Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/根戸城 20200406
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選考終了日時:2020年4月20日 (月) 03:00 (UTC)
- (推薦)査読依頼で第三者の方に査読をしていただきました。専門的な分野でもともと資料が少なく、まとめるのは大変でしたが、すべての文に出典をつけ、良質な記事に届くよう、改善を続けました。まだ立項してから一年もたっていないことからの欠点もあるかもしれませんが、われながらうまくまとめたと思います。--Tmv(会話|投稿記録) 2020年4月6日 (月) 03:00 (UTC)文体修正--Tmv(会話|投稿記録) 2020年4月6日 (月) 06:19 (UTC)
- 賛成 :推薦者票。--Tmv(会話|投稿記録) 2020年4月6日 (月) 03:00 (UTC)
- コメント詳しく書かれた最古の文献が1920年のものであり、未だ謎が多い城という、文献が非常に少ない題材の割にはよく調べて書いているなあと思います。ただ、法華坊館をこの項目に書く必要性が分かりません。何か必要とする理由がない限りは、Sandbox等に置いておいてから、独立した項目にするほうが、項目の話題が分散せずに読みやすくなるのではないでしょうか。--285Sunlize(会話) 2020年4月6日 (月) 23:41 (UTC)
- 返信 (285Sunlizeさん宛) コメント有難うございます。法華坊館は、もともと独立した記事にする量があるかどうか微妙だったので場所としてはほぼ同じ位置にある根戸城に書いたのですが、確かに記事に書かれている内容が分散するのは読みにくいですね(今考えれば近いからという理由で根戸城に書くのもおかしい)。分割して良いでしょうか。--Tmv(会話|投稿記録) 2020年4月7日 (火) 00:42 (UTC)
- 報告 これも分割提案になるかと思い、Wikipedia:分割提案に報告しました。--Tmv(会話|投稿記録) 2020年4月7日 (火) 00:54 (UTC)
- 返信 (285Sunlizeさん宛) コメント有難うございます。法華坊館は、もともと独立した記事にする量があるかどうか微妙だったので場所としてはほぼ同じ位置にある根戸城に書いたのですが、確かに記事に書かれている内容が分散するのは読みにくいですね(今考えれば近いからという理由で根戸城に書くのもおかしい)。分割して良いでしょうか。--Tmv(会話|投稿記録) 2020年4月7日 (火) 00:42 (UTC)
- コメント 資料の多くなさそうな主題について、調査報告書を見てきちんと書かれているものと思います。以下気になる点を書きます。
- 『富勢村史』→『富勢村誌』ではないでしょうか? ([1])。その場合は該当部分はもしかすると大正元年のものかもしれません。
- 「~城と古戦場~」は個人サイトなので、WP:RSに合致しないと思われます。NPO 法人手賀沼トラスト会報も同様に微妙な気がします。
- 逆に上記個人サイトには、『日本城郭大系』に記載がある旨が書かれています。現状では、日本城郭大系は出典として利用されていないですが、おそらく項目も立っていますし、これはぜひ確認すべきだと思います。内容に古い点もありますが、中世城郭の基本文献ですので。確認の上であえて使用していないということであればすみません。
- Google Books検索にかけると日本歴史地名大系とか『千葉県の歴史』([2])とかにも言及がありそうな感じですね。
- 「そしてこの2つの記述を統合すると根戸城は当初相馬一族の居地として利用され、その後文明年間に道灌が改築し、道灌が去った後は誰の居住地になったところか不明であることになる。しかしこれらが事実であると断定する事はできない」 - これは文献に記載があった記述でしょうか? 3つ付けられた出典のうち、「~城と古戦場~」「NPO 法人手賀沼トラスト会報」には該当する記載がありませんが、もしウィキペディアの編集者が記述を統合して書いたとすると、独自研究ということになってしまいそうです。
