Wikipedia‐ノート:投稿ブロック依頼/らっと 200707

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

ノートを立ち上げようと思います。各ポイントについて「争点」となっていると私が判断するものを主張しますので、私のブロックに賛成の方(特に、私に「ウィキペディアの意義を分かっていない」とレッテルを貼っておられる方)は(賛成)(反対)等表明し、私に「ウィキペディアの意義」を教えていただくよう心からお願い申し上げます。 なお、前回のように私の主張に何ら反論をすることなく手をつけないまま一方的な処置をなさった場合、私は絶対に納得しないこと、 それ相応の誠意をもった態度で私に「ウィキペディアの意義」を教えてくだされば私は納得して引き下がるであろうことを申し上げておきます。


 私にウィキペディアの意義を教えてください[編集]

「またお前か」でrevertしたことは申し訳ありませんでした。 しかし、前回(過去ログを参照してください)では、「私はウィキペディアの意義を理解していない」と一方的にレッテルを貼られ、それについて私が反論した(私はウィキペディアの意義を理解しているという内容)ところ、一切の再反論は無く、再びレッテルを貼られただけでなし崩し的に議論は終了しました。 私は主張しました。それについて再反論はありませんでした。 再反論が無いのなら、自分のどこがウィキペディアの意義に反しているのか分かりようがないのではありませんか。というわけで、教えてください。

納得がいく答えが出れば、私は喜んで引き下がります。

しかし、何も納得の行く「ご教授」が無いまま一方的に「ブロック」されれば、私の感情がどうなるかくらいはご想像いただけると思います。


ウィキペディアの編集方針[編集]

ウィキペディアは百科事典であり、客観的な事象のみを取り扱わなければなりません。 主観的な事象は排除しなくてはなりません。 そこで「何が主観的か」で意見が分かれているのですが、

(私やRamdo氏の主張)「この記述が主観的かどうか」という問題は、誰の目からも主観的であるというものを除き、ノートで合意を取るべきである

(Huskeys氏の主張)俺が『主観的』と決めたものが主観的なものである

まあこんな感じで意見が分かれているのですが、私はウィキペディアは何でないかを始め、ウィキペディアの方針について何度も熟読しているのですが、Huskeys氏の主張が正しいという記述が見つからないのです。どうか、お教えください。

客観的であることを主張するのであれば、「何々とされている」「何々と報告されている」といった形で記述を行うのがよりよい方法であると考えます。その際、常識的に判断して容易に理解可能なことがらでないのならば、Wikipedia:検証可能性に基づいた、信頼できる情報源による裏づけ、つまり出典が必要とされます。--Calvero 2007年7月28日 (土) 15:46 (UTC)[返信]
ご指摘ありがとうございます。確かに、「何々とされている」という記述にはなっていません。信頼できる情報源は、ノートの議論によって提示されました。(一応、愛知県では「常識的に判断して容易に理解可能」である部類なのですが)--らっと 2007年7月28日 (土) 16:01 (UTC)[返信]
個人的な意見ながら、ノートでWikipedia:検証可能性に基づいた信頼できる情報源による裏づけがなされたと認定されたのにまだ「思い入れからくる、根拠の薄い賛美的とも受け取られる記述」と仰るHuskys氏には疑問を感じざるを得ません。--らっと 2007年7月28日 (土) 17:05 (UTC)[返信]


この投稿ブロック依頼は正当か[編集]

これについては、繰り返しになるので、前回の依頼のコメントの「まず、そもそもこのブロック依頼(Huskys氏)は、投稿ブロックの方針を満たしていない。」のところに書いておいたのを、読んでいただけるとうれしいです。 少なくともこちらとしてはHuskys氏の主張は何度も読み、意味を理解しようと最大限に努めた結果の文章なのに、「虚言」の一言で片付けられては納得がいくはずかないと私は思うのですが。


「千種高校は群制度によりレベルが上がった」という記述は主観的か[編集]

学校群制度を知らない方は、学校群制度を読んでいただけると分かりやすいと思います。(てゆうか、「千種高校がレベルが上がった」を主観的として削除したのなら、学校群制度のページはマルマル削除しなければなりませんね)。 千種高校は、名古屋大学に年数名、東大京大はほぼ皆無という状態から一年間で東大京大に各20名以上名古屋大学に60名程度合格する学校になりました。

これを「レベルが上がった」と表現するのは「主観的」なのでしょうか? 私はそうは思いませんが、少なくても「主観的」と思うのなら、「これは主観的であり、削除しようと思います」とノートに書くべきだというのが私の主張であり、Ramdo氏の主張だと理解しています。 皆様はどうおもわれるでしょうか?


保護依頼が出された時も編集合戦を続けるべきか[編集]

これは「争点」ではなく、純粋に教えていただきたい。 私は、「保護依頼」が出された時、非常にムカついたが、(保護依頼が出されたことについて) 保護依頼が出ている間は編集を自粛していた。 しかし、保護依頼が出されてからも編集合戦を続ける方がいた。その方に私は「保護依頼出されているんだからやめた方がいいんじゃない?」的なことを行ったら、そのことについてHuskys氏は私を非難してきた。 というわけで、お教えいただきたい。

保護依頼が出された時も編集合戦を続けるべきなのでしょうか?

編集合戦はいかなるときも行ってはなりません。しかしながら、上記の文章からは読み取れませんが、想像するに、Huskys さんはHuskys さんが正しいと信じる内容で保護が行われるべきであると主張した、ということではないでしょうか。また、らっとさんとしては、ご自分がこうあるべきと考えている版で保護が行われることを望み、その状態であることを前提に、そこからの差し戻し、すなわち編集合戦の再開を避けるべきであると主張なさったのではありませんか。--Calvero 2007年7月28日 (土) 15:43 (UTC)[返信]
ご返事ありがとうございます。感謝極み入りますしかし、Calvero様のおっしゃることは少し事実と違いますので、訂正させていただきます。私が苦言を呈したのは、どちらかと言えば「私の理想の記述に近い」編集をした方です。確かに私はその方が「いい記述」だと思ったのですが、「wikipediaのルールを守ること」の方が「私の思うよい記述を保つこと」より重要だと思ったので、そのようなことを申し出ました。私がHuskys氏に憤慨したのは、議論が収束に向かおうとしている時に「保護依頼」を出したからです。(分かりにくいかもしれません、すみません、分からないところがあれば言ってくださるとうれしいです。)--らっと 2007年7月28日 (土) 15:54 (UTC)[返信]


議論が収束している時に保護依頼?あの、当時もあなたはそう言ってはこちらをなじって大変でしたが、他の人々に、編集合戦での保護の原因になっていながら、何を矛盾したことを言っているのかということで一蹴されていたでしょうに。そもそも、保護依頼にムカついたとかいうのが、もう・・・。昨年の、保護依頼に至る記録が残っているんだから、そこをしっかり参照して頂ければ分かります。Calveroさんも、その辺の流れを確認して頂ければ明快かとは思います。--Huskys 2007年7月28日 (土) 16:09 (UTC)[返信]

私はノートで合意がとられない内に本文を編集するなんてことはしませんが。--らっと 2007年7月28日 (土) 16:14 (UTC)[返信]
ノート:愛知県立旭丘高等学校の履歴より。ノートで事実上最後の書き込みが2006年11月15日の KAY氏の書き込み、 2006年11月17日 にKnua 氏がノートの過去ログ化、 2006年11月16日 にそこで私のブロックに賛成を表明されている Fromm氏がノートの合意を全く見ずに編集合戦開始、2006年11月16日 Huskys氏が保護依頼、ですね。--らっと 2007年7月28日 (土) 16:37 (UTC)[返信]

私の言っていることは屁理屈か?[編集]

Huskys氏は私の言っていることを「屁理屈」だとレッテルを貼るが、私はどこが屁理屈なのか分からない。 当然といえば当然である。自分で言っていることが屁理屈だと分かっていれば、初めから言い出さない。 屁理屈だと思わないから主張しているのだ。 私の言っていることが屁理屈かどうかは、私には分からない。そこでHuskys氏が取るべき態度は

「私の言うことのどこが屁理屈なのか」教えてあげること

だと思うのだが、この考え方も屁理屈なのだろうか。 お教えいただきたい。


私の言っていることは「おらが学校的主張」か[編集]

