強く肯ける部分もあり、反対の部分もあり、です。以下3点、特に反対する部分を記載します。
- 「ブロックを含む制裁の対象」→「ブロックの対象」とすべき。ブロックは制裁ではありませんし、Wikipediaではよほどの事(「探し出して殺す」とか、個人情報をばらまくとか、Wikipediaであろうがなかろうが論外な事)を言わない限り、ブロック以外の不利益な事はありえません。こういう論外の事は個人攻撃以前の問題でしょう。
- 「過去に問題行為を行った利用者を、そのことを理由にして攻撃することは容認されません。」、これは場合によりけりでは?翻訳を寝ぼけてミスした人が、また翻訳をミスした場合、「また寝ぼけたんだろ!」とは、言われる方が悪いでしょう。一方、明確に改善を宣言し、それを実行している人(この場合は、正しい翻訳をしている)にそれを言うのはダメでしょう。また、暴言でブロックされたから記述が信用できない、のような関係ない事もダメでしょう。
- 「あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、あなたのホロコーストに関する記述は信用できない。」を「あなたは特定の観点に拠っているので中立性に乏しく、あなたの記述は信用性が低く見える」に変換するには、なぜ「特定の観点に拠っている」かの説明が必要でしょう。対立している団体AとBがあり、Aの代表者が本名アカウント「Aa」を作り、公式サイトでも「WikipediaのAaは自分」と書いたとしましょう。それで記事Bより「この受賞は瑣末だから除去」「このボランティア参加も瑣末だから除去」のような編集を繰り返したとして、「特定の観点に拠っている」という説明ができますか?(Aaさんは、記事Aを編集はしていませんのでダブルスタンダードにもなりません)。表面上は「特定の観点に拠っている」ではなく、単にWP:IINFOの解釈に見解の相違があるだけです。しかし、これを見た人は全員心の中では同じ事を思うでしょう。
- 私は個人攻撃とは「関係ない事で批判するな」「わからないものを決め付けるな」だと思っています。実際に、人物記事に「アホ」と書いても、「この人物はこんなに迫害されているんだ」と見せかける新派かもしれませんし、「最高だ」と書いても、「信者必死だな」と思わせたいアンチかもしれません。だからわからないものを決めるのは無意味です。しかし、関係ある事、わかる事の場合、その限りではないと思いますが。Wikipediaは英語版が最初でしょうし、重大な方針はそれに準じるべきでしょうが、言語圏が違えば文化も違うでしょう。何もかも英語版にあわせる必要はないと思います。--JapaneseA(会話) 2017年5月3日 (水) 09:01 (UTC)
- ご指摘・ご意見ありがとうございます。3点に関して指摘として妥当だと思いますが、ひとまず置いておいて、「何もかも英語版にあわせる必要はないと思います」という点についてだけ誤解があるので返答させていただきます。
- 基本的に「英語版こそが正しいからそれを日本語版にも反映しなければならない」というような思想では動いてません。私はルールとはその時の状況に合わせて漸次的に改訂するなどして保守して行くものと考えており(そこに慣習法というものも実に有力であり)、その上で、現状の文面は古すぎるというのが前提にあります。その上で、日本語版有志が喧々諤々の議論を通して一から作り上げるというのも趣があるのでしょうが、そんな時間も手間もかけるよりは、ひとまずは適宜更新されてきた英語版を基本にしてアップデートするのが手っ取り早いという考えに基づいています。なので、日本語版特有のこととしてこうした方が良いみたいな提案も、もしあればそれは検討の余地があると考えてます。--EULE(会話) 2017年5月3日 (水) 12:44 (UTC)
- 上記コメントは特にEULE様宛ではなく、皆様宛のつもりです。また、2017年5月3日 (水) 12:44 (UTC)の御考えに賛同します。--JapaneseA(会話) 2017年5月3日 (水) 12:48 (UTC)
- ご指摘点を踏まえて修正を行いました(3点目は後日修正します)。2点目について補足しますと、元の英語版で想定しているのは、まさにJapaneseA氏が妥当な例として挙げられたものとだと思います。つまり、今回と直接関係がない過去の問題行為を持ち出して、相手を非難する行為です。で、これは、英語版だと「礼儀を忘れない」や「嫌がらせ」にもほぼ同文で載っているものであり、また日本語版でも同様の問題行為はやや見受けられますので、削除せずに、表現を直しました。よろしくおねがいします。--EULE(会話) 2017年5月4日 (木) 09:24 (UTC)
- 上記コメントは特にEULE様宛ではなく、皆様宛のつもりです。また、2017年5月3日 (水) 12:44 (UTC)の御考えに賛同します。--JapaneseA(会話) 2017年5月3日 (水) 12:48 (UTC)
- 皆様の意見を伺いながら微調整・・・が適切と思いますので、本日は差し当たり気になった点だけを。ホロコースト、ユダヤ人、ネオナチのくだりは、事実上99%は日本人とみられる日本語版においては全く身近でなく、「例え」としては好ましくないと思います。「レイシスト」などもカタカナ語ではなく日本語に翻訳すべきでしょう。中学生の参加者も全く珍しくなく、成人していても横文字に強い方ばかりなのではないのですから。それだけで、何%かは柔らかく、読みやすくなるかと存じますが、いかがでございましょう。「お前の母ちゃんでべそ!」はナイスでした。それと同様に、やはり一定のローカライズは必要なのではないかと。具体的にどう置き換えるかの叩き台ついては、翻訳慣れしていない私がくだらない案を出すより、やはりEULE氏にお任せするのがよろしいのではないかと思料致します(決してサボっているわけではないですよ!)。--Hman(会話) 2017年5月6日 (土) 16:28 (UTC)
- ここは日本語版なので、99%参加者は日本人でしょう。その日本人からみれば、ホロコーストは客観視できるというメリットはあります。一方、「ホロコーストに疑問を唱えると有罪になる国がある」という事を知らない人は「あなたはホロコーストを肯定(否定)した記述を行ったので、名誉毀損で訴える準備がある。」の意味がピンと来ないと思います。では、日本の例にすると、何が適切でしょうか?私的には「~征伐」が客観視できますが、多分そうではない人がWikipediaに大勢いる事は皆様もよく御存知でしょう。上の方で私がAとBと書いたのは、ヘイトスピーチで敵対している2つの団体ですが、方針に団体の実名を記載するわけにも行きませんし(これが書かれて、誰かが引用する事を想像したら笑えるものがありますが)。そう考えるとホロコーストのままが良いのかもしれません。色々な方の御意見も聞いてみたいですね。--JapaneseA(会話) 2017年5月6日 (土) 18:14 (UTC)
- Hman氏へ その点に関しては「日本語版においては全く身近でない」ものを、むしろ意図してます。ここで身近なものを例にしてしまうと、(今回の議論だけでなく)それ自体で係争する恐れがあり、かといって身近だけど、当たり障りの無い例だと問題の本筋が理解されない可能性が強まります。身近か否か問わず、そもそも知らないというならそれは問題でしょうが、100%でないにせよ、日本語話者の大半がホロコーストを知らないってことはまず無いです。ただ、例外的に第二段で日中戦争を扱ったのは、当初想定には無く、上の「#個人攻撃の例について」で、「事実だったら個人攻撃(対人論証)じゃない」と思う人が割といると感じたので足した部分です。ただ、これも文章構成を見てもらえればわかると通り、まずホロコーストの一般例を示した上で進むという、まあ、よくある抽象的な例から演繹してもう少し具体的な例に進むという形を取っており、いきなり日中戦争を出してしまうと、やはりそれ自体で係争するように思います。
