Wikipedia‐ノート:削除依頼/教会の危機

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

Lorettibarrend さんのご意見に同感です。ここにある「危機」は、世界の世俗化という一般的問題であり、特にカトリックの固有の問題ではありません。現在のカトリック教会に第2バチカン公会議を否定する者は、聖ピオ十世会など伝統派などほんのわずかしかおらず、記事全体が、百科事典の項目ではなく、伝統派の宣伝文書のような性質を持っています。聖ピオ十世会のノートにも書きましたが、この項目にある主張のようなことを考えている者は、カトリックを代表する意見ではありません。記事の主張も、インターネットから寄せ集めたいい加減な典拠が多く、以下のような問題点もあります。項目聖ピオ十世会マルセル・ルフェーブル等と同質の問題をこの記事は具備しており、カトリック教会に関する、偏った考え方に過ぎないと思います。

  • 概説

「1960年代から、カトリック教会では数万の司祭が司祭職を捨て、多くの修道者や修道女たちが還俗した。」→ 出典がない。

  • 信徒の信仰生活の危機

「フランスにおいて(…)2003年の統計によると、カトリック信者の4人に1人が『罪というのは意味をなさない』と答えている。」→ 出典がなく、設問そのものも曖昧。

  • Catholics in crisis という記事に出てくる神父は、Opus Dei など極右派ばかりで、カトリック教会を代表する人々の意見ではなく、少数派の偏った意見である。
  • 聖職者の危機

「元パリ大司教リュスティジェ枢機卿(Cardinal Lustiger)は、ユダヤ教徒たちはキリスト教に改宗する必要はないと公に教えている」→ 他ならぬリュスティジェ自身がユダヤ人であることが理解されていない。