大体のことは、ノート:愛知県立旭丘高等学校の3に書いておきました。これが「おらが学校的主張」というべきものなのでしょうか。「そのとおりだ!」と言うのならそれはそれで結構なのですが、どこがどのように「おらが学校的主張」なのか教えてください。お願いします。


最後に[編集]

前回も言いましたが、私に冷却期間など必要ありません。私のどこが間違っているのかを忠告していただければそれで済むだけの話です。一年たとうが五年たとうが私は「私のどこがウィキペディアの方針に反しているのか」を教えていただかない限り変わりません。どこが方針に反しているのか教えていただければすぐにでも謝罪の意を表して自主的に編集を自粛します。まだ言いたいことはいくつでもありますが、この辺で。--らっと 2007年7月28日 (土) 12:10 (UTC)[返信]


おまけ[編集]

私とHuskys氏がすれ違う原因は、wikipediaをどう捕らえているか、によるものだと思う。 (Huskys氏は私に「私はwikipediaを自分の主観を垂れ流すものと考えている」とレッテルを貼るが、それとば全く別の話) 僕は、「wikippediaはみんなで作るもの」って考えている。 Huskys氏は、たぶん「wikipediaは勝手にそこにあるもの」って考えてるんじゃないかな。 どういうことかって言うと、僕は(この署名になる前から)漫画作品とか、小説とか、政党とかの記事を微々っづつ書いてきた。 「この登場人物はおっとりとした性格である」とか、「この作品は男子中学生に人気だった」とか、「この政党は支持率はあまり高くない」とか言ってみれば主観じゃん。 でも、そういう「評価」みたいなのが無いとつまらないし、そういう「評価」みたいなのをwikipediaを見る人は望んでるんだと思う。 だから、いかにして書くか心をくじくわけさ。 書いてると分かるけど、項目書くのって結構大変だよ? 大変だと思うから、僕は書いた人には一定の敬意を払うことが必要だと思うわけさ。 書いた人は苦労したんだから。編集するのなら、より「発展させる」風に、より「良い記述」に持ってくことがもとの文を書いた人への敬意と思うわけさ。

んでさ、Huskys氏って、基本削除するだけじゃん。本人はwikipediaのためだと思ってるんだろうけど。 (ま、実際そうなんだろうけど)片っ端から削除するだけ。 削除するってことは、書いた人の意が無になるってことがわかんないんだから。 僕は、「主観的だと思うのなら客観的な記述に変えろ。ばっさり消すのならノートに書いて執筆者の同意を取れ」って考えで、それがマナーだと思う。 それが、執筆者に敬意を表すってことで、それが、「wikipediaはみんなで作る」ってことなんだと思う。 んでも、Huskys氏は違うんだな。 wikipediaは自然とわいてくるもので、それをいくら削除しようが自分の勝手だと思ってる。 自分は書かないんだから。 そういう観点の違いのような気がする。 だからすれ違うんだと、そう思う。 あ、どうも。言いたいことは以上です。--らっと 2007年7月28日 (土) 13:49 (UTC)[返信]

横入り失礼。「そういう評価みたいなの」についてですが、ウィキペディアでは執筆者の個人的な意見は書いてはいけないことになっています(Wikipedia:中立的な観点)。そういった評価が必要であれば、「誰々は何々と評価している」「これこれの論文ではこのように評価されている」といった感じに、検証可能性を満たした記述にしなければなりません。--Calvero 2007年7月28日 (土) 15:36 (UTC)[返信]
ご指摘ありがとうございます。そうですか。そういうことにも気をつけていたつもりですが、(~社の調査によるととかつけるとか)できてないものあった気がします。編集できるのもあとわずかですし、今のうちに修正しておきますかね。--らっと 2007年7月28日 (土) 15:44 (UTC)[返信]
私や他氏の話を、勝手にすり替えて飛躍させて、持論に無理やり利用する。いつ、自分が「俺が主観的だと思うから削除しろ」なんて書いた?言った?煽っているのはあなたで、本当に酷いですね。何の進歩もなく、昨年の依頼に至る経緯とブロック依頼後の倒錯理屈大会と、まったく同じ。かみ合わないのはこちらのせい、あと、この節での発言も、かなり支離滅裂ですが・・・。私が一人で、このような人に延々絡まれるのは、本当にしんどいですね。何度も何度も何度も何度も言いますが、昨年のブロック依頼に至るまでの、当該ノートや他氏のノート、依頼ページでの倒錯した発想と発言、悪いが幼稚で身勝手極まりない理屈を延々のたまうことと、時間が経っても全く変わっていないことに、恐ろしいほどの絶望感を持ちますね。--Huskys 2007年7月28日 (土) 13:56 (UTC)[返信]
各項目ごとに並べて書いたのだから、具体的に反論するのなら、各項目の下に書いてくださいよ。せっかく私が議論しやすく考えたんだから。何度も何度も何度も何度も言うけど、「幼稚で身勝手極まりない」っていうだけでどこがどう幼稚で、どこがどう身勝手なのか言ってくれないとこっちは永遠に同じことを言うよ。--らっと 2007年7月28日 (土) 14:06 (UTC)[返信]
あなたは、永遠にそういうことをやるんですね。もう結構。もう言うのも疲れてきますが、昨年のあの顛末で、何も自分に限らず色々なユーザーとのやり取りを経ても、何ら変わっていないし、何も自分がずれた発想もしていなければ、煽ってもいなければ、トリガーにもなっていないと公然と言いますよね。そういう認識なんですよね?で、相手に絡んで、挙げ足を取っては、「なんで幼稚なのか説明しろ」「なんで屁理屈なのか説明しろ」「何で主観的なのか説明しろ」のオンパレード。勘違いしないでほしいんだが、これも何度も言っているように、あなたが抱える問題は、昨年来、私がたまたま問題提起して矢面に立っただけで、ここに至る様々な言動や行為、ずっと変わらぬその理屈や発想という部分は、もはやウィキペディアにとって、あなたのような発想で参加することが望ましいのか、あなた自身のパーソナリティの問題が多分にあることを、少しは自覚して下さい。これもまた、昨年言ったので嫌になりますが、あなたは、私さえ駆逐すれば、まるで自分の無理とその発想での参加ができるとでも思っている節がありますが、とんでもない話です。ずっと、一定周期でこんなことを繰り返すの?で、言い分を聞いていると、私も含め「周りが、自分に納得のいく説明をしてくれないから悪い。だからブロックされたらどうなるか分からない、自分が納得しない限り、このままいつまでも理解しません」と言っていますが、そんな感覚の人に、いくら説明や対峙を尽くしても、永遠に納得も理解する気もありませんよね?であれば、私ではなく、コミュニティ全体の総意として、参加はご遠慮頂くという話になります。権利を主張する前に、他者に理不尽な絡みをする前に、自分の義務を守れという話。悪いが、あなたの発想は、いろいろあるウィキペディアでも、無自覚でしょうが完全にはみ出ています。そりゃ、中でいろいろ議論になったり、意見をぶつけて変わっていく、良くしていくということはあるでしょう。誤解や祖語もある。ただ、昨年からずっと続いている、あなたのそれは明らかに異質なものと言っているわけで。
あなたにとっては、ずーっと、自分が良いと思うものにけちをつけられ、指摘されたから反応したまで、という程度の認識だろうけれど、前回然り、他の誰であろうと、あなたは同じように、自分の理屈や発想、発言を問題視してくる人間には、理屈が破綻してようと、なりふり構わず振舞います。他人に、言いがかりのレベルの質問をする前に、昨年来、あれだけの顛末になっても、何らその発想や思考、発言や行為が変わらない理由こそ不可解ですね。あなたは、私との対決・対峙の為に、そんな発想でウィキペディアに参加しているんでしょうか。見るに、もはや私とのマンツーマンの感覚しかなく、衆目や、前回然り、他氏とのやり取りで言われたことなども、全然理解に及んでいないことに唖然とします。何度も言いますよ、過去ログを見ればわかると言っているけれど、あなたのその、本当に向き合う他ユーザーを疲弊させる無自覚さは、他の人も見るんですよ。まぁ、前回同様ですが、この節みたいなことをしておいて、何が相手が煽ってくるなんだか。いい加減にしなさい。何でも言っていいわけではありません。それを全く幼稚だと自覚できないなら、もう何を言っても駄目でしょう。正直、昨年の顛末で、少しは理解しての沈静化だと思っていましたが、本当にがっかりさせられました。他人をせせら笑っているあなたと違って、本当に情けないです。--Huskys 2007年7月28日 (土) 14:31 (UTC)[返信]
なぜあなたはそういうことを言うわけですか?「私が正しい。お前が間違い。反省しろ。」だけ言っているだけでは

