Wikipedia‐ノート:出典を明記する/過去ログ2

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テレビドラマ、テレビアニメなどの出典元[編集]

テレビドラマ、テレビアニメなどの記事が多く作成されており、その中に「実際に作中でそのような描写があった」旨の記述がよくあります。例として轟轟戦隊ボウケンジャーの登場人物#深き冒険者 ボウケンピンク / 西堀 さくら(にしほり さくら)で、「一方で、意外にコミカルな一面(休暇の際に一人で甘味屋に寄ったり、パフェのやけ食いでストレス発散したりするほどの甘党」という記述がありますが、これは現時点でどの公式書籍にも載っておらず、実際に番組内容を見なければわからないことです。この点について Wikipedia:井戸端で質問したところ、このような回答を頂きました。

現在、テレビドラマ・アニメの記事が膨大に作成されており、その中には上記のように番組内容を見て判断するしかないケースも多々あります。ビデオかDVDでリリースされているものもありますが、そうでないものもあります。実際にテレビ番組放映内容で描写されていたことした情報源がない場合のガイドラインの追記を希望します。

追記されていない場合、先に挙げたような記事の執筆者が出典元を問われた際、「そんなことは出典元の書き方はガイドラインのどこにも載っていない」と言いかねません。--逃亡者 2007年1月31日 (水) 06:44 (UTC)

当案件については、「出典:第○回(○月○日放映分)」とでも書くことになるのでしょうかねえ。それが検証可能な状態で公開されていない(未DVD化等)のであれば、検証可能性の問題だから、出典の明記の有無には全く関係がなく、「その放映分はDVD化されていないから検証可能性がない」とクレームが出れば、出典を書いていようがいまいが、WIKIPEDIAの原則どおり(すくなくともDVDが発売されるまで)コメントアウトでもしておくしか無いのでしょうか。余談になりますが、映像ソースからの書き起こしのガイドライン、のようなものも必要なのかも知れませんねえ。(引用一般についてはWikipedia:引用のガイドライン/草案)--58.95.145.142 2007年1月31日 (水) 07:18 (UTC)

井戸端では、現実的に答えをしましたが、ガイドラインとしては、ちょっと微妙なところをいろいろ抱えているような…。--Ks aka 98 2007年2月1日 (木) 17:34 (UTC)
ご参考まで。APA styleにはテレビ放送の引用の仕方が明記してあります。ボウケンジャー第1話を引用すると、このようになるようです。
  • Aikawa, S. (Writer), & Moroda, S. (Director). (2006). The heart of the demon god [Television series episode]. In S. Hedwick, M. Yagi, J. Hikasa, T. Utsunomiya, & K. Yada (Producers), GoGo Sentai Boukenger. Tokyo: Toei Company.
日付まで書いていないのは、エピソードで特定可能だからでしょう。正式にはこれでよいのでしょうが、もう少し便宜を図った書き方だと、次のようにしてもよいかもしれません(TaskはボウケンジャーでEpisodeに相当する言葉です)。
  • Aikawa, S. (Writer), & Moroda, S. (Director). (2006, February 19). Task 1: The heart of the demon god [Television series episode]. In S. Hedwick, M. Yagi, J. Hikasa, T. Utsunomiya, & K. Yada (Producers), GoGo Sentai Boukenger. Tokyo: Toei Company.
これをアレンジして和書の形式に合わせると、こんな感じになると思います。ボウケンジャーの項目でこれだけ書くと煩瑣なので「(タスク1、2006年2月19日)」で十分かもしれません。なので、これはそのテレビ放送の項目以外での引用に向いていると思います。
  • 會川昇(脚本)・諸田敏(監督)「タスク1:魔神の心臓」(テレビ放送)『轟轟戦隊ボウケンジャー』S.ヘドウィック・八木征志・日笠淳・宇都宮孝明・矢田晃一(プロデューサー)、東映、2006年2月19日。
査読ありの雑誌なら、まだDVD化していなくともそれなりに信頼できるかもしれませんが、とくに書き込みのたびに査読のあるわけではないWikipediaの場合は、書いても意味がないのかもしれません。--Shaz 2007年3月26日 (月) 17:02 (UTC)

議論の蒸し返しになるようで申し訳ありませんが、TV放映の「通覧」が検証可能な出典となるのか、ご意見を聞かせて下さい。

具体例として、アニメ・オリジナル・ストーリーで媒体がTV放映に限られる場合に、第○○話~第○○話(約半年分)のストーリーの全体像が詳しく書き込まれ個別にどの話とは特定できない、というような場合です。
問題1、好事家が書き込んでいるものと思われますが、見ていない人には全く真偽の判別ができず、出典は知れるが特定も検証もできない
問題2、そもそも、ちょっと調べようがないほど詳細に全容が書き込まれているということが問題であり、検証可能性がクリアできない以上、場合によっては著作権侵害をしているおそれがある
問題3、仮に関係者が内部資料をもとに作成しているのであれば、DVD販売までの「営利広告」の疑いもある

少し補足しますと、もともと原作マンガのアニメ化(BLEACH (アニメ))なのですが、原作の進行にアニメ放映が追いついてしまい、時間稼ぎにアニメ・オリジナル・ストーリーが挿入された(バウント)、という事情があるとのことです。何度か出典の明記を促したのですが、それ自体が無催告削除されたり無視されたりで、問題3の線も疑われます。このままDVD販売まで黙認するというのも「大人の判断」とは言えますが…。--211.126.19.96 2007年3月27日 (火) 04:10 (UTC)

一般論でも何でもなく、あくまでも個人的な意見です。
そういった記述が必要かどうか、という議論は置いておくとして、検証可能性という観点からは問題ないように思いました。
1は出典が明らかになっており、何らかの方法でその映像を入手できれば検証は可能ということになります。たとえば、放送したテレビ局にはビデオが残されているでしょうから、入手が完全に不可能ということはないでしょう。
2は映像や音声の複製が(確認できないわけですが)あったというわけでもなく、あらすじレベルであれば著作権侵害は発生しないように思われます。
3は無理筋のように思えます。内部関係者が作成したという証拠が提示できるでしょうか。
対象となる記事そのものを見ているわけではありませんが、上記の理由で、検証可能性は満たしていると考えています。ただ、ここで指摘されるほど詳細な解説が必要な記事には思えないので、「百科辞典的か否か」という観点から議論を進める必要性を感じます。--Tamago915 2007年3月27日 (火) 04:22 (UTC)

ご指摘感謝します。「検証可能性」と「百科事典的か否か」ということを混同していました。 「百科事典的か否か」ということに関しては、私の手には負えないので、もう少し様子を見たいと思います。 内部資料の引用ではないのだろうか、との疑いは捨てきれませんが、それこそ証明できない主観に過ぎませんでした(反省)。 暗雲晴れたり、といった感じです。ありがとうございました。--211.126.19.96 2007年3月27日 (火) 04:46 (UTC)

皆様、ご回答・ご意見ありがとうございました。お礼を申し上げることをすっかり忘れておりました……あまりにお礼が遅れすぎて大変申し訳ありません。自分の疑問が解決できた時点でウォッチリストから外してしまいましたので、思いのほか話題が膨らんでいることにも気づきませんでした。とても参考になりました。重ね重ね、ありがとうございました。--逃亡者 2007年5月28日 (月) 21:16 (UTC)

ビデオ、DVD、音楽(レコード、CD)などの出典元[編集]

上記のような記事が多数、既に作成されています。このようなケースのガイドラインの追加を希望します。

「和書と同じ要領で良いのではないか」という意見が某所でありましたが、それでよろしいのでしょうか。

例)

  • ○田○子『○○○○(タイトル)』 ○○○(メーカー)、xxxx年(発売された年)

一部では発売年月日まで必要ではないか、という意見も出ておりますが、いかがでしょうか?

--逃亡者 2007年2月1日 (木) 15:51 (UTC)

記述内容にも拠りますが、カタログ番号、というのもあります。ガイドラインというのは、どこまで書かなければならない、というものではなく、できるだけこれを考慮して欲しい、というものなので、ガイドライン化するとしたら、厳しめのものを採用する、あるいは逆にせめてこれくらいは、というものを採用するという意見がそれぞれ出てくるかもしれません。--Ks aka 98 2007年2月1日 (木) 17:39 (UTC)
記述内容にも拠りますが……とのことですが、一例として私の作成した記事、時空警察ヴェッカーをご覧下さい。
この記事中、逸話はDVD内容に確実に描写されている映像に基いた項目であり、他の公式書籍類には一切載っていません。
他にも物語登場人物は、公式Webサイトも出典元と言えますが、DVDを見ての加筆した記述もあります。
このようなケースではいかがでしょうか?
あと「タイトル番号」とは何でしょうか? 実際そのにDVDは手元にありますが、「カタログ番号」と明記した項目はパッケージ上になく、色々と番号やら記号の羅列があり、今ひとつわかりませんでした。
どうかご教授のほど、よろしくお願い致します。
--逃亡者 2007年2月1日 (木) 21:02 (UTC)

出典を明記する目的は、他者に検証可能性を明示する事につきるので、容易に再検証できるような情報を付記するのが親切でしょうね。DVDからの引用は全く経験がないので素人考えですが、たとえば放送回(第○話)の該当時間(開始後○○分頃)などと注釈されていれば、再検証する能力のある(同好の士)にとっては有益な情報でしょう。--58.95.145.142 2007年2月2日 (金) 00:48 (UTC)

半年前に、「書籍、ウェブサイト以外の資料を使用する場合」としてさまざまな資料を挙げ、書式の一例を示してよいかについてたずねたことがあります(過去ログに収録)。そちらに挙げたものについて、私は、すべて「検証可能性があるもの」と判断しておりますが、そのことと「編集者の便宜のために書式を用意しておくべきかどうか」は別の問題だと考えておりますので、みなさんに判断してもらおうと思っていたのです。
なお、論文にも学会誌に投稿されたものから、大学の研究紀要、博士論文、修士論文、卒業論文まであり、音楽学博士の久保田慶一氏は、後の二者は「学外者が閲覧することが難しい」とし、参考にするにあたっての注意を促しています(『音楽の文章セミナー』音楽之友社、2006年、53頁)。--Nattilv1 2007年2月12日 (月) 03:03 (UTC)

逃亡者氏の提議にはこのような懸念が含まれていると考えます『動画やセリフなど文字媒体以外からの書き起こしは独自研究・独自調査になるのではないか?それはWIKIPEDIAで禁止されている行為ではないのか?』これは重要な論点ですが、出典を明示するスタイルについての議論とは切り分けておく必要があるでしょう。一般に検証可能な状態で出典が明示されている投稿なら、その真偽や投稿内容の中立性を検証するのは、出典明記を請求した側になるだろう。そもそも動画媒体に出典としての適格性が認められるか、Wikipediaコミュニティがそれを認めるか、という議論は検証可能性あたりでの議題ではなかろうか。--58.95.141.91 2007年2月12日 (月) 04:24 (UTC)

