マメーリの賛歌
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(イタリアの兄弟から転送)
Inno di Mameli | |
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和訳例:マメーリの賛歌 | |
イタリア共和国国歌の楽譜(後半部分) | |
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別名 |
Fratelli d'Italia (イタリアの兄弟) |
作詞 | ゴッフレード・マメーリ(1847年) |
作曲 | ミケーレ・ノヴァーロ(1847年) |
採用時期 | 1946年 |
試聴 | |
メディア外部リンク | |
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合唱つきの演奏を試聴する | |
音楽・音声 | |
Fratelli d'Italia: Inno di Mameli - Believe SAS提供のYouTubeアートトラック | |
映像 | |
Fratelli d'Italia, inno nazionale - ダニエル・ハーディング指揮フェニーチェ劇場管弦楽団・合唱団の演奏、フェニーチェ劇場公式YouTube |
マメーリの賛歌(マメーリのさんか、Inno di Mameli)、あるいはイタリア人達の唱歌(イタリアじんたちのしょうか、Il Canto degli Italiani)は、イタリア共和国(1946年~現在)の国歌である。イタリアの同胞(イタリアのどうほう)もしくはイタリアの兄弟 (イタリアのきょうだい、Fratelli d'Italia) とも称される。
概要
[編集]歌詞はゴッフレード・マメーリ (Goffredo Mameli, 1827年~1849年) によって作詞され、曲はミケーレ・ノヴァーロ(Michele Novaro,1818年~1885年) によって作曲された。作詞者にちなみこの名で通称される。1946年6月12日のイタリア共和国成立後、約70年にわたり国歌は法で決められていなかったが、2017年12月に法律で国歌と定められた[1]。
1946年、サヴォイア王朝の廃止と共和制への移行に伴い、それまで用いられていたジュゼッペ・ガベッティ (Giuseppe Gabetti) 作曲の「王室行進曲」 (Marcia Reale) に代わってイタリア国歌となった。
第二の国歌として、ヴェルディ作曲の歌劇「ナブッコ」より、第3幕の合唱「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」が知られている。
楽譜
[編集]歌詞
[編集]「節を繰り返す」部分の歌い方は、総て 1 番を歌う時もあれば、1、1、コーラス、2、3、コーラスのように歌う時もある。
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脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 歌詞のテキストには「Si!」は含まれていないが、実際の歌唱では常に「Si!」が歌われている
- ^ A different tense may be found: Noi siamo da secoli, "We have been for centuries".
- ^ Le porga la chiomaは文字通りには「かの女をして(イタリアに)髪の房々を捧げしめよ」の意。古代、奴隷が奉仕のしるしとして髪を短く切った習慣を想起させる。(See [1])
- ^ 古代ローマの歩兵隊のこと
- ^ Siam pronti alla morte may be understood both as an indicative ("We are ready to die") and as an imperative ("Let us be ready to die").
- ^ レニャーノの戦い:1176年にレニャーノで起こった、神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟間の戦闘である。ロンバルディア同盟が勝利した。イタリア統一運動の中で「イタリア人が団結して外国支配を退けた戦い」と位置付けられた。
- ^ フランチェスコ・フェルッチオ :16世紀のコニャック同盟戦争に際してフィレンツェ共和国軍を率いた傭兵隊長。1530年、ガヴィナーナの戦いでフィレンツェに迫る皇帝の大軍を迎え撃ち善戦したが、負傷して捕虜となり、敵将ファブリツィオ・マラマルドによって私的に処刑された。マラマルドは騎士道に悖ると非難を受ける一方、フェルッチオは堂々とした死に様が讃えられた。
- ^ バリッラ: 1746年、オーストリア占領下のジェノヴァで反オーストリア蜂起を起こした少年ジョバン・バティスタ・ペラッソのあだ名。イタリア統一運動の中では愛国的な英雄として讃えられた。
- ^ シチリアの晩祷:1282年、フランス人(アンジュー=シチリア家)支配下のシチリアで起こった住民の反乱。
- ^ ポーランドの国歌の歌詞にはイタリアが登場する。
出典
[編集]- ^ “Atti firmati”. イタリア共和国大統領府. 2018年6月12日閲覧。