分からないってことくらい分かりませんか?何様のつもりなわけ?「反省するならするけどさ、せめてなぜ反省しなければならないのか理由を教えてくれ」ってただそれだけのこと言っているだけなのに、なぜ答えの変わりに罵倒を飛ばすんですか? >自分がずれた発想もしていなければ、煽ってもいなければ、トリガーにもなっていないと公然と言いますよね。

言ってません。そんなこと。
「ずれた発想と言うのなら、私の発想のどこがずれているのか教えてください」と言っているだけです。「ずれている。反省しろ。俺が正しい。」だけじゃ分からない、と言っているだけです。
確かに、煽っていたかもしれません。売り言葉に買い言葉という奴で。その点は申し訳ありません。ってずっとそういっているじゃないですか。申し訳なかったと思っています。しかし、じゃああなたは煽っていないんですか?「お粗末」だの「妄言」だのさんざん言っておきながら、煽っていないんですか?あなたの文章には、全く誠意というものが感じられないんですよ。トリガーにはなっていますね。正確に言えばあなたと私の両者が。あなた、自覚ないですよね。そうですよね。自分はいつでも正しい、反省しろ、とだけ言っておけば間違ったものは勝手に反省してくれる。そういう考えですものね。じゃあ聞きますが、あなたが編集しなかったら、そしてあなたが煽らなかったら、こんなことになっていると思いますか?私の言うことは揚げ足取りですか?でもね、あなたが私を「言いがかり」だの「妄言」だの「あげ足取り」言ったところで、私にはレッテルを貼っているようにしか聞こえないんですよ。残念ながら。何が「せせら笑っている」だ。こっちの方がよっぽど情け無い。--らっと 2007年7月28日 (土) 14:55 (UTC)[返信]


>あなたが編集しなかったら、そしてあなたが煽らなかったら、こんなことになっていると思いますか?

はぁ? はぁ・・・。 誰が「俺が正しい」なんて言っている?私に限らず、前回の顛末でも、他にも犠牲になった人がいましたが、他人の発言などを、勝手に飛躍させて改変して悪く解釈してしまうのはあなたですよ。あなたは、前回も、自分が煽られているだの、言ってもいないことを言われたとか言っていますが、それはあなたです。 あのねぇ、この発言にすべてが要約されている気もしますが、結局、巡り巡っても、あなたの根っこはそれなんですよ。自分が差し戻したことの問題は、誰に、何度言われても理解ができず、つつくと出てくるのは、その「あなたが、(文武両道なり、元気な学生が多いなどという個人の感覚的な記述)を除去する編集をしたから悪い。そしてその後煽ってくる」という発想。後は、もう無理矢理でも何でも、相手の挙げ足とろうがすり替えようが節操なしに、暴れまくって無茶な理屈も平然とのたまって、さんざん相手をしてしまった周囲を疲弊させて、目先で謝ったようなことを言う。でも、その本質が全然分かっていないし、何も自分は悪いとか、自分の生み出した部分への意識がないから、悶々と不満だけは残って、何にも理解や発想に変化がないから、またこのようにまったく同じ所に戻る。悪いが、もはやブロックされない限り、またやりますよ。そしたらまた言うんですか、「あなたが、ルールは知らないけど、僕の気に入らない編集をするから悪いんだ。だから自分が納得できるように説明してくれ。でない限り理解も納得もしない」と。

前回も感じましたが、もし、本当に自分でもコントロールが利かなくて、真剣に相手の言っている意味や意図が理解できないのでしたら、精神的にカウンセリングの必要があるようにも思います。前回の散々の顛末でも見られましたが、私に限らず他の人とのやり取りを見ても、他人のそれほど複雑ではない話を理解し、それにまともに返して意見するとか、ある程度的確に解釈してそれに返すとか、自分の言ったことしたことを忘れてしまう?のか、自分で起こしたことへの指摘などが本当に頭に入らないようなので、そういう能力が、申し訳ないけれどかなり欠如しているように思います。これは、あなたの元々の性質なのかもしれないし、カウンセリングの必要なことなのかもしれませんが、批判とかではなく、本当の臨床的意味での「トラブルメーカー」的な、思考回路と発想、発言、行動が、こういうループを生んでいる気がします。勿論、このような文字のやりとりだけでは分かりませんが、これは真面目な話、私に限らず、他の人との一連の会話でもかみ合わず、あなたが本気で他者の言っていること、言われていることを理解できないから教えてくれというのでしたら、ウィキペディアなんかにさっさと見切りをつけて、真剣に自己と向き合うべきです。 また、このようなことを言うと、お前は自分が正しいと思っているのか、偉いのかと言われるのも承知の上ですが、こんなことを何度も繰り返して、あなたは疲弊しないかもしれませんが、他の人は大変です。さっさと見切りをつけて、あなたのような人に馬鹿真面目に向き合うことが良いとも思わないですし、愚かだと思いますが、それくらい、あなたも何より自己と向き合うべきではないかと思います。いわゆる、受験勉強は頑張ったのでしょうし、それゆえ、自分に近しい?愛知の進学校記事に並々ならぬこだわりを見せるのだと思いますが、そろそろ、自分ではなく他者とのコミュニケーションも考えるべきではないでしょうか?誰も、絶対的に正しいとか、間違っているなんてことは、ご存知の通りありません。自分も、至らない所だらけだし、嫌にもなります。ただ、常に正しくはないだろうことは覚悟の上で、人に真面目に向き合おうとは思っています。--Huskys 2007年7月28日 (土) 15:25 (UTC)[返信]

既に投稿ブロック依頼も提出したことですし(コメント依頼の方が良かったかもしれませんが)、ご自分で説得する・納得させることが難しいと感じられるならば、ほかの人に任せてしまうというのもひとつの手です。人間、ひとりでできることには限界もあります。--Calvero 2007年7月28日 (土) 15:36 (UTC)[返信]
おっしゃる通り、このユーザーさんに対して、昨年の顛末より、限界は大いに感じております。見づからの無力さも。ただ、私が当該氏にとって、あくまでメインの標的のようであり、依頼に関しては私が出しているので、どうしても返しがあれば、馬鹿正直に対応してしまう愚かさも承知の上ですCalveroさんの言われる通り、真っ当な感覚を持ち合わせて参加している頼もしいユーザーは多くいますし、私でなくともという意識はもちろんあります。ただ、昨年の散々な経緯をご覧頂くと分かる通り、もはやコメント依頼という次元ではないということは、お分かり頂けるかとは思います。言いようのない限界と絶望を感じる、ある相手と永遠の平行線という局面は、なかなか実生活では少ないのですが、渾身の、というと大げさかもしれませんが、上の話も、疲弊しきったものを振り絞ったつもりです。私には、このユーザーの精神に伝わるのは限界があることはよく理解しましたが、再三書いている通り、何せまったく同じ地点から何も変わっていなかった状況に、愕然とし激しく幻滅していることも事実です。--Huskys 2007年7月28日 (土) 15:55 (UTC)[返信]

あなた方のチャットのためにwikipediaはあるのですか?いい加減にして欲しいと思います。雑草とりの事でもめてる割には、随分無駄な文章の応酬でwikipediaのサーバーに無駄な負担をかけるんですね。本末転倒なんですけど。「ウィキペディアなんかにさっさと見切りをつけて、真剣に自己と向き合うべきです。」なんて書いてる人もいるけど、傍から見ればあなたも同類ですから。--59.146.147.28 2007年7月28日 (土) 15:51 (UTC)[返信]