Wikipedia:検証可能性では、そもそもそういう個別案件ごとに踏み込んだ内容は扱ってません。出典については、媒体が何かによらず「信頼できる情報源」であることを要求しているだけです。なので、より各論的に踏み込んだWikipedia:信頼できる情報源で、それらがその分野において「信頼できる情報源である」ことを主張し、認められれば、検証可能性には矛盾しません。
なお一般には、映像媒体も出典になりえますし、そのための引用スタイルも学術論文等に存在します。ただし、実際に放映された映像作品そのものは、Wikipedia:信頼できる情報源で言うところの一次情報源以前の「単なる事実」であり、その事実を記載することには問題はない(あくまで、検証可能性からは、であり、内容が極めて瑣末などNPOVバランス上などからは、問題のあるケースもある)けれど、それをまとめることで何らかの意見のまとめとして述べる、ということであれば、独自の調査に該当するでしょう。そのような「まとめの意見」を書きたいのであれば、そのまとめの意見自体がウィキペディア外の、信頼できる情報源(一次情報源)を出典とすべきだと要求されるでしょう。さらに理想的には、可能であれば、それらをまとめた二次情報源を出典とすべきでしょう。重要なのは、記述された内容のうち「事実と意見」「事実と判断」の部分の区別をつけ、それぞれに出典を考えることかと。--Y tambe 2007年2月18日 (日) 02:28 (UTC)

ウィンジェル『音楽の文章術』(春秋社)の82-83頁、および巻末にある宮澤淳一・小倉眞理編「文献(・資料)の書き方」の(41)~(45)頁に、録音資料、映像資料の書き方が挙げられています。

クラシックCD、レコードには特定の題名を持たないものが多いという事情から、レーベル名と発売番号(製品番号)は「絶対に落としてはならない」(83頁)とされています。録音が同じであっても、番号が変わるとライナーノートが異なることがあります。逆にいえばこの2つ以外が欠けていても録音物の特定は可能だということです。これは他の分野の録音にもいえるでしょうから、逃亡者さんが最初に出した例については、

  • ○○○(メーカー)、xxx 1234(発売番号)

でよいということになります。DVDやビデオなどについても大部分には番号が記載されていたことと思います。もちろん、演奏者、アルバムタイトル、録音年、録音地、発売年、トラック番号なども必要に応じて、または書き手の好みで記載することができます。詳細は「文献(・資料)の書き方」を参照してください。なお、ウィンジェルはCD、レコードの区別を記述していませんでしたが、宮澤は発売番号の後に「SP,LP,CD……などの区別を施す」((42)頁)としています。私としては、書き手にまかせたいと考えます。

解説の書き方は何通りか載っていたのですが、「絶対に落としてはならない」もの以外を省略したうえで整理すれば、

  • 執筆者名 ○○(アルバムタイトル)の楽曲解説 △△(レーベル)、xxxx-1234~5(発売番号)。
  • 執筆者名、楽曲解説、△△(レーベル)、xxxx-1234~5(発売番号)。
  • 執筆者名「○○における○○と○○」(録音解説) ○○(アルバムタイトル) △△(レーベル)、xxxx-1234~5(発売番号)。

といった感じになります。--Nattilv1 2007年3月20日 (火) 02:40 (UTC)

テレビドラマ、テレビアニメなどの出典元共々、皆様、ありがとうございました。お礼があまりに遅れすぎたことを重ね重ねお詫び致します。
--逃亡者 2007年5月28日 (月) 21:16 (UTC)

「出典を明記する」の節について[編集]

出典を明記する#出典を明記する」の節についてコメントさせて下さい。「執筆者が参加しない場合や、議論の参加者の間では出典を示すことが困難であれば、{{要出典}}テンプレートを記述の後に挿入してください」という一文は「要出典」テンプレートが何を意味するテンプレートなのか不明確にしてしまわないでしょうか? Template:要出典では「要出典」テンプレートは、執筆者が参加しない場合に使用するものではなくて、「出典の明記」テンプレートや「未検証」テンプレートを添付する際に、出典を求める記述を特定するために使用するものだと説明されています。修正案として「執筆者が参加しない場合や、議論の参加者の間では出典を示すことが困難であれば、このような記述を含む記事や節の冒頭に 「出典の明記」テンプレートを置いておくのも良いでしょう。」とする等を考えてみましたが、微妙に疑問を感じてしまい、まとまりませんでした。Sina 2007年2月11日 (日) 17:12 (UTC)

(節立てます)議論中のものから引っ張ってきたので未完成なのは当たり前、と開き直ってみます(Ks aka 98さんすみません)。節の名前も含め、テンプレートの現状に合わせた調整が必要と思います。--スのG 2007年2月12日 (月) 12:47 (UTC)
んー、あやまられる筋合いはないと思いますが…。とりあえず代替案。
参考文献がまったく挙げられていなかったり、出典の明らかでない評価などの記述があったりしたら、記事や節の冒頭に {{出典の明記}}テンプレートを置いておくのも良いでしょう。どの記述に出典が求められるかについて、ノート欄で指摘したり、執筆者に出典を求めることで、すぐに解決するかもしれません。もしもあなたが良い出典をお持ちでしたら、ぜひご提示ください。
編集者の間で真偽を巡り対立が生じると思われる記述を見つけた時には、ノート欄で指摘して話し合ってみてください。執筆者が参加しない場合や、議論の参加者の間では出典を示すことが困難であれば、このような記述を含む記事や節の冒頭に {{出典の明記}}テンプレートを置いておくのも良いでしょう。この場合は、{{要出典}}テンプレート(このようなものです[要出典])を、出典が求められる記述の後に挿入してください。
また、既に内容に疑いがあり、閲覧者が信じることが望ましくない場合には、{{未検証}}テンプレートを使うことも検討してください。自分で編集することが可能ならば、もちろん編集しても構いません。
どうすか?もっと整理してもいいようにも思ったけど--Ks aka 98 2007年2月12日 (月) 13:43 (UTC)
ダブりだけ取りますと、
参考文献がまったく挙げられていなかったり、出典の明らかでない評価などの記述があったりしたら、記事や節の冒頭に {{出典の明記}}テンプレートを置いておくのも良いでしょう。どの記述に出典が求められるかについて、ノート欄で指摘したり、執筆者に出典を求めることで、すぐに解決するかもしれません。もしもあなたが良い出典をお持ちでしたら、ぜひご提示ください。
編集者の間で真偽を巡り対立が生じると思われる記述を見つけた時には、ノート欄で指摘して話し合ってみてください。執筆者が参加しない場合や、議論の参加者の間では出典を示すことが困難であれば、このような記述を含む記事や節の冒頭に {{出典の明記}}テンプレートを置き、{{要出典}}テンプレート(このようなものです[要出典])を、出典が求められる記述の後に挿入してください。
また、既に内容に疑いがあり、閲覧者が信じることが望ましくない場合には、{{未検証}}テンプレートを使うことも検討してください。自分で編集することが可能ならば、もちろん編集しても構いません。
文の大幅整理は他のかたにお任せします。私はテンプレート関係でさんざん我を通したばかりなので、ガイドライン本文にまで介入しすぎるのはバランスを欠いてしまうと思っています。--スのG 2007年2月14日 (水) 13:51 (UTC)
言っ放し状態にしてしまい申し訳ないと思いつつ時間がとれませんでした。スのGさんに本文に介入して頂いてもバランスを欠いて問題があるとは全然思いませんけれども(あ、負荷のバランスが悪いのが問題?)、お二人の文案をみて、「出典の明記」テンプレートが添付される状況が2パターンあることには問題なさそうでしたら、その部分はそのまま残して、「要出典」だけ文を分けてはどうかど思いました(微妙に推敲もしてみました):
参考文献がまったく挙げられていなかったり、出典の明らかでない評価などの記述があったりしたら、記事や節の冒頭に {{出典の明記}}テンプレートを置いておくのも良いでしょう。どの記述に出典が求められるかについて、ノート欄で指摘し、執筆者に出典を求めることで、すぐに解決するかもしれません。もしもあなたが良い出典をお持ちでしたら、ぜひご提示ください。
編集者の間で真偽を巡り対立が生じると思われる記述を見つけた時には、ノート欄で指摘し、話し合ってみてください。執筆者が参加しない場合や、議論の参加者の間では出典を示すことが困難であれば、このような記述を含む記事や節の冒頭に {{出典の明記}}テンプレートを置き、出典を探していることを周知させてください。
また、既に内容に疑いがあったり、閲覧者が信じることが望ましくない場合には、{{未検証}}テンプレートを使うことも検討してください。自分で編集することが可能ならば、もちろん編集しても構いません。Wikipedia:検証可能性も参照してください。
いずれの場合にも、どの記述について出典を求めているかを特定することが、すみやかな問題解決のために望ましいことです。ノート欄での指摘のほかに、要出典部分を特定するために、{{要出典}}テンプレート(このようなものです[要出典]。出典が求められる記述の後に挿入します)が用意されています。
もっとも「Template:出典の明記」や「Template:要出典」を見ると、各々のテンプレートの使用法の説明が充実していますので、「Wikipedia:出典を明記する」の本節でテンプレートをどのように使うかを説明する必要性は少なくなっていると思います。節の名前や本文の大幅整理をするならば、いっそ、本節の前の節で、出典の明記が必要な理由を述べたあとで、節として分けずに出典の明記のためのテンプレートがいくつか用意されていることを紹介するだけでもよさそうに思います。Sina 2007年2月18日 (日) 10:06 (UTC)
念の為、あと1週間待ちまして特に異議が無い様でしたら上記の2月18日の修正案にて本文を差し換えたいと思います。抜本的に見直すのは、検証可能性+独自研究の合併?が落ち着いた後でよいかと思いまして。Sina 2007年2月25日 (日) 09:39 (UTC)
テンプレート置き換えにかまけておりましてすみません。Sinaさんの改案で、文の流れは良くなっていると思います。支持します。--スのG 2007年2月25日 (日) 10:08 (UTC)

文面の差し換えを行いました。何かお気づきの点がありましたら、どうぞご遠慮なくご意見頂ければと思います。Sina 2007年3月4日 (日) 14:34 (UTC)

出典の書き方(新聞)[編集]

さて、上の方にも書いているのですが、出典として使用される可能性のある媒体のうち、2006年7月10日版において抜けているものを列挙しました。テレビ番組、ビデオ、DVD、音楽CD、レコードの書式については現在話しあわれているようですが、他の媒体についてはなんら進んでいないので、今回は新聞について書式の数例を示し、みなさんのご判断を仰ぎたいと思います。なお、以下の書籍を主に参照しました。

  • 中村健一 『論文執筆ルールブック』 日本エディタースクール出版部、1988年。 以下、左書籍を(A)とします。
  • 櫻井雅夫 『レポート・論文の書き方 上級 改訂版』 慶應義塾大学出版会、2003年(1998年初版)。 同様にこれを(B)とします。なお、(B)を書いている途中に気がつきましたが、「改訂版」「増補版」「復刻版」などの示し方については書かれていません。参考文献の項に『レポート・論文の書き方入門-改訂版』とありますが、これでは副題の示し方と同一になってしまいます。
  • 井出翕、藤田節子 『レポート作成法-インターネット時代の情報の探し方』 日外アソシエーツ、2003年。 同様にこれを(C)とします。
  • リチャード J.ウィンジェル 『音楽の文章術-レポートの作成から表現の技法まで』 宮澤淳一、小倉眞理訳、春秋社、1994年。 同様にこれを(D)とします。 

新聞記事を出典にする場合、次の項目で意見が分かれるかと思います。実際、(A)(B)(C)(D)それぞれ異なる見解を示しています。

  • 新聞の名前を『』でくくるべきか。
  • 記事の名前(どの部分を採用すべきか)。
  • 記者の署名入りの記事の場合、記者名を記入するかどうか。
  • 朝刊、夕刊の区別。版、頁、セクションなども記述すべきか。

