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Wikipedia‐ノート:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030

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コメントするタイミングを逸してしまったので、ノートに残しておきます。

この種の記事、つまり、査読つきの学術論文が扱うような項目ではないような場合に、「査読に相当するような書籍」というものは、通常は存在しません。というか、かなりの信頼性があるものでも、権威があって信頼できる査読つきの学術論文と同等というべきではないし、実際には、権威があって信頼できる査読つきの学術論文誌でフォローできる項目が、百科事典全体の中でどれだけあるのか、という話にもなったりします。

一方では、事情をよく知るのは、本人や、本人に近い立場にある人なわけですから、第三者的な立場から、既に検証可能な、流通している情報のみで書くことよりも、当事者による記述のほうが、事実に近い事柄が書かれることも多いですし、それが一次資料となる。評伝だと、報道などから再構成したものよりも、著者自らが本人や周辺への取材を行ったもののほうが評価が高いことが多いです。

最近の人物で、ゴシップなど、信頼できない情報が広まりやすい立場ではない人物記事であれば、たとえば、信頼できるとされている出版社から出ている、特に感情的であったり、悪意があったりするような本でなければ、ひとまずは「ある程度信頼できる情報源の一つ」としてよいのではないかと思います。そうした、ある程度の信頼を積み重ね、中立性に配慮することで、記事そのものの信頼性を得るしかない。

この記事では、たとえば、当時の新聞という、中立的な第三者の、同時代的な報道を利用することで、いくらか信頼性と中立性を向上させることはできるのではないかと思います。また、人物そのものではなく、UNTACや現地のボランティア活動を取り上げた資料のなかで、項目内で扱う事柄などが記述されていることもあると思います。参考とされた情報源に、参考資料が挙げられているなら、それらを確認し、そちらを情報源とすることで、信頼性や中立性を担保できるかもしれません。出典としている書籍が、実際に読んでみて、どういう性質のものかということも、脚注か、ノートか、こういう審議の場で、説明できれば、疑義に応えることにも繋がります。そこでも、可能ならば、書評など、第三者的な、専門家による意見を提示できることが理想となるでしょう。

そういう意味では、この記事は「完全な記事」ではありません。ただし、今書いたような作業は、相当の労力を必要としますし、それに比して得られる情報は僅かであることも多いです。「良質な記事」の水準に、それを求めるかどうか、同様に「秀逸」ならどうか、という基準を探り、ある程度共通の認識となっていくことが必要なのだと思います。

また、記事によっては、最善の情報源を集めても、査読つきの学術論文に相当するようなものは得られないことも多いです。中立的に両論併記をしようとしても、「ボランティアから非難を受けた側(UNTAC)の観点による出典や、第三者が中立的な視点から事件とその影響を客観的に分析した研究・評論」がないのかもしれません。そういう場合は、「良質な記事」に選ばれるのは不可能なのか。実際には、不可能とするべき場合と、許容すべき場合があると思いますけれど、そうしたところも、少しずつ蓄えていく必要があるでしょう。

選考は、批評や粗探しではないし、執筆者らに、そのように受け取られないように十分配慮しないと、良質な記事というシステムを作った目的に損なわれます。事情を知らなかったり、わからなかったりするという立場からは、「コメント」に留めるのが望ましく、「反対票」は極力さけるのが望ましいと思います。選考に参加される上では、Wikipedia:エチケットをいつも以上に意識してほしいと思いますし、「良質な記事」を定着させていこうとする利用者が「自薦」で審議に望む場合は、できるだけ冷静に、相手の意図を汲みながら、説明を試みていただければ、今後の糧となるかと思います。--Ks aka 98 2009年11月6日 (金) 17:47 (UTC)[返信]