- レイシストの指摘に関しては何とも言えない部分があるのですが、まずカタカナ英語だから駄目というのは指摘としてあまり良くないです。日本語話者にとって一般性があるか否かで、少なくとも既にレイシストという言葉は新聞などにも登場しており、マニアックな単語ではないです。ただ、「racist」という原義と「レイシスト」には意味のズレがあり、その点には注意が必要ですが、それは今回に関してはあまり関係がありません(元の意味が何であれ、相手を「レイシスト」呼ばわりすることも個人攻撃だという指摘ですから)。--EULE(会話) 2017年5月7日 (日) 01:52 (UTC)
- 先に申し上げました通り、様々なご意見を伺いながらのんびり(拙速にならず)と考えておりますので、現時点では反論等はございませんが、うーんまあ今回の所は、読んだ人の何割かが辞書を引かざるを得ない内容は適切とは言えないですよね、平易が一番ですよね、とだけ。これは反論ではなく問題提議とお取りいただければ。--Hman(会話) 2017年5月7日 (日) 02:05 (UTC)
私ごときの意見を反映して頂きありがとうございます。先に申し上げた1点目は解決しました。2点目も「既に解決された過去も蒸し返すような」で私の意図と一致している内容になっているかと思います。3点目です。わかりやすく、編集をホワイト編集(文句のつけようのない出典に沿っての加筆、出典に書かれていない事の除去)、グレー編集(WP:IINFOを理由とした除去またはそのレベルの加筆)、ブラック編集(虚偽)と定義します。ホワイト編集は誰がやっても批判されるべきではなく、ネオナチを名乗る利用者がホロコースト否定論に利する編集をしても、それは問題ありません。これを「貴方はネオナチなのでRvします」とすれば、それは個人攻撃だと思います。また、ブラック編集は誰がやっても批判されるものであり、「貴方はネオナチなのでRvします」という必要はなく、ブロック依頼とすれば良いだけです。問題は、グレー編集です。例えばHman様がホロコーストから、何かの記述をWP:IINFOだとして除去されても、「あーHman様はそう判断したんだね」と誰もが思う事でしょう。ところが利用者ページに「私はネオナチです」と書いてある利用者が履歴ゼロの状態で、同じ事をした場合、周りはどう判断するでしょうか?本当にWP:IINFOという理由なのでしょうか?これは個人攻撃なのでしょうか?といった疑問が浮かびます。実際には日本語版でホロコーストどうのこうのはないと思うので、先の団体AやBに置き換えて考えて頂ければと思います。なお、先に例示したAaさんの行動は、実例ではなく架空のものです。--JapaneseA(会話) 2017年5月6日 (土) 18:14 (UTC)
- 3点目に関しては難しいから後回しにしましたが、やはり難しいですね。まず、基本的な考えとして「批難してはいけない」ではなく「個人攻撃してはいけない」です。編集行為によって何かしらの対立点があって、そのことに対して批難すること自体は問題ない想定です。
- で、挙げられている例でいえば、そもそも係争が想定されるような除去編集を何の理由も示さず(要約欄に書かず)、行ったことに問題があります。その点において「理由を示してから除去してください」とリバートを掛けることは極めて妥当だと思います。そこでなお相手が編集を強行すれば対話拒否だし、「WP:IINFO」を示してきたならそれを基に議論を行う。無論、「私の編集をリバートするなんてお前は○○だな」と個人攻撃してきたら、それがアウトです。また、毎回新規アカや可変IPなどが同様の問題編集を行った場合には、常に同じように初手で丁寧な対応しないといけないかと言えば、そこは多重アカウント辺りの規定で、批判するのは個人攻撃に当たらず妥当だと思います。
- 逆に初手で個人攻撃しないといけない相手の編集というのが私はイメージが付きません。それが不当だと一般に思われるような編集は、不当たる理由が個人攻撃以外にあると思います(より正確に言えばあると想定して行動すべき)。--EULE(会話) 2017年5月10日 (水) 14:13 (UTC)
賛成 基本的には賛成です。いくつかの細かい変更は直接行わせていただきました。それとは別に、「ウィキペディアの公的な掲示板」は少し不明瞭のように感じます。コメント依頼や投稿ブロック依頼などと明示するのはどうでしょう。--ネイ(会話) 2017年5月7日 (日) 03:03 (UTC)
反対 現在の物より大幅な改悪だと思います。中でも、大幅に追加された「個人攻撃の例示」が不要です。 ユダヤなど海外の例を多数取り上げている点は、日本人利用者への配慮だとしても、必要ではない机上論だと思います。 また過度に細かい「個人攻撃とそうでない物の定義」を論ずる記述は、個別の論争や裁定に対する「個人的な主張」のように見えます。 これらについては従来通りノートや井戸端で議論する内容であり、利用者に広く周知すべき、または従うべき内容ではありません。 こういった過剰な例示は方針に書いてあるから個人攻撃だ、書いてないから個人攻撃ではない、と言う認定合戦に利用され、議論を混乱させます。 また古いと言う改定理由は具体性に欠け、変更する事自体が目的になっている事。また次の理由として、言われるほど英語版を手本としていない事です。英語版には上に挙げた余分な記述はありません。--Towns(会話) 2017年5月7日 (日) 08:22 (UTC)
- 返答させていただきます。
- >また古いと言う改定理由は具体性に欠け、変更する事自体が目的になっている事
- まず、そのことについては、2017年5月3日の私の発言をお読みいただきたいと思います。「ルールとはその時の状況に合わせて漸次的に改訂するなどして保守して行くもの」と述べているわけですが、これはどういうことかと言えば、2006年と現在で、この手の考え(慣習でも暗黙知でも良いですが)は、まったく変わっていないのかということです。で、言うまでもなく、黎明期で手探り状態だった当時と今は明らかに変わってます。にも関わらず、1つの在り方として慣習などが明文化された結果であるはずのガイドライン文書が更新されていないというのは、問題があると考えます。
- 実際、今回英語版から追加される部分は、日本語版に今までまったく存在していない概念、慣習かと言えば、そんなことはないです。英語版だって、様々な事例を通して更新しているわけで、見ていただければわかる通り、日本語版でも暗黙的になっていたり、曖昧だったようなことが明文化されたものが圧倒的に多いです。もちろん、そこで、この部分は、このまま日本語版に持ち込むには無理があるとか、そういったことがあれば、それを具体的に指摘して頂きたいと思います。
- 例に関しては、氏のように問題視される方が多いのであれば、重陽氏が言われるように付帯文書的な扱いにされても構いません。他のウィキペディアの各種ルールも踏まえて、当然の帰結といえる一般論のつもりで書いており、少なくとも例そのものが法原とはならないように気をつけてます。逆に「これは明らかに提案者個人が創り出したものであり、これを認めるルールや一般常識はどこにもない、よって、これ自体が法原となりうる」というようなものがあれば、それを具体的に指摘していただきたい。
- 例は、例に過ぎず、例がなければ、このガイドラインで明記されている内容が変わってしまうなんてことは無いですから(あれば、それは付帯文書にしても問題なので具体的に指摘していただきたい。)。--EULE(会話) 2017年5月10日 (水) 14:13 (UTC)
