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遠藤周作

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遠藤 周作えんどう しゅうさく1923年3月27日 - 1996年9月29日)は、日本小説家、批評家、劇作家。

父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に、伯母の影響でカトリックの洗礼を受けた。慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、1950年にフランスへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を得た。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『沈黙』『海と毒薬』『』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病をし、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。

無類のいたずら好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。

『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補にも挙げられたが、『沈黙』のテーマ/結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、ついに授与されることはなかった。

生涯

出自

遠藤周作は、1923年3月27日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三国立銀行に勤めていた銀行員遠藤常久東京音楽学校ヴァイオリン科の学生遠藤郁(旧姓・竹井)の次男として生まれる。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の遠藤正介、その2年後に次男の周作が誕生した。

父・常久は鳥取県東伯郡三朝町出身で、後に安田工業の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。

母・郁は岡山県笠岡市出身で、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県井原市美星町中世夢が原歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。

幼少時代

1926年、常久の転勤(第三銀行から安田銀行)で、一家は満洲関東州大連に移る。1929年に周作は大連市大広場小学校に入学。この頃、郁が指先を血まみれにしながらヴァイオリンを練習する姿や満人のお手伝いさんに優しくする姿を見て敬意を抱く一方、常久からは勉強がよく出来る正介と比較して説教されることが多く、強烈な劣等生意識とエディプスコンプレックスを抱いた。

1932年前後に常久に愛人が出来てから両親の仲が微妙になりはじめ、周作は暗い少年時代を送った。翌1933年、周作が10歳のときに両親は離婚した。ただし、正式な協議離婚届を提出したのは1937年で、その直後に常久は郁を常久の父・遠藤河津三の養女として迎え入れている。その数ヵ月後に常久は16歳下の女性と再婚した。

周作は郁に連れられて帰国し、伯母(郁の姉)の家で同居生活を始めた。同年8月に神戸市の六甲小学校に転入。この頃から伯母の影響で夙川カトリック教会聖テレジア大聖堂に一家で通い始めるようになった。カトリックの公教要理を学び始めるようになると、一家は教会に近い池の畔に転居した。

1935年、周作は六甲小学校を卒業し、灘中学校に入学。小林聖心女学院で音楽教師として勤め始めた郁がそこの大聖堂で5月29日に洗礼を受け、6月23日には兄弟そろって夙川カトリック教会聖テレジア大聖堂で洗礼を受けた。郁の洗礼名はマリア、周作の洗礼名はパウロ。

正介の勉強指導の成果もあり、灘中学校では入学当初は優秀生徒のクラスに入ったが、映画狂・読書狂・ジョーク好きなど様々な要因により、徐々に成績が低下、卒業前には成績最下位のクラスに在籍していた。江戸時代の滑稽本を好み、特に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に熱中し、弥次喜多に憧れ、自分も彼のような人物になりたいと考えていた。

1939年に一家は西宮市仁川に転居した。この時すでに、正介は四修で第一高等学校 (旧制)に合格し、寮生活を始めている。この頃、郁は宗教的・精神的支柱になったドイツ人宣教師ペトロ・ヘルツォークと出会い、新居に併設した音楽レッスン場を聖書講話やミサの場として開放するようになる。

学生時代(1939年~1949年)

周作は1939年に正介の影響もあり、四修で広島高を受験するが敢えなく失敗している。この為、阿川弘之等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい。1940年にどうせ落ちるからと最難関校の一つであった三高を受験するが失敗、広島高も失敗。周作は同年に灘中学校を卒業し、浪人生活に入った。なお、同年、正介が第一高等学校を卒業し、東京大学法学部に入学。正介は郁の帰国から数年遅れて帰国した常久の、世田谷経堂の家に身を寄せている。

1941年に広島高などを受験するが再度失敗。同年4月に上智大学予科甲類(独語)に入学するが、翌1942年2月に退学している[1]。同年、浪速高姫路高甲南高を受け、全て失敗している。この頃に肺を病み、喀血している。

周作は郁にこれ以上の経済的負担をかけることを恐れ、1942年に東京帝国大学を卒業し逓信省へ入省した正介の仲介で、常久の家に移った。常久が出した同居の条件は「旧制高校か医学部予科のどちらか」に入学することだった。しかし、周作は東京外国語学校、日本大学医学部予科に不合格となり、慶応義塾大学医学部予科には自信がなっかたため、翌1943年に4月に慶應義塾大学文学部予科に合格し、常久を騙し/裏切って入学する。後に真相を知らされて激怒した常久は周作を勘当した。