私としては実のところこの記事に賛成票を投じるのに結構悩みました。良質な記事の制度が始まって、私が主執筆者である記事の中で良質な記事に推薦できそうなものをピックアップしていく中で、宮間英次郎の記事が自分の中で候補に挙がり、私としては人物の著名性と著名性が高くない人物の記事で信頼性と中立性を保つ困難さから宮間英次郎の記事が良質な記事にふさわしいかどうか考えるところがあり、そのような中での推薦だったからです。
宮間英次郎の記事は私なりに信頼性のある文献を蒐集し、何とか写真を載せることも出来て、現状としては最善に近い記事が出来たと自負しております。しかしそこで迷ったのは「果たして現在の宮間英次郎の著名度程度で、良質な記事に推薦して良いものだろうか?」ということです。スイスアール・ブリュット・コレクションのホームページでは、作家個人ページで人物と作品が紹介されている人物なので特筆性の問題はないでしょうが、世の中に広く知られているわけでもなく、著名な賞を取ったわけでもない。まあ、アウトサイダー・アートの作家ですからそれが当然といえば当然なのですが…
もう一つ感じたのが、宮間英次郎のように著名性が低い人物の記事を書くと、参考文献がどうしても著名性の低い人物にあえて興味関心を持っている人たちが書いた文献ばかりとなるので、気をつけないと礼賛一色になってしまいがちなことです。これは参考文献の著者が親族であるなしにかかわらず、著名性が比較的低い人物についての記事を作っていく場合、つきまとい続ける問題と思います。中田厚仁は著名性が高い人物ではなく、私としても賛成票を投じる際に参考文献の内容が気になってしまったのは事実です。ですからStella marisさんやmiyaさんのおっしゃられていることにも一理あると感じます。
私としては色々と考えた結果、人物の著名性のあるなしと記事の優秀さをリンクさせるのはやはりおかしいと判断しました。著名性の低い人物や事項でも良質な記事や秀逸な記事となる道は閉ざされるべきではなく、今後著名性のある人物の記事は重要度が高い記事、低い人物については重要度が低い記事というように、記事の重要度という指標を使っていけば良いのだと思います。また中田厚仁の記事内容から良質な記事レベルならば信頼性と中立性に大きな問題はないと判断し、賛成票を投じました。
あとKs aka 98さんが書かれているように、「なぜコメントではなくいきなり反対票なのよ」と感じました。指摘の内容自体は建設的な方向に進む可能性があった話であったのにもかかわらず、あのような状況でいきなり反対票ではあら探しと取られても仕方がないと思います。まずコメントを行い、コメントの結果納得がいかなければ反対票にすれば良かったのでは?また自薦をされた廉さんももう少しじっくりと、冷静に説明等に取り組まれたほうが良いと感じました。--のりまき 2009年11月7日 (土) 09:57 (UTC)[返信]
まず、具体性に欠ける反対票に対して「これはひどい」と憤慨したのは事実ですし、今回の意見対立について第三者であるKs aka 98さんとのりまきさんから冷静さを欠いているきらいがあると指摘されていることはしっかりと受け止めます。
私の主張は一貫していて、「問題点は具体的に、根拠を挙げて指摘するべきである」ということです。問題があると思われる箇所を具体的に指定し、Wikipediaのどの方針にどのような形で(どの方針文書のどの箇所に照らして)触れているのかを示していただきたいと思っています。そうでないと指摘された側が指摘した側の考えを正確に把握することができず、反論も記事の改善もままならないからです。Stella marisさんもmiyaさんも、こちらが具体的な指摘をするよう要求しても「信頼できる出典」、「中立性・客観性」という方針文書に載っていると思しきキーワードを挙げるだけで、具体的な文書名および該当箇所を提示されていません。Stella marisさんの「わたしの述べていることが何かご理解頂けるものと考えている」という言葉は、自身の説明不足を相手の理解不足に転嫁しようとする極めて不当なものであるというべきです。miyaさんは「私はStella marisさんが何をおっしゃりたいのかわかる気がします。」と擁護されていますが、我々はエスパーではないのですから、具体的かつ根拠のある説明によって互いの主張を把握するべきです。