  • 1970年から2007年までの全世界における司祭総数、修道者、修道女の総数の移行は次の通りである。
カトリック信者は、1970年から2007年の間に倍増しているのに、「教会の危機」とは大げさであり、伝統派から見たエキセントリックな意見である。
  • ベネディクト16世は、信仰教義聖省長官であったとき、2005年聖金曜日の十字架の道行きで、カトリック教会を「沈みつつある船」に喩えた。→ そのような喩えは存在しない。
  • ドイツ語とフランス語の典拠の頁数が示されておらず、翻訳の信憑性を検証できない。——以上の署名の無いコメントは、Tizizanoノート履歴)さんが 2013年3月1日 (金) 11:20 (UTC) に投稿したものです(Kinno Angel会話)による付記)。[返信]
コメント
「少数派による偏った視点によるものだから削除」という理由であれば、削除に反対します。内容の偏向に対しては基本的に、観点タグを貼り付け、抜本的修正を図る方向で解決するべきです。
出典も付与されている記事の削除につき、「少数派による偏向」を持ち出すのは今後のためにも危険に過ぎます。この事は強調して申し上げます。
そもそも「リベラル・主流派によって書かれた記事」VS「福音派によって書かれた記事」があまたあるキリスト教系記事ですが、本件の削除依頼を一度通しますと、これらの記事につき「リベラルVS福音派」の削除依頼合戦を誘発しかねません。
これらは杞憂ではありません。僅か2年前・3年前までのjawpの執筆陣の傾向をみれば、そういう事態を危惧せざるを得ません。
もし「少数派による偏った視点」⇒「削除」という前例がキリスト教系執筆者自らによって作られては、その返す刀による被害およびそれに対する釈明によりコミュニティが疲弊する蓋然性は極めて高いと判断せざるを得ません。
しかしながら、純粋に削除方針文書によるものであり、WP:DP#Dの「百科事典の記事になりにくいもの」、およびWP:DP#Eの「独自の研究結果の発表。」「百科事典的な記事に成長する見込みのないもの。」を純粋に適用するものとするのであれば、削除に賛成します(既に依頼者から指摘もされていますが)
日本ではプロテスタントだろうがカトリックだろうが正教会だろうが、キリスト教自体が少数派である事をまず考慮しなければなりません。「少数派の偏向云々」という意見が逆に多数派に偏向した良くない結果を生み出しかねない事も指摘しておきたいと思います。
たとえばウクライナ正教会キエフ総主教庁ロシア正教会から破門された人物が首座主教を務め、全世界の正教会からその地位を承認されて居ないわけです。つまり少数派です。しかしそれでも自教会の正統性を主張する少数派教会の主張も記事に盛り込まれ、「両論併記」による中立的観点の達成が模索され続けているわけです。それがウィキペディアのルールであり、そのルールは尊重されるべきです。
左翼であれ右翼であれ原理主義者であれ、信頼できる出典を確保出来る限りにおいて、彼らの意見も両論併記されます。そのルールによって、私も各教派の各論併記が可能になっているわけであり、またキリスト教系記事も存続が許されているという恩恵を受けて居ます。
繰り返しますが記事の削除というのは究極の手段であり、その手段行使には慎重になるべきです。厳密に削除方針文書を適用し、削除方針文書以外の理由は蛇足としてこれを排除するべきと考えます。--Kinno Angel会話2013年3月1日 (金) 13:00 (UTC)[返信]
Kinno Angel さん、こんばんは。「少数派による偏った視点によるものだから削除」という理由云々というのとも少し異なると思います。この記事には、現在のカトリック教会の立場を誤解させるような主張が少なくないということです。例えば、「元パリ大司教リュスティジェ枢機卿(Cardinal Lustiger)は、ユダヤ教徒たちはキリスト教に改宗する必要はないと公に教えている」という文言が「聖職者の危機」という節にありますが、この記事の執筆者は、i) リュスティジェ自身がユダヤ系であることも、ii) 他宗教・他宗派に改宗など求めていないという現在のカトリック教会の方針も理解していません。そもそも、現在のカトリック教会は、「ユダヤ人のために」に祈ることはあっても、ユダヤ人に改宗を求めたりはしていません。第2バチカン公会議以前の典礼の文言のなかには“perfidis judaeis”(不信心のユダヤ人)という句があり、だからこそ、ヨハネ23世はこの“perfidis”の個所の削除を命じたわけです。トリエント・ミサが特別な許可を得なければ施行できないのは、ラテン語典礼の復活を画策する伝統派(注、Opus DeiやUna voceのようなカトリック内の保守派ではなく、ルフェーヴル一派のような離教派)に対する不信感があるからです。「リベラルVS福音派」間のような編集合戦などということはあり得ません。プロテスタントは、そもそもバラバラであるのに対して、カトリックは一枚岩だからです。カトリック信者に、公会議決定に違背する立場などあり得ないのです。この記事の不備は、項目聖ピオ十世会と同様に、数え切れないほどあります。カトリック教会の主張でないものをカトリックであるかのように記述するなど言語道断です。この記事の項目名が教会の危機でありながら、カトリックのことばかり出てくるのもおかしな話です。いかなる組織も、問題のないものなどあり得ないので、カトリックの項目の所に若干付記しておけば良い話であることは、対応する外国語の項目が存在しないことからも自明でしょう。Tizizano会話2013年3月1日 (金) 13:23 (UTC)[返信]
Kinno Angel さん、コメントありがとうございます。私は以前この記事を白紙化するという暴挙をしでかしたことがあり、自分が言っても説得力に欠けるのはわかるし、えらそうなことは言えないのですが、さすがにいまは「少数派による偏った意見だから排除」などとは考えていないつもりです。しかし、そこは冷静に他の方々のご意見・判断を仰ぎたいと思います。ミサ参加者や聖職者・神学生の減少などは、客観的事実としてカトリック教会のページに書くのなら決して反対・排除はしませんが、わざわざこのような別記事を立ててそれに沿う「証言」を寄せ集め、しかもその原因が「典礼」にあると主張・宣伝するかのようなものは、あまりにも中立的観点を損なうものだと思うので賛成・看過できません。また「教会の危機」という記事名からして問題のある(だからこそ他言語版が一つもない)、内容的にもWP:DP#E百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がないに該当する(と思われる)記事を、抜本的解決など無理ではないかと考え、削除依頼を提出した次第です。--Lorettibarrend会話) 2013年3月1日 (金) 13:27 (UTC)(一部補足・修正 --Lorettibarrend会話2013年3月1日 (金) 13:51 (UTC)[返信]
コメント【蛇足の除去を精密にお願いしたく存じます】
Tizizanoさんへ返信です
現在のカトリック教会の立場を誤解させるような主張が少なくない
それ自体は否定しません。しかしながら、誤解させるような主張があるのなら、その主張部分だけを削除し、内容を修正していけば良いのです。そもそも主流派の主張の方が文献が圧倒的に豊富なわけで、それによる修正は容易な筈なのです(正教の乏しい文献による修正に私が払っている労力に比べれば、圧倒的に小さくて済む筈ですが…)。従いまして、「誤解させるような主張」は削除依頼の理由として足りないと考えます。
「リベラルVS福音派」間のような編集合戦などということはあり得ません。
ちょっと伝わって居ないようですが、「他記事に波及する問題・前例に成り得る」という事を「返す刀」という表現で申し上げているわけです。カトリックを意識した言葉ではありません。今は沈静化して居ますが、本当にリベラルVS福音派の争いというのは、聖書関連記事のほぼ全てに、中立的観点における深刻な爪痕を残しており、両論併記による修正は頭が痛く重い課題です。そのような事態を「どちらがメインラインか」云々といった議論勃発、削除依頼頻発という形で蒸し返したくはありません(約3年ほど前の状態を考えれば杞憂とは決して言えません)。
カトリックは一枚岩だからです。カトリック信者に、公会議決定に違背する立場などあり得ないのです。
カトリック教会の主張でないものをカトリックであるかのように記述するなど言語道断です。
まず押さえて頂きたいのですが、「ローマ教皇庁がどう考えるか」ですらも、唯一それだけを、書かれるべきスタンダードではありません(強調しておきます)。上記のようなお話しを出しても「記述・記事存続の可否」には影響しません。
そういう意味ではウィキペディアというのは極限に相対主義が強い媒体です(それゆえに嫌いな人も当然居ます)。
Tizizanoさんはjawpという土壌・環境において、故事成語の通り文字通り蛇足を付けたし過ぎのように思います。「カトリック云々言語道断」といった主張は全く必要無いばかりか、むしろ本依頼に不必要に「色」を付ける事により、中立的観点を侵害する前例に成り得るものです。繰り返しますがTizizanoさんが仰る「理由」に同意出来ません(繰り返しますが理由から蛇足が取り除かれれば、削除という結論自体には賛成なのです)。
以下、TizizanoさんおよびLorettibarrendさん御両名に返信です
「記事名が不適当。かつ、論争の多い題材であり、中立的観点を達しつつ事典的記述を確保するのは不可能。また記事の扱う内容も現在進行形の問題を漠然と扱うものであり、事典的記述には今の所成り得ない。」
これで削除理由としては足りると思いますし、Lorettibarrendさんの仰る趣旨にも合致すると考えます。またTizizanoさんからも、この文言自体には異論は無いのではありませんか?「カトリックでは云々」といった「色を付ける」個別理由は一切必要ありません。記事全削除という非常に強い手段を採るに当たり、慎重な合意形成をお願いしたいところです。よろしくお願いします。--Kinno Angel会話2013年3月1日 (金) 14:39 (UTC)[返信]
  • コメント ケースDには当てはまらないのではないでしょうか。日本語には定冠詞がないので、“the Church”が単に「教会」となるのはいたしかたのないことかと存じます。ただし、「教会の危機 (カトリック)」のような記事名に変更することについては反対いたしません。「教会の危機」という言葉そのものについては、ローマ教皇が述べている以上、一定の特筆性を有すると思います。票は投じず、ひとまずはコメントに留めますことをなにとぞお許しください。--Isamit会話2013年3月1日 (金) 14:44 (UTC)[返信]
  • 条件付き 削除 WP:DP#Eの「独自の研究結果の発表」「(中立的観点というjawpの要請に応え得る)百科事典的な記事に成長する見込みのないもの」に該当。「論争の多い題材であり、記事の扱う内容も現在進行形の問題を漠然と扱うもので対象選定基準も不明瞭であり、中立的観点を確保した事典記事には成り得ない。」という理由であれば、削除に賛成。この時、「カトリックでは云々」といった個別事情を削除理由に含める事には反対(票を条件付き削除票として、より明確にします)。--Kinno Angel会話2013年3月1日 (金) 14:52 (UTC)[返信]
  • コメント 昨日も長文を投稿していますが、重ねて申し上げます、すみません。教皇が言った言葉だから特筆性云々、というIsamitさんの御意見ですが、カトリック云々という事は抜きに考えましょう。たとえば「日本の危機」という記事が記事足り得るでしょうか?安倍晋三現首相の発言も櫻井よしこの著作もヒットしますが。蛇足一切必要無し。「日本の危機」が事典記事足り得るか?これを考えれば「教会の危機」もおかしい。この一言で十分だと思います。--Kinno Angel会話2013年3月2日 (土) 04:24 (UTC)[返信]
どうも、当方の意図が取り違えられているようです。記事の内容を見る限り、執筆者の本来の意図が、“Churches in Crisis”ではなく“Crisis of the catholic Church”であることは明白であり、「カトリック云々」は蛇足でも何でもなく、カトリックあるいはカトリック教会という項目があるのだから、そこに付加すれば良いということですよ。出典がいい加減というのもダメダメの理由であり、ほとんどの個所に頁数がなく、英独仏語すべてに検証の可能性が必要だと思いますが、孫引きなどもあり、実際に出せるのかどうかも、はなはだ疑問です。例えば、「2006年出版『フランス司教黒書』(Le livre noir des eveques de France, par Remi Fontaine)による」← こんな典拠の書き方はあり得ないし、綴りは間違っているし、発言は孫引きで、この記事のクレジットの書き方はまったくデタラメだと思います。記事というものは自分で書くものであって、聖ピオ十世会のシンパによる以下のサイトからのまるごとコピーされていること自体も、はなはだ問題だと思います。また、『黒書』の著者の Rémi Fontaine とは、PPSX の学院で教えている人物であり、「中立的観点」どころか、PPSX の宣伝文書以外の何ものでもないでしょう。Lorettibarrend さんご指摘の「第2バチカン公会議を否定して伝統擁護にこだわる聖ピオ十世会など教皇庁に背いた団体かその支持者の関与によるプロパガンダも疑われ」るというのはご明察です。典拠が明確なところは以下のサイトにあるもので、クレジットがないところは以下のサイト ↓ で典拠が示されていないところで、要するに丸写しということです。また、似かよった問題があり、執筆者が重複しているのは、とりわけ、聖ピオ十世会マルセル・ルフェーブル新しいミサカトリック正義と平和協議会の項目で、これらの項目に厳重な注意が必要でしょう。
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/0d9c3dc5d4e4ad5d678c6eae1cd20265 Tizizano会話2013年3月2日 (土) 05:29 (UTC)[返信]
コメント Tizizanoさん、なぜかように「カトリック」にしか適用出来ない論理に拘られるのでしょうか。外部から見ますと「分派の主張を消去しようと躍起になっている」としか思われない言動です(現象面では事実そうです)。あまりにそのように色を付けた主張を繰り返されますと、私としても削除に反対せざるを得なくなります。
「カトリック云々」は蛇足でも何でもなく、カトリックあるいはカトリック教会という項目があるのだから、そこに付加すれば良いということですよ。
申し訳ありませんが私の書いている事を、ちゃんと読んでおいでなのでしょうか…?
「日本の危機」という記事が成立し得るか、といった論理づけだけで事足りる問題を、Tizizanoさんはなぜさらにややこしくしようとなさるのでしょうか。聖ピオ10世会のシンパだ宣伝文書だ云々という論理で片付けようとすれば、同団体の主張は100%排除されるべきものなのか検証しなくてはならなくなり、手続きが面倒になります。
それから私が申しております中立的観点というのは、あくまで両論(各論)併記ということです。無論ローマ教皇庁の文書と聖ピオ10世会の文書を同量取り上げる必要はありませんが、聖ピオ10世会の文書だから全く使えない、というわけでは無いのです。Wikipedia:中立的な観点/FAQ#偏った意見を削除して良いかを参考までに御覧下さい。「聖ピオ10世会の~によればかくかくしかじかと批判されている<ref>(聖ピオ10世会ウェブサイト)</ref>」などといった文章は、jawpに存在可能です。
繰り返します、「日本の危機」という記事が成立し得るか、といった論理づけだけで事足りる問題を、さらにややこしくしないで下さい。カトリックだピオ10世だ云々は、本削除依頼に際しては全て蛇足です。--Kinno Angel会話2013年3月2日 (土) 16:20 (UTC)[返信]
Kinno Angelさん、私の意図するところを的確にくみとっていただき、感謝申し上げます。
「日本の危機」が事典記事足り得るか?これを考えれば「教会の危機」もおかしい。←これはまさに、私が思っていても上手く言い表せなかったことそのもので、見事に的確に表現していただいたと思います。それとKinno Angelさんがまとめてくださった「記事名が不適当。かつ、論争の多い題材であり、中立的観点を達しつつ事典的記述を確保するのは不可能。また記事の扱う内容も現在進行形の問題を漠然と扱うものであり、事典的記述には今の所成り得ない。」という削除理由にも、異論はありません。
それからTizizanoさん、おっしゃることは私もわかります。記事の個別の記述に対する問題指摘・反論も、どれもごもっともだと思います。まったく同感です。しかし、ここはWikipediaのルールに照らし合わせてこの記事が削除すべきものであるかどうかを議論する場所です。Kinno Angelさんが指摘しておられるように、「カトリック云々」はWikipediaにおいて記事を削除するかどうかの判断材料にはなりません。むしろ、そこにこだわることは削除依頼そのものが不当な理由・目的によるものではないかと判断されかねません。私も心情的には「カトリック云々」と言いたいことはいろいろありますが、いまここで書くべきことではないので、冷静に抑えていきましょう。 --Lorettibarrend会話2013年3月3日 (日) 12:29 (UTC)[返信]
了解致しました。Tizizano会話2013年3月5日 (火) 23:44 (UTC)[返信]

