コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

Wikipedia‐ノート:出典を明記する/過去ログ6

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

テレビ番組の出典の書き方

[編集]

ノート:柚木涼香#出典で、スタイル変更に伴う、出演情報に対する出典の要求で議論が起こっております。そこで、出演情報の記述自体が出典情報の記述になれば良いのではと思い、こちらのページを参照にしようと思ったのですが、テレビ番組を出典とした場合の書き方がなかったので、これに関して皆さんのご意見をいただきたいと思います。

元々、芸能人の記事は、来歴やエピソードに関してはテレビ番組や映画・書籍等の出典情報が明記されていますが、テレビ番組の出演情報自体には出典はついておりません。これは、出演情報自体が「番組名」「放送年」「放送局」「役名」で構築されており、これ自体が出典情報になるという見解の元に、省略されているのだと思います。一方、声優を主とした職業としている芸能人の記事に関しては、放送局は勿論、放送年さえも省略し、「番組名」「役名」「(放送年)」のみで構築されるという慣例が根付いており、これもまた出典情報として充分であるという理解がなされているのだと思います。何にしろ、「出演情報の記述」自体が「出典の明記」も担っているとした方が、重複を避けることができるでしょう。

また当ノートページを拝見したところ、Wikipedia‐ノート:出典を明記する/過去ログ2#テレビドラマ、テレビアニメなどの出典元では、ひとまず、テレビ番組は出典として認められる(出典である番組データ自体の入手は、全く不可能なことではない)と結論付けられたと理解しております。

以上のことを鑑み、以下の点に留意した「テレビ番組の出典の書き方」を取りきめたいと思います。

  • 芸能人記事において、出演情報としても記述し得るスタイルで構築したい。
    • 出演情報の記述が、出典情報として不充分な場合、別に出典を明記する必要が出るため、番組名等の重複が生じる可能性がある。
    • 記事の見栄えを考慮し、かつ出典情報として必要最低限の情報に留める。
    • 勿論、それ以上の情報も追加してよいと思うが、これを削ったら出典情報として成り立たないというボーダーラインも決めたい。
  • テレビドラマ・テレビアニメの場合、パッケージングされないものとパッケージングされるものがある。オリジナルビデオ等の存在を鑑み、両方のスタイルを考えたい。
    • テレビドラマ・テレビアニメで、パッケージングされない、あるいはされる予定があるが、まだされていない場合は、タイトルの他に何が必要か?
      • 放送局+放送日時か?
        • 執筆者が出典元とした番組の放送局と放送日時を書くか?
        • 複数の執筆者で、出典元の番組を見た放送局や放送日時が異なる場合は、どちらを優先して書くべきか?
      • 複数の放送局で、複数の放送日時が生じる場合を考慮し、放送回数・話数などで記述するか?
    • テレビ番組の場合、パッケージングされない場合はほとんどであるが、どうするか?
      • 長期に渡って放送されている場合、放送回数が判らない場合はどうするか?
        • 回数表示の場合と、執筆者が出典元とした番組の放送局と放送日時を書く場合と、複数のパターンを用意すべきか?

--Mikouma 2011年1月26日 (水) 13:16 (UTC)

コメント 放送番組については一応、テンプレートとして{{Cite episode}}が導入されています。ただし放送番組の場合、出典を明記しても必ずしもそれが検証可能な形とはならないので、色々と難しいところは含んでいると思います。私個人としての意見は昨年の議論「Wikipedia‐ノート:検証可能性#「TVで観た」という出典に関して」で述べていますが、様々な意見があって時折議論になっているのが現状かと思います。
芸能人記事や放送番組の記述のスタイルについての相談に関しては、「プロジェクト:芸能人」や「プロジェクト:放送番組」などのノートに場を移した方が良いかも知れません。--Kanohara 2011年1月26日 (水) 23:35 (UTC)
コメントありがとうございます。プロジェクト:芸能人においては、「番組名」「放送年」「放送局」「役名」で構築することが推奨されていますが、これをいくつかの声優記事(南條愛乃内田彩沖佳苗)で励行しようとしたところ、「プロジェクトは強制ではないので、スタイルを変更する理由にはならない」と反発を受けました。もし挙げていただいたテンプレートを導入したとしても、何らかの反発が生じるのではと危惧しております。また、もし声優記事におけるスタイル(「番組名」「役名」)が出典の情報の明記として成り立つのであれば何も言うことはないのですが、ノート:柚木涼香では、「番組名と役名だけでは出典の明記にはならない」という意見も出されています。しかしそれだけで良いのなら、本記事における、和書の出典の書き方が、あのような詳細な形であるわけがないでしょう。テレビ番組の検証可能性に関してはひとまず置くとして、「これさえあれば、テレビ番組の出典情報を満たしたことになる」という要素を考えたいと思います。--Mikouma 2011年1月26日 (水) 23:48 (UTC)
検証可能性のための文献の要件は2つあると思われます。信頼性と再入手性です。テレビ番組は、図書館的なシステムでの再入手性に難があります。唯一図書館的なシステムで再入手を可能にしているのは、放送ライブラリーです。テレビ番組を検証資料として用いる場合は、Template:放送ライブラリーを利用出来ることを条件とする必要があると思います。--Akaniji 2011年1月29日 (土) 01:13 (UTC)
コメント 質問の性質上、ラジオも含まれる気がしますので、テレビ番組とは性格が違う部分はあると思いますが、議論の範囲をそこまで広げるのが妥当な気がすることを記しておきます。--NISYAN 2011年1月29日 (土) 03:14 (UTC)
 放送の書誌情報としては、次のようなものを挙げれば良いのではないでしょうか。
  • 【必須】放送ライブラリーprogram番号、放送日時、放送局、製作者。
  • 【任意】該当分数(図書におけるページ番号に相当)
例:NHK、1952年6月14日18時00分『ラジオ民衆学校 科学の世界 条件反射について』放送ライブラリー program番号:133615
--Akaniji 2011年2月10日 (木) 14:39 (UTC)
コメント 皆さま、コメントありがとうございます。
ノート:柚木涼香#出典では「情報を追加するたびに出典をいちいち貼るんですか?記事の内容より出典のほうが長くなってしまいそうですね。さながら出典大事典ですね。未来の出演情報を記述する場合は出典が必要かもしれませんが既に放送された誰でも見られるTV放送などは出典は不要ではないのですか?TVで放送された自明なことにもいちいち出典を要求するのは何故ですか?--Ftaneder 2011年1月26日 (水) 17:29 (UTC) 」と言った意見も見られ、既に放送された番組に関しては出典は不要と考える方もいらっしゃいます。このような方に対し、出典の明記が必要であることを説明するためのアドバイスもいただけたらと思います。--Mikouma 2011年2月11日 (金) 03:16 (UTC)
 存命人物の伝記は名誉毀損のリスクがあるため、検証可能性が特に厳格に求められています。WP:NOT#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありませんWikipedia:創作物による逐次的な編集と併せて案内されてはいかがでしょうか。--Akaniji 2011年2月12日 (土) 03:41 (UTC)
/draft#書誌情報の書き方(放送)に案を書いてみました。--Akaniji 2011年2月11日 (金) 23:40 (UTC)
特に意見がなければ、新聞節の後方に収載します。--Akaniji 2011年2月16日 (水) 11:47 (UTC)
こんばんは。1つ確認なのですが、書誌情報の書き方としてあくまで一例を紹介するというご提案と解釈していいのでしょうか。「テレビ番組を検証資料として用いる場合は、Template:放送ライブラリーを利用出来ることを条件とする必要があると思います。」という点については今回の提案では付加されないという理解で間違いありませんでしょうか。私は情文へは毎月行く用事がありますので、放送ライブリーにも年に数度は立ち寄りますが、あそこで一般利用者が閲覧できる品揃えは国会図書館のような網羅型とはとてもいえませんので、放送ライブラリー所蔵が条件ということにしてしまうと放送資料を出典として用いる事がかなり制限されてしまいます。--Giftlists 2011年2月16日 (水) 12:10 (UTC)
 付加しています。案の脚注をご覧ください。--Akaniji 2011年2月16日 (水) 13:41 (UTC)
こんばんは。お返事ありがとうございます。でしたら、うーん、申し訳ありませんが反対します。放送ライブラリーの所蔵は必須とできるほど現状豊富ではないと思います。書籍等でも国会図書館等の公共図書館での所蔵が必須条件ではありませんし。尚、「必須」ではなく「推奨」「任意」ならば反対はしません。--Giftlists 2011年2月16日 (水) 13:52 (UTC)
 オンデマンド放送が充実するのを見越して、チャンネルと放送日時があればOKにしましょうか…。--Akaniji 2011年2月16日 (水) 14:38 (UTC)
前回のコメントより時間が経ってしまい、申し訳ありません。
私がまず問いたいのは、現在、芸能人記事の多くで成り立っている出演リストの記述スタイル(PJ:芸能人#テンプレートを参照)や、声優記事の多くで成り立っている出演リストの記述スタイル(例:沖佳苗内田彩南條愛乃)は、それ自体で「出典の明記」であると言えるか、ということです。#出演リストへの出典の明記は「無差別」かでも挙げていますが、特に声優記事に関わるユーザーには、出典の明記を拒否する方や、記述それ自体が出典の明記であると考えている方(ノート:柚木涼香参照)もおり、出典の明記を巡って度々堂々巡りの議論が交わされております。このような事態を避けるためにも、特にテレビ番組の出演リストに関して、現状それ自体が「出典の明記」に適しているなら良し、そうでないなら出典明記に反発するユーザーにとっても納得できる、簡潔な出典明記のスタイルを構築したいと考えております。--Mikouma 2011年2月16日 (水) 12:28 (UTC)
 読者がその書誌情報を見て該当資料を入手できる(辿り着ける)のであれば、そのcitationは十分です。辿りつけないのであれば、不十分ですね。検証資料の提示を拒否する方にはTemplate:存命人物の出典明記タグをご案内してはどうでしょうか。--Akaniji 2011年2月16日 (水) 13:41 (UTC)
コメント出典の情報の明記として成り立たない。数十年後も記述は残るし、その時に役に立つだけの情報を残す必要があるでしょう。本来であれば、誰でも検証可能な状態であることが好ましく、放送ライブラリーやLDやDVDなどのパッケージがあればそれを、あるいは番組を取り上げた雑誌などを探すのが手っ取り早いと思います。それらが得られない場合で、かつその情報が百科事典の記事としてどうしても必要ならば、他の情報源が得られるようになることを期待して、放送番組を情報源としてもよいと思います。この場合、番組名、製作者、執筆者が見た放送局と閲覧日時を「情報源として挙げる」ことが望まれます。記事中に出演情報の節があるなら「番組名ほかの情報[1]」として、脚注に上記の情報を。重複は気にしない。検証した人が別の放送局であれば、それを書き加える。列挙です。数が増えて、突然の変更などがないと判断できたならば、一元化してもよいですが、初回放送、大きく期間が開いての再放送、パッケージ、は、それぞれに書くべきでしょう。複数の放送局で、複数の放送日時が生じる場合、本文中では放送回数・話数などで記述すればよいと思います。情報源としては特定出来ればそれでいいです。--Ks aka 98 2011年2月16日 (水) 14:12 (UTC)
 ちょっと例示してみます。三遊亭円楽の出演情報の検証資料は、次のように示せば、読者は検証資料に辿り着くことができます。
笑点では2001年の後楽園ホールでの公開収録に出演した[1]
脚注
  1. 日本テレビ、2001年10月28日17時30分『笑点』放送ライブラリー program番号:129642参照。
--Akaniji 2011年2月16日 (水) 14:38 (UTC)

報告 永田依子において、いくつかの出演情報に出典を示し、Template:存命人物の出典明記Template:出典の明記を加えたところ、ノート:永田依子#出典の明記に関するテンプレートについてにおいて、「出典の明記はタイトルの表記で情報源として機能しているため、内容が不足しているということはありません。」という理由から、テンプレートの除去が提案されました。この件に関しまして、私は本議論や#出演リストへの出典の明記は「無差別」かにおける皆さんの意見を提示した上で反対させていただいたのですが、皆さんのご意見も伺いたいと思います。--Mikouma 2011年2月27日 (日) 11:19 (UTC)

再考(テレビ番組出演の出典明記方法)

[編集]

時期が開きましたので、仕切り直しとさせていただきます。改めて、「芸能人Z」が「A年B月C日、D局(プラスE局、F局など多数)にて放送されたテレビ番組『G』(あれば、放送ライブラリー登録番号H、映像ソフト商品番号I)に出演した」ことを「芸能人Z」の記事に記載する際に、「テレビ番組『G』」自体を出典とできるか否かを問います。--Mikouma 2011年3月26日 (土) 09:18 (UTC)