どのように異なっているかは煩雑になりますから、今は触れません。それよりも「書式の数例」を示すことを優先します。さて、昨日(3月16日)の毎日新聞(私が今手元に持っている版)のトップ記事は「志賀原発1号機-想定外の臨界事故-保安院-停止・点検を支持」(半角ダッシュごとに文字サイズの大きさが異なります。太字が最も大きく、以下、斜体、下線部、通常と続く。(A)では題名どうしを全角ダッシュやナカグロで結ぶとされていますが、(D)では全角ダッシュ2字分となっています)でした。これを出典として掲げる場合の書き方のうち、最も簡単に記す場合と最も詳細に記す場合の二つを示せば、次の通りになります。

  • 『毎日新聞』2007年3月16日。

(B)128頁による。『』の後にはスペースはありませんでしたので、そのようにしましたが、最後の「。」は実際には「.」となっています。ここでは『』をつけておりますが、(C)では付されておらず、「朝日新聞. 1992.12.13(朝刊), p.11.」(126頁)のようになっています。

  • 高木昭午 「志賀原発1号機-想定外の臨界事故-保安院-停止・点検を支持」『毎日新聞』2007年3月16日付朝刊、第14版、第1面。

(A)や(D)では、見出しのうち、大きい順に二つを記すとされていますが、この記事の場合、3番目以降を省略すると「停止・点検を支持」の主体がわからなくなります。なお、これらの本では、面の後に「○○欄」を表記するやりかたも書かれております。版、面の前の「第」は(A)では省略され、(D)では付けられています。

著名人、文化人の連載記事などの場合、次のような書き方が可能でしょう。

  • 村千鶴子 「だまされない!!」二次被害2 『毎日新聞』2007年3月16日。
  • 村千鶴子 「だまされない!!」二次被害2 『毎日新聞』2007年3月16日付朝刊、第14版、第13面、暮らし豊かに 役立つページ。

実際には、二次被害の後の「2」は○2。

インタビュー記事や外国の新聞の書き方について、あと、古い新聞を調べる目的で縮刷版やマイクロフィルムなどを利用した場合に、その旨記述するべきかどうかについても考える必要があると思いますが、現段階でもかなりの長文になっておりますので、今回はここまでにします。--Nattilv1 2007年3月17日 (土) 05:10 (UTC)

1ヶ月近くたっていますが、今のところご意見がないようなので1週間たってもなければ新聞編を追加したいと思います。--Nattilv1 2007年4月14日 (土) 00:35 (UTC)

新聞の出典表記は指針になる実例に触れる機会も少なく、また見出しのどこまで書くかなどで如何様にも書けるから難しいですね。実例の追加には異存ありません。ノートで議論中である旨を注記してくだされば問題ないと思います。
以下では、上で挙げられた見解の分かれる点や、実際の執筆時に書こうかどうか迷いそうな点についていくつか個別に考えていきます。
朝刊・夕刊の別を記述すべきか
朝刊と夕刊の両方を刊行している新聞の場合は、朝夕刊の別は必須。朝刊紙、夕刊紙の場合は当然ながら不要です。
版、頁、セクションなども記述すべきか
記事を特定した参照の場合、面数(ページ)は必須です。ここまでで当該記事の特定は可能なので、それ以上の所在情報は原則として要らないかも。
新聞は同じ号でも版によって記事の差し替えや修正がなされる蓋然性はありますが、通常はそこまで考える必要はないと思います(そこまで特定された出典を示されても却って検証困難になるだけ。まして差し替え以前の記事となれば、こんどは記事に誤りが含まれている可能性のほうが問題になってくる)。一般書籍の出典表記でも、多くの場合は版・刷の違いまで要求されないのと同様に。
  • 注意しなければならない場合
  1. 本紙に折り込まれる本紙とは別綴じになった面(別刷りと呼ばれる)を参照元とする場合。「第二部」「日曜版」などの区別名が題字のそばに記され、面数(ページ数)は本紙とは別に1面から付番されているはずです。
    • 「教えて! 達人-新年を祝う初日の出 防寒・下調べ十分に」『日本経済新聞』2006年12月9日朝刊、「NIKKEIプラス1」13面。
  2. 面全体を地域支局が制作し、地域によって全く別の記事が掲載される面(地方面地域面)を参照元とする場合。朝日や読売はその面の最初に地域面である旨が明記されているが、日経はそういった明記がないので特に注意を要する。なお県紙では大抵、支局制作の「○○地方版」面でも全県に掲載される。
    • 「銚子電鉄 資金難に拍車 国交省、安全確保へ改善命令」『日本経済新聞』千葉県版、2006年11月28日朝刊、25面。
縮刷版やマイクロフィルムなどを参照した場合、その旨記述すべきか
不要。第一の理由は昔の新聞であればそういったものを利用することは自明であるため。第二の理由は下記の如く表記が煩雑になり、内容的な重複も多くなるため。
  • 「元県議の銚子電鉄社長解任 930万円借金、私的流用」『千葉日報』2004年2月8日、19面、『千葉日報 縮刷版』2004年2月、159頁、千葉日報社
  • 「銚子電鉄に"新顔" 近江鉄道から中古車両」『千葉日報』1978年3月30日、9面、『千葉日報 マイクロフィルム版』1978年3月、日本マイクロ製造、1979年
記事の名前はどこまで書くべきか
上で実例をいくつか書いてみた限りでは、大体2段まででよいと思います。--Vantey 2007年4月14日 (土) 16:25 (UTC)
「地域によって全く別の記事が掲載される面」については、4冊のいずれにも記述がありません。たとえば、「地方面を使用した場合にはその旨記載すべきだ」とは書かれていなかったということです。もっとも、「版、頁、セクションなどを詳細に記す立場」に立てば、ことさら注意を促す必要はないはずです。
> 新聞は同じ号でも版によって記事の差し替えや修正がなされる蓋然性はありますが、通常はそこまで考える必要はないと思います
「そこまで考える必要」があるからこそ、(A)(B)(D)に版を併記する書き方が載っているのでは。ただ、これら3冊とも、「記さなければならない」とは言っておらず、書くかどうかは個々人にまかせているようです。--Nattilv1 2007年4月15日 (日) 12:25 (UTC)

新聞編を追加しました。当初は「出典の書き方(和書)」の下に置くことを考えていましたが、あまりにバランスが悪くなるため、また、外国語の新聞についても検討する必要が出てくるかもしれないということで、独立させました。--Nattilv1 2007年5月2日 (水) 10:57 (UTC)

頁数の漢字表記「頁」について[編集]

頁数の「頁」を漢字で書くのは決まりですか? Yaku 2007年3月19日 (月) 23:36 (UTC)

このページに初期に載せられた例示がたまたま「頁」を漢字で書いた例だった。その後いまに至るまで、この部分についてあまり議論は起きなかった(ように思う)ので、単にそのまま載せられている。…というだけで、まだ「漢字で書くべし」という積極的な合意がとれてる訳ではないと思います。
"18頁"と書く体裁のほかに、紙文献では"P18" "P.18" "p.18"などの体裁も見受けられます。現に#出典の実例(外国語文献)では"p.18"の体裁で例示されてますね。
個人的には、(特に理数系の分野では)"頁数を漢字で書く" "行末は句点(。)"という体裁にはやや抵抗を感じます。現実にjawp内のいろいろなページを見て回っていると、"行末句点なし"や"行末ピリオド"、"Pn" "p.n"などの体裁をとるページは多く、ここのページに例示された書き方は並び順以外は厳密に守られてはいない感じがします(個人の印象)。
当面の対応としては、「その分野の記事の空気を読みつつ適切な体裁を選んで使う」のがよいかもしれません。現に例示されているルールに捉われないことを薦めるのはおかしいのですが… --Vantey 2007年3月20日 (火) 15:56 (UTC)
参考文献に挙げられている中村健一は、「『ページ』の表記は『頁』でもかまいません」(『論文執筆ルールブック』183頁)としています。つまり、「○ページ」というかたちを許容しています。しかしながら「慣用的に当て字の漢字が使われてい」る(同頁)とも書いており、出典の表記例ではみな「○頁」を使っています。
先日、出典の書き方の方法が載っているいくつかの文献にもあたったのですが、それらの多くは、複数の表記法を許容しています。中村の場合、184頁で3つの表記例を挙げています。しかしながら、いずれの例でもWikipediaの現在のルールである「かぎかっこの前後では読点を用いず、全角スペース( )を用いる」というかたちをとっていません。したがって、この文章を書いた人は澤田か河野のどちらかにあたったものと思われます。
書き方が専門家の間でも統一されておらず、出版社によって書き方のルールが異なるために、同じ人でも本によって違った書法になることがある……という現状があるにも関わらず、1つのやりかたしか許容していないように見える現在の「Wikipedia:出典を明記する」には私も抵抗を感じます。--Nattilv1 2007年3月20日 (火) 23:02 (UTC)
追記。「かぎかっこの前後では読点を用いず、全角スペース( )を用いる」を付け加えたのはVanteyさんでしたね。先ほど書いた時には調べていませんでした。なお、それ以前の版にも全角スペースが用いられていますが、それはさららゆらさんが2004年10月11日に記述したものであることを確認しました。--Nattilv1 2007年3月20日 (火) 23:51 (UTC)

御答え、有り難うございました。参考にします。Yaku 2007年3月24日 (土) 03:46 (UTC)

はい、あの部分は確かに私が2005年6月13日に書きました。少し言い訳をさせてもらうと、当時明文の規定がなかったため、おもに自身の不便の解決のために、当時載っていた実例からほぼ機械的に文章化したものです。今にして考えてみれば、ああして明文化してしまったのはよかったのかどうか…(結果的に他の体裁を否定するかのようにも捉えられる訳で)。そんな負い目で私としては他の体裁を用いている人をあまり責められません。この件についてはかなり経ってから議論が少し続いていますが、過去ログに落ちてしまってますね。 --Vantey 2007年3月24日 (土) 15:01 (UTC)
河野と澤田の本に当たりました。どちらも「ページ」を許容しています(河野、78頁。澤田は『論文の書き方』の参考文献において「ページ」を使っています)。ですから現状では、「“頁”でなければならない」という論理は引き出せません。ただ、だからといって、1つの項目の中でカタカナと漢字が混在するのは好ましいとはいえず、Wikipediaとしてどちらかに統一する必要性はあるのかもしれません。
なお、現在(2007年3月25日)の参考文献で掲げられている3種の本のいずれにも見られず、結果的に「Wikipediaオリジナルの表記法」になってしまっている例がありましたので、それについては項を分けます。--Nattilv1 2007年3月24日 (土) 16:49 (UTC)

参考文献と食い違う「出典の書き方」[編集]

河野、澤田、中村の本に当たった結果、これらにある記述を改変したり、最初からこれらに載っていない例がありましたので報告します。なお、河野については第3版(2002年)を参照しましたが、おそらく和書については改訂版と変化はないものと思います。

