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*[[フォーリン・アフェアーズ]]、[[くまもとアートポリス]]
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*[[細川内閣]]
*[[第40回衆議院議員総選挙]]
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*[[松野頼三]]
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*[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]
**[[木曜クラブ]]
*[[日本新党]]、[[新進党]]
*[[フロムファイブ]]、[[民政党]]、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]
*[[近衛文麿]]、[[田中角栄]]
*[[小沢一郎]]、[[武村正義]]、[[羽田孜]]
*[[くまもとアートポリス]]
*[[湯河原町]]在住
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*[[辛子蓮根]]
*[[辛子蓮根]]
*[[猪口邦子]]


== 外部リンク ==
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2008年2月14日 (木) 00:09時点における版

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第{{{代数}}}代
日本の旗日本国 内閣総理大臣
在任期間 {{{就任}}}
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生年月日

細川 護熙ほそかわ もりひろ昭和13年(1938年1月14日 ‐ )は、日本政治家陶芸家。肥後熊本藩主だった細川家の第18代当主。

内閣総理大臣79代)、衆議院議員(2期)、参議院議員(3期)、熊本県知事(第4代、2期)、日本新党代表、フロムファイブ代表を歴任。約40年ぶりに自由民主党からの政権交代を実現する。

概要

生い立ち

関ヶ原の戦いなどで活躍した戦国武将細川忠興の子・熊本藩細川忠利から数えて15代目の侯爵細川護貞と、首相経験者近衛文麿の娘である妻・温子の長男として東京都千代田区に生まれる(本籍地熊本県熊本市)。栄光学園中学校学習院高等科を経て上智大学法学部卒業後、朝日新聞に入社。鹿児島支局を経て社会部記者となり、金嬉老事件などを取材した。

政界へ

その後、朝日新聞社を退職し衆議院議員総選挙に出馬、落選するも、1971年参議院議員選挙で全国区から石原慎太郎などの支援を得て当選するが、石原とは袂を分かち田中角栄率いる七日会に所属したため、 2期目は熊本県選挙区から出馬し当選した。大蔵政務次官などを歴任した後、熊本県知事選挙に出馬、1983年に当選し2期8年勤める(当時全国最年少の知事)。この間、「日本一づくり運動」「くまもとアートポリス」などを推進。

新党ブーム

3期目の知事選も当選確実と誰もが考えていたが、「権不十年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え2期8年で知事を辞めた後、1991年2月に活動の本拠を東京に移して、臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会部会長を務めた。

1992年文芸春秋で「自由社会連合」結党宣言を発表。公募で党名を「日本新党」とし、新党ブームのさきがけとなる。同年、参議院選挙に比例区から立候補し、自らを含めてミニ政党としては過去最高の4議席を獲得。その後も地方選挙で公認・推薦候補が当選していった。中央政界で政治改革をめぐり、波乱が巻き起こる中、1993年、総選挙の前哨戦と位置付けられた東京都議会議員選挙で大躍進する。

細川政権

政治改革に行き詰まった宮沢内閣に対する不信任案の可決を受けた衆議院の解散による第40回衆院選で日本新党が躍進し、細川も熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選。この選挙で野党第一党の社会党は大敗し、与党で第一党の自由民主党も過半数に達していなかったため、日本新党と新党さきがけキャスティングボートを握る。このとき新生党代表幹事小沢一郎の工作により、非自民連立政権の首班となることを細川は受諾した。

1993年8月5日日本新党新生党新党さきがけ社会党公明党民社党社民連民改連の8つの政党・会派が連立を組み、政治改革を最大の使命とする細川を首班とする連立政権(細川内閣)が誕生した。ここに1955年から38年間続いた、自民党単独支配によるいわゆる55年体制は崩壊した。細川内閣は、8頭立ての馬車と揶揄されることもあった。細川は公選知事経験者としては初の総理大臣となった。細川は政治改革関連法案が参議院での否決させた際、河野洋平自民党総裁との党首会談で修正に合意し、中選挙区制に代わる国政選挙制度として、小選挙区比例代表並立制に基づく新たな選挙制度を実現した。また、1993年冷夏によって起こった米不足で、日本のコメ市場の部分開放を受諾した。

しかし連立政権内での話し合いが円滑に行かなかったこと、細川自身の金銭スキャンダルが野党・自民党に追求されるにいたり、1994年4月25日に電撃的に総辞職。28日には、細川内閣で副総理であった羽田孜を首班とする羽田内閣が発足。細川政権は1年に満たない短命政権であった。