この記事が「完全な記事」ではなく、より良い記事にするための手段が存在しうるのは確かだと思います。しかし良質な記事には基準があるのですから、選考においては基準を満たしているかどうかのみを考慮して頂きたいと思います。「中立的な観点からの記述がなされている」かどうかについては解釈や価値判断が絡む問題ですが、そのような解釈・判断はあくまでも方針文書における具体的記述をもとになされるべきであると思います。-- 2009年11月7日 (土) 11:07 (UTC)[返信]
>自身の説明不足を相手の理解不足に転嫁しようとする極めて不当なものであるというべきです。
Ks aka 98さんやのりまきさんが読み取れたものを廉さんは読み取れなかったことを考えれば、廉さん自身が自分の理解不足を相手の説明不足に転嫁しようとしているように見えるんですがね。まあ、WP:GA自体廉さん他数名の方が中心になってやってるもんだ。反対票の除去なり何なり好きにされたらよろしかろう。--Normal 2009年11月8日 (日) 08:07 (UTC)[返信]
一応お答えしておきましょう。その説明で理解できる人がいるということとその説明が十分な根拠に基づくものであるかはまったく別の問題ではないでしょうか。私が自分の投票の根拠を尋ねられたならば説明を尽くします。-- 2009年11月8日 (日) 10:31 (UTC)[返信]
十分な根拠のないものなら納得したり同調したりする人はいなかったのでは?そもそも未だにそんな発言をしている所を見ると、廉さんは方針文章の読み直しすらされてないのでしょうな。まったくこれだから競馬脳は。WP:GAもどうなることやら。--Normal 2009年11月8日 (日) 12:03 (UTC)[返信]
2009年11月8日 (日) 10:31 (UTC)の前段でお答えしたとおりです。-- 2009年11月8日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
「UNTACは安全確保を精一杯やっていた、悪くない」という加筆は可能でしょうか?たとえば「このような追及はあるが、UNTACは当時極めて予算的・人員的に窮乏を極めており、実行されていたレベルの安全確保が精一杯であったとする論もある[1]」のような感じで。可能であれば、しても良いとは思います。私も加筆しようと出典を探してはみたのですが、そのような文献は見つかりませんでした。…そんな遺族の感情を逆撫でするような文献、存在するんでしょうか。--Akaniji 2009年11月8日 (日) 12:54 (UTC)[返信]
今週中、遅くとも来週中には参照した文献をもう一度チェックできそうです。UNTACの立場に立っているかはともかく、UNTAC側の言い分くらいはもしかすると見つかるかもしれません。-- 2009年11月8日 (日) 13:03 (UTC)[返信]
普段私は「良質な記事」や「秀逸な記事」には興味なく、関わってきませんでした(まぁ、人様の書いた文章を採点できるほど、自分は良い記事を書いていないし・・・)。
ただ今回は、存じている御名がいくつか見受けられ、議論の行方を注視していました。
一方で、確かに参考文献に偏りがありましたので、私の得意分野(UNTACやクメールルージュ関連)で、何か文献がないかと探し、できれば加筆をと考えておりました。
しかし、ここに来て、私の興味関心は、完全に亡くなりました。
コメント依頼を出す・出さない・・・とか、ブロック依頼を出す・出さない・出してくれ・・・とか。もはや今議論は、記事の発展に何も寄与しません。--Ashtray 2009年11月16日 (月) 15:52 (UTC)[返信]