削除依頼本文ページに、初版投稿者である Julio Meinさんから、この記事が必要だったと考えた理由を述べられました。それに対して、質問と意見をこちらに書きこませていただきます。

  • ここで Kinno Angel さんが削除理由として「たとえば「日本の危機」という記事が事典記事足り得るでしょうか?これを考えれば「教会の危機」もおかしい。」という意見を挙げておられます。私自身もまったく同感なのですが、これについてどうお考えでしょうか?
    私の考えを補足すると、「日本の危機」というタイトルの記事で「日本では少子高齢化が著しく進んでいる」とか「日本の国家財政は危機的状況にある」「○○首相は○○○と言った」「○○氏も著書の中で○○○と原因を指摘している」などどいう記述内容で埋め尽くされるページが(統計資料や出典がいくらあったとしても)Wikipediaで成り立つでしょうか?そんなページがあったら、どのような事態が予想されるでしょうか?
  • また、Julio Mein さんの理由説明について。まず、「教会の危機」について歴代教皇(パウロ6世、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世)が言及してきたことはわかりますが(一部訂正:本文記事によれば、パウロ6世とヨハネ・パウロ2世は発言の意味はともかく「教会の危機」という言葉は使っていませんね)、それだけでは、「教会の危機」という抽象的な文言・タイトルがWikipediaにおいて新規ページ作成するだけの特筆性があると言えるでしょうか?(Wikipedia:特筆性カトリック教会の性的虐待事件は、これは複数の国で刑事裁判にまで発展している具体的事例であり、もはやカトリック教会内部の問題で済む話ではなく社会的にも関心度の高い問題であるため、客観的事実としてWikipediaに記事が書かれることに異論はありませんが、「教会の危機」はその意味が漠然としたものであるばかりか、(本文記事で述べられているのは)あくまでもカトリック教会内部の問題であり、極端にいえばカトリック信者以外には(クリスチャン=キリスト教信者以外の人はもちろん、プロテスタントや正教会の信者にも)まったく関係ない話です。日本の読者にとって現代世界の動向の理解の手がかりになると考えるなら、私やTizizano さんが指摘しているようにカトリック教会のページの中に節を設けるなりして、世界の信者数や聖職者・神学生の数の(信頼できる)統計資料を載せ、「聖職者や神学生の数が減少傾向にあり、また信徒の教会離れも進んでいる。これについては教皇ベネディクト16世も著書○○の中で○○○…と述べるなど、懸念を表明している。」ぐらいに書けばよいことだと思います。
  • そして、記事の内容について一つだけあげますが、日本のカトリック教会の司祭・修道者・信徒の減少や高齢化、さらに聖職者・神学生の希望者が極端に減少しているのが事実で、教会内部で問題とされているからといって、Wikipediaにここまで執拗に書かれるべきことでしょうか?他のブログや掲示板ならともかく、Wikipediaは問題提起や啓発活動の場ではないはずです(WP:NOT)。 他の宗教だと、たとえば仏教やその宗派の個別記事に同様の問題が事細かく書かれていたり、そのための「○○宗の危機」などという別記事が存在し得るでしょうか?それを考えたら、Wikipediaでこのような不適切な(と思われる)記事名でわざわざ別記事を立ち上げることに、正当な理由があるとは思えないのですが、いかがでしょうか。 --Lorettibarrend会話) 2013年3月6日 (水) 12:40 (UTC)(一部訂正 --Lorettibarrend会話2013年3月10日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
コメント
Lorettibarrend さん、こんにちは。
御質問ありがとうございます。御質問にお答えします。
日本に、もしもこれに相当する現象が生じたら
Kinno Angel さんが削除理由にあげて下さった、「日本の危機」は記事にならない。これを考えれば「教会の危機」もおかしいと、いうご意見をありがとうございます。これについて、深く考えました。
拙見によれば、現在の日本は、確かに少子高齢化が著しく進んでおり、日本の国家財政は危機的状況にあるかもしれませんが、なんだかんだ言っても、幸せなことに経済的にも豊かで平和な国であるので、今の状態では「日本の危機」については記事にはならないと思われるのだと思います。「日本の危機」を口走るのは安倍晋三現首相や櫻井よしこぐらいなのでしょう。
しかしもし日本で例えば次のようなことが起こったとしたらどうでしょうか?(そのようなことがあってはなりませんし、全く想像上でのことですが、少しおつきあい下さい。)
  • 日本の全ての学校で、ある日突然日本語を使用することが禁止された。世界に通用する国になるためという理由で世界で一番多く使われている英語と中国語だけを日本の学校で教えるようになった。
  • 日本の伝統的な音楽、踊り、芸能が厳しく禁止された。テレビでもラジオでも映画でも日本語を普通に聞くことが突然出来なくなった。それが40年以上続いている。
  • 教師、警察官、消防士、医師、看護婦、公務員になりたいという者の数が激減した。短期間に多くの者が辞めていった。特に医師や看護婦は高齢者ばかりだ。公務員は70才で退職するが、現役の公務員の平均年齢は60才である。
  • 日本のあらゆる地域で学校(初等教育、中等教育、高等教育の施設)が、あれよあれよと数多くが閉鎖されている。特に大学入学希望者が激減し、多くの大学は廃校となった
  • 少子化、過疎化が進み、建物はあっても医師がいない病院が激増した。
  • 日本国籍の日本人たちのますます多くが日本を去って外国の国籍を取得して外国人となる傾向が続いている。
  • 多くの政治家たちは日本の過去は全て捨てるべきであると言い、「新しい日本」を作ると主張している。過去にしがみつく日本人たちは「非国民」と呼ばれている。
  • 日本の国政への参政権を、日本国籍を有さずとも、中国、韓国、その他ありとあらゆる国籍の国民に等しく与えられるようになった。
  • 異例なことであるが、天皇陛下が「日本の危機」をたびたび語った
上記の一つが、或いはいくつが、或いは全てが、日本に40年以上続いたとしたら、Wikipediaに「日本の危機」が成立していても不思議ではないではないでしょうか。
特筆性
jawpの特筆性の項によれば、「特筆性がある」とは「言及するに値する」こと、とあります。すなわち、
  • 情報源が直接的かつ詳細であり、独自研究的な解釈に拠らずとも、その話題に関する内容が読み取れること。
  • 「取るに足らないようなもの」(他の話題に関する記述において蛇足的に触れられているもの)以上だが、「特集記事」(もっぱらその話題について述べている記述)とまではいかなくてよい。
しかし「教会の危機」は、「カトリック教会」の項の中に蛇足的に触れられるべき取るに足りないものではありません。その理由は、
  • 情報源が、特筆性の検証可能な評価になりうるだけの編集上の完全性・自立性を満たしているから。(主題に言及している「情報源」としての複数の二次資料が存在してる。)
  • 統計や指導者たちの発表の事実の記述は、独自研究ではなく、検証可能性を有する中立的な観点に立つものであるから。
jawpには「教会の危機」に類似する他の記事が存在している
jawpにおいて「危機」に関するどのような記事があるのか、検索してみました。幾つかを適当に選んでピックアップしてみます。これを見ると次のことが分かります。
必ずしも記事名に場所や対象などが限定されているとは限らないこと。
  • 3世紀の危機、これはローマ帝国におけるセウェルス朝の終焉から軍人皇帝時代、そしてディオクレティアヌスの帝位就任までの一連の混乱を示し、3世紀には、ローマにおいて皇帝の権威が低下し、市民の生活水準は低下し、周辺諸族の侵入は頻発するなど、国力の低下が目立ったので3世紀の危機と言う。
  • 17世紀の危機(the Crisis of the 17th century)、ヨーロッパ史において17世紀に起きた混乱。
  • 仏教徒危機南ベトナムで1963年5月から同年11月まで続いた、政治的かつ宗教的緊張。
  • 水の危機(Water crisis)、1970年代からの地球上の水資源と人類の需要とを比較したときの状態をさす。世界規模で見た水資源の状況を表す言葉、特に、水不足と水質汚染が主要な問題とされる。
一つの国を大きく影響した場合「日本の危機」に近い表現の記事があること。
  • ケニア危機、ケニアで2007年12月27日から2008年2月28日までに起きた暴動とそれによって叫ばれた政治危機。ケニアにおいて建国以来最大の国内紛争。
  • キューバ危機(The Cuban Missile Crisis、西: Crisis de los misiles en Cuba)、小国キューバを舞台に、1962年10月14日から28日までの14日間に亘って米ソ間の冷戦の緊張が、最悪の場合全世界を巻き込むことになる第三次世界大戦の勃発を意味する核戦争寸前まで達した危機的な状況。
  • アンデス危機、2008年3月に南米の親米国家コロンビアと隣国である反米国家ベネズエラ、エクアドルとの間で軍事衝突の危険を招いた。
  • 台湾海峡危機、1950年代から1960年代にかけて中華人民共和国(中国大陸)と中華民国(台湾)の間での高まった軍事的緊張。
ある特定の原因によって生じた危機の場合、その原因を記事名の中に入れることがあること。
  • 中国の水危機、中国で生活する人口に対して、中国国土で利用可能な水の量が大幅に不足する可能性があること。
  • 東日本大震災による電力危機、2011年3月11日の東日本大震災以降、地震と津波で発電所などの電力設備が被害を受けたこと、福島第一原子力発電所事故後に日本国内の原子力発電所停止によって発生している電力への影響。
  • カリフォルニア電力危機、2000年夏から翌年にかけてカリフォルニア州で、電力会社が十分な電力を供給できなくなり、停電が頻発した事態。
現在進行形の時事問題やごく最近の時事問題を取り上げて危機の現象を説明する記事がよくあること。それらは特に経済関係であること。
  • サブプライム住宅ローン危機(Subprime mortgage crisis)、アメリカ合衆国にて現在進行中の不動産危機及び金融危機。
  • 世界金融危機(Global Financial Crisis)、サブプライムローン問題(サブプライム住宅ローン危機)をきっかけとした2007年のアメリカの住宅バブル崩壊に端を発し、2013年現在に至るまで続いている国際的な金融危機のこと。
  • 韓国通貨危機、2007年の世界同時不況が発端となって、2008年から2009年にかけて大韓民国の通貨ウォンの価値が大幅に下落したことに伴う通貨危機。