8月15日の戦没者追悼式典で初めて「日本のアジアに対する加害責任」を表明する文言を挿入した辞を述べた首相でもある。これは細川の生来の信念から来るものではなく、当時勃興した「慰安婦」問題などマスコミ界を賑わせたジャーナリズム的戦争責任論の影響を受けたものという見方もあった。

皮肉にも政治改革の実現は、非自民連立政権の結束を弱めることになり、小沢一郎、大蔵事務次官・斎藤次郎のラインに乗って発表した「国民福祉税」構想は、与党内でも批判を浴び取り下げざるを得なくなった。その後、自らの金銭スキャンダルが自民党によって取り上げられる中、政権を投げ出すような形で電撃的に辞職した。祖父・近衛文麿以来の出来事に「歴史は繰り返す」と皮肉られた。後に証人喚問を受けることとなる。

新進党から民主党まで

日本新党は、新生党・公明党民社党などとの統一会派結成を経て1994年12月の新進党結党に参加。海部俊樹党首、羽田孜と合わせて首相経験者3人組で耳目を集め、参院選を勝利に導く。しかし、新進党は不協和音が大きくなり離党者が続出、細川も1997年6月18日に離党、12月には新党「フロム・ファイブ」を立ち上げ、新進党解党後の1998年太陽党国民の声との三党合併により民政党を結成した。

その後も、院内統一会派「民主友愛太陽国民連合」を経て、民主党への民政党新党友愛民主改革連合合流に当たっては、難航する協議を政権戦略会議議長としてとりまとめ、面目を躍如する。

しかし、 民主党の結党を見届けた後の1998年5月7日、還暦を迎えたためとの理由で衆議院議員を辞職した。

現在

1998年還暦を機に政界を引退し、陶芸家として神奈川県足柄下郡湯河原町宮上に居(不東庵)を構えている。陶芸の師は辻村史朗。また、細川家の所蔵品を保管展示する財団法人永青文庫の理事長を務める。現在、唯一政治に関わる活動として、通信傍受法反対で有名になった参議院議員円より子が校長を務める「女性のための政治スクール」顧問を務める(名誉校長は妻の細川佳代子)。

人物

  • 熊本県知事時代に国民体育大会アルペンスキー競技の大回転に出場したことがある。またNHKアナウンサーを退職した鈴木健二を熊本県立劇場館長として迎えている。勅使河原宏監督の映画「利休」(1989年)に、織田有楽役で出演したことも。
  • 首相就任時に密室とのイメージを避けるために料亭政治の廃止と国会の外では議員バッジを外すと宣言した。これに対し、料亭業界からは「料亭というのは悪いところじゃございませんからね。細川さんによくおっしゃっておいてください」と苦言を呈され、バッジ業界からは「特定の業界の存在意義を否定するかのごとき発言は許されない」と抗議された。またこの影響で料亭には閑古鳥が鳴いたという。(2007年9月26日付産経新聞わたしの失敗(2)より)
  • 記者会見では立ったままで会見したり、プロンプターを導入したりしてマスコミの注目を集めた。また、ボールペンで人を指しながら喋ることもしばしばだった。この一連の動作は嘉門達夫の『ハンバーガーショップ(国会篇)』でネタにされている。
  • それまでの首相記者会見が、椅子に座りながら机上のメモを読む姿であったのに対して対照的であったのでこれ一つだけでも大きく取り上げられた。
  • コメ市場の部分開放、河野洋平自由民主党総裁(当時)との政治改革関連法案の修正合意、国民福祉税構想等重要な発表をする際の記者会見が何度も深夜に行われマスコミはその度に振り回された。当時社会党委員長だった村山富市は細川の一連の記者会見について「深夜に騒ぐ男じゃのう」と呆れていたという。また、当時日本商工会議所会頭だった稲葉興作からは「夜寝て、朝起きて満員電車に揺られて仕事をするのが普通の姿。そういうときに正常な判断ができる」と一連の記者会見に苦言を呈した。
  • TBSラジオ細川護煕・この人に会いたい」でパーソナリティを務めたこともある。
  • 大の焼き鳥好きであるが首相在任中にコロムビア・トップ西川きよしとの会食の際「総理大臣という立場で焼き鳥屋にも花見にも行けない」、「辞めたくなるときもありますよ」と漏らしたことで退陣表明かと大騒ぎになったことがある。
  • 自身が軽井沢に所有している別荘の隣には女優の吉永小百合の別荘がある。
  • 「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」(首相就任時に流布されたジョーク)※実際には、上記発言は細川の父である細川護貞のジョークである。
  • 郵政解散直後のインタビューで沈黙を破り初めて時評を行い「私は議員在任中は中国との軋轢を避けるため一度も靖国には参拝していない」「郵政解散は政治的空白を作る」、「小泉君はアメリカのいいなりだ、私は決していいなりにはならなかった」などの批判を行う一方でリーダーシップそのものは評価するとも語った。
  • 風貌も似ているせいか、祖父近衛文麿によく比せられる。家柄のよさ、貴公子然とした身なり、政治改革の期待を一身に受け国民から圧倒的支持を受けたこと、にもかかわらず突如政権を投げ出したことは風貌どころか政治手法も似ていると揶揄される。
  • 退陣があまりにも突然だったため、週刊誌などでは当時さまざまな憶測が流され、中には「陣劇の裏には、細川に対する“決定的な弱み”を握られ、捜査当局による事情聴取などの噂が飛び交い、『現職首相』の刑事訴追を避けるために政界引退と引き換えのある種の司法取引がなされた」とするものまであった。
  • 毛並みの良さが言われるが、朝日新聞記者時代のあだ名は数日間も入浴も着替えもせず、支部の記者室に寝泊りをしていたことから「野蛮人」。
  • また、彼が野党連立政権の首班に小沢一郎から選ばれたのは「混乱期にこそ、血統の良さがモノを言う」という理由からだった。
  • 国民福祉税導入を記者会見で発表した際、税率の根拠について尋ねられ、「腰だめの数字」と答え、物議をかもした。一部では「やっぱりお殿様だ」といわれた。
  • 政府専用機の左右主翼の上下と垂直尾翼の両側の計6ヵ所につけられているやたらと大きな日の丸を見て、細川総理は「どこかの七つ紋みたいだね」と漏らしたという。
  • 上智大学出身者では細川が初めての総理大臣である。