コメント 本文書は現行版がブロックとも関わる重要な方針文書として運用されているのですから、それを全面改訂するのであれば改訂することで何がどう変わるのかという部分をまずは端的にまとめていただければ話もしやすいのではないかなと思います。とりあえず「個人攻撃と望ましい対応方法の例」の節は中身が方向性を定めた指針でなく単なるhow toになっていますから、この部分はざっくり手引書として方針から分離し別文書としたほうがいいのではないかと思います。この節があるために文書全体の見通しがかなり悪くなってしまっているように感じます。--重陽(会話) 2017年5月7日 (日) 15:03 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。確かに変更点をまとめた方が良いかもしれませんので、日曜日くらいまでを目処に実行させていただきたいと思います。また、上記、Towns氏の返答のように見通しが悪くなっているという意見が多ければ例の部分を付帯文書扱いにすることも承知いたしました。--EULE(会話) 2017年5月10日 (水) 14:13 (UTC)
- さて、私の最終投稿から3週間たちました。主旨それ自体に明確に反対表明されているのはTowns氏のみですが1ヶ月半経っていますので合意したと見なします。
- 変更案に対しては基本的に対立点があるのは例の部分だけであるため、例示以外の部分に関しては日曜(6/25)に反映する方向で進めたいと思います。例に関してはその内容部分についても大なり小なり嫌疑が出たことを考慮して、付帯文書扱い(当ガイドラインのサブ記事)として掲載したいと思います。以上。--EULE(会話) 2017年6月21日 (水) 13:12 (UTC)
- 反対 今改定案を拝見しました。Wikipedia:コミュニティ・ポータルなどへの告知はあったのでしょうか。改訂版の例についてですが、個人攻撃ではないと思います。個人攻撃とは、差別的な発言をともなった人格攻撃であり、「記述の信用性」についての批評ではありません。この違いを根本的に誤解させる改悪であると思います。「ネオナチ」「レイシスト」は100%蔑称ですので口に出すだけで個人攻撃ですが、「保守主義」はむしろ好意的な言葉なので口に出すだけでは個人攻撃ではないという大きな違いもあります。「リベラル」は日本では好んで自称している人も多いと思います。
あなたは極右(極左)だから、あなたの日中戦争に関する記述は信用できない。 あなたは保守主義(革新主義、リベラル)だから、あなたの日中戦争に関する記述は信用できない。 (自ら保守主義/革新主義を名乗っている相手に対して)、あなたは保守主義/革新主義だから記述は信用できない。
- これらの例は、「記述への信用」に関する批評であり、論評を封じることは間違いだと思います。極左思想を表明している人が、極左に関して極左の都合の悪い記述を除去される編集を繰り返されている場合には、実際に、その記述は信用できないということもあると思います(もちろん、その人物の人間性が信用できないという意味ではありません)。
あなたは極右(極左)だから、あなたは信用できない。
- という全人格否定であれば、個人攻撃です。個人攻撃とは人格否定であり、記述への批評を例にするのは非常に誤解を招きやすいと思います。思想的背景を議論の際に口に出すことを禁じるかのような、行きすぎた改定案への反映には強く反対します。--はるみエリー(会話) 2017年6月21日 (水) 15:46 (UTC)
- コメント 反論したいことは多いですが、的を絞って言います。改訂後の方針の要旨は、例えば「極左思想を表明している人が、極左に関して極左の都合の悪い記述を除去される編集を繰り返されている」ことに問題があるかどうかを考えるとき、斜体の部分を考慮に入れてはいけません、というものです。個人攻撃から引用しますと、「個人攻撃とは、議論(何らかの係争関係にある会話・対話など)において相手を論駁しようとするとき、相手の発言ではなく、発言者である相手自身を話題にして目的を達しようとする行為である。」(人身攻撃も似たような概念です)必ずしも人格否定につながるものとは限りませんので、「記述への信用に関する批評」も個人攻撃にあたります。それとも、はるみエリーさんは「極左思想を表明している人が、極左に関して都合の悪い記述を除去してはいけません」とお考えでしょうか。--ネイ(会話) 2017年6月21日 (水) 16:20 (UTC)
- その例文を記載することは、Wikipedia:個人攻撃はしないの根本的概念を誤解させる恐れが大きいことを危惧するものです。新規利用者が方針を初めて読んでも誤解なく理解できることを目指すべきです。改定案は、議論において、「 (自ら保守主義/革新主義を名乗っている相手に対して)、あなたは保守主義/革新主義だから」と発言しただけで、個人攻撃だ、とブロック一直線になりそうな気配が漂っており、言論の自由を大きく制限する可能性があります。例文を変えるべきです。--はるみエリー(会話) 2017年6月21日 (水) 16:52 (UTC)
- (競合したけどそのまま)私もはるみエリー様と同じ箇所が、今一つひっかかっています。上記ネイ様の例えですが、それが根拠のないデマであれば除去して頂いて構わないと思いますが(上記私が言うところの、誰がやっても問題のないホワイト編集)、微妙なものであれば御遠慮頂いた方が良いと思っています。Wikipedia:自分自身の記事をつくらないというガイドラインがあります。これは、上記で私が挙げた「ホワイト」編集は構わないが、それ以外は自制できないでしょうから、関わらないで下さい、という事ではないでしょうか。今まで、利用者名と記事名が同じ利用者を数百人は見てきましたが、自制できた人は数人でした。かと申して、初手から「~だから信用できない」とするのは悪手だとは思います。「御遠慮ください」程度の事は言っても良いのではないでしょうか?文例にもWikipedia:案内文の文例#関係者による自己宣伝と思われる投稿をする利用者にがあります。--JapaneseA(会話) 2017年6月21日 (水) 17:08 (UTC)
- (競合しました。こちらははるみエリーさんへ)改定案では冒頭から「投稿した人についての意見ではなく、投稿された内容についての意見を述べてください。」と太字ではっきり書いている上、例文のほうでも詳しい解説が書かれており、誤解の可能性はかなり低いものであると考えます。それに、新規利用者ともなれば、WP:BITEという別のガイドラインがあり、仮に上記の発言をした場合でも、やんわりと「それはその人の主張が正しいかとは関係ないので、『投稿された内容』についての意見を言ったほうがいいですよ」と言えば済む話かと。それを何度やっても済まないようなお方なら、それこそ方針が理解できるまで投稿ブロックするしかないでしょう。
- (こちらはJapaneseAさんへ)そうですね。JapaneseAさんが挙げたHmanさんと履歴ゼロのネオナチさんの例えで言いますと、「Hmanさんなら大丈夫だろう」「履歴ゼロのやつは怪しい」とこころで考えるのはいいですが、議論の場で「~だから信用できない」はない、というのは恐らくJapaneseAさんも同意していただけると思います。
- (こちらは両方へ)例文にだけ同意できないのであれば、EULEさんの提案通りに、方針案から例示を除いたものを方針とし、例示は別ページで{{Supplement}}として扱う、というのはいかがでしょうか。私論ならば、合意を得ていなくても大丈夫かと。--ネイ(会話) 2017年6月21日 (水) 17:37 (UTC)
- そう言われれば、と改めて読み直して気が付いた次第ですが、改定案は、誤解の恐れを生む可能性を内在しているという見方も成り立つと思われます。冒頭の「投稿した人についての意見ではなく、投稿された内容についての意見を述べてください。」という太字についても、議論において投稿した人についての言及はしばしば見かけるものであり(その記述主題の関係者や信奉者かどうか、ソックパペット疑惑等)、本来の利用者への個人攻撃を絶対にしないという主旨を曲解させる恐れが払拭できないと言えましょう。投稿した人についての意見を述べることを禁じる必要は無く、他の投稿者を攻撃することを禁じているという主旨がぼやけてしまいませんでしょうか。指摘を受けて改めて読み直してみたところ、そのような視点も存在すると認識した次第でございます。「ご遠慮下さい」と言わざるをえない場面も確かに存在するでしょうし、その場合、個人攻撃だとみなされて誤認報告、誤認ブロックに繋がる恐れもありそうです。万一のことも考えた上で、誤認の危険性のない記述とすべきではないかと考えるものです。--RXX-7979Ⅲ(会話) 2017年6月21日 (水) 18:14 (UTC)
