Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/カルティニ 20220627
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選考終了日時:2022年7月11日 (月) 23:39 (UTC)
- (推薦)自薦。オランダ領東インド出身の女性にまつわる記事です。良質な記事の目安を満たしていると考えるので推薦します。--Takenari Higuchi(会話) 2022年6月27日 (月) 23:39 (UTC)
- 賛成 :推薦者票。--Takenari Higuchi(会話) 2022年6月27日 (月) 23:39 (UTC)
- コメント このカルティニさんの生涯については私は詳しくないので内容のことは細かく精査できませんが、パッと見て少し気になった点だけコメントさせていただきます。ところどころにカルティニさん本人の発言や手紙、夫となったジョヨアディニングラットさんの手紙の引用の箇所がありますが、それぞれ「―カルティニ」「―ジョヨアディニングラット」としかないので、「―カルティニ ○○宛ての書簡 19XX年X月X年」、「―ジョヨアディニングラット アベンダノン宛ての書簡 1904年X月XX日付」などと示した方がいいのではないかなと思いました。出典の解説者はおそらく、カルティニの書簡集『光は暗黒を越えて: カルティニの手紙』(河出書房、1955年8月)[1]などを元に彼女の伝記をまとめていると思うので、伝記内にも各々の手紙の日付が明記されているはずです。もしそれらに書かれていなかった場合、カルティニの書簡集を直接調べることが可能であれば、情報としてより充実するかと思われます。--みしまるもも(会話) 2022年6月28日 (火) 01:16 (UTC)
- 返信 ありがとうございます。一通り分かっている範囲で情報を追加しました。--Takenari Higuchi(会話) 2022年6月28日 (火) 04:40 (UTC)
- Takenari Higuchiさん、どうもありがとうございました。--みしまるもも(会話) 2022年6月28日 (火) 05:55 (UTC)
- 返信 ありがとうございます。一通り分かっている範囲で情報を追加しました。--Takenari Higuchi(会話) 2022年6月28日 (火) 04:40 (UTC)
- コメント 本記事はwikiGAP2022にエントリーされた時から気になっていました。海外の、日本ではさほど著名では無いであろう偉人について(世界史で習うのでしょうか?)、国内の資料のみでここまでの高品質な記事が作れるのかと驚いて読んでいました。立項していただき感謝いたします。あらかじめ当該人物とインドネシアにおける女性の権利についての社会事情に関する知識が全くない事と私の語学力不足ゆえに、的外れな指摘をしているかもしれない事をお断りとお詫び申し上げます。基本的に偉人の伝記についてですが、1.どのような社会背景で、2.どのような活動をし、3.その功績が後世にどのような影響を与えor評価を得ているのか、の3点を抑えていることが重要と思っています。当該人物に関する知識がないために2についての過不足は評価できませんが、1と3は不足しているように感じました。以下、本記事の人物について、比較的充実した内容と感じたenwp記事と比較しながら記述します。なお、enwp記事は出典不足が指摘されていることを予めお断りします。
- まず、全体的に当時のオランダ領東インドにおける社会背景の説明が不足しており、結果として「何をしたのかは詳細に書かれているが、どれだけ凄い人なのか良く分からない」という状態になっていると感じました。たとえば、野球を知らない人に大谷翔平の凄さを説明しようとしたとき、投打の成績を丁寧に説明しても「ただの野球選手」という理解で終わってしまうでしょう。やはり「二刀流」が如何に凄いかという説明を「野球」における「投手」の役割などの補足を加えて説明をするのではないでしょうか?同様に外国の、しかも100年以上前の人物ですから、社会背景についての前提知識がない読者が読んでも「ただの教育者」という理解で終わってしまいます。