生活基盤を失った周作は、友人の利光松男宅に居候し、家庭教師などのアルバイトで生活費を稼ぐことになった。まもなく、吉満義彦が舎監を務めるカトリックの学生寮白鳩寮に入寮した。学生寮での生活は、遠藤周作にとって初めての開けた世界だった。吉満の影響でジャック・マリタンen:Jacques Maritain)、寮内で出来た友人松井慶訓の影響でリルケなどを読み耽った。また、吉満の紹介で、亀井勝一郎堀辰雄などと知己を得ることになった。堀辰雄との出会いは、ひとつの転機となり、自他ともに認める劣等生だった周作は猛烈な勢いで読書を始め、一夜にして勉強家と化した。

第二次世界大戦の日本の戦局の悪化に伴い、徐々に予科での授業は少なくなり、その期間、川崎勤労動員の工場などで働くことを余儀なくされた。寮内での影響を多大に受けたフランス志向にさらに拍車を掛けたのが、下北沢で偶然購入した佐藤朔の『フランス文学素描』で、1945年4月に、慶應義塾大学文学部仏文科(佐藤朔が講師を務めていた)に進学した。この頃、戦局の悪化は日本国内にも大きな被害を与えるようになっていた。後の大作家・遠藤周作を生み出す土台となった白鳩寮は東京大空襲で焼失した。なお、周作は徴兵検査では第一乙種だったが、肋膜炎などで入隊期間が大幅にずれ、入隊直前に終戦を迎えることになり、難を逃れた。

終戦後は大学に戻り、ジョルジュ・ベルナノスen:Georges Bernanos)、フランソワ・モーリアックなどのフランスのカトリック文学に傾倒した。大学の一年先輩の安岡章太郎とも知己を得た。1946年になり、周作が慶應義塾大学文学部仏文科に入学したのを知った常久は、態度を軟化させ勘当を撤回した。学生寮から焼き出されて再び生活基盤を失っていた周作は、この誘いを受けて常久の家に戻った。

1947年12月、初めて書いた評論「神々と神と」が神西清に認められて、角川書店の『四季』第5号に掲載され、批評家としてデビューした。その後、佐藤朔の推挙で評論「カトリック作家の問題」を『三田文学』上で発表したのをきっかけに、佐藤朔の推挙で『三田文学』、神西清の推挙で『高原』などで評論を多数発表している。1948年末もしくは1949年初頭には正式に『三田文学』同人となり、柴田錬三郎原民喜丸岡明山本健吉堀田善衛と知己を得ている。

1948年に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。卒業論文は「ネオ・トミズムにおける詩論」。松竹大船撮影所の助監督試験を受けたが、敢えなく不採用に終わっている[2]。その後、佐藤朔の紹介で鎌倉文庫の嘱託として働き始め、また、ペトロ・ヘルツォーク神父が主催する雑誌『カトリック・ダイジェスト』の編集作業に、正介・郁(小林聖心女子学院を依願退職して上京した)とともに携わっている。同年、評論活動とこれらの仕事の合間に、小林聖心女子学院のシスターから依頼を受けて、初の戯曲「サウロ」を書き上げている。

留学時代(1950年~1953年)

1950年6月4日、周作はフランスのカトリック文学をさらに学ぶため、戦後初のフランスへの留学生として渡欧。フランス船マルセイエーズ号で横浜港を出航した。7月5日にマルセイユ着。新学期までルーアンの建築家ロビンヌ家に滞在し、9月にリヨン大学に入学した。

留学時代には、勉強の合間に通常の評論活動に加え、フランスでの見聞などをエッセイや小説風のルポルタージュにまとめた。それらは大久保房男の厚意で『群像』に、そして『カトリック・ダイジェスト』誌などで発表された。

1951年夏にはフランソワ・モーリアックの『テレーズ・デスケルゥfr:Thérèse Desqueyroux』の舞台になったフランス南西部ランド地方を徒歩旅行するなどし、フランスでの生活を満喫したが、翌1952年初夏に肺結核を起こし、吐血。6月から8月までコンブルーen:Combloux)の国際学生療養所に入所する。退所後にパリに移ったものの、12月に再び肺結核が悪化し、ジュルダン病院に入院した。病状の悪化でフランスでの生活に見切りをつけ、リヨン大学の博士論文の作成を断念。翌1953年1月に、日本船赤城丸で帰国の途に着いた。翌月に日本着。

帰国後、企業家岡田幸三郎の長女、慶應義塾大学文学部仏文科に在籍していた岡田順子と交際を始めた。体調は相変わらず優れなかったが、7月に留学時代のエッセイをまとめた『フランスの大学生』を早川書房から処女出版し、批評家の道をゆっくりながら踏み出した。12月に敬愛する母が脳溢血で急死する悲劇に見舞われた。

駆け出し作家時代(1954年~1962年)

1954年4月から文化学院の講師を務めた。安岡章太郎の紹介で、谷田昌平とともに構想の会に参加し、小島信夫近藤啓太郎庄野潤三進藤純孝三浦朱門吉行淳之介らと知己を得た。