  • 2010年欧州ソブリン危機、2009年10月のギリシャ政権交代による国家財政の粉飾決算の暴露から始まる、経済危機の連鎖。2011年以降もユーロ圏第三位のイタリア情勢が深刻化するなど、未だ解決の目処が立たず、欧州不安は拡大している。
  • スペイン経済危機 (2012年)、2012年にスペインが直面した金融・経済問題のこと。
  • アジア通貨危機(Asian Financial Crisis)、1997年7月よりタイを中心に始まった、アジア各国の急激な通貨下落(減価)現象。
  • ロシア財政危機、ロシアの財政が悪化したところへアジア通貨危機の余波も受けて発生した債務不履行(デフォルト)並びに、一連の経済危機。狭義には、1998年8月17日にキリエンコ政府並びにロシア中央銀行の行った対外債務の90日間支払停止と、これに起因するルーブル下落、キャピタル・フライトなどの経済的危機。
  • ポンド危機(pound crisis)、1992年秋に発生したイギリスの通貨であるポンドの為替レートが急落した出来事。
以上の記事の主題が百科事典においてそれ自身の単独の記事が作成されることが適切であると判断されており、その中には、21世紀の日本に生活している普通の日本語を話して生活している方々にはまったく関係ない(と思われる)ような話題があります。
例を挙げると、ローマ帝国の3世紀の危機、ヨーロッパの17世紀の危機、南ベトナムの仏教徒危機ケニア危機アンデス危機中国の水危機、などです。しかしこれらは百科事典としては特筆性を持っています。
カトリック信者以外にはまったく関係ないような話題であっても、カトリック信者は全世界に10億いると言われているのですから、カトリック信者以外のどの日本人であれ、「教会の危機」という社会現象について理解しようとする関心を持つ人々は存在するはずです。
「教会の危機」は無視できない重大な社会現象
2013年2月14日、前教皇聖下が退位の宣言をした後に、ローマの聖職者達に向かってイタリア語でした訓話のことを、拙者は思い巡らしておりました。最後の遺言のように拙者には思われてなりません。
前教皇聖下は「教父たちの公会議 - 本当の公会議 - 」il Concilio dei Padri – il vero Concilio – と「メディアの公会議」il Concilio dei media があった語りました。ベネディクト16世によれば、本当の公会議よりも、「メディアの公会議」が支配的で効果があり、そしてこれが多くの不幸な出来事、多くの問題、多くの苦しみを生み出した。神学校は廃校になり、修道院は廃院となり、陳腐な典礼が生じた。仮想の公会議のほうが現実の公会議よりも強かった。
イタリア語ではこうです。Sappiamo come questo Concilio dei media fosse accessibile a tutti. Quindi, questo era quello dominante, più efficiente, ed ha creato tante calamità, tanti problemi, realmente tante miserie: seminari chiusi, conventi chiusi, liturgia banalizzata … e il vero Concilio ha avuto difficoltà a concretizzarsi, a realizzarsi; il Concilio virtuale era più forte del Concilio reale.
これはYoutubeでも視聴できます。上掲の部分は48:30頃から始まります。
英語の公式の訳はこれです。We know that this Council of the media was accessible to everyone. Therefore, this was the dominant one, the more effective one, and it created so many disasters, so many problems, so much suffering: seminaries closed, convents closed, banal liturgy … and the real Council had difficulty establishing itself and taking shape; the virtual Council was stronger than the real Council.
前教皇聖下が『信仰について』の中では「危機」として表現していたものが、この訓話では「多くの不幸な出来事、多くの問題、多くの苦しみ」となっています。
「教会の危機」は、拙者が新しく発見した問題を提起しているのでもなく、誰も発言したことのない内容について啓発活動をしているのでもありません。教会当局が公式に発言してる現象事実を客観的に記述しているのです。
最後に、記事内に書くべきではないと拙者が判断する独自の考えを少し述べれば、ベネディクト16世が2月14日の訓話を「信仰の年」と「希望」の言葉で終えているように、拙者もこの「教会の危機」が将来収束すると信じています。ちょうど悪魔が旧約の義人ヨブに試練を与えるのを許され、一時の間ヨブが苦しみを耐えたように、カトリック教会も将来この危機を乗り越えて健康を取り戻すと信じています。ロシア正教会の渉外局長・モスクワ教区副主教、イラリオン・アルフェエフ府主教がインタビューの結論で「新しい教皇様が聖伝主義者であることを希望しています。」"Spero che il nuovo Papa sia tradizionalista" と言ったと報道されましたが、新しい教皇様の指導の下で「教会の危機」が克服されることを願っています。
以上、何故「教会の危機」という記事を独立させるのがよいと思うのか、3つの理由を述べました。
回答が大変長文になってしまって申し訳ございません。中立で公正な、より多くの情報による、より良い記事に発展するためにご理解を願います。 --Julio Mein 2013年3月7日 (木) 03:23 (UTC)
コメント Julio Meinさん、挙げられた既存記事は全て個別の事象、もしくは遠い過去の歴史上の事象です。【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】は一つもありません。【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】は百科事典の記事として成立し得ません。
なるほど「日本の危機」では解り難いかもしれません。ではチベット危機(言語の危機、宗教の危機、民族の危機という挙げられた現象はカトリック教会以上に深刻です)という記事が百科事典の記事として存在し得るか(また仮に作成されたとしても、どのような事態が生じるか)を想像してみましょう。「教会の危機」もこれと同じです。独自研究かつ中立的観点を巡る議論でコミュニティが疲弊するばかりであり、良い実りは期待できません。やるなら掲示板ないしブログ、SNSでやるべきです。--Kinno Angel会話2013年3月7日 (木) 08:51 (UTC)[返信]
コメント Julio Meinさん、挙げられた「危機」に関する記事は、いずれも当事者以外の人たち(も)がニュースや報道などで少なからずその名称を認識しているか、歴史的な事象で後世の人が呼ぶ名称のものです。類似している記事とは思いません。「教会の危機」という文言を見聞きしたとき、それがローマ・カトリック教会の問題で具体的にどのような事象のことか認識できる人が、日本ではカトリック信者以外にいるでしょうか?欧米諸国ならそう認識する人もいるでしょうが、それでも(日本のカトリック信者も含めて)漫然とした意味だけで具体的に何のことかハッキリ認識できてない人がほとんどだと思われます。だから、ある意味世界的な事象であっても「教会の危機」というWikipediaの他言語版記事は一つもありません。これは百科事典の記事として成立しないからではないでしょうか。教皇がたびたび危機感を込めて述べているからといって、それだけで記事にはなりません。それはベネディクト16世 (ローマ教皇)のページに書けばよいことです(量的に限度はありますが)。Kinno Angelさんの言われる「チベット危機」という記事があったらどうなるか、および私が付け加えた「(仏教の)○○宗の危機」という記事が(もし現実にそのような事象があったとしても)あったらどうなるか、想像してみてください。「なにが危機だ。失礼なこと書くな!」と反発する人があらわれて編集合戦がおき、収拾のつかない状態も予想されるのですが。
そして、「日本に、もしもこれに相当する現象が生じたら」として事例を挙げておられますが、これらがカトリック教会に起きている事象だとでもおっしゃりたいのでしょうか?だとしたら、断固否定させていただきます。知らない人が読んだら誤解を招くような内容です。前提そのものが不適切で記事存続の理由にはなりません。(カトリック云々は削除依頼の議論とは関係ないと Kinno Angelさんから注意を受けていたのですが、あまりに偏った例えなので反論させていただきます。)「教師、警察官、消防士、医師、看護婦、公務員になりたいという者の数が激減した・・・」は、「司祭・修道者になりたいという者が激減し、高齢化が進んでいる」という意味でわからなくもないですが、少子高齢化の影響は既に日本でもあらわれているし地方の過疎地へ行けば公立学校の統廃合はいくらでも行われています。それらを指摘する人がいても、「日本の危機」というWikipediaの記事はありません。そして、「日本の全ての学校で、ある日突然日本語を使用することが禁止された。」「日本の伝統的な日音楽、踊り、芸能が厳しく禁止された。それが40年以上続いている。」は、カトリック教会でラテン語ミサ・典礼が行われなくなったことを言っておられるのでしょうが、たしかにその機会は激減したといっても正確には禁止されてはいませんし、そもそもそれが「危機」だと思っているのは、Julio Meinさんたちだけです。カトリック教会の聖職者・修道者を含む信者で、ラテン語が使われなくなったことが「日本人が日本語使用を禁止された」ような危機だと思っている人はほとんどいません。その証拠に、カトリック中央協議会の公式サイトを見ても、そのような内容の危機については何一つ書かれていません。にもかかわらず、こんなところでそういう自分たち独自の考えを書くのが「啓発活動」ではないのですか?と問うているのです。自分自身の発言でないからといっても、自分たちの考えと合致する教皇の発言をいくつも掲載するのも「啓発活動」にあたるのではないでしょうか?そういうのは他でやってくださいということです。 --Lorettibarrend会話2013年3月10日 (日) 12:11 (UTC)[返信]