反対 議論提起者票として不可能。一度放送されたものは、一部の権力者・制作関係者以外の一般人には、録画等を行なっていない場合、検証不可能である。50年前のテレビ番組の検証をどう行なうのか。一般的な検証可能な資料としては映像ソフト(ビデオ、DVD等)や放送ライブラリー、あるいはテレビ番組『G』(に芸能人Zが出演したこと)に言及した二次資料(雑誌等。書籍であれば国会図書館で閲覧可能である)が挙げられ、これらは「テレビ番組『G』自体」ではない。よって、「テレビ番組『G』自体」を検証可能な出典としては扱えない。--Mikouma 2011年3月26日 (土) 09:18 (UTC)
コメント 個人的な意見としては過去の議論「Wikipedia‐ノート:検証可能性#「TVで観た」という出典に関して」でも述べたように、映像ソフト化の予定が存在している作品については、将来的に検証可能になることや、将来的に映像ソフト化が予定されているような作品は映像自体に価値があり高い録画率を期待できることから、映像ソフトが発売されるまでの期間にも十分な検証可能性が得られると考えています。逆に、ニュース番組のような、映像ソフト化の可能性がない番組の内容については(ニュース中のハプニングを取り上げた新聞記事や書籍など、その出来事を取り上げた二次資料がない限りは)検証不可能でしょう。
さてMikoumaさんが問題視しているような、芸能人の番組出演情報についてですが、ドラマやアニメ番組の出演情報については、前述の理由により番組名さえ挙げてあれば検証可能かと思います(こうした番組では、番組の最期にスタッフクレジットが流れるため、これを検証可能な出典と見なせると考えます)。バラエティー番組や特番の出演情報に関しては、番組自体を見逃したとしても当日の新聞の番組表やその週のテレビ情報誌といった二次資料で検証できる可能性が十分に高いと考えられ、これについても番組名、番組制作局、放送日といった情報さえ十分なら、こと細かく「○○新聞東京版xx年xx月xx日付」「週刊TVガイドxx年xx月xx日号」といった情報を載せなくても、除去したり{{要出典}}を貼ったりする必要はないと、個人的には考えています。ただし新聞やテレビ情報誌で紹介されるまでもない小さな扱いでの出演や、番組の内容に踏み込んだ内容となると、映像ソフト化の予定のない番組に関しては二次資料の明示が必要であると考えています。--Kanohara 2011年3月27日 (日) 05:12 (UTC) ドラマやアニメ番組について一部追記--Kanohara 2011年3月27日 (日) 15:46 (UTC)
コメント弱い情報源ではあるけど「出典とはできる」と考えます。ただし、レギュラー司会者であったり、放送事故などの当事者であったりするのでなければ、通常テレビ番組に芸能人が登場したことをいちいち書く必要があるとは思っていません。--Ks aka 98 2011年3月27日 (日) 10:17 (UTC)
コメント番組がDVD化やアーカイブ化されていないならば、本来は検証可能性は殆ど無いものと考えます。 従ってよほどの価値のある情報でない限り、現時点で検証可能性がない番組を1次の出典にする編集は控えるべきでしょう。 ただし既にページ上に記述があって、「A年B月C日、D局にて放送されたテレビ番組『G』」が提示されていれば、検証可能性が乏しいことを理由として削除してしまうのではなく、検証可能性のある別の情報源を見つける手がかりとして温存しておけば良いと考えます。 だからと言って、書いた者勝ちという理論は、ルールの悪用となるでしょう。 (出演者については重要であれば、本人の公式HP上に記載があるか、番組の公式HPで見つかることは良くある事です。 逆を言えば当人のHP上にさえ言及されていない番組は、当人の説明をするにあたり、本当に重要性があるのかどうか、議論の必要があるでしょう。)--Gyulfox 2011年3月27日 (日) 18:38 (UTC)

質問から1週間が経過しましたので、ここで回答受付を締め切りたいと思います。皆様のお答えをみると、「映像ソフト化・アーカイブ化された(する予定のある)もの(テレビドラマ、テレビアニメ)は、再入手性が確保できるので、番組名のみで出典明記を満たす」「映像ソフト化・アーカイブ化されていない(される予定のない)もの(バラエティ、特番)は、番組名のみでは出典明記を満たせない」という意見で良いかと思います。これらの意見に則り、番組内容ジャンルによる、以下の2つの出典明記の放送を「テレビ番組への出演の書き方」として提案します。→利用者:Mikouma/テレビ番組情報の書き方--Mikouma 2011年4月6日 (水) 07:45 (UTC)

コメント議論としてはまとまっていないように思いますが、なぜそうなるのでしょうか?何が争点でどう賛成されたかをまず決をとるべきでしょう。--123.224.178.238 2011年4月6日 (水) 08:37 (UTC)

参考文献の無秩序な列挙に何らかの歯止めが必要なのでは

[編集]

Wikipedia:コメント依頼/AlexK 2回目でも問題になり、ずっと手をつけたいと考えていたのですが、遅くなってしまいました。事例として他のもの(ノート:イエス・キリストノート:カナの婚宴)も出て来たので、やはりガイドライン本文改訂が必要になっている段階と思います。

  • 議論提起 - 参考文献の無秩序な列挙に、何らかの歯止めが必要なのではないでしょうか。
  • 現状の問題点
    • 本来はWikipedia:出典を明記する#はじめにを読めば、何のための参考文献なのか「著作権(およびその隣接権)の遵守」「内容に問題がないか確認できる」「読者がさらに調べるときの参考になる」が明示されているのであり、内容と関係の無い文献は掲載されない筈ですが、「ちょっとでも関係があれば載せて良い」というように拡大解釈されて、逆に調査の便を損なったり、以下起き得るケースがあったりするなど、これらを阻止するのに有効な文言が見当たりません。
  • 現状で起き得ること(起きていること)
    • 関連する文献というだけで載せることが出来るかのように読めるガイドラインとなっている現状の問題点(実際AlexKさんはそのように解釈して、自身の作成したウクライナの地理記事全て(町村レベルに至るまで)にウクライナの歴史書籍2冊を添付しています。
    • 書籍の宣伝活動・販促の悪意を阻止できない。
    • 「総合書籍」を、該当するカテゴリの記事全てに貼り付ける事が出来てしまう。
    • 記事内容を直接的に担保していない文献を、「関係があるから」といって貼り付けることも出来てしまう。
    • 直接的記述内容があると信じて調査を始める読者に対し、どこにも直接的記述が無い文献を「参考文献」として提示することは、ウィキペディアの信頼を損なう。
  • 具体的提案(甲)(じゃんじゃん叩き台にして下さって結構です)
    • 現行の引用のガイドライン節と脚注節の間に、「記事内容と関係の無い文献の掲載」節を設ける。
    • 文言案 - 「執筆する際に参照した書籍や外部サイトといった情報源を明記する必要があります。しかし、参照した具体的箇所が無い文献、記事内容について一言も触れていない文献については、関連性のみを以て掲載するようなことはしないで下さい。」(「はじめに」節を参考に作成)--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 02:18 (UTC)
コメントKinno Angelさんのご意見に同意です。きちんと脚注形式で出典提示が行われているのであれば、関連書籍も参考文献に載せてもかまわないとは思いますが、脚注形式でない検証の難しい提示式に尚且つ直接本文の出典にしたのではない書籍を書き加えては検証可能性の障害になるだけです。「ちょっとでも関係があれば載せて良い」という拡大解釈は検証可能性を阻害するものだとおもいます。関連書籍を載せたければ出典とは別に関連書籍として記載するか、さもなければ脚注形式で出典提示するべきです。--パタゴニア 2011年2月7日 (月) 02:30 (UTC)
コメント パタゴニアさん、同意をありがとうございます。
さて、もう一つ提起しなければならない問題もありました。「一箇所に複数の同趣旨の出典を付与するケースへの制限」です。私自身も復活 (キリスト教)で同一箇所に複数の出典を付与しているケースがあるのですが、これは「正教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタント」の各視点の中立性を担保するためであって、同じ立場に立つ者からの出典は出来るだけ重複を避けています。ただ、利用者‐会話:イザヤ#プロテスタントにつきでも話題になったのですが、同一の立場からの出典を複数付与するやり方をとる人もいます(量を確保することで珍説加筆を避けようとするため)。
こうしたやり方については上記と同様の「書籍の宣伝活動・販促の悪意を阻止できない」問題を孕んでいるほか、脚注欄を不必要に長くして見易さを損なうため、私は基本的に反対なのですが、この点についても皆様の意見を伺いたく存じます。
  • 具体的提案(追加)(乙)
  • 上述の「記事内容と関係の無い文献の掲載」節の直後に、別の節「同一箇所における同趣旨の出典」節を設ける。
  • 文言案 - 「一箇所に同趣旨の出典を付与する行為は、脚注欄が不必要に長くなるなど、可読性を損なう危険性があります。同一箇所に複数の出典を付与することは、複数の観点からの情報源を確保して中立的観点を達成するといった合理的理由が無い場合には避けて下さい。」--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 06:44 (UTC)
  • 文言案(改訂版) - 「一箇所に同趣旨の出典を付与する行為は、脚注欄が不必要に長くなるなど、可読性を損なう危険性があります。同一箇所に複数の出典を付与することは、「同一文内に、該当内容の重複しない出典が複数存在する」「複数の観点からの情報源を確保して中立的観点を達成する」といった合理的理由が無い場合には避けて下さい。」--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 07:33 (UTC)議論経緯により、乙案は取り下げます。--Kinno Angel 2011年2月11日 (金) 02:26 (UTC)
コメント Kinno Angelさん、パタゴニアさんの意見に賛同します。また、記事のテーマにもよるのかも知れませんが、中立性の観点からいって、珍説・奇説であっても出典が有るのであれば加筆を止められるものでもなく、出典数の優位を持って別説・異見を退けられるという正当性もありませんし、検証性と可読性を悪くするだけでしかないでしょう。提案についてはKinno Angelさんのご草案文言で達成されるものと思います。--ジャムリン 2011年2月7日 (月) 07:23 (UTC)
コメント ジャムリンさん、ありがとうございます。なお、申し訳ありません、追加提案の文言に若干の変更を加えさせて頂き、改訂案を提出します。旧提案の強調マークは外しました。--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 07:33 (UTC)
コメント私もKinno Angelさん、パタゴニアさんの意見を支持します。出典欄の中に本文と関連があるだけの書籍は、間違いなく可読性を低下させるものでしょう。 ただし主題について権威のある書籍などは将来の記事の成長を促す有益な素材であるため、発見し次第「関係書籍類」という別の節を設けて隔離して表示という措置を取るのが順当でしょう。 (悪質な場合であれば参考出典節を関係書籍類節に格下げして、出典なしの項にされても文句は言えないという事です。)--Gyulfox 2011年2月7日 (月) 09:11 (UTC) 

Template:単一の出典2011年1月27日 (木) 15:38 Shigeru23 (会話 | 投稿記録) (838バイト) (定義と「単一の出典」タグを追加。) ]や、特筆性タグ2011年2月1日 (火) 10:57時点における版Shigeru23で出典を要求する執筆者たちがおり、その要求に対して、またカナの婚宴について私はこれを参考にしたのであり、参考文献の無秩序な列挙の例にあげられるのは心外です。出典を減らした結果、「単一の出典」タグや「特筆性タグ」が付けられる可能性が増します。参考文献の無秩序な列挙が意味するものであれば私も反対です。--イザヤ 2011年2月7日 (月) 09:52 (UTC)