- はるみエリー氏へ
- >個人攻撃とは、差別的な発言をともなった人格攻撃
- 違います(既にネイ氏も指摘されてますが)。もちろんそういった観点を否定するわけではありませんが、議論等における個人攻撃とは人身攻撃(対人論証)も含むものであり(というより、あからさまな侮辱がいけないなんて当たり前過ぎるので、対人論証の方がメインであることも少なくなく)、それは侮辱語などを用いずとも成立します。
- 例えば、週刊ゲンダイ辺りを根拠に言い掛かりとも言えるような安倍政権への批判的な記述を、保守を標榜する人物が、除去したとします。その除去編集に対して「あなたは保守だから安倍政権に都合の悪いことを除去している。だから、不適切な編集なので除去を取り消す」というような主旨で批判してくる者がいたとして、これはもう明白に人身攻撃です。氏の言う通り、保守はネガティブな言葉じゃないし、この例のように本人が名乗っている場合もあるでしょうが、だからと言って主題ではない、相手の属性を根拠にして反論ないし批判する行為は、用いた言葉・用語が何であれ人身攻撃以外の何物でもないです。
- ぶっちゃけこんなの議論作法、弁論術の基礎的な話であって「穏当な表現であれば個人攻撃じゃない」などという低レベルな論点を今更説明しないといけないなんて・・・、と言いたいところなのですが、実は「だからこそ」なのですよ。別にはるみエリー氏に限らず、またウィキペディアに限らず、実社会においても「穏当な表現なら個人攻撃じゃない」、換言すれば「穏当な表現なら人身攻撃でも許容される(どんな議論展開をしても良い)」と勘違いしている人が多い。だから、ある種、逆説的な話ではあるのですが、ここに至って「個人攻撃とは、差別的な発言をともなった人格攻撃」などと言う人がいるということこそが、実はこの例が必要な証左になっているという皮肉的な話になってます(だからといって、例を付帯文書にする次善案を従来案に戻すとは言いませんが)。
- あと追加の指摘部分についても「言論の自由を大きく制限する」とまで言うのは私は杞憂だと言わざるを得ないです。そもそも、今回の改定案のもう一方には、一口に個人攻撃といっても程度があることを明言してます。個人攻撃とみなせる余地があったら、何でもかんでも問題視して、コメント依頼や果てはブロック依頼しろなどとは言ってないし、もしそういう人がいたら、それこそ、対話を進める部分を引用して、それは悪用なり誤用と指摘すればいいだけです。むしろ、現状のほうが些細な物言い一つとって個人攻撃に当たるなどと批判の応酬をやっている。
- 余談ながら、既に述べている通り、元はこれ「個人攻撃の例について」節で述べたものです。で、その初期案には、この部分ありませんでした。私としては「こんな議論作法、弁論術の基礎的な話」をわざわざ例に入れるのは冗長だと思います。でも、個人攻撃をしばしば理由にしてコメント依頼やブロック依頼に顔を出すレベルのユーザーですら、こんな初歩的な部分で認識違いしている可能性があるという点で必要性を感じ追加したものです。--EULE(会話) 2017年6月23日 (金) 08:07 (UTC)
- 現状の個人攻撃の例では、「悪意をもって相手を非難する、あるいは根拠無く相手を非難する行為を繰り返す」「個人や団体の政治的、社会的立場を決めつけて攻撃する」とされています。つまり、善意で根拠があって相手を注意せざるを得ない状況であれば個人攻撃ではなくそれは直言である、という概念が広く共有されていると思います。もちろん、言い方が暴言であってはいけません。EULEさんは、Wikipedia:個人攻撃はしないの概念を全く異なる内容に改変されようとしているということを理解しました。つまり、例を変えたり除去したりでは済まない、ということになります。簡単な例えとして、利用者のコメント依頼は「投稿した人についての意見」を言う場所です。「投稿した人についての意見」を言うことが個人攻撃であるかのような方針が出来てしまった場合、利用者のコメント依頼で直言的なコメントが出来なくなります。それは、つまり、言論の自由が大きく制限された状態です。EULEさんは何を根拠にされて、Wikipedia:個人攻撃はしないの概念を変えられようとしているのか理解できませんので、改定案に全般的に反対とさせていただきます。また、現状のWikipedia:個人攻撃はしないはレイアウト等も含めて非常に秀逸な内容であると思いますので、レイアウトが見にくく内容も改悪に繋がるような改定案には賛成いたしかねます。「個人攻撃は絶対に行ってはなりません。いかなる場合であっても、他の投稿者を攻撃する理由はありません。」というほど、ブロックに直結する方針であるがゆえに、絶対に言ってはいけないこと、言ったらすぐブロックされること、を個人攻撃の例にしなければならないと思います。--はるみエリー(会話) 2017年6月23日 (金) 09:28 (UTC)
- >つまり、善意で根拠があって相手を注意せざるを得ない状況であれば個人攻撃ではなくそれは直言である、という概念が広く共有されていると思います。
- このご意見には3つ問題がございます。1に現在文面にない勝手な想いや、拡大解釈を元に反論しないでください。第2にもし仮に「ウィキペディアでは悪意に基づくもののみ個人攻撃とみなす」という考えが条文にはないが慣習として存在しているとすれば、慣習と条文が一致していないのが改訂理由なのですから、いずれにしても改訂して明記すべき事案ということになります。第3に、もし氏の通りであるとすれば、とどのつまり個人攻撃の注意とは「文脈に関係なく使用された用語が不適切(明確に侮辱語)であること」「明確に悪意があると認められる場合(善意に基づけばよい)」というだけの話になります。それは「エチケット」「礼儀を忘れない」「善意にとる」の範疇に収まり、あえて「個人攻撃」で定義する必要はまったくないです。悪意に基いて行動したり、侮辱語を用いるな、加えて善意に基づくものは配慮せよ、というのは当たり前の話なのですから。
- >簡単な例えとして、利用者のコメント依頼は「投稿した人についての意見」を言う場所です。「投稿した人についての意見」を言うことが個人攻撃であるかのような方針が出来てしまった場合、利用者のコメント依頼で直言的なコメントが出来なくなります。それは、つまり、言論の自由が大きく制限された状態です
相手の属性を理由にして、相手の意見を否定したり、信用できないとする人身攻撃。例えば「鉄道オタクのあなたが、なんでファッションについて詳しいといえますか?」。ただし、特定の記事やトピックスで見解の衝突の可能性がある場合に、利用者個人の会話ページで質問することは個人攻撃ではありません。(ただ、相手の現実でのアイデンティティについて推測することは嫌がらせになる可能性があります)
多くの場合に、単発的な個人攻撃に対する最良の対策は、単純に無視することです。
時に個人攻撃は、議論が白熱するなどして過度に反応してしまっただけで、もともと攻撃を意図してないこともあります。さらにウィキペディア上の議論はテキストのみであるために、ニュアンスや感情がしばしばうまく伝えられず、誤解を招くことがあります。だからといって個人攻撃が許されるわけではありませんが、このような怒りや不愉快なコメントは無視して、百科事典の改善と発展に引き続き努力することが推奨されます。
(中略)