この年から、遠藤周作は本格的に作家として活動を始める。奥野健男の依頼で現代評論に創刊号から参加するなど、駆け出しとしては上々な物だった。

1954年末に執筆した、初の小説「アデンまで」は仲間内で高い評価を受けた。続いて執筆した小説「白い人」は、翌1955年7月に、一足飛びに第33回芥川賞を受賞した。同年9月、岡田順子と2年半の交際を実らせ、結婚した。交際当初、岡田の父岡田幸三郎は「文士風情」「肺に病気を抱えている」などの理由でこれを認めなかったが、遠藤周作の文章を早い時期から評価し、なおかつ、岡田家とも繋がりがあったフランス文学者小林正が、岡田幸三郎の説得に当たったという。結婚後は、一時期父の家に順子夫人が家入りする形で同居したが、まもなく世田谷松原に転居した。1956年6月、長男龍之介が誕生し、ささやかにも家庭を築き始めると、遠藤周作の、父に対する敵意は本格的な物になっていった。芥川賞を受賞し、作家としては順風満帆な駆け出しかと思えたが、当時の生活は決して楽なものではなかったという。1956年から上智大学文学部の講師を務めた。

1957年九州大学生体解剖事件(相川事件)を主題にした小説「海と毒薬」(文学界、6・8・10月)を発表し、小説家としての地位を確立した[3]。『海と毒薬』は、翌1958年4月に文藝春秋新社から出版され、12月に第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞した。

9月末にアジア・アフリカ作家会議に出席するため、伊藤整加藤周一野間宏らとともに渡ソ。10月にソ連タシケントでの会議に参加した後、モスクワを廻り、12月に帰国した。1959年11月には、マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために、順子夫人を同伴して、フランスに旅行した。この時に、マルキ・ド・サドの研究家、ジルベール・レリーfr:Gilbert Lely)、ピエール・クロソウスキーと知己を得た。その後、イギリススペインイタリアギリシャからエルサレムを廻り、翌1960年1月に帰国した。

帰国後に体調を崩し、4月に肺結核が再発。東京大学伝染病研究所病院に入院し、治療を試みたがなかなか回復せず、年末に慶應義塾大学病院に転院した。翌1961年に、3度にわたり肺の手術を行った(1月7日1月21日前後、12月末)。危険度が高い3度目の手術の前日、病床の遠藤周作の元に、紙で出来た踏絵を持ってきて見せた人間(?)がいたらしい。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復した。翌1962年5月にようやく退院することになった。

狐狸庵先生(1963年~)

Shusaku Endo(1971年~)

深い河(1990年~)

死の床で(1993年~1996年)

1993年5月に腹膜透析の手術を行った。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。最初は苦痛に耐え切れず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分とヨブの境遇を重ね合わせ、「ヨブ記の評論を書く」と決心してからはそれが無くなった。

1996年9月28日、昼食を喉に詰まらせ、肺に誤飲し呼吸停止に陥った。それはすぐに取り除かれたが、そこから黴菌が広がり、肺炎を併発した。それは肺を片方しか持たない人間には致命的な事態だった。翌9月29日午後6時36分、肺炎による呼吸不全で死去。

絶筆は三田文学1996年夏季号に掲載された佐藤朔の追悼文(口述)だった。ヨブ記の評論を書く希望は遂に叶えられなかった。

死後(1996年~)

スポーツ新聞は、遠藤周作の死を「狐狸庵先生逝く」という見出しで報じた。葬儀は麹町聖イグナチオ教会で行われた。教会は人で溢れ、行列は麹町通りにまで達した。生前の本人の遺志で、『沈黙』と『深い河』の2冊が棺の中に入れられた。

作風

テーマとしてのキリスト教

キリスト教を主題とした作品は複数あり、遠藤周作の最大の主題と考えられる。

遠藤は中学時代にカトリックの洗礼を受け、さらに1950年からフランス留学をしているが、遠藤の最大の葛藤として「日本人でありながらキリスト教徒」である矛盾であった。日本人の集団心理の強い行動原理、現世または来世利益的な行動原理は、結局キリスト教と根本的な矛盾を孕んでおり、日本人が絶対にキリスト教を思想的母胎、行動原理とすることはないことを強く感じていた。しかしだからといって遠藤がフランス人になりかわれるだけでもなくこの非常に強い葛藤が作品として見事な昇華をはたしている。

このテーマは「沈黙」「侍」などで封建時代も現代も日本にやってきた宣教師をモチーフに描かれている。宣教師たちが長年の努力でいくらかの信者を集めたにもかかわらず、彼らは社会が変わればあるいは空気が変わるだけで全く簡単に棄教してしまう。このことが何故なのか、キリスト教社会にとっては決定的に理解しがたい日本人像であった。・・実はキリスト教の原理を理解し守っていた日本人信者は実は現世や来世で単に幸せになりたいだけであり、キリスト教にとっての神の教えの真の尊さは実は関係がなかったのである。教義を理解していても真の信仰は無かったのである。

