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オウム真理教の国家転覆計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オウム真理教の国家転覆計画(オウムしんりきょうのこっかてんぷくけいかく)は、オウム真理教が企てた日本占領クーデター武力革命世界征服等の計画である。

ヘリコプターによって上空から毒ガスを散布し、東京都民を大虐殺し、首都と皇居を制圧する「1995年11月戦争」による本格的な内乱・日本占領を実行しようとしていた[1][2]

概要

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オウム真理教の教祖麻原彰晃は、盲学校時代に「ロボット帝国をつくりたい[3] と語ったり、1985年昭和60年)には「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたと述べる[4] などかねてから武力への傾倒があったとされる。まだ「オウム神仙の会」であった1986年(昭和61年)にはすでに「武力と超能力を使って国家を転覆することも計画している。その時は、フリーメイソンと戦うことになるだろう」などと語っていたという[5]

「オウム真理教」に改組した1987年(昭和62年)から1988年(昭和63年)頃には、

クンダリニーヨーガにおいては、グル、グル、グル、グル、グル、グル、あー、グル、グル、グル、グル。(略)グルのためだったら、殺しだってやるよと。こういうタイプの人はね、クンダリニーヨーガに向いている[6]
チベット密教というのは非常に荒っぽい宗教で、(略)『お前はあの盗賊を殺してこい。』と言われ、やっぱり殺しているからね。(略)例えばグルがそれを殺せと言うときは、例えば相手はもう死ぬ時期に来てる。そして、弟子に殺させることによって、その相手をポアさせるというね、一番いい時期に殺させるわけだね[7]

他にも「今やヨハネの黙示録の封印を解くべき時が来た」「力で良い世界をつくる。これこそ、タントラ・ヴァジラヤーナの世界だ。シヴァ神は、シヴァ神への強い信仰を持ち続けたタントラ修行者が、諸国民を支配することを望んでいらっしゃるんだ」などと武力による救済を主張。

1988年1月、教団発足間もない時期のテープには麻原の「破壊願望」が刻まれていた。当時、表向きの説法では「核戦争を回避して世界を救済するためには、『隣人への愛』こそが必要である」と説いていたが、テープには、ごく一部の側近たちと交わした会話が偶然収録されていた[8]

幹部:今生で救済の成功って言うのは核戦争の回避なんですか?

麻原:違う。今生で救済の成功は核戦争を起こさせないことではない。
……変なこというぞ、
資本主義社会主義を潰して、しゅ…、宗教的な国を作ることだ。本当の意味で…。この世をもう一回清算すべきだ…。

幹部:(核戦争が)起きた時点でやっぱり今のオウムのスタッフはみんな一度死にます?

麻原:いや、ほとんど死なないと思うね。私はオウム以外は生き残れないからと考えているから。

1988年9月在家信者死亡事件の発生により麻原はヴァジラヤーナに入る時が来たと認識した[7]。1988年の年末には『滅亡の日』という書籍を出して終末予言を行った[9]

1989年平成元年)2月男性信者殺害事件の際にも「私は、救済の道を歩いている。多くの人の救済のために、悪業を積むことによって地獄に至っても本望である」と犯罪を肯定する発言をしている[10]。そして同年、サンデー毎日の「オウム真理教の狂気」特集がスタートすると、麻原は教団が社会に弾圧されているという被害妄想を抱いた[9]

特に1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙真理党が惨敗してからはその傾向を強め、「今回の選挙の結果は、はっきり言って惨敗、で、何が惨敗なのかというと、それは社会に負けたと。(略)つまり、国家に負けたと」[11]、「オウムは反社会、反国家である。どぶ川のなかで美しく咲く蓮華のようにあり続けるためには、反社会でなければならない。よって、国家、警察、マスコミこれすべてこれからも敵にまわってくる」[12]、「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナでいく[10]、「この人類を救えるのはヴァジラヤーナしかない、今の人類はポアするしかない[13] といった発言を行った。