適切な議論場所(例えば利用者の会話ページや、ウィキペディアの公的な掲示板)で提議された利用者行動の議論は、それ自体が個人攻撃とはなりません。
- 氏がちゃんと読まないで雰囲気で反対しているのがわかりましたので、まずは読んでいただけでればありがたいです。むしろ現状の方が、そういうこと書いてないから、コメント依頼などの場での直言的なコメントを個人攻撃だと言ってブロック依頼に及ぶなど、言論の自由が大きく制限された状態の例が多いように思います。例えば「何なんですか、このフザけた中間まとめは?」という直言を問題視している人を私は知ってますし、辞書に載ってる単語・用例を問題視してブロック依頼が出るような言論の自由の危機も知ってます。
- ついでに言えば、
例えば先の「あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、あなたのホロコーストに関する記述は信用できない」や「ユダヤ人(ネオナチ)の出典を多用するあなたは信用できない。」というようなものは、それが個人攻撃と見なせる余地があっても、少なくともその発言の主旨は、出典や論拠の妥当性を確認しているものです。まして「Xという理由によって信頼できない出典を多用するあなたのホロコーストに関する記述は信用できない。」というように指摘が個人ではないと配慮までしている場合は尚更です。そこでもし指摘されたあなたが、実際に独自研究や信頼できない情報源を基に記述をしていたるであれば、それは省みる必要があります。それにも関わらず、そうした部分を無視し、指摘に反抗する方法として個人攻撃されたことを持ち出してはいけません。あくまで無視すべきなのは個人攻撃部分であって、相手の主張のすべてではありません。
- と、何でもかんでも個人攻撃として告発するな、むしろそっちの方が問題だぞという明記までしてます。私も氏と同じく言論の自由の擁護者なので、氏の危機意識は強くわかるし、だから改定案にも忘れずに書いてます。--EULE(会話) 2017年6月24日 (土) 10:12 (UTC)
- コメント ぶら下がりで失礼します。はるみエリーさんは政治系分野などデリケートな問題を孕む記事に多く関わっておられ、私もまた管理系活動の都合からそのような分野の記事やノートに目を通す機会があります。その中で、意見提起者の主張の真偽あるいは正誤を論じるにあたって、いわゆる「対人論証」に基くコメントが数多く見受けられることは私が指摘するまでもなくよくご存知かと思います。対人論証は論理学上「論点相違の虚偽」として詭弁あるいは人格攻撃の一つに挙げられるもので、個人攻撃を許容しないことを方針として掲げるウィキプロジェクトにおいては(善意悪意問わず)根本的に相容れないものであると考えます。
- そこで単刀直入にお伺いします、はるみエリーさんはjawpにおいて対人論証は許容されるべきであるとお考えでしょうか。それとも原則的に(あるいは一切)許容されるべきではないとお考えでしょうか。仮に前者であった場合、どのような局面において許容されるべきとお考えであるか、具体的事例をもって示していただければと思います(無論条件問わず、でも結構です)。--MaximusM4(会話) 2017年6月24日 (土) 15:07 (UTC)
- 返信 (EULEさん宛) EULEさんが「これまでの個人攻撃の概念を変える提案をされている」という認識については誤っていないと思います。英語版の冒頭は、「Do not make personal attacks anywhere in Wikipedia. 」です。これは、「いかなる場合であっても、個人攻撃は絶対に行ってはなりません」という強いニュアンスで訳さなければならないと思います。一方、改定案では、「ウィキペディアでは個人攻撃をしないでください。」と、意図的に英語版の「anywhere」が落とされています。「anywhere」は必要ない無駄な言葉ではなく、これがあるとないとでは全くその後の文脈が変わってしまいます。また、「(自ら保守主義/革新主義を名乗っている相手に対して)、あなたは保守主義/革新主義だから記述は信用できない。」と言うことが個人攻撃であるなどと、いったい、英語版のどこに書いてあるのでしょうか。上記の議論でも、RXX-7979Ⅲさんが、「あなたは極右(極左)だから、あなたの日中戦争に関する記述は信用できない。」は必ずしも個人攻撃とは言えない。」とコメントされていますが、その後、「英語版に沿った全面改訂提案」であると称して、英語版と異なる案を提案されています。これらの点についても、EULEさんは、全く根拠を提示されていません。「いかなる場合であっても言ってはいけない」という概念を変えてしまった場合、議論においてはデメリットしかありません。「個人攻撃を言うな」「個人攻撃としたと虚偽をいって個人攻撃をするな」「自分の発言のどれが個人攻撃であるというのか。具体的な指摘もなく個人攻撃だと指摘される発言が、まさに個人攻撃ではないか」などと、不毛な水掛け論が、今よりも容易に起こりやすくなるだけです。「基本的に「英語版こそが正しいからそれを日本語版にも反映しなければならない」というような思想では動いてません」という発言からも明らかな通り、EULEさんは、英語版の反映を目的とされていないにもかかわらず、「英語版に沿った全面改訂」と説明されているのは矛盾しているのではないでしょうか。--はるみエリー(会話) 2017年6月25日 (日) 00:06 (UTC)
- 返信 (MaximusM4さん宛) 初めて英語版を見ましたが個人攻撃は対人論証と同一ではないという認識は、英語版でも日本語版でも共通であると思います。説得の際、対人論証にみられる論理が、自身の主張をわかりやすくする目的などで、無意識あるいは善意で使用される状況はあると思います。「攻撃の手段として属性をコメントすること」は個人攻撃であると思いますが、「相手の属性を口に出していない対人論証(決めつけていない)」や、「属性を口に出しただけ(攻撃していない)」などは個人攻撃ではないと思います。また、「攻撃の手段として属性をコメントすること」とは、「個性や信念についての攻撃」も兼ねているという言い方も出来ると思います。
- 「あなたが電車オタクなのはわかりましたが、いったい、ファッションの何について詳しいのでしょうか?」「電車オタクなのに、ファッションの何が分かるというのでしょうか」「電車オタクのくせに口出すな」
- 前者は単純に質問されただけかもしれません(無意識な論理のすり替え)。後の2つは個人攻撃の例です。
- 「あなたが電車オタクなのはわかりましたが、いったい、ファッションの何について詳しいのでしょうか?」「電車オタクなのに、ファッションの何が分かるというのでしょうか」「電車オタクのくせに口出すな」
- 「あなたも、同じ事を別の記事でされてますよね?」
- これは対人論証の一種ですが、相手の属性を口に出していないので個人攻撃ではないと思います。「お前だって論法」は、対象を相手に置き換えることで、「あなたが主張していることは、実際にはあなた自身も行っている」という気づきをうながし、相手の主張の誤りを気付いてもらうことを目的に発言されることもあると思います。第三者が、善意で、「AさんもBさんと同じ事をしていますが、これはなぜですか?」と聞くときにも使われると思います(善意の使用)。
- 「あなたも、同じ事を別の記事でされてますよね?」
- 「あたなは電車オタクですか?」「お前こそ電車オタクだろ」
- これは、後者だけが個人攻撃だと思います。前者は「電車オタク」を蔑称として用いずに単純に質問されただけかもしれません。「お前こそ電車オタクだろ」は、「電車オタク」という属性への攻撃も兼ねていることは口調からわかります。
- 「あたなは電車オタクですか?」「お前こそ電車オタクだろ」
- 英語版 「Using someone's affiliations as an ad hominem means of dismissing or discrediting their views」