日本人は結局、個人もしくは(これが重要だが)集団として現世・来世に不利益と思えば思想そのものを大きく変更しても構わない、この原理は日本人に取りあらゆる哲学や宗教原理よりも強いことが生々しく描かれる。そして信者(実は信仰していないにもかかわらず)や宣教師は日本社会そのものに棄教(「沈黙」)に追い詰められたり、死(「侍」)に追いやられたり、堕落(「黄色い人」)に追いやられててしまう。

現世利益的な日本人像は「海と毒薬」で人体実験をする医師・看護師達として描かれている。これらに関わっている人間は、良心の呵責を感じながらも、誰でもあるような人生の移り変わりのたまたまのタイミングで人体実験への参加を呼びかけられ、強い反発もせずに漫然と関わってしまう。このことも結局キリスト教の様な倫理的性質をもつ行動原理が日本人には存在せず、集団心理で平凡な人格の持ち主たちがなんとなくに非道に転んでしまうことを主張している。

また一方、キリスト教の持つ最大の救いの能力は、聖書に描かれるゴルゴダを上るキリストであるとしている。罪人として拷問の末汚れにまみれ、自分を磔る十字架を背負い、しかも衆人から激しい罵声を浴びつけられ姿が歴史上もっともみじめな、しかし美しい人間であるとしている。誰にも認められず、汚く惨めな自分をどこまでも無限に傍らにいて見守る人、そらがキリストであるとしている。この特徴的なキリスト教解釈は高い評価と共に、異端であるとも見做されている。

エディプス・コンプレックスと「母なるもの」

幼少時に抱いたエディプス・コンプレックスは後年まで後を引き、様々な作品に影響を与えた。

母は東京音楽学校ヴァイオリン科にいたこともあり、芸術に対しても自分に対しても厳しい人だった。父とは異なるタイプの厳格さを持ち、子供たち(周作・正介)を叱ることこそしなかったが、ただひとつ「それはホーリィen:Holyではない」[4]という言葉を子供たちにかけた。それは子供心に非常にこたえる言葉だったが、不思議と素直にそれを受け入れる事ができた。子供たちは母を慕った。

父が母を棄てた事をどうしても許せず、死に目に会えなかった母に対する贖罪の意識と、順子夫人と結婚し一児を設け家庭を築き、その大事さを実感した事があいまり、別居後は父を激しく敵視・憎悪した。

父との和解をすすめた順子夫人を「両親の揃った家にぬくぬくと育ったお前に、俺の苦しみなんて分かってたまるか」[4]と斬り捨て、兄が急死した時には「俺は孤児になった、孤児になった」[4]と嘆き、悲しんだ。

1977年、兄が急死した後「母と同じ墓に入りたい」という兄の生前の希望を叶えるため、母の墓を掘り起こし[5]、火葬場で遺体を焼いて、お骨にし骨壷に入れた。兄の墓が出来るまでの猶予期間、遠藤周作はその骨壷を預かる事になり、その骨壷を音楽会に持ち込み、「母」と音楽会を楽しんだ。子供の頃に母に連れられていったヤッシャ・ハイフェッツの来日公演の記憶は鮮明に残っていた。実際には喧嘩をする事も多かったが、長い年月をかけて、母の記憶は美化・純化されていた。

父の晩年には、「親父も孤独な奴だということがわかったよ。自分の女房と、息子たちの子供時代の話ができないのは辛いだろうな」[4]と、その意識を軟化させ、入院中の父を見舞うようになった。しかし、義母(父の再婚相手)に対しては、「親父をおじいちゃんと呼んでもいいけれど、二度目の母のことをおばあちゃんと呼ぶな」[4]と、順子夫人と息子・龍之介に強制し、義母を「おやじのかみさん」と呼び続けた。

「心あたたかな医療」

1980年代半ばから始めた「心あたたかな医療」運動は、自らの大病歴から生まれたものでもあったが、それを提唱する直接のきっかけとなったのは「お手伝いさんの死」だった。20代半ばのお手伝いさんが骨髄ガンで亡くなった。医者から1ヶ月の命と宣告され、お手伝いさんが入院した時、遠藤周作自身も、蓄膿の手術の後で、上顎ガンの疑いがあるということで、検査のため同じ病院に入院していた。不確定な死の陰に怯える男が、確実に死ぬと分かっている彼女のために出来ることは、彼女に嘘をついて励ますことと、医者に不必要な(明らかに重複する)検査を止めて、せめて安楽に死なせてやってほしいと交渉することだけだった。自らも、彼女の苦しみを少しでも和らげるためならと禁煙を決意、実行した。

彼女の死後/自らの上顎ガンの疑いが晴れた後、延命治療の方法論や医者の無神経から発する行為に疑問を抱き、それらは是正すべきものであるという「心あたたかな医療」運動を展開した。現在、その活動は確かに引き継がれ、根を張り始めている。

