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Wikipedia:コメント依頼/Nekosuki600 20091105

Nekosuki600さんの尾小屋鉄道の記事編集に関連する行為について、コメントを依頼します。--Tam0031 2009年11月4日 (水) 17:21 (UTC)[返信]

これまでの経緯

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利用者:Nekosuki600さんは、尾小屋鉄道この編集において、駅名の読みについて外部リンクの写真を示して修正を行いました。この外部リンク先は、Nekosuki600さん当人の運営するサイトであり、写真集のディスクを販売していることを宣伝しているという、まさに宣伝のためのリンクと取られる可能性のあるものです。Wikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクにも「宣伝目的のリンク、自分が運営にかかわっているサイトへのリンク」が挙げられています。

この編集を宣伝とみなして利用者:HATARA KEIさんが一旦差し戻しを行ったものの、それを再度Nekosuki600さんが差し戻したため、私、利用者:Tam0031が、駅名の読みを示す別な出典が出るまではすべて除去すべきと考えて外部リンクと駅名の読みの全ての除去を行いました。しかしこれに対しても再度Nekosuki600さんが差し戻しを行いました。

ノート:尾小屋鉄道や、利用者‐会話:Tam0031#どうでもいいんですけどにおいてこの件に関して話し合いを行いましたが、なぜNekosuki600さんが行った行為が宣伝ではないと考えるのか、なぜこの版に戻さなければならないのか、ご自身で考えて下さいと仰るばかりでまったく説明がなされませんでした。

このため、この件に関して第三者の意見を広く求めたいと思います。主な論点としては

  1. 自分のサイト、あるいは外部サイトにある写真を読みの出典とすることは問題ないか
  2. 自分のサイトへの外部リンクを自分で張ることは問題ないか(宣伝に当たるか)
  3. 疑義の出た読みについて、出典が出るまで一旦削るとした私(Tam0031)の行為に問題はないか

などが挙げられるかと思います。他にも気づいたことがあればコメントをお願いします。

番号で参照される方がいるので番号付きリストに修正--Tam0031 2009年11月5日 (木) 12:42 (UTC)[返信]

Nekosuki600さんのコメント

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コメント依頼には原則として反応しないことにしているのですが、今回はちょっと苦言を呈しておきたくなったもので出てきてみました。

基本線として鉄ヲタ分野的には「やたら自サイトへのリンクをはっつける民度の低いお子様が多い」という事情があるんだろうと想像しますし、基本的に自サイトへのリンク貼りは歓迎できないものが多いということにも同意します。しかし今回のはそういう問題じゃないだろう。

おれ的には、今回は「駅名読みの書き換え」「駅名読みの追加」というトラブルにつながりがちな編集であったことから、無根拠に書き換えたわけではないということを説明しておく必要があると考えた。書籍にあたれば出てくるのはわかっていたが手持ち情報があったんでとりあえずそれを根拠として情報を付け加えることにした。書き換えに疑問があれば根拠情報を確認すればいいし、他出典があればそれにさしかえればいい[1]

で、にもかかわらず、(1) 宣伝だ、という罵声を浴びせて撤去するやつが出たこと、(2) しかもそれと同時にせっかく直した情報を間違った情報に戻されたこと、という2点に強く不快感を表明しておきます。

ここからは個人的な推測ですが。

一部のひとびとの間には「『宣伝』を非常に広く受け止める流れがある」「『これは宣伝だ』と脊髄反射したら内容の吟味をする前に撤去してかまわないという認識がある」のではないかと思う。

前者については「即時削除の方針」なんかでもけっこうモメた案件ですが、撤去するのが相当の宣伝というのは「もっぱら宣伝に過ぎず情報を高める効果が期待できないもの」くらいに考えればよく(しょもない個人サイトのリンクをべたべた貼っつけてまわる行為などはこの基準でも十分に撤去できる)、多少の宣伝性があったとして敏感に反応する必要はないものと考えます。そういえば以前、参考書籍について「出版社の宣伝にあたる」として削除したやつとかいたっけなあ。また、現実問題Wikipediaにリンクをはっつけたくらいでお客さんが続々やってくるようなものではなく、宣伝目的でリンクを貼る側も宣伝目的に敏感に反応する側もちょっとWikipediaの影響力を大きく考えすぎなのではないかという気がする[2]

後者については、今回中身をチェックすることなく単純リバートをしていた時点で、そういう脊髄反射的反応をしたことは明らかだと思う。ちゃんと中身をチェックしていたら「読みが修正・追加されていること」はわかったはずだし、なぜ根拠情報を追加しなければならなかったのかも理解できたのではないか。修正された情報を除去し間違った情報が掲載された版にリバートした方、および問題のない情報を削除してしまった方には、深く反省をしていただきたい。

まあ鉄道関連項目はいろいろめんどっちいことが多いわけだけれども、だからといって自分らが思考停止的編集をやっていいことにはならんと思うんですよ。もうちょっと丁寧な作業を心がけてはどうかと思います。--Nekosuki600 2009年11月5日 (木) 04:09 (UTC) --Nekosuki600 2009年11月6日 (金) 08:24 (UTC)(ref追加)[返信]

  1. ^ 個人的には「読み」などにいちいち根拠情報が必要なのかという疑問もないわけではない。どこで議論をしたのか忘れてしまったが新河岸川の読みをめぐってそこらへんの議論をしたことがあったはず。
    ref追記。ここだ
  2. ^ ビギナーさんなんかがそういう勘違いをするのはわからないではないが、Wikipedia側に「自分らの影響力はとても大きいのだ」という誤解があることについて、おれはけっこう滑稽だと思っている。

コメント

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Unit.1

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  • コメントNekosuki600さんのこの行為に問題があるとは到底思えない。便宜上依頼にある《主な論点》に連番を振ってコメントします。
    (1)については、Wikipedia:信頼できる情報源とは言えないかもしれないが、画像編集での捏造をしている可能性は極めて低いと考えられる。そのため、「金野町駅」の読みが、その資料とは異なっていることを証明する材料として提示することには何ら問題はない。この資料提示がなければ「何故その読みだとわかるんだ」という方から編集合戦に巻き込まれる可能性も想定できる。そのため、既存の読みを修正するためにその資料を提示する行為と、Wikipedia:検証可能性が必須とされているウィキペディア日本語版において (Wikipedia:信頼できる情報源を十分満たすものでなかったとしても) 出典を提示する行為を問題視する理由はない。今回のケースは写真資料の提示であって「独自研究」である可能性は非常に低い考えられるから。
    (2)については、今回のケースはNekosuki600さんが販売もしている写真をウェブサイトにも掲載しているページ -「ウェブサイトに掲載していた写真を販売もしている」の方が正しいのかも - だから「宣伝」の嫌疑がかかっているのだと判断したが、今回のケースでは(1)に述べたような理由があるので問題であるとは思わない。(ウィキペディア日本語版観点での) 情報の信頼度を考えないとすれば、有料で販売している物と同等の情報をウェブサイト上に公開していた場合、それは等価に扱って良いものであると考えられる。
    (3)については、Tam0031さんの行為が問題であるとまでは言わないが、「金野町駅」というどう読めばよいものかを判断付かないものに、それなりに信頼できる資料が提示されているのであるから、「かねのまちえき」という読みまでも編集除去してしまうことは、ウィキペディア日本語版にあったそれなりに信頼性のある情報を編集除去してしまったことに他ならないとは判断する。個人のウェブサイトを出典にされることへの違和感などを考慮しても、落としどころとしては読みは残して個人のウェブサイトである出典は編集除去というあたりが妥当なのではないかと思う。
    私のコメントは以上。Nekosuki600さんの行為へのコメントではあるが、Tam0031さんのこれからの活動の参考になればと思う。また、これが、「ノート:尾小屋鉄道」での問題提起へのコメント依頼ではなく、Nekosuki600さんという利用者へのコメント依頼としてしまったことは十分に反省して欲しい。--iwaim 2009年11月4日 (水) 18:18 (UTC) 一部撤回。--2009年11月17日 (火) 18:16 (UTC)[返信]
    • 追記。先には『(3)については、Tam0031さんの行為が問題であるとまでは言わないが』とは述べましたが、どうやら、今回Tam0031さんは「宣伝排除」という判断ではなく、「仲裁を実施する」という目的として行動なさったようだということが理解できました。であるとするならば、今回のようなケースにおいては、仲裁として動くにはあまりにも軽率な行動であったと判断します。仲裁っていうものは、互いの意見にそれなりに納得できる (==一理あると判断できる) ものがある場合に、その状況をなるべく適切な、妥当なところに落とし込むために介入するものであると思っています。今回のケースを、その後の論理展開までも鑑みて判断すれば、Tam0031さんは仲裁としては行動していただかない方がよいと思います。--iwaim 2009年11月17日 (火) 18:16 (UTC)[返信]
  • あくまで、今回の件に関して、という限定つきですが…。(以下箇条書きを使っているので署名はここに)--Jms 2009年11月4日 (水) 21:57 (UTC)[返信]
    1. 自分のサイト、あるいは外部サイトにある写真を読みの出典とすることは問題ないか 今回は問題なし。書籍に記載があればその方が望ましいが、それはまた別の話でしょうし、複数書籍で異なる読みが挙げられている以上、一次資料参照は必要なことだと思います。
    2. 自分のサイトへの外部リンクを自分で張ることは問題ないか(宣伝に当たるか) 今回は宣伝にはあたらない。もし、リンク先が画像ファイルそのものだったとしたらどう思ったかを考えていただくとよいかもしれません (画像ファイルそのものへのリンクについては許諾されていないので、あくまでも仮定の話ですが)。これが、たとえばインディーズバンドの記事だったらまた話は別でしょう。
    3. 疑義の出た読みについて、出典が出るまで一旦削るとした行為に問題はないか わたくしなら、やりません。かといって、そうした行為を見かけたら「なんでそんなことするかなぁ」とは思うだろうものの、「問題です」と指摘することもないと思います。その意味で、「ご自身で考えて下さい」とだけ述べるのはよくわかる気がします (本人ではないのでわかっているかどうかはもちろんわかりません)。

Unit.3

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(依頼者コメント)依頼者から、これまでのコメントに対して追加でコメントさせていただきます。
まず、写真を出典とすることについては、個人的には疑問でしたがiwaimさん、Jmsさんがそのように仰るのであれば、とりあえず今のところ日本語版ウィキペディアにおいて特に問題視されていないものと理解したいと思います。
次に、自己サイトへのリンクについて、Jmsさんが「もし、リンク先が画像ファイルそのものだったとしたらどう思ったか」とのことですが、その場合でも私は宣伝であると判断いたします。自己サイトへのリンクそのものが問題なのであって、たとえアフィリエイトも広告も物品販売も何もしていなかったとしても、自分のサイトにトラフィックを誘導するなら、それは宣伝として問題視されるべき行為であると考えています。自分のサイトへリンクを張る行為が中立性を疑われるからこそ、Wikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクにおいて、「最大限自制すべき」「ノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益」とあるのですよね。
それから、Nekosuki600さんのコメントについて、「今回中身をチェックすることなく単純リバートをしていた時点で、そういう脊髄反射的反応をしたことは明らか」について、HATARA KEIさんの意向がどうであったかはともかく、私については「脊髄反射的反応」ではないので全面的に誤りです。上記に述べたように、自己サイトへのリンクが問題であると考えたからこそ、リンクを除去したのであり、また「読みが修正・追加されていること」は当然前後の差分をチェックして理解したうえで、「読みについて問題になっているなら一旦除去して、その後ノートでの議論または新たな出典を探すのがよい」と考えたからこそ、読みを全て除去したのです。だからこそ、表中だけではなく本文中の読みまで一律除去にしたのです。熟慮の上の編集であって、脊髄反射ではありませんと繰り返しておきます。
どうやら、こちらのコメントでは私の考えとは違い、参考になる情報であれば自己サイトへリンクしても仕方ないとの考え方が多いようで大変意外です。情報が集まれば何でもよい、というのであれば、そのあたりの本やウェブサイトからどんどん転載してくれば、あっという間に情報は集まりますよ。でも、それはルール違反です。それが見つかったら、その部分は除去しなくてはいけません。今回も、自己サイトへのリンクというルール違反をして加筆されたように思われたので、それは除去すべきであるという考えであり、それについて誤りはないものと今でも考えております。--Tam0031 2009年11月5日 (木) 13:03 (UTC)[返信]
反論。
おそらくご覧になっていないのだろうと思量しますし、当然のこととしてご存知ないのでしょうし、知らないのだから尊重のしようもないこととは思うのですが、Wikipedia日本語版の公式な方針にこんなものがあります→「Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください」。他者が記述した内容を除去する場合にはそれなりに慎重な姿勢が求められる、というのはWikipedia日本語版の公式な方針です。またそれは、(おれが同意するかどうかはとにかくとして、基本線として)性善説に立脚しているらしいWikipediaの根本哲学でもあるでしょう。
今回おれは、記事を眺めていておれの手持ち資料に照らし合わせれば間違っている記述を発見したのです(「金野町駅」の読み)。ついでに、記載されはいない情報だったがおれは誤読していた「間違いやすい情報」が欠落していたこともあわせて発見した(「塩原駅」の読み)。なので、それをどう補うかについて考えたわけっすよ。
HATARA KEI さんが尾小屋鉄道の項目のノートでなんかイヤミを言っていますが、それはとにかく、おれとしては手持ち資料の写真集のどこかに全駅の駅名標の写真があったことを覚えていました。それを掘り出して修正することが望ましいってことはわかっていましたが、しかしまあ蔵書家の常としてってよりも単に未整理なだけですが掘り出すのが面倒であり、かつ等価の資料が手持ちであったので、とりあえず手持ち資料に基づいて間違いを修正し欠落情報を埋めるという選択をしたのです(それが「Wikipedia的に等価の資料である」という点については、面倒なので強弁はしない)。ついでに、編集合戦などに発展する可能性を封じるために手持ち資料を提示しておいた。
必要ならば粛々とより望ましい出典の追加などをすれば済むことであり、百歩譲って「より望ましい出典の追加希望」で十分な局面であったと、わたしは考えます。
また、「読みについて争いがある」という状況は存在していないものと考えます(「かねのまち」のほかに「かねのちょう」という読みが存在した可能性は否定しませんが、その場合には両論併記で行けば良いのであって、「かねのまち」を削除する必要は全くないと考えます。「個人が撮影した写真に典拠して『かねのまち』という読みが存在したと説明することが間違い」という意見であるならば、それについては別途写真論かなんかで盛大に議論を展開する必要があるでしょう。ま、写真の改竄などの可能性は、考えられなくはありませんけどね)。
いずれにせよ、Tam0031さんは「Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください」を精読した上で、「情報の除去については慎重にあるべきだ」ということをしばらく考えてみてください。もちろんだからといって「本格的にしょーもない記述」をばさばさ除去することに躊躇する必要はありませんが、そこで問われるのは「そこに記されている情報を見る自分の選択眼なのだ」ということに思いを至らせ多少のおそれを感じてもいいのではないかと思います。--Nekosuki600 2009年11月5日 (木) 15:20 (UTC)[返信]
情報の保存の方針は当然知っております。その上で敢えて除去しております。上にも書いたとおり、ルール違反をして加筆したものだ(と私は考えた)からです。著作権侵害の書き込みに対する除去と同じ対応であるとご理解ください。その上でノートで議論をしてから対処しましょう、ということだったのに、ノートへ返事する間もなく(時間的に私のノートへの書き込みをご覧にならずにすぐにリバートされたのでしょうけど)再度のリバートに及ばれたことは、大変遺憾であると申し上げておきます。--Tam0031 2009年11月5日 (木) 15:26 (UTC)[返信]
率直なところ「情報の保存の方針は当然知っております」という弁明はにわかには受け入れがたいものがあるのですが、それはとにかく。
Wikipediaの公式な方針類ですが、精査するとけっこう相対立することを言っているものがあったりします。おれが理解した範囲では、つまるところが「ま、中庸を保ちつつテキトーにやれ」ってことではないだろうかと。特定の方針についての自身の理解に基づいて果敢に情報の削減をするというのは、おれの観点からは明らかにWikipediaの思想にそぐわない考え方だと思います(が、ここではその間違いについては論じない)。でだ。
なにをもって即座に撤去しなければならないほどの重度のルール違反とするかという点についての対立は置いておきましょう。その上で、Tam0031さんの編集に関しては「読みはもともと記されていたものであり、それが間違っているかどうかはとにかくとして、巻き添えで削除すべきものではない」と、おれは考えます(あなたは「戻した」のではない、削除したのです)。また、HATARA KEI さんの編集に関しては、依然「なぜにして間違った編集に差し戻したのか」について重大な疑義があることを指摘しておきたいと思います。
なお、その後添付された「出典」なるものですが(『軽便追想』のこと)、おそらく半径1メートル以内に現物書籍があるんじゃないかと思うもののまだ掘り出していないのですが、なんか「書籍の中の一覧ページに振られたルビ」を出典としているという情報を耳にしました。いやあえーとなんだ、もしそれが事実ならばだ。まあ間違っていても書籍に記されていたのならばそれはそれで出典としてありなんですが、しかし書籍上の固有名詞のルビなんてしばしば間違っているものなんだし、編集者的にはそこを個別に確かめることがどれほどたいへんなのかわかっていたりもするわけで書籍の間違いをあげつらおうとも思わないんだけども、典拠情報的には現状劣化してるんじゃないかという懸念もあるんですよねえ。鉄ネタ、だいじょうぶなのか。
さあどうしましょ。どうするのがいいと、あなたは思いますか。--Nekosuki600 2009年11月5日 (木) 16:20 (UTC)[返信]
なんだかNekosuki600さんからは、私が方針を知らないかのように常に勝手な推測をして印象操作をされているかのように思えますが、情報の保存の方針は元からきちんと知っていますよ。それはもちろん、一言一句分かっているかと言えばNOですが。「ウィキペディアの精神」なるものを持ち出されても、私にはそもそもあなたがその「精神」を守っていないようにしか見えないのですよ。
駅名の読みはもともと記載されていました。しかし、どうやらNekosuki600さんが提示した資料によれば、それは間違っているらしい。単純に戻したのでは、間違った内容になってしまう。それならば、敢えて一旦削ってでも、後で出典を元に書き直した方がマシであろう、と考えたものです。「出典求む」と要約欄に書いたのはそのことです。今週末に図書館へ行こうと早速目算をしていたのですが、いろいろな方が出典を持ち寄ってくれたのですっかりその必要がなくなってしまいました。
あなたは自分のところに現物書籍があるとのことですが、それを探す手間すら惜しんで、あえて自分のサイトへのリンクを張るのが正当な資料の提示だと仰るのですか? わざわざ電車とバスを乗り継いで2時間掛けて国会図書館へ出かけて調べ物をして記事を書いている私が馬鹿に思えます。本を探す手間の削減が、外部リンクの基準遵守より大事だと仰るのですね。
情報源の劣化については、それはもうどうしようもないということで、ウィキペディアでは諦めているものと考えています。何しろ、合理的な推測であっても独自研究として排除するわけですから。どうしても必要なら、自分で信頼できる情報源に発表するしかありません。それはそれで、自分が発表した文献を元に自分が書いていいのかという問題はもたらすのですが。また駅名票についても、改称された駅名なのに古い駅名がまだ残っていたり、利用者のいたずらで濁点が取り除かれていたり、といったこともありえるので、完全ではないでしょう。例えば、漢字は変更されずに読みだけ変更された場合、そのことを知らずに駅名票の記述を信じてしまえば、全期間に渡ってその読みであったと容易に誤解する元になりますね。だからこそ、公文書にあたったり、その手の本を複数読んだりするのではないのでしょうか。私は、駅名票こそが一次資料であり、それが全て正しいという見方には立ちません。
以後どのように対処するかについてですが、既に当該記事については多数の出典で固められているようなので、これ以上編集合戦のようなことにはならないでしょうから、記事そのものは特段何かをする必要はないでしょう。まだ加筆する内容がある、信頼できる出典があるというのならそれは歓迎しますが。一方、外部リンクをどのように扱うかについては異論が見られたので、Wikipedia:外部リンクの選び方のノートページにでも場を移して、自己サイトへのリンクについて議論すべきと考えます。私としては、自分のサイトへのリンクは事前にノートでの提案を必須にすべきかと考えます。事前にNekosuki600さんがノートで提案をしていれば、今回のような問題には立ち至りませんでした。
それでは就寝いたしますので、次の返答は(もしあれば)本日の勤務終了後とさせていただきます。--Tam0031 2009年11月5日 (木) 17:13 (UTC)[返信]
少なくともTam0031さんに方針に関する重大な無理解があるという程度のことは言えるように思いますが。対立する方針がいくつかある中でそのひとつをクローズアップして強引な編集をすることの問題点について、前コメントの第二段落で言及しています。おれはその無理解についてここで論じるのは場違いであると判断しましたが、すでに指摘はしたことです。
駅名の読みについて、すでに記されていたもののひとつが間違っていた可能性をおれは示唆しましたが、同時に他のものについては問題がないことについての補強証拠も出しています。百歩譲ってTam0031さんの見解を受け入れたとしても、「金野町駅」以外の読みを巻き添え削除したことについては、説明できないと考えます。その「まとめて削除してしまえ」という姿勢が問題であると申し上げております。
資料の質については面倒なので争いませんが、書籍と確認が可能な写真のどちらが根拠情報として高度なものであるかについてのTam0031さんの見解には強い疑問を提示します。また一方で、あたかも書籍に記載されているかのような体裁でウソを書くといったことも可能であるわけで、Web上で確認できる情報を提供することには意味があると考えています。それらは並存していい情報であると、わたくしは思います。また、情報の劣化については、ある程度いたしかたない面がありますが、平行してなるべくそれを避けるための努力を行う必要があるでしょう。現状かなり劣化してしまっているわけですが、それについて「いたしかたない」と諦めるという選択を、わたしは選びたくありません。
駅名標が駅名の読みの根拠になるかという点については、争います。駅名標が唯一の正しい証拠とはなりませんし駅名標が間違えていることもありますが(古い時代の地方私鉄のローマ字表記あたりになるとめちゃくちゃなものがけっこうある)、「少なくともある時点でこう表記されていた」という有力な証拠にはなり得るでしょう。駅名標記載情報を排除する必要があるとは思いませんし、駅名標記載情報は一次情報としてそれなりに尊重されるべきものでしょう(なお、「駅名標の写真」は一次情報ではないような)。ていうか、そこを問題視するんだったら「Wikipediaに写真を提供すること」「Wikipediaの記事で写真を使うこと」そのものが否定されちゃうんじゃないの? 以前に「写真はすべて独自の研究か」なんていうトピックがどこかにあったような気がしますが(ここだ)、それに連なる写真論・資料論的な話に発展することになるでしょうね。映像論やテレビ論なんかにもかかわってくるし、そこらへんはおれにとっても個人的にも職業的にもたいへん興味深い論点ではあるのですが。
最後になりましたが、こういう議論は急いでやる必要があるものではありませんから、一日間があくくらいならば断らなくてもよろしかろうと存じます。おれも毎日パソコンに向き合ってるわけではありませんし。--Nekosuki600 2009年11月6日 (金) 07:28 (UTC)[返信]
(インデント戻す)既に済んだ話なのかもしれませんが、私が本件以前から情報を保存する方針を知っていた証拠とまではいえないでも、傍証となるものを提示しておきます。2008年のはじめ頃に、鉄道PJで鉄道関連記事の編集の問題点について、いろいろ議論したことがあります。そこである程度まとめたものを、Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/鉄道プロジェクト#ガイドラインへの脱POV関連付加提案のように提示しております。この後議論が雲散霧消してしまって、結局鉄道関連のガイドラインへの追記はなされていないのですが、この提示した草案には、「現代POV」に関する文章の中に「大きな変化があった場合でも、以前の記述を消す必要はありません。新たな記述を書き足すだけでよいのです。」という記述があり、明確に情報の保存を意識した内容となっていることがわかるかと思います。このような内容を2008年時点で議論していた人間が、本件の時点で情報の保存について意識がないという主張には合理的な根拠を欠くと思います。
続いて、私の本件での編集について、金野町駅以外についても除去するかどうかについては考えましたが、読みについてあなたの写真が出典とされているものが多数であると考えたため、たとえあなたの写真へのリンクが付加される以前から記載されていた情報であったとしても、それも除去した方がよいとの考えでした。あなたはあくまで参考資料との意識であったとのことですが、私には出典として付加したように見えましたので、出典がなくなれば記載が宙に浮くと考えたためです。あなたの写真が示されていないものについても検討したのですが、前に述べたとおり、週末にでも調べて加筆しようと考えていたので、一旦除去することに問題はないと考えました。トラブルの原因になっていたのだから、一度やり直した方がよいだろうということです。
どれが資料として適正か、という点については本件の主題ではないと考えるので割愛します。いずれにせよ、どのような資料も間違いが含まれる可能性を考慮して、複数の文献・資料をつき合わせて吟味する必要がある、ということでは同意をいただけるものと思います。
論点1に挙げたように外部サイトにおいた写真を出典として使ってよいのかは疑問を持っていたのですが、問題がないというのが大勢ならば私としてもそれでよいと思います。これは前述したとおりです。そして、あなたの写真についてですが、論点1の結論を前提とすれば、資料として問題ないということについては同意いたします。廃止された鉄道の駅の写真ですから、今から新たに撮影しようのない、貴重な資料である点については全く持って首肯いたします。私があなたのサイトの写真を発見していたなら、私が資料として外部リンクに追加したかもしれません。
ただ、いくら貴重な資料であっても、自分のサイトへのリンクを自分で追加するという行為は、やはり疑いを招くものだというのが私の考えです。あなたは資料を持っていながら、自分のサイトへのリンクの方を優先させて、資料を探す手間を惜しみました。そして、その編集をする時点で一言ノートで断るという手間も惜しんでいます。それは、いくらなんでも手を抜きすぎです。事前にノートで知らせてくれていれば、ああ確かに貴重な資料だし、誤りを修正できるねということで掲載に同意したかもしれませんし、よりよい資料を持っている人が出てくるかもしれません。「李下に冠を正さず」という言葉がありますが、あなたはまさに李下で冠をいじってしまったのです。
Clubpath氏の一件で、あなたは盛んにデュープロセスということを仰っていましたよね。そのように適正手続きを重視される方が、なぜ本件ではそれができないのでしょう。Clubpath氏の一件は刑事処分に相当するもので、本件は違う単なる記事編集だからでしょうか。あなたが最初にリンクを追加した時点では、誰でもやってしまうミスかもしれないので、あなたの会話ページか当該記事のノートで「それはないんじゃないの」と突っ込みを入れるだけで済んだかもしれません。しかし、あなたの行為を問題視して差し戻す人が2人もいて、それでもなおあなたはリバート返しを繰り返されました。さらにノートページや私の会話ページでも、ろくに説明をなさらず「自分で考えろ」「おれはTam0031とかいうやつに何をどう説明したらいいのか、誰かおれに教えてはくれませんか」とかほとんど暴言に等しいことを繰り返しましたよね。それは、私から見ればあなたの方針無理解の表れで、自分の望む編集を通すためなら外部リンクのルールなど無視しても構わないという意思表示と受け取りました。それでこのコメント依頼になったということです。--Tam0031 2009年11月6日 (金) 15:38 (UTC)[返信]
傍証については、不要です。人間だもの、常に一貫しているとは限らないし多少の振れを指弾する趣味はありません(個人的には振れないように気をつけていますけれども)。ただ今回については、「消す必要のない情報を巻き添えで消してしまった」ということを否定なさらないと思いますし、今後の編集にその反省を生かしていただければ、おれ的にはこの論点についてはこれ以上つっこむ必要を感じません。
出典と参考資料の違いについて。今回あなたはそれを同一視したようですが、そこには違いがあるのだという点を認識していただき今後の編集に生かしていただければ、この論点についてもおれ的にはこれ以上つっこむ必要を感じません。
トラブルの原因が何かについては認識に違いがあると思います。この点については争います。おれは「参考資料として提示した手持ち写真へのリンク」の削除については争いません(あまりに早すぎる撤去については、実際に検証した人数が少なくなるであろうという点で、疑問を感じますが)。しばらくほっといてそれからおもむろにリンクだけを削除するという手もあったんじゃないでしょうかね。おれが本件にかかわることになった原因は、HATARA KEI氏による「間違った情報が記載された版へのリバート」なんです。そのことを再確認した上で改めてレスされたし。
資料の適正性について「複数の文献・資料をつき合せて吟味する必要がある」という点については同意します。同時に「特定のメディア上の資料を排除する必要はない」という点についても同意いただけたものと理解しますが、これについては合意いただけますね?
李下に冠とデュープロセスの件について。
「李下に冠」は、トラブルを引き起こさないための知恵としてはありなんですが、おれは別にトラブルを引き起こすことを厭っていないのだということをご想起ください。古くから「革命とテロの認識論的関係」なんてのもあるんですよねえ(んで、おれはそういう命題に実社会的にもからんできてる、とか書くときっとにちゃんねらーが喜んでくれるだろう(=^_^;=))。今回、おれ的には「無難な方法論」を選びませんでしたが、無難な方法論・波風を立てない方法論を選ばなかったことにはそれなりの理由があります。この点については、詳細を説明しようと思いません。
デュープロセスについても同様。「決定的にマズい方法論は慎重に避けた」が「完全に安全策を取ろうとも思わなかった」ってことです。常に安全策を取るって、処世訓としてはありだと思うし着実にやっていく手法としてはありなんだけど、ときどきそういうのがもどかしくなったりするわけですよ。なお、自分に対する批判的言辞について「暴言である」という意見を表明することには慎重であることをお勧めします。おれ側からのアプローチで対話が成立するかどうかは微妙であったし(今でも微妙であり続けていると思うけどね)、「自分の意見があまり同意されなかった」という事態をもってはじめておれとあなたとの対話が成立する端緒を得たのじゃないだろうかと、おれは考えています。--Nekosuki600 2009年11月6日 (金) 16:04 (UTC)[返信]
「しばらくほっといてそれからおもむろにリンクだけを削除」ですが、これは無理です。あなたの宣伝では無いかと疑われているのですから、掲載されている時間が長くなるほどそれに加担してしまいます。とりあえず除去してから、それから議論です。そのように考えました。ウィキペディアに書くことの意味を大げさに考えすぎとか、またおっしゃいますか? 実際にあのリンクをたどる人がどれほどいるかということは、あなたの行為の中立性の問題を取り上げる上で何も関係していないと思います。
「特定のメディア上の資料を排除する必要はない」ですが、個人的には某鉄道評論家のK氏とか、排除したいものはいくつかあるんですけども(苦笑)。原理的には、排除する必要はないということには同意いたします。
後段について、結局Nekosuki600さんの手間を省くために、周りが犠牲になったということですね。私は記事を書くのが面白いからウィキペディアに参加しているのであって、このような議論は、運営のためにはやむを得ないけど、本質ではないのでできるだけ避けたいことだと思っています。記事を書く時間を割いて、議論をしなければならないというのは苦痛です。あなたの手間を省いたために問題が巻き起こって、それに手を取られるというのは、あなたにとっては厭ってないというのでしょうが、私は厭うのですよ。ですから、きちんと問題を起こさないような正当な手順を取ってくださいと、全ての参加者に対して思っています。
「自分に対する批判的言辞云々」に関してですが、もちろん批判は冷静に受け止めなければならないのですが、あなたの場合はあの口調で余計な問題を引き起こしていると思います。今回のコメント依頼で、後半に出てきているような程度のあなたの口調なら、そうは申しません。それから念のため申し上げておくと「ほとんど暴言に等しい」とは言いましたが、「暴言である」とは断定しておりません。私にとってあのような口調で言われるのは、大変不快であったと申し上げておきます。--Tam0031 2009年11月6日 (金) 17:59 (UTC)[返信]
第一点。
Wikipediaは、というかWikiというシステムは、基本的に「相互に手間をかけあう」ことによって成り立つシステムなんじゃないかと思う。おれはパソコン通信出身だから当初はかなり違和感を覚えたが、これはこれでありなんじゃないかと今は思っている。もちろん至上のアイディアなわけじゃないとも思っているけど。おれがどういう手間を省いたのかについては、まあ掃除と整理が苦手なもんですからおれの資料はかなりの惨状になっていてなまじの手間じゃないとかいう抗弁はできるわけだがあんまし意味があるとは思わないので強弁はしない(=^_^;=)。
しかしおれは、駅名標がどうなっていたかを確認するために十分な資料を提供したし、その資料を提供するためのHDD上の整理にはものすごい手間をかけている。「事前にかけた手間」までひっくるめて比較考量をしてもらえるとありがたい。数万点の写真を整理しいつでも必要に応じて出せるようにしておくってのは、なまじの労力でできることではないんだぜ。
第二点。
今回、やや狙ってやった点もあったのでおれに責任が皆無だとは言わないけれども、編集合戦経由議論行きの路線が敷かれたのは「根拠つきの情報が記載された版をリバートし間違った情報が記載された版に戻されたこと」「根拠つきの情報が消去されたこと」が理由であり、あなたも無謬ではないだろうと思う。別に償還呪文を唱えようとは思いませんが念のために明記しておくと、もちろん HATARA KEI氏も。きちんと編集内容を確認し、根拠が示されている情報を残した上でURLを削除したのだったら、編集合戦にはつながらなかったし、議論をする必要もなかったはずだ。
鉄道関連ネタでしばしば見かける「情報を残すということを考えないリバートや削除」が、おれは気になっています(削除するのが相当な情報やリバートが相当な編集がそれなりの数あることは否定しないけれども)。それは、あなたの言い方を借りるならば、「既存のWikipedia編集者の手間を省くために情報提供者がかけた手間が犠牲にされた」ということなわけです。おれは、そういう風潮を見直してもらいたいんですよ。
まあ本件がそういう議論を提起するきっかけになるとは正直思っていなかったのだが、「根拠つきの情報が記載された版をリバートし間違った情報が記載された版に戻されたこと」「根拠つきの情報が消去されたこと」という鮮やかな症例が出た以上、せっかくだからそれは使わせてもらおうと思いました。--Nekosuki600 2009年11月7日 (土) 16:18 (UTC)[返信]
「情報を残すということを考えないリバートや削除」は確かに問題だと思います。ただ、あまりに記事のスタイルをぐちゃぐちゃに破壊して、情報は追加されているらしいがこの中から私がサルベージしないといけないの? みたいな状況でリバートしてしまうのはやむを得ないような気がします。また、Nekosuki600さんは即時削除の議論にも関わっていたと思いますが、あれで非常なスタブが残りやすくなってしまったことは、内心辟易しています。私がある程度完成した記事を求めてしまうためなのでしょうが、あまりな内容で立項されたものに対して、「あー、即時削除で対処できないから、とりあえず何か調べてまともになるまで加筆しないと」と相当な負担を感じてしまっています。大体においてこういう問題では「立項者の手間 << 後で加筆する人の手間」ですし、立項してもらったことによる加筆の手間の軽減は全くないと言っていいですから。それが行き着いて徳島さんの案件ではついに相手を追い出すに至ったわけですが、さすがにこの案件では私が、徳島さんのかけた手間を犠牲にしたなんて非難されることはないと思います。まぁ、ここは余談です。
でもって、本件の私の編集は、あくまで解決のテーブルに付くための手段であって、全く持って情報を損なうつもりはありませんでした。自己サイトリンクを無断でやったことにより、その情報は著作権侵害コンテンツと同じように一旦除去した上で議論すべきと考えたわけで、議論によっては戻すつもりもありました。論点1も当初は疑問でしたから、論点1が駄目なら戻せないという結論になったわけですが。それをもって情報除去の「症例」と言って欲しくはないです。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 18:51 (UTC)[返信]
えーと。部分的な妥協案です。
おれとしては、あなたの「読み仮名全削除」という対処については、現時点でも納得してません。ただ、「情報を削除して終わりにする」と考えていたわけではなくその先に模索をするつもりだったという可能性は、認めようと思います。この点に関しては、当該項目のノートにおけるあなたの記述とおれのリバート返しの時間差など、あなたの主張の裏づけになるものだと考えます。
ただ、できましたら今後、議論を行うという未来を想定したとしても、その前提を崩さないためになるべく情報の削除については慎重であっていただけると、個人的にはありがたく存じます。まあ、この点については、強くは求めません。
以上、妥協案の提示。
で、欠席裁判っぽい展開になることは望みませんが、最初の HATARA KEI氏によるリバートについてはいかがでしょうか。おれは、このリバートについてはやっぱし納得がいかない。間違った情報(駅名の読み)が付け加えられ、気づいてとり急ぎ資料調べをして根拠をつけて修正をしたことに対して、間違った状態に戻すリバートが行われたというのは、トラブルの発端になっても不思議はないできごとだったと思うんですよね。
果たしてトラブルはどこで起こったのか。別に誰かの責任にするつもりはないし指弾するつもりもないが、そういうトラブルを引き起こしがちな「風潮」というのは厳然とあると思うんですよね。何度目かの繰り返しになりますが、おれはその風潮を、いいかげんなんとかしたいんですよ。
スタブの即時削除を大幅に封じた件については、おれは全く後悔していませんし正しかったと思っていますが、ここでやるにはさすがに場違いだと思うんで、論じないものとします。--Nekosuki600 2009年11月8日 (日) 13:11 (UTC)[返信]
(インデント戻し)これがリンク部分のみ、あるいは読みを含めた部分の除去ではなくコメントアウトであったらどういう考えでしたでしょうか。ノートへの移動もありえるかもしれません。私としては、除去しても過去履歴から掘り起こしてくることは可能なので大差はないのですけど。もちろん、コメントアウトなどに比べれば、過去に除去された情報があることを知っている人以外は過去履歴にそういう情報があることを知りづらくなるので、当事者が作業を止めてしまえばそのまま情報が消えてしまう可能性は大ですが。なお念のために申し上げておきますが、自己サイトリンクが問題だからといって差し戻して特定版削除しろなどとは申しておりません。
情報の保存については引き続き留意いたしますが、一方で、Nekosuki600さんの方はいかがでしょうか。私としては、あの2回目のリバートは大変いただけなかったと思っておりますが。あの局面は明らかにノートで議論をするフェーズだったと思います。差し戻しは、その「風潮をなんとかする」ためにどうしても必要だったのでしょうか。--Tam0031 2009年11月8日 (日) 15:14 (UTC)[返信]
おれの対処は以下のようなものだったかと。
  • URLのみの削除
全く気にせずリアクションしない。
  • URLについてのコメントアウト
同じく全く気にせずリアクションしない。
  • 読みの部分の削除
現状起きていることですが、怒ります。
  • 読みの部分のコメントアウト
コメントアウトを戻す。戻し返されたら怒る。
改めて主張しておくのだが、おれとしては「根拠を明示した上で記述した『駅名の読み』」を「間違った読みに戻された(HATARA KEI氏の編集)」「削除された(Tam0031さんの編集)」に対して異議を申し立てているのです。おれとしては、根拠情報は記されているのであり「読みを削除する理由はどこにもなかった」と考えています。
別に分断工作をしようというわけではないが、まあおれとしてはTam0031さんが HATARA KEI氏と同調している可能性を感じてはいたものの、おふたかたの編集については意味合いが異なるということを明示することで、とりあえずTam0031さんとの対立の一部を解消しようと考えて妥協案を提示したわけです。妥協案ていうか、おれがTam0031さんに対する敵対的認識の一部を撤回することで妥協が成立しやすくなるのではないかと思ってそういう意思表示をしたのですが、それが意味を持たないのなら、妥協案は即座に撤回させてもらいます。
なお、「2回目のリバートがどうしても必要だったのか」について。唯一無二の手段だったとは思っていませんが、考え直してもらうための方策はいろいろあってそのどれを選ぶのかは問題を提起する側の裁量だろうと思います。コメント依頼が出されたというあたりは、ある意味で予想外の幸運だったと思ってます。現実的になんだ、無造作に情報を削除することについての問題提起なんて、穏当にやってもスルーされるだけなんじゃないんでしょうか。その程度に、「アホユーザ対応にうんざりしたことの結果としての鉄道分野における統制的発想」は強固なものであると、おれは判断してます。--Nekosuki600 2009年11月8日 (日) 15:45 (UTC)[返信]
同調、というと、どこぞのノートでYassieさんが言っていたように、鉄道関係の編集者は裏でコソコソつるんで集団工作をしている、みたいな話でしょうか。あれはまったくの邪推なんですけどね。単に編集分野が近いと、同じような問題に当たりやすく、同じようなウィキペディアでの編集経験を積んできた結果として判断が似るというだけの話でしょうに。
HATARA KEIさんがあの編集をどのような意図でやったのかは、本人ではない私には分かりません。必要なら本人の会話ページに聞きに行ってください。ただ、いつものHATARA KEIさんの投稿の動きを見ていれば、問題のある編集が鉄道分野で発生すると、履歴ページを見るだけで激怒しているのがわかるくらいの勢いで膨大な出典を投下して加筆していくわけですよ。なので、HATARA KEIさんがあの編集をした時点で、そんな宣伝臭のあることをしなくても、ちゃんと出典を示せるからちょっと待ってろ、くらいのつもりだったのではないかと推測します。実際、本件コメント依頼提出後に、HATARA KEIさん以外の方も参加する形にはなりましたが、多くの出典で固めた記事になりましたよね。その信頼性はどうなんだという問題はさておき。敢えて間違っている内容に戻したということについては、宣伝性の除去が最優先であると考えたのかもしれません。ただ、やはり本人に意思を聞かなくては分からないです。
問題提起に関しては、そうした個別事案に対して行うのは却って問題解決を妨げるだけだと思いますよ。必要ならば、鉄道PJで提議してみればよいのではないでしょうか。私からしてみれば実際、あの2回目のリバートこそが火に油を注いで問題解決を妨げた行為でした。PJで議論してどれだけの実効性があるかという問題はありますし、既にウィキペディア全体としてそういう方向のはずだという話もあるのかもしれませんが、個別の紛争事例で問題提起したところでやはり鉄道分野全体に対する実効性は疑わしいと思います。それでは手段が無いでは無いかと言われても、そういう集団意識を是正する速効性のある方法はないものと諦めるしかないものと思います。それでも自分はこの手段を選ぶのだ、と言われれば、私としてはこれ以上申し上げることはありません。
なお、読みの信頼性については、「停車場一覧」が最終的な解決だと思います。これ以上に信頼性があると思われる文献を知りませんので、早く当該期間に発行されたものの確認をしたいところです。あるいは国立公文書館で関係する書類を捜すかですが。その結果、現地での記載の名前と書類上の名前に違いがあることが発覚したら、それはそれで新発見でしょうし、そのときこそ間違いなく写真へのリンクを出典として掲示すべきものでしょう。--Tam0031 2009年11月8日 (日) 17:56 (UTC)[返信]
同調というのは「シンクロニシティ」に近い意味として用いました。計画的な共同歩調である可能性を否定はしませんが(Yassieさんが述べていたのはそういう意味あいであるように思います)、おれの認識ではフェーズロックドループ(PLL)のように自然に同調してしまうような状況だと思います。
んで、まあ「集団意識」ってことなんでしょうね。集団意識を是正するのは難しいということはわかっていますが、時折問題提起をすることもまた必要だし有効なことであると、おれは考えています。
おまけ。
停車場一覧を一定の根拠ある文献として扱うことに反対はしないのですが、それもまた一歩間違うと「異なる読みは認めん」とかいうひとが登場してしまう可能性につながるような気がして微妙に頭が痛いところです。「ろくきょう」と「ろっきょう」は表記が違うだけで実は発音同じなんじゃねーかという気がしなくもないし。--Nekosuki600 2009年11月9日 (月) 13:14 (UTC)[返信]
コメント内に反論するのもあれなんですが…。あなたが鉄ヲタであるのはjawpの公準なので、背理法により鉄ヲタ系の集団意識の問題ではないと証明されます^^;
確かに表記のブレの問題はありますし、古い時代は特にいい加減だったことはよくわかっているのですが、それを言い出したら駅名標だってブレているかもしれないわけです。それこそ、法的な書類にあるのが正式と主張できるかもしれません。近鉄の大和西大寺なんかは、行き先表示幕などで大和を常に省略して表記していたのに、国交省に怒られて表記を追加したと聞いています。その場合、表記は間違っていて法的な書類が正しかったわけです。--Tam0031 2009年11月9日 (月) 13:24 (UTC)[返信]
おい、せっかく穏当にレスポンスしてるのにそっちから喧嘩を売るつもりなのかよっ(てか、「コメント内」じゃなくて「コメントアウト内」な。読んだだけでわかるように書かないと読者に申し訳ないっすよ(=^_^;=))。--Nekosuki600 2009年11月9日 (月) 14:37 (UTC)[返信]