コメント'参考文献の列挙'は認められているはずです。この議論は無秩序な列挙であって、この際、一緒くたになっているものを、1:脚注表示できてしまうもの、2:参考文献として掲示する方が良いもの、3:関係書籍類に分類表示できれば、記事の大きな改善と思いませんか?--Gyulfox 2011年2月7日 (月) 10:04 (UTC)
コメント イザヤさんのお挙げになっている例では、基本的にShigeru23さんのタグの意義に対する理解に問題があるものと思われます。またノート:悪霊につかれて口のきけない人をキリストがいやすについては、私はShigeru23さんに反対しております。例として挙げさせては頂きましたが、私はイザヤさんが目指そうとなさっている方向性に反対ばかりしている訳では御座いません。しかしながら【中立的観点・検証可能性のほか、各文章の情報源を明らかにする】を達成するのは、適正な脚注手段によることだけで十分です。「多数の出典を挙げる」ことは何ら価値を成しません。検証可能性を低下させるだけです。--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 10:10 (UTC)
Kinno Angel様のご意見「そのもの」には賛成します。ですが、悪しき教条主義と化して初心者を萎縮させるのではないかという危惧を抱いております。歯止めをかけるなら良いですが方針が厳格化することによってWikipediaの参加者を殴り殺す鈍器と化してしまうのではないか、そういう一抹の不安を払拭できません。--ShellSquid/履歴 2011年2月7日 (月) 10:26 (UTC)
コメント ShellSquidさんのコメントをみて、そしてイザヤさんの周囲が何やら不穏なことになりつつある雰囲気も若干感じておりますので急いでコメントしておきますが、確かにイザヤさん絡みの一件は懸念に該当するものではあるものの、イザヤさんとは議論になる場面は大変多いものの、イザヤさんの編集活動全体について否定する意図はありませんことを申し添えます。--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 10:33 (UTC)
コメント 私もKinno Angelさんやパタゴニアさんのご意見に賛成です。脚注方式による出典明示は、百科事典の出典にしては多少難のあるもの(百科事典の出典に百科事典、一般向けの書籍など)でも、イタズラな編集合戦等を避けるためには(限度はありますが)どんどん挙げてもよいと思います。ただ、参考文献に関してはより適切なものを選んで挙げるべきだと思います。なお、参考文献は「参考にした文献」と「参考になる(より高度な)文献」の両方の意味がありますので、その点も解釈が分かれて厄介だと思っています。--Bokemiann 2011年2月7日 (月) 10:57 (UTC)
コメント 参考文献は、記事を書くときに「参考にした文献」を書くべきで、記事の主題に関して「参考になる文献」を書くべきではない、という基本的な考え方には賛同します。ただ、「一箇所に複数の同趣旨の出典を付与するケースへの制限」というのはどうだろうと思います。ある内容を記事に書きたくて、それへの出典とできる記述を文献から探してきたなら、最初に見つけたところを出典として書けばよいのですけど、記事の主題に関して自分自身が知らなくて、調査をしながら書くときは、記事の主題に関連する文献をたくさん集めてきてそれを読みながら作業をするわけで、結果的に同じことを述べている複数の文献が出てくることはあると思います。そのときに、出典として挙げるのはあくまでどれか1つを選んで限定すべきなのでしょうか。双方で確認できるのならそれでよいと思うのです。「書籍の宣伝活動・販促の悪意を阻止できない」と言いますが、現実にそのような問題が発生しているのでしょうか? また、加筆時の問題もあります。ある人がAという内容を加筆して、それにA'という出典をつけたとします。他の人がそれを見て、もう少し詳しく説明できると思って、A'という資料は持っていないけれどB'という資料を出典にして、Bという内容を加筆する(結果として記事にはABという内容とA'B'という出典が残る)とします。でも、A'にもBの内容は説明されていたのに、最初に加筆した人が書いていなかっただけだとしたら、後に加筆した人はA'で十分な出典だったのにB'を増やしたということになりますが、これは否定されるべきことなのでしょうか? 個人的には、現状の日本語版ウィキペディアはまだまだ出典が不足しすぎていることの方が問題であって、出典が過剰なことを心配する段階ではないと思っています。--Tam0031 2011年2月7日 (月) 14:25 (UTC)
コメント 「参考にできる可能性の高い文献」、より具体的には「書籍名や章タイトルなどから、記事主題に即している可能性が非常に高いと類推できる文献」を、何らかの形で記事(記事のノートではない)に記載することは、読者を執筆者に引き込むという観点から否定されてほしくないと、個人的には思っています(参考:この加筆における2文献および要約はそういう意味合い)。それを「参考にした文献」と分けて記載したいという考えは判りますし、賛成でもあります。節名さえいいのがあれば、今まで記載した記事に対して適用したいと思っています。
複数の文献を挙げることは、検証容易性を上げることにつながると考えます。訪れた図書館/書店にある文献がなくても、もう一方の文献があれば、わざわざ別の図書館/書店で文献を探す必要はありません。高価で専門的で包括的な情報源と、安価で一般向けに噛み砕いたタイプの情報源が併記されていれば、その分野を深く知ろうとする人であれば前者、サラッと読みたいという人であれば後者を検証可能な情報源として用いることが可能です。あるいは、読者の不勉強故、前者の情報源を読み解く力がないがために、後者の情報源によってやっとWikipediaの記述を検証できるというケースもあるかもしれません。≪より適切なものを挙げるべき≫という意見がありますが、読者によって≪適切なもの≫の基準は異なると思うのです。性質が類似していてかつ一方が他方を包括するようなタイプの情報源が両方記載されているといった場合はさすがに無駄を感じますので、ケースバイケースだろうと思います。
書籍以外の情報源を出典としている場合があります。分野によっては書籍がなかなか見つからず、Web上の情報に頼ることもあると感じています。Web上の情報にはリンク切れの懸念がつきまといますが、複数のWeb出典を挙げることは、リンク切れに対する検証可能性担保の1つの方法になると考えます。新聞記事が新聞サイトに公開されている場合があり、新聞にあたるよりは新聞サイトで確認できるほうが検証容易性に優れていると考えますが、その場合でも複数の新聞サイトにリンクさせることで検証容易性を長期間担保できる可能性が高まると考えます。
まだまだ複数の出典があるほうがよいケースは考えられるかもしれませんが、ここまで挙げたケースだけでも、複数の出典を一律避ける理由はないように思います。--NISYAN 2011年2月7日 (月) 16:40 (UTC)
コメント ≪より適切なものを挙げるべき≫という表現は私の表現なので、少しコメントを。記事執筆に当たっては『現代用語の基礎知識』や高校の歴史教科書でも何でも使って書くのはよいと思います(あくまで話を分かりやすくするための実例です)。それらを出典として注記してよいかどうかは議論があると思いますが、場合によっては注記してもよいと思います。(私としてはそれらの書籍はなるべく出典にしたくないのですが)削除などの対策その他としては注記すべきかも知れません。しかし、それらの一般向けの書籍よりも専門性に優れた出典があればそちらを優先すべきで、その場合には前者の一般向けの出典は外してもよいと思います。そうすれば特に問題なく出典の羅列も少なくなるのではないでしょうか。書籍自体に要出典タグを貼付したくなるようなものも現実にたくさんあるわけで、≪より適切なもの≫とはその意味で、より専門性があり、有用性もあって参考になるもの、という意味合いで書きました。ちなみにこの問題は一度議論したいと前々から思っていたことなので、今回思い切って発言いたしました。--Bokemiann 2011年2月7日 (月) 17:19 (UTC)
コメント 「一般向けの書籍と専門性に優れた書籍との併記は無駄、その場合、一般向け書籍は外していい」(という主旨ですよね?)とする理由がよく判りませんでしたのでお教えいただきたいです。先に書いたことの表現を変えての繰り返しですが、専門性に優れた書籍は読み解くためにその分野に対する一定以上の理解が必要なことが結構あるのではないでしょうか?具体例を提示できませんが、書籍の「はじめに」などに≪この書籍は××程度の知識のある人を対象としています。もし詳しくない方は、先に私の書いた入門編の書籍『××』を読むことをお勧めします。≫のようなことが書かれているのはときどき見かけますし、その分野特有の言い回しや専門用語がオンパレードな書籍を読み解くには、その分野に対する一定以上の理解が必要であることは想像に難くありません。そのような場合に、一般向けの書籍を外すことは、「その分野に詳しくない読者」という、読者の一部の層の検証可能性(は言い過ぎかも知れませんが、少なくとも検証容易性)を下げることになると考えるのです。百科事典を読むのはその記事分野に詳しい人だけではないのですから。そのような読者の検証容易性を下げてまで一般向けの書籍を外すべきとする理由をより詳細にお教えいただきたく存じます。
念のために2点書いておきます。専門的だが前提知識が少ない書籍(想像できませんが)があるなら、そういったものを選ぶことができるなら、それがベストと考えます。もう1点は、先に≪性質が類似していてかつ一方が他方を包括するようなタイプの情報源が両方記載されている……無駄≫という表現で表している通り、同程度の情報しか持たない一般向け書籍複数を記載する必要はないと考えています(それらのうちどれを記載するかで揉めるかもしれませんが)。--NISYAN 2011年2月9日 (水) 00:34 (UTC)
コメント >「一般向けの書籍と専門性に優れた書籍との併記は無駄、その場合、一般向け書籍は外していい」(という主旨ですよね?)
いいえ、違います。注記の形の出典に関しては無駄とは思っていません。私はちょっと違った観点からコメントしたので誤解されたようですが、それはひとえに私の文章力のなさです。もう一度詳しくご説明したいと思います。
私が言いたかったこと、某所での編集合戦その他に鑑みて、百科事典の出典としては余り相応しくないものも、ある種の削除主義者から記事を守るためには載せてもよいのではないかと最近考えが多少変わってきました。その場合の「出典に相応しくないもの」とは当然ながら一般書になりますが、より正確に言えば「通俗書」と言った方がよかったかも知れません。具体的に言えば『現代用語の基礎知識』とか高校の歴史教科書、更に言えば『●●早わかり』といった類の書籍を含みます。それら通俗的な書物を使って記事を書くことは奨励されてよいはずです。高校の世界史の教科書や参考書などはさすがに出典に出来ないかも知れませんが、「そういった通俗書であっても、上記の意味の削除主義者から記事を守るため、或はイタズラな編集合戦を避けるためになら、ある程度の限度はあるにせよ、それらを注記形式で列記することは注記してもよい」と考えるようになりました。でも、その手の雑学本などの通俗書は百科事典の出典としては余り相応しくないとの考えに変わりはなく、本来私としては載せたくないのです。なので、「より専門性が高い書籍が後から注記されればその手の出典は外したとしても特に問題はないし、却って適切ではないか」という意味で発言しました(なお、私がその手の出典を付した場合は、より適切と思う出典が付加された段階で、私の手で後日削除するかも知れません。そういった意味を含意して発言しました)。また、その意味で「参考文献」節に挙げるものは、より専門性の高い書物から選ぶべきです。
なので、必ずしも一般向けの書物を排除するつもりもないし、無駄だとも思っておりません。私が先に「一般向けの書籍」と言ったのは、あくまで(百科事典の出典には余り相応しくない)レベルの書物を想定しています。また、「より専門性が高い」と書きましたが、「実用性も高い」という表現も併記しています。また、私がここで「より専門性が高い」と表現した専門性は、専門家の書いた書籍ではあっても、新書であったり、文庫化されたもので、一般人にも入手しやすい、その意味での「一般向けの書物」です。誤解されるような表現であったことは謝りますが、上で書いた「一般向けの書物」は、より正確に言えば「通俗書」と書くべきだったかも知れません。
で、話は元に戻りますが、先にも書いたように、私は通俗書は百科事典の出典にすべきではないと考えています。然るに、この手の三次、四次、五次情報に当たる通俗的な書物まで出典として列記している人が一部にはいます。それをイタズラに廃する気持ちは特にありません。また、上に書いたように、それら通俗書或は劣悪書が編集合戦回避のために出典として挙げられている場合もあるでしょう。ですが、そういった場合は、一般書でもよいので、より適切な専門性が高い出典が付加されれば、前者はお役御免で削除されても構わないのではないか、という意見を参考としてコメントしたのです。折角調べて見たら「大したことが書いていなかった」では参考に調べた人が無駄足を踏んだと思うのではないでしょうか。私もある記事で出典に当たって似たような気持ちになったことがあります。そのような出典は余り実用性・有用性がないのですから、議論の上で外されるのは構わないし、外した方がよいのではないでしょうか。
要するに私にいたいことをひと言でまとめれば、「百科事典の出典としては多少疑問のあるものも脚注形式での出典として挙げてもよいが、百科事典の出典としてより適切なものが見つかった段階で差替えるのもありではないか」ということです。それは、上で書いたように、「無益な編集合戦を回避するには有用だけど、百科事典利用者には必ずしも有用でない文献」である場合もあります。それらの出典は「編集合戦回避の有用性しかない」場合もあるのですから、そんなものがこれ見よがしに列記されていればハッキリ言って「無駄」です。あなたが私の発言から「一般向けの書籍と専門性に優れた書籍との併記は無駄、その場合、一般向け書籍は外していい」と読み取られたとしたら、そういった意味の利用者にとっては余り有用性のない文献のことを「無駄」と言ったと考えて下さい。もっとも、それらの文献であっても、必ずしも削除しろと言っているわけではありません。編集合戦などの理由を失った段階でそれらの出典は外してもよいのではないか、との意味合いでの発言です。NISYANさんの疑問に上手く答えられたかどうか分かりませんが、これが私のお答えになります。--Bokemiann 2011年2月9日 (水) 05:29 (UTC)
Bokeimonさんの言いたいことは良く分かりますが、今までも普通にできたことではないでしょうか。また、ここでやるにはちょっと文脈がちがうかも、と思うのですがいかがでしょうか。--ikedat76 2011年2月9日 (水) 15:09 (UTC)
Ikedat76さんのおっしゃる通りです(^^;) ちょっと違った観点からコメントとして簡単に述べたのですが、質問が出されたのでお答えしました。ただ、今まで普通にできてきたことでは必ずしもないと思っているので、井戸端なりこのノートで別項目を立てて何れ論じたいと思っています。--Bokemiann 2011年2月9日 (水) 15:21 (UTC)
一言だけ。多分Bokemiannさんと私とでは≪(百科事典の出典には余り相応しくない)レベル≫と考えるかどうかの閾値が異なるように感じましたので、多分そこから認識を合わせないといけないだろうと思いますし、≪今まで普通にできてきたことでは必ずしもないと思っている≫の半分は、その、≪(百科事典の出典には余り相応しくない)レベル≫をどこにおいているかが人によって異なることが根本にあるように感じています。既に提案「乙」に対しては提案の取り下げも行われておりますので、後は新しい節あるいは井戸端などに出てきた段階で意見を書こうと思います。--NISYAN 2011年2月11日 (金) 03:48 (UTC)
コメント - 私がトロすぎたせいで編集競合しました。なのでNISYANさんの意見を反映しておりません。(プレビューはさんでて良かった…)
テンプレやコメント依頼から参加していたのでKinno Angelさんが最初に提案している『本文の出典になっていない文献を参考文献に挙げるべきでない』という提案に異論はありません。議論に上がっている『関連書籍』節の対応にしても、あくまで記事主題に関わる対象に限定すべきかと思います(その意味で、コメント依頼などで争点になった「ウクライナ全体の書籍を(その書籍に載っていない)小自治体記事に参考文献として掲載する」については、依然「参考書籍」にしても載せるべきでない書籍であると考えます)。また、「総合書籍」を、該当するカテゴリの記事全てに貼り付ける事が出来てしまうという問題から、いくら掲載してあったとしても『百科事典』などの文献はほとんどの場合「参考書籍」として取り上げるのは不適切と思いますし、それ故に前述した「ウクライナ全体の書籍」の例にしても、どの本にも載っている・その書籍において主要なな対象ではない、といったものである場合、「参考文献」としての掲載する必要があるのならばともかくとして「参考書籍」というレベルでの掲載は不要と考えます。
「一箇所に複数の同趣旨の出典を付与するケースへの制限」についてはTam0031さんの意見に同意で、デメリットの方が多いものと考えます。また、方針文において
  • 一箇所に同趣旨の出典を付与する行為は、脚注欄が不必要に長くなるなど、可読性を損なう危険性があります。
  • 「同一文内に、該当内容の重複しない出典が複数存在する」「複数の観点からの情報源を確保して中立的観点を達成する」といった合理的理由が無い場合
という2文が同居することに違和感を感じます(矛盾していると思うわけではないです)。何というか、編集者によって「その複数掲載が合理的か否か」⇒「(否と考えるから)可読性を優先して出典を削る/(合理的だから)可読性よりも検証可能性」という判断の違いが出てしまい、今回の発端となった「参考文献」掲載のラインの解釈の違いと同じような“グレーゾーン”を再び作ってしまっているような気もします(杞憂かもしれませんし、単なる言い回しの差かもしれませんが補:方針文ですので表現の差は重要かと)。勿論方針文上でこのように論が分かれるケースなどいくらでもあると思いますが、自分は前者の『可読性を損なう危険性』って出典掲示よりも大事なことか? そもそも可読性を損なっているのか? ということから、両者は対等かどうか疑問符が付きます。基本的に私は現状一ヶ所(一記事)に複数の脚注・出典(・参考文献)が用いられているのはほとんど上記のような『合理的理由』に基づくものであると考えていますが、例え合理的理由があるかどうか微妙であっても『可読性を損なう危険性』から出典を減らそうとは思いません(極端な例、これなんてページ数の違いも配慮して脚注が141もついて、文中でも1ヶ所に最大7個も出典が付いていますが、そもそも脚注節は本文が終わった後にズラ~ッと並んでいるだけであり、記事を上から読んでいると脚注節に辿り着くのは本文を読んだ後です。その下は、レイアウトの違いからそこに関連項目・外部リンク・コモンズへの案内がくるか、せいぜいナビゲーションテンプレートとカテゴリがあるだけです。閲覧者側としては脚注節に辿り着く前に本文を読み終えており、そこから今更可読性が重要視されるかいささか疑問です。脚注をスクロール化できるテンプレがあった気がしましたが、ガジェットでした…)。「書籍の宣伝活動・販促の悪意を阻止できない」というのは確かに問題ですが、それに対処する方法として「一箇所に複数の同趣旨の出典を付与するケースへの制限」を挙げるのは若干方向性が違うと思います。--ButuCC+Mtp «Sub Talk:AVI/I-90» 2011年2月7日 (月) 16:57 (UTC)
コメント参考文献の無秩序な列挙は避けるべきだとしても、Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 07:33 (UTC)案には強く反対します。「同趣旨」とか「合理的理由」の範囲がわかりにくく、付与されるべき情報源がされなくなってしまう可能性が高い。
挙げられている議論などを見ると、問題となるのは、記事の主題と直接の関係がないものを列挙すること、特定の観点に偏った文献が列挙されること、でしょうか。
文献の偏りは、基本的には中立的観点の方針を示して、整理すれば足りると思います。問題は情報源の偏りであって、列挙されていることではない。ひとつの事柄に対して、事実としての信頼性、解釈としての信頼性、複数観点からの中立性明示、主題に対する理解の容易さ、言語も含めた読者の入手・閲覧の容易さ、代表的学説の傾向を示す場合などは、複数の情報源を示すのが合理的であり、可読性を理由に抑制するべきではないと考えます。逆に、少なく絞り込むことで、中立性が損なわれる可能性もあります。ほぼ同等の内容を持ち、同程度の評価を得ている文献のうち、どちらかを選ばないといけないということはない。
また、基本的な「総合書籍」は、関係する分野の多くの記事で取り上げられることが望ましいように思います。ウクライナの地理記事に対して、たとえばウクライナ政府が作る地理関係の便覧があるのなら、町村レベルに至るまで情報源として用い、情報源として明示されるべきでしょう。平凡社の『~を知る事典』とか、芦田憲法や中山著作権法とか、ディラックやサクライやランダウ=リフシッツの量子力学とかもそういう類のものになるかと。
2011年2月7日 (月) 02:18 (UTC)の提案を踏まえつつ考えてみると、「はじめに」の最後に、
これらと同様に重要なことは、執筆者が参照していない情報源を、あたかも参照したかのように書くことを避けることです。記事によっては、研究史や学説史を扱うこともあるでしょうし、参考とするべき一般的な資料集や教科書・啓蒙書を挙げる必要があるかもしれません。そのような場合は、それらが直接項目で扱われていることを主題として扱っている文献であり、一般的に知られた有効な文献であるということを、情報源を挙げながら示していくことが望まれます。
また「記事末尾に参考文献を記載する」のところで、
この形で出典を示す場合、「参考文献」は、執筆に際して、執筆者が実際に参照したもののみを挙げるようにしてください。「読者にとって参考になる文献」や、「記事主題に関係する文献」は、この節に加えてはいけません。
などとしてみてはいかがでしょうか。なお、今のガイドラインが、「関連する文献というだけで載せることが出来るかのように読める」とは思いません。間違って思い込む利用者がいたかもしれませんが、このガイドラインは「出典を明記すること」のガイドラインであって、記事中で書籍などを取り上げることのガイドラインではない。--Ks aka 98 2011年2月7日 (月) 18:32 (UTC)
コメント (甲)、(乙)の記号を当方の提案に振らせて頂きました。
さて、「(甲):実際に執筆にあたって使わなかった参考文献の列挙への歯止め」については大方の賛同が得られていますが、「(乙):同一箇所の複数出典の制限」については反対も半数以上いらっしゃるといったところでしょうか。反対の皆様の御意見を伺いながら、私も実は(乙)については弊害もあり、必要無いかな、と思い始めたところでした。また(乙)案の文言の曖昧さについて出されたご懸念も大変理解出来ます。ただ自画自賛のようで恐縮ですが、Ks aka 98さんの文言よりは、私の(甲)案の方が短文で、しかも明瞭かとも思います。ただし明瞭であれば良いというものでも無い場面も当然あるかと存じます。引続き御意見を伺いたく思います。--Kinno Angel 2011年2月7日 (月) 23:40 (UTC)
コメント本日Kinno Angel様がWikipedia:投稿ブロック依頼/Fuusennなる依頼を提出なさったようです。この依頼を見て私は導入すれば上で比喩した鈍器云々が早くも現実のものになるのではないかという懸念を強くしました。--ShellSquid/履歴 2011年2月8日 (火) 01:29 (UTC)
コメント なぜWikipedia:投稿ブロック依頼/Fuusennおける「出典を省いた抄訳、出典・参考文献節の無い抄訳記事の量産」の問題で、本テーマが鈍器になる懸念になるのか疑問です。何かお間違えか、斜めな方向に悪意に取らえ過ぎておられるのでは?--ジャムリン 2011年2月8日 (火) 02:37 (UTC)
コメント ちょっと私もよく分かりません。--Kinno Angel 2011年2月8日 (火) 04:03 (UTC)
コメント - 件のブロック依頼は「出典がない」こと(+ブロック相当の程度かどうか)が争点となっていると思うのですが、本提案の「記事に関連しない/執筆に使っていない出典の掲示」とどのような関連があるのでしょうか。--ButuCC+Mtp «Sub Talk:AVI/I-90» 2011年2月8日 (火) 10:22 (UTC)
コメント方針の改訂がブロックの根拠に使われたという安易な思いこみによるコメントでした。ジャムリン様の御指摘の通りかもしれません。すみませんでした。--ShellSquid/履歴 2011年2月8日 (火) 10:33 (UTC)