Stella marisさんによる、2009年11月13日 (金) 15:14 (UTC)のコメントについて

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Stella marisさんがテンポイントに関し事実に反するコメントをされたことについて、原因の説明と謝罪を要求します。問題のコメントは私の執筆スタイルについてのものであり中田厚仁とも関連付けて発言されたものであること、また今後の選考を進めるにあたり相互の信頼関係にかかわってくるものであることから、説明と謝罪もこの場で行っていただく必要があると考えております。

Stella marisさんはテンポイントにおける「TTG時代」「一世を風靡」「流星の貴公子」という表現を持ち出し、私が「対象との距離が十分でなく、客観的な記述ができていないように思える。」とコメントされました。しかし「TTG時代」と「一世を風靡」は私がアカウントを取得する2005年12月31日より前の2004年6月1日にらりたさんによって作成された初版においてすでに存在していた記述で、私が執筆したものではないことは明白です。「流星の貴公子」についても同様で、2004年12月26日 (日) 05:48(JST)の版で登場しています(ちなみに「流星の貴公子」が事実存在した愛称であることは記事を読めばわかるはずで、これを(誰が記述したにせよ)執筆者による「(劇的)表現」であると述べられること自体失当、ろくに記事に目も通さずにコメントをされているなと思いました)。その記述を誰が書いたかは、履歴を参照すれば容易に確認できることです。Stella marisさんはテンポイントの履歴を確認しないという重大な過失・怠慢に基づき、「TTG時代」「一世を風靡」「流星の貴公子」は私が執筆したものだという明らかに事実に反する決め付けを行い、その決め付けに基づき私の執筆スタイルについて「対象との距離が十分でなく、客観的な記述ができていないように思える。」とさらなる決め付けをされたとしか思えません。それも当該記事とはまったく無関係な場でです。このようなコメントをされたことについて、経緯の説明と謝罪を要求します。明白に事実に反するコメントをされた上、そのことに対する経緯の説明および謝罪をされないということでは、選考の基底にあるべき相互の信頼関係を維持することは非常に困難です。私としては何より先にこの件についてはっきりと結論を出すべきであると考えております。-- 2009年11月15日 (日) 14:06 (UTC)[返信]

(少しだけ弁護)「廉氏の記事の執筆スタイル」としてテンポイントをお出しになったのは、廉さんにいささかお気の毒でした。とはいえ、加筆コンクールにエントリなさった時点、もしくは秀逸に推薦なさる前に、「TTG時代」「一世を風靡」(私個人としては劇的な表現も好きですが、「客観的な記述」かと言われるとちょっとつらいです)このように修正なさらなかったということは、そういう表現を廉さんが容認しておられたと同義ですから、全く的外れとは言い切れない と思います。--miya 2009年11月17日 (火) 01:47 (UTC)[返信]
「容認している」という趣旨であれば、もっともな指摘であると思います。しかしStella marisさんは容認ではなく直接記述を行ったというニュアンスで発言されていると思われますので、明らかな事実誤認があり的外れであることは否めません。私はこの点を問題視しています。私がこのような事実誤認をしたならば素直に非を認めるでしょうが、Stella marisさんがどうされるかはStella marisさんご自身にお任せするつもりです。このような事実誤認に見られるように、miyaさんとStella marisさんの主張は結論は同じでも説得力に大きな違いがあると認識しています。miyaさんは記事改善のための具体的な文献を実際に提示されていますし、主張の根拠を論理的に説明しようとされています。さらに文献を確認するため図書館に足を運ばれるなど相当の労力を費やされており、その姿勢は素晴らしいと感じております。-- 2009年11月17日 (火) 14:48 (UTC)[返信]

返答-わたしは、ウィキペディアから少し距離を置きたいとも最近考えております。仮にウィキブレークに入った場合、この話は宙に浮いてしまいますので、ここで返答を述べておくと共に説明させて頂きます(なお、あいだに割り込ませて頂くレスとなります)。--Stella maris 2009年11月19日 (木) 11:20 (UTC)[返信]