Unit.4

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コメント1.に関しては問題ないかと思います。2.に関してはケースバイケースで、ほかの出典が見つからない時に限るべきでしょう。ただし今回の場合は出典の明記法に重大な瑕疵があったというか、露骨に駅名ごとにリンクを貼り、そのリンク先が出典+自分の制作物の宣伝という差し戻されてもおかしくないケースだったと言えます。せっかくご自分のサイトなんですし、なんだったら出典用に宣伝とかを抜いたページで一覧にしてまとめて出典明記という形を取るべきであったと思います。--準特橋本Talk/Contribs2009年11月5日 (木) 15:34 (UTC)[返信]
コメントまず、Nekosuki600さんの今回の行為に全く問題がないとは思えませんが、かといって単純にルール違反と断じることもできません。1.については、とりあえず既存のものを生かした上で「こういう読み方をしているものもある」という記述の出典として用いるのであれば問題ないかと思います(上でNekosuki600さんが挙げている「Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください」に当たります)。結果的に既存の情報が間違っているという判断に至ったなら、脚注などの形で「文献によっては○○という誤った読みが書かれているものもある」と付記すればすみます。2.については、問題になっている外部リンクがコメント依頼者が挙げているWikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクの4に該当する以上、当該サイトを出典にするのは「適切な他の出典がいくら探しても見つからなかった場合やむを得ず行う」「その場合も自身で行うのではなく加筆依頼を出して第三者に加筆してもらう」くらい慎重でなければならないと思います。加筆依頼に出せば、依頼を見た人が他の適切な出典を見つけてきてくれるかもしれません。Wikipedia日本語版で長く活動されているNekosuki600さんなら、今回のような拙速な編集ではなくこれくらいの対応は取れたのではないかと思うのですが。3.については、単純に削除するのではなく理由を付記した上でコメントアウトしておき、「適切な他の出典がいくら探しても見つからなかった場合」に解除、適切な出典が見つかればそれに書き換える、という手順を取るべきだったと思います。--Twilight2640 2009年11月5日 (木) 16:28 (UTC)[返信]

Unit.6

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問題点がよくわからなくなりました。参考になる情報であれば自己サイトへリンクしても仕方ないとの考え方が多いようで大変意外です。情報が集まれば何でもよい、というのであれば、そのあたりの本やウェブサイトからどんどん転載してくれば、あっという間に情報は集まりますよ。でも、それはルール違反です。それが見つかったら、その部分は除去しなくてはいけません。今回も、自己サイトへのリンクというルール違反をして加筆されたように思われたので、それは除去すべきであるという考えであり、それについて誤りはない という点について、確認させてください。まず考慮すべきガイドラインはルールではない、という留保がありますが、それはひとまず置きます。Wikipedia:外部リンクの選び方#掲載してよい外部リンクの第二項に「情報の信頼性検証可能性などにおいて書籍や学術論文などと同等の水準を保っており、出典、参考文献として掲げるに値するサイト」とあり、今回のリンク先はそれに該当するとわたくしは考えております。該当するかどうかは判断の分かれることもあるでしょうが、もし、リンク先サイトがこの条件を満たす場合であっても、「ルール違反」であり「その部分は除去しなくては」ならないのでしょうか。そうではないでしょう。すると、Tam0031 さんは今回のリンク先がこの条件を満たさないと判断したということになるかと思いますが、そういう理解でよろしいでしょうか。それとも、内容によらず自己サイトへのリンクは排除すべき、ということなのでしょうか。自分のサイトへリンクを張る行為が中立性を疑われるという点からすると、内容の中立性ではなく行為だけを問題になさっているのではないかと思いますが、それはWikipedia:外部リンクの選び方#掲載してよい外部リンクの第二項とは整合しないと思います (行為だけで問題なら内容を検討する必要はないから)。また、行為の中立性だけが問題なら、結果としてリンクされているという点では同じなのに、本人がリンクするとダメで他人がリンクするのは構わない、というよくわからないことになってしまいます。本人がリンクしようが他人がリンクしようが、内容に問題があればダメだし、内容に問題がなければよいのではないでしょうか。Wikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクで自己サイトを排除しているのは内容としてのWikipedia:中立的な観点のためであり、「このような場合は、サイトへのリンクは最大限自制すべきであり、掲載する前にまずは上記の基準を十分に吟味してください。」とある様に、吟味のうえ自制することは求められていますが、中立性に問題のない場合にまでルールとして排除されている訳ではないでしょう。宣伝かどうかという点に関して微妙な部分もありましょうが、もし今回のリンクが写真への直接リンクであったとしても宣伝なのだとしたら、たいていの出典明示は書籍や雑誌の宣伝になってしまうのではないでしょうか。--Jms 2009年11月5日 (木) 22:37 (UTC)[返信]

今回の私の行動の根拠について、サイトの信頼性・検証可能性が水準を満たさないとの判断からではありません(もっとも、論点1が否定されたらこれも自動的に否定されることになるかと思います)。Nekosuki600さんの行為の中立性を問題視しております。本人がリンクを直接するのは駄目で、他人がするのは問題ないとの考えです。例え結果が同じでも、編集する人によって問題視するかどうかの判断はこの場合変わります。本人が編集すると、あらぬ疑いを招くから、一旦ノートで了解を取りましょうとの趣旨だと理解しております。そのサイトが「情報の信頼性・検証可能性などの水準を満たしている」と判断するのは誰なのでしょうか? 数値で採点して客観的に判断できるものなのでしょうか? 自分のサイトの信頼性が求められるレベルをクリアしていると、自分で判断するというのは、その時点で中立性を疑われることではありませんか? 自己サイトへのリンクを載せるなら、他人の目を一度通してからにしましょう、それで中立性を担保しましょう、と申し上げております。
その点で、iwaimさんの「Nekosuki600さんに対してではなく記事に対してのコメント依頼にすべきであった」という認識と私の認識の違いが説明できるかと思います。当該サイトの写真を資料として使用可能かを中心に信頼性などを評価しているコメントを頂いているわけなのですが、私は論点2においてむしろNekosuki600さんの行為が中立性に関する疑念を投げかけないか、という点を中心に聞いているつもりでした。その点は私の書き方がまずかったのかもしれません。iwaimさんやJmsさんの最初のコメントは、外部リンクの選び方の基準に則って、これを満たしているから問題ない、と外部リンク先に対する事後審査を行っているのに対し、私は事後審査になったこと自体が問題で事前審査すべきであった、と言っているのです。
外部リンクの選び方の規定が、もし自分で判断して自己サイトへのリンクの追記をすることが許されるように読めるならば(信頼性の水準を満たしていれば、「掲載すべきでない外部リンク」に関わらず掲載できると読めるならば)、それは改定を要すると思います。一言ノートで断るように手順を定めることに、大きな問題はないものと考えます。--Tam0031 2009年11月6日 (金) 15:38 (UTC)[返信]
うーん・・・。
こんなケースはそうそう起きるものじゃないと思うし、「その都度、議論をする」でいいんじゃないかなあとか思うのですが(目下、おれの行動に関するコメント依頼で議論になってるわけだけど、おれはそれをいやがっていないし)。
ていうかなんだ。「明文法的ルールを増設する」という解決策って、しばしば「ルール大系がわかりにくくなる」という副作用をもたらすものであり、そういうルール化はやめといたのがいいんじゃないかなあ。たぶんたいして問題解決につながることはなく、わけわかんない隅っこに置かれているルールで自分が非難されたと思うひとを増やすだけだと思うんだ。--Nekosuki600 2009年11月6日 (金) 16:19 (UTC)[返信]
問題が起きるとマニュアルがどんどん厚くなり、そうすると今度はマニュアルが分かりづらいという苦情が増えるという奴ですね。そういう問題があるのは確かです。ただ、本件の場合、「常識」や「ウィキペディアの精神」に照らせば、自分のサイトにリンクを張ることについて事前に伺いを立てるくらい当たり前だったと、少なくとも私は考えているわけです。ルールに明示的に書いてなくともです。そして、実際に問題が起きたから、明文規定がないと駄目だね、と申し上げているわけなので、実際に問題を起こした当人に「ルールが増えるとわかりづらくなる」などと言って欲しくはないのです。--Tam0031 2009年11月6日 (金) 17:59 (UTC)[返信]
事前審査すなわち査読でうまくゆかなかったのがヌーペディアであり、その意味でウィキペディアは基本的には事後審査でしょう。揉めそうな事柄については軋轢を避けるために事前に相談することがある、というのが基本線だと思います。「他人の目を一度通してからにしましょう」というのがポイントならば、本人が管理するサイトへのリンクが追加された際、他の誰かがそのリンク先を確認すれば他人の目を一度通るわけですから、その上で内容に問題があれば除去、なければそのままとし、その旨要約欄なりノートなりに書けば済む事だと思います。その判断は内容に基づくものであって、リンクをしたのが本人であるかどうかにはよらないでしょう。「宣伝があるから」「写真は資料とならないから」といった理由でリンクを除去するのは (その判断の是非は別途検討の余地があるとしても) わかりますが、「内容に問題はないが本人リンクだから」で除去という場合、結局はその他の人が一度リンクを除去して、その他の人または別の誰かが再度リンクすることになります。後者に何か意味があるのでしょうか、中抜き削除でもして、履歴から本人によるリンクを抹消しようというのでしょうか。Wikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンク節は、企業広告の様に明らかに本人に利する広告であったり、明らかに中立性のない主張をしている場合などに、本人がそれと知りながらリンクするこをと戒めているのであって、「内容によらず本人だからダメ」というのはWikipedia:外部リンクの選び方の意図するところではないでしょう。--Jms 2009年11月6日 (金) 21:01 (UTC)[返信]
すみませんが、全く同意できません。記事の編集自体は、事後審査でやっていますしそれでいいでしょう。しかし、中立性を疑われるような自己サイトへのリンクについて、これも事後審査でいいのだというのは、全く納得がいきません。他人が再度リンクすることについて「何か意味があるのでしょうか」ということですが、他人がチェックしたという意味が明確にあります。「企業広告の様に明らかに本人に利する広告であったり、明らかに中立性のない主張をしている場合など」を、本人が判断してはいけないと申し上げております。自分自身の行為について自分で中立だと判断することが、どこまで信頼のおけるものなのでしょうか。もちろん、ウィキペディアの基本的な方針に中立性を維持した編集をするというものがあって、その中立性は常に自分で判断しながら編集をしなければならないのですが、記事の対象事物に対して中立性を守れているか自分で判断するのと、自分のサイトに対する評価が中立性を守れているか自分で判断するのでは、大きくレベルが異なるでしょう。自分自身に関する記事を書かないという原則も、そのあたりから来ているのではないのでしょうか?
仮に、自己サイトへのリンクも事後審査でよい、という結論になったとしても、本件では2人が「いやちょっと待って、それはまずいですよ」と差し戻しをしたのに対して、Nekosuki600さんが2回リバート返しをしている時点で、事後審査ですら無視をして自分のサイトへのリンクを維持しようとしているといることになり、やはり問題であると言わざるを得ないと考えます。もちろん、ここで問題であるとして差し戻しをした時には、リンク先の審査以前に自己サイトへのリンクがまずいでしょうという判断に基づいたものであったことは否定しませんが。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 07:50 (UTC)[返信]
「何か意味があるのでしょうか」というのは、本人以外がリンク先の内容を確認し、リンク先の内容に応じて本人によるリンクを除去なり存続なりすれば済むことなのに、内容を確認して問題がなかった場合にまで一旦除去することに一体どういう意味があるのか、というのを問うています。中抜き削除をしようとしているのでない限り意味があるとは思えませんし、もし中抜き削除を意図しているなら、それは「本人によるリンク」という行為を履歴から見えなくする意味しかないでしょう。リンク先の内容を確認して、その内容に応じて除去なり存続なりすれば他人によるチェックはできているのだから、内容によらない一旦除去は不要でしょう、ということです (内容に応じて存続か除去かの判断が分かれるのはまた別の話ですし、本人によるリンクかどうかというのもリンク先の内容の是非とは関係ありません)。リバート云々に関しては本コメント依頼の範囲外だと思うのでコメントしません。--Jms 2009年11月7日 (土) 08:22 (UTC)[返信]
仮に、Nekosuki600さんの今回の編集を、Jmsさんが先に確認されたとしましょう。Jmsさんは、本人のサイトへのリンクであることを承知の上で、リンク先を確認して、このサイトなら問題ないだろうと承認したとしましょう。では、そのJmsさんの意思を、他の人が知りうる手段はあるのでしょうか? Jmsさんが、ノートに「このサイトなら問題ないと思う」と書いておくのでしょうか? リンクを追加した当人が、事前にノートでの断りもしていないのに、事後審査をした人がノートへのコメントをしておくなんて滑稽じゃないですか。一旦リンクを除去してその上で戻すというのは、必須ではないかもしれないですが、そうすることによって他人の審査が入ったのだということを明確にできます。これも、本人がノートで断りさえすれば問題なかったのに、それをしなかったために他人が余計な手間を取らされる一例ではないでしょうか。
その後にその記事を編集した人が問題視しなかったということを、暗黙の承認と捉えることもできるかもしれません。しかし、一部分のみを修正する人は、全体に目を通していないことも普通にあるでしょうし、ましてやそのサイトへのリンクが自己サイトへのリンクであると気づかない人もたくさんいるでしょう。暗黙の承認とみなすにはあまりに危ういと思います。
もちろん、誰でも自由に編集できることが原則のウィキペディアでは、一旦他の人の検討の上で問題なしとされたことについて、ずっと後になってからやっぱり問題ではないかと提起して除去を図ることもできるわけですが、やはり事前に断りを入れることで無用な疑いや争いを招かないようにすることが、全体として最も効率よく記事の向上を図っていける道であると、私は考えます。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 10:37 (UTC)[返信]
具体的な手順は既に書きましたので繰り返しませんが、暗黙の承認と看做すなどとは書いていません。--Jms 2009年11月7日 (土) 10:51 (UTC)[返信]
すみません、ボケてました。確かにJmsさんは手順をお書きですが、それでも変わらず、リンクを張る当人がやらない手間を、確認する人がしなければならないのはおかしいという見解です。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 11:25 (UTC)[返信]
それは、箇条書きの番号でいうと、内容の如何によらず 2. に問題がある、という主張だと思います。わたくしが述べているのは、リンク先の内容に問題がないことを確認したなら、箇条書きの 3. は問題である、ということです。そして、Wikipedia:外部リンクの選び方に従えば 2. が問題になるのは内容との関連においてであるから 2. 単独で問題視することには根拠がなく、従って除去には内容確認が必須である、内容を確認した上で、内容に問題がないにもかかわらず本人がリンクしたという理由だけで一旦リンクを除去し再度リンクを設定するというのはナンセンスだ、ということを述べています。「リンクを張る当人がやらない手間を、確認する人がしなければならないのはおかしい」というロジックでゆくなら、すべての出典について事前申告が必要になるでしょう。本人による自己サイトへのリンクを特別視するのを一旦留保して、一般的文脈で出典の提示について考えてみることをおすすめします。なお、事前申告されたとしてもそのリンク先について誰かが確認することを求めていらっしゃるのですから、結局は「確認する人がしなければならない」のですし、一方、本人は内容に問題がないと考えているのだからこそ出典としてリンクしたのですから、本人がリンクした時点で「リンクを張る当人がやらない手間」は既に存在していない (リンクを張る行為がそれに相当する) と考えるべきでしょう。--Jms 2009年11月7日 (土) 11:46 (UTC)[返信]
いえ、外部リンクの選び方の規定をそのように捉えられるならば、それは改定すべきであると既に述べたとおりです。本人が自分の中立性を判断するというのは、実際問題としておかしいと考えます。そのように解釈しうるというのは、論点2を書いた時点では考えてもみませんでした。ですので、論点2について単独で当然に問題視しております。
「自己サイトへのリンクを特別視するのを一旦留保」と言われても、それこそがまさに問題視されている内容なので困ります。他人の著作物を出典として提示する行為について、本人が中立性を判断するのは問題ないと私も考えているのですから、それについて事前に審査せよなどとは申しません。自己サイトへのリンクを特別視することが本件の出発点なのです。
「本人がリンクした時点で「リンクを張る当人がやらない手間」は既に存在していない (リンクを張る行為がそれに相当する)」ですが、リンクした時点では誰の承認も得ていない内容が記事中に載せられるというのは問題です。私は事前審査を主張しているのですから、それがなされずに一旦表に出るということが問題なのです。本人がノートに書く、誰かがそれを見て問題なしと書く、そして本人がリンクを記載する(あるいは問題なしと判断した別の人が記載する)という手順でなければならないと申し上げております。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 12:20 (UTC)[返信]
本人リンクを問題だと考えるのは、本人による判断が中立でないかもしれないからだということでしょう。本人だろうが他人だろうが、判断は誤っていたり中立でなかったりする可能性があるので、本人リンクについて事前審査を求めるなら、他人の著作物を出典とする際にも事前審査を求めるべきでしょう、読み間違えているかもしれませんから。自己サイトへのリンクを特別視することで、ダブルスタンダードになっていませんか。--Jms 2009年11月7日 (土) 12:40 (UTC)[返信]