「狐狸庵」先生としての遠藤周作

遠藤周作はその人間の業を描く作風と反して、一個人で他人と相対するときはユーモラスでジョークばかりを話す明るい人間であった。その陽性の面を「狐狸庵」と名乗り表現している。

ユーモア精神に満ちたエッセイを発表したり、素人劇団「樹座(きざ)」や音痴しか入団できない合唱団「コール・パパス」、素人囲碁集団「宇宙棋院」を組織したりと活動は多岐に亙った。

さくらももこは遠藤周作との対談でどんな真面目な内容か緊張していたが最初から最後まで掴みどころのないジョークで翻弄されてしまい、最後に渡された「ぼくの電話番号」に絶対に後日電話するように言われたところ「東京ガスです・・・」といわれたエピソードをエッセイで語っている。

年譜

家族・親族

  • 父 遠藤常久 - 鳥取県東伯郡三朝町出身の士族東京大学法学部卒の銀行員。
  • 母 郁 - 東京音楽学校でヴァイオリンをモギレフスキーに師事していた学生。
  • 義母 - 父親の再婚相手。
  • 妻 順子(旧姓・岡田) - 慶應義塾大学仏文科卒業。遠藤周作の死後、思い出を語った作品を数作残している。
  • 正介 - 東京大学法学部卒、電電公社理事。
  • 息子 龍之介 - 芥川賞受賞にちなんで龍之介と命名。2007年6月よりフジテレビジョン取締役。