  1. まず、どなたが文言を記したか、そのようなことはこの場合、あまり関係のないことです。というのは、廉様はご存じのはずと思いますが、昨年の加筆コンクールには、わたしも廉様と同じ分野で加筆にエントリーしています。わたしは「ギリシア神話」で、廉様は「テンポイント」でエントリーされた訳です。ところで、「加筆」というのは、単に文章などを書き加えるという意味ではなく、記事全体を改善し、より良質なものに、より豊かで正確なもの、……つまり「百科事典の記事として優れたもの」とする作業を云います。この場合、わたしだと、まず既存の記述全体を精読して、どこをどのように改善するかを考えます。不適切な表現や間違った記述があれば、これを訂正するのが当然の「加筆作業」です。しかも、この加筆コンクールは日本語版でのオフィシャルな行事です。このような公的なコンクールにおいて、誰が書いたかは関係せず、加筆者が、記事を改善した・加筆したということは、不適切な表現は当然に修正されていなければならないのです。廉様が、わたしが指摘したような文言・スタイルをそのまま残したと云うことは、それを良しとした、つまり、修正する必要を認めなかったということを意味します。書いた人は別人でも、百科辞典的な記事へと質や内容を高める加筆コンクールで、そのままに表現を容認したということは、繰り返しのようになりますが、それは廉様の書いたことと結局同じことになります。この場合、加筆コンクールという目的のはっきりした過程を通過しており、それでなお、「一世を風靡」のような表現が残っていると云うことは、それが最善な(または優れて望ましい)表現だと考えたと理解されます。つまり、廉様はそのような「劇的スタイル」が百科辞典的な記述とは相容れないと云う認識がなかったということにもなります。加筆コンクールでは、どれだけバイト数が増えたかではなく、どれだけ記事が内容的に改善されたかを競うとはまさにこういう意味の改善を意味しているのです(なお、Miya 様とわたしの書き方が異なるのは、わたしは加筆コンクールにエントリーしており、加筆とはいかなることか、かなり厳しい捉え方をしているため、違いが出てきているのかも知れません)。以上に返答しておきます。--Stella maris 2009年11月19日 (木) 11:20 (UTC)[返信]
  2. いま一つ、次のようなコメントも、2009年11月13日 (金) 15:14 (UTC) にわたしは記していますので、これについても、説明を行っておきます。
>記事の執筆者は何か根本的な勘違いをなされているとしか思えないのです。記事のなかの
>どの部分がとか、参考文献のどの部分がというようないうような話でもなく、このような
>記事を「良質な記事」に自薦する人の平衡感覚というものに疑問を抱きます
ここで、『このような記事を「良質な記事」に自薦する人の平衡感覚というものに疑問を抱きます』……このような言葉が、あるいは、「個人攻撃」と受け取られているのかも知れないので、長文となり失礼ですが、説明させて頂きます。まず廉様は、「良質な記事の基準」などの指針や、それに基づく一連の活動で、多数の「良質な記事」を選出し、ただちに「再選考」を行い、多数の記事について、「除外」というような票を入れられました。更に記事ハイデルベルクをめぐっての話は、わたしに強い印象を与えていますし、みっち氏の複数の音楽記事を、汲平氏が推薦されたときの状況も仄聞しています。つまり、このような「良質な記事をめぐる選出審議」における廉様の振る舞いや言動が、まず前提にあるということです。私見では、廉様は、きわめて厳しい、ある意味で硬直した基準で、審議を行ったと認識しています。このとき、廉様が自薦する記事というのは、廉様自身の厳しい基準を当然に通解しているものであり、更に、最低限でも、「ウィキペディアにおける記事の原則」は満たしたものでなければならないでしょう。わたしは「参考文献の客観性や中立性等」について疑義を投げかけたのですが、これはウィキペディアにおける基本中の基本です。記事の分野によっては、参考資料がどうしても見つからないものがあり、偏った資料しかない分野もあります。こう云った分野や主題を記事として書くと、これは前提からして「良質な記事にはなりえない」のです。わたしは表のページで記していますが、客観性や中立性を満たすには、様々な資料が必要である。ではこの記事は、そのような資料を備えていたのか。備えていなかったということが、いまは明白になっていると思えます。廉様は、記事を自薦するとき、何故、このようなことを考慮しなかったのか。言葉が再度厳しいかも知れませんが、「他人に厳しく自分には甘い」という言葉があります。平衡感覚とは「バランス感覚」のことです。他の人の記事の審議では、極めて厳しい態度を取った人が、記事の自薦を行うからには、自分の記事に対しても、厳しい態度が当然に必要ではないかということです。しかし、廉様の提示した自薦記事や、わたしの反対票の後の反応を見ますと、廉様は自己に対し「あまい」としか云いようがありません。これが「平衡感覚」を疑うという言葉の意味です。ウィキペディアは大人の集まるコミュニティです。自己に厳しくあることが求められるということです。以上のように説明させて頂きます。--Stella maris 2009年11月19日 (木) 11:20 (UTC)[返信]
  1. 私以外テンポイントを編集できない状態にあったのであれば話は別ですが、不作為を作為と同視するのは無理があります。「基本方針に賛同していただけるなら、誰でも記事を編集したり新しく作成したりできます。」というWikipediaの基本が認識できていないとしか思えません。
  2. 私が当該記事を選考にかけたのは、「この記事は、良質な記事の基準を満たしているのか、試しに推薦してみよう」という気軽な気持ちからです。選出されていなければいなかったで別にかまわないのです。良質な記事の選考は、気軽な気持ちから推薦できる制度であるべきだと思っております。私は他の方がどのような記事を推薦されるにせよ、推薦した行為自体を批判するつもりは毛頭ありません。このあたりについて、Stella marisさんは何か思い違いをされているようですね。Stella marisさんに反論を行ったのは、信頼できる文献とは何かについて定義も具体例も示されないまま実に曖昧にな理由による反対票を投じれたことに端を発しています。miyaさんと主張が重なる部分が多かったがために結果的に理由が補完された部分もありますが、説明を論理的に尽くそうとする点においてStella marisさんの姿勢はmiyaさんの足元にも及ばない、と言わざるを得ません。また、加筆コンクールのとらえ方については自覚されているようですが、Stella marisさんは対象について「○○とはこういうものだ、こうあるべきだ」という独自の(しかも必ずしも十分な根拠を伴っていない)価値判断をされ、それをもとに論理を展開される癖があるように見受けられます。厳しい見方をしますと、独自の価値観を相手に押し付ける傾向があるように思われます。しかしWikipediaにおいてそのような主観的な思想の押しつけは往往にして議論の妨げになるということをご自覚下さい。良質な記事についても、推薦者に対し「推薦者は予め記事が基準を満たすかどうか把握していなければならない」という独自の価値観を設け、それをクリアするよう他人に要求されているように映ります。-- 2009年11月19日 (木) 12:25 (UTC)[返信]