(Julio Mein さんの 2013年3月16日 (土) 14:55 (UTC) のコメントおよび以下の議論をWikipedia:削除依頼/教会の危機本文から転記しました。--Lorettibarrend会話2013年3月27日 (水) 07:56 (UTC)[返信]

  • 存続 その理由は、
    1. 教会の危機は教皇らが危機感を込めて述べている無視できない重大な社会現象である。これについてカトリック教会を代表してベネディクト十六世が機会があるたびに嘆いている。
    2. 欧米諸国では教会の危機をハッキリ認識しているが、日本語の読者が現代世界を理解するためにそれを説明することが助けになる。
    3. 「チベット危機」に相当する記事が「チベットの中国化」(sinicization of Tibet)というタイトルで英語など3言語である。これは1950年代から始まったチベットの言語の危機、宗教の危機、民族の危機を取り扱う【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】である。
以上です。
  • 但し、例を挙げると「継承危機」(Crisis de la sucesiónSucedo krizo)という記事は、スペイン語などでは単に「継承危機」とだけで記事が成立している。これは末日聖徒イエス・キリスト教会の継承危機を扱う内容である。これを英語では「継承危機(末日聖徒)」(Succession crisis (Latter Day Saints))、ロシア語では「継承危機(モルモニズム)」(Кризис преемника (мормонизм))などとして括弧で特定化していることを鑑み、IsamitさんやMichael tiaraさん、Biyueさんたちの主張を考慮し「教会の危機(カトリック)」とすることには同意します。
  • Lorettibarrendさん、ベネディクト十六世はこれらがカトリック教会に起きている事象だと言っています。もう一つ別の例を挙げます。
「修道院が閉鎖され、神学校が閉鎖されているのに彼らはこう言います。"しかし、... 何でもありません。全ては順調です。"... いえ、全ては順調ではありません。」
The false optimism was the post-Council optimism, when convents closed, seminaries closed and they said “but... nothing, everything is fine!”.... No! Everything is not fine. There are also serious, dangerous omissions and we have to recognize with healthy realism that in this way things are not all right, it is not all right when errors are made.
VISIT TO THE PONTIFICAL MAJOR ROMAN SEMINARY OF THE HOLY FATHER BENEDICT XVI, Friday, 8 February 2013
  • この事実を「断固否定」する彼らは、誤った楽観主義(公会議後の楽観主義)の幻想を抱いている。私たちは健全な現実主義で認めなければならない。
  • Tizizanoさん、まず2つ質問があります。教えて下さい。
    1. あなたの「他宗教・他宗派に改宗など求めていないという現在のカトリック教会の方針」という発言の典拠を第二バチカン公会議の公文書の中から引用して下さい。もしも、見つけることができなければ、教皇公文書の中から引用して典拠を示して下さい。お願いします。
    2. あなたの「Opus Dei など極右派は、カトリック教会を代表する人々の意見ではない」という発言の典拠を教皇公文書の中から引用して示して下さい。教皇公文書に見つけることが出来なければ、カトリック教会の公式の立場の発言を引用して典拠を示して下さい。お願いします。
  • リュスティジェ枢機卿の発言については、拙者はここで「教会の土台であり支柱である使徒と、世界にキリストの福音を告げた多くの最初の弟子がユダヤ民族からの出身者であったことを想起」(『キリスト教以外の諸宗教の対する教会の態度についての宣言』)し、初代教皇聖ペトロが同族のユダヤ人たちに向かって言った言葉を引用します。
おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、聖霊のたまものを受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたたちのため、あなたたちの子孫のため...のものであります。」(バルバロ訳使徒行録2章より)
「ユダヤ人のかしらたち、長老たちよ、...家つくりのあなたたちに軽んじられたその石イエズスは角の親石とされました。救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」(バルバロ訳使徒行録4章より)
以上です。--Julio Mein 2013年3月16日 (土) 14:55 (UTC)
ご案内の件ございますが、基本的には、引用された『キリスト教以外の諸宗教の対する教会の態度についての宣言』他『カトリック教会の諸宗教対話の手引き――実践Q&A』(日本カトリック司教協議会 諸宗教部門編)などをお調べ頂ければと存じますが、改宗を求める異端審問的であるというよりは対話的であることに関する公会議文書とのお尋ねに関しましては、以下のものがございます。cf. NOSTRA AETATE,NOSTRA AETATE。また Opus Dei 等についてお知りになりたければ、まずクセジュ文庫(邦訳は1989年)から始まり、そのビブリオグラフィーから始まりいろいろな研究書がありますので、その思想的立場に関してお知りになりたければ、以下のサイトをご覧下さい。cf. Opus Dei Awareness Network, La troublante ascension de l’Opus Dei
Opus Dei に関して「教皇公文書」を云々されることに関しましては、一驚を禁じ得ません。フェリシテ・ド・ラムネーアクション・フランセーズなどの昔の件ならともかく現代の教皇を初めとする高位聖職者が個々の組織や団体に関しまして、例えば回勅や教書のようなもので、一々まとまった長々しい言及されることがそれほど頻繁にあるとは思えません。「カトリック教会の公式の立場」が 【Opus Deiに限らずおよそカトリック内の信者】を「カトリック教会を代表する人々の意見である/ない」と述べることはあり得ません。この場合 Opus Dei のところにいかなる名辞を入れ替えても同じです。ですから、失礼ながら、ご質問にございます問いの立て方そのものに問題があるやに存じます。これは、一般論でございますが、歴代教皇が認可された属人区である Opus Dei を称賛することはありますが、参考文献等におきまして大方の研究者やジャーナリストが指摘するところによれば、極右ないし超保守派とのことですので(cf. Patrice de Plukett, L’Opus Dei, enquête sur 《monstre》, 2006, etc)、保守派からリベラルまでの寄合所帯であるカトリック教会全体を代表する声など言えば、それは極論にならないとも限らないのではないかと愚考します。ただ、この点に関しましては、研究書等で云々されております一般論でございますので、Julio Mein 様が、いや自分はそうは思わないというはご自由だと存じます。また、最後の点につきましては、Julio Mein 様の引用にある、リュスティジェの発言とペトロの言及の関連がにわかにわかりませんので、お答えの仕様がありません。悪しからずご了承下さい。
ただお尋ねがありました事柄に関しまして黙殺も致しがたく、僭越ではございますが、管見を若干述べさせて頂きます。1938年(昭和13年)9月6日、ドイツのニュルンベルクでナチの党が行われた日、ピウス11世は、ベルギーからの巡礼団を接見して、「キリストにより、キリストにおいて、私たちはアブラハムの霊的子孫なのです。キリスト教徒は断じて反ユダヤ主義に荷担してはなりません。それはとうてい容認できないことです。私たちは霊的にセム族なのです」と述べことがよく知られております。また、急死された聖下は、Humani generis unitas の発付を準備されており、この出されなかった回勅では、ナチスによるユダヤ人迫害が厳しく弾劾されております。イエスも聖家族もみなユダヤ人なのですから、キリスト教信仰を真摯に考えれば、キリスト者が反ユダヤ主義に加担できないことは自明であります。言葉を換えますれば、ユダヤ教に関しましては、霊的な長子権とヘブライズムの伝統を尊重し、友好的雰囲気のなかで対話的関係を構築しなければ成らない存在であり、決して迫害したり、改宗を求めたりする対象ではないと考える一つの証左であります。
それから、ここは項目「教会の危機」の存否に関する議論をするノートでありますので、Kinno Angel さんからのお叱りもあったことですから、「Wikipedia:削除の方針」の本旨から横道にずれる議論は、今後はあえて控えさせて頂きますので、この点を付言させて頂きます。