- EULEさん案 「相手の属性を理由にして、相手の意見を否定したり、信用できないとする人身攻撃。」
- はるみエリー「人身攻撃の手段として、相手の意見を否定したり信用できないと主張するために、相手の属性をコメントすること」
- 英語版の「Using someone's affiliations as an ad hominem means of dismissing or discrediting their views」について、改定案では「相手の属性を理由にして、相手の意見を否定したり、信用できないとする人身攻撃。」と、和訳されています。しかし、はるみエリーとしては、「人身攻撃の手段として、相手の意見を否定したり、信用できないと主張するために、相手の属性をコメントすること」という意味であると理解しました。英語版で「Using someone's affiliations as an ad hominem means (人身攻撃の手段として属性をコメントすること)」と書いてあります。EULUさんは、英文を反映させることが目的ではないからなのかもしれませんが、個人攻撃と人身攻撃を混同されているように見えますが、この部分は英語版を忠実に反映させるか、現状のままのほうが良いと思います。--はるみエリー(会話) 2017年6月25日 (日) 00:06 (UTC)
- >「anywhere」の件
- 指摘ありがとうございます。それは単純に誤訳、私のミスです。直しましょう。途中、途中で何度も言っておりますが、別に私は完璧な人間ではございませんので、間違いもあります。そういうのがあるかもしれないから、誤訳などの間違いがあったら指摘してくれ、あるいはそのまま移行したのでは日本語版だと馴染まないものもあるかもしれないからコメントをくれ、そのために十分な合意期間を設けるから、というスタンスでやってます。だから、本当にこういう指摘はありがたい。ちなみに、本当に氏が懸念する通りのことを私が狙っていたとするなら、「どんな形をとっていようと個人攻撃」「個人攻撃の禁止はウィキペディア全体に等しく適用されます」「だからといって個人攻撃が許されるわけではありませんが」も削ってあるはずです。
- 私が色々と問題視しているのは、言ってみれば「英語版とも異なる新たな解釈が入り込んでいるように見えますが、これらについても根拠が不明」と印象論でしかいわず、具体的にどこがそうか言ってくれないことです。すくなくとも例の部分以外は、基本的には英語版をそのまま借り受けてるはずだから、特殊な事情がない限り(調停委員会の有無とか)、解釈に差があるはずが無いんです(あるとすれば、それこそ私がミスしてる可能性が大でしょう)。だから、具体的にどこに英語版との齟齬があるのか、具体的にどこか根拠薄弱なのか、指摘してくれれば、上記の「anywhere」の件のように対応できるし、それが建設的な議論というやつですよ。
- 結局なんですかね、無能で説明できることに悪意が見出されてるんでしょうねぇ。--EULE(会話) 2017年6月25日 (日) 10:56 (UTC)
- Wikipediaは「用語を定義する場」ではないので、一般にも論争の多い用語について、特定の定義を主張するような記述を安易に行うべきではありません。現に個人攻撃と言う言葉は多義的に使われていて、「個人攻撃」と「個人攻撃でない物」と言う二分法に固執した改定案は(上でも言われているように)それらを一律に罰せると言う誤りを呼びます。悪意のない対人論証は対話で対応できますが、脅迫や侮辱は危害を伴う犯罪です。またそれら定義の追加を「英語版に沿った改定」と言う別件に隠して、既成事実化を進める提案は不誠実です。翻訳部分についても、意味はあまり変わっていないのに、相対的に現行版よりぎこちなく、改定の口実として無意味な変更をしているように見えます--Towns(会話) 2017年6月21日 (水) 19:17 (UTC)
- Towns氏へ
- >Wikipediaは「用語を定義する場」ではないので、一般にも論争の多い用語について、特定の定義を主張するような記述を安易に行うべきではありません
- Towns氏のご指摘は非常に曖昧であって返答に困ります。すべてとは言わないので、そういう箇所を具体的に指摘してください。具体的に、どこがウィキペディア独自に用語を定義しているのか教えてください。
- 例えば争点となっている「議論や言論における個人攻撃」について「対人論証を含むこと」も、「穏当な表現であっても対人論証に当たること」も、私独自に用語を定義した(したい)わけではありません。論理学でも、弁論術でも、議論の仕方と第される書籍などでも書かれていることです(正確にいえば「対人論証は個人攻撃に含まれない」とか「穏当な表現なら相手の属性や人格を批判する論理展開でも個人攻撃にならない」という定義を私は寡聞にして知らない)。
- 別にそういった素養がない人がいることは仕方がないことだし、そういった人が「議論の仕方」にも関わる話題に口をだすなとも申しませんが、だからこそ、そういったことも踏まえて議論をするわけです。知らないだけかもしれないし、方や思い違いをしているだけかもしれないし、第三の道が見つかるかもしれないし、そういった認識の齟齬を埋めるのが議論です。その結果として齟齬が埋められなかったら、それはそれでしょうがないでしょう。しかし、 論争があるんだから提案自体が不当など言うのは、非常に不適切な指摘と言わざるをえない。
- >一律に罰せると言う誤りを呼びます
- >悪意のない対人論証は対話で対応できますが、脅迫や侮辱は危害を伴う犯罪です
- 具体的に現状と比較して改訂案のどこにそれがあるのか指摘してください。「悪意のない対人論証」が「対話での対応」ではなく「一律に罰」すべしと、フリーハンドで乱用を許すような箇所がどこにあるのか指摘してください。悪用の危険性なら現状だって同じであるし、そうした人を見かけたら、現状文でも改定案でも対話を進めてる箇所を引用して窘めるだけしょう。
- 無論、私の認識不足の部分もあるでしょう。現に初期案から指摘いただいてだいぶ直しております。一切の瑕疵は無い、誤謬は無いなどとは申しません。具体的に「この箇所はこういう危惧がある」という風に指摘していただければ、それを踏まえて自分の考えを述べるなり、もっともな指摘だと感じて直すなりするでしょう。それが議論です。そこで曖昧な物言いに終始し、やや動機面も暗喩した手続き論で、All or Nothingの二分法で議論自体を否定することに、私は非常に強い憤りを感じます。--EULE(会話) 2017年6月23日 (金) 08:07 (UTC)
- 返信 [自分自身の軽率なコメントを除去しました。]今回、何の脈絡もなく追加された定義文は、[自分自身の軽率なコメントを除去しました。]EULE氏の「俺ならこう裁定する」と言う個人的なまとめに過ぎず、一切裏付けがありません。また論理学における誤謬は罰則を与えたりルールで取り締まる物ではありません。専門用語と言うのは、その分野内においてのみ定義が共有されている言葉であり、教養があるように見せたいだとか、他者を見下したいと言う目的で振り回す為の言葉ではありません。--Towns(会話) 2017年6月24日 (土) 12:29 (UTC) インデント修正--MaximusM4(会話) 2017年6月24日 (土) 15:07 (UTC)
- ようやく率直に話していただいてありがたいです。私も婉曲な表現には、言質を取られないように慎重にならざるをえないので(人の意見を決めつけるなと言われちゃうので)、理解しててもはっきり言えなかったのです。で、回答ですが「お前の動機が気に入らないから反対だ」などというのはおおよそ議論に対する冒涜で相手のしようがありません。--EULE(会話) 2017年6月24日 (土) 12:51 (UTC)インデント修正--MaximusM4(会話) 2017年6月24日 (土) 15:07 (UTC)