Unit.6.1

[編集]
(インデント戻す)いいえ、ダブルスタンダードではないと考えます。他人に対する判断も、確かに中立的ではない可能性はありますし、実際そういうことを平気で書く人もいるわけですが、それは皆で記事をチェックして直していきましょうというのがウィキペディアだと思っています。しかし、どんな人でも自分を客観的に見ることは難しいから、自分に関することには注意が求められているわけです。自分も他人も関係なく客観的に見ることができます、なんていう人はどんな神様だよ、と私は思います。そのために、自分に関してだけはちょっと特別扱いして、他の人の判断を仰ぎましょうよ、というのはごく自然なことだと思います。特に中立性に関する危険性が高い部分を特別扱いにするのは、記事執筆の手順としてあってよい話であって、何らダブルスタンダードではないと考えます。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 12:49 (UTC)[返信]
言いたいことはわからなくはありませんが、今回はそれをアップルパイにまで求めてしまったのが問題でしょう。それはさすがに行き過ぎではないでしょうか。駅名標の写り具合がわるくてどちらとも読める、というのならまだしも、今回はそういう写真ではないでしょう。結局は内容で判断する必要があるのです。--Jms 2009年11月7日 (土) 13:00 (UTC)[返信]
本件に関しては「中立性」が問題になるようなことはないと思います。別に駅名の読みについて長年論争となっているわけでもなく、単にいくつかの書籍で「間違いではないか」と思われる記述があるだけです。リンク先がそれに対する評論めいた文章というのならともかく、判断材料として駅名票の写真を提示することは、中立性とは関係ないと考えます。--rs1421 2009年11月7日 (土) 13:24 (UTC)[返信]
まず、アップルパイ特例のようなものを自己サイトリンクに適用することについて、そのアップルパイ案件であると判断するのが自分であるわけですから、その時点で矛盾をきたしていると思います。
仮にアップルパイ特例相当のものが認められるとするならば、宣伝色を排したウェブページへのリンクであったならばそれをアップルパイと容認したかもしれませんが、現実にあのページには宣伝文句が書いてありましたよね。それをアップルパイだと言うのはどうなんでしょうか。実際にこのコメント依頼でも「宣伝である」とコメントする人がいましたよね。その時点でアップルパイですらないと思います。写真そのものの資料価値については、前述したとおり争っておりません。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 14:21 (UTC)[返信]
…だから、写真だけに直接リンクしていたらどうだったか、と聞いたのですが…。自己判断が矛盾をきたすなら、定義上、それはアップルパイ案件ではありません。さて、是非の判断には内容に立ち入る必要がある (アップルパイに該当するかどうか、宣伝であるかどうかを問うている)、つまり、本人による自己サイトへのリンクであることだけをもって排除することは望ましくない、という点はよろしいでしょうか。--Jms 2009年11月7日 (土) 14:27 (UTC)[返信]
すみませんが、自己サイトリンクにおけるアップルパイを認めてなどいないので、「直接写真へのリンクをしていたらどうだったか」というのは相変わらずNOですよ。たとえアップルパイを認めたとしても宣伝が疑われる本件ではおかしいよねと念のために書いたまでです。自己サイトリンクの是非の判断には内容に立ち入る必要がありますが、本人がその判断をしてはいけないというのが私の主張なので、アップルパイのような特例が成立しうる余地はないとの考えです。あえてアップルパイのような特例を作るなら、「写真のみへの直接リンクなら本人判断でよい」のような明文規定を作って処理すべきでしょうが、今度はその写真の資料性を判断するのは誰なのかという問題が出てきます。あくまで、本件の例において私は写真の資料性を認めましたが、それは一般的に適用できませんよね。資料性を判断するのは誰でしょうか? やっぱり本人ですよね。今度は「駅名票の写真なら本人判断でよい」という特例を作りますか?--Tam0031 2009年11月7日 (土) 15:02 (UTC)[返信]
わたくしは現状のWikipedia:外部リンクの選び方で適切に対処できると考えているので、本人判断について更に細かい規程を作る必要があるとは思いません。本人による自己サイトへのリンクが行なわれた場合の手順として Tam0031 さんが求めているのは次の通り、という理解でよろしいでしょうか。
  1. 何らかの方法で本人による自己サイトへのリンクであることを確認する。
  2. 本人による自己サイトへのリンクであると確認できたら、内容は確認せず除去する。
  3. 当該サイトへのリンクはウィキペディアから除去されるので、誰も検証しない。
アップルパイについての理性さえ一律に信じてはならないとしたら、そもそも百科全書派に由来する百科事典なぞ編纂できない気がします。本人は一切判断してはいけないが、他人は完全な判断ができる、という根拠が理解できませんし、そもそもアップルパイは判断以前の問題でしょう。全く話がかみ合わないということはよくわかりました。--Jms 2009年11月7日 (土) 15:15 (UTC)[返信]
懲罰をするために当該サイトへのリンクを除去するわけではないので、当該リンクをどうするかは以後編集する人の判断です。私が本件でリンクを除去したのは、問題の根源になっているから一旦除去して、ノートで話し合いましょうというだけのことですから、無差別に本人リンクを除去という意図ではありません。他の人が問題ないと思ったらそのまま残ることもあるでしょう。一律除去とは申しません。でも、問題が起きたら事前提案なく本人リンクをした人の責任です、ということです。物言いが付いたらノートでの話し合いになるでしょう。それは事後審議とどこが違うのかと言われるでしょうが、ルールとして事前審議が定められていれば、本人リンクをした人の行為は明確にルール違反なので、「物言いとしてまずは差し戻し」という行為は許されることになります。そうでなければ、今回の私のように「有意義な情報を除去した」と批判されてしまいます。要は、事前提案を必須とするルールを定めておいても、提案なしにやって問題なく通ることもあるのでしょうが、手続きに瑕疵があるのだから物言いが付いたら文句を言うなということです。
他人なら完全な判断ができるとは申しておりません。本人ゆえの偏向を逃れた判断ができるだろうということです。誰しも偏向はあるので、偏向を完全に排した判断は無理なわけですが、それでも自己に対する判断ほど偏向しやすいものはないと思います。医者は、自分自身の病気の診断は自分では行いません。自分に対してはどうしても診断が甘くなるからです。家族に対しても、甘くなりがちなのでできるだけ避けたがります。自分との関係が薄くなるにつれて、より偏向が薄れて的確に近い診断ができるようになるとされるので、自分が病気の疑いがあると思った医者は、先輩同僚後輩も避けて全く関係のない医者に診察を受けに行くと聞きます。これと同様に、特に偏向しやすい自分に関することについて、ウィキペディアにおいて特に気にして特別に取り扱うというのは、うまく編集を進めていく手段としてあってよいと考えます。むしろアップルパイとかを導入してどうして変に話を複雑にしようとするのか理解できません。自分に関することであれば、例外なく事前にノートで了解しましょうというだけの話なんですが。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 16:45 (UTC)[返信]
駅名標の写真について、「自分自身」というアナロジーがどう対応するのかわかりません。駅名標やその写真は自分に関することではないから、アップルパイ相当なのですが。それとも、写真に何らかの加工がなされているといった疑いをお持ちなのでしょうか。インディーズバンドが自分たちのサイトを出典としてリンクするのと、駅名標の写真を出典としてリンクすることは全然違うと思います (議論の単純化のためにとりあえず宣伝の話は分離しましょう)。「物言いとしてまずは差し戻し」という行為がそもそも無意味な場合がある、と指摘しているのですが、そこはご理解いただけておりましょうか。内容の判断をせずに「物言いとしてまずは差し戻し」などとしたら、「有意義な情報を除去した」と批判される場合があるのも当然でしょう。内容が宣伝だと判断したというのなら、宣伝部分を除去するのはまだわかります (宣伝と看做すべきかどうかの判断は別途議論があるにしても)。しかし、内容の如何によらず本人による自己サイトのリンクだから、といって除去する行為は批判の対象となり得るでしょう。「手続きに瑕疵がある」というのはWikipedia:外部リンクの選び方の拡大解釈に基づく主張であって根拠がない、というのは再三指摘している通りです。その主張はWikipedia:外部リンクの選び方を改訂してからにしてください。--Jms 2009年11月7日 (土) 17:00 (UTC)[返信]
どのような資料が置いてあろうと、自分のサイトに自分の判断でリンクするのは私の感覚ではちょっと気が引ける、というか避けたいことなのですが…。たとえばスキャンした著作権切れの写真や文献など、自分の著作物ではないものを置いてあったとしても、自分のサイトにリンクするのはサイトの宣伝にならないだろうか、と考えます。置いてあるのが自分の著作物ならなおさら、自己顕示に基づくものではないだろうか、と考えます。その感覚を理解できないというのなら、それはもう私がこの点について潔癖すぎるということなのでしょうから、致し方ありません。
後段、「手続きに瑕疵があるというのは拡大解釈」というくだりについては、私の前回のコメントは当然私が望む外部リンクの選び方規定の改定を経た後の話です。Jmsさんの「本人による自己サイトへのリンクが行なわれた場合の手順として Tam0031 さんが求めているのは次の通りでしょうか」に対する返答なので、要するにあなた(Tam0031)は今後どうしたいのかと問われたと考えて、このようにしたいと返答しました。現行規定の解釈でそのように処置できると主張しているわけではありません。実際のところ、今回の件で私の編集をした時点では、自己サイトへのリンクを自分で判断してよいと解釈できるとは思っていませんでした。その点は方針を誤解していた面があるのは確かでしょう。しかし、私はあの編集で情報を損なおうとしたわけではなく、問題が起きない状態に一旦戻して話し合いを、と考えただけなので、それを「有意義な情報を除去した」と非難されても、というところがあります。論点1も疑問がありましたから、もし論点1が駄目なら、載せようがない情報ですし。もう少し要約欄で具体的に説明すべきだったでしょうか。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 18:51 (UTC)[返信]
「私の感覚ではちょっと気が引ける、というか避けたい」ならば、Tam0031 さんはなさらなければよいことでしょう。同様に、「明らかに問題のない場合にまで、一々ノートで事前にお伺いを立てて他人様の手を患わせるのは気が引ける」と思う人もいることでしょう。誰がどこに手間をかけられるか、かけようと思うか、どこが重要と思うかは人それぞれです。潔癖すぎるというよりは、問題を単純化しすぎなのではないかと思います。行動の方向性はガイドラインなどで示されているにしても、その細部についても人それぞれです。細部のすり合わせで軋轢を生むよりは、フリーな百科事典の編纂という目的から逸脱しない範囲で合理的に判断し行動するのが妥当だと思います。手続きに瑕疵があるというのは現行規程についての解釈ではない、という点はわかりました。やりとりそのものについてはコメントしませんので、どうすべきだったかという点についても言及しませんが、わたくしが考える事後対応の手順はすでに述べました。
残っているのは宣伝かどうか、という点です。わたくしは宣伝ではないと考えています。ある内容をデグレードして Web 上で公開しているのであって、出典として提示されているのだと考えます。「発売中」とあるじゃないか、インディーズバンドが自分たちのサイトで曲の販売をしているのとどう違うのか、という意見もあろうかと思いますが、今回の場合目的は写真にあったのであって、その点では違うと言えるでしょう。仮に販売している媒体について一切の言及がなかったとしても、Google Ad が残りますが、それを言い始めると雑誌に含まれる広告もすべて問題となるはずです。また、雑誌を出版している会社の扱う書籍が当該雑誌の広告として掲載されている場合もあることを考えると、今回の件はダメで雑誌はよいというおかしなことになります。そのあたりを考えつつWikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクを読むと、排除しようとしているのは「その外部サイトが物品やサービスの販売(広告、アフィリエイト等の商業行為を含む)以外に特筆すべき内容を持っていない場合」であって、今回の件の商品への言及が宣伝であったとしても、この条項には該当しません。「宣伝目的のリンク、自分が運営にかかわっているサイトへのリンク」項の書き方はちょっとわかりにくいのですが、問題とされているのはリンク先の内容が百科事典の出典等としてふさわしいかどうかであって、広告があることをもって一切禁止というわけではありません。--Jms 2009年11月7日 (土) 22:13 (UTC)[返信]

Unit.6.2

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(インデント戻す)その前段の「明らかに問題のない場合にまで、一々ノートで事前にお伺いを立てて他人様の手を患わせるのは気が引ける」というのはおかしいですよ。事前提案の場合、ノートにその旨を記載するわけですが、ノートでの合意に関しては一定期間(通常は1週間前後)待って、異論がなければ合意が成立したとみなしてよいのが慣例のはずです。ということは、その外部リンクに問題がないと思う編集者は、特段ノートに何も書く必要はないはずです。異論がある人だけ書けばよいのであって、つまり負担は異論がある人にだけ発生します。自分は異論が無かったのに、他の人が文句をつけたようだ、という場合には何かコメントする必要がでるかもしれませんが、それは「明らかに問題のない場合」ではなかったわけです。一方、事後でよいという場合は、異論のある人はそれにクレームをつけて元に戻すという作業には多大な手間が掛かります。どちらが他人の手間が少ないかといえば、明らかに事前提案だと思いますよ。問題を単純化しすぎと仰いますが、それでも問題解決に有用な手段であると思います。一律に事前提案と設定したとして、何か問題がありますでしょうか。誰にでも明確な規定であり、問題の発生を最小にすると思います。
自己サイトリンクの問題が無かったとした上で、宣伝性については、もし写真への直接リンクであったならば問題はないと思います。また一般論として、新聞社のサイトなどには非常に有用な記事がたくさんあってソースにしたいわけで、実際に私もソースにしたことはありますが、そこには広告もほぼ常に伴うものであり、広告が入っているページへのリンクは一律不可と言うつもりはありません。しかし、そこでやっぱり、本件の例では広告入りの自分のサイトへ誘導するのに事前にお伺いを立てないの、ということが、私には気に掛かります。広告性も自分で判断するものなのでしょうか。実際、本コメント依頼にコメントを頂いた人の中には、宣伝であり問題との見解を示している人もいるわけですよね。少なくとも議論無く宣伝ではないと言い切れるようなケースではなかったと思います。これについても同様に、事前提案との規定を作ってしかるべきものだと思います。現行規定では、事後でよいのかもしれませんが。--Tam0031 2009年11月8日 (日) 15:14 (UTC)[返信]
おかしいといわれましても…内容が同じなのに本人リンクはいけなくて他人リンクはよいというのこそ不合理という意味で「おかしい」と思う考え方もあるわけでして。「その外部リンクに問題がないと思う編集者」は、結局確認したから問題がないと思えるわけです。確認したのは、ノートでお伺いがあったから、確認したわけです。ノートでお伺いが立てられなければ、確認しなかったかもしれないのです。負担云々手間云々というのがそもそもよくわからないので、わたくしは何か勘違いしているのかもしれませんが…。一律に事前提案と設定することの問題点については既に書きましたので繰り返しません。宣伝については、宣伝であるかどうかについての複数意見はあるにしても、それはいずれも内容に関する意見であって、ある宣伝が本人リンクだと問題で他人だと構わないという議論ではないでしょう。また、宣伝を含んでいたとしても、宣伝が含まれていることだけをもって排除される規程にはなっていないことも既に指摘した通りです。--Jms 2009年11月8日 (日) 15:32 (UTC)[返信]
事後審査の方式でも、確認した上で問題ないと判断して何もしない人はいるかもしれないわけですよね。ノートで伺いが立てられたから確認して問題なかったから何もしなかったという手間と同じだと思います。
すみませんが、これだけの量になると全部の発言を覚えていられないので、事前提案と設定することの問題点についてどのような主張をされたか、Jmsさんのコメントを読み返しましたが発見できませんでした。申し訳ないですが、当該部分をポイントしてもらえますか。
私としては事前提案について、ページの改名提案と同じくらいのつもりでいるのですが。ページの改名も、正規の手順としてはテンプレートを貼って、改名提案ページに告知して、ノートで議論して行うことになっています。しかし明らかに正しいと思えばいきなりやってしまうことも慣例として許されているはずです。ですが、正規の改名提案を経ずに後で物言いが付いたら、それは「明らかに正しい」という判断が間違っていたことを意味するので、非は正規の提案を踏まなかった側にあり、一旦戻して議論しましょう、ということになると思います。それと同じようなイメージなのですが。なお、ここではページ名の付け方の規定に反するものは即座に移動してよいという特例があることは考えないものとします。--Tam0031 2009年11月8日 (日) 17:56 (UTC)[返信]
問題ないなら、問題ないのだから、問題はありません。事前審査の問題点は基本的に20091106T2101Zに書いた通りです。要点を箇条書きすれば
  1. 事前審査はヌーペディアでうまくゆかなかった、ウィキペディアは Wiki だからできる事後審査が基本
  2. 事後審査でも原理的問題があるわけではない、内容判断が必要であり、内容判断だけが必要であることは同じなのに、事前審査として一段階ステップを増やす必然性がない (手間とステップを混同なさいませぬ様)
  3. 内容によらず本人リンクだからという理由でのみ事前審査とするのは論理的整合性を欠く
といったところです。本人リンクが、本人の手になるものであるがゆえに事前審査だというのなら、本人撮影の写真を記事で用いるかどうかも事前審査の対象とすべきですし、投稿もすべて事前審査としないと整合しません。改名提案と記事執筆が同じだというのはあまりに形式主義というか、潔癖というか、現実離れしていると思います。まぁ、鉄道関係で検証可能性を満足しない問題ある編集が繰り返し行なわれていてうんざりしているのかもしれませんが、だからといって他の分野まで同じということではないでしょう。--Jms 2009年11月8日 (日) 22:07 (UTC)[返信]
発言の場所をポイント頂きありがとうございます。もっと具体的な問題を指摘されたのかと思って探してしまいました。そういう理念的な問題なのですね。ただ、事前審査でうまくいかなかったから事後審査というのはどちらかというと経緯の話であって、それは金科玉条の方針ではないと思います。実際それだと、改名提案などで事前提案が勧められていることと整合しません。また、理念を元に演繹的に各種の規定や編集慣行などを定めていく方向性ももちろんあるでしょう。ただ、逆に実際の記事はこういうものがよい、これは悪い、みたいな判断から一般的な法則性を抽出したり、実際に起きた問題から対策として整備する規則のように、帰納的な方向性で作っていく規則・方針もあると思います。そこで帰納されて求めた方針案が、これまでの経緯と違うからといって否定してしまうのはどうなんでしょう。我々は記事を書くために集まっているのであって、理念を死守するために集まっているわけではありません。三大方針は譲れないとジンボから申し渡されているとしても、それ以外の部分は必要があれば変えていけばよいのではないでしょうか。
「問題ないなら、問題ないのだから、問題はありません」は、事前審査の方式でも事後審査の方式でも、チェックして問題ないと判断した人は手間は掛かってないということですね。では問題あると判断した人の問題提起の手間を考慮すればよいことになります。
本人撮影の写真を記事で用いることについて事前審査を適用するのは不合理です。簡単にするために式で説明しましょう。ある行動をウィキペディアにおいて実行して、何らかの問題が発生する確率をpとしましょう。ここでは、物言いがついて問題解決が必要になる確率なので、結果的に問題が無かったとしてその編集に同意される分を含みます。一方、事前にノートで提案するコスト(手間)をc1、事前審査方式で問題が発生した時の問題解決のコストをc2、事後審査方式で問題が発生した時の問題解決のコストをc3としましょう。c1は、ノートで一言書くだけなのでとても小さく、またc2 << c3であることは以前から主張しております。すると、事前審査方式の平均コストは、1・c1+p・c2、事後審査方式の平均コストはp・c3です。事前審査方式のコストが事後審査方式より低くなる条件式は、c1+pc2 < pc3です。したがって、この式をpについて解くと、となります。この式から分かるように、事前審査方式が事後審査方式よりコストが小さくなるのは、当該事案の問題発生確率がある一定の値より大きい時だけです。通常の記事編集や写真の貼付では問題発生確率が低いので、事後審査方式の方が合理的です。一方、同じ写真の貼付でも、他人の写真を差し替えるとかなりの確率で問題が発生しているわけで、差し替えは一律にノートで事前提案にしろという声も聞かれるところです。記事の大規模な編集や改名など、問題発生確率が高い事象について事前提案が推薦されているのも、同様に考えることができると思います。多くの編集者が協力して円滑に作業を進めていくために、問題が発生する確率を減らし手間を減らす目的で、事前提案制度をうまく運用することは別段何も不思議なことではないと考えます。--Tam0031 2009年11月9日 (月) 14:16 (UTC)[返信]
「我々は記事を書くために集まっているのであって、理念を死守するために集まっているわけではありません」というのはどちらの主張にも成立します。本人リンクは内容によらずすべて事前審査すべきだ、という主張もまた、理念の死守でしょう。改名提案を基準として用いるということは、本人リンクにかかわるいかなる編集も記事名と同様であるという主張だと理解します。本人判断があてにならないというのがその理由である以上、本人によるいかなる判断もあてにならないので、すべての編集は事前審査せよという主張をなさっていることになります。「問題ないなら、問題ないのだから、問題はありません」は、事前審査の方式でも事後審査の方式でも、チェックして問題ないと判断した人は手間は掛かってないということですね というのは、なぜそう読めるのかわかりません。内容について問題がないと判断されたなら、内容について問題はないのだから、そもそも本人が自己サイトにリンクしても問題がなかったのだ、ということです。「事前提案制度をうまく運用すること」というのは、制度かどうかはさておき、なにがうまいと考えるかにもいろいろあるわけで、一般化した表現を用いてもあまり意味はないと思います。c2 << c3 は Tam0031 さんがそう主張しているだけですし、事前審査方式と事後審査方式では確率空間が異なるのに同じ文字 p で処理して比較している点も問題ですが (「問題が発生する確率を減らし手間を減らす目的で、事前提案制度をうまく運用する」ということは、制度によって生起確率が異なると考えているはずなのですが…)、もっと本質的な部分で合意が無理そうですので、その先の議論はしますまい。--Jms 2009年11月9日 (月) 15:09 (UTC) 脱字補 --Jms 2009年11月9日 (月) 16:40 (UTC)[返信]
では、理念は必ずしも死守する必要がなく、記事編集の都合に応じて柔軟に対処すればよいということはご同意いただけますね? 私は理念を死守しているわけではなく、自己サイトリンクは全て事前審査することがウィキペディアの編集の上でもっとも摩擦がなくうまく行く方法だと考えているだけです。
その後の、「すべての編集は事前審査せよ」は、こんな主張はしておりません。自分に関して近いことほど自分の判断があてにならないから、他人に判断してもらおうと言ったはずです。医者のメタファーのところで説明しましたよね。この「自分に関して近い」はウィキペディアでは、自分に関する記事を書くことや、自分のサイトにリンクを張ることでしょう。それに1つ前の私のコメントでも言ったとおり、単なる編集なら問題が発生する確率は低いので、事後審査の方がコストが低いのですよ。自己サイトリンクは、特に問題を起こしがちだからこそなおさら事前審査と言っているのです。
「問題が発生する確率を減らし手間を減らす目的で、事前提案制度をうまく運用する」はちょっと言葉の使い方が悪かったかもしれません。ここでいう問題は、クレームが付くという問題ではなく、それが今回のような紛争に発展するという問題です。本件事案でも、事前に提案があればすんなりうまくいっていたでしょう。いきなりやって編集合戦のようなことになったからコメント依頼に発展したわけです。そのような事態を回避できるようにするという意味です。事前に提案があって話し合いをするコスト(c2)と、事後にクレームが付いて話し合いをするコスト(c3)では明らかにc2 << c3だと思いますが。実際に本件のようにコメント依頼で延々と続いているのは大変なコストです。これは事前提案でも発生したコストでしょうか? c2 << c3でなければ改名提案などの制度がある理由を説明できないと思います。c2 << c3でなければ、改名をいきなりやって、問題があれば後で相談してもかまわないということになります。この点に関してはNekosuki600さんのコメントでも(きちんと手順を踏むことが)「安全策」であると言っているわけですよね。--Tam0031 2009年11月9日 (月) 17:26 (UTC)[返信]
ウィキ(ペディア)的なしくみにおいて、手順を踏んで安全策をとることが必ずしもベストでないということは指摘させてください。(別に何でもかんでも英語版のようにしろという気はないですが)たとえば英語版では「改名をいきなりやって、問題があれば後で相談してもかまわない」のです。Wikipedia:ページの編集は大胆にWikipedia:指示の肥大化を避けるなどもあります。編集行為のこまごまとしたことをルールで縛っていくのはこれらの文書に表れた精神とは相反するものです。それに、自己サイトリンクを機械的に検出することはできないので、提案されているような事前審査のルールを運用するのは無理だと思います。--Makotoy 2009年11月9日 (月) 19:11 (UTC)[返信]
◆「記事編集の都合に応じて柔軟に対処すればよい」のなら、一律事前審査とはならないでしょう。自己サイトだろうがなかろうが、内容に基づいて判断すべきなのに「自己サイトリンクは全て事前審査」というのはナンセンスです。「すべての編集は事前審査せよ」は、こんな主張はしておりません というのは、表面的にはそうですが、「自分に関して近いことほど自分の判断があてにならないから、他人に判断してもらおう」というのも「判断」ですし、結局は常に判断がついてまわる以上、全部事前審査となりますよ、ということです。どこかで判断するかしないかの判断をする、その判断はあてになるのでしょうか。内容に関する判断で十分ではありませんか。「単なる編集なら問題が発生する確率は低いので、事後審査の方がコストが低い」というのは Tam0031 さんの主張であって実証されていません。Wikipedia:外部リンクの選び方をきちんと理解していない人がクレームをつけるというのなら理解しますが、それは理解していないことの問題であって、そのコストを投稿者に転嫁するのは妥当ではないでしょう。「事前に提案があって話し合いをするコスト(c2)と、事後にクレームが付いて話し合いをするコスト(c3)では明らかにc2 << c3だと思いますが」そもそも内容的に問題がなくて、誰もがWikipedia:外部リンクの選び方をきちんと理解していて、編集合戦もしない。その場合のコストは c2 c3 のいずれよりも低いでしょう。ではなぜそれは低いかというと、「きちんと理解していて、編集合戦もしない」という理解と行為のところでコストが払われているわけです。そのコストを払わない、「ガイドラインを十分理解する気はないし、一度立ち止まって行動する気もありません」という人のコストを記事投稿者に転嫁するものおかしなことです。より安全だからといって、なんでもかんでもそうしろというのはやりすぎです。--Jms 2009年11月9日 (月) 20:49 (UTC)[返信]
Makotoyさんへ
Makotoyさんが議論の経緯が分かっておられるか、私には分かりませんのでもう一度申し上げておきます。事前審査にせよというのは、事前審査しなかったものを一律排除という意味ではないので、機械で判断する必要はありません。事前にノートで伺いを立てずにやって異議が付いた時には、一旦差し戻しましょう、という話です。それをなぜ事前審査と言っているかというと、事前審査が原則なら、事前審査無しにやって異議が付いた時の差し戻しを正当化できるから、です。事後審査でよいことになれば、差し戻しはノートで議論してからでなければならないことになるという考えです。
Jmsさんへ
「結局は常に判断がついてまわる以上、全部事前審査となりますよ」そんなことは主張していませんし、そうは思いません。これは、現行規定の話ではなく、こういう規定にしたらよいのではないだろうかという話ので、「この範囲の行為は本人の判断だけでは不安だから、特別扱いしましょう」ということをコミュニティで諮って合意を形成すれば導入可能です。その時点で「自分に関して近いことほど自分の判断があてにならないから、他人に判断してもらおう」という判断も正しいかどうかはコミュニティの判断を仰ぐことになります。実際に導入するためにはどうしてもコミュニティの判断を受けるはずなので、結果として導入されるならそれは個人の判断ということにはならないはずです。「どこかで判断するかしないかの判断をする、その判断はあてになるのでしょうか」は個人の判断ではなくコミュニティの判断なのだから、そういうものとして受け入れるほかはないでしょう。
Wikipedia:外部リンクの選び方をきちんと理解していない人がクレームをつけるというのなら理解しますが」なぜきちんと理解していない人の場合に限られるのでしょう? 外部リンクの規定を理解している人でも、「これは宣伝である」と判断したらクレームをつけるはずでしょう? そのときのクレーム処理のコストは、事前に提案があって話し合った場合より大きいだろうと述べているのですが。Jmsさんのそれ以降の論理展開を全く理解できません。--Tam0031 2009年11月10日 (火) 16:14 (UTC)[返信]
僕のコメントの前半についてはご理解いただけたでしょうか。ところで、このコメントでおっしゃっていることですが、おっしゃっていることの中の倒置法を整理させていただくと「事前審査無しにやって異議が付いた時の差し戻しを正当化できるから、事前にノートで伺いを立てずにやって異議が付いた時には、一旦差し戻しましょう」となっていて理由と結論がおなじになってしまっているように思えるのですが、どういうことなのでしょう。それとも、「事前審査無しにやって異議が付いた時の差し戻しを正当化できるから、(事前審査ではないものを)事前審査と呼ぶ」ということでしょうか。いずれにせよ、Nekosuki600さんやJmsさん達はその理由(提案の目的)の部分に多かれ少なかれ反論を述べられていて、「事前審査無しにやって異議が付いた時の差し戻しを正当化できるか」が争点になっているわけですから、提案の帰結(いつ差し戻す、といった運用の方法論)ではなく目的(事前審査が持っている価値)を弁護されるべきなんではないですか。争点が主張の真偽ではなく出典の質にあり、存命中の人物の評判に関わる問題でなければ、事後審査中に差し戻す必要は必ずしも無いんでは、と思うのですが。--Makotoy 2009年11月10日 (火) 16:50 (UTC)訂正、補足--Makotoy 2009年11月10日 (火) 17:02 (UTC)[返信]
◆ (時系列とは異なるが対応上ここに挿入) 「結局は常に判断がついてまわる以上、全部事前審査となりますよ」というのを主張しているつもりが Tam0031 さんにはない、のであって、主張しているのはそれと同じことです。内容に基づいて外部リンクの是非は決まる、内容についての判断が本人だと怪しいから事前審査、というロジックなのですから、それは執筆した記事内容についても当然適用されるでしょう。言い方を変えれば、リンク先を確認するというのは、通常の記事執筆で必要となる出典の確認作業となんら変わるところはないのです。Wikipedia‐ノート:外部リンクの選び方が適当ではないでしょうか。「なぜきちんと理解していない人の場合に限られるのでしょう?」そこが通じていないのですね。「そのときのクレーム処理のコストは、事前に提案があって話し合った場合より大きい」というのは、本人によろうが他人によろうが、リンク先の内容に問題があって除去したのにクレームがついた、という場合ですか、それとも、リンク先の内容に問題はないのに本人によるリンクであることを理由に除去したらクレームがついた、という場合ですか。また、リンク先の内容に問題がなく、事前審査なしでリンクされたがそもそも内容に問題がなかったのでなにも問題ならなかった、という場合のコストはどうなりますか。--Jms 2009年11月10日 (火) 18:01 (UTC) 編集ミス部分取り消し --Jms 2009年11月10日 (火) 20:48 (UTC)[返信]
「主張しているのはそれと同じこと」それはあなたの一方的な主張であって、私はそのように主張しておりません。なぜ「自分に近いことほど信頼できない」という考え方があるのを飛ばして、一般の編集にまで「当然適用」しようとするのでしょうか。自分との関係が薄いことなら、中立的な判断がまともに期待できるから事後審査でもよいでしょう、中立的な判断が期待しづらくなる自分との関係が強いことについては事前審査しましょう、と言っております。この考え方自体が正しいかどうかは、導入に当たってコミュニティでの同意を得ればコミュニティの判断なので問題ないと申し上げております。
「本人によろうが他人によろうが、リンク先の内容に問題があって除去したのにクレームがついた」違います。「リンク先の内容に問題があって除去した」のことをクレームと呼んでおります。分類すると、1. 事前提案して、他の人がリンク先をチェックして問題ないと思ったからクレームをつけなかった、そのまま掲載 2. 事前提案して、他の人がリンク先をチェックして問題があると思ったからクレームをつけた、問題解決プロセスへ 3. 事前提案無しにリンクをつけて、他の人がリンク先をチェックして問題ないと思ったからクレームをつけなかった、4. 事前提案無しにリンクをつけて、他の人がリンク先をチェックして問題あると思ったからクレームをつけた、問題解決プロセスへ、の4パターンが考えられるはずです。このうち、1と3では、自己サイトリンクをしようとした人にとっては1の方が事前提案分の手間が増します。一方、後からチェックする人にとっては、どちらにせよリンク先を見て判断して、問題なしと判断して何もしないのだから、1と3は手間としては等価です。2と4では、自己サイトリンクをしようとした人にとってはやはり2の方が手間は大きいでしょう。しかし、問題があると思った人は、既に記事に変更が加えられてしまったという現実を覆さなくてはいけないので、4の方が2より手間が大きいという考え方です。それこそが、c2 << c3であると言っている意味です。
実際の今回の事件で、事前に提案をして「安全策」を採ってくれていたら、おそらく特に揉めることもなかっただろうのに、それがなく直接やってしかも編集合戦になってしまったことを見て、c2 << c3であろう、と言っているのです。現実に起きた問題の将来の回避策を提案しているのです。--Tam0031 2009年11月11日 (水) 14:57 (UTC)[返信]
「自分に近いことほど信頼できない」ならば、自分のした記述は何であれ信頼できない、なぜならその記述は自分の判断に基づいているから、です。「自分に近いことほど信頼できない」というのは、「他人についての判断はより信頼できる」という自分の判断に基づいているわけで、「自分に近いことほど信頼できない」と判断しているのも自分である以上、そういい始めた時点で無限後退に陥ります。その結果、全て事前審査ということを含意する主張をしてしまっているのです。直接主張していないからといって、含意されることを主張してしまっていない訳ではありません。「自分に近いことほど信頼できない」と「自分に近いことに関する自分のほど信頼しない」は別のことです。今回、何が問題とされたかがいまだに共有されていないことは理解しましたが、写真集自体に言及しているわけでもないのに、かかる判断をして除去したということは、「自分との関係が薄いことなら、中立的な判断がまともに期待できる」などということはないという反例になっていると思います。それはさておき、「自分との関係が薄いことなら、中立的な判断がまともに期待できるから事後審査でもよいでしょう」なら、今回の件は、物証に準ずる写真に関することなのですから関係が薄いケースであるのに、内容で判断せずに誰のサイトかという事でのみ判断することを提案しているのを問題視してもいます。コストに関する議論は、前提となる母集団が異なることので、現時点でしても意味がないと思います。--Jms 2009年11月11日 (水) 16:03 (UTC)[返信]