プロテスタントや正教会にとってもはなはだ迷惑であり、特筆性がない記事に存続の理由がございません。「教会の危機(カトリック)」なら、「削除対象になるもの」の内の「ケースC」「ケースD」「ケースG」に該当し、なおさら 削除であります。また、Julio Mein 様におかせられましては、「『チベット危機』に相当する記事が「チベットの中国化」(sinicization of Tibet)というタイトルで英語など3言語である。これは1950年代から始まったチベットの言語の危機、宗教の危機、民族の危機を取り扱う【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】である」とされていますが、これに関しましても大いに驚いております。Kinno Angel さんは「【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】である」から百科事典の項目として相応しくない、すなわち「論争の多い題材であり、記事の扱う内容も現在進行形の問題を漠然と扱うもので対象選定基準も不明瞭であり、中立的観点を確保した事典記事には成り得ない」とされているわけで、私も同感です。「削除」の理由にご賛同頂き、改めて感謝申し上げます。
ただ、 Julio Mein 様が言及なされております中国によるチベット侵略につきましては、私もよくないことだと思います。しかしながら、Julio Mein 様におかせられては、書き込む項目の場所をあるいは間違われておられるのではないかという懸念なしとしません。従いまして、ご高説は、例えば中国の政治チベット問題等にご転送頂ければ適当かと存じます。まことに恐縮ではございますが、この点ご理解頂ければと存じます。
浅学非才の身故、何かと行き届かないところがございますが、寛大な御心でご寛恕頂き、今後ともご指導ご鞭撻頂ければと存じます。なお、復活祭を前に致しまして、主のお恵みが Julio Mein 様にございますようお祈り申し上げます。cum oratione.Tizizano会話2013年3月16日 (土) 19:11 (UTC)[返信]
Julio Meinさん、論点をすり替えないでください。ベネディクト16世の言葉「この事実を「断固否定」する彼らは、誤った楽観主義(公会議後の楽観主義)の幻想を抱いている。」を持ち出したのは(その英文の翻訳もなんか微妙に怪しいような気もしますが)、私(利用者:Lorettibarrend)もその一人で教皇聖下の意思に反しているけしからん者だということを仰りたいのかもしれませんが、そんなことはWikipediaの削除依頼の議論とは全く関係ない話です。Tizizanoさんに対する「他宗教・他宗派に改宗など求めていないという現在のカトリック教会の方針」という発言の典拠「Opus Dei など極右派は、カトリック教会を代表する人々の意見ではない」という発言の典拠 という質問などもそうです。話をそらしたりややこしくしないでください。修道院や神学校が閉鎖されたり修道者や神学生が減少しているのが客観的事実で、教皇も憂慮して危機感を抱いてたびたび言葉にしておられるのはわかりますし、私自身これらを否定したり「問題ないこと」と言うつもりもありませんが、しかしながら「教会の危機」と題して教皇庁公文書が出されているわけでもなければカトリック中央協議会の公式サイトにも具体的な言及は見当たりません。だから百科事典の記事としての「特筆性」があるとは認められないのではないかと言っているのであって、個別の事柄はカトリック教会ベネディクト16世 (ローマ教皇)の記事に書けばよいことでしょうと再三申し上げているのです。欧米では多くの人に認識されているとしても、「教会の危機」の他言語版が一つもないのはそういうことではないでしょうか?そして、この削除依頼に対して、記事名を「カトリック教会の危機」に移動させてでも「存続」と票を投じておられる方たちが誰も答えないので再度(管理者をはじめ他の方々にも)問いますが、仏教のどこかの宗派で、もし仮に同様の事象(僧職の後継者不足や信徒の減少。しかし宗派の組織としての公式声明は出されていない状況)が起きているとして「○○宗の危機」という記事がWikipediaにあったらどうなるか、百科事典の記事として成立しうるのでしょうか?おかしいと思いませんか? --Lorettibarrend会話) 2013年3月17日 (日) 12:01 (UTC)(一部修正・補足 --Lorettibarrend会話2013年3月18日 (月) 11:19 (UTC)[返信]
Lorettibarrend さんのご指摘に同感です。例えば「真宗大谷派の危機」という記事が辞書項目に相応しいか考えれば、誰でもわかることです。「欧米諸国では教会の危機をハッキリ認識しているが、日本語の読者が現代世界を理解するためにそれを説明することが助けになる」← ならないと思います。「ハッキリ認識して」いれば、英語版やフランス語版がないこと自体が不可解。現在の記事の内容は、「教会の危機」というよりも「ルフェーヴルを支持する伝統派などから見た、第2バチカン公会議以降のカトリック教会への批判」です。いかなる組織も問題のないものはありませんから、「カトリック教会」という項目に、「伝統派からの見方」等々の節を立てられ、そこにお書きになられれば良いと思います。現今の「教会の危機」という項目は、「Wikipedia:削除対象になるもの」の各条項に照らし合わせて、存置の理由がありません。主要な執筆者である Julio Mein さんご自身が 宗教の危機、民族の危機を取り扱う【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】である と削除に必要かつ十分な条件を括弧付きで雄弁に語っておられるのだから、これ以上贅言を要しないでしょう。Tizizano会話2013年3月17日 (日) 19:38 (UTC)[返信]
コメント Tizizanoさん、お返事を読みました。しかし、質問に答えてはくれませんでした。あなたは他人の発言の多くに「出典がない」と批判しています。そこであなたの発言の典拠を最低限お願いしています。項目「教会の危機」の存否に関する議論の際に、ここであなたご自身の発言について拙者は問うています。少なくともあなたが他人に要求することを、あなたに要求できると信じています。あなたの発言は、典拠もその頁数も示されておらず、発言の信憑性を検証できません。もしも存在しているのなら、単純に引用してみてください。お願いします。
もしもあなたが、それさえも出来なければ、あなたにならって今後は「ご案内の件ございますが、基本的には、教会公文書などをお調べ頂ければと存じます」と答えればよいのですね。
  • Tizizanoさん、あなたにOpus Dei 等について知りたいと問うたのではありません。あなたはあたかもご自分の主張が「カトリック教会を代表する意見」であるかのように、他人の記事の内容を「カトリック教会を代表する人々の意見ではなく、少数派の偏った意見である」と非難しました。項目「教会の危機」の存否に関する議論の際に、ここであなた自身が言い出した発言「Opus Dei など極右派は、カトリック教会を代表する人々の意見ではない」の根拠を求めたのです。あなたは自己矛盾を見せています。その通りです。「カトリック教会の公式の立場」が 【Opus Deiに限らずおよそカトリック内の信者】を「カトリック教会を代表する人々の意見である/ない」と述べることはあり得ません。この場合 Opus Dei のところにいかなる名辞を入れ替えても同じです。あなたの主張は、ご自分も認めているように、研究者やジャーナリストの主張であってあなたの「独自研究」です。あなたは、ご自分ではカトリック教会を代表する意見を述べず、他人にはそれを求めています。
  • Lorettibarrendさん、「○○宗の危機」というタイトルではありませんが、Wikipediaには、末日聖徒イエス・キリスト教会での「継承危機」という記事が数カ国語で存在しています。これについてはすでに述べました。
  • 「教会の危機」と題する教皇庁公文書は出されていません。しかしヨハネ・パウロ2世の「ヨーロッパの教会」と題する教皇庁公文書は出され、バチカンの公式サイトに具体的な言及があります。European culture gives the impression of “silent apostasy” on the part of people who have all that they need and who live as if God does not exist.
  • 他言語版がないことは、削除の理由とはなりません。jawpにおいて他言語版が一つもない記事もたくさん存在します。例えば韓国通貨危機があります。--Julio Mein 2013年3月25日 (月) 04:08 (UTC)
何度も同じことを申し上げるのは煩雑極まりないのですが、Lorettibarrendさんもご指摘の通り、あなたのご質問は、この項目の存否の問題と何ら関係がございません。無関係と承知した上で、お会いしましたのも何かのご縁ですから、お尋ねの件に関しましては、わざわざ「リンク先」まで付け、ついでながらお答えしたまでで、いわば余談でございます。リンク先の内容があなたの気にいるか否かは、さらにまた別の話でございます。“Ego PAULUS Catholicae Ecclesiae Episcopus”と最後に署名された、第二バチカン公会議に関する公文書もリンク先に挙げて起きましたが、これがカトリック教会を代表する考えではないとお考えなら、もはやおよそ理性と良識をもった対話は不可能なのではないかと存じます。記述に関しましては、知的一貫性と論理的整合性をいま一度ご点検下さいますようお願い申し上げます。
また、項目「教会の危機」の存否に関しましては、Julio Mein さんご自身が 宗教の危機、民族の危機を取り扱う【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】である と、明確にして説得力のある削除理由を述べられており、それに付けえるべきものもないと存じます。Julio Mein さんのご指摘は、失礼ながら時に要領を得ず、特に「あなたの主張は、ご自分も認めているように、研究者やジャーナリストの主張であってあなたの『独自研究』」などの点は、まったく意味不明であります。第一に、そもそも問いの立て方自体に問題があること、そして第二に、およそ辞書項目の記述とは、対象になたっているトピックを「外部から記述する」ものであるということをご再考頂ければと存じます。「独自研究」とは、簡単に言えば、研究者やジャーナリストなどの典拠によらない記述を指す用語であり、両者はむしろ反対概念であります。さらに今一度、Wikipedia の「Wikipedia:信頼できる情報源」の個所をご精読頂きたく存じます。