- 一点のみ。上記にて触れましたが、対人論証が論点相違の虚偽という詭弁であり人格攻撃に区分されることは論理学上の定義であり、EULEさん独自の定義ではありません。「個人的なまとめに過ぎず、一切裏付けがない」 でないことは言うまでもなく、「個人攻撃かどうかを俺が裁定してやる、と言う傲慢」 に至ってはもはや感情論の域と映ります。反論を述べるのであればロジカルに。--MaximusM4(会話) 2017年6月24日 (土) 15:07 (UTC)
- 現行の「個人攻撃はしない」の方針は論理学に基づいた内容ではなく、これを論理学の定義に変更するべきという提案は重大な変更です。英語版に沿った改定、といった瑣末な変更に見せかけた定義の追加は利用者の関心や正常な議論を阻害する物です。また対人論証に関係するページを見てもEULE氏の定義するような細かな分別は載っておらず、単に「論理学の言葉を使って」いるだけで、その定義内容に裏づけがない事に変わりがありません。--Towns(会話) 2017年6月24日 (土) 15:40 (UTC)
- 追記曲解されると困るので補足しますが、対人論証を行って良いなどと言っているのではなく、何が対人論証で何がそうでないかを、個人の経験則に基づいてあたかも一般真理のように記述している事が問題です。また対人論証はルールで決まっているから行ってはいけない訳ではありません。現行の方針は、個人攻撃によって起きる被害を最小限に食い止めようとする物であり、EULE氏の提案はこれをあれは対人論証だ、いや対人論証ではない、と言った瑣末な認定合戦に置き換えようとしている内容です。--Towns(会話) 2017年6月24日 (土) 16:02 (UTC)
- >専門用語と言うのは、その分野内においてのみ定義が共有されている言葉
- >現行の「個人攻撃はしない」の方針は論理学に基づいた内容ではなく、これを論理学の定義に変更するべきという提案は重大な変更です
- あと除去されてしまいましたが「専門用語と言うのは、その分野内においてのみ定義が共有されている言葉であり、一般の用法より優れていると言う意味はありません。」などもTowns氏の持論を表すものとして有用だと思いますので、それも含め、これらのご指摘には4つの誤りがございます。
- まず第一に一般の用法が正しいことを意味しないこと。第二に、だから一般と専門のどっちが妥当か議論する必要があること(ここで議論そのものを否定することは言論の冒涜であり、私は強く憤るということ)。第三に対人論証は、特定の分野でのみ通用する専門用語でないこと。第四に、現状のウィキペディアにおいても、個人攻撃とは論理学上の対人論証を含意していることです。英語版でも、現行版でも人身攻撃を挙げているし、コメント依頼や、ブロック依頼でも、まさに標準名前空間の個人攻撃や人身攻撃を引用して個人攻撃と断定しているケースはよくあります。あたかも、現行版や現在のウィキペディアにおいては論理学や弁論学上の個人攻撃や対人論証は対象外になっているかのような現状認識は誤りだと言わざるをえないです。--EULE(会話) 2017年6月25日 (日) 10:56 (UTC)
- 現行の方針では「ウィキペディアでは、IPユーザー・ログインユーザー問わず、利用者への個人攻撃を絶対にしないようにしてください。」ということばで始まり、「個人攻撃は絶対に行ってはなりません。いかなる場合であっても、他の投稿者を攻撃する理由はありません。」という太字が目に入ってくる、このレイアウトも秀逸であると思います。改定案では、「ウィキペディアでは個人攻撃をしないでください。投稿した人についての意見ではなく、投稿された内容についての意見を述べてください。個人攻撃は、ウィキペディアのコミュニティと、良い百科事典を作成するのに必要な協調関係に害をもたらします。」と続くため、「投稿した人についての意見」を言うことが個人攻撃であると勘違いしやすいのではないかと思います。一方、現行の方針は、全部を読めなくても、冒頭だけで、主旨は伝わるようになっています。改定案の「鉄道オタクのあなたが、なんでファッションについて詳しいといえますか?」などの例文についても、このような発言は悪意ではなく単純な疑問として質問する人もいるかもしれません。「鉄道オタクのくせに、ファッションに口出しするな」であれば明らかに暴言です。「宗教や人種、性的指向、民族性などを構成するものに対する意見の不一致は、言い訳になりません。」についても、「宗教や人種、性的指向、民族性などを構成するものに対する意見の不一致」とはなにを指しているのかわかりにくいと思います。全般的に、従来のほうが一発でわかりやすいと思いました。随分議論が進んでいる中、今頃になって、というタイミングでのコメントとなってしまったことについては、すみません。--はるみエリー(会話) 2017年6月22日 (木) 00:07 (UTC)
改定することには賛成です。しかし、一例をとっても、英語版冒頭「Do not make personal attacks anywhere in Wikipedia. 」を「いかなる場合であっても、個人攻撃は絶対に行ってはなりません(直訳)」ではなく、「ウィキペディアでは個人攻撃をしないでください。(改定案)」と「anywhere」を落としてしまうなど、そういう大きな改変についても、まったく説明がありません。改定案には、英語版とも異なる新たな解釈が入り込んでいるように見えますが、これらについても根拠が不明です。個人攻撃と対人論証が混同されてしまい、英語版とも現在の方針とも異なる、独自な内容になってしまってはいないでしょうか。実際の議論の場においては、個人攻撃の概念がより複雑かつ曖昧になることは、デメリットしかありません。--はるみエリー(会話) 2017年6月25日 (日) 00:06 (UTC)
レベルに関係なく一緒くたに「個人攻撃」として例示している事に異論が出るのではないでしょうか(対応方法も載っていますが、煩雑に感じます)。はるみエリー様達が危惧されているのも頷けます。
- レベル4「あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、見つけ出して殺してやる。」:匿名相手でも脅迫罪が成立すると思います。
- レベル3「あなたはホロコーストを肯定(否定)した記述を行ったので、名誉毀損で訴える準備がある。」:個人攻撃以前のブロック対象となる法的脅迫です。
ここまでのレベルは即刻、管理者伝言板に報告します(個人攻撃以前の問題なので、載せる必要があるのでしょうか?)。以下は、自分に向けては不問(「他者には言うな」程度の注意はしますが)
- レベル2「あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、あなたのリンゴが身体に良いという記述は信用できない。」や「あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、ウィキペディアへの参加資格はない。」:他者に向けてであれば管理者伝言板に報告します。
- レベル1「あなたはユダヤ人(ネオナチ)だから、あなたのホロコーストに関する記述は信用できない。」:他者に向けてであれば内容や言い方によっては注意します。上記で申したホワイト編集であれば、1レベル上げて(つまり管理者伝言板行き)対処します。