- 出土物の「瀬戸窯鉄釉擂鉢口縁部1点」などについて、調査報告書にはなにか考察のようなものが記載がありませんでしたでしょうか。出土物からだいたいいつぐらいの城かという年代の推定とかがなされていれば、ぜひ記載したほうが良いと思います。
- 『富勢村誌』も『千葉縣東葛飾郡誌』も大正時代の文献ということで、何をソースとして太田道灌なり根戸氏なりが使ったと書いているかというのは気になるところです。伝承なのか、編纂者の推測なのか、それとも根拠となる文献がなにかあったのか。日本歴史地名大系では地名・遺構からの推測っぽく書いているようですが(現物確認していずすみません)、『富勢村誌』も『千葉縣東葛飾郡誌』もアクセス可能な文献なので見てみてもよいかもしれませんね。--伊佐坂安物(会話/履歴) 2020年4月11日 (土) 15:16 (UTC)
- コメント 城館跡ということであれば、推定でもよいので縄張り図か、それが難しかったら微地形のわかる地形図あるいは航空写真のほしいところだと思います。<<城郭図鑑「根戸城」>>の写真をみると、都市部にある割には土塁や空堀の遺存状態がきわめて良好だということに驚きましたが、平面図がないと全体を把握しづらいとは感じました。それから、本文には「1985年には発掘調査がおこなわれた」とあるんですが、出典が1978年の第二次調査報告書になっていて、両事実が整合しません。どちらかが間違っていると思います。さらに申せば、第二次調査の報告書があるということならば第一次調査も実施されたことになるので、その時の情報も必要だと思います。土壙の性質や住居跡がどういうものなのか(柱穴が並んでいるのか、竪穴状になっているのか)の情報も必要だと思います。遺物からは廃絶時期は推定できても創建年代は特定できないんじゃないかとは思います。せめて、土塁・空堀の写真がほしいです。--Greenland4(会話) 2020年4月12日 (日) 01:13 (UTC)
- コメント コメントありがとうございます。まず伊佐坂安物さんのコメントについて返信いたします。
- 1つ目について。根戸城遺跡調査団 編『根戸城遺跡 法華坊遺跡 北の内遺跡発掘調査報告書 第二次調査』我孫子市教育委員会、千葉県我孫子市湖北台四丁目3番1号、1978年3月。 NCID BA30903556。の22ページ1行目に「富勢村史」とあり、その注釈には柏市史編纂委員会編, 1969「柏市史資料編」『富勢村史』とあるのですが、どういたしましょう。現物の柏市史資料編を見るのが一番手っ取り早いのですが、あいにく私の手元にはなく、図書館などに見に行こうと思っても閉まってしまっているので…。
- 2つ目について。その2つの資料はWikipedia:信頼できる情報源#二次資料にあるように学者によって書かれているわけではないので外部リンクとしてのみリンクを張るように変更しましょうか。
- 3つ目について。『日本城郭大系』は今度外出自粛がなくなったら当たってみます。たまたま手元に東葛飾郡誌の方があったのですが、そこには跡地にある塚が道灌の家臣の墓と伝えられている趣旨の言及がありました。1319ページです。
- 4つ目について。今度調べてみます。ネットで見られるところがあったらいいのですが…。
- 5つ目について。『根戸城遺跡 法華坊遺跡 北の内遺跡発掘調査報告書 第二次調査』の22ページ13~15行目にその記述があります。
- 6つ目について。わかる部分は追記しました。
- 7つ目について。千野原靖方 編『手賀沼をめぐる中世 : 城と水運』(初版)たけしま出版、2013年7月。ISBN 9784925111454。 NCID BB13704233。国立国会図書館書誌ID:024714352。全国書誌番号:22459224。。の14ページにも根戸三郎胤光が領有したと書いてあり、そこには『相馬之系図』という相馬氏の系図が出典として出されていました。そこに匝瑳氏が当地に勢力を伸ばし、1479年の臼井城攻めの際に匝瑳氏の当時の主人である太田道灌が根戸城を築いた、という趣旨のことが書かれています。そしてこれはどうやら富勢村史(富勢村誌)の記述のようです。臼井攻めについては記事に書かれていなかったので追記します。--Tmv(会話|投稿記録) 2020年4月12日 (日) 01:40 (UTC)
- コメント コメントありがとうございます。まず伊佐坂安物さんのコメントについて返信いたします。
- コメント Greenland4さんのコメントに返信します。