  • 副題は、ダッシュ(-)かコロン(:)で本題とつなげてかっこの中に書く。

この方法は河野78頁にありましたが、原著ではダッシュやコロンは半角ではなく全角で書かれています。 これは著者が79頁以下に示した実例からも明らかです。なお、中村は「二倍ダッシュ」としています(176頁)。河野は「注欄における引用出典の書き方」において、「もっとも一般的な形と思われる中村健一の『論文執筆ルールブック』の方式を採用しておきます」(77頁)と書いていますが、実際にはこれと食い違う例がいくつかあります。著者名と書名の間を1マス開けるのも河野独自のものです。これらの方法はいずれも一般的ではないように私には思います。さららゆらさんは二者の相違を承知しているはずなのですが、河野の方を優先的に採用しています。なお、澤田『論文の書き方』は、注のつけ方についてはごく基本的なことしか書かれていません。

ウェブサイトについては、河野は巻末の「電子化された資料(electric resource)からの引用の仕方」(107-109頁)において、コンピュータ・ネットワークからの資料の場合と「これ以外のネット上の情報」に分けて説明していますが、いずれの場合でも「アクセス日」を記述するとしており、「その文書が作成された、もしくは最後に更新された年月日を記載する」今の方法と異なる立場をとっています。--Nattilv1 2007年3月24日 (土) 16:49 (UTC)

ウェブサイトについてですが、Template:Cite webというテンプレートがあります。例えば上段のように入力すると下段のように出力されます。
* {{cite web|url=http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/2007_03_25_noto/index.html |title=気象庁 : 「平成19年(2007年)能登半島地震」の特集|accessyear=2007年|accessdate=4月15日}}
私も最近見つけたのですが、存在が周知されていない(本来ならここが周知の場として最もふさわしいと思われる)ので、この文の執筆時点現在で400件ほどしかテンプレート呼出利用がありません。使い方を見ると、| url = | title = | accessdate = | accessyear = の4つのパラメータが必須となっています。いくつか利用例を見ても、大体この4つだけを使っていることが多いようです。やはり閲覧日こそが出典表記の必須要件になるようですね。--Vantey 2007年4月15日 (日) 12:51 (UTC)
私も今まで気がつきませんでした。ありがとうございます。今の方針(作成/最終更新年月日)のままでいくならば、そのテンプレートは書きかえなければならないでしょう。河野の「改訂版」の方は読んでおりませんが、仮にそちらでも「アクセス日」を書くとされていれば、「作成/最終更新年月日を記述すべき」という立場には、何らかの出典が求められてしかるべきではないでしょうか。出典の示し方に関して、小さくない問題点だと考えますので、提案に付け加えました。--Nattilv1 2007年4月15日 (日) 15:10 (UTC)

出典の示し方に付いて(著者名+発表年の方法)[編集]

出典の示し方に付いて、現在はこの本文中に「村上春樹 『ノルウェイの森(上)』 講談社〈講談社文庫〉、1991年、200頁」などとあるように、著者名・著書名・出版社・出版年の順番です。しかし学術論文で出典を示す場合には著書名を示す場合ももちろんありますが、著書名をいちいち示すのでは煩雑なので「著者名+発表年」で示すのが一般的です。ですので例に挙げた物ならば「村上春樹1991、200頁」として、参考文献の節に於いて著書名を挙げるべきではないでしょうか。私の専門である中国史分野ではそうなのですが、もしかしたら他分野では違うのでしょうか。
としますと、参考文献を挙げる場合には著者名と年がまず示されるべき情報であるので、手前味噌ですが私の書いた占田・課田制#参考文献のような示し方がなされるべきではないでしょうか。ご意見お願いします、らりた 2007年5月27日 (日) 06:40 (UTC)

コンテストのコメントでも書くつもりだったことなんですが、分野による相違を確認しないといけないことはさておくとしても、その記事に加筆する場合、同年同筆者の異なる資料を使うと、全部直さないといけなくなるんじゃないかな。「村上春樹1991、200頁」の後に、「『ノルウェイの森(下)』講談社〈講談社文庫〉、1991年、13頁」(刊行年の実際は違うかもしれない)を使った記述を加えると、「村上春樹1991a、200頁」に直して、「村上春樹1991b、13頁」を加えることになる。で、人名記事だと著書、論文、単発エッセイや雑誌記事で何本にもなることになったりしますし。どうでしょう?--Ks aka 98 2007年5月27日 (日) 15:53 (UTC)
「1991a」と「1991b」の間に別の文献を加える意図で旧「1991b」以下を「1991c」以下に繰り下げるような状況が起きると、其処で置換間違い・置換漏れ等が生じてしまう虞が有ります。又、「1991」を「1992」と誤記した場合、「ノルウェイの森」を「ノレウェイの森」と間違えた場合に比べ、後から気付かれ修正される可能性が格段に下がるような気もします。―Yaku 2007年5月27日(日) 23:01 (UTC)〔2007年5月28日(月) 8時01分(JST)〕
ナンバリングの修正ミス対策に関しては、同じような説明がWikipedia:脚注でなされていましたね。中国史分野の慣例は存じませんが、書名を省略することで書物の完全な同定性を損ねるやり方はあまり感心できない気がします。参考文献の参照箇所を示すために脚注を多用し、その結果同じ書名が何度も登場する場合は、2回目以降について「著者名、前掲書、(xx年、)xx頁。」とする記述の仕方があります。経済史や工学の文献などでは時々見かけますよ。 --Vantey 2007年5月28日 (月) 19:00 (UTC)
反対意見ばかりで少々恐縮しています。著書・論文などは一年に早々何回も出すものでもないでしょう。多くても3、4回ではないでしょうか。それくらいの手間は甘受すべきと思うのですが。エッセイや雑誌記事のような場合、「何年何月号」「第何回」などとナンバリングが既に打たれており、そちらを示すのが普通でしょうね。ですのでこの場合は年数によるナンバリングは使わなくて良いでしょう。
「a」と「b」の間に挟んだ場合のナンバリング間違いということですが、挟まなければ良いのではないでしょうか?新たに追加する場合はc・dとナンバリングしていけば間違いはありえないと思うのですが。
前掲書のやり方は私も良く見ますが、しかしそのたびに「前掲書ってどれ?」と注釈を遡らなければいけない羽目になります。その注釈が前の方ならともかく後ろの方だと探すのが一苦労です。また前掲書のやり方だと、間に同じ著者の別の著書を注釈に挟んだ場合には混乱すると思うのですが。上の話と違って下につけるというのは無理です。
一旦、間違えた場合に修正される可能性が低いというのは確かにその通りです。それに関しては反論がありません。
確かに書名を全て挙げていれば大きな問題は起きない訳ですし、現時点で取り急ぎ変更するべきことではないかもしれません。しかし好みの問題かもしれませんが、やはり現在のやり方ではとても見難いと思ってしまいます。注釈が多ければ多いほど更に見難いと感じてしまい、何とかして欲しいと思う次第です。
それとも私が思い込んでいるだけで、私のやり方の方が見難いと感じる方のほうが多いのでしょうか。とりあえずこの提案に関しては賛同が得られそうに無いので取り下げます。らりた 2007年5月29日 (火) 12:28 (UTC)
えーと、取り下げられたところを蒸し返すのも我ながらなんだかな、と思うのと、実はらりたさんの指摘されてるポイントが(分野違いなこともあって)いまいち正確に把握できてない気もするのですが、ひょっとして、現状のreferencesセクションを用いた(ナンバリングによる)シカゴマニュアルスタイルではなく、ハーバード方式のような方式にしたい、ということでしょうか?
もしそのことであれば、分野としての違いだけでなく、同じ分野でも雑誌ごとの編集方針によって、どちらを使ってるかは異なります。例えば(私の分野だと)Natureを出してるNature publishing groupはシカゴスタイルだし、Cellを出してるCell pressはハーバード方式に近い(MLA)です。同じ分野内ですらそういう状況なので、分野ごとによって(Footnotesを許容するか否かなども含めて)状況は大きく異なるでしょうね。
というのはまぁとりあえず置いておいて。日本語版では実装されてないみたいですが、英語版ではen:Wikipedia:Harvard referencing用のテンプレートが各種用意されているようです。で、「直接埋め込み」と「ハーバード方式」と「refを用いた方法」の3通りが、出典の書き方として提示されています。この中だとハーバード方式はさまざまな出典に対応するためか、テンプレートの使い方がかなり複雑でざっと見ただけでは理解できなかった部分も多いのですが、基本的には、文中に置いた(Smith 2007)のようなところと、参考文献のセクションにおいた、文献情報を結びつける役割を果たしているようです(英語版のテンプレート使用例)。もしかしたら、このテンプレート群が日本語版に実装されたら、お望みのようなことができるんじゃないかと思いますがどうでしょうか(的外れだったらすみません)。
ハーバード方式とシカゴスタイルのどっちがいいか、と言われると、それぞれに好みの問題もあって、例えばそのどちらかに統一する、というのはまず不可能だろうなと思います。ただし現状は、日本語版では、実装の済んでるシカゴスタイルの方が主流になっていきそうな感じはしてます。シカゴスタイルは読むときには文献をいちいち見ないと誰の意見か判らないというのはあるけど、ウィキペディア上では書く方にとってみると楽だし間違いが少ないので、私はどっちかというと、今のところはシカゴスタイル派かなあ、と ^^; --Y tambe 2007年5月31日 (木) 11:14 (UTC)
今までハーバード方式という名前を知らないで使ってきましたが、Y tambeさんの仰るとおりの所と思います。どちらかに統一する必要は無いならば、私は今までどおりにハーバード方式を使いたいですね。私的にはこちらの方がすっきりしていて見やすいと思っています。らりた 2007年6月3日 (日) 12:20 (UTC)

中国語文献の場合の参考文献の原語表記について[編集]

教えて欲しいのですが、中国語文献であっても参考文献に記す時簡体字表記にしないと駄目なのでしょうか。和製漢語で訂正されたので。英文論文はアルファベットで記す例があるのは理解していますが、漢語文献では日本で使われている漢字で表記するのが、中国関係学会では常識です。これは大陸の簡体字文献、台湾の繁体字文献ともにです。ここ以外でWikipediaルールとして定められている箇所があれば、質問を移動しますので、教えてください。--Tears for Asia 2007年5月28日 (月) 15:49 (UTC)

中国関係学会というのに詳しくはないのですが、執筆要綱をざっと検索したところ、『日本中國學會報』『中国語学』『中国経済研究』『中国語教育』にはそのようなルールは定められていませんでした。これ以上調べていないのですが、これら4つ以外のすべてがあなたのおっしゃるとおりであったとしても、やはり「中国関係学会では常識」とまではいえないのでは。
ともあれ、Wikipedia日本語版で中国語文献を表記する際の指針については、十分議論に値することだと考えます。「出典を明記する」に「中国語文献の書き方」を加えることにします。--Nattilv1 2007年5月30日 (水) 00:13 (UTC)
中国語関係以外の挙げられた雑誌に参考文献を書く場合、大陸のものであろうと台湾のものであろうと簡体字や繁体字をわざわざ使用していません。日本の漢字を使用していると思いますが、あなたが確認された事例であるのでしょうか。あればご指摘お願いします。少なくとも私が見た限り有りませんでした。(更に言えば執筆要項に例として挙げられている参考文献名に簡体字などを使用していないと思います)語学系にしてもたとえば大島正二『漢字と中国人』や沈国威『近代日中語彙交流史』などでは普通に日本の漢字を使用しています。また学会関係にとどまらず、一般向けの文庫や新書をはじめ、『中国の歴史』シリーズなど、中国人の著作を挙げていても、特に原語表記しているものはありません。見逃していればご指摘お願いします。ほとんどの場合日本で使用されている漢字を使っています。--Tears for Asia 2007年5月30日 (水) 03:19 (UTC)--Tears for Asia 2007年5月30日 (水) 03:56 (UTC)
後から思い至ったので補足すると、『東洋史研究』や上記の『日本中国学会報』は繁体字を使用していますが、それは全てにおいて、本文だろうと注釈だろうと参考文献だろうと、全て正字を使用しています。これは原語表記とはまた意味が異なります。また大陸の雑誌・台湾の雑誌でも日本の文献を挙げる場合、確かに平仮名を使用することがありますが、漢字そのものは大陸なら簡体字・台湾なら繁体字を使用します。すなわち自国の漢字で代替可能な限り自国の漢字を使用しています。--Tears for Asia 2007年5月30日 (水) 10:03 (UTC)