それはノートでの議論応酬の全否定になりますね。いささか乱暴すぎる理屈かと。ノートで諤々やり取りしていたらサーバーに負担云々とか、そんなことを言っていたら、Wikipediaのノートや井戸端はじめ、会話ページの存在自体の否定になるし、すべての会話ページにそれを言って歩かないといけませんよ。申し訳ありませんが、あなたの発言は、ウィキペディアの現状から言って、的外れと言わざるをえません。ノートや会話エリア自体の廃止を主張するとかなら別ですが・・・。--Huskys 2007年7月28日 (土) 15:55 (UTC)[返信]
ええと、あのすみません、今まで誤解していたかも知れないのですが、Huskys様が記事を削除するのは、サーバの負荷をかけないためなのですか?もしそうなら、誤解していました。申し訳ありません。謝罪して撤回します。しかし、苦言を呈していただくと、「余計な記述が増えるとサーバに負荷がかかるだろ」と一言言っていただければ、こんな紛糾はしなかったのですが…--らっと 2007年7月28日 (土) 16:09 (UTC)[返信]
はぁ?あなたの頭の中はどうしてそう飛躍というか、ズレた発想になるんでしょうか。本当に困りますね。上で言っているのは、「サーバーに負担がかかるからノートでの議論は本末転倒で馬鹿馬鹿しい」といった旨の話に、「会話ページがあるのに、いちいちサーバーの負担云々を言っていたら始まりませんよ」という話でしょうに。あのねぇ、あとまで全部残るんですから、そういう錯乱して、全然違う解釈をして、ぐっちゃぐちゃにするのは勘弁してもらえませんか?どこをどう取ったらそうなるのか・・・本当に、あなたの、その他者の書いていることが、あなたには違って見えてしまっているような、その精神状態を本気で心配します。前回のあの酷い顛末も、ここでのような、意図か無意図か、恐ろしい取り違えや飛躍で、どんどん突っ走るものだから、周囲を疲弊していると言っているんですよ。本当に、少し落ち着けと言いたいですね。--Huskys 2007年7月28日 (土) 16:17 (UTC)[返信]

サーバーの負荷なんてあくまで建前です。議論の応酬のためにあるから忠告してるのがわからないのかあんた?管理側の仕事の草取りを自称しているくせに管理者の裁定を潔く待てないのか?草取りを名乗る分際で本末転倒な事してるならwikipediaの編集のなんか辞めて閲覧だけにしとけ。--59.146.147.28 2007年7月28日 (土) 16:13 (UTC)[返信]

先のコメントに書けばよかったのですが、勿論、不毛な議論が本末転倒だ、という意図はもっともです。今やっていることは、真っ当な議論の価値があるものかといえば、本当に疑問だし不本意です。ただ、私もそういう認識なので、そのように私だけ?に、暴言気味に責めるのは勘弁して下さいね。--Huskys 2007年7月28日 (土) 16:17 (UTC)[返信]
ともかくポンポンと書き込まずに、落ち着いて、じっくりと、一言一句吟味しながら、一球入魂の気構えで、まあそんな感じでお願いします。ということではないでしょうか。--Calvero 2007年7月28日 (土) 16:22 (UTC)[返信]

どうせブロックされるんだからもう放っておいたらよいのにな・・というのが本音。--PeachLover- ももがすき。 2007年7月29日 (日) 00:03 (UTC)[返信]

賛否表明を出していない者があれこれ言うのも憚られたのですが。・・ともあれ、これまでの議論を拝見する限り、依頼提出者・被依頼者共にWikipedia:善意にとるなどの草案を含めた方針文書の要熟読が必要なのではなかろうかと感じる次第でございます。--裏言霊伝道師(会話/履歴/手紙) 2007年7月29日 (日) 13:22 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。記事中のノートではWikipedia:議論が白熱しても冷静にを読んでから、感情的になってしまったことを謝罪して議論相手に落としどころを提案する等したのですが、Wikipedia:善意にとるは読んでいませんでした。これから熟読させていただきます。ただ、一言申し上げておきますと、自分を投稿ブロック規制しようとしている人間の行動を「善意にとる」ことは困難なことかもしれません。--らっと 2007年7月29日 (日) 15:37 (UTC)[返信]

いまさらですがコメント[編集]

こんにちは。コメントを。

まずは、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないを、熟読してみるのがよいかなと思います。

ウィキペディアというのは、素人がよってたかって作る百科事典だと思っています。書いているのは素人で(たとえ専門家であっても専門家扱いしないということになっています)、もちろん、書いている内容とか、利用者ページの記述から専門家か、ずぶの素人か、というような判断ができることもありますが、書く側としては、素人として書かないといけないし、素人として書くことが求められています。どういうことかというと、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないなどの方針で示されているのは、どこか、できるだけ信頼できる資料に書いてあることを書け、ということです。極論してしまうなら、編集者の判断や知識は、信じられない、ということ。そして、出典は、記事の本文で、どの記述がどの情報源から得られたか、逐一挙げるようにしてください。それらによって、素人が書いていても、その内容についての信頼性を担保するという仕組になっています。客観的か主観的かではなく、どこかに書いてあるかどうか、が、ウィキペディアでは重要なのです。関係する人なら誰でも知ってると思うことを書く時に、(実はかなり面倒くさい)一手間をかけて、情報源を探すというのが、ブログや自分のHPではなく、ウィキペディアに書く際に求められること、じゃないかなあ、と。

「おまけ」のところに書いていらっしゃることが、結局のところ、ウィキペディアの意義から、乖離していることになっているように思います。「この政党は支持率はあまり高くない」というようなことが「主観」であり、そういう「評価」を許し、書いた人に敬意を払ってより「発展させる」風に、より「良い記述」に持っていく、というのは、あまり好ましいことではありません。この政党の支持率が高くないと言うことについて、信頼できる情報源を加え、主観や評価ではない記述に変えることが望まれます。また、主観や評価を書くことは、情報を探して記述する手間を惜しみ、記事の信頼性をなくすことだと捉えるなら、敬意を払う必要はないでしょう。みんなで作る、という時の「みんな」というのは、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないなどの方針を理解し、それを満たした記述ができる人、に限られる、ということになります。

そのへんを、Huskysさんは、かなり厳しく運用したいと考えていらっしゃるようで、それは、ウィキペディアのなかで、間違いではないと思います。他方、そこまで厳しくすると、多くの記事や執筆者が損なわれてしまうことを、ぼくは懸念しますから、もう少しゆるゆると、検証可能性の重要性なんかが広まっていけばいいかなと、楽観と諦念を相半ばして抱いています。このへんは、日本語版ウィキペディアにおいて、現実的にどうするのがいいか、というところで、人によって違ってくるものだと思います。

学校群制度であれば、教育関係の論文や、文部省/文科省関係の報告書など、信頼できる情報源が数多く存在すると思います。「千種高校がレベルが上がった」という記述は、新聞などでも報道されているでしょう。他方、個人的には、千種高校がレベルが上がったかどうかと言うのは、百科事典の記述として、それほど重要ではないとも思います。制度自体の発案はどのようなところから来ているのか、日本ではどのような経緯で、いつ導入され、いつ廃止されたか、海外ではどうなっているのか、といったことが、残念ながら当該項目には書かれていません。もし、学校群制度について関心があり、百科事典を作るというウィキペディアの目的に賛同して頂けるなら、そういったことも調べて、執筆して頂ければと思います。もちろん、ウィキペディアは、たくさんのひとが参加するプロジェクトですから、らっとさんがしなくても、もっと詳しい人が書けばいいと考えるかもしれませんが、もっと詳しくて、ウィキペディアに参加している人がいないから書かれていないのです。--Ks aka 98 2007年7月29日 (日) 11:38 (UTC)/修正--Ks aka 98 2007年7月29日 (日) 12:13 (UTC)[返信]