コメント(甲)についてですが、出典と出典以外の文献を分離することについてはWikipedia:レイアウトの指針#参考文献で既に解説されていることですから、ここで改めて解説する必要性については疑問です。せいぜいWikipedia:出典を明記する#はじめにの最初の一文を改変して、ここで言う参考文献とは出典のことだと分かるようにする程度で十分ではないでしょうか。(例えば「ここでは出典を明記することの必要性と、出典とした書誌情報(以下参考文献と記す)の書き方について説明します。」など)--黒森 2011年2月8日 (火) 14:14 (UTC)

反対 端的に申しますが、反対です。この文書はガイドラインであるとは言え、Wikipedia:検証可能性の実現手段について述べられているという意味で重要な位置付けにある文書と言えます。提案からわずか1日で「大方の賛同」云々と過早な議論の進め方がなされようとしているよう見えて、正直感心しません。

1点目、(甲)について。提案の内容についても本当に既存の文書の内容で対応できないものなのか大いに疑問とするべきところです。(甲)については既に黒森さんもご指摘の通り、Wikipedia:レイアウトの指針#参考文献で述べられていることを援用すれば事足ります。

また、Wikipedia:レイアウトの指針に≪参考文献ではないけれど、記事の主題について理解するのに役立つ文献を挙げるセクション≫(Further readings)を設けるという提案が過去になされたことがあります(Wikipedia‐ノート:レイアウトの指針#Further reading節)。その際も指摘があった(利用者:NEON 2009年8月19日 (水) 10:16 (UTC))ことですが、百科事典は専門書であるというより専門的知識への入口ないし見取り図を提供するものだという観点からすれば、専門的に重要ではあっても参考文献とはしにくい文献というものがどうしても出てきます。参考文献としたものも含めて、その記事の主題についてさらに知りたいと読者が思ったときに手がかりを提供するという意味で、参考にしていないからといって文献を排除することは、読者に対してするべきことをしないことになりかねません。

手前味噌のようで恐縮ですが、私が一番最近起稿した記事に熊野年代記という記事があります。その中の「関連文献」節に挙げた3冊の文献は、熊野年代記の執筆に当たって1ページも開いていません。しかしながら、いずれも同記事の「小野本と熊野年代記」節や「諸写本」節で述べているように、熊野の歴史と信仰の研究の上で基本かつ重要史料と見なされてきた『熊野年代記』という歴史書の受容の在り方を知る上で不可欠なものであるだけでなく、諸写本のヴァリアントと内容の異同が重要な問題となる書物であるゆえ、書誌を挙げたものです。これらの「関連文献」が本当にいらないのかどうかは、記事の主題に関する理解と知識と関係なく決定できません。しかし、こうしたものであっても今回の提案では、「参考にしていないからダメ」と容易に言うことができてしまいます。

2点目、(乙)について。既に指摘のあることですが、「同趣旨」「合理的理由」とは何でしょうか。

手前味噌ついでにもうひとつ私の起稿した記事から挙げると、「小辺路#現代」節の5番目の段落の末尾あたりに、「近世以前の古道の復元・復旧[89][91][92]」と3つの注がついています。3つの注はすべて「近世以前の古道の復元・復旧(が行なわれた)」という趣旨であることはまちがいなく、そういう意味では削除されるべき対象と見なされるでしょう。しかし、[89]の文献では「古道の復元・復旧」に、世界遺産登録に先立っての地元自治体の努力があったとの記述があり、[91]では近代になってから古道が損なわれた際に、新道が拓くのに尽力したと伝えられる人物に関する伝承を含んでおり、[92]では新道と古道のそれぞれの地形に関する記述を含んでいます。こうしたものを逐一書いていったのでは、ただでも相当大きなボリュームになっている記事を煩雑にさせるだけ(「可読性を損なう」)という判断から、記事本体の記述としては「近世以前の古道の復元・復旧(がなされた)」というものに圧縮し、それ以上の情報は注に挙げた文献から辿ってもらうようにしょうと意図したものです。さて、これら[89][91][92]は「同趣旨」なのでしょうか、それとも「同趣旨」ではないのでしょうか。「合理的理由」があるのでしょうか、ないのでしょうか。どのレベルに照準して考えるかで、「同趣旨」であったりなかったり、「合理的理由」があったりなかったり、容易にしてしまいます。

既に指摘のあることですが、このようにどうとでも解釈できてしまう曖昧な表現はルールとして機能し得ないと考えます。

4点目、「書籍の宣伝活動・販促の悪意」。WP:NOTで事足ります、という以上指摘するべきものはないと考えます。

5点目。以上のような観点からするならば今回の提案は指示の肥大化なりWikipedia:鼻に豆を詰めないでの具体例と言う以上のものではないと考えます。また、失礼を承知で申し上げますが、特定の利用者との角逐を公的な文書の改訂に持ち込むのはやめていただきたいと思います。そういうものはあくまで当事者間で解決してください。もちろん違うと仰られるでしょうが、関係の無い第3者の目にその様に写っているということは、くれぐれも留意していただきたいと思います。--ikedat76 2011年2月8日 (火) 17:04 (UTC)一部直す。--ikedat76 2011年2月8日 (火) 17:31 (UTC)

コメント特定ユーザーを黙らせるために、ガイドラインを都合の良い方向に変更するのは、違反ですので注意して下さい。「出典の無秩序な列記」が意味するところが、一つの文章に対して複数の出典提示を今後は禁じようとする方向に進むのであれば反対です(1つの文章に7つの出典は極端ですけれど)。専門書しかない場合入手困難で検証不能ということもあることを想定して下さい。 一方参考文献の中から、関連文書を外して別の節にまとめることによって、秩序を与えるのであればそれは有益だろうと考えます。出典と紛らわしくない形式で話題にとって有益な関連文書を読者に紹介するのは悪であるはずがないからです。--Gyulfox 2011年2月8日 (火) 21:02 (UTC)

もう少し具体的に言えば、パタゴニアさんの2011年2月7日 (月) 02:30 (UTC)に提案された、「関連書籍を載せたければ出典とは別に関連書籍として記載する。」云々の発言に大大賛成であり、具体的な文章についてはKs aka 98さんのものが、分かりやすいように思います。 --Gyulfox 2011年2月8日 (火) 21:19 (UTC)