大学図書館で調べてきたのですが、私が見た範囲だと、『中国―社会と文化』第21号の橋本草子「『日記故事』の現存刊本及びその出版の背景について」、『中国語学』253号の千葉謙悟「『礦』読音の音韻対応上の例外について」では、簡体字や繁体字表記が行われていました。他の雑誌も調べて、日本の漢字で表記している人たちが多数派であることは確認しましたが、日本語表記をルールとしているわけではなさそうです。もっとも、雑誌掲載時には全文を旧字新かなで表記すると定めている『中國詩文論叢』みたいなところは、繁体字なども直しているのかもしれませんが。--Nattilv1 2007年5月31日 (木) 17:57 (UTC)

ちょっとホームを空けていたので、返事が遅くなりました。調べていただいたのなら分かったと思いますが、圧倒的にわざわざ簡体字表記や繁体字表記に改めているものは少ないです。わらの中から針を探すようなものとまでは、(語学系があるので)言えなくとも、簡体字・繁体字に修正して記載する方式はまれと言って良いでしょう。また語学系は現代漢語を対象としているため、やや特殊な存在なので、これを材料として取り上げるのはどうかとおもいます。『中国―社会と文化』は東大の雑誌ですが、わざわざ簡体字に直したりしている論文は、ごく一部なのはおわかりでしょう。
さらに国外での例に触れると、大陸で台湾の研究に触れる場合、あるいは逆に台湾で大陸の研究を引用する場合、わざわざ出身国の表記に合わせたりしません。英文で日本や漢語圏の研究を引用する場合も、わざわざ漢字表記を主とする書き方をすることは、少なくとも私は出会ったことがありません。
また専門研究ではなく、一般書に眼を向けると更に修正を施しているものはごく僅かです。つまり再度述べると、普通に日本語で使用されている漢字表記を行うことが常識となっているということです。Wikipediaだけが、突出して煩瑣な原語表記にこだわる必要はないと考えます。--Tears for Asia 2007年6月4日 (月) 16:13 (UTC)
学会での「常識」というのを、「学会ではそのようなルールがある」と解釈しておりました。本文に中国語文献の書き方を示す場合、「日本語表記、原語表記どちらでもよい」のか、「日本語表記にすべき」なのか、二者択一をすることになると思いますが、どちらが望ましいでしょうか。こういうことについて書かれた本や雑誌があればいいのですが。--Nattilv1 2007年6月4日 (月) 18:18 (UTC)
想定される読者という点からいえば、Wikipediaは研究書や学術論文よりも文庫や新書などと読者層が重なると思います。であるならば、わかりやすさを優先させた「日本語表記にすべき」とする方が望ましいでしょう。ましてや専門書ですら通常は日本の漢字を使用しているのですから。はなから漢字を用いてない英文やハングルの論文などはしょうがないかもしれませんが、それでも翻訳があるなら一言邦題について触れるべきかと感じます。少し脱線しますが、正直専門性に拘るので有れば、こういう表記についてはわかりやすさを追及し、依拠する参考文献(典拠)そのものについてこそ、基本的に研究者の著作に限定し、近年の研究史を整理し加筆するということにこそ専門的に固執するべきでしょう。--Tears for Asia 2007年6月5日 (火) 14:07 (UTC)
中国語の書誌情報の記し方について規範的なものが出てこなければ、(「出典を明記する」が基本的に論文指南書に基づいて書かれている以上)本文に挙げることは難しいだろうと考えます。日本語表記が多数派であることや、そのわかりやすさというメリットを否定しているわけではありません(個人的な立場で言えば、Tears for Asiaさんの主張には賛成なのです)。出版地の情報は必要なのか(Wikipedia:列明来源では記していますが、日本の出版物では省略されていることが少なくないようです)。また、著者名、書籍名などを原則的に新字体で表すとしても、旧字体を使ってもよい、あるいは使ったほうがよい場合(古い文献やある種の固有名詞など)があるかもしれません。ともあれ、さまざまな方の意見を待ちたいです。--Nattilv1 2007年6月7日 (木) 01:44 (UTC)
他の方の意見を待つという点、諒解しました。漢字表記に関する明記されたルールということに関し私見はありますが、ひたすらそれを述べ続けるというのも議論成立を妨げることにもなるでしょうし、しばらく静観しております。--Tears for Asia 2007年6月7日 (木) 09:30 (UTC)

(インデント戻します)中国関係を主に執筆しているWushiというものです。中華人民共和国の経済を執筆するに当たり、過去に読んだ中国経済や中国史の書籍に書いてある参考文献を見ましたが、簡体字や繁体字にはなっていませんでした(つまり、毛???小平中?人民共和国??等とはなっていない)。大学教授陣も日本語の漢字を使っているので、日本語表記でよいと思います。--Wushi 2007年6月24日 (日) 15:18 (UTC)

ご賛同ありがとうございます。表記は平易にした方が要らぬ苦労が減るように思います。以前、ある雑誌において漢字を全て正字に直す作業のアルバイトをしたことがありますが、正確に調べようとするとかなり苦労します。それに拘ると、そもそもネット上では不可能な場合も多々あるでしょう。
恐縮ですが、6/26より一週間強ほど旅行するため、Wikipediaを訪れません。何とぞご理解のほどを。その間、引き続き他の方の意見を待ちたいと思います。--Tears for Asia 2007年6月25日 (月) 23:16 (UTC)
ずいぶんコメントが遅くなり申し訳ありません。ただ他の方の意見待ちという側面もあったのですが、ちょっと官紳を引かなかったようですね。参考文献に限るものではありませんが、井戸端で「行政区の名前は固有名詞か、そして中国語の固有名詞は現地表記にすべきか」という提起の中に、繁体字か簡体字かという問題も併せて論じられているようです。覗いていただけたらと存じます。--Tears for Asia 2007年7月18日 (水) 13:54 (UTC)
参考文献に関する表記は常用漢字を優先するとういう基本方針(いつぞや井戸端で議論されていました。履歴が発掘できませんでした)を考えると、中国語の場合は常用漢字に置き換えるのがベターでしょう。もし現地表記優先を貫徹すると暦を?、説を?と、プラウザでは見分けがつかないような些細な違いまでもわざわざ区別するのかということになっていまいます。更に私事ですが、中国史関係の論文を大学院時代に発表していましたが、原則として中国だろうが台湾であろうが常用漢字での表記を行っていましたが、問題視されたことはありませんでした。
現地表記にこだわるのもいいですが、拘りすぎると非常に読みずらいものになります。中国語に関する出典は日本語に準拠というのが常識的なものと考えています。--Yonoemon 2007年7月25日 (水) 04:56 (UTC)
1ヶ月以上経過しましたが、原文表記が望ましいという立場の方が現れていないようなので、日本語表記を前提に「出版地を入れるかどうか」など、他の問題について話しあう段階へ進んでもよいと思います。その前に。
私は漢字事情にも疎いのですが、いかなる漢字でも日本のそれに置換できるのであれば何の問題もないと考えております。日本の字に置換できないものが存在し、かつ、その字の使用頻度が何らかの専門領域において高いようであれば、中国語を使える道を残しておくのも手でしょう。--Nattilv1 2007年7月30日 (月) 13:04 (UTC)
日本の字に置換できないという漢字に関して補足したいと思います。これまでの議論を整理すると…
  1. 簡体字は常用漢字に改める(?は書、 ?は業)
  2. 日本語フォントで表せない繁体字は常用漢字に改める(は徳、?は内)
  3. 異体字は日本語フォントで表せる感じに改める(は氷、?は啓)
  4. フォントの関係で表示できない漢字は正字体で表記するが、中国語フォントを利用する(?
…といったところでしょうか?漢字自体は『大漢和辞典』に収録されているだけで5万字にも及び、日本語環境で表示されなくても、繁体字環境ならば表示できるものが数多くあります。一応繁体字が日本での正字体に類似しているので、日本語で表示できない漢字(置換できないのではないのでご注意)は繁体字で代用するというのが合理的な作業方法であると考えています。実際に中国史や台湾関係の記事ではこの方法で日本語環境外の漢字を表記する方法が採用されていますが問題となったことはありません。学術論文で東洋史関係の論文を見回してもこの方法が一般的と思われます--Yonoemon 2007年7月30日 (月) 13:41 (UTC)
私の環境では上の漢字のうち、2つが「{{{2}}}」と表示されました。代用手段が確立されているからこそ、多くの論文で日本の漢字が使われているはずなのですが、その手段の詳細が知りたいと思っていたのです。こういうことに関する論文か何かが見つかれば、その成果を活用することができます。文献名などを日本語で書くという慣行がいつからあったのかわかりませんが、それが築かれつつあった時期を検索するといいのかもしれません。--Nattilv1 2007年8月2日 (木) 11:30 (UTC)

2007年7月30日 13:41 の Yonoemon さんの発言ですが、テンプレートの使い間違いがあったので修正させていただきました。ご容赦ください。 --fryed-peach [会話|投稿] 2008年5月14日 (水) 03:41 (UTC)

書誌情報の書き方(和書):行末の「。」の有無について[編集]

#頁数の漢字表記「頁」について中のVanteyさんのコメント(2007年3月20日 (火) 15:56 (UTC))でもふれられていますが、"行末は句点(。)" のルールに、強い違和感を感じています。句点は文末を示す約物(記号)ですが、箇条書きの1行はそもそも“文”ではないので、むしろ不自然に感じられます。実際、手元の資料をいくつか見てみましたが、参考文献欄の各行に「。」をつけているものは、一つとしてありませんでした(その中には、たとえば長澤雅男『情報と文献の探索』(丸善、1987.)のような、書誌学関連の資料も含まれます)。一般性・妥当性を欠く表記法がここでわざわざ推奨・再生産されているようで、どうもスッキリしません。ご意見をいただければ幸いです。--Inukawa 2007年7月3日 (火) 18:08 (UTC)