Unit.6.3

[編集]
(インデント戻す)「自分に近いほど信頼できない」ので、「自分に関することを自分で編集する」方が「他人に関することを自分で編集する」より信頼できないと言っているのです。なぜなら、前者の方がより自分に近いからです。その間に事前審査にするか事後審査にするかのラインを引こうと言っていて、それ自体の判断が正しいかどうかはコミュニティで判断しようと申し上げております。
写真へのリンクを除去したこと自体については、その時点の判断としては問題ないのではないのですか。事後に協議して、それなら問題ないだろうという結論が出ることもあるでしょう。でも、その結論が写真へのリンクを問題視した時に得られているべき、ということではないはずです。実際、今回のコメント依頼でも、複数の方が「宣伝であり問題」という見解を述べています。実際に宣伝であるか、参考文献として必要だから認めるかはノートで協議しなければなりませんが、最初に宣伝であると判断したそのこと自体は、結果的に間違っていたとしても遡及して責められるべきものではないと考えます。--Tam0031 2009年11月11日 (水) 16:16 (UTC)[返信]
「自分に関することを自分で編集する」方が「他人に関することを自分で編集する」より信頼できないと言っているのは理解しています。その上で、それは一般に本当ですかね、と言っています。このあたりは、他人に関することについての編集に判断が全く含まれないならおそらく真だと思いますが、もしそうだとしたら、それは内容で判断しているのと同じことでしょう。ましてや、今回の件にはあてはまらないでしょう、駅名標の写真がリンクしたわけではないのですから。自己言及という、内容を含んだことがらを、投稿者が管理するサイト一般に形式的に適用しようとしいませんか。宣伝云々については、お書きになった内容を読むと、未だWikipedia:外部リンクの選び方から逸脱した事を求めていらっしゃる様に思いますが、言葉のあやかもしれないので、その点についてはこれ以上は言及しません。他人と称するなにものかについての判断が妥当であったかどうか、ということと、それが責められるべきものであるかどうかは別のことです。責められるべきものでないからといって、不適切な判断そのものが適切な判断になるわけではありません。--Jms 2009年11月11日 (水) 16:42 (UTC) 脱字補 --Jms 2009年11月11日 (水) 17:41 (UTC)[返信]
「他人に関することについての編集に判断が全く含まれないならおそらく真」すみません、ここの理屈が分かりません。自分に関することにでも、他人に関することにでも、判断は含まれるでしょう。その上で、自分に対する判断は、他人に対する判断よりあてにならない、と言っているわけですから。
「自己言及という、内容を含んだことがらを、投稿者が管理するサイト一般に形式的に適用しようとしいませんか」これも意味が分かりません。投稿者が管理するサイトへのリンクというのは一般的に自己言及だから、ここにチェックを入れましょうと言っています。投稿者が管理するサイトへのリンクという形以外でも自己言及があるかもしれませんが、それはここではとりあえず問題にしていません。
「未だWikipedia:外部リンクの選び方から逸脱した事を求めていらっしゃる」どこで求めていますか? 現時点では事後審査だから、まず除去するのではなくノートで提案すべきだったということでしょうか? それはそうかもしれませんが、「写真集自体に言及しているわけでもないのに、かかる判断をして除去したということは、「自分との関係が薄いことなら、中立的な判断がまともに期待できる」などということはないという反例」については明確に違うでしょう。これはあの時の判断自体を問題視して、それを例に中立的な判断を期待できないという主張をしているのではないですか。少なくともあの時点では、自己サイトへのリンクでかつ宣伝が含まれるということを問題視していたのですから、それ自体は責められることではないし、それが中立的な判断ではない反例にはならないでしょう。過去に遡って、結果的に間違っていた判断が正当化されるとは申し上げておりません。--Tam0031 2009年11月11日 (水) 17:00 (UTC)[返信]
「自分に対する判断は、他人に対する判断よりあてにならない」という判断は、それ自身が自分に対する判断です。従って、その判断はそれ自身あてになりません。「投稿者が管理するサイトへのリンクというのは一般的に自己言及」というのは、真ではありません。「自己」という言葉を多義的に用いていませんか。反例として認めないという主張はわかりましたが、同意はしません。それを反例だと思わないということは、おそらく根本的な論点を共有できていないのだと思います。その点については、これだけ述べて通じないのですから、きっと通じないのでしょう。これ以上言及しないと述べた事については、言及しません。--Jms 2009年11月11日 (水) 17:41 (UTC)[返信]
「「自分に対する判断は、他人に対する判断よりあてにならない」という判断は、それ自身が自分に対する判断」への反論は既に複数回書いております。これ以上は話し合いをしても無駄なようですから、ここは閉めたいと思います。外部リンク規定の改定提案は準備中ですので、もし参加されるつもりがあるのであればウォッチリストに入れておいてください。そこでまとまらなければ、最終的に投票ということになるでしょう。--Tam0031 2009年11月12日 (木) 13:34 (UTC)[返信]

Unit.6.4

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(インデント戻す)「事前審査無しにやって異議が付いた時の差し戻しを正当化できるから、(事前審査ではないものを)事前審査と呼ぶ」まさにそれです。もちろん、あくまで事前にノートで協議しましょうということになっているので、その「安全策」が基本です。ただし、安全策を採らなかったとしても自動的に差し戻しではありません、ということです。内容を判断して駄目だと思う人がいたら差し戻してよいということです。基本として定めれば多くの人が実際に事前にノートで書くと思いますけどね。そもそも、自己サイトリンク自体どこまで需要があるかとは思いますが、それを言い出したら本議論は成り立たないので。
本人サイトリンクはどうしても宣伝という疑惑が付きまといます。もちろん、宣伝は本人サイトリンクに限られることではないのですが、本人サイトリンクはより疑惑を持たれる可能性が高いということです。実際、Saikatsu tramwayさんの一件ではひたすら自分のサイトにリンクをしていた人が投稿ブロックになっています。くしくも、これはNekosuki600さんが依頼を提出した案件です。仮に、議論している間は戻さないということになれば、いつまでもエンドレスに議論を続ければ宣伝を続けられるのでしょうか? それは私はちょっと疑問に思います。--Tam0031 2009年11月10日 (火) 17:10 (UTC)[返信]
おーいちょっと待ってくれ。西葛軌道氏の場合は、「事実上、何の情報も付け加えていなかった」というケースじゃないすか。それと今回の件を同一視されたらかなわんと思うのでありました。
今回は「明らかに間違った編集が行われ(『かねのちょう』という読みのこと。この発端にもおれは多少関係しているのだが)、その間違いを修正するための根拠情報の提示」であったわけで、まあURLくらい削除してもかまへんかったけどなにも間違った版に機械的に戻すことはねーだろってのが重要な論点なんじゃないの? さくさく出典がつけられるっていうのならその「さくさく」の間くらい放置しといても実害ないでしょ。
ところで。議論なんてものは、たいていの場合、そのうちに終わります。「いつまでも納得しない」あたりを援用すれば納得してないひとがいても終わらせることが可能です。--Nekosuki600 2009年11月10日 (火) 17:36 (UTC) --Nekosuki600 2009年11月10日 (火) 18:05 (UTC)(add link)[返信]
◆問題のある編集を差し戻す方便として事前審査という言葉を持ち出すのは誤解の元です。(普通了解される意味での)事前審査なんてそもそもできない(ウィキペディアではしない)のだ、ということはJmsさんが詳細に述べられている通りだし、ブログへのリンク追加などを差し戻す、というのは事後審査の結果として行われていることであって、「より良い~で置き換えるため」ノートで協議する間に差し戻しをしておく必要は無いでしょう。--Makotoy 2009年11月10日 (火) 17:56 (UTC)[返信]
事前審査なんてしない、というのなら、なぜ記事の改名手続きが用意されていて実際に使用されているのでしょうか? まさに事前提案の制度なのですが。「事前審査なんてそもそもできない(ウィキペディアではしない)のだ」というのには既に明確に反論しているのですが。理念を守るためだけに現実の問題に目をつぶる必要はないとの主張です。なお、念のために申し上げておきますと、「問題のある編集を差し戻す方便」としてだけ事前審査と言っているわけではなく、そう書いておくと多くの場合はノートで提案してくれて、より摩擦が少なくなるだろうということを期待してもいます。事前審査と書いているからといって、問答無用で差し戻すような強硬措置はしませんよ、ということです。
なお、英語版が全て正しいとは申しませんが、英語版のen:Wikipedia:External links を見ると、日本語版より細かく「通常はリンクすべきではないサイト」が挙げられており(日本語版は12項目、英語版は19項目)、この中には直接自己サイトは挙げられておらず、その下にen:Wikipedia:External links#Advertising and conflicts of interestで自分の管理するサイトへのリンクは避けるべきと書いてあります。そして、英語版では「信頼性を満たすサイト」がこの避けるべきリンクの適用を受けないと読める記述はないので、記事で取り上げている内容の公式サイト以外は、「自分の管理するサイトへのリンクは避けるべき」と言っていることになります。--Tam0031 2009年11月11日 (水) 14:57 (UTC)[返信]
上のコメントではページの改名について問題にしているわけではありません。「Jmsさんが詳細に述べられている通り」と書いたように、記事への加筆について_普通了解される意味での_事前審査をすることは実行不可能/現在していない/ウィキペディアの前提からしてやる見込みがないということです。この件についてTam0031さんが納得されるかどうかはともかく、僕はJmsさんの述べていることがおおむねもっともであると思います。上で書いたことについて言い方を変えてもう一度のべれば、ウィキペディアのしくみのせいで事前審査を徹底することは無理であって、提案されているような形で、問題のある投稿に対して事前審査の不在を理由に(「問題のある投稿」が何か、というのは恣意的な選択になりますから、このような理由付けは「方便」になってしまう、ということです)差し戻しを行ったりするような運用というのは、実際にやっていることは事後審査であって事前審査ではない(だから誤解の元になる)のです。それから、少なくとも、今回発端となった尾小屋鉄道での一件について差し戻し前に問答があったようには見えないのですが、Tam0031さんが提案されている「事前審査」に則れば、Nekosuki600さんがしたような編集に対して違う対応が求められるということになるんでしょうか。--Makotoy 2009年11月11日 (水) 19:15 (UTC)[返信]
それは、ページの改名では事前提案制度がうまく運用されているという事実に目をつぶっているだけではないですか。ページの改名でうまくいって、外部リンクでうまくいかない理由はありません。さらに指摘しておけば、現行の外部リンクの基準でも「掲載してよい外部リンク」の3と4については「掲載すべきでない外部リンク」の規定が適用されるので、自己サイトリンクは「最大限自制すべき」で「ノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益」ということになっています。私はこの規定を2にも適用しようと言っているだけなのです。それが不可能な理由はありません。--Tam0031 2009年11月12日 (木) 13:34 (UTC)[返信]
そういう抗弁、いいかげんやめませんか。
ページの改名について「事前提案」が推奨されていることは知っていますが、現実的に「事前提案→合議→移動」となってるわけじゃありません。適宜判断の上で「独断での移動」もされていますし、特段に問題が起きてるわけじゃありません。要するにその移動が合理的であれば問題は起きないし、不合理なものならばぶんなぐられる、というだけの話。
おれも、移動する際には多少考えますが、事前提案をして合意形成をして移動することもありますし、独断で移動しちゃうこともあります。独断移動の結果もめることが多いかっていうと、そうでもないです。ほとんど問題は起きないですねえ。問題が全く起きたことがないとは言わないけれども。
なんかこう、「ゼロサムゲーム」みたいな問題提起はやめにしませんか。--Nekosuki600 2009年11月12日 (木) 13:43 (UTC)[返信]
いや、それはもちろん知っていますよ。というか、私自身ですらオバマを勝手に応援する会みたいに、正式名が改称されていた例でおそらく異論は無いであろうと考えたものを特段の提案をせずに移動した例があります。だから、「不合理なものならばぶんなぐられる」でいいと思っています。なので、外部リンクについても規定の変更提案は、掲載してよい外部リンクの2についても「掲載すべきでない外部リンク」の適用を受けるようにして「最大限自制すべき」で「ノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益」ということにしましょうということなんですが。信頼性がありさえすれば自制も何もする必要がないのか、という疑問ですね。--Tam0031 2009年11月12日 (木) 14:20 (UTC)[返信]
んじゃ、それでいいじゃん。別に自サイトリンクの追加とかについても新しいルールを付け加える必要ななかないでしょ。
殴るとか殴り返すとかいう不穏(=^_^;=)な表現がいいかどうか知らないけどさあ。不合理ならぶんなぐられるわけだけど、不合理だと思ってぶんなぐったらぜんぜん不合理ではなくてなぐりかえされることだってあるわけで、現状そうなってるだけなんじゃないの? 自サイトへのリンクについて「他の利用者の意見を聞くことは有益」であるということに全然異論はないっすよ。でもこの小節での議論って、だからってそれを前提条件にし事前にやるべきことだ、それを義務付けるべきだ、とか言われても困るって話をしてるだけじゃないですか。事前に聞くことに有益なことがあるのはわかってる。それを常にやれとか言われてもそんなん知らんあんたPOVでルール作るな、ということです。--Nekosuki600 2009年11月12日 (木) 14:27 (UTC)[返信]
最初からそのつもりなんですが…。だからこそ改名提案の例を引いているんですけど。事前提案は原則にはなっているけれど、実際にはそのままやっていることもあって、問題になった時に「ぶん殴られる」でしょ。そうしましょうということをずっと言っているつもりなんですが。--Tam0031 2009年11月12日 (木) 14:32 (UTC)[返信]
ちとまて。それはいくらなんでも「最初からそう言ってる」が通じる範疇じゃないと思うぞ。天がそう思わずとも地がそう思わずとも、おれは通じる範疇じゃないいと思うぞ(=^_^;=)。--Nekosuki600 2009年11月12日 (木) 14:44 (UTC)[返信]
◆一応このページの発言は全部読んでいるつもりなんですが、《最初からそのつもりなんですが…》は、私には読み取れていませんでした。いちいち過去の発言をもってきて「ここでこう言っているじゃないか」とかそういうことはやりませんけれども。--iwaim 2009年11月12日 (木) 14:54 (UTC)[返信]
では、私はどのような主張をしていたとお思いなのですか?--Tam0031 2009年11月12日 (木) 15:19 (UTC)[返信]
主張っていうか、明示で主張はしてなかったけど「宣伝いくない。宣伝するやつ逝ってよし」という発想で、情報的充実もその背景となるややこしい出来事も無視して敵対的編集をしたのだ、としかおれには思えませんでした。百派譲って「敵対的」ではないにせよ「独善的」っていうか。
当初段階については誤解を招いてもしょうがない面がおれの側にもあったかしらんけど(留保)、説明した上でまだこれではなぁ。おれはもうフォローするのやめようかな、みたいな感じでおります。--Nekosuki600 2009年11月12日 (木) 15:28 (UTC)[返信]
「自サイトに独断でリンクしてはならない。必ずノートなどで他者の意見を聞くべき」という主張だと思ってました--iwaim 2009年11月12日 (木) 15:29 (UTC)[返信]

Unit.6.5

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(インデント戻し)このあたりで、ノートで提案なく自己サイトリンクがされた場合の対応に関する考え方とかを書いたつもりなのですが…。問答無用でリンクを除去とは言っていません。他の人も問題ないと思ったのならそのままで構いません。でも、問題があるという人がいたら、一旦戻して考えましょう、ということなのですが。それを「事前提案をデフォルトにする」という意味なのですが。--Tam0031 2009年11月12日 (木) 15:38 (UTC)[返信]
《問答無用でリンクを除去とは言っていません。他の人も問題ないと思ったのならそのままで構いません》は今の対応ですね。Tam0031さんの言う「事前提案をデフォルトにする」と今よりどのようなメリットがあるのでしょうか。
で、《でも、問題があるという人がいたら、一旦戻して考えましょう、ということなのですが》は、思考の停止でしょう。状況はそれぞれ異なるのだから、「一旦戻す」というルール作りなんてできないですよ。正確に言えば、そのようなルールを作ることで柔軟な対応ができなくなりますので、そのようなルールにするべきではない。--iwaim 2009年11月12日 (木) 15:50 (UTC)[返信]
いや、今の制度では、「最大限自制すべき」で「ノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益」というところがないでしょう。信頼性があると自分で判断しさえすれば、誰に提案もせず自己サイトリンクをして問題ないという規定になってしまっている。だから、制度としては最大限自制すべきだよと明記しておこうということなのですが。そうすれば、自己サイトリンクをしようとする人は、改名提案と同程度には事前提案してくれるだろうという期待なのですけども。そもそも規則を見ない人とか気にしない人は仕方ないし、それもまた改名提案と同じという考え方なのですが。
現状で、ページの改名の時はそういう対応にしていると思うのですが、認識が違うのでしょうか? 手続きをすっ飛ばしてしまったのは自分なので、人からそれはおかしいと異議を唱えられたら一旦戻して考えるものと思っていたのですが、違いますでしょうか。それで柔軟な対応云々というのが分かりません。--Tam0031 2009年11月12日 (木) 16:03 (UTC)[返信]
現状が「最大限自制すべき」状態ですよね? それを「100%禁じましょう」と言っているんですよね?
改名に異論が付いた場合でも100%差し戻してから議論をするということはないはずです。ちょっとすぐには思い出せませんし、具体例を探してくる意味を感じませんが、過去にも改名に異論がでたが、まずはそのままで議論を開始したという事例もあったような記憶があります。また、例えば改名でも、差し戻したとしても再び移動を強行するような利用者がいた場合は一旦そのままで議論するというケースは考えられます。また、Aという記事をA'に移動した利用者がいて、他の利用者が「いやA'もいいがA''はどうだろうか」などと異論をつけた場合にTam0031さんは一旦Aに差し戻すべきと考えるんですか? 私はA'も許容できる記事名であるなら差し戻さずに議論を進めた方がいいと思います。それを「異論がでたら100%戻すべき」としてしまうと柔軟に対応できないのではないでしょうか。--iwaim 2009年11月12日 (木) 16:17 (UTC) 間違いを修正。nowiki追加。--iwaim 2009年11月12日 (木) 16:20 (UTC)[返信]
「現状が「最大限自制すべき」状態ですよね? それを「100%禁じましょう」と言っているんですよね?」いいえ明確に違います。私は現状でも規定に「最大限自制すべき」と書いてあると思っていたのですが、Jmsさんの指摘で「掲載してよい外部リンク」の2項に該当する場合は、「掲載すべきでない外部リンク」の適用を受けないということが判明しました。ですから、この2項も「掲載すべきでない外部リンク」の適用を受けるように変更することで、「最大限自制すべき」状態にしよう、という提案をしております。ちなみに、これは英語版の現状の規定とほぼ同じにするという意味です。
「BもいいがCもいい」(すみません、ダッシュを2つ使うと斜体になってしまうので例を変更しています)という事例なら、確かに一度差し戻さなくてもいいですね。それについては分かりました。ただ、上記した提案の規定変更を実施したとしても、差し戻しは義務でも努力目標でもなく、あくまで必要があれば可能という範囲の話で考えております。--Tam0031 2009年11月12日 (木) 16:25 (UTC)[返信]
「最大限自制すべき」については失礼しました。それはもう一度考えてみてからコメントします。
《必要があれば可能という範囲の話》ということなので、もうちょっと踏み込んでみます。今回、Nekosuki600さんが写真を資料とした「読み」までTam0031さんは編集除去しましたが、それについては「自制すべき外部リンクと共に、それを根拠とした記述がある場合、外部リンクを編集除去するならばその記述も編集除去すべき」という考えでしょうか? 当時の考えではなく、現時点でのお考えを聞かせていただければ。--iwaim 2009年11月12日 (木) 16:33 (UTC)[返信]
件の編集除去については、既に書いたとおり、トラブルになっているから一旦除去した状態にして、ノートで検討しながら場合によっては必要な出典を他から補いながらきちんとした形にしようという意図でした。現時点での「自制すべき外部リンクと共に、それを根拠とした記述がある場合、外部リンクを編集除去するならばその記述も編集除去すべき」に関する判断としては、常時そうすべきだという主張ではないです。あからさまな宣伝だったり中立性を欠く独自研究だったりすると容赦なく除去するかもしれません。今回の例では、そうするのが適当とそのときに判断したということです。--Tam0031 2009年11月12日 (木) 16:44 (UTC)[返信]
いや、当時の判断じゃなくて、今だとどうするのかということをお聞きしたいんですけど。--iwaim 2009年11月12日 (木) 17:09 (UTC)[返信]
えーと、本件事案がもう1回あったらという意味ではなくて、一般的にですよね。それは「現時点での(中略)判断としては、常時そうすべきだという主張ではないです」ということですが。--Tam0031 2009年11月12日 (木) 17:12 (UTC)[返信]
いいえ。本件事案について、今のTam0031さんならどのように判断をするのかということです。私をはじめ、何人かは「正しい可能性が高い情報までをも編集除去しない方がよかった」という意見がでているわけですが、そのあたりはどう考えているのかなぁ、と。なお、これを聞く理由についても一応書いておきます。Tam0031さんは、現行のモノを改訂しようとなさっていると理解していますが、その場合、その改訂提案者がどの程度のさじ加減での処理を想定しているのかを皆に知らせることは、互いにとって非常に有意義なことであると考えるからです。--iwaim 2009年11月12日 (木) 17:27 (UTC)[返信]
まず、論点1はクリアされている(外部サイトの写真でも信頼性・検証可能性を満たせばOK)ものとします。その場合は、宣伝かどうかだけの問題ですので、ノートで疑問を書いたでしょう。ただ、あの時点での私の対応は、一旦読みまで除去になったことについて、多分にその前のHATARA KEIさんの行動に影響されているので、断言は難しいです。HATARA KEIさんとのリバート合戦がなかったのであれば、ノートか本人の会話ページでの質問くらいだったでしょう。--Tam0031 2009年11月13日 (金) 14:44 (UTC)[返信]
ええと、本件事案について伺いたいのです。つまり、Nekosuki600さんが記載したものをHATARA KEIさんが差し戻し、それに対してNekosuki600さんが差し戻した2009-11-04T15:22:38 (UTC) の版に出くわした場合です。--iwaim 2009年11月13日 (金) 16:29 (UTC)[返信]
そういう事案は大変難しいのですが…。前のコメントに書いたとおり、断言は難しいのですが、ノートで疑問を書いたでしょう、ということです。あのリンクに中立性の疑問を抱いたことは変わっていないでしょうから。本人サイトリンクが必要な事例もあるらしいと分かったので、無理に除去はしません。念のために、今のまま単に第2項の例外を除去してしまうと、本人サイトリンクを問答無用で除去される可能性があると懸念されている方もおられるようなので、後の文章で「本人サイトリンクだからといってそれだけで除去してはいけません」くらいの文句を追加したいと提案したいと思います。
もっと言うなら、その後の記事編集やノートでの議論などを通じて、写真無しで駅名の読みを検証可能にする難しさまで理解した後の知識があれば、わざわざ疑問も書かなかったでしょう。本当のことを言うなら、こんな問題に突っ込んで長々と議論に時間を費やしてしまうはめになると知っていたなら、あえて手を出すわけがないです。--Tam0031 2009年11月13日 (金) 16:46 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございます。参考になりました。--iwaim 2009年11月13日 (金) 17:24 (UTC)[返信]
(対応関係のためこのインデントレベル)「差し戻しは義務でも努力目標でもなく、あくまで必要があれば可能という範囲の話」は、現状でもそうなので、本人リンクが「掲載してよい外部リンク」第1項および第2項に当てはまる場合というのを除去しようということにですね。そうなると、条文は次の様になります。「そのサイトが商業目的(アフィリエイト等を含む)であれ非営利目的であれ、そのサイトへの外部リンクは排除すべきです。」これではダメでしょう、内容に基づいた判断ができなくなるから。Tam0031さんの主張は、一旦除去を正当化せんとするがために内容によらずに除去するのを強制してしまっているのです。内容に問題があると考えたらから場合に、議論なく除去するかノートで議論してから除去するかは内容に問題があるかどうかという判断の程度によって異なるでしょうし、その点で通常の編集作業と何ら変わることはありません。やはり、今回の件の本質を共有できていないのだと思います。リンクを除去したことそのものが問題ではないし、除去した理由が「掲載すべきでない外部リンク」の拡大解釈だったということが問題の本質でもないのです。リンク先に宣伝が含まれると判断したということは写真も見ていたはずであり、だとすればリンクの除去だけすればよかったのに、記事内容すなわち読みまで除去したことが問題なのです。提案なさっていることは、こうした、中身によらない判断を助長するどころか、中身によらない判断に固定してしまうものです。そうしようというのでなければ、結局は現在の「掲載すべきでない外部リンク」と同じ内容になるでしょう。除去の理由が「写真は出典にならない」という主張なら読み自体の除去となるでしょうが、その場合の理由は「自サイトへのリンクだから」ではないので、「掲載すべきでない外部リンク」の条文には左右されません。「自サイトの写真は出典にならない」という主張だったとしたら、それはWikipedia:検証可能性#自主公表された情報源の問題、すなわち内容の問題であって、リンクをしたのが本人かどうかには影響されません。--Jms 2009年11月12日 (木) 17:59 (UTC) 補足 --Jms 2009年11月12日 (木) 20:13 (UTC)[返信]
条文から除こうとしているのは第2項の例外だけです。第1項の例外はそのままです。これは、企業の公式サイトなどでフラッシュだけで構成されていると、その企業に関する記事でも「掲載すべきでない外部リンク」の5項に引っかかって掲載できない、ということになりかねないからです。その記事で扱われている内容の関係者が自らその公式サイトへのリンクを追加する行為については、Wikipedia:自分自身の記事をつくらないの方でカバーできるはずです。もっとも、本当に公式サイトなら関係者が追加しなくても他の人が追加するでしょう。第1項だけ「掲載すべきでない外部リンク」の例外なのは、これもまた英語版の現状と同じです。
すみませんが、それ以外の点はこれまでの私の主張を全く理解されていないようなので、あえてこちらで反論はいたしません。外部リンク規定の改定提案が出たら、そちらで好きなだけ反対なさってください。--Tam0031 2009年11月13日 (金) 14:44 (UTC)[返信]
理解しているが同意していないのではなくそもそもと理解していない考えている、という理解でよろしいでしょうか。それとも、理解しているなら同意するはず、同意していないのだから理解していない、という事でしょうか。--Jms 2009年11月13日 (金) 15:26 (UTC)[返信]
これまで、私の本件事案での行動については散々説明しているのに、それを全く無視した前提での議論しかなさらないので、結局私の行動にはご理解いただけていないものと考えるしかないということです。それなら、あなたの捉え方はそうであったということなので、それについてはしかたありません。--Tam0031 2009年11月13日 (金) 15:30 (UTC)[返信]
無視しているのではなく、理解した上で、「意図してはいないのでしょうが、結果としてそれはこういうことを含意してしまいますよ」という指摘がなされている、という可能性はありませんか。そうであるかどうか、それを受け入れるかどうかということとは別に、そういう可能性を考えることはできませんか、という問いです。「疑義の出た読みについて、出典が出るまで一旦削るとした私(Tam0031)の行為に問題はないか」というコメント依頼に対する答えが、かならずしも行動を是認するもとは限りませんし、行動を是認しない回答が主張を理解していないが故に行動を是認しない、ということを意味するとも限らないでしょう。主張を理解したうえで、なお行動を是認しないという状況もあるでしょう。見えているものの違い、見てしまっているものの違いをもって、理解していないと考てしまってよいのですか、ということです。「私の本件事案での行動については散々説明しているのに、それを全く無視した前提での議論しかなさらないので、結局私の行動にはご理解いただけていないものと考えるしかない」というのは、結局のところ、「わたくしの行動は正しい、それを是認しないコメントはいらない」というのと同じことに思えます。--Jms 2009年11月13日 (金) 16:04 (UTC)[返信]
別に私の行動を是認しないコメントをしていただくのは一向に構いませんが、あなたの出した結論と私の出した結論は異なっていて、あなたがそれを導く前提が私の述べた見解を全く無視した自分流の解釈しかなさっていないので、これ以上説明するのは無理だという判断です。一言だけ繰り返しておきますが、本件事案において「中身によらない判断」だけでリンクや読みを除去したわけではありません。それはこれまで繰り返し説明してきました。それにも拘らず、中身によらない判断であるとJmsさんが断定なさるのであれば、それ以上私にあなたを説得する材料はありませんので、どうぞそれに基づく主張をなさってください。--Tam0031 2009年11月13日 (金) 16:26 (UTC)[返信]
通じていない様なので確認も兼ね補足しておきます。「中身によらない判断であるとJmsさんが断定」してはいません。外部リンク規定の改訂として提言なさっていること、すなわち「自らが運営に関係しているサイト…が商業目的(アフィリエイト等を含む)であれ非営利目的であれ、#掲載してよい外部リンクの第1項に当てはまらないものに関しては、そのサイトへの外部リンクは排除すべき」は、本人によるリンクの場合についてのことなのですから、中身によらない判断にしか影響しない、と言っています。中身による判断であれば、それは本人によるリンクであることが理由でないでしょう、その点を混同していませんか、ということです。写真は出典にならない、宣伝を主目的としたリンク、といったことは、内容に関することであって誰がリンクすしようと同じ事ですから、上記改訂の影響は受けません。--Jms 2009年11月13日 (金) 17:09 (UTC)[返信]
私の行為について「リンクの除去だけすればよかったのに、記事内容すなわち読みまで除去したことが問題」と言っていて、その後で「こうした、中身によらない判断」とか言っているのに、中身によらない判断であると断定していないのですか? 普通に中身によらない判断であると断定しているようにしか読めませんが。
それから、「そのサイトへの外部リンクは排除すべき」という表現が強いから気になさっているのかもしれませんが、私にとって重要なのは「最大限自制すべき」「ノートでの提案も有効」の方なのですよ。中身によらない判断を推進したいのではなく、できるだけ事前提案をして欲しいということなのです。その方がトラブルを避けられるし、第2項の例外をなくすことで、中立的な判断を自分自身に対して行うという矛盾(これはJmsさんに言わせれば問題にならないのかもしれませんが)も解消するからです。そもそも、そんなにこの規定が問題なら、なぜ英語版はこの規定になっていると思いますか?--Tam0031 2009年11月13日 (金) 17:26 (UTC)[返信]
「こうした、中身によらない判断」の「こうした」が余計でした。投稿時に文の入れ替えをした際に除去しわすれました。ごめんなさい。「できるだけ事前提案をして欲しい」ならば、現行の「最大限自制すべき」「ノートでの提案も有効」で十分でしょう。「最大限自制すべき」「ノートでの提案も有効」といわれているのは判断が中立的でない可能性がある場合であり、一方第2項はそうした可能性がないケースです。従って問題となるのは「第2項に該当するかどうか」という点ですが、それは内容の問題であってリンクが本人によるものどうかとは関係ありません。今回の件でいえば写真が出典となるかどうか、という論点ですが、「本人だから」写真が出典となると考えたり、「本人でないから」写真が出典とはならないと考えたりするわけではないでしょう。英語版がなぜそうなっているかは、そこに至る過程を調べないとわかりませんが、その必要があると思いません。--Jms 2009年11月13日 (金) 17:42 (UTC) 脱字補 --Jms 2009年11月14日 (土) 03:52 (UTC)[返信]
脱字補ついでに問いのたてかたを変えてみます。ウィキペディアのコンテンツとしては同じなのに、リンクしたのが誰かによって、百科事典の内容としての適否が異なることがあるのですか。コンテンツの適否は、内容で決まるのではないのですか。--Jms 2009年11月14日 (土) 03:52 (UTC)[返信]
そこをずっと議論してきたのではないですか。私は、自分で自分に関することについて判断するのは信頼性が低いから、他人の判断を仰いだ方がよいという考えであって、Jmsさんはそれに同意なさらないのですから、どちらの意見に同意が多いかを聞いてみてそれで決めるしかありません。--Tam0031 2009年11月14日 (土) 13:25 (UTC)[返信]
そういう文脈理解はあると思うんだが、それはひとつの見方に過ぎないと思うし、そこを落としどころとして持っていこうというのは無理があると思うんだよなあ。んで、ここで多数決を持ち出しますか? 現時点で意思表示されたコメントで集計をしたら「あんたの負け」で終わると思うんですよね(でも、だからといって「自己サイトへのリンクは無条件でおっけー」とかになったらかなわんと思うし、意見表明者のほとんどもそんな結論を求めていないと思うわけで、おれはそういう方向を期待しないのであります)。
というわけでなんだ。再考を促したい。--Nekosuki600 2009年11月14日 (土) 13:32 (UTC)[返信]
いや、だから、外部リンクの選び方のノートで改定を提案して、それへの賛否を問うという話ですよ。ここで多数決をいくらしても、規定への反映はできませんから。基本的な認識に根本的に差異があると思ったので、Jmsさんを議論で説得するのは諦めるしかないと考えたということです。ここにこれだけの議論のログを積み重ねて、結論がそれということです。--Tam0031 2009年11月14日 (土) 13:37 (UTC)[返信]
いくらなんでもそれはないだろうとは思うんだが、現状の延長線上でやるんだったら「自己サイトへのリンクは問題とすべきではない」という明示の結論が出るのは明らかだと思うんですよね。もちろん「是々非々で内容のチェックは必要だ」という留保条件はつきますけど。そしてそれは、お馬鹿な宣伝屋に助力する結果にしかならないと思うのです。
あなたが求めていた結果はそういうものだったんですか? そうなのだとしたら、あなたは明確におれの敵だってことになるが、そういう結論でいいんですか?--Nekosuki600 2009年11月14日 (土) 13:43 (UTC)[返信]
(編集競合しましたが、そのまま書きます)コンテンツの適否は、作成した人物が誰かではなく、内容で決まるという、Jmsさんの意見に賛同します。--Himetv 2009年11月14日 (土) 13:49 (UTC)[返信]