コメントありがとうございます。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないは何回も読みました。少々誤解されていると思うところを。私は、『できる情報源を加え、主観や評価ではない記述に変えること』を「発展させ、よりよい記事に変えていく」と表現したわけで、別に「主観的なものは別に主観的なままでかまわない」と言っているのではありません。そのところは、誤解させてしまうような表現だったわけで、大変申し訳ありません。「削除するのではなく、ノートで出典の提示をもとめたり、提言したりせよ」というのが私の主張なわけで。「支持率」等は新聞記事等でいくらでも検証可能であると思います。少なくても、私は、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないなどは何度も読んだし、自分なりに理解しているつもりです。個人的には千種高校のレベルがあがったことは学校群を記述する上で欠かせないことだと思っているのですが、その辺の意見の相違は「ノートで相談するべきこと」と私は思うわけです。学校群制度については手持ちの資料が少々ありますから、ご指摘の件を書いても良いのですが、私はもうすぐ編集ができなくなる身ですので、その点は残念です。--らっと 2007年7月29日 (日) 15:20 (UTC)[返信]

んーと、そこで、出典の提示を求めたりする人もいるだろうし、除去する人もいるだろうし、それは、どっちでもいいと思うんです。

前者のほうが、執筆者に優しいというか、執筆者間で問題を起こしにくい、閲覧者にとって情報自体の量は多いけど不確かな記述が残る。後者のほうは、執筆者が気分を害する可能性もありますが、閲覧者に対して不確かな情報は提供しないし、ウィキペディアへの信頼性を高めることに繋がります。それを、どっちにするかというのは、利用者それぞれが考えて、よいと思うことをするしかない。

調整役を担おうという人は、いちいち方針を説明したり代わりに調べたり資料を提示したりする覚悟をした上で前者を選んだり、執筆者が気分を害したり論争になったりつきまとわれたりすることを覚悟したうえで後者を選んだりしてほしい、と思います。

ただ、方針上は、後者、つまりいきなり編集除去することが認められていて、方針に合致していないからと言って即座に編集除去しなければいけないというわけではないとはいえ、編集除去することもできる。除去された時に、除去するなとは言えない、のです。書き手としては、いずれにしても、出典を示していくことで説得する、ということになると思うのですね。

「主観的なものは別に主観的なままでかまわない」とおっしゃっているとは思っていません。しかし、主観的なものを客観的な表現に改める、では十分ではなく、出典を示さないといけない。出典のない記述をバッサリやることはwikipedia:検証可能性の冒頭でも認められているのです。

個人的には千種高校のレベルがあがったことは学校群を記述する上で欠かせないことだと思っているのですが、その辺の意見の相違は「ノートで相談するべきこと」と私は思うわけです。

とお書きですが、「個人的に」どう思っているかはどうでもよくて、またノートで議論して結論が得られることでもなくて、それを書きたいなら「学校群制度の導入によって千種高校のレベルが上がった。このことは学校群制度上、重要である」と書いてある、信頼できる情報源を探してこい、というのが、wikipedia:検証可能性の基本的な姿勢です。

「主観的だと思うのなら客観的な記述に変えろ。ばっさり消すのならノートに書いて執筆者の同意を取れ」というご意見は、これらの方針には合致していない、ということは、ご理解頂けますでしょうか。Huskysさんとの間での論点を、そこに置いておくなら、議論が続けば続くほど、方針の無理解と編集の強行、と受け取られるようになってしまうと思うのです。--Ks aka 98 2007年7月29日 (日) 16:49 (UTC)[返信]

ちょっとここは(見解の相違という点において)重要だと思うので、詳しく書きます。気分を害されたら申し訳ありません。しかし、私は気分を害するためにやっていたり、嫌がらせ等のためにやっているのではないことをご理解下さい。
まず、
出典のない記述をバッサリやることはwikipedia:検証可能性の冒頭でも認められているのです。
とはいかなる理由でしょうか。wikipedia:検証可能性の内容を熟読してみましたが、そんな記述は残念ながら見つかりませんでした。逆の主張をしているものなら見つかりましたが。Wikipedia:中立的な観点より

偏った意見を削除して良いか

中立性の観点のポリシーは、偏った見方から書かれた文章を削除する理由として持ち出されます。これは問題ではないでしょうか?

多くの場合、問題です。われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。

時折、特にほんの少数の人しか知らないトピックについて、ある主張が真実なのか、あるいは有用な情報なのか、を判断するのが難しい場合があります。このような場合、ノートのページで疑問を提起するといいでしょう。もし偏った記述を投稿した人が今後その記述を変更することがないだろうと考えられるのであれば、その記述を本文からは消してノートのページにコピーするという方法をとってきました。(ですが、完全に削除するという方法はとりません。)しかし、この方法は、多かれ少なかれ最後の手段として用いられるべきであって、決して、偏った記述をした人への罰のように行われるべきではありません。

これは正確に言えば「検証可能性」ではなく「中立的な観点」の項目なので一緒にできない、という反論があるかもしれませんが、それはWikipedia:検証可能性にも、
検証可能性は、ウィキペディアの記事における三つの方針のうちの一つです。あとの二つは、Wikipedia:中立的な観点と、Wikipedia:独自研究は載せないです。ウィキペディアではこれらの方針を併せて標準名前空間、つまり記事に書くことができる情報の種類と質を決定しています。これら三つの方針は相互に補完しあうものであり、それらをばらばらに切り離して解釈すべきではありません。編集者はこれら三つの方針を併せて理解するよう努めてください。この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。
と書いてあります。付け加えれば、wikipedia:議論が白熱しても冷静ににも、
記事が偏っていると思ったら

偏っていると感じる記事を書き直すときによくやってしまう間違いの一つは、具体的な根拠なしに「誰々がこうだと言っている」「この記述は偏っている」といった理由とともに書き直してしまうことです。こういった方法はウィキペディアがそれらに暗黙の同意を示していると思わせる、不誠実な手段です。元々の著者はそれに反発し、あなたが書き直した記述をまた書き直してしまうでしょう。これでは編集合戦になってしまいます。こういうときには、次のような手段をとりましょう。

  1. ノートで、その記事の偏っていると思う点を具体的に、根拠を添えて指摘し、代案を示す。
  2. 最低でも数日待ってみて、返事がない場合は代案で置き換える。
  3. 返事が来た場合には、あなたの提案した内容について同意を取り付けるよう議論してみる。
  4. 議論がうまく進まないときは、論争の解決にあるようにやってみる。

こうして対話に基づく編集を行えば、編集合戦というのは起こりにくいものです。しばらくは記事があなたにとって望ましくない状態になったままという欠点もありますが、編集合戦のあげくに記事が保護されるなどというのは、ウィキペディアにとって望ましいことではありません。

と書いてあります。というわけで、私はwikipediaの公式見解が「ノートで合意を取れ」と言っているのだと解釈しています。この考えのどこが「方針の無理解」と思われるのかご指摘ください。あと、私は「編集の強行」はしてないつもりですが。少なくても私が記述したもので「主観だ」という理由で削除されたのなら、出典をさがします。
それと、
「学校群制度の導入によって千種高校のレベルが上がった。このことは学校群制度上、重要である」と書いてある、信頼できる情報源を探してこい、というのが、wikipedia:検証可能性の基本的な姿勢です。
これはwikipedia:検証可能性の記述のどこを探しても、そのようなことを言っている、または解釈できる記述が見つからないのですが。どのような記述からこのような考えを導き出したのかお教え下さい。すくなくても私には「検証可能でないものは載せてはいけない=検証可能なものは載せてよい」と言っているとしか思えないのですが。--らっと 2007年7月30日 (月) 06:49 (UTC)[返信]
(1点だけコメント)「出典のない記述をバッサリやることはwikipedia:検証可能性の冒頭でも認められているのです。とはいかなる理由でしょうか。wikipedia:検証可能性の内容を熟読してみましたが、そんな記述は残念ながら見つかりませんでした」とありますが、wikipedia:検証可能性冒頭に「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」と明記されており、従って、バッサリだろうかチマチマだろうが誰でも除去できることをまずご確認ください。--DEN助 2007年7月30日 (月) 07:20 (UTC)[返信]
念のため、当該記述をこの下にコピー&ペーストしておきます。もしかしたらブラウザや環境によっては正しく読めない可能性もあるので、その場合はご指摘ください。--DEN助 2007年7月30日 (月) 07:26 (UTC)[返信]

(転記始め)

  1. 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
  3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。

(転記終わり)

本当ですね。網掛けのところを見逃していました。大変申し訳ありませんでした。Ks aka 98様、適当なことを言ってすみません。訂正して深くお詫び申し上げます。DEN助様、ご指摘ありがとうございました。--らっと 2007年7月30日 (月) 07:40 (UTC)[返信]