最後のケースで、「貴方は~を名乗っているのだから、御遠慮ください」であれば個人攻撃ではないと判断しています。何かを名乗るような人が、Wikipediaで自制して編集できるとは思いません。これは上記で申し上げたように、今までの経験論です。WP:IINFOかどうか、ケースEかどうか、は恣意的に判断される部分もあり、ネオナチのAさんとアンチネオナチのBさんがいれば、WP:IINFOの除去・加筆の票は相殺されますが、ネオナチのAさんしかいなければ、常に1人分の意見がネオナチ擁護に働くわけです。なお、別の話(今更すみません)ですが、「あなたは個人攻撃をしている。だからあなたの私の記述への指摘に対してまともに取り合う必要はない。」は、個人攻撃だとは言えない場合もあります。論争中に「JapaneseAは左翼(右翼)だ。記述が恣意的だ」と来れば「恣意的だとする箇所を具体的に」と返しますが、荒らしやブロック破りが同じ事を言えば取り合う必要はないと判断しrv/vします。法律と違って、Wikipediaの方針は悪用する人は少ないので、ある程度は性善説で良いのですが、そうも言ってられない戦場のようなノートもありますので。なお、Wikipedia:私論とは誰か1人の私論ではないので、掲載するには少なくともこの場でのある程度の合意が必要かと思います。--JapaneseA(会話) 2017年6月25日 (日) 10:05 (UTC)
何が問題かと言うと、個人攻撃かどうかは様々な要素が絡むのに、特定の例Aは個人攻撃で、そこからちょっと変えたBは個人攻撃じゃありませんよ、なんて書いてしまったら、そのちょっと変えた部分が個人攻撃の条件であると言う解釈を生んでしまいます。思いつく限りの例外を書いてみせた所で、そんなのは網羅できる訳がありません。こういう境界例の提示は書き手の自己満足に過ぎないし、一般化された基準になる訳でもなく、無限に考えられるケースの中でなぜそれを例示したのかも根拠が分からないし、曲解の原因にこそなれ役に立つ場面があるとは思えません。またこの場であれやこれや弄くり回しても、網羅的に正しい定義を作るのは不可能ですし、ばっさり削除をする以外にないと思います。もともと英語版にもない記述なので、改定の理由から言っても、それでまったく問題ない筈です。--Towns(会話) 2017年6月25日 (日) 11:41 (UTC)
- >やんわりと「それはその人の主張が正しいかとは関係ないので、『投稿された内容』についての意見を言ったほうがいいですよ」と言えば済む話かと。それを何度やっても済まないようなお方なら、それこそ方針が理解できるまで投稿ブロックするしかないでしょう。
- 具体例や引用は控えますが、そもそも個人攻撃を言われる方は、たいていやんわりと言っても、何度言っても、聞いてくれることはあまりありません。たいていの場合は、「自分の発言は個人攻撃ではない」と強く主張され、「個人攻撃だと虚偽を言うことが個人攻撃ではないのか」と言い返されることさえあります。コメント依頼や投稿ブロック依頼でも、論争の延長線における対立であれば管理者の判断も難しくなってきます。実際は、やんわりと言って済むことはほとんどなく、ブロックも非常に難しいと感じています。--はるみエリー(会話) 2017年6月25日 (日) 14:01 (UTC)
改定案に賛成できない一番大きな理由は、概念がより曖昧になっているためです。個人攻撃をする方は、たいてい自分にとって都合が良い解釈を主張します。但し書きが多ければ多いほど、自分が個人攻撃を言った理由の正当性を主張しやすくなります。逆に、自分への暴言には敏感だったりもされて、侮辱的な言葉についてすぐに個人攻撃だと声高に大げさに言われ、その際には、再び自分にとって都合が良い別の解釈をします。概念が曖昧になると、個人攻撃を多用する人にとって有利な状況をつくりだすことになり、逆に、個人攻撃を言われる被害者は言われっぱなしになりやすくなります。新規参加者にとって不利となり、熟練LTAに一番利する改定となる可能性さえあります。改定は必要であると思いますが、一気に全部は英語版を見るだけでも時間がかかってしまうので、段階的に行った方が確実ではないかと思います。TownsさんやJapaneseAさんなどが反対される理由についても、根っこの部分で同じような危惧を感じられているように思います。ということは、逆に、そこを急がずに慎重に議論しさえすれば、それ以外の部分の合意はスムーズにできるのではないでしょうか。
- 日本語版に書かれていないことを英語版から直接足すだけ。英語版にないことを日本語版から削るだけ。
- 日本語版と英語版に微妙な相違があってそのまま反映できないことを加筆
- 英語版にないが新たに日本語版に加筆したほうが良いことを加筆
出だしが苦情ばかり言っているようなかたちとなってしまいましたが、あれだけの長文を和訳をされ、これまでも意義深い議論をされていた皆様には感謝の意を表します。--はるみエリー(会話) 2017年6月25日 (日) 14:01 (UTC)
冒頭についてのコメント
[編集]今の日本語版の冒頭は、同じ事を繰り返し言っていたり、個人攻撃がなにかよくわからないまま何度も出てきたりなど、そういう意味では悪文と言えるかも知れませんが、感情に訴える文章とレイアウトであり、頭に血がのぼった人に個人攻撃をやめてもらえる効果は、改訂案の冒頭よりも大きいのではないかと感じています。この方針の冒頭は、文章の簡潔さ、ストレートさが大事だと思いますので、ひと目でわかりやすいほうがいいですし、なくても意味が通じる言葉を極力削ったほうが良いと思います。
- 冒頭については、今の日本語版をベースにどこを変えるかという視点で検討するのはいかがでしょうか。「ジミー・ウェールズが〜」を含む最後の文章は除去でいいと思いますが、「その人の意見に賛成・反対にかかわらず、他の投稿者を粗末に扱わないで下さい。」までは、大部分そのままのほうが良いと思います。
- 改訂案の「投稿した人についての意見ではなく、投稿された内容についての意見を述べてください」よりも、「関係あるのは記事であって、それを書いた人物ではありません」のままのほうが、直感的にわかりやすいと思います。直訳は「投稿者にではなく、記事についてコメントしてください」でしょうか。冒頭は、「意見を述べてください」と丁寧にするよりも、「言わないで下さい」とストレートで強めにしたほうが良いと思います。文字数も少ないほうが良いと思います。
- 「個人攻撃は除去されます」→改訂案「投稿者個人を侮辱するコメントは誰でも除去することができます」と概念が大きく変わる点について。「個人攻撃(や暴言)は除去されます」、「個人攻撃(や暴言)は誰でも除去できます」などが良いと思います。「侮辱」を誰でも除去できることになると、自分への批判や直言をガンガン除去できる事態が起こってしまうかもしれません。たとえば、「ソックパペットですか?」と聞くと「侮辱だー」と除去が頻発し、聞くことさえできなくなるかもしれません。
- ちょっと話が逸れます。まず、はるみエリー自身は、今は「ソックパペットですか?」と言われても単なる質問であると考えていますが、ほとんどの人にとっては「侮辱」や「屈辱」と感じるだろうと思います。「ソックパペットですか?」は、言っている人によって、嫌がらせか単純な質問かが分かれる発言です。議論になじみのない方が「ソックパペットですか?」と聞くときは、ほとんど間違っていることが多いと思いますが、言っている本人は本気で信じ込んでいると思います。ベテランが言っていても、その分野に詳しくない場合は間違っていることもあると思います(違いを見逃してしまい、同一意見を言い、行動も同一であると勘違いしてしまう)。ベテランが言ったことが当たっていても、相手の熟練LTAが全く認めずに、「個人攻撃だー」などと大げさに反論されることもあります。捨てアカが言っていたら嫌がらせです。
- 「ソックパペットですか?」は、普通は「侮辱」以外の何物でもないですが、「侮辱」を誰でも除去できることになると、LTAがルールを悪用して除去しまくったり、「逆に個人攻撃を受けた」などと文句を言って優位に立つなどのデメリットが生じてしまうかもしれません。また、「あなたは方針を理解していないために記述が信頼できません」などという直言的な批判についても、虚偽であるから「侮辱」だなどと消されてしまい、対話にならない可能性があります。--はるみエリー(会話) 2017年6月25日 (日) 14:01 (UTC)