コメント 乙案については既に「必要無いかな、と思い始めた」「(乙)案の文言の曖昧さについて出されたご懸念も大変理解出来ます。」と申しております。「ぜひ必要だ」といった見解がここ2、3日中に出て来なければ、私から提案を取り下げます。なお私如きが議論の推移につき何か発言したとしても、重要な方針につき数日間だけで改訂しようなどという意図を持ちよう筈もありませんし、そんなことはハナから不可能です。また「援用すれば事足ります。」「当事者間で解決してください。」と仰いますが、既に上記に挙げたコメント依頼で「方針文書の曖昧さ」が見解対立の原因になっていたのです(因みにその対立当事者は私だけではありません)。また甲案(というより話題甲)について「既存のもので既に対応可能」とikedat76さんは仰るでしょうけれど、そのコメント依頼でも「方針文書について何らかの明確化が必要になってきている」という方向性で議論が進んでいました。そうした経緯を無視して、私につき各種悪意を疑われますのは大変心外であり、遺憾の意を表明します。--Kinno Angel 2011年2月8日 (火) 23:29 (UTC)

コメント 出典紹介の量的な点(数が多いこと)について、出典が複数あること、出典が確認できるものを記事中の随所に添えることは、その記事内容に詳しくない一般ユーザの視点では、内容やソースを追跡する点で必要と考えます。逆に、単に参考書籍を下部の節にまとめる(列挙)に留め、記事のどの部分がどの書籍から参照や引用されているのかわからないもののほうが無秩序に見えます。ところでこの記事の最下部の関連項目のところに「Template:参照方法」をリンクしてほしいです。新規記事ができた直後に、単にこのテンプレートで新しい書き手に参照方法を提示することで、記事充実過程で複数の書き手が参照方法を学習する助けになると思います。一般にはられている「{{要出典}}[要出典]」「{{出典の明記}}」テンプレートの中のリンクをクリックしても、この記事に飛んできてしまうので。-210.174.13.41 2011年2月9日 (水) 00:20 (UTC)

コメント事の発端となったコメント依頼でどう議論が進んでいようとも、私の意見に変えるべきところがあるとは思いません。また、対立の当事者がKinno Angelさんだけであろうがなかろうが、「特定の利用者との角逐」を発端として挙げられたのは私ではありません。

それはともかく。ルールは抽象的(「曖昧に」ではない)に作らなければルールとして機能せず、ルールの運用にはルール解釈が伴います。ルール解釈を一義に裁判所が独占する現実社会と異なり、利用者同士の対話と合意で解釈を定めていかなければならないウィキペディアでは、たしかにそうした事情ゆえの困難があることは否定しませんが、明示的な文書やガイドラインが無ければ対応できないという発想は、明示的に禁じられてさえいなければ何をしてもよいという発想まであと半歩しかありません。そのような発想は非常に危険な発想であり、全く感心しません。

Ks aka 98さんのコメントおよび文案(2011年2月7日 (月) 18:32 (UTC))にしても、そうした意味で言えば、ガイドラインを変えるにしても非常に抑制的なもので足りるという示唆であると私は理解しています。また、その前段には、本質的には既存の文書によって問題の多くには対処可能であるという指摘があるはずです。

あらためて(甲)案をご自身でも読み返していただきたいと思います。私自身の記事を例に挙げましたが、≪記事執筆にあたって参考としていないけれども挙げることが適切(もしくは必須な)文献≫というものが存在する、という指摘は複数出ているはずです。しかし、(甲)案は簡潔で明瞭かもしれませんが、そうした≪文献≫を記事中に挙げる余地を全く認めないものという意味で、わざわざ記事を貧しくする方向に向かっているという意味で、批判されてしかるべきと考えます。--ikedat76 2011年2月9日 (水) 15:09 (UTC)

コメント ikedat76さん、「明示的に禁じられてさえいなければ何をしてもよいという発想まであと半歩しかありません。そのような発想は非常に危険な発想であり、全く感心しません。」についてですが、「明確に禁止されていないから良いじゃないか」と、議論中にも関わらず関連文献のコピペを繰り返した人が居たからこそ「より明示した方が良いのでは」と問題提起しているのですが…何か逆方向にとってはいらっしゃいませんか。そして御自身で「失礼かもしれませんが」というような非難ともとれるような悪意の疑いを相手にかけるのであれば、「事の発端となったコメント依頼でどう議論が進んでいようとも、」などと仰るのは適切ではありません。事実経緯を踏まえた根拠も無く悪意を疑われたことには抗議します。--Kinno Angel 2011年2月10日 (木) 01:49 (UTC)

コメント で(意図・動機について善意にとることが全く出来ていない意見は措いておき)、合意に向かう話し合いに戻したいと思います(これは「早期解決」を志向するものではなく、「時間はかかるでしょうけれど、それだけに【合意に向かう】という姿勢が必要です」というだけのことです、念の為)。
さて、今まで甲案・乙案のうち、乙案には多く異論・否定的見解が出されており、乙案については当方2011年2月8日 (火) 23:29 (UTC)のコメントで「「ぜひ必要だ」といった見解がここ2、3日中に出て来なければ、私から提案を取り下げます。」と申しましたが、「乙案もぜひ必要」という意見は出てきませんでしたので、取り消し線を引き、提案を取り下げます。
さて、私としましては甲案について、「自分の文言の方が明確で良い」と思ったのですが、Ks aka 98さん、ikedat76さん、Gyulfoxさんから異論が出されました。Ks aka 98さんからは2011年2月7日 (月) 18:32 (UTC)に代案も出されています。
付随するKs aka 98さんの以下文章がこれまでの中で重要と思いますので挙げさせて頂きます。
(現行文章でも)「関連する文献というだけで載せることが出来るかのように読める」とは思いません。間違って思い込む利用者がいたかもしれませんが、
まさに「間違って思い込む」利用者が実際に居たということです。そうした問題が起きたことを以てガイドラインに欠陥があると考えてこちらに伺った次第です。(ルールの穴を突く利用者が居たことへの問題意識を「当事者間の角逐を持ち込むな」とは仰らないで下さいね。そんな事を言い始めたら誰もルール破りの利用者をきっかけとするガイドラインの穴を指摘出来なくなります)
意外に思われるかもしれませんが、私個人は、Ks aka 98さんと同様に、現行ガイドラインでも関連する文献というだけで載せることが出来るとは思いません。しかしながらそう思う人が実際に出て来ているという問題は確実に存在する訳です。
関連する文献というだけで参考文献として載せることが出来る訳ではない」これについて異論のある方はいらっしゃらなかったように思います(違いましたら御指摘下さい)。
ここで方策は三つ出て来ていると思います。
【方策あ】ガイドラインで明文化する(明文化のレベルを巡って議論されるとは思いますが)
【方策い】現行ガイドラインでも、「関連する文献というだけで載せることが出来る訳ではない」旨、ノート等で合意を明記する。
【方策う】関連文献節を設ける(しかし「どこまでを関連文献とするか」という新たな問題が出て来ると思います)。
私としましては【方策あ】を、自分の文言で提案するものですが、多数から反対がありKs aka 98さんの文言の方で合意がなされるのであれば、もちろんゴリ押しするものではありません(ゴリ押しなどシステム・ルール上、出来よう筈もありませんが)。
また、【方策い】でもやらないよりは良い、と思っています。しかし【方策無し】というのだけは納得出来ません。問題は実際に起きているからです。
気になりましたのはKs aka 98さんの以下のご意見です。
このガイドラインは「出典を明記すること」のガイドラインであって、記事中で書籍などを取り上げることのガイドラインではない。
だとしますと、現状、「参考文献節」に係る直接的なガイドラインは存在しない、ということなのでしょうか?私が知らないだけでしたら申し訳ありません。それはそれで問題だと思います。また【方策う】の話にもかかってくるのですが、「関連文献」のルールについても、必要なのかな、と思い始めたところです(これは、いずれ何とかしたいと思っている記事正教会の、関連書籍節が肥大化していることへの普段からの問題意識も関係しています)。--Kinno Angel 2011年2月11日 (金) 02:26 (UTC)
コメント - 【方策い】ですむならばそれに越したことは無いと思います。解釈の問題なので。「参考文献節」の問題(自分が上記で「関連書籍」と言ってたもの)についてはWikipedia:レイアウトの指針#参考文献にて『出典として利用していないが、その記事に関連している文献・資料などは、記述の出典と混同しないよう、別の節を作るなど、分離して記載するようにしてください。』と分離する旨まではガイドラインになってますが、その別の節についてどう取り扱うかは『further readingsに相当する表現(例:関連文献、推薦文献、推奨文献、関連資料)なども含めてノートで議論中』だそうです。--ButuCC+Mtp «Sub Talk:AVI/I-90» 2011年2月11日 (金) 06:40 (UTC)
PS:失礼、こちらでもレイアウトの指針の件は既に出てますね(じゃぁやっぱりこっちの方針を変える必要は無く、【方策い】で十分なのかなと)。--ButuCC+Mtp2011年2月11日 (金) 06:43 (UTC)
コメント 「レイアウトの指針」は現行の参考文献節に係る指針ではありますが、これがあってもなお「拡大解釈」する利用者は居る訳で、ガイドラインとして不十分であり直接的ではなく不十分と思います。やはり少なくとも【方策い】は必要ではないでしょうか。またさらに、Wikipedia:レイアウトの指針#参考文献にはButuCCさん御指摘の通り、「指針としてのこれらの扱いについては、further readingsに相当する表現(例:関連文献、推薦文献、推奨文献、関連資料)なども含めてノートで議論中です。」とあり、曖昧に過ぎます(これが「拡大解釈」の元になっています)。
…そうしますとむしろWikipedia:レイアウトの指針#参考文献の見直しが必要なのでしょうか?議論場所を変える必要も感じ始めたのですが…--Kinno Angel 2011年2月11日 (金) 06:56 (UTC)
たしかに、general referencingの検証資料にfurther reading(推薦資料)が混在すると、どの資料が検証資料であるかがわからなくなり、検証可能性が低下すると思います。とりあえず、general referencingの検証資料から、推薦資料を明確に分離するべきでしょう。難しいのは、general referencingの検証資料と推薦文献の判別が難しいこと。実際は執筆に当たって参考にされた資料を、そうとは知らない人が、本文や脚注で言及がないからといって関連文献節に移動したら、参考にされた資料の著者(原著者)は不快を感じるかもしれません。また、further reading節(仮)に分離された資料が、際限なく追加される懸念があるでしょうが、これはWikipedia:外部リンクの選び方を紙資料にまで拡張することで制限できると思います(英語版:en:Wikipedia:Further reading)。記事対象の原著論文[1]なんかはOKにしてほしいですね(この例では本文から姓年参照しているが、個別参照がない場合も原著である場合はOKにしてほしい)。改定対象は、Wikipedia:出典を明記するではなく、Wikipedia:レイアウトの指針だと思います。--Akaniji 2011年2月11日 (金) 07:08 (UTC)--Akaniji 2011年2月11日 (金) 23:40 (UTC)誤字修正
コメント主にKinno Angel さん向け。
間違って思い込む利用者、あるいは読んでいない利用者や読んでも分からない利用者は、常に出てきてしまうものなので、それら全部に対応することはできないっす。それらは個人の問題として、ノートなりコメント依頼なりブロック依頼なりで対応していくことも必要。で、方針やガイドラインを分かりやすくする、誤解を避ける表現にするというのも考えるべき対応だけど、ここではその修正が極端なんじゃないの?あるいは修正によって派生する他の問題への配慮が不十分なんじゃないの?というのが、反対という形で意見表明されてたんだと思う。
参考文献については、「レイアウトの指針」のほうで前に議論がありました。ノートを見てみてください(長い)。
「出典を明記する」のほうで、出典でないものの扱いについて、いくらか触れておくことはできると思います。月間新記事賞に上がっている内モンゴル独立運動の参考文献と脚注とかも参考になるかも。--Ks aka 98 2011年2月11日 (金) 07:45 (UTC)
コメントKs aka 98さんは出典ではないものと断言されていますが本当にお読みになられましたか?参考文献に掲載されている文献は桜井よし子が引用している楊海英の書籍と酒井信彦のホームページに掲載されている論文が収録されているオークラ出版の『誰も報じない中国の真実』です。--Chichiii 2011年2月16日 (水) 14:40 (UTC)
コメント個別記事に関することはそれぞれのノートでやってください。ここではガイドラインに関する議論をしています。--ikedat76 2011年2月16日 (水) 15:31 (UTC)
コメント断言していると読まれるとは予想していませんでした。一般化すれば、執筆者が参照した情報源で触れられている書籍や論文をどう扱うか、という問題ですね。Aという文献内で触れられているBという文献がある。Aを読み、普通は主題との関係から重要ならば執筆者はBも参照しますが、ウィキペディアで常にそれを執筆者に求めることは難しいでしょう。執筆者がBも参照しているなら、脚注に情報源としてBを挙げ、必要ならAでも取り上げられていると示すべき。Aしか読んでいないなら、Aを情報源として挙げ、AではBを根拠にしていることを加えてもいいでしょう。Bはfurther readingsとして挙げるべきなら挙げてもよいけれど、Bを見ていないのならば、general referencingとして扱ってはいけない。これらの区別をすることが大事だという話題です。--Ks aka 98 2011年2月16日 (水) 17:18 (UTC)
コメント本件は微妙なところだったようですが、「嫌韓」などでは記述とは明らかに関係ないと思われる書籍が次々に参考文献に追加されているようなので、Ks aka 98さんがおっしゃるようなfurther readingsという形で整理されていくといいですね。--Chichiii 2011年2月18日 (金) 13:12 (UTC)
ちょっとだけ、参考文献の混乱の背景を説明しておくと、(特に日本の)権威のある学者・先生の著作や論文の最後には「参考文献」を列記する節があって、そこにはまさに文章に直接は関係のない読んでためになる書籍も混ざって表記されるのがお約束になっているという、ウィキペディアのルールと関係のない習慣との混同から来ていて、JWPが爆発的な成長をはじめた頃には、かなりの学者や博識者からと思われる投稿も沢山あり、元々は善意から来ていたのが、いつしかどう見ても独自研究を隠してるように見えるような悪用されるケースも増えてしまったのです、最近では大分なくなってきたみたいですけどね。図書館における良書は盗まれる心配のない書庫にある傾向から言っても、読んで参考になる文献は分離削除ではなく、分離掲示扱いにして頂きたいと思います。--Gyulfox 2011年2月11日 (金) 12:49 (UTC)
そもそも出典を明示することすらろくに行なわれていない日本語版(これは全般的な傾向として異論のないところでしょう)において、出典を記載することを萎縮させるような提案には賛成できないわけです。どうしても何かしたいというのであれば、【方策い】程度であれば(今さらながら当たり前のことを確認するに過ぎないという意味で)実害もないですし、妥協して差し支えありません。
文書は読み手があくまで文書を読み正しく読むことを前提にするものです。意図的・非意図的な誤読やそもそも読んでもいない読み手にまで「親切」にしてやる必要は全くありません。不要なことをするのはやめましょう。--ikedat76 2011年2月11日 (金) 12:54 (UTC)
コメント 多分一言二言でお返事が十分と思いますので、短めに申し上げます。
  • 「このままでも十分」というのは、現状維持で何も手を打たないという意味であれば、実際に「ノートで議論中、合意がなされていない」ことを盾に拡大解釈する利用者がゼロではない以上、事実として誤りです。
  • 私としては【方策あ】が必要と考えておりますが、しかし上に上げた「【方策い】程度で十分」、という意見が大勢になるのであれば、【方策い】で合意は可能です(要するに何も手を打たないというのだけは避けたいということです)。
なお「出典の明記が重要だ」という論点を力説される方々がいらっしゃいますが、私はプロジェクト:キリスト教/出典の明記を立ち上げている位でして、当然理解しております。--Kinno Angel 2011年2月11日 (金) 14:07 (UTC)