◆表でも述べたのですが、Stella marisさんの該当のコメントは中田厚仁への講評という枠を越えて、執筆者である廉さんの人格に対する攻撃になってしまっているように見受けられ、その点は大変残念に思います。今後はぜひこのようなことがないようお願いします。
しかし一方で、こうした事態に至ったのには、Stella marisさんの反対票に対して非常にヒステリックな反応が返され、あまつさえ短時間のうちに票の無効化まで提案されたという、拙速な対応がなされたことにも原因があると思います。票の根拠が具体的でないとの指摘ですが、私にはむしろWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025の反対票の方がよほど具体性を欠いているように思えます。ハイデルベルク#参考文献には中田厚仁#参考文献よりも遥かに多くの資料が挙げられていますし、これが脚注形式になっていないということが理由なら、Wikipedia:出典を明記するその他の文書にはそのようなことを義務づける規定がないことはWikipedia‐ノート:良質な記事#翻訳記事における検証可能性の評価についてで指摘されている通りです。
自分が執筆した項目に手厳しい批判が寄せられたことで不快な思いをするというのは私も一執筆者としてよく理解できます。しかし、Wikipedia:良質な記事というような認定制度に深く関わっておられる方ならば、そうした意見にも謙虚に耳を傾ける姿勢が求められるのではないでしょうか。--sergei 2009年11月17日 (火) 13:13 (UTC)[返信]
  • (あいだに割り込ませて頂きます)Sergei 氏のお言葉ですが、上に返答を記ささせて頂きました。「個人攻撃」のように見えるかも知れないとも思います。しかし、決して個人攻撃ではありません。--Stella maris 2009年11月19日 (木) 11:20 (UTC)[返信]
まず、反論の仕方にやや問題があったということは私自身もよく認識しています。これについては率直に反省したいと考えております。出典の示し方については、Wikipedia:出典を明記するその他の文書にはそのようなことを義務づける規定がない、ということはおっしゃる通りだと思います。しかし、実際の問題として出典を脚注を用いて示さないと検証が行いにくい場合があるのではないか、また偽りの記述が紛れ込んだ場合にその発見がしにくいのではないかという懸念があります。自分の書いたことに責任を持つ者が執筆するとは限らないという点で、学術論文とウィキペディアの記事とは違うのだということは認識する必要があるのではないでしょうか。いずれにせよ、詳細な議論はここではなくあちらで行ったほうがよいかと思います。私自身に関して言えば、身も蓋もない言い方をしますと、脚注を使わなくてよいのであればこれほど楽なことはない、という思いはあります。ただ、それでよいのかという思いが勝っているので、脚注を用いて出典を示すという方法を採用しています。-- 2009年11月17日 (火) 14:48 (UTC)[返信]
脚注がちゃんとあったにもかかわらず、選考ページで私が指摘したような「ボランティア全員」に関する事実に反する記述が全く検証されることも無く賛成票が4票も入ってしまったことに関しては、どうお考えでしょうか。私は、その記事の主題について詳しくない人が出典にあたりもせずに投じた賛成票は無意味に近いと考えています。--miya 2009年11月19日 (木) 06:47 (UTC)補足miya 2009年11月19日 (木) 06:49 (UTC)[返信]
miya氏の主張のように「読めなくもない」ですが、その前にコンポントム州のボランティアの会議についての記述があり、州のボランティアの話であるとも取る余地があります。「事実に反する」と断定するのは言い過ぎでしょう。反対票には根拠が不要で賛成票には出典に当たりもしていないと極め付けるのはいかにも「釣合いが悪い」ですね。johncapistrano 2009年11月19日 (木) 08:38 (UTC)[返信]