この項目末尾の3冊の参考文献はご確認いただきましたでしょうか。いずれも句点をつけております(もっとも、澤田の本には一部に「。」の脱落や、出版年と出版社が「、」で分けられていないといったミスがあります)。もちろん、マルをつけていない本もありますし、櫻井(上を参照)のように、末尾にピリオドを打つやり方もあります。後者は自然科学系の専門書によく見られます。
句点を入れないといけないのかどうかについては、議論する価値があると考えますが、一つだけ言えることがあります。くだんの3冊のみに拠って「書誌情報の書き方」を組み立てるならば、行末に「。」をつけるのはまったく自然だということです(句点を抜かせば記事作成者による「改変」が行われたことになります)。--Nattilv1 2007年7月30日 (月) 12:26 (UTC)
ご説明ありがとうごさいました。参照先の文献で句点をつけることになっていることは、本文記事から承知しております。ただ、人文・社会・自然科学のいずれかを問わず、管見の範囲内では--繰り返しになりますが、どうかご容赦ねがいます--【書籍・雑誌の記事で参考文献欄の各行末に「。」をつけているものを実際に見ることはめったにない】ものですから(少なくとも皆無というわけではないことはその後確認いたしました)、本文で拠られた文献そのものの一般性に疑問を感じた次第です。私の目にふれる限りでは、文末にはピリオドをつけるのが最も一般的で、句点をつけるものは、縦書きの書籍・雑誌では稀に見かけますが、それよりはピリオドも句点もないものの方がまだ見かけるようです。
もし私であれば、こうした場合、河野哲也・玉川大学文学部人間学科准教授(哲学・倫理学)や、澤田昭夫・日本大学教授(近代イギリス史・ヨーロッパ史)、また他の著書については嘉聞にしてよく存じ上げない編集者の中村健一氏といった方々が、それぞれの本来のご専門の研究やお仕事の合間合間にご執筆になったと思しき学生向けのハウツー本よりは、むしろ各種学術誌で標準とされている文献の表記法がどのようになっているかを、まず確かめるでしょう。また、もしも具体的な典拠を求めるならば、先のコメントですでに名前を挙げたような、書誌学の専門家の手になるものにまず当たるはずです。
とはいえ、こうした感覚は、もともとあくまでも私のごく狭い見聞や経験の範囲内でのことですから、これは決して珍しいことでもおかしいことでもないのだ、と重ねておっしゃるならば、私としてはこれ以上こだわるつもりはありません。お付き合いくださいまして、ありがとうございました。無用の容喙、どうぞ押してご寛恕くださいませ。--Inukawa 2007年7月30日 (月) 13:51 (UTC)
「めったに」ではないですね。句点なしやピリオドよりも多いのかはわかりませんが。Inukawaさんと同じ疑問を持たれた方のために、ある程度知られている人物の著書、もしくはその訳書を提示しましょう。これは本屋や図書館で簡便に確かめられるように、ということです。ちなみに、私は特に定めのない限りにおいては句点を書かない派なので、下でも使いません。
  • 小谷野敦『恋愛の超克』(角川書店)
  • 野口悠紀雄『「超」勉強法』(講談社文庫)
  • マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳(岩波文庫) 解説者による参考文献(345頁)を参照。
これら3冊が例外的なのかどうかは読者にゆだねます(まだまだ挙げられますが、こういう調査は本題とあまり関係がないので)。個人的には句点の有無やピリオドの使用にはこだわらないのですが、Wikipediaとして何らかの統一の必要性があるのであれば、「さてどうしよう」といったところです。--Nattilv1 2007年8月2日 (木) 11:15 (UTC)

ガイドライン修正提案[編集]

ガイドラインの説明が、英語に比べて日本語版では不正確になっていると感じるので、修正提案します。

該当部分は、冒頭の下記の記述です。

ここでは、出典を明記することの必要性と参考文献の書き方について説明します。

執筆する際に、書籍や外部サイトを参照することがあるでしょう。そのときは、情報源を明記してください。
つまり、参考文献(書籍や論文、ウェブページなど)の一覧を用意してください。

これに対応する英語版ガイドラインの記述は下記です。

This page is a style guide, describing how to write citations in articles.

Wikipedia:Verifiability, which is policy, says that attribution is required for direct quotes
and for material that is challenged or likely to be challenged. Any material that is challenged
and for which no source is provided may be removed by any editor. For information about
the importance of using good sources in biographies of living persons, see Wikipedia:Biographies
of living persons, which is policy.

訳すと次の意味です。

このページは、記事の中での引用の書き方(出典提示方法)を説明したスタイルガイドです。

en:Wikipedia:Verifiablity(Wikipedia:検証可能性)というポリシーは、直接引用や
見解相違または見解相違の可能性のある題材には、検証可能性が求められると述べています。
異なった見解が存在するのに出典のない題材は、誰かの手で削除される可能性があります。
現役人物についての良い出典引用の重要性については、en:Wikipedia:Biographies
(Wikipedia:伝記)のポリシーをご覧ください。

現在の日本語はわかりやすいのですが、同時に曖昧さも含んでいます。私がある記事に追加した内容に対し、ある方から「記述内容が事実に添っているのは認めるが、出典のない情報は載せないでください」という指摘を受けました。全ての事実に出典が存在するとは限らず、また本人も事実と認めている内容に対してのコメントなので、その方は本来の趣旨を誤解しているようですが、その原因がガイドラインの不正確さに由来するものと思われるのです。ガイドラインには、わかりやすさと同時に正確さも要求されるので、ここに修正を求めます。--tosendo 2007年8月1日 (水) 02:38 (UTC)

  • 反対します。過去の議論や編集の経緯は、出典明記はスタイルガイドラインであり検証可能性独自研究中立性などについては各々の項目で対処する、というものでした。出典明記はこれら全てに関わるため英語版ではAttributionに統一すべきか、との議論もなされ、一旦置き換えられたもののジンボ氏によって差し戻された経緯があります。個人的には日本語版の現状で過不足ないと考えます。過去の経緯でも独自研究検証可能性での議論がこちらに飛び火してきたのをやっと押し返したということもあります。くりかえしますが、ここはスタイルマニュアルです。--125.202.238.6 2007年8月1日 (水) 02:55 (UTC)
  • 私もどちらかというと反対します。引用されたchallengedを「見解相違」と訳すのは、適用範囲を狭めているものと考えます。むしろ、出典の呈示をすべき、と誰かが判断するような場合を含めて出典を呈示することが求められる、と考えるのが妥当だと思います。ウィキペディアの場合、執筆者の資質が確保されていたり保証されていたりするものではありませんから、ウィキペディア以外の一定以上信頼できるソースに依拠することが信頼性を確保する手段として重要なことだと考えます。ノートなどで特定の事項が真実かどうかを議論しても、水掛け論的に終始して結論が容易に得られるものではありませんから、検証可能性を基準とすることが望ましいと考えます。--磯多申紋 2007年8月1日 (水) 04:54 (UTC)
  • 反対というご意見はわかりましたが、日本語Wikipediaは英語版とは別の立場をとりたいという意味でしょうか。ここでのchallengeは、見解相違から生じる行為であり、原文の意を正確に反映したものです。検証可能であるべきというのは同意しますが、様々な立場の考え方があり、一義的な解釈のみを正しいものと決めつけるのではなく、それぞれの意見を記述するという方針Wikipedia:中立的な観点もWikipedia3本柱の中にあります。--tosendo 2007年8月1日 (水) 05:08 (UTC)

ちゃんと追えていないんですが、英語版のWP:Vのノートで類似の議論があるようです。検証可能性(方針)の表現と、出典明記(ガイドライン)の表現が、微妙に食い違っていることが原因なので、英語版との齟齬だけでなく、検証可能性との齟齬にも留意する必要がありそうです。取り急ぎ。--Ks aka 98 2007年8月1日 (水) 05:40 (UTC)

    • Wikipediaは米国発祥のプロジェクトで主催者も米国人ということもあるので、基本スタンスは米国版Wikipediaに準じる方針で良いと考えます。一方でKs aka 98さんが提示されているように、米国版の編集方針そのものも流動的なため、つねに最新の米国版指針を忠実に翻訳すべき、という態度では日本版Wikipediaで編集方針を議論すること自体が無意味になります。Wikipedia:Attributionのように、米国版の方針転換にあわせて翻訳したものが、ジンボ氏により差し戻され日本語版も棚上げになっている編集方針もあります。
    • つぎに「出典がないからリバート」といった紛争から出典明記に問題を持ち込まれる事になるようですが、それらは検証可能性の問題です。そもそも出典が明示されていても、その記事に列挙された出典情報が初手からニセモノであったり、正しく引用していない可能性があります。「出典がないからリバート」などという編集に腹を立てた悪意ある投稿者が、アマゾン検索や国会図書館検索などでキーワード検索をおこなってそれらしい出典を捏造することも可能です。「出典を出せ、出せなきゃ消す」などといった攻撃手法でなく「確認したいから出典を紹介してくれ」「確認できなかったので一旦リバートする」という検証の過程が重要です。出典の要求をされた場合、出典を公開するのは記載者の義務かもしれませんが、ならば出典を検証するのは要求した側の義務でしょう。ところで「出典を出せ、出せなきゃ消す」などという攻撃的なヤカラがそんな検証義務を果たすかどうか。この点から安直に「出典明記」だけで最終解決を図ろうとする手法そのものに疑問があります。--125.202.238.6 2007年8月1日 (水) 07:48 (UTC)
  • コメントをいただきありがとうございます。米国版の方針を常に忠実に翻訳すべきと主張しているわけではないのです。誤解を生じる可能性のある部分に関しては、可能な限り誤解を避けるようにすべき、というのが趣旨です。少なくとも現状の文は誤解を生じるものです。いくつかの方針を読んだ限り、一方が絶対的に正しくて、他は間違っているから削除すべきといった議論はよく起こりますが、一つの見方について記述をすること自体が見解の偏ったものであり、それ以外の見方があるなら記載せよ、とされています。出典明示は内容確認をするための方法提供であって、削除の口実ではないということのようです。--tosendo 2007年8月1日 (水) 09:24 (UTC)
    • 独自観察らしき記述に出典を求めることは正当なことと思います。そして、長期にわたり示されないならば、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないの方針により掲載が難しくなります。今はインターネットで依頼して、国立国会図書館等のレファレンスから書籍のコピーを取り寄せられますので、確認は比較的に容易です。よろしけば、国外にも対応しているかどうか、私が確認しましょうか?--Album 2007年8月1日 (水) 13:37 (UTC)
  • 独自観察に出典を求めるというのはもっともです。そこでひとつ、是非とも教えていただきたい問題があります。学術用語の口語と文語です。文語(印刷物に記載される言葉)は、学術用語集という権威ある辞書に従って記述することになっており、Wikipediaの記載は原則としてこれに従っているようです。が、多くの研究者は英語(をベースにしたカタカナ語)を口語として使っています。話し言葉が学術用語集と一致すれば良いのですが、たいてい全く違う言葉です。しかし、口語がそのまま文字になることがほとんどないため、Google検索では一定数がかかるものの、文献はほとんどありません。記載した口語について、出典がないからと削除したがる人がいるのですが、彼(女)自身が頻用を認め、それ以外に意見する人も同分野に関わっている人であれば認めています。あきらかに独自研究と同列とは思われないのですが、こういった場合、口語の記載はすべきでないのでしょうか?—以上の署名の無いコメントは、Tosendo会話履歴)さんが[2007年8月1日 (水) 23:25 (UTC)]に投稿したものです。
  • 理科系の分野の大半では、「学会発表」だけならそれこそ文字通り「人間でありさえすれば可能」で、大半の場合誰も中身を見ない。だから、健康食品の宣伝に悪用されたりとんでもが巣くったりとこまるわけです。この事実は理系の人間にとっては当たり前ですが、恐らくこの文言を「学会」のところに貼ったら「要出典」を求められるでしょう。(一般人にとっては衝撃の事実だろうから)その場合、投稿規程等をあげればすむのでしょうが…。