Unit.6.6

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(インデント戻す)このコメント依頼の延長で判断されるものなんですか? きちんとした提案理由をつけて、妥当な改定提案を出せば、それなりの判断結果をいただけるものと私は思っております。
Himetvさんへ。「コンテンツの適否は、作成した人物が誰かではなく、内容で決まる」については全く異存はありません。ただ、適否を本人で判断するのは本当に信用できるのか、というところが問題になっているのです。--Tam0031 2009年11月14日 (土) 13:59 (UTC)[返信]
外部リンクの選び方の改定はこことはまったく別ものですが、いまTam0031さんが提案をしたならばここの影響を十分に受けると思います。--みや1229 2009年11月14日 (土) 14:05 (UTC)[返信]
◆えーと。ある編集についての評価を判断をするのは、いずれにせよその編集をした本人ではないのです。本人の判断は、事前申請だろうが事後申告だろうが、たいして尊重されることはないのです。問題なのは、そのあたりを明確に書いてしまうことによってどういう結果がもたらされるかということなのだと思うんですよ。
おれとしては「常に第三者が冷徹に評価します」ってことでいいと思ってます。
念のためですが、本件については、第三者が冷徹に評価した結果としてTam0031さんの編集(や HATARA KEI氏の編集)が、ご本人が思っているほど支持されなかったという結論をどう考えるかっていうあたりでの軟着陸点の模索が、現時点での最大の争点になっちゃってるんじゃないの?--Nekosuki600 2009年11月14日 (土) 14:12 (UTC)[返信]
私は自分の編集が評価されなかったという点についてはしっかり受け止めます。ただ、外部リンクの規定がおかしいのではないかという、コメント依頼の本筋とは外れた議論に既になってしまっているのですから、それとこれとは話が別だと思います。「常に第三者が冷徹に評価します」というのがよいというのは一つの意見ですが、一方で私はそうは思っていないわけですから、改定提案を出して意見を集約してみようという話です。--Tam0031 2009年11月14日 (土) 16:35 (UTC)[返信]
◆「コンテンツの適否は、作成した人物が誰かではなく、内容で決まる」について異存がないなら、リンクをしたのが当該サイトのコンテンツ管理者であるかどうにはよらないのですから、「適否を本人で判断するのは本当に信用できるのか」という視点の入り込む余地はなく、その線では「きちんとした提案理由をつけて、妥当な改定提案を出」すのは難しいのではないでしょうか。少なくとも、提案の骨子についてこのコメント依頼で指摘されている問題点を解決しておく必要性はあるでしょうし、そうなると結局のところ現行のWikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクが落としどころとなるでしょう。「適否を本人で判断するのは本当に信用できるのか」というのは、何が出典たり得るかという自費出版書籍も含めた論点であって、Wikipedia:外部リンクの選び方の範疇ではないでしょう。その意味で、これまで提示されている骨子からすればWikipedia:外部リンクの選び方の改訂提案というのは筋違いだと考えています。問題意識を共有できていないのは明らかだと思いますが、それが指摘内容を理解した上での不同意によるものなのか、それともそもそも指摘の内容が伝わっていないのか、判断がつきかねています。--Jms 2009年11月14日 (土) 14:37 (UTC)[返信]
「「適否を本人で判断するのは本当に信用できるのか」という視点の入り込む余地はなく」という点は全く同意できません。自分でリンクを付け加える時点で、それは自分で「信頼性・検証可能性などの2項の条件を満たしている」と判断しているわけですが、対象が自分のサイトなのにその判断は本当に信用できるのかというのが私の主張ですから。「リンクの適否」は「リンクをしたのが当該サイトのコンテンツ管理者であるかどうにはよらない」というのは正でも、リンクの適否の判断が内容に基づいて何か客観的に自動的に導き出されるものではなく、人の判断によらざるを得ない以上は、リンクをした人 = 判断した人の影響を受けるのです。「自分に関することを客観的に評価することは難しい」という考えが出発点なのですから、それには「強い自制」を求めたいということです。この前提にご同意いただけないのであれば、もうそれは考え方の違いなので議論で解決するのは無理であろうということを申し上げているのです。
「何が出典たり得るかという自費出版書籍も含めた論点」という点については、自己公表された情報源は出典にできないという原則で既に自費出版書籍は、一般的には出典として否定されているはずで、なぜそれがここで持ち出されるのか理解できません。あくまで、外部リンクの選び方で規定すべき話であると考えます。--Tam0031 2009年11月14日 (土) 16:35 (UTC)[返信]
繰り返しになりますが、「コンテンツの適否は、作成した人物が誰かではなく、内容で決まる」のですから、「適否を本人で判断するのは本当に信用できるのか」という視点の入り込む余地はありません。第二項が適用される様な内容には、本人の判断が影響しないからです。論評を行なっているサイトの様に内容に本人の観点が入り得る場合には本人の判断が内容に事前的に影響しますが、そうした内容には当然第二項は適用されません。第二項が適用できるかどうかの判断に本人による判断であるかどうかが影響する様なら、そもそも第二項が適用できない内容なのでしょう。
自費出版との類似性について。自分がコンテンツを管理するサイトが問題になるのは、自己公表された情報源を出典とすべきではないからであって、その点で自費出版書籍と同じです。一方、自分がコンテンツを管理しているからといって、その全てが「自分に関すること」を扱っている訳ではありません。「自分に関すること」を自分がコンテンツを管理しているサイト一般に拡大適用することは、結局は内容による判断をしないということです。それはさておき、Tam0031 さんが公式な方針で強く奨励されている一次資料の利用を一切認めない立場だということはよくわかりました。まずはそこから改訂提案する必要があるでしょう。--Jms 2009年11月14日 (土) 17:52 (UTC)[返信]
Jms氏の「コンテンツの適否は、作成した人物が誰かではなく、内容で決まる」という仮説がそもそもおかしい。「コンテンツ=内容」なのだから。「コンテンツの適否は、作成した人物が誰かではなく、それを構成する情報の信頼性=出展の信頼性で決まる」だと思います。--みや1229 2009年11月14日 (土) 18:48 (UTC)[返信]
半分正しい指摘です。コンテンツ即内容なのだから、作成した人物が誰かで適否が決まるはずがないのです。これを「内容の適否は、作成した人物が誰かではなく、内容そのもので決まる」などとしたのでは間抜けに見えるので、「コンテンツの適否は、作成した人物が誰かではなく、内容で決まる」と書きました。これを出典の信頼性としてしまうと、わたくしが述べていることは半分しか表現していません。なぜなら、「自分に関することを客観的に評価することは難しい」のなら、それは投稿しようとする文書についての判断にも適用されると考えているからです。このあたりはメタな部分をどこまで考えるかの違いであり、Tam0031 さんには同意ないし御理解いただけていない部分でもあります。--Jms 2009年11月14日 (土) 21:31 (UTC)[返信]
「自分に関することを客観的に評価することは難しい」のなら、それは投稿しようとする文書についての判断にも適用されると考えているからです。 そうですね。ですから記事作成では第三者が検証でき信頼性できる出展をつけることが求められているわけです。今回の件では出展には宣伝の疑いがあり載せられない。となると出展自体がなくなり第三者による検証ができないから差し戻されたのです。--みや1229 2009年11月15日 (日) 03:45 (UTC)[返信]
宣伝についてはWikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクをお読みください。宣伝が一律排除されているわけではありませんし、今回の件を宣伝が主目的であると看做すべきかどうかについては判断がわかれています。なお、この節での主要な論点は、「リンク先の内容が出典として適切であるかどうか」ということと、「リンクしたのが本人であるかどうか」というのは別のことではないか、ということです。リンク先の内容が出典として適切でないなら、リンクしたのが本人であろうがなかろうが不適切であり、そこにリンクしたのが本人であるかどうかという一段階を設けることを常に求めるのはおかしいのではないか、という意見が出ています。その意味では、リンク先が自分の管理するサイトであるので適切かどうか自らは判断できない、という判断を本人がするのなら、そもそもその人はその記事に関与すべきでないのでしょう。--Jms 2009年11月15日 (日) 04:32 (UTC)[返信]
出展が自己サイトであれば自由に作成できますのでその信頼性を疑われるのは当然です。今回の場合リバートの直接の理由は宣伝のようですが、写真の信頼性についても実績のある写真家や出版社によるものではなく本人によるもののため信憑性を疑われる余地があるわけです。でも必要な場合はノートでの第三者による検証というお墨付きを得てから記載すればよいのです。--みや1229 2009年11月15日 (日) 04:58 (UTC)[返信]
あー、つまりなに。ここで突然に「写真の出典能力全否定論」が出てくるわけっすか。いくらなんでもそれは論外なんじゃね?
写真の信頼性に疑問があるということは、それだけを取り出せばその通りですね。しかし「実績のある写真家や出版社」というだけで写真の信憑性が信じられるわけではないというのは写真論の常識でしょう。あるいは逆に、「実績なき写真家の手によるものだから信頼性がない」という罵声を浴びせたつもりなのかもしれませんが、それはWikipedia上に提供されている写真の大半に対して、またその提供者に対して、全く同じ罵声を浴びせたに等しいわけで、いくらなんでも戦火を拡大しすぎであろうと思うのであります。それはそれで面白いからかまいませんが。--Nekosuki600 2009年11月15日 (日) 05:07 (UTC)[返信]
◆「写真の出典能力全否定論」の展開は、できれば別節でお願いします。みや1229 さんが 20091115T0458Z で述べているのは内容の信頼性に関する問題であって、同じ内容なのに、本人がリンクすると疑わしくて他人がリンクすると信頼できるということはありません。内容に信頼がおけるか、第三者による検証がなされているサイトかどうかということと、誰がリンクしたかというのは別のことです。「必要な場合」かどうかの判断はケースバイケースですから、リンクする人がリンク時に必要ないと判断すれば検証は事後になるでしょうし、逆にサイトを管理している本人ですら事前検証が必要だと思う様な内容なら、そもそも出典としてはふさわしくないかもしれません。--Jms 2009年11月15日 (日) 05:13 (UTC)[返信]
「全否定論」そんな主張はしていません。拡大解釈はやめまでょう。--みや1229 2009年11月15日 (日) 05:28 (UTC)[返信]
>あくまで、外部リンクの選び方で規定すべき話であると考えます。
横から失礼しますが、外部リンクに限定されないように思います。
例えばジーン・ディクソン初版は著者自身による自著の宣伝としか思えなかったものであり、私はこれにいい感情を抱いていませんが、ではその文献を除去すべきかといえば、私はそうは思いません。当該項目に関する極めて有用な文献であることは疑う余地がないからです。「本人が適切に判断できるか」という話は、こうした話題にも拡散する余地があります。
私は(私個人の美意識の問題は別にして)こうしたケースはケースバイケースで内容の適否が事後的にでも判断されれば十分だと考えています。そういう意味で私はJmsさんのご意見に近い立場で、外部リンクの選び方限定で新しい規定を提起する必要性は感じません。--Sumaru 2009年11月15日 (日) 04:26 (UTC)[返信]