コメントWikipediaとはそういうものですし、それでよいのだと私は考えています。miyaさんは何故か賛成票のみをとり上げておられますが、反対票にしても同じことではないでしょうか。「主題について詳しくない人が投じている」という指摘についてみますと、現在良質な記事や秀逸な記事、月間新記事賞、月間強化記事賞などで投じられている支持票の中のほとんどは、主題に詳しいと客観的な証拠をもって証明できない人間によるものと思われます。なにしろ、我々利用者のほとんどは正体不明なのです。miyaさんのお考えは一つの考え方だとして成立すると思いますが、それを言ってしまうとWikipediaが成り立つ基盤を否定することにつながるのではないでしょうか。所詮はどこの誰かわからない、正体不明の匿名の人間が記事を書き、読む(ついでに言えば、管理者権限の多くの部分もそうした正体不明の人間によって行使されているのではないでしょうか。これらの事実から、その質問はそのままご自身に跳ね返り、ご自身がWikipediaで活動されていることの意義を問われることになるということをお忘れなく)Wikipediaの限界とも言えると思います。世の中には博士号など一定以上の学位をもった人間のみが執筆できるインターネット上の百科事典もあるようです。このような百科事典は、「その記事の主題に詳しいと客観的な証拠をもって証明できる人が執筆し、査読を行う体制が整っている」といえるのでしょう。もしmiyaさんがオンライン百科事典はかくあるべしというお考えをお持ちなのであれば、そのようなプロジェクトへの参加を検討されてはいかがでしょうか。
「その主題に詳しい」ということの定義というのはなかなか難しいものがありそうです。前述のような、学位をもって判断するというやり方は有力な手法だと思いますが、Wikipediaでそれができるのかどうかは分かりません。利用者が学位のあることを証明するには匿名性を放棄する必要がありそうですから、恐らく難しいのではないでしょうか。いずれにせよ修士号や博士号を持った者からすれば、数日間読書をして知識を得ただけの者など、程度の差こそあれ皆ただの素人ということになるでしょう。記事を評価するにあたって出典にあたるのは素晴らしいことだとは思いますが、主題について詳しいという客観的な裏付けのない者が同レベルの者に対し「出典にあたりもせず」、つまり知識もないくせにと批判することにどれだけの意味があるのか、と感じます。記事の改善点を具体的に指摘するためには出典に当たることが必要になってくる場合は多々あるでしょうが、賛成票を投じる場合に出典に当たることがWikipediaにおいて必須である、とは私は思いません。私は「ウィキペディアンの多くは何事にも詳しくない(または何事かに詳しいことを立証できない)。Wikipediaはそのような者によって運営されてきたのだし、これからもされていくのだ」という事実を(否定的にではなくむしろ肯定的に)とらえるべきだと思います。-- 2009年11月19日 (木) 09:33 (UTC)[返信]
ローカルで返答を書いているあいだに、このようなコメントが新たに加わっていますので、一応これにもコメントしておきます。まず、厳密な意味で「良質な記事」の審査を行おうとすれば、それなりに詳しい人が審査せねばならないでしょう。しかし、少なくともわたしの反対票について云えば、上述しているように、「良質な記事の基準」以前の「ウィキペディアの記事としてあるべき姿」に合致していないというのが反対理由です。これについては、信頼できる複数のジャーナリズムや政治学者や、諸分野の専門家の評価や意見が提示されていれば、このレベルでの「記事としての妥当性」は生まれるので、そうであれば、わたしは反対票は投じなかったと思います。またそのような事実が示されれば、反対票を撤回する意志があったことは、わたしの反対票の文言に述べられています。また、「良質な記事」の選考としては、このレベルでも十分ではないかとも思います。賛成票については、しかし、参考文献の中立性の疑問が明確になった後にも、投票者が判断を変える等の行動がないのは疑問に思います。--Stella maris 2009年11月19日 (木) 11:20 (UTC)[返信]
中立性の問題については、R.Lucyさんによって改変が行われているという点をお忘れなく。むしろご自身の反対票についてこそ、判断を変えるべきなのかどうかお考えになったほうがよいのではないでしょうか。-- 2009年11月19日 (木) 12:25 (UTC)[返信]