具体的には、「女性の教育」「ピンギタン」「婚姻における男女格差(一夫多妻)」「ブディ・ウトモ創立」の説明は特に必要と思います。場合によっては「出産リスク」を含めた保険環境、あるいは「女性の就職」(カルティニの医学校の道を何故親が反対したのか気になります)も触れるべきでしょう。ただし、これらの社会的背景の説明は全て本記事にて完結している必要はないと考えています。本記事を理解するために必要な前提知識や用語について、ラデン・アジェンやプリヤイのようにとりあえずの赤リンクでもよいので、jawp内で完結した説明ができる道筋を立てておくことは大切だと思います。
- 次にカルティニの功績ですが、「活動家、教育者」と書かれています。出典に基づく正しい表記と思いますが、本記事とenwp記事を読むと「女性の権利を獲得するために尽力した人物」などの評価のほうが良いのではないかと思います。特に「活動家」の表現は曖昧と感じます。なお、コトバンクには「インドネシアの民族主義運動家,女性解放運動家」とした資料がありました。また全体的に「女性の教育」のための活動は明確に記されていますが、「婚姻における男女格差の是正」に対する問題意識についての記述が薄く感じます。カルティニの中では、女性の教育と婚姻については「女性の権利」という目的に於いて同一ものであったと感じますし、本記事が両者を分けたような記述になっていることで結果として「教育者」としての功績のみが強調されているように読めるのではないでしょうか。この原因は、enwpでは冒頭に「一夫多妻に反対」と記されているのに対し、本記事の冒頭にそれに類する説明がなく、生涯節でも結婚について「3日間の熟考」と「いくつかの条件(教育関連)」などとサラっと流したような表現となっており(知らない人から求婚されたら誰だって悩むでしょう)、カルティニの結婚観については思想節まで進まないと読み取ることが出来ない事があると思います。具体的に改善案を示します。まず、冒頭で結婚観について一言でも良いので触れておくべきと思います。注釈1で示されているカルティニの母は身分故に正妻になれなかった件は、カルティニの生き方に重要な問題意識を植え付けた事は容易に想像でき、注釈で省略すべきではないと感じます。enwp記事では「カルティニの父は正妻と結婚したことで正妻の父の職を引き継いで知事になった」とういう趣旨の説明があり、当時の社会背景を知る上でも重要な記述と思います。思想節で書かれている結婚についての葛藤のほどんどは、生涯節に組み込むべき内容と思います。また、憶測でしかないのですが、enwp記事ではカルティニの手紙について「ヨーロッパの女性と平等になりたいという願いと、伝統に縛られるジャワの女性の苦しみを描いた」という評価が記されており、カルティニの手紙を紹介することで、女性の権利に関する彼女の思想について、もっと充実した記述が可能なのではないかと想像しています。加えてカルティニの夫について「3人の副妻」という表現があり、カルティニは亡き正妻の後妻(変な表現ですが)と考えて良いのでしょうか?それとも4人目の副妻だったのでしょうか?6人の子の教育を引き受けた事も含めて、結婚後の家族関係が気になります。
- 次にコトバンクには「民族運動に大きな影響を与えた」という評価が見られますが、これについての説明が本記事の「ファーニヴァルは、1939年出版の著作においてカルティニを民族主義の先駆者と位置づけた」ぐらいで、enwp記事にも詳しくないのが気になります。個人的な印象ですが、女性解放運動と民族覚醒の関係性が想像できないため気になります。彼女が没後に得たインドネシア国家英雄の称号は、民族運動の功績によるものと推測できますし、軽視すべき内容ではないと感じます。