コメント えっと・・・ カナの婚宴についていえば、たしかに、福音書をそのまま要約したような内容について(ですよね?)、外国語のものを含めた参考文献をあれほど並べるのはどういった趣旨だろうか、実際に参照したとしても記事の内容に影響があったのだろうかと疑問に思いますし、もし特定教派の立場のものだけに偏っていたとしたら中立性の観点からも疑問があるということになるでしょう。また、Kinno Angelさんが懸念しているとおり、福音書をそのまま要約したに近いような内容の記事について、それに関連あるならばバランスなどを考慮せずに文献を追加していってよいとなれば、それぞれの教派の立場に立つ執筆者が競争のように文献を追加していって収集がつかなくなる、ということも考えられます。
ただ、それはかなり特殊な問題で、またWikipedia:出典を明記するよりもどちらかといえばWikipedia:中立性の問題であるし、たぶんここでの議論にいま参加されている方たちはその特殊性を考慮せずに一般論として論じているので、何かしらの合意ができても、それをそのままカナの婚宴#参考文献についての争いに適用するには無理があるのではなかろうか、と疑問に思います。--mizusumashi(みずすまし) 2011年2月11日 (金) 15:57 (UTC)

コメント 今の段階で別の観点からの書込みで混乱させるようで恐縮なのですが、最近どうも自分で出典に当たらずに、(全てではないまでも)その記述の根拠として出典を明記しているらしい人がいることが分かりました。私も某所では、自分でも確認していない文献を他の文献から出典として明記してしまいましたが(この編集)、少し拙いと思い、私自身が確認した文献が参考にしている文献であることが分かるように書き直しました(この編集)。この程度なら実際に見ていない文献でも出典にできるとは思いますが、上でmizusumashiさんが挙げている懸念とも絡むのですが、自分が見ていない、また少しずれる文献でも片っ端から出典にしているらしい人がいます。そういった自分が確認していない文献まで出典として挙げることを許していては問題ではないかと思います。私も今までは「出典のページ数までは上げなくてもよい」という意見にどちらかというと賛成でしたが、最近の事例からこういう問題もあることが分かったので、参照した文献のページ数も原則として挙げるべきだという意見に変更することにしました。そんな訳で、規則の文言に「自分の目で確かめた文献を出典とする」というような一文を入れるべきではないでしょうか(もしもどこかで明記されていたら申し訳ありません)。そうすれば、難しいことを考えずに、出典・参考文献の羅列も少なくなるのではないかと思います。--Bokemiann 2011年2月11日 (金) 16:20 (UTC)

整理してみます

[編集]

ちょっと整理。

  • 出典を明記する、というのは、その執筆者が書いた内容の情報源を示すということ。これは、議論参加者で共有していますね。
  • 出典を明記したからといって、その記述が認められるわけではない。出典がある記述をめぐって、その情報源の信頼性、適切さ、および中立的観点や独自研究については別途問題は生じ得る。全然駄目な例を挙げれば、出典付きでもコピペによる著作権侵害なら削除です。これらについても、もちろん出典ありきなのは言うまでもない。
  • 本文と情報源をどう紐付けるかという問題があります。脚注方式に限定するかとか、そういう話。で、General Referenceの場合、情報源なのか、further readingなのかわかりにくいということが生じる可能性があります。ただし、特に事実関係に争いが生じにくい自然科学の基本的な項目では、通常の百科事典で書かれるような記述であればGeneral Referenceでも十分なことが多いです。
  • 逆に、「本文中で触れられる文献」というのもあります。記事の主題に直接関わるものやfurther readingなど。これらの場合は、記述の情報源ではないもの、執筆者が参照していないものということもあります。また、記事の主題に直接関わらなくとも、脚注などで関連する内容の背景を知るための文献を挙げたほうが良いこともあるでしょう。この場合は、中立的観点や独自研究あるいは百科事典としての有益性、もしくは内容そのものについて、ノートなどで個別に議論することになる。

そんで、

  • 【方策い】については、すでに合意が得られている状態だと考えます。必要なら、節を立てて、異論を待つか、署名付きで投票するかして、より明示的にしてもいいかもしれません。
  • 【方策あ】について、甲案では、上で書いた「本文中で触れられる文献」に好ましくない影響が生じうるという懸念があります。ぼくの対案は、そこに配慮したもので、その分長くなっています。もちろん、ほかの文案も考えられるでしょうし、甲の文章から修正していくということでも良いと思います。ikedat76さんも、「意図的・非意図的な誤読やそもそも読んでもいない読み手にまで「親切」にしてやる必要」はないとしても、「参考文献」という表現が比較的多用され、General Referenceとfurther readingの混乱が生じやすいということを回避するための文章に修正することには反対されているわけではないと思います。

Bokemiann さんの「別の観点」について、自分の目で、という部分は、ぼくの案では加えられています。ページ数については、そこまで書かなければならないという慣習のない学術分野もありますから、義務付けるまではできないと思います。読点ごとに同一の書籍から逐一ページ数を書かなければならないわけでもなくて、記述と情報源の対応関係から適切な書き方を選べばいい。駄目な執筆者への疑義から、十分な貢献と言える加筆をしてくれている執筆者の負担を増すようなことは避けるのが良いと思います。

ということで、【方策い】の確認または【方策あ】の文案を練るということで進めてはいかがでしょう。--Ks aka 98 2011年2月11日 (金) 18:16 (UTC)

 補足。「General reference」というのは、en:Wikipedia:Citing sources#General referenceのことです。Inline citation (個別参照法) と対をなすものとして「一括参照法」とでも訳されるでしょうか。ここで議論されている方ならご存じとは思いますが、新しく議論に参加されている方もいるので、念のため。--Akaniji 2011年2月12日 (土) 00:13 (UTC)
> 駄目な執筆者への疑義から、十分な貢献と言える加筆をしてくれている執筆者の負担を増すようなことは避けるのが良いと思います。
Ks aka 98さん、ありがとうございます。全くその通りだと思います。Kinno Angel‎さんとは別人ですが、私もとある逸脱編集者のことに芽を取られすぎていたかも知れません。このようなイレギュラーな編集者への対応に過剰版のする余り規則を厳しくしていたらキリがありません。最初は規則もなかったWikipediaも今は既に充分に複雑です。
そんな訳で、総論としてはKs aka 98さんのご意見に賛成なのですが、「自分の目で見た文献に限る」という部分は、たとえば「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の《信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。》ぐらいの厳しい表現をできればとってほしいと思っています。またページ数については、書かれてはいると思いますが、ページ数の表記も、義務ではないが「推奨する」くらいは書いてもよいのではないかと思います。--Bokemiann 2011年2月12日 (土) 06:03 (UTC)
出典に何が書かれているのか確認を取らずに使用することは、ガイドラインで禁止していようがいまいが、常識的に考えればやってはいけないことと分かるレベルの話です。わざわざ禁止を明記する必要性のある話とは全く思えません。すでに利用者:ikedat76会話 / 投稿記録さんが紹介されているWikipedia:指示の肥大化を避けるWikipedia:鼻に豆を詰めないでを一度読んでみられてはいかがでしょうか。なおページ数の話はここの議論とは別の話です。必要があると思われるのであれば新たな節を立ててそちらでやって下さい。--黒森 2011年2月12日 (土) 08:01 (UTC)

すでに申し上げていることですが、「問題」とされていることの多くは既存の文書やガイドラインの射程に収まることか、そうでなければ黒森さんが指摘なさるように常識の範囲におさまるものでしかありません。そして、常識と言うのは、しばしば、いちいちどこかに書いてあったりしないものです。常識の無い子供がダダをこねるたび、いちいち常識を紙に書いて張り出していったら、どれほど紙とスペースがあっても足りません。今回の提案の起点もそう考えるべきことだと思っています。それでもダダをこね続けて「床の上で手足をジタバタさせる」ようであれば、尻をひっぱたいてでも、ダメだと分からせればいい。それでも言うことを聞かないのであれば、そもそも参加それ自体をあきらめさせる。もとより、ウィキペディアは学校でも矯正機関でもなく、明確な目的を持ったプロジェクトなのだからその目的に寄与するのに求められている・ある水準の常識に従えない人には居てもらう必要がそもそも無い。おかしな輩がいることは、文書やガイドラインを変えることの根拠には必ずしもならないのです。

参考文献に関して。【方策い】については前に述べたとおり。そうは言っても、上述のような「居てもらう必要がそもそも無い」人たちのために、常識を労力をかけて確認する前例となるものではない、ということは事前に念押ししておきたいと思います。

どうしても何か形のあるものを付け加えたい(【方策あ】)というのであれば、(甲)案は反対します。どのみち、原形をとどめない程度に書き直さなければならない以上、完成度の上でも配慮の点でも上回るKs aka 98さんの文案であれば、労力の無駄がないという一点で妥協してもかまいません。

関連文献に関して。referencesとfurther readongsを分離するというところに異論はない、というかそれが当然の常識だとも思っています。ただ、Akanijiさんのコメント(2011年2月11日 (金) 07:08 (UTC))どおり、Wikipedia:レイアウトの指針でやるべきことで、こちらで細々言わなくてもいい。「further reading節(仮)に分離された資料が、際限なく追加される懸念」もないとは言わないが、WP:ELの援用をしておけば充分で、何か問題があってもWP:NPOVやWP:RSを援用できる。さらに言えば「参考文献で言及のあるものに限る」とでも注意書きをしておけばよい。節のタイトルも一意に決めなくても「参考文献」以外のタイトルを使うことと言えば充分(参考文献と明確に識別できさえすれば、一意に決める必要はどこにも無い)でしょう。--ikedat76 2011年2月12日 (土) 08:59 (UTC) 当面、労力をかけて参加することが難しくなります。ほかの方々で議論を進めてください。関連文献についての私の意見だけ少しだけ整理しておきます。

  • セクション名 … 参考文献ではないタイトルとする(一意に決める必要は無い。決めようとして揉めるのは労力の無駄では?)
  • ガイドラインで述べるべき内容 … (1)中立的な観点(WP:NPOV相当)に従い、信頼できる情報源(WP:RS相当)で関係のあるもののみを挙げる(WP:EL相当)の3つに従うこと(必須)、(2)参考文献として挙げられた文献等のなかで言及されているものに限定すること(推奨)、(3)参考文献に従って、個々のfurther readingsについて1~2文程度の紹介を付けること、ただし本文中にあれば不要(努力)

こんなところでしょうか。申し訳ありませんが、よろしくお願いします。--ikedat76 2011年2月20日 (日) 05:07 (UTC)

色々と意見はあるようですが、私は基本的には【方策あ】がよいと思いますが、その文言としてはKs aka 98さんの文案に賛成します。ただ、上では私の要望として書いたまでです。性善説で運営されているWikipediaの建前としては、黒森さんやIkedat76さんのご意見は、一般論としては全く正しく反論の余地もないのですが、その常識が通じない人が少なからずいてコミュニティーを必要以上に疲弊させていることも事実です。ご自分が経験しないとなかかな分からないとは思いますが、その逸脱編集者にどれほどリソースを奪われるか、相手を黙らせるためにどれだけ労力が必要かも考えてほしいところです。その事前対策も必要であろうということです。--Bokemiann 2011年2月12日 (土) 09:38 (UTC)