韓国通貨危機は、「2007年の世界同時不況が発端となって、2008年から2009年にかけて大韓民国の通貨ウォンの価値が大幅に下落したことに伴う通貨危機」という、明確な時空的制約を受けた過去の出来事として記述するものであり、経済項目のトピックとして十分な存在理由がございます。さりながら、Julio Mein さんご自身が 宗教の危機、民族の危機を取り扱う【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】である とされる「教会の危機」は、それが【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】は、「論争の多い題材であり、記事の扱う内容も現在進行形の問題を漠然と扱うもので対象選定基準も不明瞭であり、中立的観点を確保した事典記事には成り得ない」ということであり、両項目は、まったく位相の異なるものであることをご理解頂ければと存じます。Tizizano会話2013年3月25日 (月) 11:22 (UTC)[返信]
コメント Tizizanoさん、「あなたのご質問は、この項目の存否の問題と何ら関係がございません。」と言いましたのでご説明します。あなたが最初にこの記事「教会の危機」に対して「いい加減な典拠が多く、以下のような問題点もある」として次の点を問題視し、「偏った考え方に過ぎない」という理由を述べて削除依頼を投票しました(2013年3月1日 (金) 11:20 (UTC) の投稿)。その後の経過を箇条書きにします。
  • あなたは「ベネディクト16世は、信仰教義聖省長官であったとき、2005年聖金曜日の十字架の道行きで、カトリック教会を「沈みつつある船」に喩えた。→ そのような喩えは存在しない。」(2013年3月1日 (金) 11:20 (UTC) の投稿)と述べた。それに対し拙者はその典拠をバチカンの公式サイトを引用して存在することを示し、あなたの発言の間違いを指摘した。しかし、あなたはご自分の非を認めようとしなかった。
  • あなたは記事中の複数の記述に出典がないことを問題視し「ドイツ語とフランス語の典拠の頁数が示されておらず、翻訳の信憑性を検証できない。」(2013年3月1日 (金) 11:20 (UTC) の投稿)とさえ細部にわたって要求した。
  • あなたは、「「少数派による偏った視点によるものだから削除」という理由云々というのとも少し異なると思います。この記事には、現在のカトリック教会の立場を誤解させるような主張が少なくない」「この記事の執筆者は、i) リュスティジェ自身がユダヤ系であることも、ii) 他宗教・他宗派に改宗など求めていないという現在のカトリック教会の方針も理解していません。」「現在のカトリック教会は、ユダヤ人に改宗を求めたりはしていません。」(ノートページ2013年3月1日 (金) 13:23 (UTC)の投稿)と削除依頼の理由を書いた。これに対し拙者は、あなたの発言の典拠を示してくれるようにお願いし、教えてほしいと頼んだ。それと同時に拙者の理解を示すために、(リュスティジェ枢機卿と同じ)血統としてはユダヤ人である聖ペトロが自分と同族のユダヤ人たちにキリスト教に改宗する必要を説いたことを示すために新約聖書を引用した。
  • あなたは典拠を教えてほしいという願いに対して「基本的には、引用された『キリスト教以外の諸宗教の対する教会の態度についての宣言』他『カトリック教会の諸宗教対話の手引き――実践Q&A』(日本カトリック司教協議会 諸宗教部門編)などをお調べ頂ければと存じますが、改宗を求める異端審問的であるというよりは対話的であることに関する公会議文書とのお尋ねに関しましては、以下のものがございます。cf. NOSTRA AETATE,NOSTRA AETATE」と答えた。これは自分で勝手に調べろと言うのと同じである。他方であなたは他人には詳しい出典を要求している。また『キリスト教以外の諸宗教の対する教会の態度についての宣言』がNOSTRA AETATEという公会議文書の日本語名ということが、あなたには理解されていないようだ。
  • 「第二バチカン公会議に関する公文書がカトリック教会を代表する考えではない」とあなたに言ったのではない。あなたの発言の典拠を第二バチカン公会議から引用してほしいと依頼した。あなたは「改宗を求める異端審問的であるというよりは対話的であることに関する公会議文書とのお尋ねに関しましては、以下のものがございます。cf. NOSTRA AETATE」と言った。では、NOSTRA AETATEのどこにあるのか。「他宗教・他宗派に改宗など求めていない」というカトリック教会の公式の立場の典拠をご教示してくださることをあなたに願っている。教えてほしい。お願いしている。公文書の文章を引用していただきたいと頼んでいる。
あなたのためにここに日本語訳と英語訳とフランス語訳の対照表のリンクを張ります。Déclaration Nostra Aetate de Vatican II - 28/10/1965 - en japonais, anglais et français 現在のカトリック教会が聖ペトロの言った新約聖書の内容に矛盾することを、何と言ったのでしょうか?--Julio Mein会話2013年3月27日 (水) 03:26 (UTC)[返信]
コメント Tizizanoさん、やはり、あなたにどうしても言わなければなりません。あなたは拙者が聖ピオ十世会関係のサイトに掲載されていた日本語訳資料を使ったことを大問題としています。インターネット上でその他の場所に日本語資料がない、少なくとも執筆当時存在していなかったので、拙者は、聖ピオ十世会関連サイトの日本語資料を使いました。
あなたは、そのようなこの記事「教会の危機」について「いい加減な典拠が多く」「偏った考え方に過ぎない」(2013年3月1日 (金) 11:20 (UTC) の投稿)という理由で削除依頼さえしました
では、そのあなたは一体どのサイトを情報源としているのでしょうか?箇条書きします。
  • あなたは「その思想的立場に関してお知りになりたければ、以下のサイトをご覧下さい。cf. Opus Dei Awareness Network, La troublante ascension de l’Opus Dei, L’Opus dei, secto fascho」(2013年3月16日 (土) 19:11 (UTC)の投稿)と書いた。
  • 拙者はその引用されたサイトを全て見た。特に最後に引用されたL’Opus dei, secto faschoは、自称Marjorie comtesse d'Artichaut(アーティチョークの女伯爵マージョリー)が著者であり、彼女の書いた関連記事はポルノとフォトショップで作った冒涜、侮辱、悪ふざけのモンタージュだらけだった。 ショックだった。見ていて恥ずかしくなった。最も神聖な方イエズス・キリストや教皇聖下たちを笑いものにする記事とヌード写真だらけのサイトを見せられてあなたの品性を疑ってしまった。
  • あなたがこのリンクを自分で削除することを拙者は待った。あなたは拙者の書いた記述について「一週間たちましたが、何のご意見もないので、加筆に先立ち、不要部分を削除させて頂きます」と述べて、その多くを削除した。しかしこのMarjorie comtesse d'Artichautのサイトへリンクはそのまま残っている。
  • 最初は、知らなかったのだろう、読まずに単にサイトにリンクを張ったのだろう、と思った。目をつぶろうとした。
  • しかしあなたはMichael tiaraさんに「見てもいない内容に長々とコメントされるのはお控え下さい。」(2013年3月14日 (木) 21:02 (UTC)の発言)と叱責した。
  • 「お尋ねの件に関しましては、わざわざ「リンク先」まで付け、ついでながらお答えした」「リンク先の内容があなたの気にいるか否かは、さらにまた別の話でございます。」「さらに今一度、Wikipedia の「Wikipedia:信頼できる情報源」の個所をご精読頂きたく存じます。」(2013年3月25日 (月) 11:22 (UTC)の発言)と発言している。確信をもってリンクが張られていることが分かった。Marjorie comtesse d'Artichautのサイトがあなたにとって「いい加減な典拠」でもなく「偏った考え方」でもない「信頼できる情報源」なのだ。
  • このサイトを情報源として信頼しているあなたの良識を疑わないでいることが拙者にはどうしても難しい。--Julio Mein会話2013年3月27日 (水) 06:42 (UTC)[返信]
Julio Meinさんへ。Tizizanoさんに対する個人攻撃はお止めください。削除についての議論になっていません。
それから、私は「他言語版がない」から削除すべきと申しているのではありません。もし「教会の危機」が欧米など他国で広く社会で認識されていて百科事典の記事たりうる特筆性があるなら、なぜ他言語版がないのか?と疑義を呈しているのです。また、Wikipediaに数ヶ国語で「継承危機」という末日聖徒イエス・キリスト教会についての記事があるからといって、私が質問している仏教の「○○宗の危機」という記事がWikipediaの記事として成り立つのか? の答えにはなっていません。繰り返しますが、話をそらさないでください。 --Lorettibarrend会話2013年3月27日 (水) 08:11 (UTC)[返信]
Julio Mein さん、こんばんは。

