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クラウディオ・ランジェス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラウディオ・ランジェス
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 同・ブレシア
生年月日 (1961-08-04) 1961年8月4日(63歳)
F1での経歴
活動時期 1990
所属チーム '90 ユーロブルン
出走回数 14 (0スタート)
優勝回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1990年アメリカGP
最終戦 1990年スペインGP
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クラウディオ・ランジェスClaudio Langes, 1961年8月4日[1] - )は、イタリアの元レーシングドライバーブレシア出身。

経歴

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キャリア初期-フォーミュラ3

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1978年、17歳でイタリア・カート選手権125ccクラスのチャンピオンを獲得。1981年にイタリアF3選手権にデビューし、1982年のヨーロッパ・フォーミュラ3選手権ではポイントを積み重ねてランキング9位となった。翌1983年もランキング9位となり、1984年にエディ・ジョーダン・レーシングへ移籍。開幕戦ドニントン・パークで3位表彰台に立つ。同年6月のF1モナコGP前座のインターF3にはバロン・レーシングから出走、このレースでポールポジションファステストラップを記録し、7月からはヨーロッパF3での参戦チームもバロンからとなった。8月19日、第11戦クヌツトープでルイス・ペレス=サラとの戦いを抑えきりF3初優勝を達成。年間ランキングではイヴァン・カペリジョニー・ダンフリーズゲルハルト・ベルガーに次ぐ4位の結果を残した。

フォーミュラ3000

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1985年、新たに始まった国際F3000選手権にバロン・レーシングでステップアップするが、資金の問題で2戦のみで撤退となった。なお、この時の参戦マシンはF1で使用されていたティレル・012である。同年はこの後自費でイタリアF3にスポット参戦した。

1986年6月、国際F3000第6戦からBSオートモービルと契約し、第7戦エンナ・ペルグーサで5位入賞。しかし翌1987年も開幕時シートを確保できず、シーズン途中6月からファースト・レーシングの国際F3000シートを獲得するが、同年の最高位は10位でポイント獲得は成らなかった。

1988年は開幕前にGAモータースポーツのレギュラーシートを確保、チームメイトはグレガー・フォイテクとなった。マシントラブル発生以外は着実に完走を続けるが、同年の最高位は第6戦エンナでの4位。フォイテクが表彰台に立つこともあったため、完走率ではランジェスが上だったが、速さではファイテクが評価された。最終戦を前にGAチームはイギリスF3で走っていたデイモン・ヒルを国際F3000にデビューさせることを決めたため、シートを失ったランジェスは最終戦のみバルセロナ・スポーツに移籍して参戦した。

1989年はフォルティ・コルセに移籍。これまでも好結果が出ているエンナ・ペルグーサでは予選から7位と好調で、決勝レースではアクシデントが多発し完走者が5台のみというサバイバルレースであったが、ランジェスはエディ・アーバインマルコ・アピチェラより前の2位でフィニッシュ。F3000初の表彰台を獲得した[2]

フォーミュラ1

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1990年ユーロブルンと契約しフォーミュラ1のシートを獲得する。チームメイトはロベルト・モレノとのコンビとなった。しかし、マシンは前年使用していたER189のほぼ継続使用であり、搭載したジャッドV8エンジンも戦闘力が低かった。ランジェスはエントリーした14のグランプリですべて予備予選を通過することができなかった。ゲイリー・ブラバムブルーノ・ジャコメリライフ、および時にはベルトラン・ガショースバル・コローニよりも数秒遅かった。資金繰りが苦しいチームはヨーロッパラウンドを終えるとF1参戦から撤退。チームメイトのロベルト・モレノベネトンのシートを得ることができたが、ランジェスはそのままレースシートを失った[3]

イタリア・スーパーツーリズモ

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1991年はコンレロ・スクアドラ・コルセ英語版に加入し、オペル・カデットGSI 16Vでイタリア・スーパーツーリズモのS2クラスに参戦。第2戦マジョネ英語版のレース1と、第5戦ミサノで総合10位(クラス1位)に入った。同シリーズ最終戦・モンツァへの出走を最後にレース活動を終えた。

レース記録

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ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権

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チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 Pos. Pts
1982年 トリヴェラート・レーシング ダラーラ・F382 アルファロメオ MUG
Ret
9位 10
アンソン・レーシング アンソン・SA3C トヨタ・2T-G NÜR
9
DON
Ret
ZOL
7
MAG
10
ÖST
Ret
ZAN SIL
8
MNZ
4
PER
DNS
LAC
5
KNU
4
NOG
18
JAR
Ret
KAS
5
1983年 アンソン・SA4 アルファロメオ VLL NÜR
C
ZOL
Ret
MAG
Ret
ÖST
19
LAC
4
SIL
Ret
MNZ
Ret
MIS
6
ZAN
Ret
KNU
Ret
NOG
Ret
JAR
4
IMO
5
DON
5
CET 9位 11
1984年 エディ・ジョーダン・レーシング ラルト・RT3 トヨタ・2T-G DON
3
ZOL
Ret
MAG LAC
4
ÖST
2
SIL
Ret
NÜR
16
MNZ
2
PER
2
MUG
5
KNU
1
NOG
9
JAR
Ret
4位 36

国際F3000選手権

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チーム シャシー エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1985年 バロン・レーシング ティレル・012 コスワースDFV A SIL
Ret
THR
15
EST VLL PAU SPA DIJ PER ÖST ZAN DON NC
(20位)
0
1986年 BSオートモーティブ ローラ・T86/50 SIL VLL PAU SPA IMO MUG
9
PER
5
ÖST
Ret
BIR
Ret
BUG
6
JAR
12
17位 3
1987年 ファースト・レーシング マーチ・87B SIL VLL SPA PAU DON
DNQ
PER
Ret
BRH
Ret
BIR
10
IMO BUG JAR
Ret
NC
(22位)
0
1988年 GAモータースポーツ ローラ・T88/50 JER
7
VLL
Ret
PAU
10
SIL
Ret
MNZ
5
PER
4
BRH
Ret
BIR
Ret
BUG
Ret
ZOL
10
15位 5
バルセロナ・モータースポーツ ローラ・T88/50 DIJ
Ret
1989年 フォルティ・コルセ ローラ・T89/50 SIL
12
VLL
Ret
PAU
Ret
JER
7
PER
2
BRH
6
BIR
9
SPA
15
BUG
9
DIJ
7
12位 7

F1

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所属チーム シャシー エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1990年 ユーロブルン ER189 ジャッド・CV V8 P USA
DNPQ
BRA
DNPQ
NC
(19位)
0
ER189B SMR
DNPQ
MON
DNPQ
CAN
DNPQ
MEX
DNPQ
FRA
DNPQ
GBR
DNPQ
GER
DNPQ
HUN
DNPQ
BEL
DNPQ
ITA
DNPQ
POR
DNPQ
ESP
DNPQ
JPN AUS

脚注

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  1. ^ Claudio Langes”. Motor Sport. 3 August 2020閲覧。
  2. ^ Gran Premio dell Mediterraneo1989 Racving Days
  3. ^ EuroBrun Full Profile”. 2009年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月20日閲覧。