1993年(平成5年)から1994年(平成6年)にかけてオウムはサリンVXを実用化、「もうこれからはテロしかない[14]、「すべての魂をポアするぞ[15]、「神々の世界に行くためにはポアしまくるしかない[7] として、松本サリン事件などこれらを利用したテロを相次いで実行した。他にもオカムラ鉄工を乗っ取りAK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、Mi-17の購入、サリンプラントの建設、光学兵器の研究など教団の兵器の開発を行った。またテロのため大阪府大阪市西成区などで人を集め行動部隊「白い愛の戦士」を結成した。

麻原は宗教(白蓮教)を利用して一代で全国統一を成したの太祖朱元璋の生まれ変わりを自称しており、1994年2月22日より麻原一行が中国孝陵(朱元璋の陵墓)などの縁の地を巡った際には、同行した村井秀夫新実智光井上嘉浩早川紀代秀遠藤誠一中川智正[16][17] 対して旅の途中、麻原は「1997年、私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。真理に仇なす者はできるだけ早くポアしなければならない」と説法し[18]、日本国を武力で打倒して「オウム国家」を建設し、更には世界征服をも念頭に置いている旨を明らかにした。帰国後の2月27日には、都内のホテルで「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70トンぶちまくしかない」と話したという[19]

1995年(平成7年)3月20日には帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄霞ケ関駅をはじめとする朝の通勤電車や駅ホームにサリンをばらまき、13名の死者と多数の負傷者をだした(地下鉄サリン事件)。これが単純に強制捜査の延期を目的としたものか、国家転覆・ハルマゲドンの一端であったのかは議論がある

1995年11月戦争

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上九一色村のオウム真理教施設(1996年9月8日撮影)

1995年1月の読売新聞による上九一色村のサリン残留物スクープ、3月警視庁による強制捜査により頓挫することになったが、教団は同年11月に「11月戦争」と呼ばれる「無差別大量殺戮計画」を企てていたことが明らかになった。

この計画は、「1995年11月に教団所有の軍用ヘリコプターを使って東京上空からサリンを散布し、東京都民を大量殺戮する。そして日本の混乱に乗じて、の各軍隊による核戦争を誘発させる。その間、教団はサティアンに造られた屋内退避シェルターに籠もり、核戦争終結後に日本を統治する」というものであった[1][2]

1995年11月戦争以外のテロ計画

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全世界ボツリヌス散布計画

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1990年3月、麻原は幹部20名ほどを集め、「現代人は生きながらにして悪業を積むから、全世界にボツリヌス菌をまいてポアする」「中世ではフリーメイソンがペスト菌をまいた。それでヨーロッパの人口は3分の1か4分の1になった。今回まくものは白死病と呼ばれるだろう」「本来ならばこれは神々がすることであるが、神々がやると残すべき人を残すことができないので我々でやる。オウムの子供たちを残していく」として[7]ボツリヌス菌ないしボツリヌストキシンによる人類大量殺戮さつりくを計画。同年4月石垣島セミナーを開催し、教団信者が沖縄県石垣島に集まっている間に、毒を散布する計画があったが、培養に失敗、中止された[10][20]

最初は信者を逃がす計画すらなく、信者もろとも皆殺しにするつもりであったが上祐史浩や早川紀代秀が抗議したので逃がすことになった[21][22]

首都圏ボツリヌス散布計画

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1990年4月5月皇居霞が関米軍横須賀基地浄水場のある川などに散布したが、効果は無かった[23]。ボツリヌス風船爆弾の実験も行ったが効率が悪いので中止された。同年6月には「川に汚物を放流している」として村井秀夫、新実智光が山梨県警察検挙された[22]

ホスゲン爆弾計画

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1990年、化学兵器のホスゲンを入れた鞄型散布装置「ホスゲン爆弾」を使って、マスコミ、警察、大阪府などを標的とした無差別テロを行う計画があった。井上嘉浩は上祐史浩の指示でホスゲン爆弾を持ち歩いていたが実行はされなかった[24]。第1サティアンや熊本県阿蘇郡波野村(現・阿蘇市)でホスゲンプラントもつくっていたが、国土法事件が起き強制捜査があったため完成せず、1991年(平成3年)には中止された[7][13][25]