- カルティニについての評価について以下は憶測でしかありませんが、オランダを中心とする海外のフェミニズム、あるいはインドネシア国内のとくにスハルト前後で乖離しているのではないでしょうか?enwp記事には「カルティニの日の決定について批判がある」「1965年以降、スハルトの新秩序国家は、カルティニのイメージを急進的な女性解放者のものから、従順な妻、従順な娘、「ケバヤを着た料理ができる女性」として描くものに作り替えた」などの記述があり、そうした様相を伺うことができます。本記事でも「小林 (2018)は、プラムディヤとシティスマンダリのカルティニの評価は、それぞれが理想とする人物像に近いものになっているとしている」とそれらしい事を匂わせていますが、もっと明確に、可能であればインドネシア独立などの社会背景を含めた時系列にして評価がどのように変化したのか説明すべきと思います。もちろん中立性への観点も必要です。(蛇足ですがenwp記事はフェミニズムの観点から書いた表現がみられ、民族運動の評価が記されていない事も含めて中立性の観点が不足しているように思います)評価が変化しているのであれば、冒頭の「民族覚醒の母」「女性解放の先駆者」といった称号についても、どの立場から冠せられたものなのかという説明が必要ではないでしょうか?前述したように、私の中で女性解放と「民族覚醒の母」が真逆の事に思えて、また記事を読んでも「民族覚醒の母」と呼ばれる理由が解らず、若干の違和感を感じています。関連して評価節の「インドネシアの独立後、カルティニの評価は2人の作家によって始まった」という一文は違和感があります。彼の評価は1962年と記されていますが、後述するようにカルティニの肖像画は1952年に紙幣に採用されており、もっと早くから高い評価を得ていたはずです。
- 次に名前節の説明ですが、結婚前後でに称号が「ラデン・アジェン」から「ラデン・アユ・アディパティ・アリオ・ジョアディニングラット」変わったとありますが、これはいわゆる称号なのか、それとも称号といわれるものの氏姓に相当するような概念なのか、当時の名前に関する知識がないため良く分かりません。また結婚後も称号が変わっただけでカルティニの名前を用いていたのでしょうか。「ラデン・アユ・アディパティ・アリオ・ジョアディニングラット」は夫の名前「ラデン・マス・アディパティ・アリオ・ジョヨアディニングラット」と酷似しており、「貴族である夫ジョヨアディニングラットの妻」的な称号なのかと想像しますが、彼女が「私をカルティニとだけ呼んでください」といった記述とも関連し、また恐らくフェミニズム的観点から批判を受ける慣習と思いますので、なんらかの言及がされているのではないでしょうか?彼女の女性観を推測する助けとなるような前提知識として補足が欲しいと感じました。また、死後に「カンジェン・ラデン・アユ・アディパティ・ジョヨアディニングラット」と称号か変わるのは、日本の戒名のような一般的な慣習なのか、それとも彼女ゆえの特別な事であったのかといった簡単な説明が欲しいと思いました。
- 唐突に記される「植民地政府教育省長官であるアベンダノン夫妻と面会した」「ファン・コルとジュパラで会った」という内容にちょっと違和感があります。おそらくこれらの人物はオランダ人ですよね?こうした出会いのきっかけは、彼女の父親の立場によるものなのか、オランダ人学校時代の彼女の伝手なのか、文通相手であったゼーハンデラールの紹介なのか、あるいは単なる偶然なのか、説明が欲しいと感じます。女王の戴冠祝賀式に招かれた理由も解らないようですし、難しいのかもしれませんが。
- 後世の評価・影響に関連し、本記事で記載のあるカルティニの日以外に、enwp記事ではen:Kartini_(film)や、1952年・1953年・1985年と3回紙幣の肖像として使用された事、『Ibu Kita Kartini(英訳をさらに機械翻訳:私たちの母カルティニ)』という曲について触れられています。長文になってしまい申し訳ありません。以上です。--あずきごはん(会話) 2022年6月29日 (水) 14:59 (UTC)
- 返信 ありがとうございます。あまりに詳しいコメントなのでどう返信したものか分かりませんが、以下返信です。
- すみません。大谷翔平の例えはよく分からなかったのですが、具体的な例として挙げられているものに以下返信します。
- 女性の教育について、「女性の教育」とだけ書かれてもよく分かりません。「ヨーロッパ人小学校はオランダ人の教育のために開校されたものであり、ジャワ人の女子が入学するのは異例の出来事だった」という記述がありますが、これでは不十分なのでしょうか。不十分だとしたら、どういった点で不十分なのでしょうか。