Ks aka 98さんが本小節冒頭で仰る方向性に同意します。基本的に私自身が提案した甲案を推すものではありますが(再三申し上げていますが念の為)ゴリ押しするつもりはありません。jawpでは多数決という原則はありませんが、私の現時点での「甲案推し」は、「一票」程度のものとお考え下さい。多数から支持が得られないのであれば引っ込める、その程度の「推し」です。
甲案でも、Ks aka 98さん提案の文案でも、【方策い】でも、いずれでも私は合意がなされるのであれば(「賛同」か「承服」といった程度の差こそあれ)合意に従います。で、再三申し上げますが「無策」だけには反対ということです。
ikedat76さんは「尻をひっぱたいてでも、ダメだと分からせればいい。」と仰いますが、その為に信じられないほど疲弊させられる人間も出て来ているのだということ、これについてはBokemiannさんのお言葉に私から付け加える事はありません、以下省略します。
兎に角、現状、明文化が弱過ぎるというのが問題だと考えます。明文化し過ぎる事によるデメリットについての複数の片からの御指摘は拝聴しますし、それはそれでその通りだと思いますが、曖昧さが残り過ぎた文章による弊害も出始めている、そういうことです。それこそバランス感覚が必要になります。ですから意外に思われるかもしれませんが「私の案が絶対完璧だ」と私は主張しません。ただまず、私の感覚による均衡点を提出しています。あとは無策以外でなければ、コミュニティ全体から導き出された平均的な均衡点に従います。--Kinno Angel 2011年2月12日 (土) 13:45 (UTC)
  • コメント 記事内容を直進担保しないものを「出典」等として掲げるのはおかしい、という見解について、私からも特に付け加えることはございません。これをガイドラインで明文化することに反対はしません。ただ、「方策い」でもコミュニティの合意を具現化したものとして十分意義があるとは思いますし、できれば指示を肥大化させたくないというのが個人的な思いではあります。問題は、「ガイドライン等に書いていないなら何をやっても良いのだ!」という立場をとる方に対してどう向き合うか、ということと、将来になって同じような問題が起きたときにこの議論を探し出して引っ張ってこれるのかということかな。--Peccafly 2011年2月13日 (日) 04:12 (UTC)
  • コメント こんにちは、Ashtrayです。遅ればせながら、いくつかコメントをば。"Wikipedia:コメント依頼/AlexK 2回目" と "Template‐ノート:ウクライナ史文献" を自分でも読み返してみたのですが、あの時の問題はやはり、 references と further readings が分離されず同一節に載せられてしまったこと。そもそも、further readings にすら該当しない総合書籍だったこと。further readings の扱いが、"Wikipedia:レイアウトの指針" でもまだ定まっていなかったこと、の3点でしょう。【方策あ】が望ましいですが、その場合はWikipedia:レイアウトの指針も含めて考える必要がありそうです。--Ashtray 2011年2月13日 (日) 05:20 (UTC)
コメント 議論を提起している本人たる私があまり投稿しなくて申し訳ありません。
今のところ、【方策い】については反対する方は(消極的容認も含めて)いらっしゃらないように思います。
ただ、【方策あ】をとる場合、具体的文言は別として、Wikipedia:レイアウトの指針との兼ね合いの問題を指摘される方も出て来ました。それは必要な視点だと思います。議論場所をここで継続してよいのか、場を移すべきなのか、もしくはWikipedia:レイアウトの指針の方にも告知を出すべきなのか、その辺の議論も必要になってくるかと思います。--Kinno Angel 2011年2月24日 (木) 09:05 (UTC)

出演リストへの出典の明記は「無差別」か

[編集]

金元寿子#出演作品において、いくつかに出典を明記し、出典の明記テンプレートを貼ったところ、外部リンクをよく読んでください」という要約とともにリバートされました。その後、リバートしたユーザーの会話ページでリバートの意図を訊ねたところ、「出典を無差別に書いてはいけない」「他の記事でもすべての出演リストに出典は明記されていないから、出典の明記は必要ない」「あなたが試みた変革異端」との返答をいただきました。しかし、Wikipedia:検証可能性#方針には「記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。」とあり、異端でもないとも思うのですが、私の行為は間違っていたのでしょうか。--Mikouma 2011年2月16日 (水) 04:01 (UTC)

  • 出典が記述されているべきです。出典の記述方法が煩雑になる場合には工夫が可能で、同一の出典による場合はその旨明記することができます。他の記事に出典が明記されていないことはこのさい関係ありません。一方で出典が記述されていないものはすべて除去すべきである、との観点はWikipediaコミュニティに受け入れられていません(出典の明記が重要なのではなく「検証可能性」が重要)。極めて容易に検証できることは省略されていても、それをもって記述の削除理由とすることは基本的に拒否される傾向があるようです。また必要に応じて事後的に出典情報を補完することで記事の瑕疵を治癒することは許容されています。--大和屋敷 2011年2月16日 (水) 04:54 (UTC)Mikoumaさんの編集活動はWikipediaの性質を変革する異端のものだ、との主張はわたくしには全く理解できませんでした。--大和屋敷 2011年2月16日 (水) 04:56 (UTC)
コメント「外部リンク節」の公式HPの情報を情報源と(誤解して)出演リストの出典を省略するユーザーは非常に多いです。(厳密に言えば公式HPの情報を情報源する場合でも、一応出典の節に入れとかないと本当はだめです。) またその作品(DVD作品でのテロップ等)自体を1次出典として扱い、明記は絶対ではないという考え方もあるようです。 そこまで厳密な編集者は確かに少数派であって、そういう意味で異端という(適切ではない)表現を使ったものと思われます。 あえて編集合戦をする必要はありませんが、今回のようなリバートは無効でしょう。
正式には出演リストであっても、情報であるからには出典(公式HPでも可ですが極力信頼できる2次出典で)は明記すべきです。 異端と言われても頑張ってください。--Gyulfox 2011年2月16日 (水) 07:37 (UTC)
出典は必要でしょう。Wikipediaにはたとえ出演リストを記述したとしても、それを検証ができるかどうかが重視されますから削除されても文句は言えません。確かにこれをあまり快く思わないユーザーが多いみたいですが、私はあなたの方針を異端だとは思っていませんし、間違っているとは思いません。深く賛同しています。このことを異端だと思っているユーザーにこそ問題があると思います。--香辛料 2011年3月29日 (火)

出典明記するに関して

[編集]

最近上記のものを用いられて乱用されている投稿者があられます。これだけ用いられると、記事のどの部分に問題があるのかわかりません。また出典を明記されている記事に関しても使われている例があります。記事の出典が明記されていて使われていてはどの部分にどう問題があるのか全くわかりません。このような場合はどうしたらよろしいのか教えてください。--101.1.74.82 2011年9月10日 (土) 07:25 (UTC) 出典を明記しても無駄なのでしょうか?出典している文献に問題があるのであればどのような著書がそれにあたるかを教えてください。--101.1.74.82 2011年9月10日 (土) 07:33 (UTC)

上記のテンプレートは{{複数の問題}}ですが、ここではその構成要素のうち{{出典の明記}}に該当する部分についてのみコメントします。{{出典の明記}}は、出典がまったく示されていない(出典皆無)場合や記述の大部分に出典が明示されていない場合のような、誰が見ても明らかな(と思われる)場合に使用するテンプレートです。Template:出典の明記の「テンプレートの解説」をご確認ください。このテンプレートが貼られている場合は、記事または節の「全体」に問題がある(出典がない)と見なされていることになります。もし特定の箇所(文)だけが問題にされている場合は、{{要出典範囲}}等が使われるべきです。もし仰られるように「出典を明記されている記事に関しても使われている」のであれば、そのテンプレートは役目を終えていますので、剥がして({{複数の問題}}の場合は該当箇所を除去して)も問題ないと思います。
ただ一つ考えられるのは、「参考文献」節に文献が列挙してあるだけで、個々の文が脚注等を使って参考文献と関係付けられていない場合、その文が出典に基づいて記述されたのか否か読者は判断できません。このため{{出典の明記}}が特定の節などに貼られているのかもしれません(本来このような場合は{{参照方法}}を貼るべきです)。この場合は、Wikipedia:出典を明記する#本文中に注釈を挿入するWikipedia:出典を明記する/個別参照法等を参考にして、脚注等によりそれぞれの文と参考文献とを関係付けるとよいです。そうすればどの記述がどの文献に基づいて書かれたのかが明確に分かりますので、出典がないと誤解されることもなくなるのではと思います。--Penn Station 2011年9月10日 (土) 08:32 (UTC)
おっしゃられているのは島津義弘記事のことでしょうか?これはさすがに脚注をきっちり付ける私でもやりすぎかなとは思いますが、出典提示がきちんとしてはいないのでケチつけられても仕方ないですね。一般記事でもそうですが、特に日本史はいろいろあります。人物記事ではムハンマド・アリー市川雷蔵 (8代目)が良いお手本になるでしょう。ムハンマド・アリー市川雷蔵 (8代目)のようにきちんとした文献をページ数が分かるように脚注でガチガチに出典提示すればまずはケチをつけられることはありません。--ぱたごん 2011年9月10日 (土) 10:23 (UTC)
コメント 島津義弘記事の記事を拝見しましたが、参考文献(参照文献)の節が記事の中ほどに置かれている構成は、ちと奇異に感じました。参照文献と関連書籍を並べて書きたいという意図も分からなくはないのですが、参照文献の内容と関連書籍の内容は完全に重複しており、少なくともこの記事では両方の節を並べておくことに意味はないと感じました。記事を末尾だけ読んで迂闊にも「おや参考文献の節がないぞ、けしからん」という判断をしてしまう不注意な雑草取りの方もいるかも知れないと思い、Wikipedia:レイアウトの指針に沿った形に修正しておきました。--Kanohara 2011年9月10日 (土) 10:51 (UTC)
101.1.74.82さんの仰る「乱用されている投稿者」とは私のことなのでコメントします。島津義弘を例に申し上げますが、{{要出典範囲}}を併用しておりましたので
>>どの部分にどう問題があるのか全くわかりません。
ということはありえないかと思いますがいかがでしょうか。Penn Stationさんのご指摘も理解しておりますので出典が明記されている記事に関しては問題点パラメータ{{出典の明記}}は添付しないようにしております。それ以外の問題点パラメータについてはこの頁のテーマから外れるので発言を控えます。--Greatupper 2011年9月10日 (土) 17:04 (UTC)


過去の積み重ねは記述の検証可能性の保証となるか

[編集]

小林由美子において、出典明記を要求したところ、ノート:小林由美子#出典要求において「記述は長期間に渡って誤謬が指摘されていない。よって出典明記がされておらずとも、記述が真実であり、Wikipedia:検証可能性にある出典明記なしゆえの除去の対象にはならない」(要約。全容は該当ノートページにて参照)との意見が出されました。長期間、出典明記がなされず、放置された記述は、出典明記がなくても検証可能性を満たし、除去が不可能なのでしょうか。皆さんの意見をお聞かせ下さい。--Mikouma 2011年3月27日 (日) 00:55 (UTC)