どもども。別に気分は害しないので、適当に言ってもらってよいのですが、それを踏まえて、ぼくが書いたのとか読み返してみて、どうですか? 要は、どこが、ブロックすると言ってる人と、何でブロックされるかわからないと言ってる人の、すれちがいの元になっているか、というのは、ブロックされるにしてもされないにしても、ご理解頂きたいと思うのです。--Ks aka 98 2007年7月30日 (月) 18:42 (UTC)[返信]

その点におきましては申しわけありませんでした。深くお詫び申し上げます。しかし、本来のすれ違いの元はノートにおいて「信頼できる情報源が公表している内容」と合意が得られた事象を一方的に「思い入れからくる、根拠の薄い賛美表現」と仰られたことに一因があるわけで、その点においては「ブロックする」と言っている方にもすれ違いの元があったと思います。前回のブロック投稿のとき、私の意見が全く聞かれずに議論が終了してしまったことは私にとっても遺憾でした。ブロックされるにしても、私の意見を最後まで主張したかったという思いがあります。その主張の方法が粗暴で、配慮に欠けるやり方だったのは、まずかったと思っています。大変申し訳ありませんでした。--らっと 2007年7月31日 (火) 06:18 (UTC)[返信]
>前回のブロック投稿のとき、私の意見が全く聞かれずに議論が終了してしまったことは私にとっても遺憾でした。
あの、どこがでしょうか?前回の、Wikipedia:投稿ブロック依頼/らっとでも、このノートと同じことを散々述べられていますので、「自分の主張がまったく言えていない、聞かれていない」というのは、現状誤認も甚だしいかと・・・。言えていない、まったく聞かれずに議論が終了(というか、全体の自然フェードアウトですが)したのではなくて、あるとすれば、あなたが延々と自論を述べた所で、それを周囲が聞いて返しても、周囲が求めていること、問うていることといつまでも噛み合わないので、あなたにすれば当然「聞き入れられていない」という認識かとは思います。挙句、「どうして自分にそう言うのか、決めつけるのか教えてほしい」と始まります。それでは、今後も、自分が何を言われているのか、何を噛み合わせて話さねばならないのかを理解するのは、非常に難しいのかなぁと思わざるを得ないと思います。これは私に限らず皆さんも。
そして、
>しかし、本来のすれ違いの元はノートにおいて「信頼できる情報源が公表している内容」と合意が得ら>れた事象を一方的に「思い入れからくる、根拠の薄い賛美表現」と仰られたことに一因があるわけで、
あなたの原点かつ本質は、すべてその理屈に尽きますよね。やはり最後まで「あくまで原因は、信頼できる情報源が公開された事象なのに、それを主観的賛美的といって除去することが悪い」というそれ。そもそも、情報源が信頼できるかということの他に、たとえ事実や信頼できるソースがあろうとも、それを利用して主観や恣意的な記述とみられる物は、当然に問題視なり除去の対象にもなりうる、ということは昨年から説明されているのですが、悪いですが、何も理解が進んでいません。申し訳ないですが、口先で、真っ当に指摘をしてくるユーザーに「あなたの言う通りですね」と言いつつ、二言目に出てくるのは、その、反永久的な考えがこびりついている限りは、今後も、また今回のように勃発しては延々それを繰り返すと思いますが?もっとも根本かつ重大な認識のずれがいまだ何も変わっていないことを、どうしてそう開陳してしまうのかと・・・。--Huskys 2007年7月31日 (火) 10:48 (UTC)[返信]


「信頼できるソースがある事実」は主観になりうるか[編集]

Huskys氏の記述を引用します。


たとえ事実や信頼できるソースがあろうとも、それを利用して主観や恣意的な記述とみられる物は、当然に問題視なり除去の対象にもなりうる、ということは昨年から説明されているのですが、悪いですが、何も理解が進んでいません。


ここがキモだと思うのですが、まず、「信頼できるソースがある事実」を「主観的」「恣意的」に書くことはできるのでしょうか。また、この記述は、Wikipedia:基本方針とガイドライン等を探しても見つからないのですが、どこにかいてあるのでしょうか。 (一応言っておくと、Wikipedia:独自研究は載せないの「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」は違います。別に情報を組み合わせ手などいません。)--らっと 2007年7月31日 (火) 12:28 (UTC)[返信]

私が、もう再三言ってるそのことを、まるで初めて提起して言ったように受け取っているようなのも驚きますし、そして、まだ何ら変わらずそこで止まっていることに強い違和感を覚えるのですが、なかなか理解されないようですね。私は、ここでケースバイケースがあるでしょうが、あなた(とRamdo氏)が前回も言っていた、「最難関」の記述も然りなんですが、事実やソースもなく、憶測や主観を述べるなどは論外ですが、それ以外にも、いくら「事実」としてデータベースとなる資料があろうと、それがあるから、そこに「持っていきたい方向、意図」を含んで記述できる根拠にはならないと言っているのです。事実やデータと言えるものをもとに、「だからこうだ、ああだ」と主観的分析や方向付け、恣意的評論記述と受け取れる、またはその恐れがある編集は問題視される可能性もあれば、それは独自研究で、事実やデータを「利用」して、「だからこうだ、ああだ」と、そこに明らかな「持っていきたい」主観を介在させているとみられるから除去されることもある、という話です。あなたは、「こういうデータがあるから、主観的ではないないし載せられるはず」と言いますが、「データがあるからなぜ載せられないのか、それを主観的というのか」というのは、学校系の賛美記述をしようとしていると言われても仕方がない人が依拠する、常套の理屈になりがちです。まだ、そこにとどまっているようでは、前回から延々と続く、根っこ・本質での理解が全然変わっていないと露呈させているようなものです。それで、他の人とのやり取りで、目先だけ、「はい分かりました、すいません」と言っても、話になりませんよね。各ガイドラインを独自の解釈で持ち出して反論しようとするのも前回同様ですが、繰り返し、それ以前に、議論が進んでいる訳ではなく堂々巡りに陥っているという自覚がない様子に、何より困惑します。--Huskys 2007年7月31日 (火) 12:39 (UTC)[返信]
・・競合してしまいました。度々、失礼致しますがらっとさんはWikipedia:信頼できる情報源Wikipedia:完璧な記事などへは目を通して頂けておられますでしょうか?--裏言霊伝道師(会話/履歴/手紙) 2007年7月31日 (火) 12:52 (UTC)[返信]
一応、読みました。ええと、それで、申し訳ないのですが、どういうことなのでしょうか?--らっと 2007年7月31日 (火) 13:04 (UTC)[返信]
であれば、Wikipediaでは「完全に中立」であることや「本当に「明確に」書かく」といったことが望まれているものであることも、ご理解頂けていると解釈致します。その上で、『「信頼できるソースがある事実」を「主観的」「恣意的」に書くことはできるのでしょうか』といったご質問は、らっとさんご自身でご判断頂けるものであり、こういったご質問自体が本件依頼提出者への当て付けであると受け取らざるを得ません。ご質問内容の詳細については他の方々からご指導を受けておられるようですので、私の方からはこれ以上は控えさせて頂きます。尚、下記インデントの調整を行いました。--裏言霊伝道師(会話/履歴/手紙) 2007年7月31日 (火) 14:05 (UTC)[返信]
ええと、残念ながら当てつけといえば当てつけですね。申し訳ありません。下にも書きましたが、Huskys氏の言っていることは「俺様ルール」にしか思えません。「俺様ルール」に対するあてつけです。少なくても問題の記述は、「完全に中立」かと言われれば、「限りなく中立に近い」と言えるし、不明確な点も見つかりません。--らっと 2007年7月31日 (火) 14:54 (UTC)[返信]