作品リスト

日本

  • フランスの大学生(1953年7月、早川書房)
  • カトリック作家の問題(1954年7月、早川書房)
  • 堀辰雄(1955年11月、一古堂)
  • 白い人・黄色い人(1955年12月、講談社)
  • 神と悪魔(1956年11月、現代文芸社)
  • 青い小さな葡萄(1956年12月、新潮社)
  • タカシのフランス一周(1957年10月、白水社)
  • 恋することと愛すること(1957年10月、実業之日本社)
  • 月光のドミナ(1958年3月、東京創元社)
  • 海と毒薬(1958年4月、文藝春秋新社)
  • 恋愛論ノート(1958年8月、東都書房)
  • 恋の絵本(1959年6月、平凡出版)
  • おバカさん(1959年10月、中央公論社)
  • 蜘蛛 周作恐怖譚(1959年11月、新潮社)
  • 若い日の恋愛ノート(1960年5月、青春出版社)
  • 新鋭文学叢書6 遠藤周作集(1960年8月、筑摩書房)
  • 火山(1960年9月、文藝春秋新社)
  • あまりに碧い空(1960年10月、新潮社)
  • 聖書のなかの女性たち(1960年12月、角川書店)
  • ヘチマくん(1961年5月、新潮社)
  • 昭和文学全集20 安岡章太郎・遠藤周作(1962年9月、角川書店)
  • 長編小説全集33 遠藤周作集(1962年9月、講談社)
  • 結婚(1962年10月、講談社)
  • 宗教と文学(1963年7月、南北社)
  • わたしが・棄てた・女(1964年3月、文藝春秋新社)
  • 新日本文学全集9 遠藤周作・小島信夫集(1964年3月、集英社)
  • 浮世風呂(1964年6月、講談社)
  • 一・二・三!(1964年10月、中央公論社)
  • 偽作(1964年12月、東方社)
  • 留学(1965年6月、文藝春秋新社)
  • 狐狸庵閑話(1965年7月、桃源社)
  • 哀話(1965年10月、講談社)
  • 沈黙(1966年3月、新潮社)
  • 金と銀(1966年5月、佼成出版社)
  • 現代の文学37 遠藤周作集(1966年5月、河出書房新社)
  • 楽天主義のすすめ(1966年7月、青春出版社)
  • 協奏曲(1966年10月、講談社)
  • さらば、夏の光よ(1966年11月、桃源社)
  • 闇のよぶ声(1966年12月、光文社)
  • われらの文学10 福永武彦・遠藤周作(1967年1月、講談社)
  • 遠藤周作のまごころ問答(1967年1月、コダマプレス)
  • ぐうたら生活入門(1967年5月、未央書房)
  • キリシタン時代の知識人-背教と殉教(1967年5月、日本経済新聞社)
  • 現代の快人物-狐狸庵閑話巻之弐(1967年5月、桃源社)
  • どっこいショ(1967年8月、講談社)
  • 私の影法師(1967年10月、桂書房)
  • 古今百馬鹿-狐狸庵閑話巻之参(1967年12月、桃源社)
  • 現代文学大系61 堀田善衛・阿川弘之・遠藤周作・大江健三郎集(1968年3月、筑摩書房)
  • 日本短篇文学全集21 有島武郎・椎名麟三・遠藤周作(1968年9月、筑摩書房)
  • 影法師(1968年11月、新潮社)
  • 周作口談(1968年11月、朝日新聞社)
  • 新潮日本文学56 遠藤周作集(1969年2月、新潮社)
  • 現代文学の実験室3 遠藤周作集(1969年4月、大光社)
  • それ行け狐狸庵(1969年7月、文藝春秋)
  • 遠藤周作ユーモア小説集(1969年8月、講談社)
  • 大変だァ(1969年8月、新潮社)
  • 日本の文学72 中村真一郎・福永武彦・遠藤周作集(1969年8月、中央公論社)
  • 薔薇の館・黄金の国(1969年9月、新潮社)
  • 楽天大将(1969年12月、講談社)
  • 遠藤周作怪奇小説集(1970年2月、講談社)
  • 愛情論-幸福の手帖(1970年4月、虎見書房)
  • 遠藤周作の本(1970年5月、KKベストセラーズ)
  • 狐狸庵閑話(1970年5月、講談社)
  • 石の声(1970年12月、冬樹社)
  • 切支丹の里(1971年1月、人文書院)
  • カラー版日本文学全集51 安岡章太郎・吉行淳之介・遠藤周作集(1971年1月、河出書房新社)
  • 現代日本の文学45 安岡章太郎・遠藤周作集(1971年3月、学習研究社)
  • 母なるもの(1971年5月、新潮社)
  • 黒ん坊(1971年5月、毎日新聞社)
  • 現代の文学20 遠藤周作(1971年9月、講談社)
  • 埋もれた古城(1971年10月、新潮社)
  • 遠藤周作シナリオ集(1971年11月、講談社)
  • ただいま浪人(1972年3月、講談社)
  • 狐狸庵雑記帳(1972年3月、毎日新聞社)
  • 現代日本文学大系87 堀田善衛・遠藤周作・井上光晴集(1972年7月、筑摩書房)
  • ぐうたら人間学(1972年10月、講談社)
  • 牧歌(1972年11月、番町書房)
  • 狐狸庵型(1973年1月、番町書房)
  • ぐうたら交遊録(1973年1月、講談社) - 「周作口談」の改題
  • 灯のうるむ頃(1973年2月、講談社)
  • ぐうたら愛情学(1973年4月、講談社)
  • 死海のほとり(1973年6月、新潮社)
  • メナム河の日本人(1973年9月、新潮社)
  • ぐうたら会話集(1973年9月、角川書店)
  • イエスの生涯(1973年10月、新潮社)
  • 遠藤周作第二ユーモア小説集(1973年11月、講談社)
  • ぐうたら怠談(1973年12月、毎日新聞社)
  • ぐうたら好奇学(1974年1月、講談社)
  • ピエロの歌(1974年1月、新潮社)
  • 周作快談(1974年4月、毎日新聞社)
  • 狐狸庵 vs マンボウ(1974年5月、講談社) - 共著:北杜夫
  • 遠藤周作文庫<全51冊>(1974年7月~、講談社)
  • 口笛をふく時(1974年8月、講談社)
  • うちの女房、うちの息子(1974年9月、講談社)
  • 喜劇 新四谷怪談(1974年10月、新潮社)
  • 最後の殉教者(1974年10月、講談社)
  • 恋愛作法(1974年12月、いんなあとりっぷ社)
  • 日本人を語る(1974年12月、小学館)
  • 遠藤周作文学全集<全11巻>(1975年2月~12月、新潮社)
  • 君たちの悩みにまじめにお答えします(1975年3月、集英社)
  • 彼の生き方(1975年3月、新潮社)
  • この人たちの考え方(1975年4月、読売新聞社)
  • 怠談(1975年4月、番町書房)
  • 身上相談(1975年4月、毎日新聞社)
  • ぼくたちの洋行(1975年5月、講談社)
  • 吾が顔を見る能はじ(1975年6月、北洋社)
  • 観客席から(1975年6月、番町書房)
  • 続・日本人を語る(1975年7月、小学館)
  • 遠藤周作ミステリー小説集(1975年8月、講談社)
  • 狐狸庵 vs マンボウ PART II(1975年11月、講談社) - 共著:北杜夫
  • ボクは好奇心のかたまり(1976年4月、新潮社)
  • 筑摩現代文学大系79 阿川弘之・遠藤周作集(1976年4月、筑摩書房)
  • 勇気ある言葉(1976年4月、毎日新聞社)
  • 私のイエス-日本人のための聖書入門(1976年7月、祥伝社)
  • 砂の城(1976年9月、主婦の友社)
  • 悲しみの歌(1977年1月、新潮社)