Unit.6.7

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(インデント戻す)一次資料の利用を否定はしていないのですが…。勝手に人の考えを想像で展開されても困ります。一般的には、自費出版は否定されているはずです。Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源でそのように記載されています。記事の対象が公表した資料などは例外ですので、私も企業の公式サイトでプレスリリースとして出された文章をソースに記事を書いた記憶があります。これらの点について改定の必要があるとは思っていません。
「この節での主要な論点は、「リンク先の内容が出典として適切であるかどうか」ということと、「リンクしたのが本人であるかどうか」というのは別のことではないか、ということです」これは誤りです。そのようなことは論点ではありません。だからこそ「「コンテンツの適否は、作成した人物が誰かではなく、内容で決まる」については全く異存はありません」と記載しているのです。未だにそのようなことを論点だと思っているから、話がかみ合っていないのではありませんか。
「第二項が適用できるかどうかの判断に本人による判断であるかどうかが影響する様なら、そもそも第二項が適用できない内容」なのですから、第二項が適用できないような内容なのに、本人判断で「この内容は信頼できる、第二項に適合する」と言い出してリンクして欲しくないのですよ。「第二項が適用できると、その著者あるいはコンテンツ所有者が判断する」ことが、医者が自分自身を診察することに相当すると思っているのですから、それは常に自分に甘い方に判断が流れるであろう、だから「強く自制」「事前にノートでの提案も有益」と入れたいのですよ。--Tam0031 2009年11月15日 (日) 09:15 (UTC)[返信]
想像で展開しているわけではありません、Tam0031さんの主張が含意してしまっていることに言及しています。「コンテンツの適否は、作成した人物が誰かではなく、内容で決まる」のだから、内容について規程すれば良いのにもかかわらず、同じ内容について誰がリンクしたかで異なる対応を求めていらっしゃるので議論になっているのではありませんか。「強く自制」「事前にノートでの提案も有益」と入れたい、とのことですが、それは現行の「最大限自制すべき」「掲載する前にノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益」とはどう違うのですか。第二項が適用できないような内容を本人判断で「この内容は信頼できる、第二項に適合する」と言い出してリンクして欲しくない、とのことですが、かかるリンクは本人によろうが他人によろうが内容についての問題を理由に除去すればよいでしょう。他人が「この内容は信頼できる、第二項に適合する」とリンクした場合は事後検討でよいのに、本人リンクだと事前審査を求める、というのはダブルスタンダードでしょう。内容に基づいて決めればよいことであって、誰がリンクしたかは問題ではありません。--Jms 2009年11月15日 (日) 09:52 (UTC)[返信]
「作成した人物が誰か」と「誰がリンクしたか」は別の話でこの節で問題なのはリンクについてなのだと思います。内容の正しさを本人リンクでは保証しにくいから十分な検討が必要となるのです。--みや1229 2009年11月15日 (日) 10:22 (UTC)[返信]
「内容の正しさを本人リンクでは保証しにくい」というのは「他人リンクだと内容の正しさを保証しやすい」ということを含意しますが、まさかそんなことはありますまい。--Jms 2009年11月15日 (日) 10:32 (UTC)[返信]
Jms氏の論法は「内容の正しさを写真では保証しにくい」というのは「写真以外だと内容の正しさを保証しやすい」ということを含意しますが、まさかそんなことはありますまい。のように使える詭弁だと思います。--みや1229 2009年11月15日 (日) 10:58 (UTC)[返信]
詭弁…では、「内容の正しさを本人リンクでは保証しにくい」というのは何に比べて保証しにくいのですか。リンクの話をしているのですから、本人リンクでないならそれは他人リンクだと思うのですが。--Jms 2009年11月15日 (日) 11:18 (UTC)[返信]
この節の対象は本人リンクであるはずなのに、様々な場合がある他人リンクにまで話を拡大解釈してそこに例外があるから本人リンクの場合も含めて否定することが詭弁なのです。ここでは「内容の正しさを本人リンクでは保証しにくい」とだけしか述べていません。論点の対象を広げるのはやめましょう。--みや1229 2009年11月15日 (日) 11:32 (UTC)一部追記--みや1229 2009年11月15日 (日) 11:37 (UTC)[返信]
Uni6. 6 冒頭のコメントをお読みください。リンク先の内容が問題なはずなのに、なぜ内容ではなく本人リンクを問題として他人リンクと別扱いするのか、というのが本節の論点です。従って、「内容の正しさを本人リンクでは保証しにくい」というのは、「他人リンクだと内容の正しさを保証しやすい」ということを含意すると読むのが妥当です。--Jms 2009年11月15日 (日) 11:39 (UTC)[返信]
すみません、論点が違うのでインデント戻します。「それは現行の「最大限自制すべき」「掲載する前にノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益」とはどう違うのですか」ですが、現行規定で第2項に基づいて自己サイトリンクすることについても、その規定が適用されるとお考えなのですか? 私にはどう読んでも、第1項と第2項については、「掲載すべきでない外部リンク」の節は全く適用されないので、最大限自制ともノートで意見を聞くことが有益とも取れないのですが。第2項に適合しさえすれば、全く自制せずにどんどんやってよろしいとしか読めません。私はずっとそれを問題にしているのですが。--Tam0031 2009年11月15日 (日) 11:57 (UTC)[返信]
第二項に適用しない、という主張だと理解しています。であれば、「強く自制」「事前にノートでの提案も有益」と入れたいと、あたかもそうした表現が入っていないかの様に読める書き方は避けていただければ幸いです。当該箇所には「自らが運営に関係しているサイト…第1項および第2項に当てはまらないものに関しては、そのサイトへの外部リンクは排除すべき…サイトへのリンクは最大限自制すべき…リンクを掲載する前にノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益」とあります。これはすなわち、自らが運営に関係しているサイトについて、第1項および第2項に当てはまらないものは排除、それ以外すなわち自らが運営に関係しているサイトで第1項および第2項にあてはまるものについて自制を求め、事前の意見招請を示唆していると読めます。なお、Wikipedia:外部リンクの選び方#掲載してよい外部リンクの、箇条書きに続く部分もご参照ください。--Jms 2009年11月15日 (日) 12:13 (UTC)[返信]
いや、その掲載してよい外部リンクの箇条書きに続く部分で、第2項については「掲載すべきでない外部リンク」の節の規定を適用しないということが明確に書かれているわけですよね。もしそうでなければ、「掲載すべきでない外部リンク」の冒頭に「標準名前空間(通常の記事)においては以下のいずれかに当てはまるサイトへの外部リンクは掲載すべきではありません。」とあって、その第4項に「記事に加筆しようとしている利用者自身が所有、管理、または執筆を行っているサイト。これはWikipedia:中立的な観点を確保するための基準です。」とあるのですから、本件のような事例は明確に禁止されてしまいます。「宣伝目的のリンク、自分が運営にかかわっているサイトへのリンク」の詳細説明のところで第1項・第2項が例外であることが明記されているのは、「掲載してよい外部リンク」の箇条書きに続く部分で説明されていることをもう1回念のために確認しているのであって、「掲載すべきでない外部リンク」が第2項に関して適用できないという点についてもっとも肝要なのは箇条書きに続く部分だと思います。なお、英語版ではこの「掲載すべきでない外部リンク」の冒頭部分の文が"Except for a link to an official page of the article's subject, one should avoid:" となっていて、第1項以外について「掲載すべきでない外部リンク」の規定が適用されることを明確にしています。今の日本語版の規定では、「掲載してよい外部リンク」の箇条書きの続き部分の説明が無い限り、「掲載すべきでない外部リンク」が全面適用されるようにしか読めません。なので、Jmsさんの言うような「自らが運営に関係しているサイトについて(中略)事前の意見招請を示唆していると読めます」については、私はそうは読めなかったのです。現時点で第2項について、自制もノートでの意見招請も提案されていないという認識です。だからこそその部分の改定を提案しているのです。--Tam0031 2009年11月15日 (日) 13:12 (UTC)[返信]
掲載してよい外部リンクの箇条書きに続く部分で、第2項については「掲載すべきでない外部リンク」の節の規定を適用しないということが明確に書かれているとは読めません。当該箇所に書かれているのは「掲載すべきでない外部リンクは…ポリシーに適合するかどうか考える手がかりを与えてくれますが、…どれかに該当するからといって、直ちにそのサイトへの外部リンクが排除されるわけではありません。大切なのは、情報の信頼性、検証可能性など、リンク先の内容の質や、似たような外部リンクをいくつも掲載しないことなど、上記「基本的な考え方」の各項目について慎重に吟味する事です。」です。考える手がかりを与えてくれる、というのを「規定を適用しない」とお読みなのかもしれませんが、そう明確に書かれているわけではありません。「掲載すべきでない外部リンク」第4項は、これを受けて、「Wikipedia:中立的な観点を確保するための基準です。」としています。ですから、中立的な観点が確保されているかどうかが問題であり、そこからいきおい「本件のような事例は明確に禁止されてしまいます」ということにはなりません。「現時点で第2項について、自制もノートでの意見招請も提案されていないという認識」というのは、誤読に基づく認識です。--Jms 2009年11月15日 (日) 13:25 (UTC)[返信]
いえ、「ただし、上の第3項および第4項においては、以下の#掲載すべきでない外部リンクのどの項目にも該当しないことを確認すべきです。」とあるのですから、「掲載すべきでない外部リンク」は第3項と第4項に関する規定であると読めます。第1項・第2項に関してはこの規定はあくまで参考でしょう。参考にしているのだから「強く自制」「ノートで事前提案」が有効と見るべきものなのでしょうか。なお、ノートページのトップに貼ってある過去ログを読むと、現行規定の制定時も同じようなことが議論されていて、第3項と第4項に関するブラックリストであるという話が出ています。--Tam0031 2009年11月15日 (日) 15:13 (UTC)[返信]
「掲載すべきでない外部リンク」は第3項と第4項に関する規定であると読めます、というのが、第3項と第4項のみに関する規定である、という意味であるならそれは読み誤りです。「宣伝目的のリンク、自分が運営にかかわっているサイトへのリンク」をどう読むかというのは既に述べました。要点を繰り返せば、自らが管理するサイトについては、第3項と第4項に該当するものであっても排除、第1項・第2項に関しては自制を求める、ということです。そう考えないと、「宣伝目的のリンク、自分が運営にかかわっているサイトへのリンク」の内容が意味をなしません (排除すべきリンクについて自制や事前相談を求めるのはおかしいから)。「第1項・第2項に関してはこの規定はあくまで参考でしょう」というのは、「最大限自制すべき」「掲載する前にノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益」というのが強制ではないという意味において、少なくとも第2項に関してはそうですね。--Jms 2009年11月15日 (日) 15:29 (UTC)[返信]
では、現時点でも強く自制、事前にノートで提案が有益、ということでよろしいのですね? それなら、これ以上はこの点について突っ込みません。ただ、本件と関係のない改定提案はしたいと思っています。「掲載すべきでない外部リンク」の第5項で、PDFへのリンクはできることを明記したいので。--Tam0031 2009年11月15日 (日) 17:34 (UTC)[返信]
はい、現時点でも強く自制、事前にノートで提案が有益、です。もちろん、それが必須という訳ではありません。--Jms 2009年11月15日 (日) 19:14 (UTC)[返信]
おれ思うのだけどさあ。「それは常に自分に甘い方に判断が流れるであろう」っていうのがもう間違っていやしませんか。
Tam0031さんが出した「医者が自分を診断する場合」というたとえを用います。もちろん「自分は重病ではない」という方向にバイアスをかけて判断をする医者だっているでしょうけれども、専門知識があるだけにピンポイントで可能性を絞り最悪の場合を想定して対処する医者が大半なんじゃないんだろうかと思うわけです。「それは常に自分に甘い方に判断が流れるであろう」っていう感覚が、おれにはよくわからない。
んで、基本的におれは、自サイトへのリンクは慎重である側です。慎重であるっていうか、滅多なことじゃまずやりませんね。前に井戸端でも似たような外部リンクとしてどこまで許容されるかっていうネタがありそんときにサンプルとしておれんところはどうよって聞いてみたことがありました。「まあ積極的に自分でリンクしたろうとは思わないが、まあこれはありなんじゃね?」という意見が2件、「だめでしょ」という意見は0でした。しかしだからといっていい気になってリンクを貼って回ったかっつうと、それはなかったわけだよ。
で、今回についてはそういう自制を破ってなんでリンクを貼ったのかについてはすでに#Unit.14#Unit.15説明した通り。簡単に復習しとくと、破壊的編集(情報の除去)をしているビギナーさんへの教育的対処として速やかに反証となる根拠情報を提示する必要があったため。なんせ自分の手持ち情報なんだ、どこに何があるかわかってるし探し方は熟知しているし、本を掘り出すとかいう手間をかけるより即応性が遥かに高かったため。そういう背景情報を見落とした点については責めないが、自省はしてくれと言っている(本件、必要なら別ユニットで)。
んでだな。おれ思うんだけどさ。おれんところのサイトがリンクするに足りるサイトだとか言うつもりはないし、おれの判断が公平で無私なものだなんてことを言うつもりもないんだけどさ、でもおれ思うんだよ。
鉄道関連あたりでは、なんせ人数多くて玉石混交、どうでもいいような個人weblogあたりにリンクするやつとかが続出してきたという経緯があることは知ってる。だからといって、機械的に「宣伝」とか言い放ってリバートしちゃうような姿勢というのは、提供してもらうに足りるだけの情報を持っている人を遠ざけるような方向に機能していないか。今回、延々とうだうだやった結果として結局おれの手持ち情報が正しくおれが修正した元の情報は間違っていたってことでほぼ確定してるわけでしょ。「金野町駅」の「かねのまちえき」という駅名の読みは「尊重すべき情報だ」という評価でおそらくおおむね間違いないわけっしょ。おれ、そういう情報を持ってる者をないがしろにしちゃいけないと思うんだよ。
たまたま今回は相手がおれだったからよかった。おれ、そんなことでくじけないし、傷つかないし、デジャ・ヴュな風景でしかありませんから。でもさあ、「提供してもらうに足りる情報を持っている人」が、常におれみたいに鈍感力が豊かなやつだとは限らないんですよ。そんときどうすりゃいいとあなたは思うのですか、というのがこのコメント依頼の本論なんじゃないんだろうか。そこに戻って、お互いにとってより良い結果を導くための議論をすることは、できませんか?--Nekosuki600 2009年11月15日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
あまり本論ではないですが「医者が自分を診断する場合」については、私が作った例え話ではなくて、本当に医者の世界ではそうしていると聞いています。「最悪の場合を想定する」から他人に診てもらうのだそうです。いくら自分が診察に際して私情を交えないぞ、と思っていても、無意識にそうなってしまっている可能性を否定できないのでしょう。同様に他人から見ても、本当にそれは信頼できるのか、となってしまうのはやむをえないのでは無いかと思います。
「提供してもらうに足りる情報を持っている人」を尊重すべきとの考えには異論ありません。ただ、Nekosuki600さんのように私より長い編集経験のある人なら、すぐにノートでそれなりに議論できるだろうという見込みもあって件の編集をしているわけです。それが、とりあえずのリバート返しというのは納得がいかなかったわけですよ。なので、情報を持っている人をどう保護するかというのは、ここでは、本論じゃないと思っています(その点について異論はないから)。--Tam0031 2009年11月15日 (日) 13:12 (UTC)[返信]
なんか反論の文脈がおかしいと思うぞ(と、ぎろっとにらむ)。
医者もそうだしおれもそうなんだが、「私情を交えていないと確信を持っている」わけじゃないんですよ。ていうか、そもそも「私情を交えない判断」というものについての疑念は、普通に持ってるだろう。おれは医術については門外漢ですがしかし法律とかについてはそれなりに専門家なんですが、おれがなんらかの法的判断をするとき「おれの希望や願望」と「現実的な落としどころ」はきっちり峻別できるしな。そこをとっちらかったら自分にとっての不利益につながるのだし。どっちかっつうと、おれの個人的知り合いがおれに法律相談をする場合、「知り合いだから甘いことを言ってほしいやつ」はおれには相談をせず「知り合いだから厳しい判断をしてほしいやつ」だけがおれに相談をするといったバイアスがかかってる。
身近であるかどうかと、甘い判断をするかどうかとは、おそらくフェイズが違うんじゃないかと思うんですよ。そしてそのあたりに起因する予断が本件についての間違いを引き起こしているのではないんだろうかと(とりあえずおれ的には「おれが間違っていたという納得いく根拠」は全くもって提示されておらず、HATARA KEIさんとかTam0031さんとかが間違っていたという感覚は不動なわけですけど)。
ていうかなんだ。「無意識にそうなってしまっている可能性を否定できない」、みたいな表現を用いざるを得なくなった段階でもう自分の主張は追い込まれているのだということを検出できるようにセンサをセッティングしといてほしいのですが。とりあえずのリバート返しに納得いかなかったのはそれはそれでいいとおれは言ってる。納得いかなかったのであろうポイントについての追加説明もしつこいくらいにしている。「説明を受けてもいまだに納得がいかない」んだったらその点で徹底抗戦するにやぶさかではありませんが(でも個人的にはそこまでしょーもない議論は無益でめんどくさいと思っています)。
でだ。
あなたがた(明記しておくと、あなたと HATARA KEI氏)の対応は、情報を持っているひとを追い出すような対応だったと、おれは言っています。もしもノートで議論すればいいような話なんだったら、あんな情報削除を伴う対応をする必要はなかったんじゃないの? すでに述べたことだが、おれのサイトへのURL削除だけならばおれは怒らなかったしリバートしたりもしなかった。おれが立腹してリバートした理由は「間違った情報が記載された版へのリバートだったから」なんだからな。ていうか、もしあなたがおれに対して「それなりの経験を持っているWikipedianだ」と思っているのなら、「だからそれゆえにむっとした」という判断はそれはそれでありなんだが、もう一方で「であるがゆえになんらかの理由があるんじゃないかと思った」という可能性もあったと思うわけでさ。そのあたりのあなたのおれに対するイメージをもって本件についての判断を左右してほしくないんですよ。--Nekosuki600 2009年11月15日 (日) 13:43 (UTC)[返信]
横から失礼。Nekosuki600さんは宣伝であるという指摘があるのに対して合理的な説明なしにリバートしている。このような対話に応じない方がWikipedia全体のためのような主張をされていることには強い違和感を感じます。--みや1229 2009年11月15日 (日) 14:20 (UTC)[返信]
横から失礼とかなんとかいうレベルじゃないと思うんだ。関数函数統一論争からの遺恨だと思うんだが、階梯が違いすぎるひとが出入りしてもノイズにしかなんないと思うの。少なくともなんだ、あんたが口出しすることでTam0031さんは全くもって「味方を得た」という認識を持ってないと思うんだよ。おれとしては「馬鹿が味方に付いちゃって始末に困る」ような状況よりはだいぶマシだとおもっているのだが、少なくともTam0031さんとおれとの対話にとっては害にしかなってないと思う。「Tam0031さんの味方になれていない」ってあたりを認識した上で、どうすればいいか自分で考えて身を処して下さいってことで、さようなら。--Nekosuki600 2009年11月15日 (日) 14:30 (UTC)[返信]
情報除去をした理由は、既に説明したとおりです。一旦空白に戻して、それからノートページで議論した方がよいと考えたからです。HATARA KEIさんとNekosuki600さんが読みに関する問題で争いになっているなら、そのどちらでもない状態にした方が中立的であるだろうという考えです。さらに、あのリンク先ページがアドセンスだけなら広告とは思わなかったかもしれませんが、自分の写真のディスク販売の宣伝文句まで入っていると、ちょっとこれはと思わざるを得なかったので、別な出典を探した方がよいだろうという判断もありました。宣伝であるという判断は、このコメント依頼でも複数の方がされているので、全く間違ったものでもないと思っています。もう1つ、自己サイトリンクについては強い忌避があるものと思っていたこともあります(これは規定の誤解でしたが)。「間違った情報が記載された版へのリバート」は私はしていないので何とも言えません。このような事態での対処については、以後改善すべきものがあるとは認識しております。ただし、あの編集要約をつけたリバート返しは不適切であったとの考えは変わっておりません。--Tam0031 2009年11月15日 (日) 15:13 (UTC)[返信]
その釈明についてはすでに反論したと思う。--Nekosuki600 2009年11月15日 (日) 15:32 (UTC)[返信]
更に。機械的なリバートはしていないかもしれないが、おれが「それはまずいだろう」と述べていた「情報が削除された状態」にしたことについて、Tam0031さんの行為は等価でしょうが。間違った読みを削除しただけならばとにかく問題ない読み情報までも削除したことについて、あなたがやったことは、HATARA KEI氏のリバートよりもさらに重大で、おれが最初に怒った「票組みを行うと同時に機械的に読みを全部削除したひと」と同じレベルの編集をやったんですよ。
いっそのこと「情報の充実なんかよりもっと大事なことがあると思っている」と断言してもらったほうがまだ整合性があるってもんだ。--Nekosuki600 2009年11月15日 (日) 15:36 (UTC)[返信]
いや、一旦問題が生じている箇所を戻すというのは、私にとってはありえる解決法です。ウィキペディアの記事編集には締め切りはありませんから、疑義・問題が生じているならそこを削っておいて、後で調べがつき次第、あるいは問題が解決次第書き直す、というのは取ってよい手段だと思います。そのまま放置して情報が失われてしまうのは最悪ですけどね。それならコメントアウトにすべきだったとか、要出典状態にしておくべきだったとかいうことならば、それはそういう意見もあると受け止めます。--Tam0031 2009年11月15日 (日) 17:34 (UTC)[返信]
なるべくシンプルにもう一回言うぞ。おれが二度は言わないかもしれないってことを覚悟して返事してくれ。
背景情報について知らなかったことについて責めないという譲歩をおれはしている。「過去にその背景情報を知らずにあなたがやったことについて、その背景情報を知っている今のあなたはどう判断するか」ってことを、おれは聞いてるわけ。
「知らずにやったことは、知った上で見直したら間違っていた」という判断が明示されるなら、そして「今後はそういう間違いをしないように努力します」という努力目標が表明されるなら、それにおれを尊重しようと思いますし、あなたが知らずにやらかした間違いについてはこれ以上追求しないようにしようと思います。しかし、背景情報を知っている今のあなたが背景情報を知らずにしでかした過去の間違いについてまだ自己弁護をしようとするなら、そこに妥協の余地はありません。
おれに「おまえは明確に間違いを認めて詫びろ」とか言わせないでくれよなあ。--Nekosuki600 2009年11月16日 (月) 13:20 (UTC)[返信]
Tam0031氏らのリバートは自作の資料はまずは検証しないといけないのでいったん差し戻して検証しましょうという当然の処置です。自作という疑われて当然の資料を持ち込むならばこの程度の批判や差し戻しにはちゃんと準備をして回答すべきで、それをせず再リバートしたNekosuki600氏には二氏を批判する資格はないと思います。--みや1229 2009年11月16日 (月) 13:40 (UTC)[返信]
おれ思うんだけどさ。みや1229はTam0031さんの足を引っ張ってるだけだと思うわけ。ひっこんでいなさい。--Nekosuki600 2009年11月16日 (月) 14:02 (UTC)[返信]
背景情報を知っていたら、そして外部リンクの規定を正しく理解していたら、ノートでの書き込みに止めたでしょう。ただし繰り返しますが、あの対応はあの時点の判断としては間違っていたとは考えておりません。ウィキペディアは、1人では不可能な情報量の蓄積を多人数の共同作業でやる場所だと考えています。そのためには、単に情報量を多く集めればよいということではなく、他人との共同作業のための手順というものがあります。その一つの手段として一旦戻して話し合いというのはありだと今でも考えております。それについてNekosuki600さんが納得できないというのであれば、それは仕方のないことです。私もあなたのリバート返しについては今でも納得できておりませんので。以上です。--Tam0031 2009年11月16日 (月) 14:55 (UTC)[返信]
つまり、背景情報を知っていたらこういう展開(リバート返しやらコメント依頼やら、という意味です)にはならなかったということですね。「あの時点の判断としては間違っていなかった」とあなたが思っているであろうことについて、おれはすでに述べている通りで否定していませんので、その範囲で齟齬はないと思います。
「ウィキペディアは、1人では」以降については、釈明になってないと思います。そういう場であるがゆえにいろんなことがおきるわけであり、本件前段のようなことも起きてるわけでね。このめんどくさいトラブルをふまえて、情報を持っている者(たとえばおれ)が、めんどくさいイチャモンつけてくるやつ(たとえばHATARA KEI氏やTam0031さん)の相手をするのはいやだと思うようになり間違った情報がそのまま置かれているのを座視することをあなたが望むということならば、それはそれでかまいません。ていうか、そうやって情報を持っている者をたたき出すようなことを繰り返してきたのがこれまでの日本語版Wikipediaの黒歴史だとおれは思うわけで、だから「それは違うだろう」と言うことに意味があるだろうと思って粘ってるわけなんでね。
おれはこうやって粘る知的体力があるからよかったようなもんの、あんたがやったようなお馬鹿な仲裁がまかり通るんだったら、「かながそ」が削除されたままになったり、「かねのちょう」がまかりとおったり、しかねなかったんだよ。そういう問題点について、あんた自身で自問自答をして決着をつけてくれと言っているんだ。それができる能力があなたにないんだったら、じゃあどうすりゃいいのかは自分で考えて下さい。--Nekosuki600 2009年11月16日 (月) 15:14 (UTC)[返信]
すみませんが、間違った情報がそのまままかり通ることはありませんよ。私はきちんと自分で調べて直す意図があったのですから。あなたは細かい手配とかはすっ飛ばして編集をすることが、今後ともあるという意志を既に示されているので無駄なのかもしれませんが、少しは自分の編集が周りからどう思われるのかということも意識してやっていただきたい。いくら情報を持っていたとしても、周りと協調して編集のできない人は、害にしかならないのですから。では、他に意見がなければ、少し待ってからまとめをします。--Tam0031 2009年11月16日 (月) 15:28 (UTC)[返信]
えー。「間違った情報がそのまままかり通ることはありませんよ」って本気で思っているのだとしたら、それは楽天主義に過ぎるとおれは思うんですけどね。ついでに「調べて直す意図があった」のなら「調べるまでそのままほっておくとく選択肢もあったんじゃないか」という再三にわたって突きつけられている指摘についてあなたがあいまいな返答しかでいないでいることの理由は何なんだろうかと思います。
今後ともあるかどうかということなら、ありますよ。他の資料を探すより自前の熟知した資料を探すほうが早く即応することが重要だと思うのなら、おれはいつでも自前の資料を繰り出して間違った編集を正すことでしょう。そのときに今回のようなわけわかんない横槍が来ないようにしておきたいということが、今回粘っている理由の一部にあることは否定しません。--Nekosuki600 2009年11月16日 (月) 15:34 (UTC)[返信]
「調べるまでそのままほっておくとく選択肢もあったんじゃないか」については、過去に既に見解を述べておりますので、あいまいな返答しかしていないというのは誤りです。--Tam0031 2009年11月16日 (月) 15:44 (UTC)[返信]
へのいちと申します。こちらの話題はウィキペディアにおいて重要な意味を持つと感じて、注目していました。Tam0031さんが「過去に既に見解を述べております」とおっしゃるのは、次の部分だと思います。
『「しばらくほっといてそれからおもむろにリンクだけを削除」ですが、これは無理です。あなたの宣伝では無いかと疑われているのですから、掲載されている時間が長くなるほどそれに加担してしまいます。とりあえず除去してから、それから議論です。そのように考えました。』
これについて、宣伝ではないかと疑うことができるのはせいぜいがリンクまでであって、正しい読みの部分については 宣伝ではないかと疑うことすら無理でしょう。こちらの話題で重要な意味を持つのはまさにこの、宣伝でもなく間違いでもない情報を宣伝と一絡(ひとから)げに扱って除去し その結果として間違った情報をウィキペディアのコンテンツとして発信する、ということに合理的な理由を見出せるかどうかということではないでしょうか。この点について Tam0031さんのはっきりした見解は これまでなかったように思います。--へのいち 2009年11月17日 (火) 02:12 (UTC)[返信]
へのいちです。上の発言中、誤認に基づいた部分があったので打ち消し線を入れました。大変失礼いたしました。
Tam0031さんが行ったことは有用な情報をもリンクと一緒に除去したところまででした。そしてこのことについては、もめているようなのでひとまず除去してから 話し合いや調査を経たあとで有用なものについては戻せばよい と考えていた旨の説明がこれまでにありましたね。お詫びするとともに訂正いたします。
それでもやはり、リンク部分については宣伝の疑いを持てるにせよ、読みについては宣伝であるという疑いすら持ち得ないだろうと思います。そこで起こっていた編集合戦のようなものはどっちもどっちというようなものではなく、一方は宣伝を嫌うあまりの大雑把な差し戻しで、もう一方は正しさを信じさせるに十分な写真を示したうえでの読みの修正だったわけです。そうして、有用な情報については除去しない方向で対応するのがウィキペディアのコンテンツが育つために大切であることを考えれば、もめているようなのでひとまずといった形で除去してしまうのは少し雑な仲裁だったのではないでしょうか。ここで、Tam0031さんにも、あれは少し雑だったなと認めていただけるならば 何も問題はないと思いますが、反対に、あの対応にはまったく問題はないので むしろ除去したことに物言いを付けられないようにルールをはっきりさせようというのであれば、それはウィキペディアのコンテンツを痩せさせることになるだろうと憂慮します。--へのいち 2009年11月17日 (火) 12:35 (UTC)[返信]
そのあたりについては見解の相違があるようです。私は短期的な情報の保存よりも、きちんと合意を形成しながら共同作業を行っていく方が大事だと考えたからあの措置を講じたのです。コメントアウトや要出典の付加など他の手段があったことは認めますが、雑な対応だったとは思っておりません。おおもとの情報把握が雑だったことは認めますが。また、除去したことに物言いを付けられないようにルールをはっきりさせようとしたのではなく、このようなことでまた揉めないように外部リンクの規定をはっきりさせようとしただけです。これだけのログの量になりますから全部読めというのには無理があるのは分かりますが、誤解に基づいて憂慮されても、こちらとしても困ります。--Tam0031 2009年11月17日 (火) 14:09 (UTC)[返信]
見解の相違ってより、おれ的には同病相哀れむな感じなんだが。
おおものと情報把握が雑であったにもかかわらずその後の処置が雑でないってことってありえないと思うのよねえ。そこらへんってカスケードなんで。詭弁とは言わないが、反論が雑で問題外。
んで、あくまでも「自分は正しかった」で通すってことなら、少なくともおれとTam0031さんとの間では合意形成は無理です。まあそんで一生やっていけると思うんだったらがんばってください、みたいな感じ。もうちょっと落ち着いて熟慮した上でレスポンスするようにしたのがいいんじゃないかとかアドヴァイスしときます。んじゃおやすみなさい(しみじみためいき。てかあんた、リバートの上にコメント依頼したんだろ、おれに殴りかかられても文句は言えない立場にいるんだって認識して、その上でおれに殴り返せるくらいの説得力を発揮しないとまずいポジションにいるんじゃねえの?)。--Nekosuki600 2009年11月17日 (火) 14:41 (UTC)[返信]
言い方が悪ければきちんと言いなおしますが、例えばある記事で、かつてとても知識があって経緯も詳しいらしい人がやってきて書いたことがあるわけですよ。でもその人は、ウィキペディアのルールを全く守ろうとしないし、それどころか自分は専門家だから出典など不要、お前ら素人だけ出典書けみたいなことを平気で言うわけですよ。それであるなら、私はその人を追い出す側に躊躇なく回ります。いくら貴重な知識を持ち込んでくれたとしても、ルールを守れないのであれば共同作業の邪魔になるだけです。筑波鉄道の駅の写真を貼ってくれた人や、コンテナの写真を持ち込んでくれた人みたいに、ルールをよく分かってなくて右往左往している初心者なら頑張ってやり方を教えますよ。でも、ルールは分かっているはずなのに対話が通じない、守る気がない人まで、その行為に目をつぶって情報を守ろうとは思いません。その考え方に間違いは無いと今でも思っています。本件の場合も、外部リンクに関する規則に関して私に誤解があったことは事実ですが、ルールを知っているはずの人が守っていないと私の目には写り、その後の対話もうまく成立しないということで、もうこれはそろそろお引き取り頂いた方がよいのではという考えがあったのですよ。意思疎通がうまくいかなかったことや、事前の情報収集が不十分であったことは謝罪しますが、それでも、繰り返しますが、情報をいくら持っていてもルールを守れない人はウィキペディアに要らない、この考え方には間違いがないと考えております。--Tam0031 2009年11月17日 (火) 15:36 (UTC)[返信]
Wikipediaにとって重要なのは、情報提供者としての個人ではなく、誰かが提供してくれる情報でしょ。という観点でもう決定的に立場が異なるようですね。おれとしてはそろそろTam0031さんとの合意形成を諦めて、明確に「(おれが理解しているところのWikipediaの根本的哲学に鑑みて)Tam0031はWikipedia的にはいらんやつである」という立場に立とうかと。個人属性で判断するってのは、そういうことなわけで。--Nekosuki600 2009年11月17日 (火) 15:45 (UTC)[返信]
それならそういう理解で結構です。いくら情報があっても、共同作業がなければ百科事典にはなりません。1人で作るものではありませんので。--Tam0031 2009年11月17日 (火) 15:51 (UTC)[返信]
はいよ、合意成立。決定的に対立しているってことを確認するためにずいぶん時間をかけたもんだな。ばかばかしい結末だった。--Nekosuki600 2009年11月17日 (火) 15:56 (UTC)[返信]
へのいちです。Tam0031さんが重きをおいているものと天秤にかけて蹴り出すことになる その情報はいったい誰のものだとお思いですか? 情報を失うのはTam0031さんだけではないですよね。Tam0031さんが、こんな振る舞いをされるくらいならばその情報はいらない というときの、その振る舞いの許容範囲と 蹴り出す情報の値踏みについて、どうもTam0031さんの基準は少しずれているんじゃないだろうか(あるいは、Tam0031さんは、受け入れがたい振る舞いを見ただけで、天秤にはかけずに結論を出すのではないだろうか)と考える人が このコメント依頼に出てきただけでも数人はいるようです。Tam0031さんの基準こそがウィキペディアの採るべき基準だというのは、それほど明らかなことでしょうか?--へのいち 2009年11月17日 (火) 16:18 (UTC)[返信]
明らかではありません。ですから、どうしても特定の人を追い出さなければならないときは、コメント依頼や投稿ブロックの審議を経るのではないでしょうか。人単位での追い出しは、私独自の判断で実施できるものではそもそもないですから。だから、私の基準がずれていようと、私が天秤にかけずに結論を出そうと、他の人が有用であると判断するなら情報は失われません。それがこのコミュニティにおける意思決定の方法であり、私はそれを了解して参加していますから、それを受け入れます。
実際にあの処置をした段階では、Nekosuki600さんが追い出さなければならない人であるという認識はありませんから、追い出すために情報を除去したわけではありません。情報を蹴りだしたわけではなく、ひとまず棚上げにしただけです。その方法がまずかったという批判は受けますし、外部リンクの規定をきちんと把握できていなかったことには反省もしますが、ルール違反があったなら一旦立ち戻ってノートで話しましょうという考え方自体に問題はないと考えています。今回、コメント依頼まで発展したのは、ノートでの話し合いもうまくいきませんでしたし、なにより再度のリバートをNekosuki600さんが行ったので、これは本当にルールを守る気があるのだろうかという疑問が生じたからです。その上で、いやこれは問題ないよ、あるいはまだ話し合いの段階だよ、というようなことになるのであれば、それはそういうものだと私も受け入れますし、情報の復元にも協力します。先の発言はあくまで私の考え方を示したものであって、それがコミュニティの基準であるとは主張しておりません。異なっているところがあれば、それは受け入れます。--Tam0031 2009年11月17日 (火) 17:24 (UTC)[返信]
◆《私は短期的な情報の保存よりも、きちんと合意を形成しながら共同作業を行っていく方が大事だと考えたからあの措置を講じたのです》について。なんかすごく極端な考え方だなぁ、と思います。あの流れにおいて、私だとどんなに丁寧に合意を形成したとしても、まず「金野町」の読みが「かねのまち」になると判断しちゃうんですよねぇ。それがWikipedia:善意にとるという精神だとも思っています。《きちんと合意を形成しながら共同作業を行っていく方が大事だと考えた》と仰るんだから仲裁をしようと考えていたのだと推察はするのですが、私としてはどう考えたって (正しい可能性が極めて高い) 読みの編集除去はありえないんですよね。別に私と同じような考えをもてとは言うつもりはありません。ただ、今後、Tam0031さんは対立がある議論に仲裁として介入することは止めてほしいと思います。--2009年11月17日 (火) 18:08 (UTC)

Unit.6.8

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(インデント戻す)宣伝部分を抜いてもその時点では正しい情報だったと言えないと考えます。というのもNekosuki600氏が投稿した時点では本人以外の第三者がその写真を検証した形跡が確認できません。したがってその時点では「読み」の情報が正しいかどうかはわからないと言えるからです。ノートへの提示なら問題がないのですが本文へは第三者の検証を経ていない資料に基づき、かつ異論がある情報は記載すべきではないと考えます。--みや1229 2009年11月17日 (火) 11:27 (UTC)[返信]

その論理で語るのであれば、書籍にもそれはいえますね。はっきりいって、みや1229さんの考えは論外じゃなかろうか。--iwaim 2009年11月17日 (火) 12:29 (UTC)[返信]
書籍でもその分野で無名の著者が参考文献をひとつも提示していない独自研究を無名の出版社から自費出版したような場合は資料価値は低くなりますね。インターネットの場合常に改変される可能性があるという欠点がさらにつきます。--みや1229 2009年11月17日 (火) 13:02 (UTC)[返信]
資料価値の低さは理解できますが、先の《宣伝部分を抜いてもその時点では正しい情報だったと言えないと考えます。というのもNekosuki600氏が投稿した時点では本人以外の第三者がその写真を検証した形跡が確認できません。したがってその時点では「読み」の情報が正しいかどうかはわからないと言えるからです》とは関係ない話ですね。《インターネットの場合常に改変される可能性があるという欠点》についても仰る通りですが、{{Cite web}}には閲覧日を記載するパラメータもあります。
というか、へのいちさんが言っている話とはまた違う話になってて、議論がぶれすぎじゃないでしょうか? 誰も、Nekosuki600さんが提示していた写真がウィキペディア日本語版としてまったく問題がない情報源であったとは主張していませんし。--iwaim 2009年11月17日 (火) 13:20 (UTC)[返信]
なんかこう、論理的対話をどう成立させればいいのかがよくわかんないのですが。「正しい情報だったと言えない」というのは「間違った情報である」という意味を持ちます。検証されていなかったというだけならば「正しい情報だったかどうかは、わからない」がせいぜいでしょう。
みや1229さんとおれとはおそらく函数関数論争あたりで接近遭遇したのだと思いますが、そのあたりで表明された美学を唯一の手がかりとしてこういうストーキングをされても相手していらんないってのがおれの感覚です。
何をもって検証されたということができるのだろう。「商業出版物である」ものも盛大に反論を受けているものとかもあるわけで(たとえば「トンデモ」とか「武田邦彦」とか)、そのあたりは個別具体的に評価していくしかないんじゃねえの?
あ、だからといっておれんとこが検証された価値あるサイトであるとか言い募ったりはしませんけど(と、どさくさまぎれに宣伝しちゃう(笑)。ワルクチ言われるというのは知られていないという状況よりましなんだ、というコンセプトを突きつければ黙ってくれるかしれないんで)。--Nekosuki600 2009年11月17日 (火) 13:48 (UTC)[返信]
説明不足かもしれませんので補足します。例の写真が本物か否かわからないというのが正確な表現です。というのも個人サイトですので自由に作成ができます。写真も自由に作成ができます。検証せずにどうして正しいあるいは間違いと判断できるのでしょうか? Nekosuki600さんだから疑っているわけではありません。自作の資料は客観的なデータや複数の視点での検証をしてはじめて資料としての価値がでてくるということです。--みや1229 2009年11月17日 (火) 14:06 (UTC)[返信]
仰る内容だけはきっと別に誰も異論はないという気はするんです。が、なんというかさー、それを十把一絡げに処理できると思い込んでいるところが問題だと思うんですよ。疑わしいものは資料はじゃんじゃん検証なり調査なりすればいい。だけど、今回のはそういう話じゃないでしょ。Nekosuki600さん同様に、論理的対話をどう成立させればいいのかがよくわかんないというのが私の正直な気持ち。--iwaim 2009年11月17日 (火) 14:12 (UTC)[返信]
◆全然説明不足じゃないと思うけど。単にみや1229さんのシンプルな思想が明らかになってるだけだと思うけど。そこにヒットポイントはないんだと、おれは言っている。
たとえばの話が「世間的に認知されている写真家の写真」「世の中でそれなりに生き延びてきた出版社の出版物」てのがあったとします。Wikipediaではそれらは検証可能性を満たすものとして合意されてます(と思います)。しかしそれらの中にも「トンデモ」とか「**邦*」とかフツーにあるわけでな。ある意味、そういう外部的出典明記ってのは、そこに記されていることの真偽に関する責任を出典に押し付けるという便宜的手段であるわけだよ。
確かに一方で信頼できる根拠として外部リンクを明記するってのはある。しかしもう一方で、信頼できないお馬鹿を晒し上げるために外部リンクを明記する場合ってのもある。おれは後者にはあまり同意しないけど、明らかにお馬鹿の証明であるようなサイトを外部リンクとして記して読者に判断をまかせる場合、「あとはまあ読者が自分の判断力を信じて判断してください」とか思うわけで、除去はしないな(笑)。
情報の信頼性とかについて、みや1229さんは、根本的に理解が足りてないと思うんだよ。理解するに足りる経験値がないっていうか、そういうせめぎあいの修羅場を経験していないもんだから思考がシンプルであるっていうか。いずれにせよ、こういうややこしい議論にシンプルな発想はあんまし寄与する面がないと思うの。10年か20年か経験を積んで出直してきてくれるとうれしいなあ。そんときにはきっとおれが何を言っていたのかわかるし全面的な同意を得られると思うのよねえ。--Nekosuki600 2009年11月17日 (火) 14:17 (UTC)[返信]
そういう話じゃないという意味がよくわかりませんが、十把一絡げに処理というのは状況をよく見ていないと思います。Nekosuki600氏の投稿をリバートした二氏はコメントやノートで問題提起をしています。したがって削除は本来あるべき手順に戻すための一時的なものとみなすべきです。そうして再びあるべき手順を踏めばNekosuki600氏の望む記述に落ち着かせることができるのです。--みや1229 2009年11月17日 (火) 15:42 (UTC)[返信]
それは全然正しくない間違った理解だと思うが、説明しようという意欲がわきません。一定以下の理解力の方に対してまで万全の対話努力をすることをWikipediaは求めていないと思いますので。--Nekosuki600 2009年11月17日 (火) 15:57 (UTC)[返信]

Unit.6b

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(インデント戻す)ここはコメント依頼の場でそれぞれの意見を述べるところです。ですから、お互いの意見を尊重して無理な説得や拡大解釈は控えましょう。--みや1229 2009年11月13日 (金) 16:51 (UTC)[返信]

本件、「仲裁の是非」みたいな話にも発展しており、かなり高度な仲裁に関する評価問題にもかかわってきているのに、こういう低レベルな仲裁もどきが記されたことに強い不快感を表明しておきます。みや1229さんが出てくる余地は、ないと思うんですよ。--Nekosuki600 2009年11月13日 (金) 16:55 (UTC)[返信]

Unit.7

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コメント1については問題なし、2については本人が利益を得るためのページへ誘導しているため不適切です。それに、宣伝部分を除いておくこともできるのにそれをしないことは故意であったとみなせますし、それを何箇所も張ることは恥ずかしいことだと思います。これはコメント依頼によりその正当性をみなで考えるようなレベルの話ではなく直ちに削除依頼が適当だと考える。3についてはリンクのみの削除にして適切な出展を待つべきであると考えます。--60.254.240.213 2009年11月6日 (金) 16:09 (UTC)[返信]