(競合しましたがそのまま投下)出典があれば「最難関」に関する記述はあっても良いんじゃないですかねぇ。(参考→東京大学の入学試験#概略)それに倣って、例えば“A誌(信頼できる情報源)はB校が「合格するのに最難関な高校」と発表している。”といった具合に記述できると思いますよ。(ただし、プロジェクト等でその旨を記述するべきでないという合意が出来上がっていれば、この限りでありません)
問題となっている記事を見てきましたが、主観が混じった(と思われる)記述が多いと感じました。自分の記述を除去されて憤慨するのも分かりますし、摩擦を起こさないためにも、まずは出典を求めるのが良いかと思います。--Winter21 2007年7月31日 (火) 13:13 (UTC)[返信]
出典はあるんですよ。(ノートを参照してください)出典はあるんですが、Huskys氏は「出典があってもダメ」と言っているわけで。だから問題がこじれているんですよ。--らっと 2007年7月31日 (火) 13:31 (UTC)[返信]
出典というのは、ノート:愛知県立旭丘高等学校#「最難関」をめぐる議論の論点整理の部分のことで良いですか?見てきましたが、これらで記述できることは“ボーダーはxxx点である”などに限られ、これで“最難関”と記述するには厳しいと思いますよ。Wikipedia:検証可能性を満たすためには、信頼できる情報源により“最難関”という言葉が載っている出典が必要だと考えていますが、いかがでしょうか。--Winter21 2007年7月31日 (火) 14:28 (UTC)[返信]
ええと、ボーダーは×××点である、というのが分かるのなら、愛知県公立高校は全て同じ問題を解くのですから、一番ボーダーが高い=最難関と言ってよいと思うのですが?「最難関」であることを記述する出典も探せばあるでしょうが。--らっと 2007年7月31日 (火) 14:44 (UTC)[返信]
それと、蛇足ながら、問題になっているのは私の書いた記述ではないですよ。--らっと 2007年7月31日 (火) 14:56 (UTC)[返信]
(戻します。というか議論して意味があるのか疑問ですが)別の方の説明でしたね。失礼をお詫び致します。さて、“一番ボーダーが高い=最難関である”という考え方が独自研究になるんじゃないですかねぇ。その高校がどうやって入学者選抜をしているのか詳しくは知りませんが、面接試験や内申書って全く評価されないんでしょうか。また、それぞれの配点もどうなっているんですか?なんというか、正直「最難関である」と載っている出典を探してきたほうが早いんじゃないかと思うわけですよ。--Winter21 2007年8月2日 (木) 12:35 (UTC)[返信]

あの…すみません…一応、ここでは、「最難関」であるということは前提であって、(それはHuskys氏も認めていますし)「最難関かどうか」を議論する場所ではないのですが…。 一応ググったのを載せておきます。塾のページです。

http://72.14.235.104/search?q=cache:ra-R1f-xHPQJ:www.sanaru-net.com/school/area/aichi/hekinan/tokoname.html+%E6%97%AD%E4%B8%98%E3%80%80%E6%9C%80%E9%9B%A3%E9%96%A2&hl=ja&ct=clnk&cd=14&gl=jp&client=firefox-a

これ以上何か言ってきても、ここはそういう議論をする場ではないので。「出典がある」は前提としてください。--らっと 2007年8月2日 (木) 14:54 (UTC)[返信]

(提示いただいたので一応)信頼できる情報源とみなして良いと思いますよ。(できれば、いつ消えるか分からないホームページよりも、新聞や書籍で取り上げられていたほうがより良いんじゃないですかね。今でも『サクセスロード』ってあるんかな?)
ところで、他の高校の記事を見ていて思ったんですが、当方の最初の書き込みにあるように、プロジェクトとしてそのような記述をすることは大丈夫ですか?そのあたりは確認済ということでいいですよね?--Winter21 2007年8月3日 (金) 12:44 (UTC)[返信]

DEN助さんの話に「分かりました、すいません」などと言い、前回もその場しのぎで目の前の相手には、そのような返答をするものの、見ての通り、氏の根本は時間が経とうが、本人の中では、過去も現在も未来も何ら不平不満、不本意さとして残っているものは変わっておらず、いくら周囲を「議論とは似て非なるもの」に巻き込んでは、教えてほしい、納得したい、知りたいといいやり取りを終えても、また「なぜ自分が主観的記述をしようとしていると言われないといけないのか、やはり原因は主観的賛美意図があるといって除去する側にある」に戻る。永遠に「議論」にもならない、論点が一向に進まないことは明白。このループ自体が「コミュニティの疲弊」だと指摘されているということにも、このやり取りを見ても、今後も気づくのは無理でしょう。あまり俗っぽい言い方はしたくありませんし、こちらも、話が進んでいったり異種なものが出たりするならいざ知らず、言わされることも言うことも、結局いろいろ話しているかに見えて、結局根本に戻る以上、再三ながら、このユーザーと、コミュニティ全体のやりとりには明確な限界を感じます。あと、上の最難関云々の話(それも、またそこに戻るのかと思うとうんざりですが・・・)は、ノート:愛知県立旭丘高等学校の最上部に納まっている過去ログと、前回依頼ページであるWikipedia:投稿ブロック依頼/らっとをじっくりご覧下さい。少なくとも、「自分の記述したものを消されるから面白くない」などという次元を持ち出すなら、過去の喧々たる議論のようなものは意味もなさなくなりますし、申し訳ないですが、らっと氏の「永遠の堂々巡り」を助長することにもなると思いますが。--Huskys 2007年7月31日 (火) 13:19 (UTC)[返信]

ごたくはいいから、さっさとソースを出してください。あなたはさんざん私に「お前wikipediaを分かってないよ」っておっしゃったんだから、当然あるはずですよね?「たとえ事実や信頼できるソースがあろうとも、それを利用して主観や恣意的な記述とみられる物は、当然に問題視なり除去の対象にもなりうる」を根拠づけるソースが。Wikipedia:基本方針とガイドラインの中に。--らっと 2007年7月31日 (火) 13:35 (UTC)[返信]
また始まりましたね…。何度堂々巡りをしているのか。あなたは、あれこれ既定方針を持ち出しては、独自の解釈をして、いくら周囲に吹っかけて説明をさせて、議論のようなものを繰り返しても、その発想を今後も変える気がさらさらないのに、私を含めて延々それに「自分に分かるように説明をしろ」と繰り返す。話になりません。あと、これも繰り返し私に言いますが、「自分の方がウィキペディアを分かっている」などというおごりはありません。ただ、あなたの、どこまでいっても独自の解釈と理屈世界の中で翻弄されるつもりはありませんし、それを指摘すれば、「ごたくは良いから、さっさとソース出せ」の繰り返しにもうんざりです。いいですか、この議論は私は、あなたの問題について提起しきっかけを作ってはいますが、私だけが相手ではありません。それを、あくまで私憎しとばかりに向かってこなくて結構。他の人に問われる個別の問題に、どうぞ自説を延々繰り返して下さいな。私は、昨年の依頼ページと、依頼までのノート:愛知県立旭丘高等学校の最上部にある過去ログや、図らずも今回も全く同じ顛末になり、ここでも繰り返し述べています。何度も言いますが、この段階で、相手の言っていることが分からず、この期に及んでもまだ「自分の何が悪いのか、主観的記述をする意図なんかない」「元々の原因は、自分に言いがかりをつけ除去したあんたが悪い」と言うようなら、今後いくら説明を尽くしても、永遠にあなた自身の理解や変化は得られないという認識です。--Huskys 2007年7月31日 (火) 14:06 (UTC)[返信]

ソースが提示できない、と解釈いたします。Huskys氏はWikipedia:基本方針とガイドラインの中に書いていないことを「これがwikipediaのルールだ」といって掲げている。しかし、wikipediaのルールを説明したどのページを読んでも載っていないものだからこれは「俺様ルール」と呼ぶべき物であり、当然百年経とうが書いていないルールを学ぶことはできないし、「俺様ルールに違反したのだから投稿を禁止する」などとふっかけるのは極めて自己中心的な態度だと思われる。--らっと 2007年7月31日 (火) 14:35 (UTC)