- ピンギタンについても私としては「ジャワの貴族の習慣であり、初潮を迎えた女子が結婚するときまで館を出ることを禁じられる」で十分説明されているという認識なのですが、これでは不十分なのでしょうか。不十分だとしたら、どういった点で不十分なのでしょうか。
- 婚姻における男女格差(一夫多妻)について、「当時のジャワ貴族の慣習であった」という説明は確かに短いとは思いますが、カルティニという人物が主題である以上、一夫多妻制についてそう詳細に書いても
- ブディ・ウトモについて、注釈で説明を追加しました。
- 功績についても、同様に具体的な改善案について以下返信します。
- 冒頭に結婚観にまつわる記述を追加しました。
- カルティニの母について、注釈から本文に移しました。
- 女性の権利に関してカルティニの手紙を紹介することについて、一次資料である手紙をいくつも引用する意義は私はあまり感じませんでした。
- カルティニの夫について、カルティニは彼の正妻です。それが分かるように修正しました。
- 民族運動について、シティスマンダリ・スロトが彼女を民族主義者と評価して旨はすでに書かれていると思います。シティスマンダリによる評価について少し加筆しました。
- カルティニの評価について、以下返信します。
- スハルト政権におけるカルティニの評価について、加筆しました。
- 評価の変化について、すでに「国内の評価」節は時系列順になっていると思います。評価の変化について上記のスハルト政権における評価と合わせて加筆しました。
- 冒頭の称号について、出典にはどのような立場で書かれたものか記されていないのでどうしようもないですが、場合によっては除去します。
- 国内の評価について、植民地期からの評価を加筆しました。
- 名前について、以下返信します。
- 称号について、当時のジャワ人が姓を持っていなかったことと相まって称号が氏姓としても機能していたと推測されますが、詳しくは分からなかったです。
- 「私をカルティニとだけ呼んでください」に関しては記事にもある通り小林 (2018) は「貴族の称号を避けて名前だけで呼び合いたかった」と記しています。カルティニと称号についてフェミニズム的観点からの言及は私が調べた限りでは見つからなかったです。
- 死後に称号が変わっていることについて、すみません。これも調べた限りではよく分からなかったです。
- アベンダノンやファン・コルと会った経緯について、説明を追加しました。
- カルティニを扱った事物について、映画に関しては英語版にあるものに限らず複数回映画化されており全てを追いきれないこと、紙幣の肖像に関しては私はインドネシア語が出来ないため出典の確認が難しいこと、Ibu Kita Kartiniの曲に関しては全くの無出典であることからそれぞれ日本語版への移入は見送りました。
- 以上になります。見落としている指摘もあろうかと思いますので、そうしたものがあれば恐縮ですがまたご指摘ください。--Takenari Higuchi(会話) 2022年6月30日 (木) 06:01 (UTC)
- 賛成 色々あるみたいですけど良質な記事の目安はクリアしてると思いました。twitterでも高評価でしたので良質な記事にふさわしいと思いました。--きとなら(会話) 2022年6月30日 (木) 12:28 (UTC)
- 賛成 若くして亡くなられたのは非常に残念ですね。長命であればもっと活躍し、アジアの女性にも影響を与えたかも知れません。しかし「民族主義者」「女性解放の先駆者」「良妻賢母」どれが素顔のカルティニなのでしょうか。本人のみぞ知るでしょうが、自分の意思を貫く女性だったのでしょうね。良質の記事の目安に合致してますし、ルイーザ・メイ・オルコットと同様に女性の一生を描き切った良作ですので賛成票を投じます。執筆・修正お疲れさまでした--河川一等兵(会話) 2022年6月30日 (木) 15:45 (UTC)
賛成のみ3票以上の状態が48時間継続のため、早期終了・通過となります。--Tam0031(会話) 2022年7月3日 (日) 14:09 (UTC)