  • 鉄の首枷-小西行長伝(1977年4月、中央公論社)
  • 走馬燈-その人たちの人生(1977年5月、毎日新聞社)
  • 旅は道づれ世は情け(1977年6月、番町書房)
  • 自選「作家の旅」(1977年8月、山と渓谷社)
  • 日本人はキリスト教を信じられるか(1977年8月、講談社)
  • 愛情セミナー(1977年8月、集英社)
  • ウスバかげろう日記(1978年4月、文藝春秋)
  • 人間のなかのX(1978年7月、中央公論社)
  • 新潮現代文学41 『沈黙・イエスの生涯』(1978年9月、新潮社)
  • キリストの誕生(1978年9月、新潮社)
  • ぐうたら会話集・第2集 (1978年10月、角川書店)
  • 王妃 マリー・アントワネット 1(1979年3月、朝日新聞社)
  • 銃と十字架(1979年4月、中央公論社)
  • 十一の色硝子(1979年5月、新潮社)
  • 異邦人の立場から(1979年6月、日本書籍)
  • 周作怠談・12の招待状(1979年9月、主婦の友社)
  • お茶をのみながら(1979年10月、小学館)
  • ぐうたら社会学(1979年10月、集英社)
  • 王妃 マリー・アントワネット 2(1979年11月、朝日出版社)
  • 結婚論(1980年2月、主婦の友社)
  • 天使(1980年3月、角川書店)
  • 侍(1980年4月、新潮社)
  • ぐうたら会話集・第3集(1980年4月、角川書店)
  • 狐狸庵二十面相(1980年7月、文藝春秋)
  • 父親<上・下>(1980年7月、講談社)
  • かくれ切支丹(1980年8月、角川書店)
  • 王妃 マリー・アントワネット 3(1980年9月、朝日新聞社)
  • 作家の日記(1980年9月、作品社)
  • 遠藤周作による遠藤周作(1980年10月、青銅社)
  • 真昼の悪魔(1980年12月、新潮社)
  • 狐狸庵うちあけ話(1981年1月、集英社)
  • 愛と人生をめぐる断層(1981年1月、文化出版局)
  • 王国への道-山田長政(1981年4月、平凡社)
  • 王妃 マリー・アントワネット<合本>(1981年9月、朝日新聞社)
  • 名画・イエス巡礼(1981年12月、文藝春秋)
  • 僕のコーヒーブレイク(1981年12月、主婦の友社)
  • 女の一生<第一部・キクの場合>(1982年1月、朝日新聞社)
  • 女の一生<第二部・サチ子の場合>(1982年3月、朝日新聞社)
  • 足のむくまま 気のむくまま(1982年5月、文藝春秋)
  • 自分をどう愛するか<生活編>(1982年9月、青春出版社)
  • 冬の優しさ(1982年11月、文化出版局)
  • あべこべ人間(1982年11月、集英社)
  • 遠藤周作と考える-幸福、人生、宗教について(1982年12月、PHP研究所)
  • 悪霊の午後(1983年4月、講談社)
  • 私にとって神とは(1983年6月、光文社)
  • よく学び、よく遊び(1983年8月、小学館)
  • イエス・キリスト(1983年11月、新潮社) - 『イエスの生涯』『キリストの誕生』の合本
  • イエスに邂った女たち (1983年11月、講談社)
  • 自分づくり-自分をどう愛するか<生き方編>(1984年1月、青春出版社)
  • 生きる学校(1984年9月、文藝春秋)
  • 快人探検(1984年11月、青人社)
  • 私の愛した小説(1985年7月、新潮社)
  • 何でもない話(1985年8月、講談社)
  • ほんとうの私を求めて(1985年10月、海竜社)
  • 宿敵<上・下>(1985年12月、角川書店)
  • 狐狸庵が教える「対話術」(1985年12月、光文社)
  • 心の夜想曲(1986年2月、文藝春秋)
  • ひとりを愛し続ける本(1986年3月、青春出版社)
  • スキャンダル(1986年3月、新潮社)
  • 風の肉声(1986年3月、大和出版)
  • 狐狸庵が教える「対談学」(1986年3月、光文社)
  • 私が見つけた名治療家32人(1986年4月、祥伝社)
  • 遠藤周作のあたたかな医療を考える(1986年4月、読売出版社)
  • あなたの中の秘密のあなた(1986年4月、ハーレクイン・エンタープライズ支社)
  • 男感覚女感覚の知り方(1986年11月、青春出版社)
  • わが恋う人は(1987年2月、講談社)
  • 死について考える-この世界から次の世界へ(1987年2月、光文社)
  • 新 ぐうたら怠談(1987年3月、光文社)
  • ピアノ協奏曲二十一番(1987年5月、文藝春秋)
  • 眠れぬ夜に読む本(1987年8月、光文社)
  • あまのじゃく人間へ(1987年9月、青春出版社)
  • 妖女のごとく(1987年12月、講談社)
  • 遠藤周作と語る-日本人とキリスト教(1988年2月、女子パウロ会)
  • こころの不思議、神の領域(1988年7月、PHP研究所)
  • ファーストレディ<上・下>(1988年8月、新潮社)
  • その夜のコニヤック(1988年8月、文藝春秋)
  • 〝逆さま流〟人間学(1989年3月、青春出版社)
  • 春は馬車に乗って(1989年4月、文藝春秋)
  • こんな治療法もある(1989年5月、講談社)
  • 反逆<上・下>(1989年7月、講談社)
  • 落第坊主の履歴書(1989年12月、日本経済新聞社)
  • 変るものと変らぬもの(1990年7月、文藝春秋)
  • 心の海を探る(1990年9月、プレジデント社)
  • 考えすぎ人間(1990年10月、青春出版社)
  • 生き上手 死に上手(1991年3月、海竜社)
  • 決戦の時<上・下>(1991年5月、講談社)
  • 男の一生<上・下>(1991年10月、日本経済新聞社)
  • 人生の同伴者(1991年11月、春秋社)
  • 狐狸庵対談 快女・快男・怪話(1991年11月、文藝春秋)
  • 心の砂時計(1992年2月、文藝春秋)
  • 王の挽歌<上・下>(1992年5月、新潮社)
  • 対論 たかが信長 されど信長(1992年6月、文藝春秋)
  • 異国の友人たちに(1992年8月、読売新聞社)
  • 狐狸庵歴史の夜話(1992年11月、牧羊社)
  • 万華鏡(1993年4月、朝日新聞社)
  • 深い河(1993年6月、講談社)
  • 遠藤周作編 キリスト教ハンドブック(1993年7月、三省堂)
  • 心の航海図(1994年2月、文藝春秋)
  • 狐狸庵閑談(1994年9月、読売新聞社)
  • 「遠藤周作」とShusaku Endo(1994年11月、春秋社)
  • 「深い河」をさぐる(1994年12月、文藝春秋)
  • 女(1995年5月、講談社)
  • 戦国夜話(1996年6月、小学館)
  • 風の十字路(1996年7月、小学館)
  • 遠藤周作歴史小説集<全7巻>(1996年7月、講談社)
  • なつかしき人々 1(1996年10月、小学館)
  • 生きる勇気が湧いてくる本(1996年11月、騎虎書房)
  • なつかしき人々 2(1996年11月、小学館)
  • 最後の花時計(1997年1月、文藝春秋)
  • 無鹿(1997年5月、文藝春秋)
  • 好奇心は永遠なり(1997年8月、講談社)
  • 「深い河」創作日記(1997年9月、講談社)
  • 夫婦の一日(1997年9月、新潮社)
  • 心のふるさと(1997年11月、文藝春秋)
  • 信じる勇気が湧いてくる本(1998年2月、祥伝社)