皇太子成婚パレード炭疽菌散布計画

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1993年(平成5年)6月、皇太子(のちの令和の天皇)の成婚パレードの際に炭疽菌を散布すべく、散布地点の下見を行ったり、皇居に向けて炭疽菌散布の実験を行ったりしたが準備不足により中止された[23]

首都圏炭疽菌散布計画

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1993年6月28日7月2日に、東京都江東区亀戸の教団施設から炭疽菌散布実験を行い、異臭を放ったことで近隣住民の顰蹙を買った(亀戸異臭事件)。後になって生物兵器テロ未遂事件であったことが明らかになった[26]。異臭事件の後、杉本繁郎らがトラックを運転し国会議事堂、皇居、フリーメイソンの建物、創価学会東京タワー横浜、霞が関などに実際に散布したが効果は無かった。麻原もトラックに乗り込み指揮をしていた[22][23][27]

神宮球場サリン散布計画

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1993年(平成5年)、当時の天皇神宮球場を訪れるという情報を入手。サリンを散布する計画があり、早川紀代秀が神宮球場の構造を調べるところまで進んでいた[28]

米国サリン散布計画

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1994年、アメリカにサリンを輸送しテロを行う計画があり、井上嘉浩らが携わった。サリンは仏像に隠して送る予定だったが、サリンプラント計画がうまくいかず中止された[29]

第1空挺団乗っ取り計画

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オウムでは陸上自衛隊第1空挺団員の取り込みを図っており、井上嘉浩は軍事ジャーナリストを名乗ってアメリカやフリーメイソンの日本侵略を説いて勧誘、中には事件に関わった空挺団所属の現役自衛官もいた[30]

さらに1994年から1995年に、子である長女を入信させてその親の空挺団長も入信させる計画があった[31]。井上は諜報省の部下に対して、空挺団長の長女の住所を調べさせ、長女の住む千葉県千葉市美浜区マンションの電話回線に盗聴器を取り付けさせた[32]。しかし、盗聴器の設置の仕方を誤ったためにこの電話回線が通話不能となり、調査に訪れたNTT千葉支店の職員が警察に通報して発覚した[33]

首都圏爆破テロ計画

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1995年3月20日の地下鉄サリン事件後、「社会の対立し合う勢力をぶつけて混乱を引き起こし、捜査撹乱を行え」「30日ごとにテロをやりつづけろ」として[34]目白通り石油コンビナート、東京タワー、東京都知事候補者の自宅を爆破したり、東京都庁プロパンガス20本を積載したトラックで攻撃する計画があり、麻原の指示で井上嘉浩や富永昌宏が調査したが到底無理であるため中止された。代わりに新宿駅青酸ガス事件東京都庁小包爆弾事件が実行された[35]ダイオキシンを散布するというプランもあった[34][36]

麻原は「ウソも100回つけば本当になる」として、矛先を逸らすため極左過激派などの仕業に見せかける偽の犯行声明文を出すことも指示していた[35][37]

裁判での判決

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被告人は、自分が解脱したとして多数の弟子を得てオウム真理教(教団)を設立し、その勢力の拡大を図ろうとして国政選挙に打って出たものの惨敗したことから、今度は教団の武装化により教団の勢力の拡大を図ろうとし、ついには救済の名の下に日本国を支配して自らその王となることを空想し、多数の出家信者を獲得するとともに布施の名目でその資産を根こそぎ吸い上げて資金を確保する一方で、多額の資金を投下して教団の武装化を進め、無差別大量殺りくを目的とする化学兵器サリンを大量に製造してこれを首都東京に散布するとともに自動小銃等の火器で武装した多数の出家信者により首都を制圧することを考え、(略)一連の殺人、殺人未遂等の犯行を敢行した。 — 松本智津夫被告東京地裁判決文[7]