インデント戻します。私的な理由でウィキブレイクを取り、その後体調も崩してしまったので意見表明だけいたします。簡単に経過を確認させていただきましたが、私としては賛成票は堅持します。また賛成票、反対票ともに無効化には反対します。--のりまき 2009年11月26日 (木) 10:20 (UTC)[返信]

良質な記事の基準

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実を言えば、私は日本語版で「良質な記事」が正式化されるにあたって、英語版と同じ基準で選ばれるものだとばかり思い込んでいて、正式化まで議論を追っていませんでした。ところが実際には英語版における基準、en:Wikipedia:Good article criteriaは翻訳されることなく、かといって、「どんな記事が良質な記事か」についてもWikipedia:良質な記事#良質な記事の基準という、曖昧なもの以外にはコンセンサスもなかったのですね。中田さんの記事をめぐって議論が紛糾したのは、ひとつには、この基準があいまいで「良質な記事」のイメージが個人個人によりそれぞれ異なっていたからでしょう。英語版では

In short, they should be well written, factually accurate and verifiable, broad in coverage, neutral in point of view, stable, and illustrated, where possible, by relevant images with suitable copyright licenses. (en:Wikipedia:Good articles 2009-11-24 12:48:51の版より
(試訳)良質な記事とは、つまり、よく書けていて、事実関係が正確で検証可能であり、取材範囲が広く、中立的な観点から書かれていて、安定しており、可能であれば適切なライセンスを持つ画像を掲載してい記事のことです。

と明快に規定され、さらにen:Wikipedia:Good article criteriaでチェックできます。この基準に照らし合わせて議論すれば、ここまでもめなかったのではないでしょうか。なぜ、英語版の「良質な記事」制度だけ持ち込まれ、「良質な記事の基準」については放置されたのか、わけがわかりません。

ここで、水掛け論のようなやりとりをするより、en:Wikipedia:Good article criteriaを翻訳したほうが建設的だと思いますので、上の廉さんのコメントへのお返事は保留させていただいて、基準の翻訳を進めさせていただきます。--miya 2009年11月24日 (火) 13:13 (UTC)[返信]

(追記)そうして、この記事が基準を満たしていることが確認できれば、反対票は取り下げます。--miya 2009年11月24日 (火) 13:35 (UTC)[返信]

コメント英語版の基準が採用された後ならともかく、そうでない現状で、日本語版において英語版の基準を持ち出されることに正当性を見いだせません。第一、そのような選考全体に大きな影響を及ぼすような提案を一選考ページで提起することが妥当であるとは思えません。また、私がその提案をここで受け入れることで、現状の基準との整合性がはっきりしない事実上の基準がなし崩し的に成立することを懸念します。まずはWikipedia‐ノート:良質な記事での提案があってしかるべきではないですか?-- 2009年11月24日 (火) 14:37 (UTC)[返信]