このように、要出典屋側にも、事情が有る場合もあります。そこで、提案ですが、下記のように「文献の暫定表記法」を認め、出典の明記を要求した人等に正しい表記になおしてもらうというのもOKとしたらどうでしょう。—以上の署名の無いコメントは、夜仮面様会話履歴)さんが[2007年10月23日 (火) 13:55 (UTC)]に投稿したものです。

「第」の有無[編集]

Wikipedia内、またこの記事においても、巻数、刷数、ページ数などに「第」が付いたり付かなかったりと統一されていないようなのですが、「この場合は付ける」「この場合は付けない」といった定義はあるのでしょうか。--micro 2007年8月2日(木) 21:39 (JST)

書誌情報の形式について[編集]

上にある「頁数の漢字表記『頁』について」「出典の示し方に付いて(著者名+発表年の方法)」「中国語文献の場合の参考文献の原語表記について」「書誌情報の書き方(和書):行末の『。』の有無について」「『第』の有無」については、いずれもスタイルに関する問題だと理解しています。言い換えれば、書誌情報をどのように記載していくかについての問題です。

「頁数の漢字表記『頁』について」では、Yakuさんによって、「頁を漢字で書くのは決まりなのか」という疑問が呈されました。参考文献のどこにも決まりとは書かれておらず、それどころかカタカナ表記を認めてもいるのですが、本文の実例ですべて「頁」で統一されている点、「ウィキペディア全体で統一した形式になるようにしてください」という記述から、漢字表記することがルールであるかのように見えてしまいます。

「行末の『。』の有無について」では、行末処理に「。」が使われているものを「実際に見ることはめったにない」という指摘がInukawaさんからありました。私は実例をいくつも見たことがあり、その見解には与しないのですが、句点をつけない派、ピリオド派の書籍も相当あり、句点を使うことに抵抗感を感じる執筆者の方も少なくないと思います。それでもなお、句点に統一しなければならないとすれば、その根拠は何なのだろうかと考えてしまいます。「大事なのは情報を漏らさず記入することです」という文章を重視するならば、行末は書き手の好みでよいのではないかと。もちろん、他の部分についても。好みについては節度が求められましょうが。

秀逸な記事に選ばれている日本語などは、このページと異なるスタイルをとっています。刊行年が左に来ており、これはこれでわかりやすい。現在の「書誌情報の書き方」に“統一させていく”必要性を感じません。

「Wikipedia:出典を明記する」の基本的な方針の再検討になろうかと思うのですが、スタイルを細かいところまできっちりと統一すべきなのか、あるいは、ある程度までは複数のスタイルを許容すべきなのか、皆さんのご意見をきかせてください。--Nattilv1 2007年8月4日 (土) 03:26 (UTC)

えーっと…この議論、まだ続いてるのかな?私は統一すべき派です。一度査読を依頼したことがあって、それから出典を明記することの重要性を痛感したんですね。その後ことあるごとに(というか毎回)ここを見ながら書籍情報を書いたわけですが、特に初心者にはスタイルが何種類かあると混乱の原因になります。端的に言うと自由には責任が伴う…ということか。人間縛られてたほうが楽です。あと出来れば雑誌を出典とする場合の書き方も載せて欲しいですねー。--FOMALHAUT 2007年11月28日 (水) 14:01 (UTC)
しばらくWikipediaから離れておりました。すみません。この問題についてはたいへん長くなりそうなので、分割したほうがよさそうです。
統一派(以下、スタイルをきっちりと統一する立場をこう略称)に立つにせよ、許容派(ある程度、複数のスタイルを認める派)に立つにせよ、次の前提を認めなければなりません。すなわち、書誌情報の書き方は人、学会、雑誌などによってさまざまであり、圧倒的大多数によって支持されている書き方は存在しないということです。
統一派の問題点は次の通りです。
  • あるスタイルのみ支持することは、中立的な観点にとって問題ではないか。
  • 1人の著者、1冊の本のみに拠らないように、複数のソースから1つのスタイルを組み立てた結果、Wikipediaから「新しいスタイル」が誕生してしまう可能性があるが、それはよいことなのか(現在、この記事の本文がそんな感じになっています)。
  • 統一派が支持するスタイルが、多くの「他のスタイルを使っている加筆者」にとってはなじめず、不便を感じるかもしれない。
いっぽう、許容派の問題点は以下。
  • 1つの記事の中でも、スタイルがばらばらになるおそれがあり、読者にとって見づらくないか。
  • FOMALHAUTさんが書いているように、「あれでもよい」「これでもよい」という考え方は、執筆者に混乱を与えはしないか。
  • 「ある程度」をどこまで許容するのか。非常識的な(?)スタイルを排除できないかもしれない。--Nattilv1 2008年1月25日 (金) 12:17 (UTC)

{{要出典}}を張る人に出典を確認するようにさせたら行き過ぎでしょうか?[編集]

以前、いきなりやってきてページ所々に{{要出典}}を置いていって去っていったのを見たのですが、それはそれで内容として仕方の無いページだったのですが、逆に(「ここのページ個人の意見多すぎ」と思い込んだ)勢いかどうか知りませんが『これは新聞に大々的に取りあげられてただろ?』というパラグラフまで{{要出典}}を張られて辟易したことがあります。

つまり「要出典張り屋さん」は昔からいるわけですが、このような方々に逆に出典確認と(出典が見つかれば出典の加筆)もお願いした上で、ノートに質問や出典を願う旨の議題を上げて解決すればそれで結構だと思います。 タイムラグを考慮して『{{要出典}}つけておきます』というのなら納得できるのですが、、前述したとおり、要出典張り屋さんの多くはそんなことしてないように思えるのです。 少なくともノートに議題をあげずに{{要出典}}だけ張っておけばいい様なある種無責任な人が多いという印象を持ってます。そういった安易な要出典関係のテンプレートやタグのつけ方の方針が、荒らしまでも生み出すベースと考えるのは考えすぎでしょうか。 もう少し{{要出典}}をつける人に対しても義務を負わせてもいい様な気がします。(元々執筆者が出典明記の義務はありますが、不必要と考えれば省略することもあるでしょう)

これらの問題についてほかの方はどう思われるのか? 更に、テンプレートに追加することはいかがなのでしょうか? --SKTA 2007年10月14日 (日) 23:59 (UTC)

一律にルール化するのは無理です。「{{要出典}}を貼るときはノートへの議論呼びかけをセットにする」くらいならありだと思いますが。
辟易したのであれば、個別にノートなり会話ページなりを使って意見すればいいですし、単にはがしても大丈夫でしょう。というか、そのほうが自然なやり方ではありませんか? --Tamago915 2007年10月15日 (月) 00:37 (UTC)
新しいセクションとして、最下部に移動いたしました。そして追記。
基本線として、「出典のない情報は記述しない」というものがあるので、やはり(出典を求める側ではなく)記述した側に出典を示す責任があるのでしょう。出典を求める際に、自らも調べることは推奨されてもよいと思いますが、義務にすることは考えられません。
それから、本来は{{要出典}}がカバーすべき範囲ではないものまで、このタグが使われているということも指摘しておきます。記事中の特定の記述に対し、「ここは個人の見解が書かれているので、百科事典として適切な表現に改めるか、取り除いてほしい」ことを示す場合にも{{要出典}}が使われているのですが、別のタグのほうがよいのかもしれません(「誰がどこでそのような意見を表明しているのか」という意味では、{{要出典}}でも間違いではないのですが)。--Tamago915 2007年10月15日 (月) 04:16 (UTC)
死の商人オーパーツ一覧ドイツなど方々で要出典をはりつけまくった自分としては耳が痛い話ですが、黙って該当部分を取り除くよりは幾分穏やかな方法なのかなと思っています。要出典の貼り逃げは確かに辟易してしまいますが、苦労して出典を明記し、要出典を取り除くことは結果的に記事の質を上げることになるので、いいことなのではと思ってます。
ちなみに「誰が言ったのか」を求めるものには{{誰}}(Template:誰)があるようです。--赤井彗星/2007年10月15日 (月) 04:50 (UTC)
{{}}は使いにくいですね。誰か第三者が表明したのは間違いないが、それが誰かはわからないという状況であれば、{{要出典}}で十分だと思います。
ここで問題になっているのは、投稿者自身の見解・意見・批判を記述したと思われる場合にどうするのかということなのでしょう。「(あなた個人の意見なのだから)出典は存在しないと思うが、もし存在するのなら出してみなさい」という意味での{{要出典}}は、回りくどいという印象もあります。文章中に埋め込む、「投稿者個人の意見の疑いあり」を示すタグが必要だと思います。出典を探す以前の問題であって、タグを張る側に出典調査を義務づけることで解決できるようなものではないと感じました。--Tamago915 2007年10月15日 (月) 09:33 (UTC)

わかるところは自分で加筆するというのが基本ですよね。できる限り私はそうするようにしています。がしかし、あまり詳しくない項目ではSKTAさんが疑念を持たれたようなことをしていないと断言はできません。それもあって私は最近{{要出典||年月日}}を使うようにしています。なぜ要出典としたのか、どうして欲しいのかを明示するようにしたのです。これだと安易なテンプレ貼り付けはしにくくなるのではないでしょうか。{{要出典}}を廃止して{{要出典||年月日}}を一本にしてしまうのも手かもしれませんね。ところで、出典の確認ができるぐらいなら、私なら加筆しちゃいますね。それと執筆した人が一番詳しい情報を持っていると考えられますから、出典の提示を求めること事態に問題はないと思いますがいかがでしょうか。問題があるとしたら言い方でしょうか。ちょっとした言い方で角が立つこともあるでしょうし、罵り合いになることもありますからね。 --赤い飛行船 2007年10月15日 (月) 11:50 (UTC)

井戸端でも似たような話題があって、そっちでも書いているのですが、まずは、出典を示していないところが問題なわけで、「『これは新聞に大々的に取りあげられてただろ?』というパラグラフ」なら、「何とか新聞の何日のどの版の何面、某新聞の何日のどの版の何面ほか」と、出典を示して頂ければ解決することです。恣意的だったり闇雲だったりするような要出典の貼り付けがあったら、Wikipedia:礼儀を忘れないWikipedia:ウィキケットWikipedia:新規参加者を苛めないでくださいあたりを伝えてみるのがよいかなと思います。--Ks aka 98 2007年10月15日 (月) 18:38 (UTC)