関連項目

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参考文献

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  • 江川紹子『「オウム真理教」裁判傍聴記2』文藝春秋、1997年。ISBN 4-163-53450-4 
  • 江川紹子『魂の虜囚―オウム事件はなぜ起きたか』中央公論新社、2000年。ISBN 4-120-03042-3 
  • 毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録1 恩讐の師弟対決』現代書館、1997年。ISBN 4-7684-7001-7 
  • 毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録2 私は無罪だ!!』現代書館、1997年。ISBN 4-7684-7002-5 
  • 毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録7 検察側立証すべて終了』現代書館、2002年。ISBN 4-7684-7007-6 
  • 佐木隆三『オウム法廷連続傍聴記』小学館、1996年。ISBN 4-09-379221-6 
  • 佐木隆三『オウム法廷連続傍聴記2』小学館、1996年。ISBN 4-09-379222-4 
  • 早川紀代秀 川村邦光『私にとってオウムとは何だったのか』ポプラ社、2005年。ISBN 4-591-08600-3 
  • 降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち』 上巻、朝日新聞社朝日文庫〉、1998年3月。ASIN 4022612231ISBN 4-0-2261223-1NCID BA35602692OCLC 675731805 
  • 降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち』 下巻、朝日新聞社〈朝日文庫〉、1998年3月。ASIN 402261224XISBN 4-0-2261224-XNCID BA35602692OCLC 675731834 

脚注

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  1. ^ a b 宝島30宝島301995年12月号、1995年、雑誌15985-12,P24-P34。
  2. ^ a b 宝島30宝島301996年1月号、1996年、雑誌15985-01,P37-P47。
  3. ^ 東京キララ社編集部『オウム真理教大辞典』2003年 140頁
  4. ^ オウム真理教元信徒広瀬健一の手記 序章 1頁 浄土真宗大谷派円光寺ウェブサイト
  5. ^ 江川紹子『魂の虜囚』 p.312
  6. ^ 降幡賢一『オウム法廷5』 p.102
  7. ^ a b c d e f 平成7合(わ)141 殺人等 平成16年2月27日 東京地方裁判所
  8. ^ 麻原彰晃死刑執行 「極秘テープ」に残されたオウム真理教の真実【前編】――2018下半期BEST5 文春オンライン
  9. ^ a b 上祐史浩個人の総括 | オウムの教訓 -オウム時代の反省・総括の概要- ひかりの輪公式サイト
  10. ^ a b c 松本智津夫被告 法廷詳報告 林郁夫被告公判カナリヤの会公式サイト
  11. ^ オウム真理教(1983~1999年)の活動経緯の総括 ひかりの輪公式サイト
  12. ^ テレビレビュー NHKスペシャル『未解決事件』 宗教情報センター
  13. ^ a b 渡邉学『南山宗教文化研究所所蔵オウム真理教関係未公開資料の意義について』 2009年 南山宗教文化研究所
  14. ^ オウムの教訓 -オウム時代の反省・総括の概要- 1994年 ひかりの輪公式サイト
  15. ^ オウムの教訓 -オウム時代の反省・総括の概要- 1993年 ひかりの輪公式サイト
  16. ^ 法廷全記録1、148頁
  17. ^ 法廷全記録1、83頁
  18. ^ 法廷全記録1、131頁
  19. ^ 法廷全記録1、95頁
  20. ^ 早川、165頁–166頁
  21. ^ 早川、128頁。
  22. ^ a b c 上祐総括:オウム入信から現在まで ひかりの輪公式サイト
  23. ^ a b c 法廷全記録7、171頁
  24. ^ 降幡賢一『オウム法廷9』 p.72
  25. ^ 平成7年刑(わ)894号 平成14年7月29日 東京地方裁判所
  26. ^ 早川、186頁–188頁
  27. ^ 青沼陽一郎『オウム裁判傍笑記』 233頁
  28. ^ 江川1997 251頁
  29. ^ 江川2000、350頁
  30. ^ 降幡1998a、82頁, 降幡1998b、248頁
  31. ^ 佐木1996、99頁
  32. ^ 佐木1996、99頁–100頁
  33. ^ 佐木1996、101頁
  34. ^ a b 富永昌宏被告-判決要旨 カナリヤの会
  35. ^ a b 江川1997年、118頁
  36. ^ 平成11(う)2136 爆発物取締罰則違反等被告 平成14年7月5日 東京高等裁判所
  37. ^ 降幡賢一『オウム法廷4』 p,178