反対 長期間誤謬が指摘されなかったとしても、それは事実である保証にはならないと思います。記述は検証可能性が満たすことで、初めて記述できます。それを保証するのが出典明記です。出典が明記されない記述は、ウィキペディアの方針上、検証可能性が保証されないので、除去されても文句は言えないでしょう。これはWikipedia:検証可能性#方針でも明記されています。--Mikouma 2011年3月27日 (日) 01:07 (UTC)
コメント すべての記事のすべての記述が絶えず精査を受けているわけではないので、単に「以前からある」というだけでは、信頼に足る記述であるという証左にはならないでしょう。その意味ではMikoumaさんの主張は正しいと思います。要出典テンプレート貼り付けも適切な処置です。ただ、「2か月以内に出典が示されなかったら除去」という宣言が無用の反発を招いてしまったのではないでしょうか。この場合はもっと余裕があってもよかったと思います。手前味噌ですが、出典をつけるまでに5年かかった例もありますので。--禁樹なずな 2011年3月27日 (日) 01:22 (UTC)
(除去可能)ですが、相手に文句が言えないからといって、全部消すのが最良の行動でしょうか。「包丁は刃物である」「鉛筆は筆記用具である」「炊飯器は家電製品である」という記述に検証資料が提示されていないからと言って、相手に文句が言えないから除去するのが最良でしょうか。確かに、すぐに大辞林あたりを検証資料として復帰されることでしょう。ですが、消されたことに1週間等で気付く人がどれだけいるのか。消すスピードと、文献を追加するスピード。前者は「ない」と言うだけ。後者は辞書を引っ張り出して、引いて、なければ次の書籍にあたって…。比較するまでもなく消すスピードのほうが速い。だからこそWP:EP#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいという公式方針が定められているわけです。常識的な情報に、大辞林等を添付していくのが追いつかず、どんどん常識的な情報がウィキペディアから除去されていくような事態を危惧します。今回の件ではそういうことにはならないでしょうが、そういう事態につながる議論です。ですので、可能という意見としつつも、ブレーキとして懸念を表明しておきます。--Akaniji 2011年3月27日 (日) 02:35 (UTC)
コメント 禁樹なずなさん、Akanijiさん、コメントありがとうございます。私も好き好んで除去がしたいわけではありません。むしろ記述を残したい側であって、だからこそ記述が存続する保証として出典明記を求めています。期限を設けた理由としては、日本語版の悪しき風習として、特に芸能系・フィクション系記事において、出典の明記が非常に軽んじられており、「出典の明記がなくても(私が出典を知っているから)記事は書ける」という意識が蔓延していることに対し、歯止めをかけるべく設けました。確かに期限は短かったかもしれません。期限の延長を検討してみます。よろしければノート:小林由美子ノート:加藤優子でのコメントもお願いします。本節でも引き続きコメントをお待ちします。--Mikouma 2011年3月27日 (日) 02:48 (UTC)
コメント Mikoumaさんが記事「ノート:永田依子」などで問題視しているのは、「アニメ声優記事における出演作品一覧では、出演した番組名を挙げるだけでは出典を明示していることにはならず、その番組のスタッフクレジットを見れば検証可能な内容についても、その出演に言及した二次資料や、映像ソフトを販売しているメーカー名やDVDの巻数を、出典を明示する際の書式に従って全ての行に書かなければ、それは出典を明示したことにはならない」という趣旨の主張であると理解します。古い映画の吹き替えはともかく、アニメやドラマ作品では通常、映像ソフトを販売しているメーカーが変わったりしても、出演声優が変わったりすることはないので、私であれば番組名の明示をもって「出典は明記されている」と考えますが、Mikoumaさんはそうではないと考えているようです。
この主張には、大きな問題があると考えています。これは極論になりますが、Akanijiさんの例えを借りると「包丁は刃物である」「鉛筆は筆記用具である」「炊飯器は家電製品である」という記述に「大辞林の○ページが出典である」という出典がつけられたとしても、その出典に対して「大辞林の○ページに包丁は刃物であると書かれていることを証明する三次資料を示せ」といった要求を突きつけ続けることで、自分が気に入らない記述に幾らでも{{要出典}}を貼ったり、嘘だと決めつけて除去したりすることが可能になってしまいます。出典が明記されている記述に、長期間に渡って誤謬が指摘されていないとき、提示されている出典を確認していない者が(あるいは確認しつつも見なかったふりをする者が)根拠もなく誤謬の可能性を決めつけることは、出典により検証可能な事柄を事実であると見なすというウィキペディアの大原則を揺るがすルールの悪用です。
十分に検証可能な情報が明記されており、長期間に渡って誤謬が指摘されていない記述については、嘘だと決めつけて除去する前に提示されている出典に当たるべきかと思います。Mikoumaさんが抱えている問題は結局のところ、これはどの程度まで情報が明示されていれば検証可能な情報と見なせるかという問題でもあると捉えますが、私としては、自分で検証できない内容であるとしても「プロジェクト:検証」辺りで検証依頼をするのに十分な情報が揃っているのなら、それは「検証可能である」と言えるかと思います。もちろん連続したストーリーを扱う作品における1話限りの出演など、見落としやすい情報については、「第○話」のような情報があった方が親切であろうと考えます。ですが、それは検証を容易にして記事をよりよく改善する目的で行われるべきで、除去の根拠とするのは不当であると考えます。--Kanohara 2011年3月27日 (日) 17:14 (UTC)
コメント Kanoharaさん、コメントありがとうございます。ノート:小林由美子の、私とFtanederさんのやりとりを見ていただければ判ると思いますが、本論で議題にしているのは「長い間誤謬が指摘されていない、出典が示されていない記述」です。小林由美子で言えば「来歴・人物」節がそれに当たります。テレビ番組の検証可能性と、出典明記方法については、コメントいただいておりますが、別節にて語りましょう。なお、一般的な常識と、一部の人間にとっての常識=専門知識を同列にするつもりは毛頭ありません。そして、専門知識の記事は、それを閲覧する人間がすべて専門知識を持っているとは限りません。ゆえに、「小林のあだ名は「しゅびっち」である。」などと言った声優業界の専門知識を記述するなら、それなりの出典を示すべきだと思うのです。--Mikouma 2011年3月28日 (月) 02:19 (UTC)
Mikoumaさんへ出典が明記されていない情報をどうしてはじめから間違っている情報だと決めつけているのですか?中立的な観点から物を見るというwikipediaの原則を欠いていると思うのですが。もう少し他人の意見に耳を傾けてみてはいかがでしょうか?それとやはりあなたの主張ではどの情報の出典を要求しているのがわかりません。もう少し意見を聞く側の人物のことを考えて見てください。--Ftaneder 2011年3月28日 (月) 19:14 (UTC)
コメント Ftanederさん、コメントありがとうございます。出典のない情報が間違っている情報だとは申し上げておりません。出典のない情報は間違っている情報ではないか、と第三者から問われたときに、明確に反論し得る証拠がないのが問題だと、私は考えております。Wikipedia:中立的な観点は、記述を盲信することを推奨する方針ではなく、記事の内容を中立的な観点で書く、という方針のはずです。出典要求範囲は改めて提示させていただきます。--Mikouma 2011年3月29日 (火) 02:46 (UTC)

出典の必要性について

[編集]

「編集される皆さんへ: ウィキペディア日本語版に編集を行う際は、必ず検証可能な出典をつけてください。」という文章が各項目の冒頭に掲げられていますが、ナンセンスです。

  • たいていの項目には、記述にいちいち出典がありません。仮にやったら、出典だらけで、読めなくなります。
  • 専門分野で常識的な内容は、出典が不要です。
  • いちいち出典を示すと、著作権の侵害になる恐れがあります。(語順を書き直したぐらいではダメです。)
  • ウィキペディアの英文の内容を一部だけ翻訳して、「Wikipedia 英語版が出典」と記すと、著作権侵害と見なされ、項目全体を削除されます。(何度も経験済み。)
  • 自分自身が経験した体験の証言(一次情報)は、最も確度が高いのに、「出典なし」と見なされ、許容されなくなります。同じ内容を伝聞で書いた人がいれば、その内容は確度が低いのに、「出典あり」と見なされて、許容されます。常に一次情報よりも二次情報が優先され、情報の信頼度が低下します。裁判で言えば、直接の証言が否定され、他人の言葉の伝聞が容認されます。証拠主義には反するいい加減さです。

以上のことから、「必ず検証可能な出典をつけてください。」という文章を削除してください。「なるべく検証可能な出典をつけてください。」と改めてください。今のような偏屈な方針を採るから、アンサイクロペディアに馬鹿にされるんです。形式的な潔癖症よりも、真実を優先しましょう。 -- 110.66.148.245 2011年4月9日 (土) 15:57 (UTC)

「検証可能な出典を」付けてください、と記述してあるだけですので、IPさんの過剰解釈でしょう。--大和屋敷 2011年4月9日 (土) 17:00 (UTC)

  • 出典だらけで読めなくなるということはありません。そういうことをおっしゃる方は、出典が明記されていることの価値が理解できていないのだろうと思います。
  • 「専門分野で常識的な内容は、出典が不要です」は結構ですが、私の少ない人生経験から言うと、誰かが「こんなの常識だろう」と主張していることは、良く調べてみると「常識」でもなんでもないことが多いです。
  • いちいち出典を示しても、著作権の侵害になるわけではありません。もちろん「語順を書き直したぐらいではダメ」で、信頼できる出典の情報を自分の言葉で書き直す必要があります(それができないならWikipediaでの執筆は無理です)。
  • 裁判の証言は、証人の身元を確認した上で、「真実のみを述べる」と宣誓させ、更に反対の立場からの反対尋問にも答えさせるという手続きを踏みます。どこの誰かわからない執筆者がおふざけで書いているかもしれれないというWikipediaの状況とは全く事情が異なり、比較の対象になりません。
  • Wikipediaでは、執筆者が「体験者」であるかどうかを確認する手段がありません。Wikipediaで「体験の証言」を収集するのは不可能です。--Dwy 2011年4月9日 (土) 17:40 (UTC)
  • (最初はド直球な表現にちょっと驚いたりしましたが)冒頭の文章は単に今まで通りの編集方針を案内しているだけなので無問題でしょう。むしろ「なるべく検証可能な出典をつけてください」の「なるべく」というのは現行の出典明記の方針とは異なります。
  • 「専門分野で常識的な内容」はむしろ出典がある方が質は高まります。Wikipediaは専門書ではなく百科事典なので、門外漢が理解出来る内容にするよう努めるべきです
  • 「自分自身が経験した体験の証言(一次情報)は、最も確度が高い」というのには全く同意できません。証言だけでは自分自身の体験を第三者にどうやって意識共有するのでしょうか(よくある「見れば分かる」系の意見が典型です)。その体験談が本当でも嘘でも(出典がなければ)第三者は判断できません。
  • 「真実を優先しましょう」というのはWikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」に真っ向から対立する考えではないでしょうか。--ButuCC+Mtp «Sub Talk:AVI/I-90» 2011年4月9日 (土) 18:30 (UTC)
  • 語順を書き直したぐらいでは著作権をクリアーしない訳は、法律的に危ないからであって、原作者や出版元の身になったら分かります。 散々経費をかけて出版したとたん片っ端から語順を変えてインターネットに掲載されてしまったら、誰が大損を覚悟で本を出版する気になるでしょうか? 
  • 英語版の翻訳の削除は変ですね。英語版の翻訳の掲載は許されています。 一番多い項目ごと削除される原因として考えられるのは「英語版何々ページの第何版の翻訳」という正確な情報が抜けてしまうことです。これさえ守っていれば普通は残ります。 (著作権とは関係なく、英語版そのものに出典がない場合で出典なき情報の掲載として削除されたりします。あるいは同じような項目があるときも統合して下さいと言われて削除される場合もあります。)
  • 自分自身が経験した体験の証言(一次情報)は加工されていない真実が含まれている可能性もある代わりに、誤認や嘘、あるいは誇張の可能性も多分にあるので、フィルタリングする意味で専門家の判断(二次情報)を待ってから載せようという方式になっているのです。 (ただしその情報が公刊されていれば、書き方によっては一次情報であっても例外的に載せられる場合もあります) 確かに一次情報源の方ががより正確なこともあり、二次情報源を優先するのはおかしいと思って、いくらJWPが議論を重視すると言っても、そもそも論を言ったところでどうしようもありません。 マクドナルドに行って、地元の懐石料理がないのはけしからんと嘆いてもどうしようもないのと一緒です。--Gyulfox 2011年4月9日 (土) 23:53 (UTC)
コメント たいていの項目の記述に出典の明記がないことは、出典を明記しないことが許されているわけではありません。単に、方針を理解していない方が、方針無視を軽視しているだけのことです。
専門分野で常識的な内容は、専門分野に携わっていない人間にとっては、常識でないということです。百科事典は、専門分野に携わる人だけのものではありません。そうでない人の方が、圧倒的に多いのです。
出典を明記することは著作権侵害にはなりません。むしろ、出典を明記しないことで、引用のプロセスを経ず、著作権関係の問題を引き起こす恐れがあります。出典を明記することと、出典の内容を丸写しすることが違うのはご理解いただけますよね?
英語版を翻訳した記事が削除されるのは、引用のプロセスをきちんと経ていないからではありませんか?
IPユーザー氏は、方針すら理解していないと言わざるを得ません。ウィキペディアは裁判所ではありません。各方針、ガイドラインの熟読を強く推奨します。--Mikouma 2011年4月11日 (月) 14:03 (UTC)
「引用」という単語は少し注意して用いてください。ウィキペディアはciteは推奨しますが、quoteは明瞭区別性を整えて行わない限り、推奨されません(要件を満たしてもquoteは著作権上(GFDL上)ダメだと言う人さえいますWikipedia:引用のガイドライン/古い議論)。文脈からMikoumaさんの「引用」はciteを指すものと思いますが、一般には引用はquoteを指します。そして、ウィキペディアでciteを行う場合は、quoteの「出どころ」を示すためであることは稀であり、大半は内容の正確性を支持する(内容的に同様のことが記された)既刊資料(以下「検証資料」)を示すためです。「引用のプロセスを経る」という言い回しは「quoteの出どころを示す」ことを強く連想させ、推奨されないquoteを蔓延させる原因となりかねませんから、誤解を避けるため、検証資料をciteする行為を推奨するためにも、「引用」という単語は注意して用いていただきたいと思います。--Akaniji 2011年4月15日 (金) 22:17 (UTC)

Wikipedia内の記事の過去の版を出典として扱えるかについて

[編集]

例えば、どこかのウェブサイトを出典としていた情報が載っている記事において、過去には公開されていたが今は公開されておらず、新たな出典が必要な場合に、公開されていた時にそのウェブサイトの情報を出典として書かれた過去の版を出典として現在の記事に使用することは可能なんでしょうか?--yugo(talk/contributions) 2011年4月18日 (月) 12:11 (UTC)

つまり、例えばかつてまともな出典による記述があって、いつしかリンク切れとなってしまった過去の版の記事を、復活させたり追記できるかという質問ですか?--Gyulfox 2011年4月18日 (月) 13:11 (UTC)
リンクが切れている場合やリンクが切れていなくとも、リンク先から情報が除去されてしまっている場合に、過去にリンク先に書かれていた情報を出典として書かれた過去の版の一部を復活させられるかという意味です。--yugo(talk/contributions) 2011年4月18日 (月) 16:30 (UTC)
コメント まず第一に、その場合に出典となっているのは「ウィキペディアの記事の過去の版」ではなくて、現在はリンク切れとなっているリンク先の記事であると考えます。リンク切れとなった出典の扱いについては、過去の議論も参照して下さい。
基本的には、とりあえず別の出典と置き換えるまでの仮の措置ではあっても、リンクが切れてもその内容を何らかの手段で確認する可能性はあるため、リンク切れは出典が無効であることを意味しない、という意見の方が支持されているように見受けられます。また過去の版の記述を復帰すること自体は、GFDL上問題がないと考えます。--Kanohara 2011年4月18日 (月) 13:39 (UTC)
ありがとうございます。リンク切れの場合についてはよくわかりました。もしリンク自体は残っているが、リンク先から情報が除去されている場合でも同じことが言えるのでしょうか? --yugo(talk/contributions) 2011年4月18日 (月) 16:30 (UTC)
絶対に駄目だとまでは言えないのですが、検証可能な内容によって記述するという原点から考えた場合、好ましくは思えないですね。 元リンクより削除された情報を記述するにしても、いつ閲覧した内容によるのかは明記すべきでしょうね。--Gyulfox 2011年4月18日 (月) 17:38 (UTC)
だいたい分かりました。みなさんご意見ありがとうございました。--yugo312 2011年4月19日 (火) 07:09 (UTC)