- まず1つ目、縄張り図などが欲しい、ということなのですけれども、こちらに一様図が出ているのですけれども、私がそういうう図を作ったことがありませんので、画像提供依頼に出しておきます(その図は根戸城遺跡調査団 編『根戸城遺跡 法華坊遺跡 北の内遺跡発掘調査報告書 第二次調査』我孫子市教育委員会、千葉県我孫子市湖北台四丁目3番1号、1978年3月。 NCID BA30903556。の31ページのものとほとんど同じなため、信頼できます)。
- 2つ目についてですが(発掘調査と出典の年月日が明らかにおかしい)、申し訳ございません、資料が間違っておりました。1986年3月に刊行された『我孫子市埋蔵文化財報告第8集』(我孫子市教育委員会編)の記述(ページは同じ)でした。
- 3つ目の、第一次の報告書についてですが、現在手元にないため、後日追記いたします。
- 4つ目の土壙の性質及び住居跡の状態についてですが、土壙については記述がなく、わかりません。住居跡については複数本の柱穴が見られるようです(我孫子市埋蔵文化財報告第8集の45ページ)。追記しておきます。
- 5つ目の土塁・空堀の写真についてですが、現在城跡は私有地となっていまして、冒頭の写真は特別に許可をもらって撮ったものなのですが、そこまで良質な写真が撮れなかったため、土塁・空堀の写真は難しいかも知れません。--Tmv(会話|投稿記録) 2020年4月12日 (日) 02:11 (UTC)
- 報告 法華坊館を分割しました。--Tmv(会話|投稿記録) 2020年4月12日 (日) 02:34 (UTC)
- コメント 御対処ありがとうございます。そうすると調査は最低3回おこなわれたことになりますね。ただ、いずれも面的な調査ではなくて視認や測量、範囲確認のトレンチ調査なので全貌はよくわからないということだろうと思います。「住居跡9軒」について、縄文・古墳~平安あわせて9軒と読めるところと柱穴をともなう建物が9棟と読めるところが混在していて、ここは改善を要すると思います。それから調査終了は8月ではなくて9月ではないかと思います。ただ、草刈りや写真撮影まで書く必要があるかといえば「ない」と思います。明らかに特筆性に欠けると考えます。特筆性ということでいえば、この城跡の場合、あまりにもわからないことが多くてGAを満たすだけの内容を満たすのは困難ではないでしょうか。後北条氏の時代にどう使われていたのかという情報もないとすれば、本当にごく限られた時期の砦のようなものである可能性があります。戦前においては、江戸城築城者の太田道灌は皇居の基をなした人物として顕彰の対象となり、「身の一つだに」の和歌のエピソードなどとともに国史の授業でも熱心に教えられたようですので、郷土史家が地域の城跡を太田道灌に結びつけたがる傾向は濃厚にあったと思われます。しかし、この城が下総に所在するところから考えると享徳の乱においては古河公方方と考える方がむしろ自然です。「根戸」の「戸」は本来は「津」であろうと思われ、掲げてくださった一様図をみると、なるほど手賀沼に面した港の様相を呈しており、そこはおもしろいなと思いました。「根小屋」という地名は、山城の山麓にある集落名としては全国各地にあり、そうしてみると、かつては小豪族の家臣クラスの居住域で、この地の場合は港津の人足の供給地を兼ねていたのかなとは推測されますが、いずれにしても、あまりにも情報に乏しいように思います。なお、縄張りは近世の絵図がのこっていれば、それはそのまま使えますし、近代のものでも著作権が切れているならOKでしょう。現代のものしかないとすれば、原図をトレースしてスキャナーで読み込むという方法があります。千葉県だと篠本城では面的な調査がなされ、東京大学出版会の『図解・日本の中世遺跡』にも図が掲載されていますし、東京の葛西城なども、報告書だけでなくて研究書が刊行されていて書きやすいと思います。兵農分離が進んでいない時代の城館は実はたいへんありふれていて、防禦施設を備えた家という程度のものも城館として扱われます。特筆性の高いものから手を付けられたらいかがでしょうか。--Greenland4(会話) 2020年4月13日 (月) 00:08 (UTC)
選考終了時点で賛成1票のため、今回は見送りとなります。--Tam0031(会話) 2020年4月22日 (水) 14:20 (UTC)