すみません。宣伝性のところについては、同意できません(=^_^;=)。
おれんところの個人ページはすでにファイル数でえーとたぶん10万ファイルを超えておりまして、そんなもん手作業でなんとかできるものではなく、スクリプトで生成しています。特定のhtmlファイルから広告部分のテンプレートを取り除くことは可能ですが、それは次の更新で広告テンプレートつきのかたちに戻ってしまいますし、そういうことになったら「リンク直後だけ広告を削除しやがった。姑息な手段だ」とかいう別種類の非難を浴びることになったんじゃないかと思います。かといってWikipediaのためだけに新たな「テンプレートのインクルードをしないファイル群を生成するスクリプト」を作り、その系列の50000ファイルをアップロードするのもいやです。ていうか、おれ的にはWikipediaにそれほどの作業量を投入する義理を感じていません。
この点については「情報提供者側の都合と情報の提供を受けるWikipediaの側の都合との妥協をどうやって成立させるか」みたいなネタとして争点にすることはできるだろうと思うし、それはそれなりにWikipediaの発展に寄与する議論にすることができるとは思います。でもそういう議論を、おれの(って、所有権とも受け取れる表現で語るなよ(=^_^;=)>おれ)コメント依頼でやるのは場違いじゃないだろうかという気がしなくもありません。してもいいですし、してもらえればおれはそれを光栄なことだと思いますが(=^_^;=)。--Nekosuki600 2009年11月6日 (金) 16:19 (UTC)[返信]
おれ的にはWikipediaにそれほどの作業量を投入する義理を感じていません。ならば編集しないほうがよいと思います。「李下に冠を正さず」--60.254.240.213 2009年11月6日 (金) 16:31 (UTC)[返信]
脊髄反射しとくのですが、60.254.240.213さんのコメントは、なんぼなんでもコンテクストを無視したものじゃないすか。そういうろくに議論を読んでいないようなレスをおれは歓迎しないし、この議論の他参加者も歓迎しないんじゃないかなあと思います(例外なく、とまでは言わない)。
そのキーワードは、直前に往復で出ているのですし。
なお、おれ的にはなんだね。「Wikipediaに提供してもらう価値がある情報を持っているユーザが、微妙なルールの不知に基づいて『出て行け』と言われ、機嫌を害する」といったありがちな流れにはかなりの敵意を抱いています。そういう観点からも、今回の発端になった HATARA KEI氏のリバートについては「検討するに足りる興味深い例証を提供してくれたもの」と受け止めています。ご本人的にはそういう評価はものすごく不本意なものでしょうけれども。--Nekosuki600 2009年11月6日 (金) 16:39 (UTC)[返信]
「Wikipediaに提供してもらう価値がある情報を持っているユーザが、微妙なルールの不知に基づいて『出て行け』と言われ、機嫌を害する」そんな話には見えません。事実を見れば単にこづかい稼ぎのための自分のサイトへのリンクを多数貼り付けただけです。だから、ここで論じるほどのことでもないのです。削除依頼が適当というのはそういうわけです。--60.254.240.213 2009年11月6日 (金) 18:24 (UTC)[返信]
《削除依頼が適当》などと言っている時点でウィキペディア日本語版を理解しているとは思えないので、コメント依頼の場なんかに出てこない方がいいんじゃないでしょうか。--iwaim 2009年11月9日 (月) 15:23 (UTC)[返信]

Unit.8

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  • (コメント)(競合しましたがそのまま投稿します。特に後半部はちょうどその競合した投稿と重なる内容ですが、そのまま出します。)ふたこと。まず、私が読み違えていなければ、依頼者さんは「ルール違反と誤認されかねないようなことはしないほうがいい」とおっしゃっているように見えます(違ったらごめんなさい)。それは全然違うのじゃないか、と思います。ルールが何のためにあるかといえば、記事の質を下げないため、質を上げるためにあるわけで、ルールを守るためにルールがあるわけじゃありません。ウィキペディアのルールとは、{明らかなルール違反}={明らかな記事の質の低下}となるように設定されているものであり、グレーゾーンについて「ルール違反だ!」とあげつらうことに意味がある代物じゃないんじゃないでしょうか。グレーゾーンのような案件が起きたときにはその都度議論をし、それはルールに抵触するのか、という観点ではなく、それは記事の質の向上に寄与するものなのか、という観点から議論を深め、合意を目指すべきものだと思います。面倒ですが、そうしろというのがウィキペディアの精神だと私は理解しています。
    二番目。これは依頼者さんではなく、コメントしている方の意見の中に散見されることですが、「どうせやるならできうる限り最大限の労力をかけろ」というような主張に対して違和感を感じます。いま井戸端で話題になっているようなお金を取って生業として記事を書いている輩は別でしょうが、基本的にここはボランティアの自主的な貢献によって成り立っているものなはずです。ですから、かけうる労力の中でどの程度本気を出すかなんて、各々の勝手じゃありませんか。みなさんそれぞれ他に優先するべきこともあるでしょうに、もちろんNekosuki600さんもそうでしょうに、「ウェブサイトの構造を変えて宣伝色を薄めろ」だなんて本気で言ってるんですか?私にはその感覚は共有できません。せっかく貴重な情報を提供してくれる人に対して、もうちょっと別の敬意の払い方があるんじゃないでしょうか。たまたまNekosuki600さんはこういう議論に辛抱強く付き合う方ですが、そうでない方だったら嫌気が差して二度と投稿しなくなったって文句言えませんよ。それはウィキペディアにとって大きな損失です。--114.145.183.12 2009年11月6日 (金) 16:49 (UTC)[返信]
ルールが何のためにあるかについては、IPさんが見落としている面があるかと思います。記事の質向上が目的なのはもちろんですが、そのための一つの手段として、他の参加者との円滑な関係を促進して共同作業を維持するという側面があります。参加者間での無用な争いが起こらないように、きちんと合意を取り付けながら記事を書き上げていく、その手順を定めた部分が、現在のウィキペディアのルールには間違いなく含まれているはずです。それに抵触して、実際に参加者間での争いが起きたというのが今回の事案なわけです。そして、その対応に少なくとも私は数時間程度は取られていて、今手元で書きかけの原稿はその分滞ることになっているわけです。つまり、実際に質向上の阻害になっているのですよ。ルールを守ることそのものは、確かに目的ではありません。しかし、ルールには他の参加者との共同作業を円滑にするという目的もあるのだということは、忘れていただきたくはありません。
後段について、手間を少なくしてよい記事が書けるなら、それに越したことはないというのは確かです。しかし、Nekosuki600さんの場合、いささか手間を省きすぎて、そのためにトラブルが巻き起こっていると私は認識しています。記事を書くために常に最大の労力を費やせとは、私は申しません。皆さんボランティアですし、私も不十分な調査でスタブを書いてしまったことはいくらもあります。しかし、いくらなんでも出典にできる書籍を持っているのに、自分のサイトへのリンクでそれに代えるのはないんじゃないの、と思います。--Tam0031 2009年11月6日 (金) 17:59 (UTC)[返信]
うーん、ちょっと待て。なんか認識が違うぞ。
のちに出典として付け加えられた『軽便追想』は掘り出して確認をしたが、出典とされたのは地図につけられた振り仮名であり、おれだったらあれを出典にはしません。本件についてはすでに述べたと思うんだが、地名などの固有名詞の読みの確認はけっこうしんどいものであり、そのレベルの間違いは書籍上などでもけっこう見かけるため、それを出典とするのはつらいというのがおれの判断。たとえば大杉谷口駅について「おおすぎだにくち」という読みが『軽便追想』を根拠として付け加えられていますが、駅名標では「ぐち」と濁ってます。濁らない読みがあったことをおれは確認していないし、Web上でも一件もひっかかってきません。これ、だいじょうぶなのか?
で、『尾鉄よ永遠なれ』は未発掘。まあ否定説が出ているから発掘して確認するまでは何とも言えないのだが(というのは『尾鉄よ永遠なれ』にはヴァージョン違いがあるらしいという話を聞いているからだが)、なんかどっかに全駅名標が掲載されている本があったはずで、それにあたるまでは「駅名標の写真をもって駅名の読みを確認できる書籍」はみつかりません。
ところで、おれは2駅を除いて駅名標の写真を持っているし、それはWeb上に上げてあって誰でも確認できる。サイズは小さいが文字が読めるサイズにはなっている。個別にWeb上の写真などを探していけば他にも駅名標を確認できる写真くらいはみつかる可能性はあるけれども、おれにとっては(そして大半のひとにとっては)現時点で尾小屋鉄道が自分のところの駅に付与した「読み」を確認できる資料としては、うちんちのサイトは悪いもんではないだろうと思う。手抜きをしたわけではない。
ついでに「駅名標記載情報は地名読みの根拠情報にはならない」という意見があったように思うのだが、その意見との整合性はどうなったのだろう。もし根拠情報にならないのだったら駅名標の写真を発見しても意味がなということになるわけで、ではいったい何を根拠に振り仮名を振ればいいのだろうって話になってくるような気がする。--Nekosuki600 2009年11月7日 (土) 00:29 (UTC)--Nekosuki600 2009年11月7日 (土) 00:42 (UTC)(追記)[返信]
本件記事とそのノートで提示された、鉄道ピクトリアル誌2009年1月号の付録として「日本鉄道線路図1966年版」があって、これに読みが載っているということについて、私も当該誌を持ち合わせていたので確認してみました。問題の金野町については改称前なので確認できません。もっとも、ろっきょう、ではなくろくきょう、であることは確認できます。大杉谷口は「おおすぎだにぐち」です。ただ、観音下について「かながそ」という特殊読みではなく「かんのんした」という一般的な読みが書かれており、これについてはきちんと確認したのだろうかという疑問が残ります。
駅名票は唯一絶対の根拠情報ではない、と申し上げましたが、参考資料になりうることまでは否定しておりません。駅名票と文献の相違があった時に、無条件で駅名票を採用することにはならないだろうということです。仮に、運輸省/国土交通省に申請された法的に正式な文書と現地の状況に相違があった場合、どちらが正当だろうか、という問題もあります。実際、臨時仮設された駅などは、ろくに申請もせずに勝手に造って用がなくなったら勝手に取り壊した例もあると聞いていますし、北海道を中心に見られた仮乗降場などは国鉄本社の承認なく管理局レベルで運用していて謎が多いわけですよね。そうしたところについて、実態と文献に相違があった場合どうするか、ウィキペディアの場合どれか1つの見解に統一しなければならないということはないので、記事中で「残されている写真の駅名票では○○であるが、運輸省に提出された資料では××である」のように記載することになるのではないでしょうか。もっとも漢字表記に違いがあれば、どちらを記事名に採用するかという点で引き続き議論の余地があるかと思いますが。
より信頼性が高いと思われる文献資料について、鉄道省/運輸省鉄道局/日本国有鉄道が時折発行していた「停車場一覧」ならば、国鉄の連絡社線まで含めて、駅名とその読みが記載されていたように記憶しております。私の実家には昭和60年版があるのですが、遠く離れた場所に住んでいるので簡単には確認できませんし、時期からして尾小屋鉄道の確認になりません。金野町に改称されたのは割と末期なので、その時期の停車場一覧をうまく拾ってくる必要があるのですが、困ったことにうちの近くの図書館が書庫を改装中で、ちょうどその時期の停車場一覧が3月まで閲覧停止になってしまっています。もし私の勘違いで、停車場一覧でも読みは載っていない、あるいは昭和60年版だけ載っていた、国鉄線の駅だけ読みが載っていた、というようなことであれば、役に立たないことになってしまいますが、一応参考までにそういう資料もあると申し上げておきます。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 07:50 (UTC)[返信]
たったひとつの読みに統一しなければならないという理由はないのである程度以上信頼性の高い資料で複数の可能性があれば併記しとけばいい、という点については同意(「おおすぎだにくち」については果たして現在提示されている資料がどの程度の信頼性と考えればいいのかについて疑問があることはすでに述べた通り。基本線、ネコパブ本は写真・資料の収集力には見るべきものがあるんですが、テキスト部分についてはダイナミックレンジが広いように思う)。さて。
たとえば書籍などの記述をベースにWikipedia上に何かを書く場合、「○○という書籍にはこう記されていた」というのが根拠になるわけっすよね。駅名に振り仮名をふる場合、「駅名標にはこう記されていた」といのは根拠にしていいと、おれは思うんですよ。ここまでに異議があるなら以下は飛ばしてここまでに反論しておくれ。
さて、ただ問題はある。書籍の場合、その書籍を見ないことには確認ができないという問題を抱えている(が、まあ持ってりゃ確認できるし、図書館にあっても確認できるし、Wikipediaでは伝統的にこの問題点は気にしないことになっている)。駅名表の場合、まあ現存する駅ならば行けばいいわけだが行くのはいろいろしんどいことが多く、現存しない駅ならばタイムマシンがないと確認に行けない。表記変遷の追跡もしんどそうだ。まあそういう場合には写真で確認しましょ、ってことになるんだろうと思う。この段落に異議があるなら以下は飛ばしてこの段落に反論をしておくれ。
で、おれが考えるに、まあURLがそのまま生き残るだろうということはあまり想定も期待もしていなかったが、少なくとも「駅名表にはこう記されていた」ということを確認することには使えるし、記載された駅名読み情報の正当性を裏付ける情報としては十分に使えるものであったと思う。ところが、その後どういう展開になったかというと「URLの削除」にとどまらず「間違った読みへのリバート」「全駅名読みの削除」といった方向に話が進んでしまった。つまり、「提供された駅名読みの情報が尊重されなかった」という展開になったわけっすよ。
現実問題、ちょっと前にも貴重な古い写真を大量に提供してくれているひとに対して「Wikipediaはお前のギャラリーじゃねえ、ピンボケ写真をアップすんな(大意)」という罵声が浴びせられたりした。今回の「宣伝はご遠慮ください」というリバート理由も同種のものなんじゃないか。もちろん無秩序かつ断片的な見たまま情報などは歓迎できないにせよ「確度は高そうだし、とりあえず次号の鉄道雑誌が出るまでは要出典つけときゃいいんでないの」という程度の情報を一所懸命削除してまわっているひともいる。鉄道分野は確かにこうかなり困ったちゃんの出現回数も多くいろいろ苛立っているひとが多いことはわかるんだが、しかし「どの情報には価値があり、どの情報には価値がないか」といった峻別をすることを怠けて情報の削除に走るといった方向がそこそこ顕著に見られるように思う。
おれ的には、なんで「自身に対するコメント依頼には関与しない」という基本的方針を破ってここで粘っているのかというと、今回の出来事は「提供された情報をなるべく残していこう」というWikipediaの基本哲学をないがしろにする考え方がある、ということのひとつの証拠になってるんじゃないかと思っているからです。それは困るだろうと。それは見直すべき考え方なんじゃないんだろうかと。--Nekosuki600 2009年11月7日 (土) 14:51 (UTC)[返信]
前段の、駅名標も根拠の一つにできること、写真でそれを確認するのが問題ないことには異論ありません。
その次の問題ですが、こと私の編集については、あのままにしておく意図はなくて、確認ができ次第戻す、あるいはノートでの合意形成次第戻す、という意図でしたので、情報を蔑ろにするつもりはありませんでした。情報を極力残すということにも異論はありませんし、ピンボケ写真のくだりも問題であると私も捉えています。ですから、情報を出してくれる人や、初めてウィキペディアの編集に加わろうとする人には、ルール違反が多少あったとしても、なるべく丁寧に接してルールを守るように誘導していこうと考えております。だからこそ、ノート:コンテナでの例のように、ルールが分からず既存の編集者と衝突してしまっている人と粘り強く接しています。
しかし、Nekosuki600さんは、2005年からの編集履歴がある方で、私よりも2年以上長くウィキペディア編集の経験があるわけですよね。問題があったらノートへ、の原則を知らないということは到底ありえないわけですよ。とりあえず問題があるから戻しておいて、ノートで議論して決めましょうよ、というところで、リバート返しをするのはいくらなんでも不味いじゃないですか。リバート返ししてなければ、こんなコメント依頼には発展せずに、既にあなたの写真も尊重した形で内容が充実した記事に成長していたかもしれないんですよ。あなたの情報提供が貴重であったのは認めますが、だからといって経験をある程度積んでウィキペディアの編集の仕方や方針を一通り把握した編集者の間で、特別扱いはできません。初回の本人リンクくらいなら、貴重な情報であることも鑑みて、まぁまぁという感じになったかもしれないのですが、リバート返しはいただけませんでした。問題が起きたらノートへ、自己サイトへのリンクは了解を得る、それくらいは守って欲しいのですよ。--Tam0031 2009年11月7日 (土) 16:45 (UTC)[返信]
『尾鉄よ永遠なれ』の1980年発行のオリジナル版が手元にあったので確認しましたが、駅名票の写真があるのは花坂駅のみで、他には沢駅が何とか確認できる程度で、新装版とは多少内容が異なるようです。駅の写真が比較的豊富なのは、昔の「鉄道模型趣味」の記事で、阿部敏幸「尾小屋鉄道」『ナローゲージモデリング』所収、あたりが可能性高そうですが未確認です。--rs1421 2009年11月7日 (土) 11:17 (UTC)[返信]
あ、どうも申し訳ない。『尾鉄よ永遠なれ』は記憶違いでしたか。阿部敏幸の「尾小屋鉄道」は駅別に順々に紹介というスタイルだったので駅名標写真一覧が掲載されている可能性はないですねえ(個々の駅の写真から読み取れる可能性はなくはないが)。あと可能性がありそうなのはどこらへんだろう(と頭を抱える)。しかしまあおれ的には新小松と長原以外は解明済みなのであんまし切迫感はないのでした(すまん(=^_^;=))。--Nekosuki600 2009年11月7日 (土) 14:51 (UTC)[返信]

Unit.9

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  • コメント コメント以下、箇条書きで。
    1. ノートなどで『この読みが正しい』と示すのであれば全く問題ないでしょうが、本文の「出典」としては失格だと思います。参考資料としてならいいでしょうが、それならそれでcommonsにでもアップしてくれればいいのに、と思いました。
    2. 「宣伝」と見なすかどうかはケースバイケースでしょう。しかし出来るだけ止めて欲しい手法であると思います。特に、事の是非を『誰がやったか』で判断するようなケースは避けたい。
    3. いけないとは思いませんが、問題がないとは言えない。相手の感情を煽り、編集合戦に陥る可能性がありますので(実際、そうなったようですね)。
    • 最後に。私見ですが、今回のNekosuki600さんの行為は、自サイトの写真を持ち出したことよりも、コメント欄で挑発的な「会話」を行ったこと、編集合戦に持ち込んだことの方が問題であったと思います。 -- NiKe 2009年11月7日 (土) 01:07 (UTC)[返信]
  • コメントコメント
    1. 写真や図画を典拠にしてはいけない、典拠はテキストでなければならないというガイドはありましたっけ(もしありましたら私の不明をおわびします。でもそこのノートへ話し合いに行くかも)?本文の「出典」として、あるいはベストだとはいえないのかもしれないが、次善の策としては問題ない。ノートなどで話し合いの材料として出すのは全く問題ない。問題ないどころか、それがうそやでっちあげでない限り、貴重な情報源。
    2. 「その行為イコール宣伝」ではない。本文に書かれている情報がどこから出てきたかを示すにあたっての次善の策として、「不可」ではない。
    3. 付けられていた出典や書かれている記述、および両者の関係に疑義がある、うそやでっちあげである場合は問題ない。付けられていた出典を見て、書かれている情報は確からしい/書かれている情報の根拠は世の中に確かに存在するらしいという場合は、書かれている記述そのものまで削除してしまうのは、もったいないというか、損失だと思う。そこにもし(誰かによって)漢字の読み方としては合っているが固有名詞としては間違っている/根拠がない読みを書き込まれたとしたら、百科事典としては、困惑的な状況と思う。
コメント
1.問題ない。写真自体は「信頼できる情報源」と考えてよいから。
2.問題あり。Nekosuki600氏のサイトは「信頼できる情報源」とは言えないし、自分で自分のサイトへリンクを張るのでは、宣伝と言われても仕方ない。今回のケースでは、独自研究は載せないに抵触する恐れのある自分のサイト(HTML)へのリンクではなく、リンク許諾を出した上で写真自体への直リンクを示すか、使用許諾を出した上で写真をコモンズへアップロードすれば問題はなくなる。
3.問題あり。{{要出典}}を張ってしばらく待ち、反応がなかった場合のみ削れる。--119.245.52.160 2009年11月7日 (土) 10:00 (UTC)、211.126.24.115(=119.245.52.160) 2009年11月7日 (土) 12:13 (UTC)[返信]
テンプレート部分にnowikiタグを付加、誤字は修正せず--Tam0031 2009年11月7日 (土) 10:37 (UTC)[返信]

Unit.12

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Unit.13

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  • コメント
2.情報源を含むとはいえ自身が関わると思われる写真集を宣伝するページへのリンクであるから避けるべきであった。どうしても必要ならばWikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクにて「宣伝目的のリンク、自分が運営にかかわっているサイトへのリンク」という特別な項により示されているこのような場合は、サイトへのリンクは最大限自制すべきであり、掲載する前にまずは上記の基準を十分に吟味してください。リンクを掲載する前にノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益でしょう。との手順を踏むべきだと考えます。
3.前項のように自制すべき情報源を根拠とする編集なのだから(結果として正しいか否かの以前に)いったん差し戻しノートで議論することは妥当である。
--みや1229 2009年11月9日 (月) 15:13 (UTC)[返信]
コメント まず、Wikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクについては、みや1229さんが引用している部分にあるように、掲載する前に十分に吟味すればよいのです。《との手順を踏むべきだと考えます》ってのは何を言っているのかさっぱり解らないです。まあ、この件ではコメント依頼を立てるほど問題視する人がいたということで、結果論的には今のウィキペディア日本語版ではノートでの事前提案の方がよかったと言えるのかもしれない。でも、それを以って「適切な手順を踏んでいない」というのは間違っている。で、次。こっちの方が現実的に問題だと思うんだけど《(結果として正しいか否かの以前に)いったん差し戻しノートで議論することは妥当である》ってのはどうなんですかね?どーせ検証可能性なんて今のウィキペディア日本語版は軽視されているんだから、正しい結果だけを残し、検証可能性を満たすための出典として適切なのかどうかというあたりを後で議論する方が百科事典の作成に寄与するんじゃないでしょうか。--iwaim 2009年11月10日 (火) 01:08 (UTC)[返信]
iwaim氏コメントへの補足。引用の以下の部分が読み飛ばされていますので補ってみてください。
リンクを掲載する前にノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益でしょう。
--みや1229 2009年11月10日 (火) 10:26 (UTC)[返信]
コメント ええと、もちろん読んでますし、それが有益であることは否定はしません。でもね。「必ずノートページで聞きましょう」って書いてないでしょ? それはつまり、必須な行動ではないということなんですよ。だから、その部分を根拠として「手順がおかしい」などと主張することは、ちゃんと日本語が理解できていないということであると私は認識しています。まあ、そんなことよりも、私の『正しい結果だけを残し、検証可能性を満たすための出典として適切なのかどうかというあたりを後で議論する方が百科事典の作成に寄与する』ということについてはどうですかね? それに対してはコメントすることはないって理解でいいでしょうか。--iwaim 2009年11月10日 (火) 12:27 (UTC)[返信]
僕はコメント依頼に対してWikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクにもとづいた意見を述べにきたのであって、iwaim氏のガイドラインの解釈について議論しに来たのではありません。ではこれで。--みや1229 2009年11月10日 (火) 12:45 (UTC)[返信]
だからその理解がおかしいと指摘しているだけですよ。--iwaim 2009年11月10日 (火) 16:21 (UTC)[返信]
たぶんみや1229さんがやりたい論点はそこにはないと思います。もう「違う世界にいて違うものを見ているのだから理解は不能だ」くらいに諦めてもらえるとうれしいなあとかおれの側は思っているのですが。どっちが上でどっちが下かには興味がないが、とにかく階梯が違いすぎる(ふっ)。--Nekosuki600 2009年11月10日 (火) 16:36 (UTC)[返信]
ええ?検証可能性ノート)は今のウィキペディア日本語版では軽視されているんですか?
引用については下記。
Uryah 2009年11月10日 (火) 12:59 (UTC)[返信]
だって、どうみたって軽視されているじゃないですか。特別:おまかせ表示で10件ぐらいランダムに表示してみて、その記事が検証可能性をどれだけ満たしているのかをみれば、軽視されっぷりが確認できるのではないでしょうか。--iwaim 2009年11月10日 (火) 16:19 (UTC)[返信]
◆検証可能性がWikipediaにとって重要だという点については同意するのですが、けっこう軽視されているなあという現実的認識はあります。本件の発端、「検証可能性を満たす(という意見が多いように思う)情報を削除し、検証可能性を満たさない間違った記述に戻されたこと」が話の発端になってるわけで。もっとももう一方で「検証可能性」を口実として気に入らない記述を削除しようとするやつがそこそこの数いることとか、どこまでが常識でどこから先が検証可能性を満たすべく情報を記述しておくべきものなのかについてのややこしい争点とかもあるわけで、むずかしいなあとも思うのですが。でもまあなんだね、「智」ってそういう局面でのせめぎあいをしつつ洗練していくものである、とも思っていたりして、こういう議論はそれはそれでなんらかの有益な結果をもたらすのではないかという期待もあったりするわけよ。--Nekosuki600 2009年11月10日 (火) 16:36 (UTC)[返信]
本件の発端は自己サイトの宣伝です。それは最初のリバートのコメントで説明されています。鉄道ファンが多く訪れるページに鉄道写真販売もしているサイトへのリンクを貼ったことが私的利用にあたるわけです。最初の編集はついうっかりと解釈できても2回目3回目と宣伝の疑義への説明なしのリバートはまったく擁護できません。これらの編集行為を棚上げして「検証可能性と記事の質向上」を論ずるべきではないと思います。--みや1229 2009年11月12日 (木) 10:58 (UTC)[返信]

Unit.14

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あ、そうだ。これを書いておかないと(本来こう、被依頼者コメントに付記すべきかもしれませんが、どうせ議論になるだろうと思うわけで、ユニット立てとく)。

そもそもの発端は、妙に機械的で情報削減を伴う編集を鉄道項目に大量投下したユーザさんがいたことなんですよ。これまた読み仮名の削除だったわけですが。で、尾小屋鉄道を含むあちこちの項目で編集合戦気味になりつつ説得・説明をしていた。そしたらこんどは、既存版の読みの削除はやめたものの間違った読みを付け加えやがったのですなあ。いったい何をやっておるのかと思いまして、「調べずに間違った情報を付け加えるんじゃないっ」というメッセージをこめて、「ちゃんと調べて書け。調べないなら書くな」ということをそいつに教えてやりたかったのです。ま、宣伝だのなんだの言うひとはいるだろうという想定はありましたが、とりあえず物量作戦でそいつに妙な編集をやめてもらいたかったわけよ。

現状、そのユーザの質の低い編集は止まっていますので、そういう意味ではそこそこ目的は果たしたかなあと思ってます。このコメント依頼はおれ的には派生議論なんだけども、でも興味深い議論に発展していることに、改めて感謝申し上げます。--Nekosuki600 2009年11月10日 (火) 17:45 (UTC)[返信]

Unit.15

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コメント依頼での論点についてはほぼ終わっているので、後は外部リンクの選び方のノートで議論すべき問題になっていると思います。そういうことであれば、適当にまとめをした上でこちらを閉じたいと思いますが、いかがでしょうか。--Tam0031 2009年11月11日 (水) 14:57 (UTC)[返信]