以前も問いましたが、あなたにとって、昨年の依頼にたる顛末と、当該ノート過去ログの議論は、あなたの思考回路にとって、何の進展も成長も促さなかったということですよね。今回、まったく同じ所か、もっと退化していると言ってもよい、その思考や発言には、唖然とします。こうして、何かあるとすぐに、自己の直前の発言や見せた認識など、どこかに吹っ飛んでいってしまい、まったく妙な方向にしてしまうあたりに、主観的記述がどうこう、なんていう具体的議論をする以前の、精神的なものを感じずにはいられません。
そもそも、この節のタイトルに氏の理解のズレが現れていると思いますが、この節でも再三返している通り、「信頼できるソースがある事実」が「主観的」だというのではなく、いくら、「信頼できるソースがある事実」でも、それを持ち出して、ある意図(例として、だからすごい、勢いがある他、個々の感覚的な物を反映させることや、賛美的な思いなど)を持って記述していると見られるものは問題だ、と言っているのですが、氏はあくまで、「なぜ、信頼できるソースを出しているのに、それが主観的になるのか」という、まさに似て非なる解釈しかしないので、永遠に話は噛み合うわけがありません。これは一例ですが、以前さんざん議論した「最難関」の記述にしろ、「いくら(載せたい人間が言うところの)信頼できるソースがあろうと、「最難関」と盛り込むことがどうなのか、という提起をしているのに、「それを裏付けるデータがあるんだから載せて良いだろ」という理屈から脱していないということです。それについても、当時も私以外の人も含めたやり取りで、ある程度までは納得したようなことを言っても、また逆戻りでこの有様です。この辺が、他者の話を根本で理解する能力の欠如、と他の方にも言われることであり、前回からそうですが、一つ一つにこの調子で、いろいろ巡っても、結局最後には「でも、自分の記述を主観的と言って問題視する相手が悪い」に戻るので、今後も誰と話をしようと理解は難しそうだと言っているのです。--Huskys 2007年7月31日 (火) 14:43 (UTC)[返信]
「たとえ事実や信頼できるソースがあろうとも、それを利用して主観や恣意的な記述とみられる物は、当然に問題視なり除去の対象にもなりうる」あなたの記述そのままですが。これのソースを出せといってるだけですが。あと、何でそんなに必死なの?私の言うことが誰の目にも間違いだと思うのなら、放っておけばいいじゃないですか。圧倒的に追い詰められてるのは私の方なんだから。--らっと 2007年7月31日 (火) 15:54 (UTC)[返信]
自分で、「圧倒的に追い詰められている」だの、挙句「なんでこんな自分に必死なの?」だの、世話のないことを平然とのたまう、いわば自分のやっていることは確信犯荒らしだと居直るように自認する相手に、いちいち返すのも馬鹿馬鹿しいですので、以下書くことも、もはや虚しいのですが。
あなたとの対話は、永遠に根本の堂々巡りを強く感じ、あなたの思考は、意図か無意図か、堂々巡りから脱しないことを望んでおられるようだから、昨年来、私(おそらく他の方も)は最大限理解をしてもらえるようアプローチを尽くしてきましたが、後は、これ以降も根気よく向き合ってくれる他の人がいれば、納得のいくまでやって下さい。今までも散々同じことを供給過剰なまでにこちらも書いてきましたが、永遠の堂々巡りに付きあえるほど、私も全能ではないので。
「俺様ルールを振りかざしている」から、挙句「俺様ルールに違反したから投稿を禁止する」との発言まで、私が、俺様ルールを振りかざして私一人との問題であるならば、依頼ページで多くの人が参加して意見を表明したり、いろいろコメントや、あなたとのやり取りをしたりしてくれますか?あなたがそうして見境なく言うように、そんな無法にウィキペディアはできていませんのでご心配なく。あなたは、私のことを「問題を提起したきっかけ人物」ではなく、挙句ブロックの決定まで、私とのマンツーマンの上で起こると思っているようですが、あなたが心配せずともコミュニティがあり、私はあなたが、多様な人で構成されるそのコミュニティからも外れる問題を持っていると考えて依頼を出したまでであり、後の判断は私一人でできるわけがありません。したがって、あなたが、依頼を出したり向き合っているうちの一人の私に「投稿を禁止された」と思うのは結構ですが、空想は頭の中だけにしてもらって、どうかそれをコミュニティに垂れ流して多くを巻き込まないように。このノートの冒頭の、あなたの「僕が納得できるまで絶対にブロックなど認めない」という趣旨の表明に、すべてが現れているように思いますし、これまでのループ現状から、あなたのいう「納得」は、おそらく半永久的に訪れないであろうことを、繰り返し述べておきます。今後、「圧倒的に追い詰められて、おかしいと思われている自分になんで必死なの?」などと平然という人間に、曲がりなりにも真剣に向き合うのは、それこそコミュニティにも無益ですので、同様の対話は遠慮します。--Huskys 2007年7月31日 (火) 16:23 (UTC)[返信]
それだけ長文を書くことはできても、ソースを提示することはできないんですね。--らっと 2007年7月31日 (火) 16:30 (UTC)[返信]

下の私の提案は無視ですかそうですか。--DEN助 2007年8月3日 (金) 00:59 (UTC)[返信]

私あてのコメントと判断します。被告人に弁護人もつかないのに自分の発言すら禁止するというのは、これは事実上の魔女裁判であり、まともな人なら賛成しないと思います。無意味な言い合いを止めるには、依頼者の発言さえ止めればすむことですから。このタイミングでDEN助氏がそんなことを言い出したのは、ソースが出せないで困っているHuskys氏に助け船を出しているとしか思えないんですが。ソースが出せなくて必死に話をそらしている状況を、「無意味な言い合いをしている」ということでうやむやにできますからね。なお、Huskys氏はこれにレスをつけないで下さい。自分の言う事に絶対の自信があるのなら、黙っていなさい。あなたの言うことが絶対に正しいのなら、あなたがレスをつけなくても必ず他の人が同じ内容のことをレスします。--らっと 2007年8月3日 (金) 05:41 (UTC)[返信]

議論(というより言い合い)終了提案[編集]

はっきり言います。もはや議論とは到底言えない言い合いが幅を利かす当ノートを、投稿ブロックについての結論が出る出ないにかかわらず終了すべきと思いますが、いかがでしょうか? なお、第3者からの判断を仰ぎたいので依頼者(Huskysさん)、被依頼者(らっとさん)の当項目への記載は禁止させていただきます。いちばいい言いたいのはいい加減にせいってことだな、特に被依頼者。--DEN助 2007年8月1日 (水) 07:26 (UTC)[返信]

被依頼者は、投稿ブロックの対象可能性に認定されるような編集を長期に渡って繰り返してきた。依頼者は、人の忠告を事あるごとに、文頭に「おっしゃる通り」という言葉をつけて返信の長文を書き残すわけだが、基本的に忠告されている内容については自分の正当化が先にきてなかなか改善がみられない。こういうユーザー同士のやり合いでは当然こういう見苦しい状態になるでしょう。いい加減にしろと言いたい。--210.139.199.93 2007年8月1日 (水) 10:35 (UTC)[返信]
同意です。ブロック賛成が圧倒的多数ですのでもはや議論の余地はないですね。--Tuso 2007年8月3日 (金) 05:07 (UTC)[返信]


まとめ [編集]

読む人の負担になっているというのはその通りだと思うので、私の主張の一部をまとめておきます。なお、無意味な言い合いは避けたいので、Huskysさんはこの項目に投稿する事を禁止します。

Huskys氏は

事実や信頼できるソースがあろうとも、それを利用して主観や恣意的な記述とみられる物は、当然に問題視なり除去の対象にもなりうる


と主張し、それに従わない者を「wikipediaの不理解者」と決めつけ、私に「理解するまで投稿を禁止」させようとしている。しかし、Huskys氏の言っていることは、Wikipedia:基本方針とガイドラインの中に書いていない(すくなくともHuskys氏は根拠をあげる事ができなかった)ものであり、これは「俺様ルール」と呼ぶべき物であろう。「俺様ルール」は当然どこにも書いていないのだから私にはいくらWikipedia:基本方針とガイドラインを熟読しても学ぶことなどできるはずがないし、「俺様ルールを理解しないのだから投稿を禁止する」などとふっかけるのは極めて自己中心的な態度だと思われる。--らっと 2007年8月3日 (金) 06:45 (UTC)[返信]

  • (コメント)被依頼者もまとめを発表されたので、依頼者、被依頼者両名は、これ以降の当投稿ブロック欄(ノートを含む)への投稿は一切自粛くださるよう、お願いしたいと思います。--DEN助 2007年8月3日 (金) 07:27 (UTC)[返信]