欧米

※便宜上、タイトルは英語に統一。当然ながら国ごとにタイトルは違うはず。

  • 海と毒薬 The Sea and Poison(1972年、イギリス)
  • 沈黙 Silence(1972年、オランダ・スウェーデン・スペイン・ノルウェー・フランス・ポーランド)
  • オバカさん Wonderful Fool(1974年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • イエスの生涯 A Life of Jesus(1978年、イタリア、クエリニアナ出版社)
  • 火山 Volcano(1978年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • わたしが・棄てた・女 The Girl I Left Behind(1978年、ポーランド、パックス出版社)
  • 口笛をふく時 When I Whistle(1979年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • イエスの生涯 A Life of Jesus(1979年、アメリカ、ポーリスト出版社)
  • The Samurai(1982年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • Stained Glass Elegies(1984年、イギリス、Peter Owen Publishers) - 短編集、独自編纂?
  • スキャンダル Scandal(1988年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • 留学 Foreign Studies(1989年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • 深い河 Deep River

関連人物

関連項目

注釈

  1. ^ 遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。この時期の評論は加藤宗哉が詳しい。
  2. ^ 余談だが、この試験の際に採用されたのが鈴木清順である。
  3. ^ 「海と毒薬」に対する一部からの反発は強く、発表後、遠藤家に「死ね」と書かれた血書や、「日本の恥部を抉ってどうするつもりだ」という脅迫状、果てには日本刀が送り付けられた。
  4. ^ a b c d e 『遠藤順子『夫・遠藤周作を語る』(2000年、文春文庫)から引用。 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "junko_talk"が異なる内容で複数回定義されています
  5. ^ 1953年死去、当時はまだ土葬だった

参考文献

  • 中村真一郎ほか『遠藤周作の世界』(1997年9月、朝日新聞社)
  • 『遠藤周作のすべて』(文藝春秋、1998年)
  • 遠藤順子『夫・遠藤周作を語る』(1997年9月、文藝春秋)=>(2000年、文春文庫)
  • 加藤宗哉『遠藤周作』(2006年10月、慶応義塾大学出版会)

外部リンク

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