そんなのいやん(=・_・、=)。
ていうかこう、昨晩ようやく気づいたんだけど、おれが立腹した理由というのは「ビギナーに対する丁寧な説得を行っている最中に、その文脈を無視して間違った情報へのリバートが行われたこと」であるような気がしてきたんですよ。そして、そのリバートの理由が「宣伝」なる理由に基づけば問答無用でリバートしていいという感覚にあったような気がするわけ(HATARA KEI氏のリバートが主たるものですが、説得途中で「正しく検証された情報を削除する」というTam0031さんのリバートも従属的には同類)。
外部リンクの適正性についての議論はそちらでやっていただいてもかまわないのですが、おれとしては「なんだってまた、HATARA KEI氏にせよ、Tam0031さんにせよ、そういう背後から味方を撃つようなマネをしたのか」を聞きたいと思うし、どうしてそのような理解をしたのかについてはきっちり説明をいただければと思っています。誤解であったのならばその旨明言した上で撤回していただければおれとしては水に流すにやぶさかではありませんが(ていうか、KATARA KEI氏のリバートについては、Nos問題(というのが昔あったんだ)あたりからのおれに対する個人的敵意に基づくものだったんじゃないかということもついでに思い出していたりする。んなもんおれは覚えていなかったし、遺恨になるような話でもなかったと理解しているのだが)。
そういう相互の誤解あたりに関するネタについては、このコメント依頼で決着をつけるのが正しいんじゃないだろうか。そしてそこらへんってば、根本的には「情報を削除するときに持っているべき矜持」みたいな話に帰着するのではないだろうかなんて思うわけよ。基本的におれはそこらへんの話しかしていないつもりなんだけれども。--Nekosuki600 2009年11月11日 (水) 15:08 (UTC)[返信]
そういうことであれば、その部分については節を分けて続けましょう。
以前にも申し上げましたが、HATARA KEIさんのことはHATARA KEIさんに聞いていただかなくては分かりません。私には答えようがありません。私の編集については、以前申し上げたとおり、情報を除去して終わりにするつもりはなくて、以後の編集を考えていたわけですし、とりあえず問題になっている箇所を解消する手段として実行しても構わない範囲であろうと判断しました。
その「ビギナーに対する丁寧な説得」というのは、履歴でなにやら変なことをやっているなぁとは思ってみていたのですが、それが検証可能性の「教育中」であるとは思っていなかったので、それを考慮せずに件の編集をしています。HATARA KEIさんとのやり取りあたりから見れば、なにやら読みを修正したようだけど、自己サイトリンクになっていて、それを問題視する人がいるようだ、としか私の目には写りませんでしたので。なので「背後から味方を撃つようなマネ」という意識はありません。--Tam0031 2009年11月11日 (水) 15:23 (UTC)[返信]
えっとなあ(と、頭をかきむしる。とかいうとまたそこにつっこまれてしまいそうな懸念もあるわけだが。でもためいきもつきたい気分)。
Wikipediaで編集をめぐって起きている対立にはけっこうややこしいものがあり、その全てを理解していろなんて言うことはできない。時として間違うこともあるし、間違ったら詫びて反省しときゃいい、くらいにおれはアバウトに思ってます。命賭けて争うような場じゃないし。しかしな。
この発端になっていたこと、それは順を追って見ていけばそんなにわかりにくいことじゃなかったと、おれは思うんですよ。念のために箇条書きにするとこんな感じだ。
  1. 鉄道項目の駅一覧を表形式に機械的に編集するビギナーさんが登場。しかしその途上で「読み」を無条件で削除するという暴挙をやった(おれはいちいち見ていないけれども、この被害はそれなりに残っている気配がある。気になるひとはパトロールをして戻しておいてもらえるとありがたい。被害項目数はそれほど多くない)。
  2. おれは、その編集を戻すとともに、そのユーザの会話ページに行って「難読駅の読みの情報を削除するな」という説教をした。
  3. 返答はなかったが、当該ユーザは、読みを削除するのはやめた。しかしこんどは、適当に読みを付け加えるという更なる暴挙を敢行。それが「金野町駅」の「かねのちょう」という読み。
  4. おれは、その表組みという編集を尊重した上で、読みについてどういう根拠情報があるのかについて、とり急ぎおれんところのページのURLを明記し、「かねのまち」と修正した。
  5. そこに、横か後ろだかにいた HATARA KEI部隊からリバート弾が打ち込まれ、おれが振り向いてリバート返し弾を打ち返した。
  6. 一往復ほどやりあいがあったのちに、こんどはTam0031さんがコメント依頼弾を打ち込んできた。←いまここ
前段に何があったか気づいていなかったのなら気づいていなかったでかまいませんし、気づいていた範囲では問題行動に見えたということならばそれもそれでかまいません(ていうか、すでにおれは「問題視するやつはいるだろうことくらい覚悟の上でやってる」と述べていたように思う)。たださあ。
おれは、いまさらではあるが(っていうかおれもそこに問題の源流があることに気づいていなかったくらいなのだが)、説明をした。その説明を聞いて、何か言うことはありませんか。明示の謝罪をしろだなんてガキじみたことは言いませんが、ご自身の行動が短慮に過ぎるものであったかもしれないという可能性があったかもしれないという懸念くらいは抱きませんでしたか。抱かなかったのなら抱かなかったということで、それでけっこうです。そうであるなら、話を打ち切ることに異存はありません。
HATARA KEI氏については、このコメント依頼に意見表明をしなかったことをもって、おれはそれなりの評価をしていますし(プラス評価という意味ではない。「評価」にはプラス評価もマイナス評価もある)、それでいいと思います。今後同様の短慮な編集をしないように気をつけるかどうか、行動を見て判断するということで十分でしょう。というわけで、HATARA KEI氏が何を考えていたかについてあなたに説明をしてもらおうとは思っていませんので、あなたがそこを気にする必要はありません。--Nekosuki600 2009年11月12日 (木) 13:07 (UTC)[返信]
私の視点から見れば、どちらかというとあの読み除去で、HATARA KEIさんとNekosuki600さんの仲裁をしたつもりだったんですけどね。ただ、自己サイトへのリンクという手法への強い疑問があったので、ノートでの書き方があんなになってしまったのは、最初からちょっとけんか腰過ぎたと反省しております。--Tam0031 2009年11月12日 (木) 14:14 (UTC)[返信]
あれが仲裁を意図していたのだとすれば、それはかなり酷いものだったと思います。少なくとも、Tam0031さんはウィキペディア日本語版上では仲裁を目的に動かない方がいいんじゃないかと思います。--iwaim 2009年11月12日 (木) 14:44 (UTC)[返信]
◆うーん・・・。あれが仲裁として機能する可能性はなかったんじゃないかという気がする。仲裁のつもりでやったことであるとおれが認識することの期待可能性も皆無だったんじゃないだろうか。
また、その編集が、当時のTam0031さんの視野にはいっていなかったのはしょうがないとおれは妥協・譲歩して書いているわけだけれども、おれが当時やっていたビギナーさん対応という意味ではおふたかたの編集は(つまりTam0031さんの編集も)「検証可能性以前の調べていないことが歴然とした情報を書く者への教育的対処」という意味ではマイナスにしかならない短慮だったということについては、見解を維持します。--Nekosuki600 2009年11月13日 (金) 14:05 (UTC)[返信]
なんてゆーの。えーと。おれとしては、この問題の本論は「外部リンクの選び方」ではないと思っているんですよ。
もしも「外部リンクの選び方」が本論であるのならそっち方向で集中審議をすればいいし、それで問題は解決するんだけど、そうじゃないんだ。おれとしては、「とりあえずの根拠提示」としては必要十分だと判断したから掲載したわけだけれども、それが永続的に残してもらえるリンクであるとは思っていなかったしそういう期待もしていなかった。「とりあえず問題編集に対して反証的根拠として十分な情報である」と判断して掲載したわけです。そういうわけで、「外部リンクの選び方」という視点から今回のトラブルについての解析・考察をするのは、難しいと思います。また、おれの側の抗弁は「当該リンクは万全に適切なものであった」ではありません。
いいかげん巨大議論になってます。おれとしては「自己サイトへのリンクは厳禁」という結論には同意しないし徹底抗戦をしようと思いますが、「自己サイトへのリンクは無条件でおっけー」みたいな結論を出したらどうなるかも想像できますんでそういう結論も望みません。ていうか、そういうベクトルで結論を出してもだめぽなんじゃないんだろうかと思うしその手の結論を出そうという方向性にもおれは反対します。でだ。
なんかこう、問題解決の方向性が違うんじゃないかと思うんです。えーと、おれとしては、Tam0031さんの編集にもコメント依頼にも同意できないし(いや、コメント依頼については結果としてありがたかったとは思っているけれども)、もちろん HATARA KEI氏のリバート編集にも同意できません。んでもって、別に明示の反省表明とかを求める気はなかったのでそこらへんは曖昧に済ませてもよかったしそういう逃げ道を明示しつつ議論を展開してきたつもりです(議論に参加しないことを選んだ HATARA KEI氏については別論だが、ここでは論じる利益がないので言及しません)。また、こちらの側にどういう理由があったのかについても、丁寧に説明をしてきたつもりです。おれの側の理由についてわからないことがあれば、具体的に聞いてもらえれば、更に考えて説明する用意もあります。
おれとしては、根本的な問題というのはやはり「『宣伝』といった概念を理由としてのリバート」を安易に行うといった、情報を安易に扱う風潮ではないかという気がします。意図はどうあれ提供された情報はしゃぶり尽くすくらいの貪欲さが、百科全書派の末裔として、デフォルトとして期待されるんじゃないんでしょうか。そしてその「情報に対して貪欲であること」を百科全書派の末裔としての誇りとはできないものなんでしょうか。おれはそんなことを、この議論を通じて改めて思ったわけですよ。
本件を閉じるのならば、そういう点について、きっちり話をする必要があるんじゃないかと、おれは思っています。さあ、このあとどう展開するのが、お互いにとって、そしてWikipediaにとって、良い展開になるとお考えになりますか。--Nekosuki600 2009年11月14日 (土) 12:57 (UTC)[返信]

Unit.16

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コメント
1.問題ない。紙媒体に掲載された写真について信頼できないということが無い以上、本件に関する信頼性の疑義はそれがウェブ上の電子データであることだと考えられるがウェブ上の文書についても優先度に差があるが出典として採用できる以上排除する理由が無い。
2.推奨されない。ただしそれを理由に排除されるべきではない。今回のケースで言えば、別に適切なリンクが張れるならばアフィリエイトの無い別サイトのほうが望ましいが、無いのであれば次善の策としてリンクは有効と考える。
3.推奨されない。ただし論争になることを予期して行ったのであれば問題があるとも考えられる。問題がある。有効な情報を誤消去する危険があり、また要出典・要検証タグの貼付等、他に危険回避手段があるため。、また差し戻しの際に有効な情報の誤消去だけでなく誤情報の混入が指摘された際にその被害を不当に軽視し、かつ当初の解決方法に拘ることがWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないにあたるため。
--Himetv 2009年11月12日 (木) 18:44 (UTC)--意見一部変更--Himetv 2009年11月17日 (火) 19:30 (UTC)[返信]

Unit.17

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メタなコメント。このコメント依頼の目的、特に第三項についてコメントを依頼している目的がわからなくなりました。「○○や××といった観点が抜けていたことは認める。しかし、当時の判断としては (○○や××を知らなかったのだから?) 間違っていなかった」という主張を、自分の行為についてコメント依頼した本人が補足説明の範囲を越えて繰り返す意図がわかりません。なぜ、「○○や××といった観点があることがわかりました、コメントどうもありがとう」ではなく、「しかし、当時の判断としては間違っていなかった」なのでしょうか。それではコメント依頼として成立しない気がします。まぁ、派生議論たっぷりになっているのでもはやコメント依頼から逸脱しているとも言えるし、ノートへ移すタイミングを逸したというのがわたくしとしては正直なとこころなのであまり言えた義理ではないのですが、李下に冠を正さずなポリシーな方が自らの行為についてコメントを依頼したのに、「当時の判断としては間違っていなかった」が繰り返し主張される意図がよくわかりません。意図がわからないというよりは、整合性に疑問、というべきかもしれませんが…いや、自分に関する判断と他人に関する判断という観点では、自分に関する判断なコメント依頼だから整合していて、だからこそわたくしには理解しがたいのか…そうかもしれない。--Jms 2009年11月17日 (火) 19:56 (UTC)[返信]

「そもそも利用者の行為についてのコメント依頼として出す段階ではなかった」という単純な話だと思っています。まあ、こういう議論になったのですから、結果論的には「記事のノートページでの議論へのコメント依頼としなかったのは、(ノートページがすごいことになるという点で) よかったかもね。」とは言えるでしょうね。別にノートページがすごいことになってもかまわないという意見もあるかとは思いますが。(ただ、こういう形式になったから当事者の一人はでてこないままで終結しそうということはある)--2009年11月17日 (火) 20:08 (UTC) --iwaim 2009年11月18日 (水) 18:56 (UTC) (これ、私の発言でした)[返信]
ノート、と書いたのはこのコメント依頼のノートの意味です。曖昧御免。--Jms 2009年11月17日 (火) 21:22 (UTC)[返信]
そうですね。確かに私の行為について意見があったことに私がいちいち反論していたらコメント依頼がうまく成立しませんね。ちょっとどうかしていたようで、関係した皆さんには大変申し訳なく思い、お詫び申し上げます。投稿された情報に関する取り扱いについて、Tam0031は軽く考えすぎているとの批判、重く受け止めさせていただきます。このたびのことは深く反省しております。申し訳ないついでですが、既に私がこのコメント依頼のまとめをできる状況ではないように思うので、Jmsさんかiwaimさんの方で適当なところでまとめをしてはいただけないでしょうか。依頼者の責任を勝手に押し付けてしまって申し訳ないのですが、どうかよろしくお願いいたします。コメントを頂いた方に深く感謝いたします。--Tam0031 2009年11月18日 (水) 09:37 (UTC)[返信]
必ずしもまとめなければいけないというものでもないと思いますが、委託するならまとめの経験がありここにコメントを寄せなかった方を選ぶべきです。Jmsさんかiwaimさんという特定の方々を指名する合理的な理由はないと思います。--みや1229 2009年11月18日 (水) 12:52 (UTC)[返信]
みや1229さん、さすがにこれだけの量のログを読んでまとめをすることを、これまでに参加していない人に委託するのは無理だと思います。Jmsさんとiwaimさんは最初から最後まで読んでおられたことはほぼ確実なので、お願いしております。--Tam0031 2009年11月18日 (水) 13:12 (UTC)[返信]
おれもーおれもー全部読んでいるぞー(あ、でも一部は読み飛ばした(=^_^;=))。--Nekosuki600 2009年11月18日 (水) 13:27 (UTC)[返信]
◆いっそのこと、まとめなくていいんじゃないでしょうかね。--iwaim 2009年11月18日 (水) 18:56 (UTC)[返信]
◆自身の発言が迷走しているのでまとめられないというのは同情できますが、少なくとも、「Tam0031さんは仲裁を目的に編集するべきではない」という結論だけは自ら認めた方が潔いでしょう。--219.116.85.89 2009年11月18日 (水) 12:59 (UTC)[返信]
219.116.85.89さん、これ以降、仲裁を目的とする編集はいたしません。当分の間Wikipedia名前空間にも出入りしないつもりです。--Tam0031 2009年11月18日 (水) 13:12 (UTC)[返信]
御指名ですしタオルを投げた手前まとめることにやぶさかではありませんが (時間がかかるであろうことは御寛容のほど)、他にまとめたい方がいらっしゃる様で、そこでわたくしが手を出すとまたひと揉めありそうで躊躇しております。まとめが求められているわけでも、ましてやすぐにまとめなければならないわけでなし、コメント依頼なさった方が何かを得られればそれで十分ということもありましょう。それでもというのであれば、得られたなにかが落ち着くのをじっくり待ってそれから御自身の手で、というのもあろうかと思います。ウィキペディアは逃げません。--Jms 2009年11月18日 (水) 19:37 (UTC)[返信]
こちらも曖昧な感じで申し訳ないです。利用者の行為へのコメント依頼としてではなく、該当記事のノートページで議論をすすめて、そこへ議論活性化のためのコメント依頼をやった場合という話のつもりでした。--iwaim 2009年11月18日 (水) 18:56 (UTC)[返信]
(編集が競合したようですがそのまま)下記Unit18Unit17bUnit17.1に3つの論点に対する意見を集約しました。意外に少なくまとめられるのではないでしょうか?--みや1229 2009年11月18日 (水) 14:59 (UTC)--時間的経緯から見て正しい記述に直す。--Nekosuki600 2009年11月18日 (水) 15:04 (UTC)[返信]
◆おれとしてはなんだなぁ。
まとめをやるなら、時間がかかってもいいからTam0031さんにまとめてほしいなあと思う。ま、目立たないところに埋まってますが「2009年11月18日 (水) 09:37 (UTC) 」がまとめなのかなあなんて思わないでもないけれども。
なんてゆーの。おれはまあ井戸端での話題とかでも振ったことがあり、おれんところのサイトは参考サイトとかで出してもいいんじゃねーのという評価をもらっていたわけだけど、これまでそういう使い方はしてきてなかったわけですよ。そういう意味でおれは十分に抑制的であったし抑制的であると判断してます。
今回はあえてそれをやったわけだけど、その理由については説明をした。「他項目にも及んでいたビギナーユーザによる破壊的編集を抑止するため」です。そして、そっちの目的は達成できてますので、まあいいんじゃないかとか思ってます。んで、今回のコメント依頼によって、派生的に「誤字脱字校正ミスなどが懸念される文献を根拠として使うことの危険性」みたいなもんについても警鐘を鳴らすことができたわけで、そこらへんは想定外でしたけど、まあ結果としてはよかったんじゃないかと。
ま、Tam0031さんが「あくまでも自分は間違っていなかった」と言い募ることには違和感を感じていましたが、前記の埋もれたコメントでその点についても反省の表明はあったとおれは認識しています。ま、「まとめとしてはっきり書け」とか言うのは酷なんだろうなあ、みたいな感じ。
現時点での感想は、そんなところです。--Nekosuki600 2009年11月20日 (金) 13:42 (UTC)[返信]
「既に私がこのコメント依頼のまとめをできる状況ではない」と述べたのは、能力的に無理という意味ではなくて、私がまとめを書いてさっさとこのコメント依頼を閉じてしまっても、この状況では他の参加者の方にとっては白々しいだけだろうから、まとめとしての信頼を得られないだろう、ということです。それでも私が書くべきとのお言葉をお2人から頂きましたので、新たなコメントがなくなってからしばらくしてから、まとめを実施したいと思います。--Tam0031 2009年11月20日 (金) 14:47 (UTC)[返信]
信頼を得られるかどうか心配なら、ノートで検討してから、という手もあります。--Jms 2009年11月20日 (金) 16:22 (UTC)[返信]

Unit.17.1

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長文のなかで3つの論点について見解を述べているのは次の10の意見です。

参考に僕の解釈で3つの論点に対する評価を記しました。
問題なし○ 問題あり× ノーコメント-
ユーザ名 投稿日時 論点1 論点2 論点3
iwaim 11月17日18:16 ×
Jms 11月4日 21:57 ×
準特橋本 11月5日 15:34 ×
Twilight2640 11月5日 16:28 × ×
60.254.240.213 11月6日 16:09 × ×
NiKe 11月7日 01:07 × × ×
Uryah 11月7日 03:37 ×
211.126.24.115 11月7日 12:13 × ×
みや1229 11月9日 5:13 × ×
Himetv 11月17日 19:30 × ×
これらの意見だけをまとめてはどうでしょうか?--みや1229 2009年11月18日 (水) 14:37 (UTC)[返信]
あんたなんで懲りもせずに出てくるかな。
その程度の集計くらいおれにも普通にやってみようかと思いましたしローカルにはやってみましたけど、項目が明記されていないが意思表示はされているものについてどう解釈するかといった微妙な問題がつきまとうんで、万民に合意されるであろう集計は無理だと思ってやめたんですよ。
ていうか、みや1229さんの意見は基本線「評価されていない」んであって、それを正視して遠慮しとくのがいいんじゃないでしょうか。これ以上ノイズをまきちらさないでもらえるとありがたいです。--Nekosuki600 2009年11月18日 (水) 14:45 (UTC)[返信]
◆私の論点2って「×」って評価されてしまうんですね。誤解をさせないようこれからは気をつけます。--Himetv 2009年11月18日 (水) 15:08 (UTC)[返信]
実は△にすべきか迷いました。異論が出ることを承知で突破口になればと思い投稿しました。--みや1229 2009年11月18日 (水) 15:14 (UTC)[返信]
迷うくらいなら仲裁だのまとめだのしようと思わないでくれないかね。このコメント依頼において、一方当事者であるという制約を認識した上で言わせてもらうんだが、みや1229さんはノイズにしかなっていないんで、「諦めて黙る」のが最適解だと思うんだわ。このコメントへのレスポンスもせずに黙ってくれるととてもありがたい。善処よろしく。--Nekosuki600 2009年11月18日 (水) 15:21 (UTC)[返信]
◆面倒なんで個別の評価についての検証とかはしませんが、ぱっと見しただけですが、おれ的にはとりあえずNiKeさんの意見表明の評価についても疑問があります。他にも疑問を提示すべきものはあるだろうと思います。
要するに、みや1299さん的には「Nekosuki600はけしからん、Tam0031氏はえらい」という方向でのバイアスをかけたかったのだと思うんですが、そういう方法論はありだと思うんですけどいかんせん説得力がないっていうか、意図が見え透いていて整理としてだめなんじゃないんだろうかと。
ここらへんなんだね。朝日ジャーナル(うわ・・・古い(=^_^;=))の「こんなものいらない」の「主催者側発表」あたりを読んでみてはどうかとか思います。なにはともあれおれの(ってだから所有格で語るな>おれ)コメント依頼でこういう粗雑な集計をしてほしくないんですよ。よろしくどうぞ。--Nekosuki600 2009年11月19日 (木) 13:21 (UTC)[返信]
ご検討ありがとうございます。×は問題なし以外すべてです。なんらかの問題や懸念があるとしているものです。なお、論点2はNekosuki600氏の行為、論点3はTam0031氏の行為への評価ですのでどちらも×が多いことからTam0031氏に加担したとはいえないと思います。--みや1229 2009年11月19日 (木) 13:31 (UTC)[返信]
だからもういいって。そういう「100%支持できるもの以外は×」みたいな基準で整理しようと試みても問題の不適切な単純化にしかならん。--Nekosuki600 2009年11月19日 (木) 13:36 (UTC)[返信]
書いた本人が「○×の二者択一なら×」と考える事柄を○だと読んでしまう人が少なくとも一人いるということは、まとめ表について異議を唱えておかないと書いた本人が○だと思っていると読む人が他にもいるかもしれないので、念のため訂正しておきました。--Jms 2009年11月27日 (金) 17:23 (UTC)[返信]

Unit.18

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僕の書き込みがNekosuki600氏により2度にもわたり無断で削除されました[1][2]。何人たりとも他人の発言を削除する権利はないはずです。このような行為で自由な意見の場をつぶすNekosuki600氏には強く抗議します。しかし、無用なトラブルは好みませんのでしばらく時間を置いてから再び書き込みます。削除されるような内容ではありません。--みや1229 2009年11月18日 (水) 15:12 (UTC)[返信]

丁寧にチェックすれば「削除されていない」ことがわかると思うんですが。それがわからないような読解力でこういう議論に特攻してくるから「だめじゃん」とか思われちゃうんですよ。よーく見直してみな。あえて誤解を招くような差分を引っ張り出してきているんだったら逝ってよしです。--Nekosuki600 2009年11月18日 (水) 15:16 (UTC)[返信]
他の方へのレスを勝手に分割されたこと自体に抗議しているのですが他の方への迷惑ですので折れます。けっしてNekosuki600氏の行為が正当だとはお思いにならないように。履歴を見ればいかにあなたが勝手気ままな操作をしたかわかるはずです。--みや1229 2009年11月18日 (水) 15:29 (UTC)--!>[返信]
すまん。折れててください。これからもずっと折れててもらえるとありがたい。「勝手に分割されたこと」とかってあたりに合理的な説明をすることは可能だし、そもそもそんなところに説明する必要も感じないので、そのあたりがわからないひとが悪い感情を抱くことを止めようと思わないです。辛辣ですまんね。--Nekosuki600 2009年11月18日 (水) 16:01 (UTC)[返信]
善意に解釈して削除は僕の早とちりでした。ただし、Tam0031氏へのコメントを分割したことはNekosuki600氏の独断が過ぎると思います。本音は全部戻したかったのですがそれをすれば直ちに戻されると予想したので混乱を避けて従ったまでです。最後にNekosuki600氏の乱暴なもの言いは印象がよいとは思えずコメントアウトしましたがこの節を残していいなら残してください。僕は一向に構いません。--みや1229 2009年11月18日 (水) 16:17 (UTC)[返信]
Tam0031氏のコメントを分割してぶら下げなおしたことについてみや1229は文句を言える立場にないんで黙っててください。Tam0031氏が苦情を申し立てればおれはそれには対応しますが、おれとしてはTam0031氏には追認なり黙認なりをもらえると思ってやったことなんで、形式的に第三者から文句を言われる筋合いのものではありません。というか、どうしてみや1299さんがそういう文句を言えると思うのかが、率直なところ、もう全然わかりません。なんか根本的に理解がおかしいのではないか。--Nekosuki600 2009年11月18日 (水) 16:32 (UTC)[返信]
ではなぜ僕のコメントを分割したのかその基準を示してください。これよりはるかに長文の節でもそのままになっています。これについては説明義務があります。なお、本節のノートへの移行を提案します。--みや1229 2009年11月18日 (水) 17:00 (UTC)議題への意見を書き込んだことによりノートへの移動提案を撤回--みや1229 2009年11月19日 (木) 15:23 (UTC)[返信]
ノイズだからだと思います。--iwaim 2009年11月18日 (水) 18:51 (UTC)[返信]
◆どうしても説明してくれってことなら説明するに吝かではありませんが、どう間違っても「おれが悪かった、撤回します」にはならないし、みや1229さんにとっては読むのがつらい説明が続くことになると思うんですよね。他に、おれの編集に対して疑問を提示しておられる方はおられないし、あえてそういう説明をする必要はないのじゃないかというのが、現段階でのおれの判断です。--Nekosuki600 2009年11月19日 (木) 13:26 (UTC)[返信]
謝罪や撤回は求めていません。移動についてはすでにNekosuki600氏に譲歩しています。ただし僕に理由を説明するのが筋というものでしょう。--みや1229 2009年11月19日 (木) 13:38 (UTC)[返信]
多数決的あるいは輿論の潮流的な判断には必ずしも同意しないのですが、おれとしてはなんだ、今回のケースについては「自分で理解しようと努力しなさい。自分が納得できるような説明を求めるのはわがままなのかもしれませんよ」と言っています。いや、函数関数論争あたりからずーっと、「みや1229さんは他者に説明を求めるのではなく自分でいろいろ調べて考えて納得がいく結論を探すべきだ」と思っていると言った方がいいのかもしれません。甘やかすのではなく突き放すのが筋として正しい場合もあると思うんすよね。
でだ。そういう「訓練の場」として、ここのような「Miya1229が理不尽だと思う者に対するコメント依頼の場」を使うのは間違っている、ということです。そういう使い方をすると、本論をやろうとしている方(ここについて言えばTam0031さん)にとって迷惑になるだけだと思います。
というわけなんで、自粛なされよ。--Nekosuki600 2009年11月19日 (木) 14:06 (UTC)[返信]
コメント分割の説明はしていただけないのでしょうか?それともできないのでしょうか?--みや1229 2009年11月19日 (木) 14:15 (UTC)[返信]
できるけど、したくないんですよ。きつい表現になるのがわかっているんで。--Nekosuki600 2009年11月19日 (木) 14:48 (UTC)[返信]
続けるなら、Unit 18 ごとWikipedia‐ノート:コメント依頼/Nekosuki600 20091105へ移動させてそちらで継続することをおすすめします。--Jms 2009年11月18日 (水) 17:07 (UTC)我ながら間抜け --Jms 2009年11月18日 (水) 17:09 (UTC)[返信]

コメント重ねて伺っても回答しないということは説明できないとみなしてよいでしょう。しかしこのトラブルから尾小屋鉄道問題のひとつの要因が見える気がします。それはNekosuki600氏は一貫した基準がないマイルールで行動しているのではということです。節分けについて基本線、時系列で・・・「長くなっている議論には小節を設ける」「長くなっている議論の次のコメントにも小節を設ける」という基準[3]を示しながら時として説明できない分割もするということです。これは尾小屋鉄道における説明なしのリバートと共通していると思います。Tam0031氏らにはNekosuki600氏の考えが読めず戸惑ったことでしょう。Wikipediaは共同作業ですから共通のルールを尊重してこそ互いの判断の差が明確になり解決しやすくなるのではないのでしょうか?Nekosuki600氏にはぜひ方針類やマナーを尊重し建設的な編集に寄与していただきたいと思います。最後に、ノイズではというNekosuki600氏の指摘を受け読み戻したところNekosuki600氏だけを相手にしてTam0031氏やJms氏らには目障りなコメントもありました。お詫びし今後の糧にします。--みや1229 2009年11月19日 (木) 15:23 (UTC)[返信]

Nekosuki氏が回答しない理由は既に述べられております。たとえば、本議論のページをメモ帳にでもコピーして、あなたの発言とそれに対するみなさまの発言部分を除去して読み直してみることをお勧めします。あなたの発言がノイズだとの指摘がいかに適切なものであるのかがお分かりいただけることと思います(もちろんこれは、みや氏が世間一般的な読解力を有していることに期待しての発言であり、この前提が真であるならば、このような事態には到底なりえなかったという大きな矛盾を孕んでいます)。この事実にたいして、あなたは自身の想像力をもって省みることを試みるべきではないでしょうか?Nekosuki氏はすでに、いくつものヒントを、あなたに向けて発信しています。氏は「自身が犯した過ちには、自身で気づき、今後の行動にて示せばよい」と最大限の優しさを示されています。--Caserio 2009年11月20日 (金) 07:38 (UTC)[返信]

Unit.18.1

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Nekosuki600氏は一貫した基準がないマイルールで行動している これがコメント依頼者が問いかけたかった事なのでは?「私から見ればあなたの方針無理解の表れで、自分の望む編集を通すためなら外部リンクのルールなど無視しても構わないという意思表示と受け取りました。それでこのコメント依頼になったということです。」[4]って書いているし。そろそろNekosuki600氏は俺様基準を捨てるべきでは?--60.254.240.62 2009年11月20日 (金) 15:39 (UTC)[返信]

それはいくらなんでも牽強付会でしょう。
コメント依頼者が当初考えていたことは(あくまでも当初。現在は違うと思いたい)、「自己サイトへのリンク付与は宣伝として無条件で撤去して良いということの確認」でしょう。細分化して言えば「自己サイトへのリンクは禁止されている宣伝に該当する」「それをリバートしたり撤去したりすることは、やっていいことである」という2点の確認です。
ま、おれは個人攻撃への耐性は高いっていうか鈍感力に優れているので、60.254.240.62さんの決めつけあたりはどうでもいいんですが。
おれがまとめるこっちゃありませんが、「自己サイトだからといって必ずしも撤去すべき宣伝には該当しない」「宣伝理由での削除の際にも情報を落とさないように注意すべきである」という考えがある程度提示されているので、個人的には満足しています。ついでに、「文献に掲載されているからといって無条件に根拠情報とできるわけではない。誤字脱字校正ミスあたりについても検討すべきである」というコンセプトがある程度認知されたことについては、派生的ではあるものの、実に有益なことであったと考えています。--Nekosuki600 2009年11月20日 (金) 18:20 (UTC)[返信]
形式的に見りゃそうだけどさ、振り返ればNekosuki600氏は俺様基準で数々のトラブルを引き起こしているわけで今度は自分の気にいらない発言を独断で隔離するというWikipediaにはもう参加しないでねというくらいの暴挙をやっちゃったわけじゃない。これをいい機会に反省しましょう。(60.254.240.62)--60.254.240.118 2009年11月21日 (土) 02:36 (UTC)[返信]
別に気にいらないとかいう話じゃありませんよ。単に迷惑だっただけです。--Nekosuki600 2009年11月21日 (土) 03:44 (UTC)[返信]
自分にとって単に迷惑だったってw 印象操作したいのはわかるけど我慢しろよ。(60.254.240.62)--60.254.240.87 2009年11月21日 (土) 11:06 (UTC)[返信]
普通に考えてあれは迷惑だと思うけど。--iwaim 2009年11月21日 (土) 11:10 (UTC)[返信]
その程度の理由で発言をあれこれいじくることこそ迷惑なんだが。--60.254.240.87 2009年11月21日 (土) 12:38 (UTC)[返信]

幕間狂言レベルだしどぉでもいいんだけどさ(ん。終幕狂言か?)。みや1292さんや60.254.240.87さんが悪あがきすることでおれの立場がなおさら良くなってることに気づいてるか? 行動として全然合目的的じゃないし、もうやめたらどうだろう。--Nekosuki600 2009年11月21日 (土) 13:50 (UTC)[返信]

確かにNekosuki600氏の行為が埋もれてしまいます。(60.254.240.62)--60.254.240.61 2009年11月21日 (土) 18:51 (UTC)[返信]
でしょ。別におれは埋没することをいやがってはいないがね(苦笑)。じゃ、もう邪魔だからひっこんでて下さい(じゃれあいやめろ、とか思ってひとごめんなさいね。でもある程度、脊髄反射でもお相手しないと長期荒らしに育ってしまったりするものだからさ(ふっ))。--Nekosuki600 2009年11月21日 (土) 19:22 (UTC)[返信]

まとめ

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論点1、外部リンク先の写真を出典にできるかという点については、おおむね問題ないとの見解であった。論点2、Nekosuki600さんの自分のサイトへリンクを張る行為に関しては、本件に関しては必要性があるので問題ないとする見解と、宣伝であり問題であるとする見解とに分かれた。論点3、Tam0031の読みを一緒に除去した行為に関しては、有益な情報を除去してしまう行為であり問題であるとの見解が大半であった。

論点から発展した議論に関連して、外部リンクに関する現行規定の解釈では、「掲載してよい外部リンク」の第2項、信頼性・検証可能性の条件を満たすサイトに相当する場合は、「掲載すべきでない外部リンク」の第4項、自分のサイトへリンクする行為の規制はただちには適用されず、「最大限自制すべき」「リンクを掲載する前にノートページで他の利用者にリンクを張るべきか否か意見を聞くことも有益」の努力規定のみが適用されることを確認した。また一般論として、誰が編集をしたかではなくどのような編集をしたかが問われるべきであり、外部リンクの是非に関してはリンク先が当該記事において有益・妥当であるかを検討して判断する必要があるとの結論であった。また情報の保存の方針に関連して、既存の記述を除去する必要があったとしても、できるだけ情報の喪失が発生しないように注意を払うべきである。派生として、参考文献にある記述であっても誤字脱字等の可能性をほかの文献等と照らし合わせながら検討すべきであるとの結論を得た。--Tam0031 2009年11月27日 (金) 17:28 (UTC)[返信]

被依頼者としては、依頼者のこのまとめに、おおむね同意します(ニュアンスレベルでの違和感はレトリック問題だろうと思いますが、「全面的に」と述べるのもいやらしいだろうと思いました)。この依頼者まとめによってこのコメント依頼をクローズするということについて異議はありません。合意成立ってことでいかがでしょうか。--Nekosuki600 2009年11月30日 (月) 17:36 (UTC)[返信]
了解です。クローズとしたいと思います。--Tam0031 2009年12月1日 (火) 13:35 (UTC)[返信]