どうもまったく読んで頂くお気持ちがないのか ・・・もう一度だけ、主張を上から再掲しておきましょう。

何度も同じことを申し上げるのは煩雑極まりないのですが、Lorettibarrendさんもご指摘の通り、あなたのご質問は、この項目の存否の問題と何ら関係がございません。

L’Opus dei, secto faschoについては、撤回しましょう。この点は軽率であり、「知らなかったのだろう、読まずに単にサイトにリンクを張った」と言われても仕方ありませんので、お詫び申し上げます。そして合わせてご指摘のリンク先も削除し、この点は撤回させて頂きますので、ご了承下さい。要するに、クセジュ文庫から始まって知りたいなら自分で調べることもできるのに、何故一々問い合わせがあるのかと思った次第です。リンクの件は、面倒なので最初に目に付いたものを勝手に調べて下さいくらいの意味で並べただけで、この点に関しては私が軽率であったので、お赦し頂ければと存じます。

話はかわって、AETATEのどこにあるのか。「他宗教・他宗派に改宗など求めていない」というカトリック教会の公式の立場の典拠をご教示してくださることをあなたに願っている。教えてほしい。お願いしている。公文書の文章を引用していただきたいと頼んでいる。 との件ですが、「改宗を求める異端審問的であるというよりは対話的」と明確に述べている通りであります。対話的が関係が存在するということは、相手を自己に取り込まず相手の立場を尊重するということでしょう。論理的に、あるいは言語の限界として、言及できるのはそこまでです。「求めてない」ということをどうやって証明するのでしょう?ただ、他宗教・他宗派に言及しているだけでしょう。余談ですが、「ない」ことは誰も証明できないので、これは「悪魔の証明」の名で知られているアポリアでしょう。

(リュスティジェ枢機卿と同じ)血統としてはユダヤ人である聖ペトロが自分と同族のユダヤ人たちにキリスト教に改宗する必要を説いたことを示すために新約聖書を引用した。大変恐縮ですが、この文章では、一体何をおっしゃりたいのかわかりません。・・・このような項目の存否の理由と関係ない事柄をダラダラと何度もやりとりするのは、お互いに時間と労力の無駄であり、もっとも肝心なのは、あなたご自身が主張されている、以下の点です。

Julio Mein さんご自身が 宗教の危機、民族の危機を取り扱う【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】である とされる「教会の危機」は、それが【現在進行の事象】かつ【包括的な記事】は、「論争の多い題材であり、記事の扱う内容も現在進行形の問題を漠然と扱うも ので対象選定基準も不明瞭であり、中立的観点を確保した事典記事には成り得ない」ということ・・・ ← Julio Mein さんは、ご自身で削除すべき理由を述べられているのですから、その論理的帰結は、この項目を削除されるということでしょう。問題は、内容的というよりは形式的なもので、別言すれば、Wikipedia の独立項目として適当かどうかということで、例えばカトリック教会等の項目に付加されると良いかと愚考する次第であります。Tizizano会話2013年3月27日 (水) 14:15 (UTC)[返信]