まずはノートや会話ページで穏便に出典明記をお願いしてみるのが礼儀としてはよいのでしょうけど。いきなり記事中に問題のある記事系のテンプレートが貼られると(文章内埋め込み型の{{要出典}}では特に)、皆の前で恥を晒されているかのように受け取られる可能性がありますから。「まずは出典を示していないところが問題」(Ks aka 98さん)というのもまた正しいだけに、心の広くない執筆者が居ついている項目ってのは何かとやりにくいですね。Template:独自研究の解説には「コメントを添えずに単なるレッテル付けの目的で使うことは望ましくない」とありますが、各テンプレートの解説に類似の注意書きはまだ整備されてませんし、書いたところで半ば荒らし的なテンプレート貼り魔に対しては実効性はないでしょうし。要出典貼り魔といいGlobalize貼り魔といい。うーん。
Tamago915さんの疑問に対してですが、埋め込み型テンプレートはあまり何種類もない方がいいでしょう。使い分けの基準をめぐって揉め、統合やら貼り替えやら削除依頼という話になるのは経験上明らかですし。そこで「メッセージ型テンプレートの併用」という技があります。記事や節の冒頭にこれらのテンプレート({{出典の明記S}}など)を貼った上で、位置を特定する目的で文章内にも{{要出典}}を挿れるのです。Template:独自研究Template:出典の明記の解説には、この「{{要出典}}の併用技」が提示されています。そういう用例もあることを頭の片隅に置いといていただければと。 --Vantey 2007年10月15日 (月) 19:44 (UTC)
基本的には出典明示についてノートで議論するか、Ks aka 98さんの書かれた方向性で十分だと思っています。問題なのは自分の意見をさも一般的な事実のように書いてしまう執筆者と、闇雲に{{要出典}}を貼っていく編集者なのですが、取った対策が彼らには有効ではなく、その他大多数の利用者が使いづらくなるようなことは避けるべきです。
{{要出典}}を貼られることは恥さらしではないでしょう。記事の信頼性を高めるための第三者による指摘であり、執筆者を貶める意図はないと考えています(例外はあるでしょうが、それはほかの編集についても同じ)。そのあたりの認識を改めるというか、ウィキペディアに掲載した記述はもはや誰のものでもないと考えて、参加者全員でブラッシュアップするのが当然だとしていく必要があると思います。--Tamago915 2007年10月16日 (火) 00:30 (UTC)


投稿しっ放しで失礼しました。(ついでにまとめた返答で失礼します)。新セクションにしていただいてありがとうございます。     実のところ、私もかなり疑問な記述があって要出典を張る側になりそうになったことがあります。が、私自身それほど造詣が深くないので、ノートを立ち上げて、(私も数週間アクセス無いことも考えて)皆の意見を聞いた後に、削除または要出典を迷ってたことがあります。→ノート:坂本龍一? 結局、ほかの人が削除してしまったんですが。   そういう意味ではノートを活用させるほうが意味があると思うのですが、件の坂本龍一?の様に、記述者も閲覧者も多いだろう事柄でさえも、ノートを私が最初に開いたということ・議論が全くといっていいほど行われなかったことにびっくりしました。(因みにこのセクションは坂本龍一についてのみを理由として書いたわけではないです)。   私のほうもいろいろ勉強してみます。--SKTA 2007年10月22日 (月) 20:38 (UTC)

すでに指摘されているように、本末転倒な提案。問題なのは、「要出典張り屋さん」ではなく、「出典を明記しないで書きまくり屋さん」です--306E 2008年1月13日 (日) 16:52 (UTC)

たまたまこの節を見つけたので、ちょっとした個人的感想を述べさせていただきます。確かに、出典を出さずに記述するのがそもそもの問題なんですよね。英語版などにくらべて明らかに日本語版は出典が少ないですしね(en:All Nippon Airways#Incidents and accidentsなんかはやりすぎのような気もしますが…)。もっとも、「要出典」を貼りまくられると気持ちが良くないのも確かな話で、私もそういう経験はあります。
この原因には、「要出典」という言葉の響きが良くないのではないかなあと思ったりします。つまり「要出典」というのは日本語としては強い言い方だと思うのですが、それが受け手には「責められている」と感じるのではないでしょうか(完全な憶測ですが)。もちろん「出典を記述して欲しくてたまらないです」としろというわけではないですが、もう少し「要出典」がやわらかい表現だったら良いのになあ、と思った次第です。--本屋 2008年1月25日 (金) 13:44 (UTC)

基本方針で何度も出典を明記すべきと言っているのにそれでもしない人のためにどうしてやわらかい表現を使う必要があるのですか。--122.131.212.103 2008年2月26日 (火) 07:18 (UTC)

  • それはただの感情論ですね。より良い結果のためにどうすべきかという議論をなされたほうが建設的ですよ。より良い結果(出典が増えること)と私の感想に結びつきがないという観点で述べられることを期待します。--本屋 2008年2月26日 (火) 12:38 (UTC)

基本方針すら読まない,理解できない輩の為にやわらかい表現を使うことはより悪い結果をもたらします。--122.134.147.145 2008年2月27日 (水) 21:02 (UTC)

それこそ「要出典」ですな。そして、全く前へ向いていません。ただの排斥主義ですね。--本屋 2008年2月28日 (木) 13:17 (UTC)

(コメント)責任の所在が誰にあるのかの前に{{要出典}}が添付されるということは、『編集者の意図したとおりに閲覧者に記事内容が伝わっていない』ということなので、その内容の正当性の在る無しにかかわらず記事の再検討を行う価値はあります(記事の難易度が一部の閲覧者に対して高いのであればより基本的な関連記事に誘導する『…に詳しい』リンクでも工夫のつけようはあると考えます)。

あるいは記事を編集する意図をもつ人が、他の編集に関して記事内容の再検討をノートに求める場合においていうならば、本来は{{未検証}}、{{観点}}、{{正確性}}、{{精度}}あるいは{{独自研究}}が張られるのが第一義であるはずで、{{要出典}}の添付は補助的な意味合いと解釈されます。このつもりであるもの{{要出典}}しか貼らない編集者も多いわけですが、この場合もやはり(内容が正確にに伝わっていないという理由で)その内容の正当性の在る無しにかかわらず記事の再検討を行う価値はあります

Wikipedia:善意にとる(草案)が引き合いに出されるように{{要出典}}のみが貼られた場合は前者の立場に立って『閲覧者から編集者に対してのクレーム(申告)』と善意に解釈することが妥当なので(執筆するだけの技能を持たないかもしれない閲覧者に対して){{要出典}}添付の前提条件として出典を確認を要求することを課すことは行き過ぎと判断せざるを得ないと考えます。

さて、出典提示についての責任の所在ですが検証可能性(英語オリジナル)では「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」などと自明なことは記述していないように見えます。特に日本語版ではなぜか『書き加えようとする側=当該版の編集者』と解釈されることは常づね私は疑問に考えております。GFDLの理念からすればWikipedia:記事の所有権について「項目に所有者がいるという考えはよくある間違いの一つです。」と述べられています。出典に関して質問する場合に『当該版の編集者が一番情報を握っていそうなので、いちばん最初に問い合わせてみる』という考えは妥当ですが、当該版の編集者が質問に回答できないからと言って『出典がないと判断して本文改定行動に着手するほうも「いらち」(短気な人)に過ぎる』と考えます。

言い換えると『書き加えようとする側=ウィキペディアコミュニティの全編集者』と捉えるならば、{{要出典}}を張って数日で削除したり、編集することは不適当な行為であることは明確です。ウィキペディアコミュニティの全編集者(ないしは少なくとも当該ポータル・プロジェクトの編集者)に告知するとともに、告知が徹底されるまで待つ義務が{{要出典}}を添付した編集者には存在すると考えます(そしてその義務のことは仄めかされているものの、それと分かるように明確には書かれていないことは不幸なことだと考えます)。そして{{要出典}}が貼られた記事はウィキペディアコミュニティの全編集者(の誰か)が検討あるいは議論を経て改善すれば良い話であり特定の執筆者単独に出典提示や改善の責を負わせることはWikipedia:記事の所有権から考えても変な話です。--あら金 2008年2月28日 (木) 17:08 (UTC)

ここでの議論全体に、「要出典」をその箇所の執筆者に向けた負のメッセージ(叱責・警告)の如く捉えられがちなのが誤りかと。本来「要出典」は、読者に対して「この部分の記載には裏付けがないから気をつけて読んでね」と注釈するのが役割。従って、「要出典」だけを貼る編集者がいるとしてもそれは基本的には有益な編集行為であろう--306E 2008年2月29日 (金) 12:01 (UTC)
そりゃ全くごもっともですが、現実として、貼られた側に負のメッセージとして捉えられてしまうことあるのは、確かなことではないでしょうか?もちろん、ある程度慣れた我々はそうは捉えないでしょう。しかし、多数の人間が常時新たに参加するwikipediaにおいて、我々を基準にしていては、現実から離れた議論にならざるをえない、と思うのです。--本屋 2008年3月1日 (土) 23:37 (UTC)
そんな水掛け論より、こういう表現の方がふさわしい、と具体案を出していただければ、賛成、反対のしようもあるのですが。他にいい案がないなら、要出典のままでいいと思います。--Isorhiza 2008年3月2日 (日) 01:56 (UTC)
抽象論としてどうか、という点について論点になってるわけで、具体論はまた別問題だと思いますけど。まあ、確か具体論が必要なのは確かですね。カテゴリ名やテンプレートの文に沿って、「出典の付記が望まれています」「出典の付記にご協力ください」くらいが良いと思いますよ。ちょっと長いのが問題なんで「要出典」と短縮されているんでしょうけど。--本屋 2008年3月2日 (日) 10:41 (UTC)

(インデント戻し)初心者に対して居丈高に、あるいは木で鼻をこくるかのような態度で応じるのはもちろんいただけませんが、文面自体は、私は現状のままで良いと思います。負のメッセージと捉えてしまうこと自体が方針の理解不足であるので、そのような方には、方針の説明や方針文書への誘導で理解を求めるべきではないでしょうか。私は、文面をいじってしまうことで、解釈に幅が生まれる余地が出てくる可能性をむしろ危惧します。--Nazox 2008年3月2日 (日) 11:30 (UTC)

なるほど、それは説得的な面を含む議論だと思います。ただ、非常に多数にわたる執筆者たちにいちいち誘導や理解を求めるようことって、実際には不可能なのではないでしょうか?新規ログイン者には「あいさつ文」などでより強調できますが、IPユーザーには無理でしょう。また、解釈の点については、解釈に幅が生じない文面であればよいことになりますよ。--本屋 2008年3月2日 (日) 12:00 (UTC)
「出典」改名論議はこの項の当初趣旨から乖離しており、別項を立てて論ざれては如何--306E 2008年3月3日 (月) 12:15 (UTC)
意見を書いたら抽象論で反論されたので、抽象論を書いたら具体論を書けと言われ、具体論を書いたら別項にしろ、とは。
まあもとは感想にすぎませんからわざわざ別項にまではしません。ただ、このノートでは出典が少ないという議論ばかりが踊ってるだけで話に進展がないように見えますね。これも感想です。--本屋 2008年3月4日 (火) 10:34 (UTC)


今さらかも知れませんが他の観点から。
「『これは新聞に大々的に取りあげられてただろ?』というパラグラフまで{{要出典}}を張られて辟易した」とおっしゃいますが、外国から見る人もいるわけですし、5年後・10年後に読む人もいるわけです。阪神淡路大震災のときには小学校に入る前だった今年20歳の人にとって、当時大人だった人間にとっては常識的なことがそうではないわけですし。
「ノートに質問や出典を願う旨の議題を上げて解決すればそれで結構だと思います」と言っても、その執筆者がノートを見なければ通じないませんよね?(ウォッチリストにも出て来ないはず)自分が執筆した項目を定期的に巡回する人ってどれくらいいるでしょう?「Template:要出典」ページに「タグの貼り付けと当時に、ノート(該当箇所の執筆者が分かるならその執筆者の会話ページ)において出典を求めることがのぞましい(推奨)」という注釈をつける程度では?--左大文字 2008年8月28日 (木) 13:14 (UTC)