家族・親族

  • また、遠い親戚に細川隆一郎細川忠隆〔=細川忠興の嫡男だが後に廃嫡〕の子孫)がいる。戦国時代末期の大名として知られる細川忠興細川輝経の養子で細川藤孝の実子)・ガラシャ明智光秀の子)夫妻が祖先。(男系では上記忠隆系のみが明智家と血が繋がっており、肥後藩主系では途中他家養子が入っている)。
  • 肥後細川家の人物であるため、細川家嫡流・京兆家の細川頼之細川勝元細川政元らの血は引いていない(ただし京兆家は完全に零落してしまったため、京兆家の文化的資産は肥後細川家が継承している)。

系譜

清和天皇…<略>…輝経━忠興━忠利━光尚━綱利=宣紀━宗孝=重賢━治年=斉茲━斉樹=斉護━韶邦=
=護久━護成=護立━護貞━護熙

略歴

経歴

文献

著書

  • 『景観づくりを考える』中村良夫との共著、技報堂出版、1989年10月、ISBN 4765514986
  • 『地方の経営 : シナリオとその戦略』内外情勢調査会、1989年
  • 『鄙(ひな)の論理』岩國哲人との共著、光文社、1991年1月、ISBN 4334051804
  • 『明日はござなくそうろう : リーダーの条件』ダイヤモンド社、1991年3月、ISBN 4478700613
  • 『権不十年』日本放送出版協会、1992年1月、ISBN 4140088036
  • 『日本新党責任ある変革』東洋経済新報社、1993年4月、ISBN 4492210482
  • 『The time to act is now : thoughts for a new Japan』NTT Mediascope、1993年、ISBN 4872210239
  • 『細川内閣総理大臣演説集』日本広報協会、1996年12月
  • 『細川護煕展』壺中居、2003年
  • 『不東庵日常』小学館、2004年6月、ISBN 4093875073
  • 『細川護熙展』壺中居、2004年5月
  • 『Seeing Japan』Whipple・Charlesとの共著、Kodansha International、2005年、ISBN 4770023375

関連項目

外部リンク


先代
沢田一精
熊本県知事
第4代:1983年 - 1991年
次代
福島譲二
先代
結成
日本新党代表
1992年 - 1994年
次代
解散
先代
結成
フロムファイブ代表
1997年 - 1998年
次代
解散
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